また、あおう!
ブログの開設から 1366 日。
実をいうと僕はこのブログのデザインが1366日前からずっと気に入っていない。
「あんた!1366日もやっているのに!」と、みなさん思われると思うが、
気に入っていないのだ。
ということで、新たにブログをはじめようと思う。
僕がブログという方法を使って書きはじめたのは1366日よりもっと前、6年も前になる。
まだ小さかった頃こんなことがあった。
小学校一年生の昼休みの教室。
みんなが外で遊んで、だれもいない教室の右後ろの席で、おぼえたての文字を使って
書き続けていたことがあった。
きっと何か決められたテーマについて書いていたのだろうが、途中からテーマからはずいぶんと
逸れて、なぜ僕はいまこんなにも一生懸命に作文用紙の小さな四角を文字で埋めているかについて、
書き続けていたことを、いまでもおぼえている。
僕はどうやら、6年よりもずっと前から書くことが好きだったみたいだ。
僕にとって書くということは誰かに見せる為のものではなく、いまをつかまえる作業で
あり、日々をただ何となく消化して生きたくないという僕なりの抵抗でもある。
だから僕はこれからも書くことをやめるわけにはいかないのだ。
ブログを新たにはじめる理由のもうひとつに、以前、僕がわがままを言ってやらせてもらった
お話会がおおきく関係している。
あそこで僕は自分が本当に言葉にしたいのは何なのかを知りたかった。
そして、僕から出た言葉からこれからの生き方がやっと見つけることができ、このブログで
何度も変わってきたテーマの、やっと変わらないものを見つけられたことが、新たに書くことを
はじめようと思う最大の理由である。
ところで、来月の終わりに僕がうまれてから30年たつことになる。
どんなアホでも大抵の人は30年たてば30歳になる。
旅をするようになった20代のはじめごろは、30歳までにやりたいことを終えて、好きな女と
結婚して定職に就くという気がしていたけれど、どうやらそうはならないようだ。
来月はまた1ヶ月間の旅に出るわけで…。
こんな僕に頼んでもないのに付き合っていただけたみなさまに、いちおうお礼を。
どうもありがとう。
必要であれば『 On the ground 続・旅するくも 』まで
http://blog.goo.ne.jp/h8square
最後に僕にとってたいせつな言葉を
実をいうと僕はこのブログのデザインが1366日前からずっと気に入っていない。
「あんた!1366日もやっているのに!」と、みなさん思われると思うが、
気に入っていないのだ。
ということで、新たにブログをはじめようと思う。
僕がブログという方法を使って書きはじめたのは1366日よりもっと前、6年も前になる。
まだ小さかった頃こんなことがあった。
小学校一年生の昼休みの教室。
みんなが外で遊んで、だれもいない教室の右後ろの席で、おぼえたての文字を使って
書き続けていたことがあった。
きっと何か決められたテーマについて書いていたのだろうが、途中からテーマからはずいぶんと
逸れて、なぜ僕はいまこんなにも一生懸命に作文用紙の小さな四角を文字で埋めているかについて、
書き続けていたことを、いまでもおぼえている。
僕はどうやら、6年よりもずっと前から書くことが好きだったみたいだ。
僕にとって書くということは誰かに見せる為のものではなく、いまをつかまえる作業で
あり、日々をただ何となく消化して生きたくないという僕なりの抵抗でもある。
だから僕はこれからも書くことをやめるわけにはいかないのだ。
ブログを新たにはじめる理由のもうひとつに、以前、僕がわがままを言ってやらせてもらった
お話会がおおきく関係している。
あそこで僕は自分が本当に言葉にしたいのは何なのかを知りたかった。
そして、僕から出た言葉からこれからの生き方がやっと見つけることができ、このブログで
何度も変わってきたテーマの、やっと変わらないものを見つけられたことが、新たに書くことを
はじめようと思う最大の理由である。
ところで、来月の終わりに僕がうまれてから30年たつことになる。
どんなアホでも大抵の人は30年たてば30歳になる。
旅をするようになった20代のはじめごろは、30歳までにやりたいことを終えて、好きな女と
結婚して定職に就くという気がしていたけれど、どうやらそうはならないようだ。
来月はまた1ヶ月間の旅に出るわけで…。
こんな僕に頼んでもないのに付き合っていただけたみなさまに、いちおうお礼を。
どうもありがとう。
必要であれば『 On the ground 続・旅するくも 』まで
http://blog.goo.ne.jp/h8square
最後に僕にとってたいせつな言葉を
『われわれは、もういちど もとの道に戻ろうとしている。
力をとりもどし 現代生活と呼ばれる虚構と 不誠実にみちた生活から離れて
いかに生き どうしたら自分に正直でいられるかを われわれは
もういちど 学習しなおしているのだ。』
力をとりもどし 現代生活と呼ばれる虚構と 不誠実にみちた生活から離れて
いかに生き どうしたら自分に正直でいられるかを われわれは
もういちど 学習しなおしているのだ。』
ローリング・サンダー
今年もすでに映画を軽く100本は観ただろうか。
映画のタイトルをおぼえない性格はあいかわらずである。
このごろ観た映画でこんな感じの台詞があった。
『 ひどいことがあったときは、今日よりもひどい日が来るのを
楽しみにして生きよう。
今日よりひどい日がくれば、今日のことを忘れられるから。』
けっこう、こういうのが好きである。
映画のタイトルをおぼえない性格はあいかわらずである。
このごろ観た映画でこんな感じの台詞があった。
『 ひどいことがあったときは、今日よりもひどい日が来るのを
楽しみにして生きよう。
今日よりひどい日がくれば、今日のことを忘れられるから。』
けっこう、こういうのが好きである。
文字にして語ることよりも、声にすることを大切にしたいと
思っている僕の初のこころみ。
「地球の上に生きる人の目で世界をみる」というお話会。
特にアメリカ・インディアンという地球とともに生きる人についての話は
この国ではマイノリティのなかの、さらにマイノリティであるということは
僕も重々承知しているので、誰も来なくても驚きはしないのだけれど、
昨日は遠くは東京の友人やバンドメンバーや、はじめてお会いする方など
定員8名のところに8名の方が来てくれた。
満席である!
話し始めるとすぐにグダグダになってしまったが、思っていた通り2時間では
収まらなかったが、日本人をやっていることに疑問を感じたことのない人へ
話をすることの難しさと、感覚がわかったことは今回大きな収穫だった。
次は火を囲みながらやりたいものである。
思っている僕の初のこころみ。
「地球の上に生きる人の目で世界をみる」というお話会。
特にアメリカ・インディアンという地球とともに生きる人についての話は
この国ではマイノリティのなかの、さらにマイノリティであるということは
僕も重々承知しているので、誰も来なくても驚きはしないのだけれど、
昨日は遠くは東京の友人やバンドメンバーや、はじめてお会いする方など
定員8名のところに8名の方が来てくれた。
満席である!
話し始めるとすぐにグダグダになってしまったが、思っていた通り2時間では
収まらなかったが、日本人をやっていることに疑問を感じたことのない人へ
話をすることの難しさと、感覚がわかったことは今回大きな収穫だった。
次は火を囲みながらやりたいものである。
結局のところ賛成、反対よりも思考が停止されていることの方が
よほど問題である。
指示がなければ動けない兵士が100人いたところで何も起きやしない。
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理されるな。」
と、 ジミ・ヘンドリックスも言っている。
よほど問題である。
指示がなければ動けない兵士が100人いたところで何も起きやしない。
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理されるな。」
と、 ジミ・ヘンドリックスも言っている。
『 我々は日本人をやっているインディアンである。』
「 自分がどんな世界に生き、自分は何ものであるのか 」という疑問に
8年という月日で、ようやくたどり着いた僕のこたえ。
「 自分がどんな世界に生き、自分は何ものであるのか 」という疑問に
8年という月日で、ようやくたどり着いた僕のこたえ。
デザイン(英語:design)は、ある対象について、良い構成を工夫すること。
Wikipediaより
以前、日本のツリーハウス第一人者である小林崇さんは「木は自分をデザインしている」
と言われていた。
小林さんの言葉が正しいかどうかわからないが、デザインという言葉には
「人為的である」ことが大きく関係しているように僕は思うので、ここではそいういう
意味で使うことにする。
われわれが日本と呼ぶ、この国はデザインされて始まったものである。
そこにはオリジナル(デザインの反義語として使う)と呼べるものは
ことごとく失われ、成長し続けていくかのようなありもしない世界が映し出される。
地球やインディアンという視点で見るのなら、この世界はまったくのフィクションである。
しかし、永遠を失った後に始まったものには必ず終わりがくる。
なぜなら、ひとがオリジナルな世界(永遠)を作り出すことなどできないからだ。
オリジナルな世界は僕らにではなく、僕らのむこう側にあり、歌や祈り、物語は
むこう側にある。
インディアンと呼ばれたオリジナルな世界の中を生きていた人たちは、このことを失わずに
生きている人たちである。
『 我々が生地を編むのではなく、我々は生地の中の一本の糸にすぎない。 』
どの部族だったか忘れたが、そういうことだ。
なぜ僕がオリジナルな人たちにここまで惹かれるのかという最大の理由はそこにある。
Wikipediaより
以前、日本のツリーハウス第一人者である小林崇さんは「木は自分をデザインしている」
と言われていた。
小林さんの言葉が正しいかどうかわからないが、デザインという言葉には
「人為的である」ことが大きく関係しているように僕は思うので、ここではそいういう
意味で使うことにする。
われわれが日本と呼ぶ、この国はデザインされて始まったものである。
そこにはオリジナル(デザインの反義語として使う)と呼べるものは
ことごとく失われ、成長し続けていくかのようなありもしない世界が映し出される。
地球やインディアンという視点で見るのなら、この世界はまったくのフィクションである。
しかし、永遠を失った後に始まったものには必ず終わりがくる。
なぜなら、ひとがオリジナルな世界(永遠)を作り出すことなどできないからだ。
オリジナルな世界は僕らにではなく、僕らのむこう側にあり、歌や祈り、物語は
むこう側にある。
インディアンと呼ばれたオリジナルな世界の中を生きていた人たちは、このことを失わずに
生きている人たちである。
『 我々が生地を編むのではなく、我々は生地の中の一本の糸にすぎない。 』
どの部族だったか忘れたが、そういうことだ。
なぜ僕がオリジナルな人たちにここまで惹かれるのかという最大の理由はそこにある。