広島城は、天正17年(1589年)4月15日、中国山地から流れる太田川河口に開けたデルタ地帯に、毛利輝元が築城を開始し、10年後には、5重の大天守と小天守2基を備えた壮大な城郭を完成させた。しかし、慶長5年(1600年)、毛利輝元は天下分け目の関ケ原の合戦に敗れ、周防・長門2国に減封。この決定により築城主であった毛利輝元は完成間もない広島城を去り、東軍についた福島正則が、安芸広島と備後鞆49万8000石の大封を得て、広島城入城となった。
福島正則は、石垣職人集団「穴太衆」を雇い入れ、毛利輝元時代に不十分だった外堀や外郭の整備を進め内堀、中堀、外堀をもつ1Km四方に及ぶ広大な広島城を完成させた。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた福島正則は元和五年(1619年)に安芸・備後2ケ国を没収され、代わって紀伊から浅野長晟が安芸一国・備後半国42万6000石の領主として広島城に入城となった。以後、浅野家のもと12代約250年にわたり平和な時代が続き、明治維新を迎えた。
明治維新後には広島鎮台となり、廃城令により建造物は次第になくなったが、昭和20年(1945年)8月6日、米軍の原爆投下により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在、大天守、二の丸表御門、多門櫓なども復元されている。
[所在地:広島県広島市中区元町21番1号]
<アクセス>JR広島駅から徒歩約25分
▼本丸の石垣 ▼二の丸平櫓と二の丸表御門
▼二の丸表御門
▼長櫓(多門櫓) ▼太鼓櫓
▼外観復元された天守閣
▼広島城天守閣からの眺め
2018/2/14 訪城