2014/05/09 滋賀県の『湖北の歴史散策』に行ってきました。
[ハイキングコース]JR北陸本線・虎姫駅・・・五村別院・・・玉泉寺(元三大師)・・・虎御前山(信長軍の砦)・・・中島城跡・・・丁野山城跡・・・JR北陸本線・河毛駅
▼JR虎姫駅前
▼五村別院
文禄元年(1592年)顕如の死により、教如は、本願寺第12世を継承したが、翌年,豊臣秀吉の命により隠居を命じられ、弟准如に譲る。しかし慶長2年(1597年)、教如支持の湖北門徒で地元の有力者の大村刑部により,教如を開基として本山として建立される。湖北の64ケ寺が賛同。教如はこの地で住民に支えられ、東本願寺の基礎を築きます。慶長7年(1602年)、徳川家康から新たに寺地の寄進を請け、京都六条鳥丸に東本願寺を建立(東西分派)。これにより、五村の御堂は、「五村懸所」または、「元の本山」と称されるようになったという。表門と本堂は重要文化財。
▼五村別院・表門(重要文化財)▼五村別院・本堂(重要文化財)
▼玉泉寺(元三大師)
元三大師の生誕地(古代貴族の別荘地)。近江国浅井郡三川村(現在の滋賀県長浜市三川町) 元三大師(良源)は。『おみくじの元祖』として知られ、今も『元三大師おみくじ』をひくことができる。
▼安永9年(1780年)建立の玉泉寺の本堂は、大きな二重屋根が特徴。
▼元三大師御産湯井
▼虎御前山
織田信長が小谷城の浅井長政を攻めるための拠点で、いくつかの砦跡が残ります。
▼虎御前山城略図
▼尾根にそって歩いていきます。
▼織田信長の陣地跡 ▼木下秀吉の陣地跡
▼中島城
▼中島城跡
▼丁野山城跡
▼丁野山城跡
▼JR北陸本線・河毛駅周辺図
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八相山(はっそうざん)の戦 観応2年(1351年)
室町幕府で、二頭政治を行っていた足利尊氏と足利直義との間に不和が生じ、内部紛争が起こります。観応2年(1351年)夏、尊氏軍と直義軍が八相山で戦を交え、敗れた直義は、敦賀へ逃れました。翌年、尊氏に降伏しましたが、その直後謎の死を遂げています。直義の死は尊氏による毒殺説が有力です。
姉川の戦 元亀元年(1570年)
元亀元年(1570年)2月,浅井長政が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。同年6月浅井攻め。姉川で織田信長軍23,000騎、徳川家康軍5,000騎が浅井長政軍5,000騎、朝倉義景軍8,000騎激突。最初は浅井軍の優勢であったが、織田の援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利に。
小谷城の戦 天正元年(1573年)
天正元年(1573年)8月織田信長の越前侵攻再開と小谷城攻め開始。浅井家中の重臣で山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)の内応等があり、織田信長軍、一乗谷の戦いで朝倉軍に大勝した後、浅井長政、久政父子の小谷城を猛攻し、朝倉氏、浅井氏両家が滅亡。お市の方と娘三人が浅井氏から織田信長に帰される。
✡織田信長から長浜城を賜り、長浜城主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、湖北の地から家臣にした主な家臣は
①石田三成(石田町)
②増田長盛(真宗寺)
③脇坂安治(脇坂谷)
④山内一豊(初所領之地)
⑤田中吉政(三川町)
⑥片桐且元(須賀谷町)である。
関ヶ原の合戦には、石田三成、増田長盛、脇坂安治が西軍に。山内一豊、田中吉政、片桐且元が東軍に。脇坂安治は、途中で西軍から東軍に寝返った。