今回は、甲斐さんや甲斐バンドに、ちょっと関係する話題です♪(笑)
甲斐バンドのかつての機関紙「BEATNIK」や甲斐フリークのバイブルと呼ばれた
「ポップコーンをほおばって」でお馴染みの田家秀樹さんが
主要全国紙ではない各地新聞の文化欄で、波状的に連載なさっていたコラム「80年代ノート」が
今年3月、1冊にまとめられて発刊となりました
新刊紹介では…「『80年代音楽ノート』は、音楽評論家・田家秀樹が
80年代にライブやインタビューで目撃したアーティストの姿や発した言葉、制作秘話をつぶさに描く
ポップ・ミュージックの画期が鮮やかに甦る、懐かしくて新しい一冊」とか
「日本のロック、ポップスを創成期から現場で見続けてきた田家さんにしか書けない一冊です」
「彼らの挑戦の数々から浮かび上がる懐かしくて新しい80年代…知られざるエピソードも満載!
Spotifyコードで曲を聴きながら読めます
Amazon Music、Apple Music、Spotify対応のプレイリストも掲載」
「3月26日発売の田家秀樹著『80年代音楽ノート』は、'79年12月の甲斐バンドの武道館公演での
甲斐よしひろさんの印象的なMCから始まります
ぜひ、80年代にタイムスリップして、掲載のSpotifyコードで楽曲を聴きながら読んでください」…と評され
その新刊の「帯」にも、田家さんが取り上げられたアーティストの皆さんのお名前と共に
「新聞の人気連載が1冊に…ライブの熱気とミュージシャンの言葉。時代がよみがえる!」とか
「現場から届けられる、音楽の挑戦者たちの姿。時を経てわかる真実」というキャプション
そして、作家の重松清さんの「田家さんは、いつだって『あの日の、あの瞬間』にいたんだ」
…という推薦の言葉が記されています
この本が発売されると知った奥さんは、このコラムを読むために契約した東京新聞ネット版を解約
…って、連載開始当初は、甲斐友さんからLINEで送られて来た
甲斐バンドに関するコラムが掲載された新聞の切り抜きの写真を拡大して読んでいたんだけど
同時期に活動なさっていた、その他のアーティストの皆さんに関するコラムも読みたいということで
新たに、このコラムの連載が始まるタイミングで東京新聞購読に踏み切ったところ
このコラム以外にも、なかなか面白い記事が多かったらしく
スマホの小さな画面で読む不便さがなければ、このまま購読を続けたいと申しておりました(笑)
それはともかく…田家さんは「まえがき」として
「この数年『80年代』が思いがけないところから脚光を浴びている
いうまでもなく『シティポップ』のブームである
70年代の終わりから80年代の前半のユーミンや山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、八神純子らの
シンガー・ソングライターの曲が、40年もの時間を経て海外で評価されるという現象から始まった
『はっぴいえんど』や『シュガー・ベイブ』系
あるいはジャズ・フュージョン系ミュージシャンの『洋楽に匹敵する日本のポップスを』という
執念に近い情熱で作り上げたサウンドが『洋楽よりも洋楽らしい』『もはや海外にもないグルーヴ』として
クラブDJのサンプリング音源として使われることで広がっていった
いつの時代でもそうであるように、後世の再評価は必ずしもその時代の現実と重なりあうわけではない
今話題になっている『シティポップ』にしても同様だったと言っていい
『当時はそんな言葉はなかった』『そういう意識で作ったわけじゃなかった』という
当事者たちの感想もしばしば目にすることができる
そうした新しい音楽を生み出したのが『80年代』だった
とはいうものの『80年代』=『シティポップ全盛』ではなかったことは断言できる
むしろ傍流だったという記憶の方が強い
テレビの歌番組や、ヒットチャートの上位を賑わす音楽として聴かれていたとは言い難い…(中略)
では『80年代』とはどういう時代だったのか
一言で言えば70年代に芽を出したさまざまな流れが連鎖反応のように一斉に開花していった10年間だった
どういうアーティストがどんな音楽の流れを切り開いていったのか。彼らは何を歌っていたのか
今では当たり前になった出来事がどんな風に生まれていったのか
幸いにも筆者は、70年代からアーティストインタビューやコンサート取材などの現場で
その過程を目撃することができた
サブスクの普及はそれぞれの曲から『時代性』や『編年性』を消滅させていった
だからこそ時を超えた音楽として聴かれているという前提はありながら
それでもその時に何があったのかは、誰かが残しておかないといけないと思う
80年代の10年をアルバム中心にたどったこの本が、その記録のささやかな助けになれば本望だ
従ってカレンダーは1979年までさかのぼることになる」…と綴られてますが
奥さんが、甲斐バンドのデビューに「ギリギリで間に合った」と言っているのは
リリースされるアルバムをリアルタイムで聴くことが出来た…ということもさりながら
田家さんのおっしゃるところの「その時に何があったのか」を
バンドの状況や、その周囲の環境、ひいては当時の世相などを
実際に、自分の目や耳、肌で感じることが出来たことを「ラッキー♪」だと思っているんじゃないかと…?
甲斐さんと同い年のボクに「ビートルズが来日した時ってどんな感じだった?」と訊ねたりするのは
「来日した」という事実について、雑誌の写真や、モノクロのニュース映像で見ただけでは判らない
その時代の「ニュアンス」みたいなものを含めて知りたいんだろうと思うんだけど
この本に関して言えば…「歴史の教科書」で「出来事」を知るよりも
実際に、その「出来事」を目の当たりになさった方の言葉で知ることの方がリアルというか
田家さんの主観込みで「その時代」を振り返ることによって
当時の自分の考えや思いが整理できるのかなあと…?
それはさておき…「J-POPが花開いた80年代
ミュージシャンたちと並走してきた田家秀樹さんが
名盤や記念碑的な公演を紐解きながら、当時の音楽シーンを綴ります」…というコラム
その第1回目は「『79年のドラマは全て終わりました。俺たちは80年代に行きます』
甲斐バンドの甲斐よしひろが、1979年12月21,22日の初の武道館2日間公演でそう言ったのは
本編最後の曲『100万$ナイト』の前でだ」
…という書き出しで始まるんですが、前述の「まえがき」にもあった通り
この「第1回」は「序章『1979年12月』」として掲載されていて
「どんな年代にも終わりと始まりがある
それまでの10年がどう終わって、新しい10年がどう始まったのか
劇的な分岐点という意味で、79年の大みそかをしのぐ年はなかったのではないだろうか
今、僕らが日常的に親しんでいるポップミュージックの基盤は、70年代に作られた
日本語のロックバンドにシンガー・ソングライター
それまで日本にはなかった音楽のスタイルやコンサートの形
その頃に原型が誕生した例は数え切れない
ただ、そうした先駆者たちの多くが不遇だった
RCサクセションは事務所の問題に巻き込まれ
THE ALFEEはレコード会社との契約解除で、思うように作品が出せなかった
日本語のロックの元祖『はっぴいえんど』にしても活動期間は約3年、オリジナルアルバムは3枚だけだ」と続き
「その一方で、時代の象徴となった吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実や中島みゆき等にとっても
苦戦していた人達にとっても『70年代の終わり』は『舞台が変わる』以外の何物でもなかった
79年の12月に初めて使われたのが『武道館ラッシュ』という言葉だ
松山千春、ゴダイゴ、陽水・高中正義、桑名正博、原田真二、ジョニー・ルイス&チャー
唯一の単独2日間公演が甲斐バンドだった
『100万$ナイト』は、79年10月発売チャート1位になったアルバム
『マイ・ジェネレーション』に収録されていた
歌詞の中の『踊ることも出来ずに』倒れてしまう『傷ついたダンサー』は
失意の中で挫折して行った70年代の多くの若者たちを連想させた」…と記されてますが
奥さんは、新聞の切り抜きで読んだ時と同じく
「男と女は本当には判り合えない。だから、俺は祈るのね」とおっしゃっていた甲斐さんが
「祈る言葉はありはしない」という歌詞をお書きになって
それを、胸が締めつけられるような声で歌われていたのがショックだったことを思い出したんだとか…
それはともかく…「大みそかの日本青年館のステージで
『もう古い歌は歌わない』と言ったのは拓郎だ
浅草国際劇場(当時)のニューイヤー・ロックフェスティバルで
バンド名を『ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド』に変え
過去のオリジナル曲を封印すると宣言したのは
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
同じステージで、髪を染め化粧を施した
ド派手なロックバンドに変身して登場したのが、RCサクセションだった
それぞれの区切りと再出発。新しい時代が始まろうとしていた」…と結ばれ
次章から「1980年」「1981年」…と年別に様々なアーティストについて綴られて行くんだけど
1982年の8組目に再び甲斐バンドが登場♪
ただ、新聞に掲載された時は「NY生まれの肉厚な音」というタイトルだったのが
この本では「わしの太鼓がロキシー・ミュージックになった~甲斐バンドの『ニューヨーク3部作』」
…となっている他「(スタジオでの)そのシーンは今も鮮明に浮かんでくる
1982年10月、新作アルバム『虜-TORIKO』のトラックダウンのために
ニューヨークに行った甲斐バンドに取材で同行した時のことだ」という風に
( )部分が足されていたりと加筆修正の跡が窺え
やはり、新聞の「コラム」には、文字数などの制約があるんだなあと…
ともあれ…「彼らが使ったのは、マンハッタンにあるパワー・ステーション・スタジオ
かつて発電所だったことで、その名前がついた
起用したエンジニアは、ボブ・クリアマウンテン
甲斐バンドを率いた甲斐よしひろは、ボブが手掛けたアルバム
ローリング・ストーンズの『刺青の男』を81年に聴いて衝撃を受けていた
ロックの名盤と言われるロキシー・ミュージックの『アヴァロン』や
デヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』もボブの手による作品だ
トラックダウンとは、ドラムやベース、ギターや歌など
別々に録音されたテープを一本化する作業である
各楽器の音色や全体の音のバランスはそこで決まる
特に、70年代後半からは、レコーディングの過程で、デジタル機材の重要度が増した
パワー・ステーションは、コンピューターミックスの最先端と言われていた
アメリカへの出発の前日も、国内ツアーの公演を終えてからスタジオに戻り
一睡もしないまま成田空港に向かった甲斐は
『観光で行くんじゃない、ボブがいるからニューヨークに行くんだ』と何度となく繰り返した
現地でのスタジオ作業が始まった1日目のことだ
ロビーで待機している僕らの前に姿を現したドラムの松藤英男は、放心したような表情で
『わしの太鼓がロキシー・ミュージックになった』とつぶやいた
それは70年代のロックバンドの太く重いドラムとは違う、エコーの効いた『80年代の音』だった」
…と「シン・タイトル」がキャッチーに出て来たけど(笑)
甲斐さんは、1996年の再結成時のインタビューで…
「音はムチャクチャ良いんだけど、極端なテンション出して、ねじれてるよね
そういう時期があると思うんですよ、ナンでこんなにサウンド・テンション高いの?っていう時期が…
まさに、この『ラブ・マイナス・ゼロ』がそうだね。もう今こんなミックス出来ないよ
80年代の徒花だね」とおっしゃってましたよね?(笑)
それはともかく…「デジタル技術により、肉厚で深みのある音に進化したバンドサウンド
ハードボイルド小説のような骨太な物語性のあるロック
『虜』発表の後、83年の『黄金/GOLD』、85年の『ラブ・マイナス・ゼロ』と続いた
ボブとのアルバムは『ニューヨーク3部作』として語られている
甲斐が当時口にしていたのが『誰もやってないことをやりたい』ということだった
80年,箱根の芦ノ湖畔、81年,花園ラグビー場と続いた野外イベントもそんな例だ
ニューヨークで仕上げられた音を東京のど真ん中で鳴らしたい
現在、都庁が建っている新宿西口都有5号地に2万人以上を集めた野外イベント
『THE BIG GIG』が行われたのは、83年8月だった」…と結ばれてます
…と書いたトコで、まだ書き足りないなあと気づきましたので、続きは次回に…(笑)