nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

飯盛山城(別名:飯盛城)

2015年01月19日 | 大阪府の城郭・環濠

 河内と大和の間には、生駒山脈が南北に走り、これが国境になっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支派に位置している飯盛山(標高約341m)に築かれた山城です。南北朝時代も四条畷合戦のさいに陣所として利用されたが、本格的な築城は戦国時代になってからである。天文年間に河内守護畠山義宣の家臣で守護代の木沢長政によってなされた。亨禄4年(1532年)木沢長政は主君の畠山義宣を裏切り、敵対関係の細川晴元につき、飯盛山城に籠城している。永禄3年(1560年)11月13日には、畠山高政の家臣で河内守護代の安見直政を城から追い払い、三好長慶が飯盛山城に入城した。この時から三好長慶は、大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になった。三好長慶は、飯盛山城、芥川城、高屋城と共に、畿内に勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義輿が22歳で急死,ついで永禄7年(1664年)、実弟の安宅(あたぎ)冬康を自殺させると三好長慶自身も病にかかりまもなく病没。その後、三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めたが、織田信長の摂津、河内平定が行われると三好三人衆も織田の軍門に下り、河内・飯盛山城は、畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって畠山昭高が殺害されると、織田信長の攻撃で遊佐信教は殺害され、天正4年1576年)に落城し、その後、廃城となった。峻嶮な山頂には、累々と70以上の曲輪が築かれ,所々に石垣が残っています。

[所在地:大阪府四条畷市・大東市]

アクセス>JR学研都市線・四条畷駅又は野崎駅下車徒歩約60分

飯盛山城址概略図

楠公寺の概略(飯盛山城の馬場跡に立つ楠公寺)

楠公寺(日蓮宗)

 

桜池

 

本丸跡          ▼飯盛山山頂 ▼飯盛山城址碑

   

本丸跡に建つ楠木正行の銅像

 

曲輪下にある石垣

 

曲輪下にある石垣

 

本丸跡からの眺め(中央はアベノハルカス)本丸跡からの眺め

 

2015/01/18 訪城

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四条畷の戦  貞和4年(1348年)

 北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的な楠木正行討伐を開始する。楠木正行は、3,000騎で四条畷で戦い戦死する。

飯盛山城の戦  天文元年(1532年)

 河内を巡る主導権争いで、守護代の木沢長政が守護の畠山義宣から守護職を奪い取る企てが発覚したことにより、畠山義宣は、三好元長の一族の三好勝宗の援軍で飯盛山を攻めたが、木沢長政からの援軍要請を受けた細川晴元によっての撤兵命令で三好勝宗は一旦兵を収めたが、翌年態勢を整えた畠山義宣、三好元長、三好勝宗で、飯盛山城を再攻、木沢長政も再び細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除できなかったので、細川晴元は、山科本願寺の法主証如に攻囲軍の畠山・三好軍の背後で一揆の蜂起を要請。このため三好元長、三好勝宗は討ち取られ、畠山義宣は自害。