元和5年(1619年)、備後南部10万石を得た徳川譜代の臣、水野勝成(徳川家康の従兄弟)は、福山の地に天守閣のほかに7基の三重櫓と二重の堀で防備された新城と城下町完成させた。そして地名を福山と名付け、福山城と称した。
福山城を築城した水野氏は元禄11年(1698年)、5代の水野勝岑に後継ぎがなかったため、取り潰しとなり代わって元禄13年(1700年)には出羽山形より松平忠雅が入城したが、宝永7年(1710年)には伊勢桑名へ転封し、同年、福山城には阿部正邦が入り、以後明治維新まで阿部氏が10代にわたって福山城主を務めた。
明治6年(1873年)の廃城令で、天守閣・本丸・一部の櫓などは残されたが多くの建造物は取り壊された。さらに、昭和20年(1945年)8月の米軍の福山大空襲で天守閣、御湯殿、涼櫓等多くの文化財が焼失したが、昭和41年(1966年)、市政50周年記念事業として、天守閣と御湯殿、月見櫓等が復元された。
[所在地:広島県福山市丸の内1丁目8番]
<アクセス>JR福山駅から徒歩約5分
▼福山城の概要
▼二の丸西側の石垣 ▼伏見櫓
▼筋鉄御門の全景 ▼筋鉄御門
▼伏見櫓 ▼鐘櫓
▼天守閣・・・・・右の二重の建物は小天守
▼天守閣よりの眺め
2018/2/14 訪城