葉山に住み、88(ライスペーパー)というフリーペーパーにアイヌ模様などを載せ、
インディアンフルートの演奏者でもある真砂さんの水田を7Generationswalkで
訪ねたことがあった。
真砂さんは北山耕平さん、野草社(山尾三省の本などを出版している会社)の石垣さんと
似た独特な雰囲気を持っている方だった。
真砂さんは僕らに水田を案内しながら自分がしている農を『食べられるガーデニング』
と呼んでいた。
当時、真砂さんについて僕はほとんど知らなかったけれど、『食べられるガーデニング』
という言葉で僕は時間が許す限り話をしてみたいと思ったほど衝撃的な一言だった。
アトリエに移ってから真砂さんは『自然との折り合いをどこに見つけるのか』とも言っていた。
農について極端なものがたくさんある。
人間の地球に対する支配の行き過ぎたものを農薬を使った「農業」だとすれば、地球に負担を
かけないものの極端なものとしては限られた人しか実践できないような自然農。(色々あるけど)
さらに極端なことを言えば農からも離れて「狩猟採集」こそが未来への答えと言う人までいる。
『食べられるガーデニング』という言葉はまさに両極端の中にある自然と人との間に存在する
折り合いをふまえた真砂さんが実践されている答えであったと僕には思えてならない。
そして、それを農法などという言葉を使わずに『ガーデニング』という言葉を選ぶ真砂さんは
素晴らしいと思う。
僕らが食の生産に必要なのは農法ではなくて、『食べられるガーデニング』という感覚なのかも知れない。
※さて、ここからが本題。
僕はそもそも人に何かを事細かに説明することが好きではない。
最南端のイラストをやっているタクミもいつだったか同じことを言っていた。
自分が描いた絵について細かな説明をするほどナンセンスなことはない。
僕もそう思う。
『過剰な説明は人の想像力を馬鹿にしている』という言葉もあるくらいだ。
僕は人を馬鹿にしたくないということよりも、むしろ相手に空白を持たせることが、必要なのでは
ないかとさえ思っている。
上に書いた内容を僕はTwitter上で
『葉山にあるインディアンフルートの演奏者の真砂さんの無農薬の水田を訪ねたとき真砂さんは
農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。結局そういうことなんだと思う。』と書いた。
「真砂さんは農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。」だけでも僕は十分だと思う。
もちろん、そこには書き手と、読み手のセンスがあってはじめて意図しているものが伝わり、
成り立つだけに、センスが問われるわけだ。
そこに僕が感じるTwitterの面白さがある。
インディアンフルートの演奏者でもある真砂さんの水田を7Generationswalkで
訪ねたことがあった。
真砂さんは北山耕平さん、野草社(山尾三省の本などを出版している会社)の石垣さんと
似た独特な雰囲気を持っている方だった。
真砂さんは僕らに水田を案内しながら自分がしている農を『食べられるガーデニング』
と呼んでいた。
当時、真砂さんについて僕はほとんど知らなかったけれど、『食べられるガーデニング』
という言葉で僕は時間が許す限り話をしてみたいと思ったほど衝撃的な一言だった。
アトリエに移ってから真砂さんは『自然との折り合いをどこに見つけるのか』とも言っていた。
農について極端なものがたくさんある。
人間の地球に対する支配の行き過ぎたものを農薬を使った「農業」だとすれば、地球に負担を
かけないものの極端なものとしては限られた人しか実践できないような自然農。(色々あるけど)
さらに極端なことを言えば農からも離れて「狩猟採集」こそが未来への答えと言う人までいる。
『食べられるガーデニング』という言葉はまさに両極端の中にある自然と人との間に存在する
折り合いをふまえた真砂さんが実践されている答えであったと僕には思えてならない。
そして、それを農法などという言葉を使わずに『ガーデニング』という言葉を選ぶ真砂さんは
素晴らしいと思う。
僕らが食の生産に必要なのは農法ではなくて、『食べられるガーデニング』という感覚なのかも知れない。
※さて、ここからが本題。
僕はそもそも人に何かを事細かに説明することが好きではない。
最南端のイラストをやっているタクミもいつだったか同じことを言っていた。
自分が描いた絵について細かな説明をするほどナンセンスなことはない。
僕もそう思う。
『過剰な説明は人の想像力を馬鹿にしている』という言葉もあるくらいだ。
僕は人を馬鹿にしたくないということよりも、むしろ相手に空白を持たせることが、必要なのでは
ないかとさえ思っている。
上に書いた内容を僕はTwitter上で
『葉山にあるインディアンフルートの演奏者の真砂さんの無農薬の水田を訪ねたとき真砂さんは
農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。結局そういうことなんだと思う。』と書いた。
「真砂さんは農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。」だけでも僕は十分だと思う。
もちろん、そこには書き手と、読み手のセンスがあってはじめて意図しているものが伝わり、
成り立つだけに、センスが問われるわけだ。
そこに僕が感じるTwitterの面白さがある。