リニア建設について反対する方達は希少な動物や植生をトンネルを掘る事で
失うとか、自分の村が変わってしまうとか、ストロー現象によって町が栄えるどころか
衰退していくとか、新幹線で充分だという意見だった。
反対する側の意見として、ごもっともな意見だと思う。
それに対して賛成する人は新幹線の線路の老朽化などによる維持費を考えると新たに
線路をひいた方が費用が安くすむなどという、メチャクチャな事まで言われている。
アメリカインディアンから地球に生きる人の世界の見方を僕なりに学んできた視点で
リニアについて意見を言わせてもらうなら、植生や動物、村の変化、などという事よりも
問題はもっと根本的な部分にあると思っている。
そもそも山や河や海や大地は僕らが所有しているものではないというところから始める
べきであって、問題はトンネルを掘る、掘らないのずっと手前のところにある。
ラコタやイロコイの人たちが言う「7世代先の事を考えて今を生きよ」という視点で
考えるのなら、この大地を所有しているのはわれわれではなく、7世代先の子供達である。
日本列島にはかつて「いかに自分が生きてきたという事を大地に残さずに死んでいくのか」
という美の中を生きた人たちが明らかにいた。
そうやって何も残さない生き方で、残されてきた山や大地を自分たちでデザインしようという
発想がうまれること自体、リニアの問題もある意味では手遅れであると思う。
僕は文章や言葉を読めばその人が地に足が着いているか人なのか何てすぐにわかるのだけれど、
大地や山を守ろうと反対している、大切なものを守ろうと人たちの中の意見でさえ、地と足の
距離が遠い。
僕らと大地の間には、そのくらいの距離があるのだという事が今回大鹿を訪ねてよく解った
一番の収穫だった。
リニアについて話を戻すと、既に山梨県側では隠れてリニアのトンネルを掘っている。
このままいけば近い将来、確実にトンネルも掘られ、リニアも開通するだろう。
僕はリニアに反対ではなくて、大地や山に何かを残すことについて反対である。
リニアは奇跡でも起きない限り、工事は止まらないだろうし、はっきり言って僕らは無力かもしれない。
でも、ただでは掘らせないとだけ、ここでは言っておく。
失うとか、自分の村が変わってしまうとか、ストロー現象によって町が栄えるどころか
衰退していくとか、新幹線で充分だという意見だった。
反対する側の意見として、ごもっともな意見だと思う。
それに対して賛成する人は新幹線の線路の老朽化などによる維持費を考えると新たに
線路をひいた方が費用が安くすむなどという、メチャクチャな事まで言われている。
アメリカインディアンから地球に生きる人の世界の見方を僕なりに学んできた視点で
リニアについて意見を言わせてもらうなら、植生や動物、村の変化、などという事よりも
問題はもっと根本的な部分にあると思っている。
そもそも山や河や海や大地は僕らが所有しているものではないというところから始める
べきであって、問題はトンネルを掘る、掘らないのずっと手前のところにある。
ラコタやイロコイの人たちが言う「7世代先の事を考えて今を生きよ」という視点で
考えるのなら、この大地を所有しているのはわれわれではなく、7世代先の子供達である。
日本列島にはかつて「いかに自分が生きてきたという事を大地に残さずに死んでいくのか」
という美の中を生きた人たちが明らかにいた。
そうやって何も残さない生き方で、残されてきた山や大地を自分たちでデザインしようという
発想がうまれること自体、リニアの問題もある意味では手遅れであると思う。
僕は文章や言葉を読めばその人が地に足が着いているか人なのか何てすぐにわかるのだけれど、
大地や山を守ろうと反対している、大切なものを守ろうと人たちの中の意見でさえ、地と足の
距離が遠い。
僕らと大地の間には、そのくらいの距離があるのだという事が今回大鹿を訪ねてよく解った
一番の収穫だった。
リニアについて話を戻すと、既に山梨県側では隠れてリニアのトンネルを掘っている。
このままいけば近い将来、確実にトンネルも掘られ、リニアも開通するだろう。
僕はリニアに反対ではなくて、大地や山に何かを残すことについて反対である。
リニアは奇跡でも起きない限り、工事は止まらないだろうし、はっきり言って僕らは無力かもしれない。
でも、ただでは掘らせないとだけ、ここでは言っておく。