nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

東大阪の『旧大和川跡と江戸期の史跡探訪』

2014年04月17日 | 文化・歴史散策

2014/04/16  東大阪市の旧大和川跡と江戸期の史跡探訪に行ってきました

ハイキングコース>近鉄奈良線・河内花園駅・・・西庄寺・・・中村神社・・・西村家・・・六郷吟社句脾・・・吉原地蔵石仏・・・中甚兵衛顕彰脾・・・賽の神神社・・・近鉄奈良線・東花園駅

近鉄・河内花園駅おかげ燈籠

  

 

西庄寺・石造地蔵菩薩立像

 門前の地蔵堂内に菱江寺廃寺から掘り出されたといわれる舟形光背に半肉彫りした花崗岩製の地蔵菩薩がまつられています。市の文化財に指定されています

 

仲村神社

  若江郡の二十二座の一つで、江戸時代には「仲村宮」と呼ばれていました。

 

西村家

 江戸時代、中野村の庄屋をつとめた西村宗逸氏の家で、現在も九面の高札や、役人を送迎する提灯も残されています。

 

六郷社、西村宗逸が名付けた俳句会です

吉原石造地蔵菩薩立像

  西光寺門前の地蔵堂の中にあります。室町時代の初期の花崗岩の自然石の石仏です。大阪府の有形文化財です。

            中甚兵衛顕彰脾

 

 大和川だけでなく、河内平野のすべての水が終結し、大阪城の北で東から「淀川」に合流していた。これだけの水の、海への出口が、1ケ所しかなかったのである。大阪城の東の方は、南北方向で土地が一番低いところで、河内平野の排水のためにはスムーズに西に流れなければならないが、生駒山地から西への傾斜はほとんどないため、淀川への流入にも勢いがなく、時には逆流さえ起きた。これらの状況が洪水多発の1つの要因であり、大和川と淀川を切り離して、直接海に落とす考えをした

賽の神社   ▼花園中央公園

 

中甚兵衛(1639年~1730年)

 甚兵衛は、今米村の庄屋で、度々水害を引き起こしていた大和川の流れを柏原からまっすぐ西に付け替えるように、平野郷の代官(末吉孫左衛門)を通じて幕府に懇願し続け、大和川の流れを変える治水工事に奔走し、自ら工事の指揮を執って付け替え工事を完成させた人物です。付け替え後、多くの新田が開発されました。苗字帯刀を許され中氏と称した。その工事に対する功績に対し、従五位勲章が与えられたのを記念して、生地の旧春日神社跡に中甚兵衛顕彰碑が建立されています。

末吉家とは

 坂上氏の流れをくむ平野氏の一族で、平野郷の近在切っての豪族。大阪夏の陣で、豊臣家滅亡後、徳川家康から幕府代官に任命され、支配地は、平野、河内など2郡約5万石の幕府代官であるが、末吉孫左衛門の豪邸となると地方の小大名の城屋敷ほどありました。

□■□役高□■□

幕府代官の役高は、150俵~

幕府郡代の役高は、400俵~

 



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