聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

スサノオ Ⅰ. 京都【八坂神社】素戔嗚尊

2022-05-28 | スサノオ

ブログの後半に『古代ミステリーロマン』風の話しをまた加筆致しましたので、再投稿します🙏

後半は、聖地・パワースポットというブログの趣旨から外れ【古代ミステリーロマン】な話しを長々と書いてますが、興味のある方は御覧下さい。(※とても長いので期間限定で公開🙃)

スサノオ様を祭る神社⛩️

『氷川神社』『熊野大社』『八坂神社』三社を巡りました。

祇園祭で有名な八坂神社をUPします。全国の八坂神社の総社。

【八坂神社】京都市東山区祇園町北側625

ご祭神 素戔嗚尊(=牛頭天王)

(※素戔嗚尊→スサノオって読めないすね😅)

西楼門

創建 656年

高句麗の渡来人イリシが、新羅の牛頭山に坐していた「素戔嗚尊」を

京都・山城の国の八坂に祭ったのが起源という。

日本書紀に一書曰く

「スサノオは新羅に天下った」とあるので、高句麗人イリシの手によって、新羅からスサノオ様のご神霊が戻ってきたということだろうか。

日本書紀の編纂を命じた天武天皇も、その事を知っていたのだろう。

八坂神社は、神仏習合の時代の代表的な存在で、明治の神仏分離まで、

感神院というお寺だった。

(※神仏習合=「日本の神は本来は仏教の神で、仏が神の姿で現れたもの」とされ神社が寺院の傘下となっていた時代。日本古来の神々は仏教の神に習合された)

本殿


スサノオ様と習合(コラボ)された牛頭天王は、インド仏教の聖地の寺院

【祇園精舎】の守護神で疫病の神様

スサノオ様がインドの牛頭天王と習合された影響で、八坂神社は

日本神話の高天ヶ原や出雲などよりもインド系の祭色が色濃い。

祇園祭りも海神のスサノオでなく、

疫神を祭ってる。

西楼門から入ると屋台が並び賑わっていた。

『太田社』ご祭神 猿田彦命・天鈿女命

本殿の周囲にはいくつか由緒のある摂社が祭られている。

『大国主社』

スサノオの跡継ぎとして国造りを行った大国主と、共に協力した少彦名、大国主の子・事代主が祭られている。

『美御前社』うつくし ごぜんしゃ

東北門の方にある「美容の神社」

宗像三女神 

多紀理姫、湍津姫命、市杵島姫を祭る

社前に湧きでてる神水の美容水がある。

三女神の美しさにちなみ

美しくなる神社で、女性の参拝客は美容水を手にとってお顔にはたいていた😌

南門 鳥居

拝殿

インドのラタヤートラというお祭りでは、山車を引っ張りヒンズー教の神々を祭るという。

祇園が日本に伝来したのは7世紀頃だろうか、、🤔

しかし、インドより今や日本の祇園祭の方が本場になっている様だ。

何よりインドはヒンズー教徒の国、仏教徒は殆どいない。

日本人なら『祇園』を知らない人はいないが、世界的にも日本の祇園は有名で

無形世界遺産だ。

八坂神社は延暦寺の末寺だったのが、

織田信長の延暦寺焼き討ち以降、延暦寺から離れ、祇園祭は独自の形を歩んできたという。

伝来した伝統を取り込み、

スサノオ=牛頭天王という形で伝え続けてきたおかげで、

どちらも完全に排除することはなく、世紀を超えて大切に保存されてきている。

これが所謂、外国人からみた


『日本人が気づいていない日本の良さ』なのだろう。

どちらかを根絶やしにする様な完全排除はしない。たとえ針の穴ほどでも後世に残す。

スサノオ様よりも、

牛頭天王さまの由緒を、より感じる聖地✨


同じスサノオを祭る神社でも
スサノオが牛頭天王と習合されたことにより、それぞれ色彩が違う。

⛩️八坂神社の様な、
インド祇園系(牛頭天王)

⛩️熊野大社の様な、
仏教修験道系(熊野権現)

そして、
⛩️氷川神社の様な、
日本神話出雲系(須佐之男命)

スサノオ様を祀る神社にはそれとなく、三つの側面がある。

次は熊野大社を。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

素戔嗚尊と『祇園精舎」と牛頭天王

古代ミステリーロマン的なお話しです😌

=祇園はインドの舎衛城の長者スタッダが、仏陀に提供した教えの場所で、インド仏教の聖地。精舎とは仏教寺院のこと。

その祇園精舎の守護神である「牛頭天王」の名の語源は、南インドにある牛頭山(マラヤ山)に群生する薬樹「牛頭栴檀」(白檀)が由来らしく、医薬として用いられたという。

韓国(新羅)の牛頭山はソウルの東方、京畿道にある標高480mの山。

驚いた事に南インド~韓国まで5000㌔以上離れていても、同じ牛頭山という山が存在しているが、祇園精舎があったコーサラ国からもかなり遠い。

中国の温州の浙江省武義県、日本の広島県にもそれぞれ牛頭山がある。

何故、牛頭天王が祇園精舎の守護神になったのだろうか…? やはり疫病から守る為に?🤔

そもそも、仏教の聖地・祇園を守護する牛頭天王の奥さんは、守るどころか仏教を衰退に追いやったヒンズー教の女神(ハリサイジョ)。対立関係の政略結婚の様なものだろうか?

祇園は日本に伝わり既に1000年以上が過ぎ、

「祇園」さんとして長い間、日本人に親しまれ日本人と共に歩んできた。

イワシの頭とヒイラギを玄関に飾り、疫病神を追い払らったりなどの牛頭天王への信仰も今に残る。

(※ユダヤ起源の説あり☝️出エジプト記では羊の血を玄関に塗ると災厄から助かるという。ヒイラギとイワシで羊の血の臭いを再現したか?🤔)

明治の神仏分離で神社と仏教は別れたが、牛頭天王や祇園祭はもはや

神道、仏教、どちらでもない独自の伝統文化と言えるかもしれない。

『牛頭天王』様が仏教の教えの聖地・祇園精舎の守護となって久しい。


牛頭山の薬樹の霊薬で人々を病魔疫病から守ってきた存在なのだろうが、インドの祇園精舎は長らく埋もれたままの遺跡となってしまった。

ヒンズー教の台頭により仏教は衰退した。

7世紀に三蔵法師が訪ねた時には祇園精舎は既に荒廃していて、1200年後の19世紀~20世紀に遺跡の発掘が行われ現在はインドの歴史公園となっている。

もっと早い時期にヒンズー教の前進であるバラモン教に圧され、衰退していたのかもしれない。

インド仏教は、

バラモン教、ジャイナ教徒、ヒンズー教、イスラム教など、他宗派に押され弱体化してきた歴史がある。

ブッタ入滅後、
500年くらい経った頃から権威主義が暴走し力が失われてきた『仏教』に対抗して、

『大乗仏教』マハー・ヤーナが台頭してきた。

一部の出家者しか救われないとする権威的になり過ぎた『仏教』に対し、
多くの民衆を救う『大乗仏教』は力をつけ、バラモン教国を仏教国へ改宗させるほどになった。

法華経などの経典でブッタに纏わる様々な説話が説かれる様になり

ここで力強い神々【仏教の守護神】たちが誕生した。

蛇神ナーガ、夜叉、羅刹、等々、、

「牛頭天王」もこの頃からの存在だと思われる。

『大乗仏教』はナーガ・ルジュナ(龍樹)によって完成されるが、

中国にその大乗仏教が伝わると、
中国人は蛇神ナーガを全て龍神に変えてしまい、日本には蛇神でなく八大龍王や善女龍王として伝わってきた。

牛頭天王さまも、中国人のアレンジによるものなのか、または日本に伝来してからのものかは分からないが、変移してきてる可能性はある。

後に、インドの大乗仏教もヒンズー教に押され、密教化し大日如来など力強い神々をまた創りだし対抗したが、密教化が暴走し結局は力を失った。

当のインドでは、紆余曲折、波乱万丈な変遷を歴て衰退していったにも関わらず、日本に伝わった『祇園』さんは日本の伝統として今も残り、牛頭天王は京都の『祇園祭』や全国の『天王祭』というお祭りで存在している。

これは、西洋人からみた日本の良さという事だけでなく、

インド人から観ても
伝統を残す日本の良さとして映るのだろうか、、🤔

インドから発祥し、2000年経った今もずっと続いてる祇園さん。

蘇民将来の疫神のスサノオ様と、
祇園精舎の守護神・牛頭天王様、
そして人々との関係は、深く長い信仰で繋がってきたのだ。

中世の疫神信仰は、伝染病の流行は祟りによりもたらされると信じられていた為、無念にこの世を去った存在を神として祀り、祟りや災いを出さぬようにと願いをこめ祭り奉る。

都を追われた菅原道真公の天満宮などがそうだが、京都の祇園信仰の疫神『牛頭天王』は実在の人物という訳ではなく、また宗旨が違うのかもしれない。

話しが牛頭天王様で仏教化すぎたので😂少しスサノオ様に触れます、、😌

日本神話のスサノオ様は、天照大神の兄妹神で、スサノオ様と月読命は、天照大神と共に『三貴子』と称されながらも信仰は最初は細々としたものだった。

今は、月読命だけが影が薄いが、

スサノオ命は、

神仏習合で牛頭天王と習合された事で

牛頭天王信仰によって全国に一気に広がっていった。

京都の八坂神社系2300社
愛知の津島神社系3000社(天王社)
など、

月読神社の100倍近くの広がり様である。

(月読神社😅少なすぎ)

牛頭天王系の神社は、須佐之男ではなく素戔嗚命と表記しているところが多いという。

本州の文字文化にはない表記らしく、本州で素戔嗚命と祭るのは独特の系統を示す象徴らしい🤔

祇園精舎と牛頭天王

牛頭天王とスサノオ、

何故に結びついたのかは本当のところよく分かりません。

一説に、

スサノオが祭られていた播磨国の祇園本社「広峰神社」に、牛頭天王が垂迹してきて、9世紀後半に八坂神社に遷り、

また広峰山からスサノオ様の御神霊が、やはり9世紀後半にの八坂に遷ったとあり、『広峰』に謎を解く鍵があるかもしれません🤔(広峰も行ってみよう、)

スサノオ様は少彦名命、菊理姫・神功皇后の様に新羅系の神様として語られていることも多いですが、これ程まで南国の神、牛頭天王と合致したのは、もしかするとスサノオ様も

南方からやってきた神様だからかもしれません。

そして、インドから新羅まで、牛頭山を祭る渡来部族が

大海原を渡ってきたのだろうか?

、、、核心に進んでいきます🙃

『牛頭天王とスサノオが結びついた説』

諸説ある中で有力説は、茅の輪くぐりの由緒であり

疫病退散のエピソードの「蘇民将来」という兄弟の話しがある。

『北海に住むという武塔天神が、嫁を探しにきた。

一晩宿を借りようと、長者・巨旦将来に頼んだが断わられ
兄の蘇民将来は貧しいながらも武塔天神を暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は『八王子』を連れ、  

(八王子=男神五神、女神三神)

蘇民将来のもとに顕われ感謝し

蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、

武塔天神は本性を明かした。』


このスサノオ(=武塔天神)の疫病の話しが、インドの疫神である牛頭天王と結びついてスサノオの別名とされたという説だ。

とすれば、武塔天神牛頭天王ということになる。

この話しに対してもっと

暗示的な読み取りをするならば、

「武塔天神は北海に住む」、北海に住むといえば

高句麗人のことであり、

八坂にスサノオを祭った高句麗の渡来人イリシという人物を想起させる。

では、武塔天神は誰か?という事だが

これは天武天皇を暗示しているのかもしれない。

大海原を治めたというスサノオと、天武天皇の元の名、

大海人皇子という名乗りも一脈相通じる。

新羅の牛頭山から、イリシが京都の八坂にスサノオを祭ったという656年頃は、

大化の改新後、考徳天皇が廃位され難波朝から大和朝へ代わり
中大兄皇子や大海人皇子へ天下の趨勢が移った頃だ。

後に、壬申の乱で大海人皇子は天智天皇系に勝利し天武天皇となるが、8世紀後半にはまた天智天皇系へと戻り現代まで続いてきて、天武は歴史の彼方に置き去りにされたままでいる。

天智天皇系の世となり、表向き天武を祭ることが出来なかったために、
その縁者や崇敬する人々達は、

新羅の牛頭山のスサノオを八坂に祭ったというエピソードと共に

疫神・牛頭天王、武塔天神=スサノオのエピソードになぞって

その隠された存在を

密かに祭っていたのかもしれません。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

もう少し天武天皇について、、

【追記】

古代日本で最も封印された天皇

『天武の謎』

大海人皇子(天武天皇)ほど、歴史の闇に隠された存在はない。

😅歴史ヲタクな私は、『和国大戦記』という天武天皇を主人公にした小説を投稿サイトで連載しているのですが、天武ファンとして😍こちらのブログでも少し触れてみます。長文です🙏

この投稿では、

スサノオと牛頭天王を結ぶ

「北海に住んだ武塔天神がやってきた、」という蘇民将来の疫病エピソードと

八坂神社の由緒の

「高句麗人イリシが京都の八坂にスサノオを祭った」

という創建のエピソードから

天武天皇(大海人皇子)の存在を想像してみた。

「北海に住んだ」=高句麗人であり、何故「武塔天神」=天武天皇なのかは別にして

(ていうか神って😂☝️しっかり天武の二文字が配されてますやん)

まず、

表向きのご祭神とは別に、ご尊名をつまびらかにせず、

その名をあげて祭れない存在を陰祀している神社について触れてみたい。

有名なところでは、石川県金沢の

『尾山神社』がある。

豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康へと天下が移りゆく時代のこと。

秀吉側の宿老・前田利家が病死し、

跡を継いだ前田利長は亡父を神として祭りたいと考えていた。

しかし、天下は徳川に傾き徳川家康は前田家の征伐も検討していたほど。

おおっぴらに『利家公』を神として祭ることは出来なかった為、

前田家が守護としていた物部八幡宮を遷祀するという名目で、

表向きは八幡様を祭る神社を建立し、

そこに合祀するという形で密かに故『利家公』を祭った。

加賀百万石の前田家は明治4年の廃藩置県まで続いたが、その様に

歴史が新しくない古代の場合では、密かに合祀したことが確認できずにそのままになっている事もある。

何時の時代も、その首長の元で生きた人々、恩恵を受け敬愛していた人々、残された一族にとっては、例え天下の蒼生が移り変わっても、

初代当主を祖神として祭りたいという崇敬の気持ちは当然ある。

しかし、堂々と祭ることが出来ない場合、仕方なくご尊名を隠して祭るしかない。例えば、

平安時代、
平将門の乱で、側近・興世王が討たれた時、里の人がその遺品である馬の衣を拾い『熊野神』として祭ったという。


古墳時代、
ヤマトタケルはクマソタケルを征伐した。征伐された側のクマソタケルの氏族達は、クマソタケルを堂々と祭ることを憚り

その奥さんを姫神様として姫神社を祭り、相神としてクマソタケルを密かに祭った。

前田利家と違いあまりにも時代が古いためこれを確認する術などなく、

時代が変わっても古代から変わらない祭祀が続いているのかもしれない。

例え、その様な伝承があったとしても「あくまでも伝承で、史実無根」とされるので、古代ミステリー好きには、逆に好奇心やロマンを掻き立てられる。

そんな、ミステリーロマン視点から綴っていきます。

天武天皇も、どこかで陰祀されていて当然だと思いますが、あるとすれば

八坂神社ほどの社数があっても不思議ではない。

八坂神社は、明治の神仏分離の時に、

『神道の神様スサノオと、仏教の神様牛頭天王を分けるべき』と、

真っ先に槍玉に上がるほどの存在感があった。

そして天武天皇も、

古代日本において、最も存在感のある天皇だった。

正史となる『日本書紀』の編纂を命じ、伊勢神宮内宮の造営、天照大神を最高神とし伊勢神宮の社格を日本一に高め、現代の大嘗祭にも続く壇場即位の儀を日本で初めて行ない、「天皇」の号を採用、現人神の思想、 日本という国号、律令化、肉食の禁止など日本の基底文化となる数々の影響を与え、偉業を成し遂げ、そして恐れられた人物だ。

(この時代で既に『和国書紀』でなく『日本書紀』)

元々、部族連合国でしかなかった和国に現人神の思想を持ち込み、公地公民化を進め、専制君主的な王権を強化しようとした王たる王。

冠位を拡大し、東北・北陸の蝦夷族を従わせ、日本海狭しと列島から半島を海を跨いで奔走し続けた海の皇。

和国が消滅し、強い日本国が生まれた🌅律令化の時代の英雄✨です。

持統天皇(妻)や文武天皇(息子)は、天武天皇の偉業を継ぎ、

遂には『日本国』の名で遣唐使(周)を送り、時の皇帝・即天武皇に

『もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本国と呼ぶように』

と、言わしめた『日本建国の時代』

その立役者たちの筆頭です。

それだけ偉業を成しながら、天武天皇を祭った神社というのは殆どありません。(寺院はある)

神武天皇、崇神天皇、ヤマトタケル、神功皇后、応神天皇、欽明天皇、聖徳太子、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真、平清盛まで 

古代の偉人を祭る神社はいくつもありますが、まるでその『律令国家・日本建国の時代』だけすっぽり抜け落ちているかの様に、、、

ひっそりとしています。

 

高句麗人でもありますが、先祖の出自は漢の霊帝の子孫と云われる渡来人。

闇という言葉はあまり使いたくないですが、闇の王にスポットを当ててみます。


【古代ミステリーロマン】というジャンルの中では、

『中大兄皇子(天智天皇)は百済のキョギ皇子だった』

という事はもはや定説となっていますが、

「天武天皇は、高句麗人のヨン・ゲソムンという宰相だった」

ということも巷説の世界では、実しやかに語られていますので、

北海に住んだという武塔天神とは、

北海=高句麗にいた天武天皇を指しているのではないか。

「高句麗人イリシが八坂にスサノオを祭った」という由緒だけで、

高句麗人イリを思い浮かべる方は少ないかもしれません。

大海人皇子(天武天皇)は高句麗人のイリだった

とは、荒唐無稽すぎてなかなか理解するのが複雑です。

高句麗・新羅・和国と三国に渡る影の実力者で、大陸を奔走した英雄です。

和国の発音でイリ・ガスミ

高句麗では、ヨン・ゲソムンと発音する

高句麗の宰相でした。

その後、和国に渡り天武天皇となります。

(※大海人皇子/天武天皇/イリ(淵)/ヨンゲソムン/任武/など、各国で呼び名が多数ありますが「イリ』という名で綴っていきます、、)

7世紀、唐国の勢いが強大となり高句麗は滅亡の危機をむかえますが、高句麗の大臣だったイリはクーデターを起こし親唐派の高句麗王を除き、反唐派政権を樹立させ唐と戦いつづけた。

そして高句麗王族の姫を娶り王の入婿になり、宰相となり…反唐派政権を操っていた。

高句麗の前は新羅にいた事があり、637年に金一族の姫との間に「法敏」という男子をもうけていた。

やがてその子は新羅の王族・金春秋の養子となり、長じると金一族が政権をとって

新羅の文武王に即位し、後に列島に渡り和国の文武天皇となる。


(全国の白髭神社に、白鬚様として祭られているという風説があります)


イリは何度も和国と高句麗を行き来し、反唐の為に奔走した。

和国でも王族の入婿となり、大海人皇子と和国名乗りを上げ、義兄の中大兄皇子と共に斉明天皇を擁立し実権を握り、百済を唐賊から救う為に和国から援軍を派兵した。

高句麗にあっては、

高句麗王の養子・第二皇子の任武=宰相ヨン・ゲソムンとなり

新羅にあっては文武王の実父

和国にあっては大海人皇子として、

三国を裏から操る、闇の政府となり

唐国と戦い続けました。


背面服従で、表向きは親唐であっても

三国の反唐派たちは

イリを中心に裏で結びつき協力しながら、唐賊を攘夷した。

百済が唐に滅ぼされてしまうと、百済復興軍に対して和国にいた百済王子・扶余豊章を送ります。

そして、

白村江の戦いで、和国からの反唐軍を遠征させるも敗北。

大国唐が建国されて以来、西アジアにはアフリカ、アジア、ヨーロッパ、三大陸にまたがるアラブ【大イスラム帝国】が誕生し、アジア大陸は史上かつてないほどの大膨張の時代に入っていた。

(※赤は唐の同盟国、属国、親唐国など唐の勢力圏、緑のアラブ(イスラム帝国)は実効支配下)



東アジアの果て「和国」も海を渡った別天地ではいられなかった。



唐は中国を支配すると、サマルカンド、クチャ、突厥など、中央アジア・北アジアの国々を次々と下し、チベットには唐の王女を降嫁し、インドには王玄策を派遣して内乱に乗じて政治干渉をし、親唐国に収めていた。

天下三方を平定した唐は、残る東方へ兵力を向けることとなる。

東西からの挟撃を怖れ、唐は西アジアの強国アラブとの接触を警戒、西側にペルシア都督府を設置し元ペルシア王子を都督として防備させ、

そして東アジアの強国・高句麗を滅ぼすことに全力を注いだ。

高句麗、新羅、百済、和国の王や部族達は保身のために国を売り、

東アジアの国々が唐に臣属していく中で、

反唐の志を強く貫いた壮士達が最後まで大国唐と戦い続けた戦乱の時代だ。


そして和国という国は消滅し、日本国が生まれる。

日本国はこの大戦期を生き延び、

唐、新羅、高句麗、百済が滅んだ後の、千年、千五百年先の

未来まで続いていく強い国になった。

大戦期の新羅は、唐の臣国となり、百済は滅ぼされ、

この状況から高句麗までもが滅ほろされてしまい

極東アジア全体が唐賊の支配の驚異に曝されていく中でも、

和国で反唐政権を維持し、

唐軍の進撃から極東を守り抜こうとした英雄が、

高句麗人イリ(=大海人皇子・天武天皇)であり、

新羅で反唐の旗を掲げたのが、イリの実子文武王だった。

イリは、当時の風習で、実子を手元に置かず信頼できる者の元へ託し、

隠し子として育てさせる事をしていた。

イリから実子を預けられた者は、動乱の時代の中で、

イリの子を自分の子として見事に育てあげた。

高句麗では、テ・ジュンサン将軍に預けその子は「テ・ジョヨン」という名で育ちます。

和国では、中臣鎌足に預けその子は「史」という名で育ちます。

新羅では、金ユシンの元で育った金法敏が文武王になった。

皆、反唐の志が強く、心の奥底で繋がっていた。

イリ(天武天皇)が亡くなった後も、イリの子供らは反唐を貫き

テ・ジョヨンは高句麗の地に『渤海国』を建国し、

新羅の文武王は、唐賊を半島から駆逐します。

和国の中臣史は、やがて

日本国の藤原不比等となり、藤原氏の貴族時代を築きます。

一時期、イリの子供達がこうして半島から列島の列強国として居並んだこの頃に、唐国との戦争の時代が終焉します。


『渤海国とは兄弟の如く仲が良い』と史書にありますが、文字どおり兄弟でした。

(※藤原姓=「○原」は、安原王、平原王、陽原王など高句麗王号に使われる為、高句麗王名が由来との説あり。【原】自体は「中心地」「主要」といった意味がある。フジは、上古の昔に徐福が『不死』の霊薬を日本列島に探しにやってきて富士山にそれを求めた。不死は=富士山の語源であるといい、『フジ』はそのまま日本列島をさす呼び名となったという。これを引用すれば、フジ・ワラとは、「日本の中枢」という意味になる)


八坂にスサノオを祭った高句麗人イリシと、高句麗人イリ(天武天皇)が同一人物かはわかりませんが、その語韻からはどうしても

この高句麗人イリ(天武天皇)という存在を想起せずにはいられませんでした


天武天皇は多動多彩で、一つや二つのエピソードでは全くつかめませんが、

本当にいくつものエピソードが重なって、重なって、

初めておぼろげに見えてくるような方です。

一応、

牛頭天王=高句麗人イリ(大海人皇子・天武天皇)もなぞってみました。

牛頭天王は、

「牛」の「頭」と書いて、容貌魁偉であるという外見を表す。

中国側の史書でイリは、同様の意味で、

「風貌が猛々しく体躯は逞しい魁塁の士」と、その立姿が評されていた。

容貌魁偉な仏像=イリがモデルとも

仏教の守護神である牛頭天王は、仏教と対立する

ヒンズー教の女神ハリサイ女を妻にしたという。

(※ハリサイ女=南の竜宮に住むという竜王の娘三女のうち末妹。諸説あり)

仏教は台頭してきたヒンズー教に押されて衰退した。

イリは、

対立する天智系の姫を娶り妻にした

皇統は、天智天皇系に移っていき天武天皇系は衰退した。

容姿だけでなくエピソードが同様であることも、重なっている🤔

イリは、

極東アジアにあっては唐賊を攘夷した英雄かもしれませんが、

和国にあっては天智天皇系の王権の簒奪者だった様で、

ありのままでは知られない存在。

天皇家の菩提は天智天皇系を弔い、天武は存在しません。


しかし、例えどのような事情があったとしてもこれほど強力な存在を全く

祭らないというのは考えられません。

天武天皇を倒した側が、高松塚古墳に呪術的に祀ったと云われていますが、

天武天皇側に関わりのあった人々が祭った神社も、きっとあるはずです。

金沢の加賀百万石・前田家の『尾山神社』神社の時の様に、

名前を伏せたまま、ひっそりどこかで祭られているかもしれません。

✨✨✨✨✨

長い話しを読んで下さってありがとうございました🙏✨


終わりに~

神社や遺跡を巡っていると、

凛として心が澄まされる様な場所、

何故か、ほっとする心休まる場所、

懐かしさを感じる場所に、時々出会います。

何故か嵐や雷⚡地震に遭遇したり、

何かが共鳴しているとしか思えない様な不思議な出来事もあります。


例え有名な観光地でなくとも、ひっそりとした場所でも

そこに立っただけで涙が溢れてくる様な、、

自分だけの聖地と呼べる、スポットです。

古い先祖がいない人はいませんので、

誰にでも、始祖さま、祖神さまが、

必ずいて日本のどこかに祭られています。

聖なる国日本✨へ、出かけてみて下さい。


気になる神社や

気になる場所はその目印になってくれるかもしれません⛩️

神社の後ろの杜

小さな祠や石段の途中、何かしらを感じるかもしれません✨

仏教で祭られる様になる、以前、

もっともっと古い昔から

魂の故郷の様なその場所で、

やって来るのを待ち続けている

祖神様が優しくあたたかく迎えてくれる、

そういう場所は、誰にでも必ずあると思います✨

~聖なる国 日本✨



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