ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

CG最新、セット70年代並の実写版「ヤマト」。エコへの殉死讃歌、いまどき身捨つるほどの地球などありや。

2010年12月07日 | 映画
 実写版「ヤマト」を観る。スペースオペラと銘打たれたかつてのSFアニメが、山崎貴の監督による実写でどのように再現されるのか、そんな興味から劇場に足を運んだ。アニメ「ヤマト」はほとんど観たことがないので、ストーリーも知らない。松本零士が絵を描いていたとかテーマソングくらいは知っている。その程度だ。

 「ALWAYS」で評価された白組のCG技術は、確かに高い技術力を見せているようだ。宇宙空間でのバトルシーンは、もはや「スターウォーズ」でおなじみとはいえ、それなりにスピード感はある。だが、船内のセット、衣装などは、なんとも1970年代的で、TVのウルトラマンを思わせるレトロぶりなのだ。2199年(いまから200年も先の時代だぞ)のデザインやインテリアではないだろうよ。2199年という時代に対する世界観とか創造力が圧倒的に欠け過ぎていないか、この映画は。エロチシズムも感じられない。黒木メイサのボディスーツはもっとボディコンシャスでなければならぬ。

 脚本も悪い。大義のための死が、犠牲的精神として賞揚される、この映画全体を貫く思想はあまりにアナクロで反動的、安易なメロドラマというしかない。ヤマトを守るため仲間を自らの手で犠牲にしなければならなかった黒木メイサとキムタクは、葛藤しながらも、ここでも大義のために正しかったと結論付け、さらにはお互いを慰めあうように抱擁し、二人のまぐわいを連想させてそのシーンは終わる。二人がここでまぐわったことは、メイサをママと呼ぶ子がラストに登場することで想像されるのだが、このまぐわいはあまりにノーテンキ過ぎるだろう。大義のためとはいえ見方を殺したあとだぞ。

 ことほど左様に、この映画はご都合主義に満ち溢れているのだが、テーマは、美しい地球と人類を守ること。「生きて還る」がスローガンになっているが、この大義のために死を賭して若者たちがドンドコ死んでいく。挙句にヤマトは特攻する始末。エコ・ファシズムと殉死の讃歌だ。大義への忠誠と殉死。これこそ、ファシズムとスターリニズムだ。製作のTBSはジャーナリズムの一翼を担う機関として、何故にこのような反動的な物語を、いま社会に発信する必要があったのか。「1945年戦艦大和が死を覚悟で国民を守るために出航したようにわれわれも地球を守るために云々」といったセリフがあったけれど、この戦艦一隻のためにどれほど国費と人命が浪費されたことか。こんなセリフは不要だろう。監督の山崎貴は才能のある人だと思う。もっと別の企画で発揮してほしいと切に願う。
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「映画芸術」に刺激されて私の性愛映画ベスト10を作ってみる。

2010年11月22日 | 映画
 久々に「映画芸術」を買う。1,500円なり。小川徹編集時代の「映芸」はエロとやくざとアートな映画の解放区であり、本のつくりは全く雑だけれど、左翼、右翼入り乱れた批評の熱気とパワーに魅力があり、毎月欠かさず買っていた。欧米におけるポルノ解禁の流れの中で、猥褻論議や、ヘア・本番論争が喧しかった時代だが、常にその論議の主戦場になっていたのが「映芸」だった。日活ロマンポルノ全盛の時代、巻頭のエロなグラビアも学生の股間を刺激していたものだ。1年間のベスト、ワーストを決める特集は、ベストのプラスポイントからワーストのマイナスポイントを引いてベストテンを決めていた(これは今も伝統として継承されている)のが画期的だった。多様な論客による批評の多様性を保ちつつも選ばれた映画は、他の映画雑誌とは一線を画していた。「ルシアンの青春」のシナリオが翻訳されて掲載されたが、その日本語が広島弁になっていたのは笑った。これまた「仁義なき戦い」がヒットしていた時代のご愛嬌だ。

 東映実録路線やロマンポルノが衰退するとともに、そして東西冷戦の終焉とともに「映芸」のパワーも低下し、僕自身の興味も、映画雑誌でいえば「イメージフォーラム」などへ移行していった。その後「映芸」も休刊になり、季刊として復活したわけだが、現在の荒井晴彦編集の「映芸」は業界誌的な色彩が濃く、どうも1,500円を出してまで買う気にならなかった。

 今回買う気になったのは、「映芸」のツイッターを読んで、「映芸」頑張っているじゃないかと思ったのと、私の映画歴みたいな企画で「性愛映画」を特集していたからだ。エロなくして「映芸」はない。いわゆる女の裸が、エロとは程遠い、ネットで堂々と展開されるAVの局部画像、本番(昭和風に言えば)画像に収斂され、映画、映画館、テレビからもエロが消えている時代だからこそ、「映芸」にはエロについてもっと論陣をはってほしいのだ。まあ、季刊雑誌でエロばっかりやっているわけにはいかんだろうけど、欲望が管理され、抑圧されたエロへのエネルギーが、無差別殺人などの犯罪へ向かう時代だからこそ、映像、映画におけるエロが追究されるべきだと思うのだ。もっとエロが解放されない限り、時代の閉塞感や鬱屈した負のエネルギーは解放されないだろう。なんて、まあ、僕のエロへの意識の広がりには、多分に「映芸」が寄与した部分があるので、こんなことをつぶやいてみたくなったわけだ。

 それで、僕自身の「性愛映画」ベスト10を考えてみた。順位は関係ないけれど。性愛映画とは、性と愛の映画ではなく、エロいと感じた映画、情欲を刺激された映画という意味だ。とりあえず日本映画。かならずしも封切時期と観た時期が一致しているわけではないが、小学生から大学にかけて観たものでエロへの意識を広げてくれたものだ。

1.「一心太助」(沢島忠監督・中村錦之介/1961年)
  シリーズのうち「家光と彦佐と一心太助」だったと思う。小学生の時、錦之介の真っ白な股ひきにもやっと気もちになった。
2.「続・おんな番外地」(小西通男・緑魔子/1966年)
  中学のときビートルズの「ヤー・ヤー・ヤー!」とどちらを観るか迷って緑魔子を選んだ。題名が分からなかったが、今井健二と田中春夫がいやらしかったのを記憶しておりこれと判明。緑魔子は顔がエロい。
3.「雪夫人絵図」(溝口健二・木暮実千代/1950年)
  観たのは大学時代。最近改めて観て、エロの極致と思った。木暮実千代は存在そのものがエロ。サディスティックな溝口の演出。
4.「愛の渇き」(蔵原惟繕・浅丘ルリ子/1967年)
  中学のとき新聞広告でルリ子の官能的な表情に刺激された。中身を観たのは大学になって。映画を観ずにエロを感じた映画。
5.「日本昆虫記」(今村昌平・左幸子/1963年)
  これも同じ、映画の看板で、タイトルと写真にエロを感じた1作。実際に見たのは高校のとき新宿の名画座だったと思う。今村の映画では、エロは春川ますみに尽きる。
6.「でんきくらげ」(増村保造・渥美マリ/1970年)
  私の性愛映画ベスト1。なんといっても渥美マリだ。顔も体つきもエロ。高校生の股間を刺激してやまなかった。
7.「狂走情死考」(若松孝二・武藤洋子/1969年)
  高校のとき初めて観たピンク映画。学生服の襟を中に入れて背広のようにしてチケットを買った。もぎりのばあさんは何も言わなかった。「もぎりの私」。大きなスクリーンで男と女が馬鍬っているその姿にいたく感動した。
8.「実録・阿部定」(田中登・宮下順子/1975年)
  大学時代はロマンポルノ全盛期。いろいろあるがあえてこの1作。そもそも阿部定の物語は小学校のとき聞いたそのエピソードとともに、僕のエロへの道を開眼させたと思う。吉蔵役の江角英明がよかった。松林かどこかで立位をやや低いアングルで  とらえたカメラが秀逸だった。
9.「温泉こんにゃく芸者」(中島貞夫・女屋美和子/1970年)
  この秀逸なタイトルをもってベスト10の一角におくべき1作と思う。こんにゃくの効用については、山上たつひこ「新喜劇思想体系」を読むべし。このころの東映エロ路線は相当アナーキーだった。松井康子がエロ。
10.「眠狂四郎・魔性剣」(安田公義・嵯峨美智子/1965年)
  「眠狂四郎」シリーズは、ちょっとエロいシーンが必ずある時代劇だったが、嵯峨美智子が出ているのでこの1作を推す。この人は目、唇、しぐさ、すべてがエロい。

 洋画では、ブニュエルとドヌーヴの「昼顔」がベスト1。双璧はベルトリッチ「暗殺の森」のドミニク・サンダ。マルコ・フェレーリ監督の「女王蜂」、「007 ロシアより愛をこめて」のダニエラ・ビアンキ、「バイバイ・バーディ」のアン・マーグレット、「恋するガリア」のミレーユ・ダルクが中学時代。そして、アニエス・ヴァルダ「幸福」は、中学の時、「サウンド・オブ・ミュージック」と併映でかかっていて、マリー・フランソワ・ボワイエの露わな乳首に興奮した。

 なんだか、私はいかにして性に目覚めたかみたい映画遍歴になってしまったが、洋画編もそのうちしっかりまとめてみよう。

 
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松方の殺陣あっぱれ、吾郎ちゃんの今後をちょっと心配した「十三人の刺客」

2010年10月04日 | 映画
 三池崇史監督「十三人の刺客」をわが街の、いつも空いている映画館で観る。封切間もなくでいつになく入りはよかったが、楽々鑑賞。若い女性客もそこそこいて、これは吾郎ファンなのかどうか。

 工藤栄一監督版のリメイクだが、むしろ、ペキンパーの「ワイルドバンチ」をやりたかったのではないかと思った。工藤版は明石藩士53人対13人の戦闘。三池版では、刺客側は、最初170と踏んでいたが、敵が増員し230人に、これを待ち伏せのしかけで130人までに減らし、ほぼ130対13の戦闘となる。工藤版は、江戸末期の武士が刀を使わなくなった時代の戦闘をリアルに描くという、「七人の侍」のリアリズム風時代劇の発展系だった。その路線を継承しつつ「ワイルドバンチ」的皆殺し(四肢と舌を変態殿様にもぎ取られた女が口にくわえた筆で書き記した文字も「みなごろし」だ)を再現し、より激しいアクションを追求するなら、これはもはや増員しかあるまいとこの数字になったのだろう。しかし、考えてみれば、一人10人倒せば、130人は倒せるのだ。座頭市は数秒で10人を倒す。ならば、この数字、時代劇上は不可能ではない。工藤版と一線を画すなら、目標一人10人といった130人を倒すプランと、13人のそのさばき方を見せた方が面白かった。そもそも、松方弘樹などは、東映時代劇伝統の流麗なる殺陣で、この映画の見所のひとつではあるが、これはもう一人で50人くらいは倒しているのではないか。かつての東映時代劇だと、一度倒れた侍が、再び刀を振り回しているゾンビ的復活はよくあったので、たぶん、敵は300人くらいいたのだろう。それにしても松明を背負って疾駆する猛牛のCGには失笑。

 後半のほとんどを割いた長い戦闘シーン。まだ終わらないのと、あらかじめ時間が決められたプロレスを観るような気分であった。太平な時代に剣を使ったことのない侍たちのリアルな戦闘は、血まみれ汗まみれ泥だらけというイメージにこだわりすぎたのか、その長さは、活劇の醍醐味より冗長されたアクションのみが垂れ流されるだけになった。吾郎ちゃん演じる変態お殿様は、「今日が生きていて一番楽しかった」と、さながらアメリカのネオコンのように退屈な平和の時代を嘲笑うのだが、観ている方がいささか退屈になってしまったのだった。

 それにしても稲垣吾郎は、というかジャニーズがこんな役をよく引き受けたものだ。工藤版の菅貫太郎が同じような役を続けたように、アンソニー・パーキンスが「サイコ」のゲイツ役から逃れられなかったように、吾郎ちゃんはほかのキャラクターができなくなってしまうのではと。まあ、マンフラが心配するこっちゃないけどね。

 三池監督の作品を映画館で観るのは初めてだった。WOWOWなどでは、何本か観たが、この人が鬼才といわれる所以がよく分からなかった。映画における目新しさや奇行を目指している人なのかと思う。前半の抑制の効いた照明とローアングルな室内シーン、戦闘の舞台となる坂道に作られた木曽宿のセットのなどは、悪くない。某監督の藤沢周平もの時代劇よりはるかに良いと感じたのだが、目新しさや過激、暴力的であろうとしないほうがよいのではないか。この監督がおすすめのDVD10枚に、意外にもオルミの「木靴の樹」が入っており、「長くて退屈でもよい映画」とのコメントがついていた。新しさを求めた退屈な映画は最悪だ。
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ヤクザコント集「アウトレイジ」は北野版「仁義なき戦い」だ。

2010年07月07日 | 映画
 北野武監督「アウトレイジ」を、新宿歌舞伎町のミラノ1で観る。この映画を観るならやはり歌舞伎町だろう。ミラノ座は入れ替えなしなのがうれしい。早めに行ってしまったので後半30分をまず観て、その後フルで観た。この結末は、知っていても観る楽しみを阻害はしない。

 タケシ演じる組織下層の組長大友が主役といえば主役だが、むしろ主役のいない群像劇だ。「仁義なき戦い」と「ゴッドファーザー」の抗争劇部分を合わせた、まさに仁義なき現代ヤクザ映画。鈴木慶一の音楽も北野版「仁義なき戦い」というにふさわしいアンダンテ。最後に笑うのは誰かより、誰がどう裏切り、どう殺すかが映画の推進力になっている。

 北野映画の基本はコントだ。「アウトレイジ」はいわばヤクザコント集だ。その連続でストーリーが展開されるが、これだけ抗争と殺しのコント(ヤクザ社会の人間関係そのものがコントという意味で)が続くと、いささか飽きる。しかも、凄惨な殺しのシーンも含め、結構、タケシのお笑いで観たパターンだからだ。それは、ヤクザ社会、あるいは日本の社会の構造がお笑いコントと表裏にあるから成り立つのだが、これもやりたいあれもやりたいうちに盛りだくさんになってしまったのは、芸人ビートたけしのサービス精神なのか。一足先に逃亡する大友の情婦板谷由夏との別れ際、黒のワンピを着ている板谷に「なんだもう葬式の準備か」と自嘲気味におどけてみせるくさいシーン。おまけに北野映画には珍しくセックスシーン(「その男凶暴につき」でシャブ漬けにされた妹が犯されるシーン以来か)まである。そもそも、ボッタクリバーのホステス、高級娼婦、ヤクザの情婦など、女性は出てくるが、これほど女性が映画的な役割をもたない映画も珍しい。

 キャストは悪くない。なかでも大組織の若頭役の三浦友和が、初めての悪役を演じてなかなかいい。現代劇でも時代劇でも主役ができる80年代の2枚目といった顔立ちだが、年を重ねて渋さと凄みが出てきた。エキセントリックなインテリヤクザ役の加瀬亮も秀逸だ。ヤクザの抗争劇とはいっても日本の社会そのものが「アウトレイジ」化している。そんなわけで、俺もあんなふうにクライアントの嫌な課長だの部長をたたきのめしてやりたいというフツーの人たちの鬱屈した情動を吸収する映画ではある。
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多国籍俳優による多言語がサスペンスを生み出す「イングロリアス・バスターズ」

2009年11月30日 | 映画
「イングロリアス・バスターズ」(クエンティン・タランティーノ監督)は、多国籍の俳優が母国語で演技し、その言葉がドラマやサスペンスの鍵になる映画だ。

 封切翌日の土曜の初回だったが、わが街の映画館はみごとに空いていた。ブラピ惨敗か。だが、映画は滅茶苦茶面白い。

 冒頭、のどかな牧場風景に、干したシーツの向こう側からバイクの音が聞こえ、シーツが風になびくと、彼方からサードカーに乗ったナチスの兵隊が近づいてくる。ユダヤ・ハンターと恐れられるランダ大佐たちだ。大佐は慇懃なしぐさで家の中に入り、牛乳を所望し、巧みなフランス語で会話しながら、村にいたユダヤ人家族がどこに行ったかを尋ねる。家主はスペインに逃げたと応える。大佐はユダヤ人をネズミにたとえて、ネズミが家の下を這い回るのは習性だと、ユダヤ人家族がこの家の地下に隠れていることを暗示的に語り、やがてフランス語をドイツ語に切り替えて、家主を恫喝しながらユダヤ人たちに分からないよう白状させ、兵士を招き入れて容赦なく地下に銃弾を浴びせる。ここで、メラニー・ロラン演じるショシャナが家族で唯一生き残り脱出。ユダヤ人少女によるナチスへの復讐劇というこの映画の一つの流れが語られる。この第一章の緊張感はすばらしい。とりわけ、ランダ大佐役のクリストフ・ヴァルツが強烈な存在感を発揮する。ヴァルツはこの映画でドイツ語、英語、フランス語、さらにはイタリア語まで自在に操り、多言語が飛び交うこの映画の中で、ブラピの影を薄くさえしているのだ。

 第二章で主人公レイン中尉役のブラピが登場。ナチス・ハンターのユダヤ人特殊部隊の隊長役で、リー・マービンが生きていたら演じるのがふさわしかろう役どころなのだが、ブラピは、妙に鼻にかかった声でヤンキーヤンキーした英語をしゃべったり、相当つくっているところがおかしい。映画の後半、ナチスのプロパガンダ映画の試写会に進入するためイタリア人映画関係者になりすますのだが、イタリア語は分かるまいと高を括っていると、ランダ大佐はイタリア語も堪能であっさりと悟られてしまうというオチがある。

 ナチス・ハンターの特殊部隊といっても、集められたユダヤ人たちは、鼻が大きくどこかみんな弱々しい、アメリカ映画の典型的なユダヤ人イメージを踏襲しているところが笑わせる。こんな扱い方でいいのと思ってしまうのだが、極めつけは、「ユダヤの熊」と恐れられるイーライ・ロス演じるドノウィッツ軍曹の登場シーン。ためにためて、どんな凶暴な男が出てくるのかと思えば、毛深い大男とはいえ、ごくふつうの男が登場する。「ユダヤの熊」の登場と、さんざんドイツ兵を脅しておいて出てきたのが普通の男なので、たぶん拍子抜けしたドイツ兵は、余裕さえみせて自分の陣地の位置を頑なにしゃべらない。だが、ユダヤの熊が非情な身振りでドイツ兵をバットで撲殺すると、ほかの兵士は恐怖の余りあっさりとげろってしまう。ランダ大佐のイタリア語にしてもこういうオチのたたみかけ方がタランティーノはうまい。

 国籍を問わず全ての登場人物が英語をしゃべるアメリカ映画とは異なり、この映画は、アメリカ人やイギリス人は英語、ドイツ人はドイツ語、フランス人はフランス語をしゃべり、しかもそれぞれの国籍の俳優が演じている。複数の言語が飛び交うヨーロッパという舞台のサスペンスを言葉によってうまく演出していて、イギリス人の特殊部隊がドイツ人女優のレジスタンス、ダイアン・クルーガーと落ち合う酒場のシーンでは、ドイツ軍将校に変装したイギリス人のドイツ語の発音がおかしいと居合わせたゲシュタポが問い詰める。この場面の緊張感もなかなかで、長々としたカード遊びで緊張感を盛り上げ、その果てに、酒を注文する時の3本指の出し方がドイツ人と違うことで変装がばれて、壮絶な銃撃戦になるというのがオチだ。

 この映画の白眉は、ショシャナの映画館でヒトラー、ゲッベルスなどナチスの高官が集まってのプロパガンダ映画の上映シーンだが、爆薬代わりに映画館にあるフィルムを燃やしてナチス首脳部を皆殺しにするという計画が実行される。ナチス映画は、途中でショシャナが自ら撮影したフィルムに切り替わり、ナチスへの呪いのメッセージが劇場にこだまする。これを合図にフィルムに火が放たれ、劇場は一気に火炎に包まれ、スクリーンは焼け落ちるのだが、劇場を満たす煙にショシャナの映像が亡霊のように映し出されるという、ああ、タランティーノはこれがやりたかったのだなと思わず喝采を贈りたくなってしまったのだった。ちなみに、このシーンではヒトラーもゲッベルスもみんな死んでしまうという、歴史を無視した荒唐無稽さで観るものを楽しませる。

 ゲッベルスの情婦役で、日本でもおなじみのジュリー・ドレフュスが妖しい魅力をふりまいている。ショシャナがレストランでゲッベルスと会う場面では、会話と会話の間に、ショシャナの想像イメージとしてゲッベルスと情婦が後背位でまぐわうシーンが唐突に短く挿入される。確かにナチス高官のアモラルな私生活を想像させるショットではあるのだが、これ以外、ゲッベルスと情婦がいちゃいちゃするわけでもなし、サービスショットのつもりなのかどうか、いずれにしろいろいろ楽しめる映画なのだった。
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『キネ旬』日本映画ベスト10×マンフラベスト10

2009年11月27日 | 映画
『キネ旬』が別冊で日本映画ベスト10を発表した。新聞記事になっていて1位は「東京物語」だった。「東京物語」は僕も大好きな映画だ。だが、ベストワンかといわれれば、なんといっても僕が生まれた年の映画だ。リアルタイムで観ていない。同時代的に観た映画の力にはかなわない。ならば、ほぼ、リアルタイムで観た映画を中心に、日本映画マンフラベスト10を並べてみようと思った。そんなわけで監督は、小津も溝口も成瀬も黒沢もいないベスト10になった。とりあえずの順番に意味はない。日本映画というとかの4人がやけにもてはやされるが、この多様性こそ日本映画のすばらしさだ。

①「喜劇・ああ軍歌」(1970/監督:前田陽一)
 快作にして傑作。賽銭箱に忍び込み「ああ銭冷えする」というくだりが秀逸。
②「新宿泥棒日記」(1969/監督:大島渚)
 人を扇動する映画。この映画に刺激されて「アンドレ・ブルトン選集」を本屋で万引きしたとかしないとか。
③「けんかえれじい」(1966/監督:鈴木清順)
 ほぼリアルタイム。麒六ちゃんのポコチンピアノ、浅野順子の美少女ぶり。
④「戒厳令」(1973/監督:吉田喜重)
 「けんかえれじい」で駅の待合室にいた北一輝は、ここで処刑前に「天皇陛下万歳と叫ぶのか」と聞かれ「私は死ぬ前に冗談は言わない」。新宿ATGの匂い。
⑤「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970/監督:加藤泰)
 ここからはプログラム・ピクチャーの傑作・快作。まず愛の映画の傑作。雪の今戸橋のシーンに涙、涙。1970年は次の健さんと共に仁侠映画が頂点を極めたのだ。
⑥「昭和残侠伝・死んで貰います」(1970/監督:マキノ雅弘)
 高倉健、池部良の立ち姿、歩き方の美しさよ。愛も義も俺たちゃ東映映画から学んだ。NHKじゃねーよ。
⑦「兵隊やくざ」(1968/監督:増村保造)
 次の3作は大映プログラム・ピクチャーの傑作シリーズから。このシリーズは1作目のみ増村であとは田中徳三監督。好きなのは8作目「強奪」。八路軍の女将校役の佐藤友美が美しい。
⑧「座頭市の歌が聞こえる」(1966/監督:田中徳三)
 シリーズ13作目。撮影が名手宮川一夫。1作目で平手造酒を演じた天知茂が再び登場。この2つのシリーズはオールナイト、TVの深夜映画でも何度も観たが飽きなかった。恐るべし大映プログラム・ピクチャー!
⑨「眠狂四郎・無頼剣」(1966/監督:三隅研次)
 市川雷蔵の色気を出すのは、三隅や森一生監督がうまかった。「無頼剣」は8作目だが、中だるみどころか、中盤の作品に結構傑作が生まれているところが、大映や東映のすごさだ。
⑩「狂走情死考」(1969/監督:若松孝二)
 警官の兄を殺した学生運動家の弟と兄嫁の北国への逃避行というピンク映画の巨匠としては珍しかったドラマ性の強い映画。もちろん18歳未満入場禁止。高校時代学生服の詰襟を中に折って観にいった。バレバレだったと思うがもぎりのおばちゃんは黙って入れてくれた。学校帰りに観た初めてのピンク映画。この頃は渥美マリが人気で、高校生の股間を刺激して止まなかったのだが、「でんきくらげ」(1970/監督:増村保造)もマンフラベストに入れたいところだ。

これで10本なのだが、もう1本番外で入れたいのは日活のシリーズ。
⑩「紅の流れ星」(1967/監督:舛田利雄)
 渡哲也は無頼シリーズ(監督:小澤啓一)で「哀しみのやくざ」を演じて人気を得るが、たぶん五郎シリーズの1本なのだと思うが、これは白のスーツで赤いMGを乗り回す軽妙でモダーンなやくざ役。ラストは「勝手にしやがれ」をパクッっているのだが、大らかに作ってしまいましたという雰囲気があふれている。浅丘ルリ子、藤竜也、宍戸錠、みんなきざにふるまっているのだけれど、それが決まっていてさすが日活。後の松田優作のキャラクターにつながる快作です。

 こうしてみると60年代後半の日本映画の多様性、それを支えた監督たちの顔ぶれの多彩さに驚く。そしてまだ、この時代は日本映画は豊かだったのだ。
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何も起きないアクション映画「リミッツ・オブ・コントロール」

2009年10月16日 | 映画
 イザック・ド・バンコレ演じるほとんどしゃべらない男(lone man)は、決まったようにオープンカフェ(列車のカフェもある)で「ツー・エスプレッソ」を頼むと、やがて「スペイン語は話せるか」と、コードネームをもった男や女がやってきてボクサーが描かれたパッケージのマッチ箱を置き、しばし芸術や宇宙や映画の話をして帰っていく。マッチ箱から紙片を取り出して開くとなにやら暗号らしき文字が書かれており、男はそれを口に入れてエスプレッソで流し込み、次の場所へ移動する。ジム・ジャームッシュ監督の新作「リミッツ・オブ・コントロール」は、基本的にはこのシークエンスが繰り返されるだけの映画だ。そしてジャームッシュらしく主人公はひたすら歩く。

こう描くといかにも退屈そうだが、実際、こんな退屈な映画はないという批評もあるようだが、前作「ブロークン・フラワーズ」のゆるいコメディを期待したむきは、みごと裏切られた気持ちだろう。実際、僕自身も、何かが起きるだろうという期待をもって、さて次の展開はどうなるだろうと見ていると、意外な結末のラスト以外、ほとんど何も起きない。特別なアクションなどないのだが、それでも繰り返される変奏の果てに、「no limits, no control」の文字が画面に現れる、もうそのときにはみごとにこの映画にはまってしまっているのだった。そして、見終わるともう一度見たいという強い欲求にかられるのだ。幕が開いて15分くらいすると事件が起き、その後短いショットで連続的にアクションが繰り返され、見るものを否応なく結末へとせきたてるハリウッド映画といわれているものは、1度見れば2度目はいらないが、この映画は、無限にスクリーンへの欲望を誘うまさに「ノー・リミッツ、ノー・コントロール」な映画なのだ。

男が、マドリッドのすばらしい建築のホテルに着くと、裸の女がベッドに横たわっており、「私のお尻きれい」とたずねる。それはまるで「軽蔑」のバルドーのようなのだが、コードネーム・ヌードを演じるパス・デ・ラ・ウエルタという女優さんがなかなかよい。左のおっぱいだけなぜ下がっているのかがよくわからないけれど。それにしても、コードネーム・ブロンドのティルダ・スイントン、コードネーム・モレキュールの工藤夕貴、この映画に出てくる女優はみんなすばらしい。

映画館を出ると、僕の歩き方は、確実にコードネーム・孤独な男のバンコレになっているのだった。
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チンチン電車の女車掌が切るものは?「朗読者」と「愛を読むひと」の間

2009年07月06日 | 映画
 「愛を読むひと」(スティーヴン・ダルドリー監督)を新宿歌舞伎町のオスカーで観た。ここなら必ず空いているとの予測どおりの入りは、まず「アタリ」(映画はハズレ)。学校の体育館のような雰囲気。広さに比べスクリーンが小さい(客も少ない)が、最近の映画館のように上映中明るくないのがいい。昭和の映画館です。

 「愛を読むひと」は、『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著)としてベストセラーになった現代ドイツ文学の映画版。『朗読者』は、日本では2000年に翻訳出版され、いわゆる翻訳文学ブームのさきがけとなった。しかも、ドイツの作家の作品ということで、当時僕もひさびさに現代ドイツ文学を読んだのだった。10年近くたつので、主人公の僕が回想する一人称のスタイルで書かれた小説であること、筆おろしをしてくれた忘れられない年上の女性が実はナチスの戦犯だったというストーリーくらいしか、詳細はもうよく覚えていなかった。

 ドイツ伝統のビルドゥングス・ロマンの形式をとりながら、この小説で主人公が成長して出会うのは、戦後世代はナチスとどう向き合えばよいのかという問題だった。この世代間の問題を21歳離れた年齢の男女の恋愛を設定することで描こうとしたわけだが、著者のシュリンク自身にも、信頼していた教師がナチスの協力者だったという体験があったらしい。世代を超えて体験する「ナチスという過去」は、ドイツ社会では、依然として一人ひとりが負わなければならない十字架のようなものなのだろう。ギュンター・グラスのカミングアウトも記憶に新しいところだが、たぶんシュリンクは、ナチス問題は裁く問題ではなく受容する問題だといいたかったのだと思う。でも、僕は『朗読者』のことはほとんど忘れていたのだった。

 映画「愛を読むひと」として封切られたとき、その原作が『朗読者』であることさえ知らなかった。ポスターの下に原作:『朗読者』とあって、合点がいった次第なのだ。ならば、観てみようと。映画を観て、こんなお話だったかなというのが感想だが、ドイツ人の物語でありながら主人公は、ミヒャエルではなくマイケルと英語読みされてしまうことにはじまり、朗読される書物の文字や音声も当然ながら英語であることに違和感を持ってしまった。前半は、主人公の少年マイケルと21歳年上の女ハンナとの情交が描かれ、もっぱらベッド上の2人のアップ、中盤は法廷でのハンナとそれを傍聴するマイケルの表情のアップ、後半は、朗読をテープに録音するマイケルとそれを聴くハンナのアップというショットの連続で物語が展開される。この展開だけで、いかにこの映画が退屈だか分かろうというものだが、「愛を読むひと」は、ナチスを戦後世代がどう受け入れたかがテーマではなく、熟年になったマイケルの青春時代の清算と再生としての物語なのだった。ナチスという特殊体験ではなく、人生の光と影にアメリカ映画としての普遍性を求めたのだろう。だが、如何せんハンナ役のケイト・ウィンスレットがヌードをみせることくらいしか観るべきものがなかった。(ちゃんとバストトップも見せているのはえらい。最近の日本の有名女優といわれる若手で、しっかり脱げる女優はいるだろうか。40歳後半でも脱いでいたシャロン・ストーンなど見上げたものだ。こういう女優魂を見習ってほしいものだ)

 ケイト・ウィンスレットは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの描く女性のような面立ちをした女優で、美しき土左衛門ことオフィーリアとか、大木に縛りつけられている「遍歴の騎士」の裸婦役をしたらよかろうと思っていた。だから、聖なるものと官能とのアンビバレントな同居を期待していたのだが、老ける特殊メイクにばかり熱心だったようで、これは「ハズレ」だった。

 ハンナは、制服に身を固めた律儀なチンチン電車の女車掌。チンチン電車の女車掌が「切符を切らせてください」というと車内に笑いがおきたという阿部定事件後の逸話をすぐ想起させる。つまり職業としてチェリーボーイの相手役の資格十分なのだが、ウィンスレットは官能性に欠ける。というより36歳の処女のように見えた。では文盲で、戦時中ゲシュタポに就職するくらいしか道がなく収容所の守衛だったハンナは、一体どこで少年に性の手ほどきができるような体験を積んでいたのだろうか。その残滓が見えない。この映画の一つのポイントは制服を「脱ぐ=身につける」という官能性だと思う。「脱ぐ=身につける」行為とその変容をどう描くか、その官能性に観客は、性に溺れていく少年の視点を共有していくことができるのだが、それが見えないのだった。

 ハンナは、少年のありあまるほどの性欲を受け入れながら、これまでの、たぶん禁欲的だった生活の中でひさびさに快楽を味わっただろう。しかし、少年とのセックスは快楽より奉仕ではなかったか。身体で少年に奉仕する代わりに、少年にも、かつて収容所で少女にさせたように「朗読」という奉仕を求める。「今日はセックスが先、本を読むのが先?」という台詞があるように、朗読は性行為の代替行為にほかならない。やがてハンナが裁判で無期懲役となり離れ離れになっても、2人は「朗読=声を聴く」という行為によってしか交歓できない。その変態的な愛のカタチにおいては、もはや実際に対面することに意味はなく、どちらかの死のみが、この愛を成就させるのだ。だから、「朗読=聴く」という行為をどう愛の行為として映像化するか、とりわけ音声と文字をどう扱うかが、この映画のもう一つの見せ場であるはずだが、心理描写といわれる顔の表情の変化をアップでとらえた映像ばかりでは、金のかかったTVドラマにつきあわされたようではないか。

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「コンバット」「20世紀の記録」がナチス映像を見た原点と思いめぐらした夜に「ロンリーハート」を観た

2009年07月02日 | 映画
 ジョン・トラボルタ主演、トッド・ロビンソン監督「ロンリー・ハート」を深夜のWOWOWで観る。これは、拾い物だった。アメリカの1940年代、戦争未亡人をねらって結婚詐欺をはたらく男女。とりわけ「デスペラード」や「フリーダ」などに出ていたサルマ・ハエック演じるマーサは、妹と称して詐欺師のレイと行動を共にするが、未亡人といちゃつくレイに嫉妬して、次々と相手の女を惨殺する悪女ぶり(脱がないのが不満だが)。ラテン系の濃い顔立ちと豊満なボディ、危機を乗り切るためなら警官の股間に顔を埋めることも厭わず、詐欺相手の未亡人とレイが情交に及んでいると女を撲殺してベッドから引き摺り下ろし、その死体を横目に今度はマーサが情交に及ぶという女。その恐ろしさにレイも一度はマーサを殺しかけるほどだが、肉体的快楽で結ばれた男女は、そう簡単には離れられない。これを追う刑事ロビンソン役のトラボルタは妻が自殺した過去をもつ男で、同僚の女と不倫中だが再婚には踏ん切りがつかない。おまけにその現場を子供に見られて親子関係も修復を迫られている。父親としても男としてもだめだが、刑事としては鋭敏な嗅覚でレイとマーサを追い詰める。

 この監督は全く知らない人だが、時間も約100分とほどよく、その簡潔な語り口がいい。結局、凶悪犯2人は電気椅子で処刑されるが、「レイを愛しているから殺した」というマーサの愛憎の深さに、ロビンソン刑事は、自らが愛するものと真剣に向き合うことを決意する。やがて不倫相手とも息子とも関係を修復し、警察を辞めて家族幸せに暮らしたとさ、で幕を閉じるストーリー。処刑シーンはロビンソン刑事が警察を辞める決意を観客に共有させるシーンとして必要かもしれないが、何か他の方法はなかったか。期待せず観はじめたけれど、WOWOWはたまにこういうのがあるからおもしろい。

 「ロンリーハート」の事件は実話らしいが、戦争がアメリカの市民生活に影を落としていたとはいえ、あの戦争のとき、アメリカはこんなことをやっていたのかと思う。戦場になったヨーロッパやアジア、日本に比べれば、なんと平和なことだ。一人殺せば殺人者、1000人殺せば英雄だといったのはスターリンだったと思うが、「ロンリーハート」が殺人者の映画だとすれば、戦後のアメリカの戦争映画は戦場の英雄たちを描いていた。そんなことを考えるのは、「ナチスと映画-ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか」(飯田道子・著/中公新書)を読んだからだった。この本は、標題どおりヒトラーとナチスが映画においてどう描かれてきたかを概説した入門書的な書物だ。前半は、ナチスが映画をどうプロパガンダの武器として利用してきたか。その後、戦後なぜアメリカ映画はナチスを悪役として描いたかも含め、戦後の映画におけるヒトラーやナチスの表象の変遷をたどっている。巻末にヒトラー・ナチス関連映画一覧が掲載されており107本の映画が紹介されていて、これがなかなか役立つ。「将軍たちの夜」や「ルシアンの青春」「勝利への脱出」(あったかも?)が入っていないとか、「ゲシュタポナチ女収容所」などのエログロものがないとか、まあ、いろいろあるが、とりわけ、ナチス時代の映画を系統的に観ているのは著者の強みで、これらをきちんと紹介している珍しい本といえるかもしれない。

 僕が、ナチスの映像に出会ったのは、小学校の時にTVで観た「コンバット」と「20世紀の記録」というドキュメント、「少年マガジン」「少年サンデー」に登場するフォッケウルフやユンカースなどの戦闘機やタイガー戦車のイラスト、そして母親の「民族の祭典」に関するすべらない話だった。

 「コンバット」では、ドイツ軍は敵であると同時に、しばしば同じ戦場で戦うことになってしまった人間同士、あるいは同じように故国に家族や恋人がいる人間として描かれていた。敵にも慈愛を注ぐサンダース軍曹の男気に義侠心を学んだのだ。ドイツ軍はどちらかというと闇雲に撃ってくるだけで、知恵がなく間抜けな軍隊として描かれていた。だから、ナチスを悪とは感じなかった。「20世紀の記録」は戦争の記録映像で、演説するヒトラーの姿もこれで観た。フォロコーストのこともたぶんこの番組で知ったのではなかったか。

 母親からは、女学生時代にヒトラーはアイドル的存在であったことを聞き、「民族の祭典」を観た時の興奮というか、ギリシャ彫刻が生身の裸の人間にかわる映像に、男子生徒が興奮しまくりだったり、ヒトラーが登場するたびに女子がこれまた嬌声をあげたことが面白おかしく語られ、なんでも「民族の祭典」というだけで、当時の高校生は笑い転げたのだとか。以来、僕にとって「民族の祭典」は、母親のすべらない話として記憶されてきたのだった。おまけに、「日の丸だー、トリコローレだー、ハーケンクロイツだー」といった歌詞の三国同盟の歌といような歌を歌ったりしてね。

 さらに、「マガジン」「サンデー」に描かれる小松崎茂などのドイツ軍の戦闘機、戦車などの挿絵は、他を圧倒するかっこよさだった。カギ十字のマークもデザイン的に視覚を魅了した。タミヤ模型のプラモデルの箱絵に描かれた戦車やそこに並走するドイツ兵の軍服のかっこよさ、少年たちはみんなドイツ軍のファンだった。
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死刑囚はグラントリノに乗ってスカイラークを歌うイーストウッド三昧の日々

2009年05月26日 | 映画
 新宿のバルト9。ネットで座席を予約することができる。かつて席とりにダッシュした身としては何かが違うと敬遠していた。同じ映画なら歌舞伎町のきれいとはいえないロードショー館を選んでいたが、クリント・イーストウッド監督「グラントリノ」は、バルト9とピカデリーにかかっていた。ならばと、バルト9の席をネットでとり、「グラントリノ」にご対面。ホテルや飛行機、列車の予約はネットが当たり前なのに、映画というと、なぜか旧態依然の振る舞いになるのだが、まあ、気に入らないけどなかなか便利ではある。

 この映画に出てくるグラントリノとは、フォード社の1972年グラントリノスポーツ2ドアファストバック・ハードトップのこと。排気量7,000ccという超マニアックな車らしいのだが、映画の中で走るのはエンディングだけで、モン族の少年が運転してスクリーンの向こうへと走り去る。ここにかぶるのが、イーストウッド自らが歌うテーマ曲だ。「グラントリ~ノ、グラントリ~ノ」と、幽霊が歌うように低くしゃがれた声で響く。イーストウッド演じるウォルト老人は、自らの命を犠牲にして少年たちの争いに終止符を打つのだが、モン族の少年にグラントリノを譲ったことが、まるでうらめしいといわんばかりに、ウォルト老人が幽霊となって歌っているように思えてならないのだ。

 イーストウッド映画の中で数多登場する十字架の記号だが、この映画で、ついにイーストウッドは自ら十字架と化す。胸に鉄板など入れていないぞ。立ち上がって反撃することもないぞと、ご丁寧にも弾丸が背中を貫通するところまで見せる念入りな演出で、ウォルトの死を告げる。葬られたのはウォルト老人なのか、ダーティ・ハリーなのか、俳優クリント・イーストウッドなのか。肺の病により死期を意識した老人は、復讐、制裁というアウトローの選択ではなく、贖罪と自己犠牲の証として自らの命を投げ出すことでモン族の不良少年たちに、法による裁きをあたえるという犠牲的な精神を発揮する道を選択した。しかも自らの肉体を十字架に化身させて。

 決闘に向かうガンマンよろしくバスタブで身を清めるシーンを挿入する念の入れようで、ならば、グラントリノで乗り付けてコルトをぶっ放すのかとも思いがちだが、やらない。こんなイーストウッドの映画は観たことはない。だが、吐血のシーンでウォルト老人の命がそう長くないことを暗示させているので、いつものように拳銃をぶっ放さなくても、観るものはこの選択に納得することになるだろう。恐らくお得意の早撮りでこの映画も仕上げたのだろう、そんなテンポのよさが伝わるまぎれもない傑作である。

「グラントリノ」の余韻に浸りつつ、「ブックオフ」でダイアナ・クラールの1999年のアルバム「ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ」の未開封が1,250円だったので購入。このアルバムには、イーストウッド監督「トゥルー・クライム」の主題歌「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」が入っている。この曲がとてもいい。映画は未見だったので、早速DVDも購入。これが、またまた傑作だ。死刑執行までの限られた時間のなかでその無実を証明していくという絶妙のサスペンス。だからこそ、ラストのクリスマスのシーンで、夜の街をスクリーンの向こうに去っていくイーストウッドのうしろ姿に、これまた絶妙のタイミングでかぶる「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」に泣けるのだ。

 CDのライナーノーツだったか何かで、イーストウッドはダイアナがお気に入りで、「トゥルー・クライム」の前作「真夜中のサバナ」でダイアナを使ったとあった。これも早速DVDを購入(紀伊国屋ではいま20%オフ)。でも、実際の映画には出ていない。サントラ盤で「ミッドナイトサン」を歌っていたのだった。「真夜中のサバナ」は、「スカイラーク」などのスタンダードナンバーで知られるジョニー・マーサーの出身地サバナが舞台とあって、全編にマーサーの曲が使われている。イントロから「スカイラーク」がテーマ曲のように流れ、劇中で、娘のアリソン・イーストウッドが「降っても晴れても」を歌ったりする。イーストウッド映画には、本筋とあまり関係のないが、ああ、これがやりたいのね、というようなシーンがよくある。「グラントリノ」なら、床屋で少年に男の振る舞いを教えるシーンとか、この映画は、そのどうでもいいけど、やりたいのだろうというシーン満載の映画で、勝手気ままに作ったサスペンスのないサスペンス映画なのだった。

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