ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

クソ暑いからマッド・ハイジで納涼大会

2023年07月31日 | 映画
クソ暑い休日、ならば暑気払いになるような映画をと新宿武蔵野館でR18指定の「マッド・ハイジ」を鑑賞。あの「アルプスの少女ハイジ」が成長して、恋人(黒人のペーター)や祖父(片目眼帯のおんじ)を殺した独裁者に復讐するという、エログロナンセンスなスイス製アクション映画。
監督はヨハネス・ハートマンという素性はよくわからないスイス人らしいが、明らかにタランティーノフリークで、このハイジも元ネタはタランティーノ経由の「さそり」だろう。復讐と女収容所での格闘、脱獄、変態的な収容所長(ロッテンマイヤーならぬロッテンワイラー)、暴力的な女囚などなど、ハイジはナミかと思いつつも、上映時間92分という適切な時間に収めたところはB級感たっぷり。マッターホルンを背景のアルプスの大自然に展開されるスプラッターは、思わず笑ってしまう。
何よりもスイスという国を徹底的におちょくっていて、永世中立国スイスと言った好感度イメージを粉砕してしまうのが面白い。1分遅刻しただけで時計の国に相応しくないと処刑されたり、ビクトリアノックスでは人は殺せないとか、何よりも独裁者が作るチーズしか食べることは許されないチーズ独裁国家スイスという設定に、これはチーズ嫌いな製作者が作ったに違いないと思った次第。
冒頭から情事を終えた裸のハイジとペーターのベッドでの会話から始まるあたりから期待大だったが、エロな部分はほとんどなくて、もっぱら血しぶきゆえの18禁映画でありました。ハイジとさそりを易々と合体させてしまう、こういういい加減さがまかり通るから映画は面白い。

 
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タイトルはイマイチだがアルトマン「雨に濡れた舗道」はサイコスリラーの傑作

2023年06月04日 | 映画

ロバート・アルトマン監督の長編3作目1969年の「雨に濡れた舗道」を角川シネマ有楽町で鑑賞。日本語タイトルは最悪だが(原題はThat Cold day in the park)、タイトルからは想像できないサイコ・スリラーの傑作。というかアルトマン特有の変態的心理劇というべきか。ストーリーは、裕福な独身女性フランシスが家の窓から見える公園のベンチに雨の中ずぶ濡れになっている若者を見つけ、助けたのがきっかけで2人の間に奇妙な関係が生まれ、やがて女性の中に眠っていた狂気が目覚めていくというもの。
ありそうなお話なのだが、徐々に狂気へ至るフランシスの心の変化を、鏡や影、ドキュメンタリー的な手法などを駆使して展開していく。冒頭、ホームパーティに友人を招いていながら、窓の外の雨に濡れる若者が気になって仕方ないフランシスの、それを悟られまいとする無表情から、いずれ何かが起こるとは想像がつくのだが、サプライズ的な演出もことさらサスペンスフルな場面もなく、とにかくじわじわと怖さが染み出してくるような映画なのである。忘れられた傑作の一つだろう。
カメラは「イージー・ライダー」も手掛けたラズロ・コヴァック、主演のフランシスをサンディ・デニスが演じている。日本初上映の初期作品「イメージズ」、傑作「ロンググッドバイ」も上映中。

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ジョニー・マーサーの曲がたっぷり聞けるイーストウッドの快作「真夜中のサバナ」

2023年05月31日 | 映画

今日はクリント・イーストウッドの93歳の誕生日。そんなわけで、イーストウッド監督作品で最も人気のなかったとも、失敗作とも言われるのですが、僕の大好きな映画の一つである「真夜中のサバナ」を。

イーストウッド監督作品としては20作目、あの「マディソン郡の橋」の後の作品で、本人が出演していないのは「バード」以来。そんなことより、舞台になっているジョージア州サバナは、作詞・作曲家として知られるジョニー・マーサーの生誕地。実際この映画でもマーサー邸が舞台になっているのですが、とにかくマーサーの曲がたっぷり聴けるというのが魅力。イーストウッドはマーサーのドキュメンタリーも作っているくらいで、この映画もマーサー愛に溢れたフィルムです。

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ドン・シーゲル監督「殺人者たち」はナンシー・ウィルソンが歌うToo Little Timeとシェルビー・コブラの暴走の競演に酔う

2023年03月02日 | 映画

とある仕事がひと段落して、無性に映画館で映画が観たくなる。間違いなくこれぞ映画という映画が観たい。そうだ菊川のStrangerでドン・シーゲル特集をやっているではないか。時間を見れば「殺人者たち」(1964年作品)に間に合いそうだ。

全国広しといえどドン・シーゲルをまとめて観られる映画館なんてここしかない。リー・マービン、アンジー・ディキンソン、ジョン・カサヴェテス、ロナルド・レーガンというキャストを聞いただけでぞくぞくする。

冒頭、クローズアップの黒眼鏡に映る黒眼鏡の男リー・マービン。ずかずかと2人で盲人施設に入ってゆき、受付の老女を恫喝し、挙句におもいきり床に叩き落すという荒業。リー・マービンの相棒クルー・ギャラガーは、花瓶の花を抜いて水を机に意味もなく流し、呼び鈴をチンチンとこれも意味なく鳴らし続ける。その後2人は銃を取り出し、マービンは皮の鞄から、いかにも重たそうなサイレンサー付きのコルトを取り出す、二階へ上がり、お目当ての標的ジョン・カサヴェテスにこれでもかと銃弾を浴びせ、さっさと施設を後にする。この一連のシークエンスの無駄のない展開とアクションに、ああ、今日はこの映画にしてよかったと心底思うのだった。

そして殺人のあといきなり走る列車のショットに代わり、コンパートメントで向かい合う殺し屋二人に切り替わる。これもまた見事な展開だ。こんな塩梅にこの映画の魅力を語っているとキリがないのだが、映画的な拵えのすばらしさだけでなく、この映画はいろんな楽しみ方ができる点でも稀有な作品だ。

まず、政治家になる前のドナルド・レーガンが重要な悪役として出演していること。レーガン最後の長編映画と言われている。

レーガンとその情婦のアンジー・ディキンソン

また、レーサーのジョン・カサヴェテスがレースで乗る車が、1962年デビューして間もないシェルビー・コブラ260で、フォードの4.2ℓV8エンジン搭載の車の爆走が観られるのも楽しい。映画の中ではレース中の事故で炎上するのだが、この炎上シーンは、レース場で実際に起きた事故の映像だという。

さらに、カサヴェテスを色気で悪の道へ引きずり込むファム・ファタル、アンジー・ディキンソンが、カサヴェテスと2人で踊るナイトクラブの歌手が、ナンシー・ウィルソン。そこでピアノトリオをバックに歌っている曲が「Too Little Time」。ヘンリー・マンシーニが「グレンミラー物語」のテーマ曲として提供した曲で、映画のその後の展開を考えると、まさにつかの間のお楽しみではある。こういうところも泣かせます。ところで、ナンシーは生涯70枚以上のアルバムを残し、いわゆるスタンダードといわれる曲はもれなくアルバムにしているのではないかと、この曲を歌っているアルバムを検索してみたのだが、全くない。だから、ナンシーの歌は「殺人者たち」でしか聞けないのである。とても素敵なバラードなので、トロンボーンのビル・ワトラスとヘンリー・マンシーニ楽団の演奏とアニタ・カーシンガーズのコーラスをはっておこう。

Henry Mancini & Bill Watrous, 'Too Little Time' - Bing video

Henry Mancini & Bill Watrous, 'Too Little Time' - Bing video

 

ちなみにこの映画の音楽は、ジョニー・ウィリアム、のちの映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズであります。

映画の終わり近くで、アンジーを連れてホテルから出てくる暗殺者ふたりが狙撃される俯瞰ショットに続き、ライフルのケースを肩にかけたレーガン、そしてレーガン亭でアンジーと落ち合う室内シーンから一気に爆走してくるリー・マービンのセダンの画面に切り替わる展開は素晴らしい。これこそ映画だと大満足の夜なのだった。

モノクロ三作は未見

札束をにぎったレーガン

 

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レジェンドというならなぜ中島貞夫監督に撮らせないのか東映70周年のレジェバタの残念なわけ

2023年02月07日 | 映画

竹箒が路上の枯葉を掃くクローズアップのショットから始まり、やがてそれが何かを迎え入れるための城内へ続く道の清掃だったことがうかがえるロングショットに切り替わる。何かがやってくる気配に、城門の周辺ではしゃいでいた悪童たちが、道の向こうを見渡せる櫓へと走り出す。その先頭をリーダーと思しき男が、三層の櫓の階段を一気に駆け上がる。これをワンショットで捉えたカメラの動きに、何かが始まる期待感が高まる。城内に迎えたのは輿入れの帰蝶(濃姫)一行だが、ここから信長と帰蝶の初夜までのアクションは悪くない展開だ。とりわけカメラの芦澤明子のカメラワークはこの映画唯一の救いと言ってもいいだろう。このカメラあってこそ、綾瀬はるかの卓越したアクションも生かされていると言える。また、東映京都のセットづくりや美術はさすがだと思わされた。


だが、この映画の良いのはここまでで、この後本能寺の変まで続く、信長と帰蝶の30年のラブストーリーは、なぜこの二人が惹かれ合うのか明確な場面もない。足利将軍の案内役で京へ上った時、平民の格好で市中へ出かける二人が唯一夫婦らしい振る舞いで、この時信長が帰蝶に送った置き物がその後の二人を結び付けている証として示されるが、シンボルとしての求心力に欠ける。


摺の非人の少年を追いかけてその部落へ迷い込んだ末に、その老若男女を切りまくる二人とその後のまぐわいにどんな意味があったのか。信長を普通のヤンチャな男として描きたかったのだろう。聡明な帰蝶に対し、信長はただのうつけで、決断力もない暴君。それには木村拓哉の素がうってつけだったとしても、信長をそこまで引きづり下ろす意味が果たしてあったのだろうか。挙句にうつけが魔王へと変わり、その資格を失って光秀に討たれるという、よく分からぬ展開。


脚本は、大河ドラマ「どうする家康」と同じライターだが、歴史的に偉人と言われている人物を現代的な味付けでの悩める人として描き、それが聡明な女性の登場によって成長の階段を登っていくというのはどちらも同じだ。映画は帰蝶、大河はお市である。だが、どちらの作品もこの二人が一緒に登場することはない。この映画でもお市など全く存在しないかのように影も形もないのである。


もちろんフックションなのでどんなストーリーで描こうと勝手だが、一本の作品としての説得力は必要だろう。歴史の出来事をすっ飛ばしすぎたため、信長がなぜ魔王というまでになったのかわかるような場面がない。比叡山攻略の殺戮は結果であって、魔王が前提のふるまいだ。結局、信長と帰蝶のラブストーリーに絞ったため、だがその展開に極めて重要であろう歴史的出来事が端折られてしまった。だからなぜこの二人が惹かれ合うのかが一向に分からない。


そもそも東映は、何がしたかったのか。当代きってのスター二人の組み合わせならヒット間違いなしと踏んだのだろう。監督も脚本も旬の二人。だが、どう考えても映画ではないのだ。テレビの連続ドラマの作りなのだよ。それでもう少し作り込めばテレビとしては面白い作品になったかも知れぬ。


映画、せめて長くて2時間にでもまとめるつもりでスタートしていれば、こんな無様な作品にはならなかったのでは。さらに言えば、レジェンドというなら、時代劇に長けたあの中島貞夫監督がいるではないか。なぜ、このレジェンドに撮らせないのか。それこそ東映三角マークへの敬意というものだろう。


製作費20億と言うには、主役以外の配役はしょぼいし、戦国もので合戦シーンがないとは、一体どこに金を使ったのだろうと、突っ込みどころ満載の映画なのだった。それにしても木村拓哉は、撮影所育ちもしくは国際的に評価された監督の映画にメインで出ているのは「武士の一文」くらいしかない。そこがスターとは言え、この人に決定的に欠けている経験なのだ。まだまだ映画スターなどとは言えない存在なのだ。だからこそ中島貞夫監督に撮らせたかったのだが。

今年70歳になる身としては、東映映画とともに生きてきたと言ってもいいのだが、70年を祝う映画がこれでは、ちと寂しい。

こんなポチ袋がモギリのお姉さんから貰えた。

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あのキツネは本物?CG? グリーン・ナイトの水先案内人

2022年12月07日 | 映画

デヴィッド・ロウリー監督「グリーン・ナイト」はミゾグチの「雨月物語」や「雪夫人絵図」の一場面を彷彿とさせる。とりわけ旅の途中で出会う、泉のなかの自分の首をひろってきてくれという女の幽霊と小屋から泉へ下っていく横移動のシーンなどはミゾグチそのものではないか。

それにしても途中から旅の水先案内人になるキツネの動きが素晴らしくて、これは本物なのかCGなのかと考えるのも面白い。丘の向こうの霧のようななかをゆっくりと動く女人の巨人も素晴らしい。冒頭、娼館で目覚めてからアーサー王の宴席に列席し、グリーンナイトが登場するまでのテンポの良いカメラワークが一気にファンタジーの世界へ観るものを引きずり込んでいく。あまり評判にならないが、シネコンで観られる最良の作品と思う。

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バーバラ・ローデン監督「WANDA」は傑作

2022年08月03日 | 映画

バーバラ・ローデン監督「ワンダ」(1970年作品)を、渋谷のシアター・イメージフォーラムで鑑賞。ローデン監督はあのエリア・カザンの23歳年下の妻で、本作は、主演と監督をバーバラが務め、処女作にして遺作という伝説的な映画。というのも38歳でこの映画を作りその10年後、癌で48歳にして亡くなってしまったからだ。
16ミリで撮影し35ミリスタンダードサイズでの上映。ざらついた画面とドキュメンタリー風の手持ちカメラの生々しさ、それでいて映画の骨法をわきまえた無駄のないショットと話法は、音楽を一切使わないだけに観るものに緊張感をもたらす。70年代といえばアメリカン・ニューシネマがもてはやされたが、この傑作の前では、お遊びに過ぎないと言わざるを得ない。
酒を飲む他、子育てや家庭生活になじめないペンシルベニアの炭鉱の主婦ワンダが離婚を機に、偶然飛び込んだ酒場にいた小悪党のデニスと行動を共にし、犯罪に手を染めていくというロードムービー。運転はできるかと聞かれて、なんとかなる的な答えをしたワンダのドライビングシーンはドキドキだ。助手席のデニスに向かって話しかけるワンダを助手席からとらえてショットに、お願いだからワンダ前を向いてくれと呟いてしまうのだった。ちなみにこの運転のシーンは「勝手にしやがれ」のミシェルの運転シーンを思い浮かべてしまう。

それにしても泥沼のベトナム戦争の最中、厭戦気分が高まってきた時代のはずだが、「ワンダ」では不気味なほどその気分が感じられないのだった。傑作です。

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成瀬巳喜男松竹時代のサイレント映画を観る

2022年06月28日 | 映画

松竹時代の成瀬巳喜男監督1933(昭和8)年のサイレント映画「夜ごとの夢」(64分)「君と別れて」(72分)を、池袋の新文芸坐で観る。「夜ごと~」は港町のカフェで働くシングルマザーが、息子を育てながら自立して生きていく困難さを描いたドラマ。「君と~」は、家族を養うため芸妓になった若い女性と先輩芸者の一人息子との恋と苦悩を描いたもの。

成瀬監督3年目の作品だが、すでに30本近い作品を撮っていて、「夜ごと~」では当時のトップ女優である栗島すみ子が主演を務めている。また、「君と~」の若い芸妓を演じた水久保澄子は、若いころの浅丘ルリ子を思わせるかわいらしさで、すっかりファンになってしまった。

両作品で成瀬監督は、様々な撮影技法を試しているかのようで、そのショットが何か生々しい高揚感をもって観るもの刺激してくるのである。「夜ごと~」の父親役斎藤達夫の強盗、逃亡から始まる後半のスピード感のある目まぐるしいカット割り、鏡、橋、水、階段といった成瀬的な主題の展開。「君と~」の電車内の座席に並んだ男女二人を正面からとらえたショットと、その二人を車外からとらえる切り返しの見事さ。光と影のドイツ表現主義的な使い方などなど、2本で2時間ちょっと。最近の映画は2時間を退屈に過ごすことも少なくないが、充実した映画体験だった。

今回の上映は、澤登翠、片岡一郎が弁士。また「夜ごと~」は古賀政男作曲「ほんとうにそうなら」が主題歌になっている。これは赤坂小梅のデビュー曲で、古賀初の三味線歌謡だった。もちろんサイレントなので実際に音は出ないわけだが、おそらく松竹とコロンビアのタイアップ企画だったのだろう。今回の上映では、タイトルのバックミュージックとしてこの歌が使われていたが、歌詞の内容も曲調も映画の内容には全く合わなかった。また、明治製菓もタイアップしているらしく「夜ごと~」では無職の父親の靴底の穴を子供が明治キャラメルの箱で繕う場面や、「君と~」では、電車の中で芸妓の娘と学生が明治チョコレートを分け合う場面があって、かなり露骨なプロモーションが展開されているのがおかしかった。(お菓子だけに)

サイレント映画に弁士がつくというのは日本の独特の文化で、今回は弁士50年のベテラン澤登翠と弟子の片岡が演じた。弁士もいわば伝統話芸として継承していくことはよいことだが、僕はサイレント映画を観るためには、むしろ不要という立場だ。

当日は、中央の席はほぼ満席で、年配の方が多かった。恐らく弁士の話芸を楽しみにしてきた方も多いだろう。しかし、どうしても弁士の口上に引っ張られるし、強制されるのが煩わしいとも感じた。無声で観たかったかな。

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恋の罪」(園子温監督) 思わせぶりなタイトルに艶やかな蛾のように群がる女たち

2011年11月18日 | 映画
 園子温監督「恋の罪」を観た。

「恋の罪」などという思わせぶりなタイトルに、それが話題の監督園子温ならさぞかし女性の情感を巧みに描いてくれるのだろうと思っているのか、あるいはおそらくはじめて観るだろうR18+の映画という設定も、少し冒険してみたい気分と共振するからなのか、テアトル新宿の座席は満席で、しかも三分の一強は女性で占められていた。まるでネオンに群がる艶やかな蛾のようであり、それはそれで製作者のねらいどおりだったのかもしれない。だが、すでに日活ロマンポルノを体験している者にとっては、「恋の罪」はその延長線上の映画にすぎないし、何でもありのロマンポルノでは、こうしたエログロ・サイコサスペンスも珍しくはなかった。ならば、2時間20分という上映時間は、それだけで何か大作めいてはいるのだが、せいぜい90分にまとめられてしかるべきだろう。

 冒頭の水野美紀の“インモーアル”ヌードにはじまり、主演の神楽坂恵、富樫真の3女優がいずれも裸体・インモーを晒す近頃珍しい映画で、その点は日頃「脱げなきゃ女優ではない」とおっしゃる園監督の面目躍如というところと、喝采を送りたい。だが、ここにはタイトルどおりの恋の罪など描かれていないし、少し日常を変えてみたい、危険な恋もしてみたいくらいの気持ちでこの映画に接した女性は、果たしてどんな思いで映画館を後にしたのかきいてみたいものだ。

 スクリーンに映し出されるのは、男性の性のはけ口としての女体であり、性の喜びとは無縁の裸体と堕落の証しとしてのまぐわい、そして無残に切り刻まれ腐乱した女性の死体である。夫の後輩と浮気する女刑事、几帳面な夫に従順に尽くす作家の妻、昼は大学の助教授、夜は円山町の街娼である良家の女、そしてその母、いずれもがいささか劇画チックに描かれ、「服従させ・される」男女関係の中の女として立ち振る舞う。やがてこれは、東電OL殺人事件に着想を得たリアルな物語などではなく、現実を誇張したエログロ・サイコな戯画の体裁をとる極めて観念的な、言葉はいかにして肉体化できるかなどといったテーマを含む観念劇なのだと理解したくなるだろう。思うに富樫真演じる街娼のイメージはバタイユの「マダム・エドワルダ」に着想を得ているのではあるまいか。そしてスクリーンの表層にうごめく裸体など、実はどうでもよく、言葉として語られる「城」、決して行きつけない、周縁をまわり続けるしかない城に象徴されるもの、それが何かは分からないが、おそらくそういうものをこの映画のテーマにしたいのだろう。70年代風に言えば、都市の聖なる空間である皇居という「城」に、俗の象徴である円山町のアパートの「城」を対峙させ、現代の虚無を描いた物語とでもなるだろうか。
 
 物語は、円山町という都市の異空間の磁力が3人の女を引き寄せながら展開する。フランツ・カフカの「城」が引用され、あたかも円山町、とりわけ廃墟のような安アパートが城であるかのように提示され、3人の女とそれをめぐる男たちが、その周縁をめぐっていく。街娼の女助教授は、毎日、安い料金で男とまぐわい、堕落の底を探る果てしない旅を続けている。そして金銭を介在させることで性は自由を勝ち取ることができると、堕落の入り口にいる作家の妻を堕落の深みへと誘うのである。作家の妻と街娼の女助教授が出会うのは、退屈な日常からAV撮影にかかわったことで女性性に目覚めた作家の妻が、円山町のホテルで地元のポン引きに弄ばれ後悔して彷徨っているときだった。作家の妻にとって、異彩を放つ街娼の女性性を無化するふるまいは驚愕であり、その強力な磁場に引き寄せられるのだった。街娼が向かうのは円山町の廃墟のような安アパートであり、これこそ城であると街娼はいうのである。そして、肉体を無化するまぐわいによって街娼は限りなく自由と虚無を手に入れるのだろう。

 だが、こう読めばまるでダークファンタジーとして成功を収めているかに見えるが、過剰なまでの音楽や演技、使い古されたサイコ・サスペンス的な展開では、到底現代の虚無などにたどりつけない。

 物語のプロットなど通俗的でかまわないとはいえ、あまりに意匠が古すぎる。この物語のコアである、街娼に堕落した女助教授も、父との近親相姦的な関係が示唆され、それに嫉妬し父の血を呪う厳格な母という、結局は家や幼児体験が歪んだ人格をつくり出したという解決の仕方であって、これでは特殊な事情を持つ異常な人間を描いたにすぎなくなってしまう。とりわけその母の異常ぶりによってよくあるサイコ・サスペンスとしての物語が補強され、それはあたかも物語の中心を放棄するふるまいであるかのようだ。だから、本来女助教授の鏡として機能すべき作家の妻の存在が宙に浮く。まだ堕落の入り口にあった作家の妻が、女助教授の堕落ぶりに魅了されるのは、同じ日常性を持っている女性がこうも変化できることへの憧憬があるからだ。だが、単なる異常者では、作家の妻がやがて同じ道を歩んでいくことの必然性へとつながらない。中心が陳腐化することで、中心としての意味を失えば、罪と知りつつSな浮気相手の無理強いを拒否できない女刑事の存在はいったい何なのか。女刑事がこの事件から何を得たのかが全く伝わらない。間に合わなかったゴミ収集車を追いかけたまま失踪してしまった主婦のエピソードをなぞるように、ラストでゴミ収集車を追いかける女刑事がたどりつくのは円山町なのだが、これは女刑事そのものが世界の迷宮に迷い込み、また入口に戻ったという城の物語の表明なのだろうか。少なくとも街娼という非日常を抱えた女が殺されたこととの関係で女刑事の不倫のその後が語られなければ、女刑事の存在そのものがただのサスペンス仕立ての道具にすぎなくなってしまう。

 おもわせぶりなタイトルと同様、港町に流れ着いた作家の妻が港で子供に放尿してみせるシーンの意味は何なのか。妻は、港町の街娼に身をやつすのだが、ショバの仁義を無視してヤクザのリンチにあい、道ばたに寝ころびながら「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という田村隆一の詩の一節をつぶやいて映画は終わる。

 この映画が着想を得たであろう「東電OL殺人事件」を書いた佐野真一さんの目的は、犯人に仕立てられたゴビンダさん救済だったが、当然ながら殺されたOLの心の闇に迫ろうとした。しかし、あまりの闇の深さにたじろぎながらも、安易にその理由を家庭環境に求めて解決しようとしなかった。それを思うとこの映画の陳腐な解決の仕方は、カフカの城も田村隆一の詩も、単なる思わせぶりな装置や道具にしか感じられないのだった。
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「海炭市叙景」「マイ・バックページ」「東京公園」という日本映画について

2011年06月21日 | 映画
 すっかりブログを書かなくなっていた。ツイッターが気楽でいいからだ。フェイスブックは、どちらかというと仕事上のネットワークづくりというか、否応なくそうなっているので、そう積極的に使っていない。ただ、ツイッターにしてもファイスブックにしても、毎日フォロワーからのメッセージやツイートがあるので、それをチェックしていると、なんだかすぐ時間がたってしまう。

 それに、なんといってもツイッターで、「つぶや句」という俳句を始めたのが大きい。毎日「季題」がリツイートされてきて、その季題に合わせて作っていたら、なんだか、自分勝手に作っていた頃よりも、上達したような気分になってきたのだ。そうこうするうちに、そろそろ200句に達する塩梅なのだ。とりあえず年内に1000句めざそうというわけで、毎日17文字をひねっている。

 そんなわけで、なんだか一時夢中で読んでいた西村賢太、佐藤泰志などの小説の類もこのところ停滞気味だ。根気がない。買ったままの文庫本が増えるばかりだ。

 その一方で、映画館には近年になく足を運んでいる。4月から観た映画。封切は、青山真治監督「東京公園」、山下敦弘監督「マイ・バックページ」、マイケル・ウィンターボトム監督「キラー・インサイド・ミー」、アーヴィン・チェン監督「台北の朝、僕は恋をする」、再上映で熊切和嘉監督「海炭市叙景」、名画座は、加藤泰「遊侠一匹」「緋牡丹博徒 花札勝負」、テオ・アンゲロプロス監督「エレニの旅」「蜂の旅人」、エドワード・ヤン監督「ヤンヤン思い出の夏」。多くはないが、できれば週一くらいは映画館に行きたい。

「海炭市~」は小説がよかったので、映画もぜひ見たいと思っていたところ下高井戸シネマにかかっていた。関係者のツイッターに煽られて、さぞや満員ではと思ったのだが、意外や空いていた。

 ロケ地の函館の市民の協力なくしてできなかった映画だが、その志が非常に高いのが、この映画を傑作にしたといってもいい。冒頭のタンカーの進水式もそうだが、市や市民の協力なくしてこんな場面は撮れまいと思うシーンによってこの映画の力強さは支えられている。それは、最近観た「マイ・バックページ」が70年代を描くのにいかにロケ地に苦労していたかがありありとうかがえるのを見れば、なおさらそう思わないわけにはいかない。

 オールロケで、しかも素人の役者を使い、複数のエピソードで構成される物語をクランクインから約一か月で撮ってしまったというのは、今日では奇跡的だろう。熊切監督は、時間や予算もあるだろうが、一つひとつのシークエンスをほぼ固定の長回しで撮り、役者の緊張感ある演技を引き出している。だから観る者はスクリーンにくぎづけになり固唾をのむ。

 冒頭のストライキに入る造船所の労働者たちが赤錆びた造船所の壁を背景に佇むショットは、この映画のすばらしさを予感させた。僕は、小説を読んだときカウリスマキ的世界をイオセリアーニ的長回しでエピソードを関連付けながらつないでいったら面白かろうと思っていた。出来上がった映画は、むしろジャ・ジャンクーを思わせた。

 脚本は、小説をベースにしながらも、映画「海炭市」としての物語を再構築しており、暮れの同じ時間を共有する海炭市に住む複数の人々の身に起こる出来事を描く。終盤、大晦日の路面電車に、登場人物が乗り合わせる場面がある。ここで複数の物語が出会うことになるが、それぞれが自分や家族と向き合うことによって再生していくという物語の骨組みがより鮮明になっていく。この映画が地元の人々の深い愛情に支えられているように、ここに出てくる人たちの誰もが、故郷である海炭市が人生の拠り所になっている。故郷を離れた路面電車の運転手の息子さえも、家には帰らなくてもこの街には帰ってくるのだ。街も人も変貌する。だが、海炭市を通過することによってしか再生できない人々の物語を真正面から描いている。ときどき挿入される海炭市の俯瞰ショット。銀色に輝く海の風景は、津波に襲われた東北の街の俯瞰ショットに似ており、あの津波で流されたのもまた、この映画に出てくるような、問題を抱えながらも再生に向かって生きている人々なのだと思うと涙が出てくるのだった。

 「海炭市~」に比べ、「マイ・バックページ」は、70年代の風景をロケで描くことの難しさを感じさせた映画だった。新聞社や下宿屋、バリケードの廃墟など室内はどうにかなる。屋外は時代劇より難しい。それにしても、いまこの原作を映画化する理由が終始僕には分からなかった。革命を夢想する遅れてきたおちこぼれ青年とその言動に共感してしまうエリート新聞記者。単にCCRの「雨を見たかい」を一緒に歌った(この長回しのシーンはよい)から共感してしまったのか。安田講堂に参加できなかった後ろめたさで、威勢だけはよい革命家気取りの男に、なぜ共感してしまうのか。

 妻夫木は好演しているし、山下監督の演出や近藤カメラマンの撮影も悪くない。だが、物語のプロットがいささか弱い。自衛官殺しの首謀者に対し「彼は思想犯だ」と擁護する(擁護するほかはない)主人公の心情が今の若い人たちに理解できるだろうか。第一、革命家気取りの松山のどこに魅かれるのか。カリスマ性みたいなものが全くない。騙されても仕方ないよなと得心できる部分がない。だから観る側が、松山にも妻夫木にも共感できないのだ。それは原作の悪さだろう。まあ、若い映画人が悪い原作をあたえられちゃったなと同情したくはなる。そもそも、自らの70年代体験を、ボブ・ディランを借りて「マイ・バックページ」などと感傷的なタイトルで総括してしまう時代の気分だけには目が利く原作者に僕は共感できないのだ。

 僕は、山下監督や近藤カメラマンの才能以外に、この映画に見るべき価値があるとすれば、それは、3.11以降、マスコミ周辺に正義の装いをしたペテン師が跋扈していることへの警鐘としてこの映画は機能するかもしれないということだ。「自粛」「被災地のため」「反原発」などを旗印に、市民のうしろめたさ、ルサンチマンを正義へと収斂させていく力こそ、妻夫木が共感してしまったものと同じなのだ。これに加担してはならぬ。

 「海炭市~」も「マイ・バックページ」も自分と向き合うことで再生を試みる映画という点で共通しているように見える。そうした意味で青山真治監督「東京公園」もまた、愛と再生の物語だ。いや、もっと強烈なファンタジーでありゾンビ映画で、それは同じゾンビ映画の黒沢清「東京ソナタ」への青山監督からの返信でもあるのだろう。

 まず、アントニオーニ「欲望」を思い起こしながら観たのだが、カウンターでゲイのマスター宇梶剛士(さりげなくゲイだとわかる仕草が秀逸)と春馬が話す姿を斜め後ろからとらえた場面とか、炬燵で三浦春馬と榮倉奈々が会話する切り替えしショットは、脇に置かれたワインボトルの存在まで、誰もがあの巨匠を感じるはずだ。しかし、これは映画的引用とか先達へのオマージュなどということではなく、青山監督が見ることと見られることによって成り立つ映画というものを主題的にとらえながら、自らも映画と正面から向き合い、そして、複雑な事情のある男女の物語を、正面から見つめ・見つめられることによって再生していく愛の物語として、映画にどう構築するかということの答えなのだ。

 アンモナイトの渦と地図上にポイントされる東京の公園の渦、その表層的なイメージは、榮倉奈々、小西真奈美、井川遥という3人の女優の丸い顔につらなって、心地よく画面に収まる。幼馴染でもある榮倉から義理の姉の小西真奈美の愛情を告白された春馬が、直接小西を訪ねその気持ちを確認するシーンは、観る側はその姉の気持ちを知っているだけに、ヒチコックのサスペンスを観るようなわくわく感で春馬がどう向き合うのかと期待する。

 春馬は姉を撮影することでレンズ越しにその心をはかろうとする。食事を終えると小西真奈美が髪をとき、初めて正面から向き合う。「黒い姉さん」とつぶやきながらレンズを向けると、その髪がみるみる黒さを増し、愛の神が降臨したかのようにその強い瞳の力に観る者は圧倒される。それほほどの、愛の光線を放つのだ。やがてソファの上でまたがるように姉にレンズを向ける春馬が姉から離れようとすると、そこに小西真奈美が手を添え、二人はみつめあう。春馬が姉の位置まで腰を屈め、長く見つめあった後、やがて二人は抱き合い、唇を寄せる。最初は軽くぎこちなく、そして深く。やや後ろからワンショットでとらえたこの長いキスシーンは、そのまま二人の思いが共鳴しあう過程をとらえたすばらしいシーンで、映画とはド派手なアクションなどなくても躍動をとらえることができることを証明してみせる。その胸の高まりに息がつまりそうになるくらい感動的な場面なのだ。小西真奈美がすばらしい。井川遥はただ歩くだけ、微笑むだけなのだが、これが美しい。榮倉奈々の丸顔に反してよく伸びた四肢と快活な動き、シネフィルとしてのセリフ回し、とりわけ「瞼の母だよ。加藤泰だよ」なんていわせるあたりがいいではないか。女優の存在感が際立った映画なのだった。

 「海炭市」も「東京公園」も低予算の映画だろう。どちらも短期間で撮られた映画らしい。いまさらながら、金がなくてもよい映画は撮れる。しかし誰かが観なければ映画は成立しない。せっせと映画館へ足を運ぼう。
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