「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

コロナワクチン接種を受けてきました

2024-12-20 06:54:56 | 日記
 先日、近所の内科医院で6回目になる新型コロナウィルスワクチン接種を受けてきました。薬品名はファイザーです。私は65歳以上なので定期接種対象者です。


 コロナワクチンの評価については賛否が分かれますが、「厚生労働省と製薬会社が結託している」というようなネット情報を鵜吞みにしたと思われるものや国・行政・政権を批判するものなどちょっと観点がずれているようなものが多いように感じます。そのため以前インフルエンザ予防接種を受けた時の記事でも書きましたが、医事組織で勤務する私の友人に尋ねて見ました。その結果、医療従事者の間でもコロナワクチン接種に対する評価はきれいに二分され、医師の約半数はワクチン接種を受けていないとのことでした。つまり医療従事者の間でも「打とうが打つまいがどちらでも良い」という評価です。ただ感情論ではなく医師としての客観的な評価だと思います。

 私はこれまで新型コロナには一度も感染したことはありません。近い身内では亡母、姉夫婦、義母、義兄夫婦、長女家族、二女の夫が感染しています。つまり感染していないのは私たち夫婦と二女だけです。これは私の体質的なものなのか、たまたま私の生活様式が感染しにくい環境だったのか、実は感染していて無症状のまま完治したのか。また亡母は90という高齢のうえ末期の肺・大腸ガンだったにもかかわらず重症化せず、介護のため同居していた姉夫婦も発熱と喉の痛みだけで終わりました。そういうことで私自身「わざわざ打たなくても良いか」という判断をしていました。ところが「やっぱり打っておこう」と思うような出来事があったのです。

 それは独り暮らしをしていた義母が昨年9月新型コロナに感染し、重症化しなかったものの独り暮らしであったため2週間ほど入院したのです。幸い軽症で済み退院したのですが、この2ヶ月ほどの間であっという間に認知症になり介護施設に入所することになってしまいました。最初は気丈に独り暮らしをしていたところ入院したことで緊張の糸がほぐれてしまったのが原因と思っていました。おそらくそれもあるでしょう。よく聞く話です。しかし新型コロナの後遺症に「認知機能の低下」つまり高齢者の場合、認知症になるおそれがあるということを知ったのです。本当に進行が早かったです。普通に独り暮らしをしていたのが一日一日会うたびに症状が酷くなって行くのを目の当たりにしました。

 もう余程のことでない限り新型コロナで死亡したり重症化することはないのかもしれません。そして私がこれまで感染しなかった理由は実際のところわかりません。ただひとつ言えることは、これまで国の方針に従い定期的にワクチン接種をしてきたことです。「呆ける」のは嫌です。ということで今回ワクチン接種を受ける決断をしたのです。定期接種対象者のため3000円で接種できたことや、これまで5回の接種で一度も副反応がなかったということも背中を押してくれました。

 接種を受けて2日目の朝を迎えましたが、微熱、頭痛、腕の痛み・腫れもなく元気に過ごしています。
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琵琶湖一周歩紀8~島でのひと時「湖上に浮かぶ有人島」~

2024-12-16 03:14:36 | 日記
訪問日:令和6年12月15日(日)
出 発:近江鉄道バス「長命寺バス停」
到 着:JR「安土駅」

 寒い季節になりましたね。特に内陸部である「琵琶湖」は極寒の地でもあります。積雪の世界記録は昭和2年2月14日「伊吹山」で観測された11m82cmだそうですね。厳しい冬に入る前に「琵琶湖歩紀」8回目です。ただ今回は日本で唯一湖上に浮かぶ有人島「沖島」に渡ろうと思うのですが、連絡船の時刻の関係でどうしても時間配分ができず、前回ゴールのJR「安土駅」のひとつ大阪寄りである「近江八幡駅」から近江鉄道バスに乗り、最初に西国31番札所「長命寺」にお参りをします。その後、いわゆる「逆打ち」のような形で「安土駅」を目指します。給水・トイレには困りませんがオフシーズンです。飲食店はネット情報で。


 朝4時に起きて最寄り駅の始発に乗り午前7時38分、JR「近江八幡駅」に到着。大阪駅から約1時間20分(1520円)です。川西能勢口駅で乗り換えた阪急電車が「トム&ジェリー」のラッピング車両でした。朝からラッキー!


 近江八幡駅北口の近江鉄道バス「6番のりば」から午前7時45分発「長命寺」行きバスに乗車します。途中にある私立高校の女子たちで満員でした。


 約20分(500円)で「長命寺バス停」に到着。「ICOCA」が使えました。午前8時7分、今日もニコニコ出発です。ここは滋賀県近江八幡市。


 決して「怪しい者」ではありません。今日の「野里町歩紀」です。


 バスロータリーのすぐ後ろは「長命寺港」です。漁港のほか竹生島クルーズ船も発着する観光港です。東屋や公衆トイレがあります。


 その名のとおり「長命寺」への入口です。案内表示に従って進めば正面に車で上れる林道の入口がありますが、私は「歩紀ニスト」などで入りません。林道は結構狭いらしいですよ。


 林道入口の右には「日吉神社」。これからお寺にお参りするのですが、いつものように神社で今日一日の安全を祈願します。


 神社の右に「是よりくわんおん(観音)六丁」と刻まれた石標が立ちます。その奥に長命寺への石段がありました。入って行きましょう。六丁=約660mです。


 標高333mの中腹(250mくらい)にある長命寺まで続く808段の石段です。


 ゆっくりと石段を上って行きます。この石段を上ると寺名どおり長生きするそうです。


 階段なのでほぼ直線的に上って行きます。


 100歳まで生きてやるぞ。


 「聖徳太子礼拝石」と刻まれた石碑を過ぎればまもなく到着です。車で来ればここからスタートです。駐車場の端に公衆トイレ(水洗)があります。


 100段ほどで山門にあたる「冠木門」に到着しました。(午前8時29分)


 石段を上れば正面には「三重塔」。


 三重塔の左には「護摩堂」。いずれも国の重要文化財に指定されています。


 元に戻り境内に進めば左に「琵琶湖周航の歌」歌碑がありました。


 これで1番から6番までのすべての歌碑を訪れました。
     ♪ 西国十番 長命寺 汚れの現世 遠く去りて 黄金の波に
          いざ漕がん 語れ我が友 熱き心 ♪(6番)


 右には本尊である「千手十一面聖観世音菩薩」を安置する「本堂」。重要文化財です。長命寺は天台宗寺院で戦国時代の兵火により焼失・再建を経ていますが、推古天皇の時代に聖徳太子により開基されたと伝わる古刹であり西国31番札所です。琵琶湖周航の歌では「十番」になっていますが、気になる方はネットで調べてくださいね。


 本堂の左には「三仏堂」。天正年間(16世紀後半)に建てられたと伝わり、「釈迦如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」の三尊を安置します。


 その奥には「鐘楼」。慶長13(1608)年の建立です。これらも重要文化財です。


 鐘楼の右には「修多羅(すたら)岩」。


 そして境内からは琵琶湖が一望できます。


 参拝を終え上って来た石段を下って行きます。つまずかない様に。特に高齢者は。


 今回は歩紀の最初なのでまだまだ疲れはありませんが、娘たちからもらったモンベルの2WAYグリップを持ってきました。上りでは足への負担がかなり軽減できますし、下りではしっかりと体重を支えてくれます。


 無事に808段の石段を下ることができました。右に曲がり「長命寺温泉天葉の湯」という日帰り温泉の前を進みます。(午前9時8分)


 ここは「松ヶ崎」という岬です。


 少し進めば左に米田雄郎という地元出身の歌人の歌碑がありました。


 対岸に見える比良山系は中腹まで雪化粧です。滋賀県は近畿地方の天気予報では「近畿中部」に属しますが、冬期のみ滋賀県北部は「近畿北部」になるそうです。


 雪化粧をした比良山系を眺めながら湖岸を進みます。


 湖岸沿いの県道なのですが、途中「鬱そう感」が漂う道もあります。


 しばらくすれば沖にはこの後訪れる「沖島」が見えてきます。何だか「ひょっこりひょうたん島」みたいですね。大小二つの島のように見えますが、山と山の間に小さな平野があり、そことそれに続く湖岸沿いの途中まで集落が続きます。それ以外はすべて山地です。


 さらに歩けば右に「休暇村近江八幡」。ホテルやレストラン、キャンプ場などがあります。(午前10時11分)


 その先の標識に左へ入れば「水泳場」と書かれていたので、ちょっと浜に出てみましょう。「宮ケ浜水泳場」です。今の時期は冷たい波が打ち寄せていますが広い砂浜です。向かいには沖島。その奥には比良山系が望めます。


 しばらく歩けば「小田ケ浜園地」の駐車場。山手に芝生公園があるようです。


 休暇村を過ぎれば「堀切港」に着きました。ここから「沖島」までの連絡船が発着します。(午前10時43分)


 午前11時台には船がないので出港まで時間があります。ここで1時間ちょっと時間をつぶさなければなりません。


 とりあえず歩いて7~8分ほど先にある「ファミリーマート」に行きましょう。お土産屋さんや来島者専用駐車場を左に見ながら進んで行きます。


 こんな時間です。沖島にはいくつか飲食店があるのですが予約制のようです。私は今日来られる確約がなかったので予約はできませんでした。ちょっと早いですがここでダラダラと買い物をした後、昼食としましょう。


 今日はファミマのイートインで昼食です。「おむすび2個セット」(税込280円)「どん兵衛きつねうどん」(税込274円)。私の歩紀は「グルメ旅行」ではないのでこれで十分です。どん兵衛「温かかった」です。


 食事を終え、午後0時15分発の船に乗るので港に戻ります。待合室の横に自販機はありましたが、見た感じトイレはありませんでした。そしてファミマではこんなものも売っていました。「おきしまえびせんべい」(税込770円)。沖島の天然スジエビを使っているそうです。


 連絡船が来ました。運賃は片道500円。乗船券は船内の自販機で購入します。小銭と1000円札(新札OK)のみ使えますが、島内で宿泊しないのであれば1000円で往復分買えば良いと思いますよ(往復券ではなく片道券が2枚出ます)。


 定員50人に25人ほどの乗客が乗っていました。私のような観光客と島民が半々くらいでしょうか。船が出港すればおじさんがチケットを回収にきます。往路で1枚渡し復路でもう一枚渡します。なお船内のトイレは故障のため使用不可でした。


 およそ10分の船旅です。沖島に到着しました。結構大きな港ですね。そしてまず最初に行くところがあります。(午後0時25分)


 それは港西側の高台にある「奥津島神社」。


 島の神様に参拝です。祭神は宗像三女神の「奥津島比売命」。やっぱり「海」なんですね。


 境内からは沖島の集落が一望できます。良い眺めですね。沖島は日本で唯一、湖上に浮かぶ有人島です。面積は約1.53㎢ですがほぼこの一角に密集しています。約250人の人が住んでいるそうですが、元は無人島で源氏の落ち武者がたどり着き「島の祖」となったそうです。つまり先祖は漁民ではなく武士なんですね。


 さあ島を探索しましょう。一応グーグルマップをプリントアウトしてきましたが、細い道が複雑に交わっているので全然役に立ちませんでした。ただ狭い集落ですので、どの路地に入ってもどこかに行きます。


 参拝を終え集落に入れば「沖島郵便局」。おそらく日本で唯一湖上に浮かぶ郵便局でしょう。ちゃんとATMもあります。


 すぐ先に公民館(沖島コミュニティセンター)がありました。集落の中心でしょうか。手前に自販機がありましたが、それ以外自販機は見ませんでしたので給水は先ほどのファミマか堀切港でしておきましょう。


 その前には何やら歌碑がありました。


 民家の角に「蓮如上人御旧跡」の石碑とお地蔵様。


 その横の路地を入って行けば浄土真宗「西福寺」。さっきこの路地を入って行った住職さんは若い女性でした。


 見学というよりもさ迷っている感じです。


 島民の方たちの足はもっぱら「三輪自転車」のようです。そして何故かサドルには空き缶が被せられています。


 路地を抜ければ「沖側?」に出ます。湖岸には小さな桟橋がありました。こちらからは「湖西」方向が望めます。比良山からの風(おろし)で結構湖(うみ)は荒れていました。対岸は近江舞子あたりでしょうか。


 カフェなどもあるようです。


 「陸側?」に戻ります。路地を入れば浄土真宗「願證寺」。島には先ほどの西福寺と合わせて2つの寺院があるそうです。


 港に戻り湖岸に沿って歩きます。


 桟橋には私たちを運んでくれた「おきしま」が停泊しています。


 港の端にこんなものがありました。沖島に車はありません。消防車の代わりに消防艇が。初めて見る光景です。ただ消防団ではなく東近江市消防本部の立派な消防艇が係留されていました。救急艇もあるそうです。沖島は近江八幡市ですが消防は東近江市が管轄しているのでしょうか。


 湖岸を進みます。自転車の路駐です。


 湖岸を歩いて行けば「沖島資料館」。沖島の生活様式などを展示した「手作り感」満載の施設ですが12月1日から翌3月31日までは要予約です。「残念」


 その先には「汀(みず)の精」。フナや小アユ、ビワマスなど「湖の幸」を味わえるちょっとお洒落なお店です。


 湖岸に沿って歩きます。


 少し歩けば桟橋があり小さな港になっていました。(午後0時57分)


 その向かいには「近江八幡市立沖島小学校」。「山の学校」「島の学校」ならぬ「湖の学校」。当然、日本唯一湖上に浮かぶ学校です。


 同校のホームページによると明治8年、先ほど訪れた西福寺というお寺のいわゆる寺小屋から始まった古い小学校のようです。


 ピーク時(昭和35年)には129人の児童がいたそうですが、今は何人の児童がいるのでしょうか…。幼稚園もあるようです。


 ここの体育館にあるトイレが観光客用に開放されています。きれいに使用しましょう。


 この先で集落は終わりますが道は続きます。


 「杉谷浜」という10mほどのとても小さな砂浜に出ました。


 航空写真で見ると沖島小学校には小さなプールがあるようですが、夏になれば子どもたちはこの浜で泳ぐようです。そうですよね「湖の子」ですから。


 そしてついに道は終わりました。そこには鳥居が。(午後1時17分)


 向かいにある山手の結構きつい階段を上ります。しかし毎日3階建ての校舎を行ったり来たりしている私にとって何てことはありません。そこは「厳島神社」別名「弁才天社」。弁才天は神仏習合では「市杵嶋姫命」。つまり最初にお参りした奥津島神社の「奥津比売命」と同神。「安芸の宮島」と同じです。何度も言いますが、やっぱり「海」なんですね。


 同じ道を戻ります。沖島小学校を過ぎ突き当りを右に曲がって山に沿って歩けば右に「おきしま展望台」と書かれた石段が。上ってみましょう。


 展望台だけあって素晴らしい眺めです。そして案内板によるとここは先ほど訪れた沖島小学校の跡地だそうです。昔は山の上にあったんですね。本州の真ん中から本州を眺める。何か不思議な感覚ですね。


 集落を抜けます。


 ぐるっと回って港に戻ってきました。真ん前には「沖島漁業会館」。漁業協同組合の建物です。


 「湖島婦貴(ことぶき)」という漁協のお母さんたちが経営する食堂。予約すれば食事を準備してくれるようです。


 会館右に公衆トイレがあります。島内のトイレはここと先ほどの小学校体育館だけです。その裏には沖島に流れ着いた流木で作られた「RYUBOKU HUT」というオブジェ。


 会館の左には「漁村の碑」と「魚介類供養塔」。連絡船の出港10分前です。約1時間30分の滞在でした。夏の時期にいくつかある飲食店や山のハイキングコースなどを訪ねながら一日かけてゆっくり過ごしたいところですね。午後2時発の船に乗ります。


 沖島よ「さようなら」


 堀切港に到着しました。「本土」に上陸します。


 先ほど昼食をしたファミマまで戻り、ファミマ前でカーブする県道に沿って右へ曲がります。この道は「さざなみ街道」です。


 途中「だいなか愛菜館」という農産物直販所がありました。干拓地ではお米のほかイチゴやスイカなども栽培されているようですね。(午後2時24分)


 田んぼの中の一本道を進みます。


 干拓地は新しく開発された農地であるため道路は「碁盤の目」状に走っています。


 私は旧「大中の湖」の西端を歩いています。


 「白王町東交差点」を過ぎて真っ直ぐ進みます。(午後2時47分)


 小さな丘沿いに進み「湖周白王交差点」の信号を過ぎると左に曲がる小径があるので入ります。真っ直ぐ進めば水路に突き当たるので右に見える「白王橋」で対岸に渡りましょう。


 この水路は琵琶湖と琵琶湖最大の内湖「西の湖(うみ)」を結ぶ「長命寺川」です。


 橋を渡れば左へ。長命寺川に沿って歩きます。前方には西の湖が見えてきました。


 やがて小さな集落に入ります。(午後3時2分)


 集落の沖合には石垣で囲まれた大きな「島」が。これは「権座」と呼ばれる湖に浮かぶ水田で、舟に乗って通い米作りをしているそうですよ。琵琶湖って本当にいろいろなものがありますね。この隣にはもうひとつ「南権座」があります。


 集落の手前を左に入り西の湖に沿って歩きます。轍(わだち)はありますが道は地道になりました。湖面では「よし」が群生しています。


内湖に沿って進んで行くうち左にサイクリング道が見えてきました。水辺に沿って進むこの道は「びわ湖よし笛ロード」というサイクリング道です。


 途中、水路にかかる小さな橋を渡って進めば景色の良い場所に出ました。「西の湖ポケットパーク」。(午後3時32分)


 目の前に景色が広がりました。西の湖は前回歩いた「大中の湖」が干拓された残りの水域でおよそ3k㎡あるそうです。ということは大中の湖はかなり大きかったんですね。水鳥の生息地として重要な湿地を保護するための「ラムサール条約」により登録されているそうです。


 しばらく歩けば右から合流してきた農道に下りることができるので下りましょう。広大な農地の中の一本道を進みます。


 ここも農道は碁盤の目状に走っています。4つ目の四つ辻を左に曲がり、大きなJA(農協)施設を目指します。


 振り返れば何やら森が。「新開(しがい)の森」といい、心霊スポットとしていわれがあるそうです。私は近江平野によく見られる鎮守の森だと思うのですが。興味がある人は自分で調べてください。


 川を渡りJAの施設前を右へ。100mちょっとでセブンイレブンがある「常楽寺交差点」に出るので信号を渡りましょう。ここから「安土」の町歩紀が始まります。(午後3時53分)


 水路を渡れば右へ入ります。ここは「常浜水辺公園」。昔ここに港があったそうです。地図を見るとわかるのですが、ここから西の湖を経て琵琶湖につながります。だから港があったんですね。


 春にはサクラがきれいだそうですよ。


 ここは「船溜まり」だったのでしょうか。


 公園奥の橋に案内板が。かつてこの辺りに「木村城(常楽寺城)」というお城があったようです。


 この石垣や水路もその名残でしょうか。


 水路に沿って歩きます。


 前回「伊庭水郷」を歩いた時の「カワト」のようなものでしょうか。


 そのまま水路を進んで行くと料亭の前に出ます。


 突き当りのお地蔵様の下から湧き水が。「音堂川湧水」です。安土は湧き水でも有名な町です。地元の方々によりきれいに清掃されています。静かに見学しましょう。(午後4時10分)


 料亭の前の道に戻り右へ。次の四つ辻をちょっと右に入って見ましょう。もう枯れていますが、ここにも小さな湧き水跡がありました。


 「梅の川」と言うそうです。


 四つ辻に戻り右へ。次の四つ辻を左に曲がれば良い雰囲気の街並みに出ました。


 この道は常楽寺交差点からの延長線上です。左には立派な蔵と漆塗りの白壁。


 その向かいには篆刻文字で彫られていますが浄土真宗「西性寺」。


 小さな金毘羅宮を過ぎます。


 ガソリンスタンドがある三叉路に小さな欄干がかかります。この水路は先ほどの常浜水辺公園に続きます。間もなくゴールです。


 案内板によると江戸時代から昭和初期まで船着場があったそうです。


 その向かいにある50mほど水路に沿って歩いてみましょう。


 その先に地蔵堂が立ちます。(午後4時18分)


 このお地蔵さんは「円満地蔵尊」といい、お地蔵さんの下から湧く霊水に足をひたせば「家族円満・夫婦円満」のご利益が得られるということから「足涌(あしゆ)」と呼ばれているそうです。


 ここは「北川湧水」。


 きれいな水ですね。


 道なりに進み消防器具格納庫の先で左に道が曲がります。このような案内表示がたくさんあるので助かります。


 その先の突き当りを右に曲がって県道を横断。「惣構え土手跡(推定地)」という案内板が立つ「安土コミュニティーセンター」を右に見ながら進みます。


 その先のキリスト教会がある四つ辻の角には何やら石碑が。(午後4時25分)


 「朝鮮人街道」と刻まれています。右に曲がりましょう。この道は中山道「高宮宿」から彦根を結んだことから「彦根道」というそうですが、中山道の脇街道で「朝鮮王朝」からの使節団である「朝鮮通信」の通行が許されたことから「朝鮮人街道」とも呼ばれるそうです。


 ただ結構宅地化が進んでいるようですね。


 200mほどで右に神社が。歩紀最後にお参りしましょう。


 「上豊浦八幡神社」です。由緒の詳細は不詳ですが八幡社なので「誉田別尊(応神天皇)」をお祀りするのでしょう。


 その向かいには「天台宗平等寺」という立派なお寺が。


 その突き当りを右に曲がり駐在所前を過ぎれば本日のゴールJR「安土駅」。午後4時35分到着。前回は南口でしたが今日は北口です。午後4時51分の電車に乗ります。


 1階には観光案内所。営業時間は午前9時から午後5時までです。まだ時間がありますね。次回の「近江八幡町歩紀」に備えてパンフやマップをもらいましょう。


 駅前ロータリーでは「織田信長公像」がお見送りです。


 本日の歩紀「39451歩」(26.82km)。古刹参拝と島歩紀、町歩紀。良い歩紀でした。これからどんどん寒くなります。雪が降らなければいいのですが。滋賀県は豪雪地帯でもあります。


 今日は「ハイボール」(税込550円)と「にぎり鍋やきうどん」(税込1400円)でひとり打ち上げです。「かんぱ~い」。


 そして昼食のため立ち寄ったファミマには何と「地酒コーナー」がありました。


 ということで今回の地酒です。ワンカップではありませんが、地元東近江市の蔵元「増本藤兵衛酒造場」さんの純米酒「薄桜(300ml)」(税込503円)。「おきしまえびせんべい」を肴にいただきま~す。
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新聞斜め読み〜高校ラグビー〜

2024-12-12 05:08:45 | 日記
 年末年始恒例「全国高校ラグビー」の組み合わせが決まったようです。私は自分がするのは別として、スポーツの観戦にはあまり興味はありません。特に野球には全く興味がないので新聞のスポーツ面もほとんど見ません。

 ただ高校ラグビーにはちょっと興味があります。私が卒業した小中学校の校区内に「高校ラグビーの甲子園」と言われる「花園ラグビー場」があり、そのためか中学校としては珍しくラグビー部があったからかもしれません。また試合開催中しか使われない広い駐車場は、私たちにとって恰好の遊び場でした。


 出場校を見ると伝統の強豪校よりもやはり高校野球同様スポーツ専攻コースのある私学や体育会系大学の附属校が多いですね。選手も全国各地から集まり都道府県色もあまり感じられません。そんな中で大阪府は主催団体の一員だからでしょうか3校が出場します。その中のひとつ「常翔学園」は校名が変わりましたが旧「大工大附属」。42回出場の強豪校です。応援していますよ。
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健さん

2024-12-09 00:44:13 | 日記
 新聞を再読するようになって1ヶ月が過ぎました。平日は出勤前に15分程の斜め読みですが、休日は2〜3時間あるいは1日かけてじっくりと読みます。今日のコラム記事は「健さん」こと高倉健さんでした。亡くなってからもう10年が過ぎるんですね。


 俳優として色々な役を演じました。「侠客」「刑事」「軍人」「市井の人」などなど。そして共通するのは記事にも書かれているように「昭和の男」そして「孤独」「不器用」。

 そんな中で私が一番大好きなのが、二・二六事件を描いた「動乱」と言う映画で上官から反乱軍への関与を疑われた際の「自分は軍人であります。政治に興味はありません」というセリフです。私は群れない派閥を作らない健さんの大ファンでした。健さんが最も似合わない役は「政治家」でしょうね。
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新聞購読

2024-12-06 21:18:45 | 日記
 私は長年「新聞」を購読してきました。「A紙」「S紙」「Y紙」を経て最終的にはこの内の一つに落ち着きました。


 しかし最近ではスマホひとつあれば最新の情報が得られるということで定年退職を機に定期購読を止めたのです。実際、私の娘夫婦はふたりとも最初から新聞は購読していませんし、職場でも若い人たちはほとんど新聞は読んでいませんね。老眼のためメガネを頭に引っかけている姿と相まって、新聞はもはや「老人の象徴」「昭和の遺物」になってしまったようです。ただスマホ画面を見るときもメガネは頭に引っかけるのですが(笑)

 ただこれは表向きの理由で最も大きな理由は退職による「収入減」。一応、贅沢をしなければ趣味でも外食でもそれなりの生活はできるのですが、やはり切り詰められるところは切り詰めなければ。たかが月4000円ちょっとですが、そのひとつが「新聞購読」だったのです。これが平均的な国民の現実でしょうか。

 私は新聞が大好きだったので、やはり新聞がない生活は淋しく時々コンビニで購入したり、飲食店や喫茶店で備え付けの新聞を読み漁ったり、わざわざ図書館に新聞を読みに行ったこともありました。しかし5年も過ぎると新聞のない生活にも慣れてきました。

 ところが先日、以前購読していた新聞販売店の勧誘員が自宅の玄関先にやってきたのです。夏の暑い日のことでした。最近はどの業種でも同じだと思いますが新聞も集金や販売拡張は販売店の店主や店員さんじゃなく委託を受けた別の会社の人が来るんですね。その時ちょっと雑談をしたのですが、やはりこの業界は厳しいようです。間もなく新聞購読料も値上げするそうですし、構造的な不景気。SNSの普及。真っ先に間引きされるのが新聞のようです。

 勧誘員は若いお兄さんでした。職を転々とし、以前は「たこ焼き屋の店長」をしていたというフリーターで、一度「セールス」の経験をしたいということでこの業界に飛び込んだそうです。まあセールスマンの話ですので全てを信じているわけではありませんが、まだ仮採用で契約が取れなければ採用してもらえず、まだ一件も契約が取れていないとのことでした。別に汗をボタボタ流しているお兄さんに同情したわけではありませんが、怪しい商品の勧誘でもないし3カ月という約束で、年末年始を挟んだ11月から1月までの購読契約を交わしました。

 おそらく3か月後には「継続契約」の話を持ってくるでしょう。その時にはもうこのお兄さんはいないかも知れません。販売店としてはまた委託した別の勧誘員に依頼すれば済むだけの話です。それがこの国の現状です。ただ、あのお兄さんがセールスの経験を活かし、より立派な「フリーター」になっていることを願います。

 ところでやはり新聞のある生活は良いですね。時代遅れと言われる「紙媒体」ですが、SNSの様にピンポイントで情報検索するのとは異なり「斜め読み」ができます。私は「経済面」と「スポーツ面」には興味がないのですが、それでも視覚を通じて頭に入ってきます。折り込みの求人広告を見れば社会の情勢も感じられます。おそらくSNSより情報量は多いでしょうね。語学を学んだ人はわかると思いますが、電子辞書で単語検索するのではなく、その単語に行きつくまで辞書に付く手垢と比例して単語を覚えるのと同じです。まあ先日も某県知事選挙でSNSの影響力が話題になっていましたが、どこまで信頼できる情報なのでしょうか???

 そんな中、年金生活者として微々たる金額でも社会に還元し、なかなか定職に就けない若者世代にエールを送る意味で3か月後には継続契約をしようと思います。頑張れ「日本」じゃないぞ。頑張れ「日本人」。しっかりしろ「日本」。
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80年代の韓国歩紀~龍頭山公園

2024-12-02 21:51:08 | 日記
 釜山市街地の中心に「龍頭山」という小高い丘があり「龍頭山公園」という公園があります。公園内には「釜山タワー」という展望タワーがありました。


 高さは120mほどですが龍頭山自体が標高180mほどありますので釜山市内が一望できます。




 準戦時国家である韓国は空港などの主要施設や高所からの写真撮影は禁止されているはずです。もし見つかれば国家保安法違反容疑で拘束されるかもしれません。しかし英語でも日本語でも漢字でもそのような注意書きはありませんでした。もしハングルで書かれていたのであれば「外国人」観光客には読めませんよ。「サジンチャリョンクムジ(写真撮影禁止)」。私は読めましたが…。
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気象予報士

2024-11-30 13:02:31 | 日記
 ニュース番組や天気予報で「お天気解説」をするアナウンサーやお天気お姉さんと呼ばれる女性キャスターとは異なり、気象庁の観測データー等を元に専門的知識による「気象予報」をするための国家資格です。平成の時代に入ってできた比較的新しい資格です。

 受験資格に制限がないため小学生や高齢者の合格者もおり話題になりますが、合格率が数%の超難関資格のため一種のトレンドや趣味として受験する人も多く、俳優やニュースキャスターを始めいろんな人が取得している資格としても有名です。

 気象予報士を本業とされている方のほとんどは淡々と気象予報をし、企業や報道機関、官公庁などに気象予報情報を提供しているのでしょうが、ほんの一握りの方は報道番組の「お天気キャスター」として毎朝毎晩テレビに出演し、半ば「芸能人化」している方もいらっしゃいますね。

 また気象予報の内容によっては洪水や土砂災害も予想されることから「雨による災害にご注意ください」から一歩踏み込んで「水や食料の準備、避難場所の確認をしましょう」と解説されることもあります。そのためでしょうか?ほとんどのお天気キャスターは防災士の資格もお持ちですね。ただ気象予報士は明らかに防災士より上級の資格のうえ防災士は民間資格なので気象予報士資格があれば、わざわざ防災士の資格を取らなくても良いような気もしますが…。

 そして先日あるニュース番組のお天気キャスターの方が「今晩から明日の朝にかけて寒暖の差が激しいです」の後「こういう日は喉のイガイガに気をつけましょう」とおっしゃっていました。そして何と次の日の朝。目覚めると本当に喉がイガイガしていました。気象予報士さんってすごいですね。お医者さんみたいです。
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琵琶湖一周歩紀7~寺院集落と内湖を訪ねながら「幻の城」をめざし湖東を歩く~

2024-11-24 00:54:25 | 日記
訪問日:令和6年11月20日(水)
出 発:JR「彦根駅」
到 着:JR「安土駅」

 今日はとても寒いです。「秋」はどこへ行ったのでしょうか。日本は「暖季」と「寒季」の「二季」の国になってしまったようです。今のうちに歩きましょう。ということで今回は彦根城の南側にある城下町を散策した後、広大な平野に点在する浄土真宗寺院を中心とした「寺院集落」や土砂の堆積等により琵琶湖から分離した「内湖」と呼ばれる沼を訪ねながら織田信長が築城した幻の名城「安土城」をめざします。基本的に県道(さざなみ街道)に沿って歩くので給水・トイレには困りませんが飲食店はネット情報で。


 今日は水曜日ですが土曜出勤の代休です。前回のゴール「彦根駅」。今日は最寄り駅の2番電車でやってきました。大阪駅から約1時間30分(1980円)。午前8時前。ちょうど通勤時間帯です。眠たい目をこすりながら今日も元気に出発。ここは滋賀県彦根市。


 駅の西口から南へ。以前「竹生島」へ行く際に乗ったシャトルバス乗り場を右に見ながら進みます。「中環東西通り」の高架下をくぐれば右へ。通りの側道を進みます。


 途中、左に神社が見えてくるのでそのまま側道を進み、次の辻を左に曲がれば「賢木神社」の鳥居。「サカキ」と読むそうです。神仏習合時、金剛寺宝珠院という寺院の境内にあった小社に当時の彦根藩主「井伊直治」が伊勢神宮を勧請、天照大神等をお祀りします。今日一日の安全を祈願しましょう。


 中環東西通りまで戻り左折、そのまま真っ直ぐ進みます。途中、植え込みの中に「油懸口御門跡」。彦根城外堀に7つあった門のひとつだそうですが今は石碑が残るだけです。


 この道はやがて彦根城の外堀に出るのですが、彦根郵便局を過ぎ「立花町交差点」を左へ入ります。すぐにひとつ目の辻を右へ入れば「伊藤邸」。古い町家です。


 その隣には「俳遊館」というプレートが掲げられたレトロビル。大正12(1923)年に「旧彦根信用組合本店」として建てられたそうです。


 そのまま進み市立彦根幼稚園を過ぎれば右に彦根本町郵便局。その隣にもレトロな建物が。彦根本町郵便局の「旧局舎跡」です。


 次の辻を右に曲がれば彦根城の「外堀」に突き当たるので左折。ここは以前、彦根城を訪れた際に通過した「京橋交差点」。ここを左に曲がれば江戸時代の城下町を再現した「夢京橋キャッスルロード」という通りです。入って行きましょう。(午前8時21分)


 観光的に整備されているので良い雰囲気の景色が続きます。


 当時を再現した建物はお土産屋さんなどとして使われています。


 2つ目の右角の先には「奥野家住宅」。内部は非公開ですが醤油の醸造などをしていた旧家で国の登録有形文化財に登録されています。


 その先には浄土宗「宗安寺」の山門。石田三成の居城「佐和山城」の朱色に塗られた城門を移築したものと伝わり「赤門」と呼ばれています。


 平日のうえ時間が早いのでちょっと閑散としています。


 突き当りの「本町1丁目交差点」角には「関西みらい銀行彦根本町出張所」。無人ATMですが「両替商」という看板が掲げられていました。


 「本町1丁目交差点」を渡り左へ。この辺りは旧彦根藩の足軽で「善利組」と呼ばれる組の屋敷が並んでいたようです。(午前8時28分)


 ひとつ目の狭い路地を入れば左に「大野家住宅」。今は子孫の方が住んでいるのでしょうか同姓の表札が掛かっていました。


 その先右には「吉居家住宅」。


 さらにその先の左には「服部家住宅」。いずれも個人の住宅のようです。


 その先の角には「磯島家住宅」。四つ辻にあり「辻番所」という見張り小屋を兼ねていたそうです。


 ここは歴史的施設として土日祝に限り一般公開しているようですが公開時間は午前10時から。


 この四つ辻を右に入り2つ目の角には「藤井家住宅」。ここを左に曲がり旧足軽屋敷跡を後にします。


 突き当りの小さな祠がある土手に上がれば右へ。この道は「芹川けやきみち」と呼ばれているようです。


 芹川に沿って歩き、二つ目の橋で芹川を渡り右へ。当然、芹川は右に見えます。


 県道(さざなみ街道)と交わる手前に小さな橋があるので、その橋で左から合流してきた「平田川」という小さな川を渡ります。霊園を過ぎ北川という小さな川を渡れば右に「神明神社」。神明ということは「お伊勢様」。天照大神をお祀りするのでしょう。長い間「歩紀」をしていると、そんなことは常識です。


 そのまま進めば浄土真宗「西福寺」の裏に出ます。正面に回ってみましょう。


 ここも寺院集落なんですね。


 西福寺裏の先ほどの道まで戻り左へ。道なりに進んで行けばさざなみ街道と合流し、左に「セブンイレブン」が。給水ポイントです。その先にある「犬上川橋」で犬上川を渡ります。(午前9時12分)

 
 「滋賀県立大学前交差点」をそのまま真っ直ぐ進みます。右には琵琶湖。正面に「多景島」が見えます。


 「八坂町中交差点」を左に曲がり琵琶湖を背にして進みます。次の四つ角を右に曲がればすぐに浄土真宗「本光寺」。ここも寺院集落です。


 そのまま良い雰囲気の路地を進みます。


 「江面川橋」というコンクリート橋で江面川を渡りますが、その手前には「八坂港跡」の石碑。(午前9時28分)


 橋を渡れば右に「八坂警察官駐在所」。消防団は村人が村を守りますが駐在所は県が村を守ります。しかし駐在さんは村人のひとりです。そこが交番との違いです。


 駐在さんを過ぎれば右に「八坂地蔵大菩薩」。お地蔵さんも村を守っています。


 「八坂町南交差点」でさざなみ街道と合流し、「うなぎ屋」さんを過ぎて次の四つ辻を左に曲がりましょう。突き当りには「野田沼」。(午前9時39分)


 私は釣りに全く興味はないのですが、ここでは色んな淡水魚が釣れるそうです。コイ、フナ、モロコ、タナゴ、カワムツ……。


 沼に沿って歩けば駐車場に出ます。駐車場の手前から琵琶湖に向かって進みましょう。駐車場の角に公衆トイレがあります。


 突き当りを左へ。道なりに進んで橋を渡ります。


 三つ目の辻を右に入れば浄土真宗「光淵寺」。


 そのまま進み突き当りを左へ。ひとつ目の辻を右に入り湖岸に出ましょう。遠くに伊吹山が見えます。


 小さな漁港に出ました。


 道に沿って進めば右に橋が見えます。橋の手前にある木造の建物は「磯田漁協」。ここは磯田という漁村なんですね。


 橋を渡ってビワイチサイクリングロードに沿って進みます。


 橋で「宇曽川」を渡れば湖岸緑地「三津屋」です。遠くに次回訪れる予定の「沖島」が浮かんでいます。(午前10時5分)


 その向かいの路地を入れば浄土真宗「賢学寺」。浄土真宗「蓮光寺」。真宗大谷派「円徳寺」と寺院が並びます。






 集落を抜け左へ。キャベツ畑を右に見ながら水路に沿って歩きます。


 アンダーパスをくぐりれば突き当りには「曽根沼」。(午前10時15分)


 沼に沿って歩き駐車場の先を左に曲がります。沼に沿って歩きましょう。


 突き当りに「彦根麦酒荒神山醸造所」。地ビールの醸造所ですが、火・水曜日は定休日のようです。「残念」


 来た道を戻ります。釣り人が糸を垂れています。


 さざなみ街道を左折。しばらく進めば干し大根の向こうに「美浜館」という農産物直売所。地酒でも買おうかと思いましたがありませんでした。仕方ないので店の脇から裏の農道に出て左へ進みます。


 小さな川を越えれば集落に入ります。6つ目くらいの路地を右に入れば浄土真宗「本隆寺」。ここも寺院集落です。


 この辺りは多くの水路が引き込まれているので寺院集落は「環濠集落」の様になっていますね。


 その先の小さな水路に突き当たれば左へ。次の四つ辻を右折し突き当りを右に曲がれば湖畔に出ます。湖畔に立つ木の下には何やらベンチが。琵琶湖一周歩紀の第2回目に「そのベンチ」を訪れましたが「このベンチ」は「そのベンチ」の元祖とも言える「あのベンチ」です。(午前10時46分)


 コロナ禍の一時期には撤去されたそうですが、ご近所の方が置いたベンチが「インスタ映え」したことから「恋人の聖地」などとして話題になり、特に名称がなかったため「あのベンチ」として語り継がれ、そのまま観光名所になったそうです。良い景色ですね。


 元に戻り琵琶湖を右に見ながらさざなみ街道を進みます。墓地公園を過ぎて小さな川を渡れば集落に入りますが、そこには六地蔵と「南無阿弥陀仏」の石塔。日蓮宗の「題目石塔」はよく見ますが、やはりこのあたりは浄土真宗なんですね。


 集落に入ればお寺の大きな屋根が見えてきました。


 その先の「薩摩町自治会館」前を左に曲がれば真宗大谷派「西宗寺」。


 突き当りを右折します。道なりに進めば浄土真宗「善照寺」。立派なお寺ですね。


 善照寺山門前を少し進めば左に入る小さな路地があります。その先には「神上沼」。(午前11時14分)


 沼に沿って歩きましょう。


 沼が終われば右に入り寺院集落を抜けます。突き当りを左に曲がり料亭前を過ぎて川を渡ります。すぐ先に公衆トイレがあるので、その前から湖岸に入ります。ここは「柳川公園」という湖岸緑地です。


 鴨が群れる向こうには比良の山々。


 緑地を抜け児童遊園を過ぎれば駐車場とトイレがあります。その先にも公衆トイレがありますが、ここのトイレが一番きれいでしょう。ここで一旦県道に出て右折します。(午前11時27分)


 さらに県道を進み「うどん屋」さんを過ぎて水路を越えれば左へ。田んぼの中の一本道ですので目印がありません。グーグルマップ等でお確かめください。左にため池を見ながら進みます。


 すぐに小さな集落に入ります。突き当りの左には浄土真宗「光厳寺」。


 この突き当りを右折し狭い路地を抜けます。


 水田を越え次の集落に入れば左の消防器具庫横に「新海西分教場之跡」の銘板が。今は児童公園になっているようです。公衆トイレがあります。(午前11時47分)


 次の四つ辻を右に入り100mほど進んで集落をぐるっと回ります。そこには浄土真宗「報恩寺」。


 その先には「延命地蔵尊」。


 地蔵尊を左に見ながら集落に入ります。浄土真宗「両厳寺」の前を通り過ぎれば道は間違っていません。


 その先で川の堤防に突き当たり道が左右に分かれるので右に上がりましょう。すぐに大きな橋があるので渡ります。この川は「愛知川」。「えち」と読みます。琵琶湖に注ぐ大河のひとつです。


 橋を渡れば河川敷に「ふれあい運動公園」。簡易トイレや自販機があります。


 遠くからスピーカーで正午を知らせるオルゴールが流れてきました。今日も腹時計はピッタリです。ここで食事にしましょう。東屋やベンチもあるようですが、今日は曇り空であるものの日差しや風がなかったので草っぱらに新聞紙を敷きピクニック気分で弁当を食べます。


 今日の昼食は途中の「セブンイレブン」で買った「しらすと明太子のごはん」(税込322円)と「味付き半熟ゆでたまご2個」(税込205円)。さっきから上空をトンビが回っているので、かっさらわれないよう気をつけましょう。


 午後0時20分、食事を終え出発。お年寄りたちがミニゴルフ(ゲートボール?)を楽しんでいるグランド前から堤防に上がれば左に曲がる道があるので進んで行きます。


 二又に出れば左へ入ります。さらに二又が現れるので左へ。7~80mで左に「日枝神社」。元彦根藩の所領で付近は湖辺を開墾してできたことから氏神がなく、江戸時代に入り「大山祇神」を勧請したそうです。立派な神社ですね。


 鳥居を背にして集落内に入ります。突き当りを左に曲がれば100mほどで浄土真宗「西廣寺」。


 お寺の前の路地を入れば左に「英霊碑」。この集落からも多くの若者が出征したのでしょうか。「合掌」


 その先で日枝神社からの延長線上に出ます。右に曲がり水路沿いに進みましょう。


 やがて正面に大きな施設が見えてきました。道なりにぐるっと回ります。そこには大きな堰が。「大同川排水機場」というそうです。(午後0時41分)


 端っこには「閘門」があり船が通れるようになっています。


 ダムの堰堤のように堰の上を通ることができます。下を流れるのは「大同川」です。ここにはかつて「大中の湖」という巨大な内湖があり70年以上前から干拓が行われ、その名残のようです。


 堰を渡れば広大な田畑が広がります。


 対岸に何かぽっかりと口が開きます。表現が悪いかも知れませんが、大腸にできた「憩室」のように小さな内湖があります。私は「憩室持ち」です。いつも大腸内視鏡検査でひっかかります。


 右に広大な田園を見ながら大同川に沿って歩きましょう。結構な距離を歩きますよ。


 この後訪れる「伊庭内湖」やすでに干拓された「弁天内湖」。そして琵琶湖最大の内湖として今も残る「西の湖」と隣接しており、これらを合わせれば「諏訪湖」ほどの大きさがあったのではないでしょうか。それが今は広大な農地になっています。琵琶湖って本当に大きいんですよ。


 大同川が大きく開けるとそこは「伊庭内湖」。(午後1時12分)


 この辺りは「カヌーランド」という園地になっています。


 しかし工事のため閉鎖されていました。


 この辺りは利水、治水、精米、製粉などに利用するため、いくつもの水車が並んでいたそうです。復元された水車が見えます。電動でない証拠でしょうか。誰もいない公園に水車の「ガッタン、ガッタン」という音だけが響いていました。


 ここの売りは「ふるさと創成事業」の一環として復元された直径約13mの大水車だったのですが撤去されていました。遠くから大きなやぐらが見えていたので嫌な予感がしていたのですが…。ただ横断幕を見ると「三代目」ができるようですね。


 仕方ありません。伊庭内湖に沿って進みます。流入部に出れば左の橋を渡り内湖の対岸に出ましょう。


 200mちょっと進めば「金刀比羅神社」がある四つ辻に「伊庭の水辺景観」の看板が。(午後1時34分)


 小さな水路に沿って進みます。なんだかワクワクします。


 途中で道は左にカーブしますが、そのまま狭い道に入りましょう。期待を裏切りませんね。


 水辺に下りるこの石段は「カワト」というそうです。


 鉄製の現代版カワトもたくさんあるので日常生活では欠かせないのでしょうね。


 右に「平和橋」という石標があれば、その向かいの路地に入ります。


 そこには「妙楽寺」という大きなお寺が建ちます。(午後1時42分)


 そしてここには寺院が4つ並ぶというか妙楽寺の境内に4つの寺が建ち「門内四ケ寺」と呼ばれているとても珍しい風景だそうです。


 山門をくぐってすぐ右に「源通寺跡」。元々「住職無住」のお寺だったそうですが文政2(1819)年の地震で倒壊後、再建されたものの昭和18年、妙楽寺に合流され閉山したそうです。


 その奥には「誓教寺」。お寺らしからぬ本堂は、明治時代の「廃仏毀釈」から逃れるためだったそうです。天災は仕方ありません。戦災。人類の愚かな行為ですが、それによる文化の喪失は結果であって目的ではありません。しかし文化の破壊を目的とした「廃仏毀釈」。日本史上で最も愚かな政策だったと私は思っています。


 その向かいには「浄福寺」。


 奥には「法光寺」。塔頭ではないのですが境内に4つのお寺が並んでいたのですね。


 そして一番奥に妙楽寺の本堂が建ちます。いずれの寺院も元は天台寺院だったそうですが、真宗仏光寺派に改宗した後、元文4(1739)年、浄土真宗に転派したそうです。


 参拝を終え山門に戻り右へ戻ります。


 平和橋の石標を左へ。水路に沿って歩けばすぐに「陣屋橋」という小さな橋があります。橋の下には「田舟」。


 橋の奥には何やら大きな建物が。今は「勤節館」という集会所になっていますが、案内板によると建久年間(1190~98)、近江源氏の八代目佐々木行實の三男実實がここに「伊庭城」を構え、伊庭氏を名乗ってこの地一帯を治めたそうです。そしてこの辺りは「伊庭水郷」と呼ばれています。(午後1時49分)


 城の遺構は残っていませんが、田舟横の石垣が伊庭城の石垣跡と言われています。橋の名前からすると本格的な城郭ではなかったのでしょうね。


 水路に沿って歩きましょう。




 浄土真宗「正厳寺」の前には小さな水車が再現されていました。
 

 正厳寺前の水路にも田舟。


 そして境内には「愛郷流水之碑」。こういうことらしいです。


 地図を頼りに落ち着いた水郷集落を抜けます。




 途中、大同川を渡り水田の間を進んで行きます。何の目印もありません。地図を頼りに前方に見える山塊に向かって進みましょう。結構な距離を歩きますよ。


 半島のように突き出た小高い山に突き当たれば右に曲がり、山の西側を進みます。途中、分岐があれば左へ。とにかく山裾に沿って歩くのです。そしてこの左に見える山中に「安土城跡」があります。右に開ける水田は干拓された「弁天内湖」跡。そう安土城は伊庭内湖と弁天内湖に突き出た高さ200mほどの半島の上にあったのです。


 「匠の里」という施設の前を通り過ぎます。


 左に立派な石垣が見えれば右には水路。真っ直ぐ進みましょう。


 やがて水路には「百々橋」。「どどばし」と読みます。かつてここに安土城の城門があったようです。(午後2時43分)


 橋を渡って城門跡を撮影しました。


 橋の横に川へ下りる階段があったので川辺からも撮ってみました。


 左には石垣も見え始め「お城感」が漂ってきました。「桝形虎口」「平入り虎口」の跡です。


 そのまま進み大きな駐車場の前には「城なび館」(入場料200円)。隣に公衆トイレがあります。なお城跡にはトイレはありませんので、ここで済ませておきましょう。
 

 ちょっと戻れば登城口である「摠見寺(そうけんじ)」というお寺の受付があり拝観料700円を払って入ります。摠見寺は信長が建立したという臨済宗の寺院です。そして安土城跡全域は摠見寺の所有(境内)になっているのです。手前と奥に自販機があります。この先はかなり急な上りです。息が上がるので必ず飲料水を補給しておきましょう。(午後2時53分)


 この長い石段は「大手道跡」です。「城ファン」の方たちにとってはお馴染みの場所ですね。


 受付をくぐってすぐ左には「伝羽柴秀吉邸跡」。大手道の左右には信長の家臣らの屋敷があったと伝わりますが、今は遺構を残すのみです。


 大手道を挟んで向かいには「伝前田利家邸跡」。


 立派な石垣ですね。


 その先には摠見寺仮本堂。徳川家康邸の跡地と伝わります。鐘楼がありましたが仮本堂自体は期間限定で別途別料金で公開されるようです。なお本堂は火災で焼け落ちました。後ほど本堂跡を訪れます。


 急な石段はまだまだ続きます。先ほど歩数計を確認すれば、この時点ですでに45000歩、31km以上歩いていました。足の疲労がMAXの状態でこの急坂はきついですね。給水・休憩をしながら上ります。


 所々このようなものがあります。石材として使用された石仏や墓石いわゆる「転用石」です。福知山城や大和郡山城でも見られますね。


 「織田信忠邸址」碑の三叉路で案内表示に従い右の石段に進みましょう。(午後3時5分)
 

 途中、石段の左には「織田信澄邸址」と「森蘭丸邸址」の碑。


 石段が桝形になりました。そこは「黒金門跡」。本丸へと続く第一の門です。


 直角に曲がれば大きな石垣が。「城ファン」であれば体を震わせて喜ぶような光景です。


 さらにその先で直角に曲がることを余儀なくされます。お城は軍事施設ですから。城ファン「大興奮」です。


 突き当りには「仏足石」が。これも発掘で発見された転用石のひとつだそうですが、仏足石はお釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは仏像以上に崇拝の対象とされていることから遺物として展示されているそうです。


 その先に「護国駄都塔」と彫られた石碑。安土城天主の地階部分を表す言葉だそうです。赤い「天主跡」の矢印に従い右へ進みます。
 

 そこには広い空間。「本丸跡」です。「千畳敷」とも呼ばれ天主台を仰ぐ「本丸御殿」が建っていたそうです。


 奥の石段を上れば何やら遺跡発掘調査をしていました。ご苦労様です。


 そしてその横には「天主閣址」の碑。間もなくです。


 石段を上ればたくさんの礎石が並んでいました。ここに幻の城と呼ばれる「安土城」の天主閣がそびえていたのです。そしてここは地上6階・地下1階、高さ33mの地下1階部分。この上に2倍半近くの広さの天主台があったそうです。壮観だったでしょうね。(午後3時15分)


 天主閣址の裏からは琵琶湖が望めます。信長もここから琵琶湖を眺めたのでしょうね。ところがここで突然、左足首が上を向いたまま動かなくなりました。上りなら何とか歩けますが、これでは下れません。大変です。左足のシューズを脱ぎ足首を2~3分マッサージすると何とか元に戻りました。軽い痙攣を起こしていたんでしょうね。山での事故や遭難はこうして起きるのでしょうね。


 さあ下山です。同じ道を戻ります。本丸跡から進めば奥に「二の丸阯」「織田信長公本廟」の碑が立っていました。


 秀吉が信長ゆかりの太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬し本廟としたそうです。信長は残酷なほどの殺生を繰り広げてきましたが、やはり歴史上の偉人です。手を合わせておきました。


 さらに下ります。先ほど黒金門跡で矢印に従い右折したので気づかずに通り過ぎてしまいましたが、黒金門跡の左奥に小さな石段がありました。


 奥には4基の五輪塔が並んでいます。「織田信雄四代供養塔」です。
 
 
 先ほど通った織田信忠邸址の三叉路に出ました。帰路は右です。曲がりましょう。(午後3時31分) 


 少し歩けば「摠見寺本堂址」。天主炎上の際も類焼は免れたそうですが、安政元(1854)年に火災で焼失。最初に訪れた徳川家康邸跡に仮本堂を建て移転しました。今は礎石が残るだけです。


 本堂跡の前からは「伊庭内湖」が望めます。


 そして本堂跡の横には「三重塔」。室町時代の享徳3(1454)年建立。その後、修理・修復を経ていますが500年以上前のものが何でもない山中にひっそりと佇んでいるなんて素晴らしいことですね。国の重要文化財です。


 三重塔前の石段は「二王門」へと続きます。登山も同じですが下りは疲労がたまっているうえ体重以上の負荷がかかり、足首を挫いたり転倒する恐れがあります。気をつけて歩きましょう。特に高齢者は。


 「阿」「吽」の二王が睨みをきかせます。これも元亀2(1571)年の建立と伝わり国の重要文化財に指定されています。


 まだまだ石段は続きます。古城や古刹の石段は当時の日本人の体格に合わせているからでしょうか。幅が狭いものが多いようです。かかとを石段の角にぶつけて転落しないように気をつけましょう。特に高齢者は。


 やがて山道に入りますが平坦な道になるので心配はありません。木の根につまずかないように気をつけましょう。特に…。


 そしてこの道は受付を入ったところの伝羽柴秀吉邸跡で大手道と合流します。つまり復路では大手道は通りませんので、往路でしっかりと見学しておきましょう。
 

 1時間の見学時間でした。安土城跡を後にします。間もなくゴールです。(午後3時53分)


 城なび館前の駐車場を過ぎ「安土城址交差点」で信号を渡ります。その先にある沼は「外堀」の跡だそうです。だいぶ陽が傾いてきましたね。


 小さな船着場になっていたので外堀越しに安土城跡を望みます。


 先ほどの安土城址前交差点までもどり県道を左へ進みます。車で来ればこんな光景なんですね。


 外堀端の小さな橋を渡って進んで行けば「セミナリヨ跡」。(午後4時6分)


 現地の案内板によると天正8(1580)年、イエズス会のオルガンチーノ神父が信長の許可を得てここにセミナリヨというカトリック神学校を建てました。「本能寺の変」で信長が討たれた後は明智勢の侵攻より廃墟となり、京都・大坂などを転々とした後長崎に移転。最終的には徳川幕府の大追放令により廃校となったそうです。
 

 地図を頼りに進んで行きますが縮尺が大きかったため細街路で完全に道に迷いました。しかしグーグルマップのお陰で何とか予定のコースに復帰。


 この道を真っ直ぐ進めば東海道線に突き当ります。右に曲がれば「安土駅北口」前に出るのですが、今日は「南口」がゴールなので左折します。しばらくすればアンダーパスがあるのでくぐりましょう。
 

 道なりに進んで行けば東海道線の向こう側に出ました。線路に沿って進めば前方に「安土駅」が見えてきますが、その手前に立派な瓦屋根の建物が。「安土城郭資料館」です。電車まで時間があるので入場料200円を払って入ってみましょう。(午後4時26分)


 20分の1に復元された天主閣や絵図などが展示されています。


 天主閣は内部も復元されており、先ほど訪れた天主閣跡が地下1階部分であることがよくわかりますね。


 10分ほどの見学です。駅は目の前。午後4時35分、本日のゴール「安土駅南口」に到着です。午後4時51分の電車に乗ります。大阪駅までは約1時間30分(1520円)。ちょっと歩速を早めたのは距離的なことと今回最大の観光スポットである安土城跡での見学時間を多く確保するためです。ただ「安土城」と「彦根城」に挟まれ、観光的には空白スポットである「中世湖東の寺院集落」や「水郷集落」。水田に佇む「内湖」も素晴らしかったですよ。


 本日の歩紀「52295歩」(35.56km)。歩きましたね。今日は時間の関係で訪れませんでしたが、ちょっと離れたところに「安土風土記の丘」という歴史公園があり、レストランや博物館などがあります。ただ特に「歴史ファン」でなければこの「安土城郭資料館」で十分だと思います(あくまでも個人的な意見ですが)。100名城スタンプは資料館で押しました。


 さあ一人打ち上げです。今日はハイボール(税込550円)で「かんぱ~い」。その後は「とんかつとカキフライのセット」(税込1300円)で夕食です。


 今日は「地酒」がゲットできませんでした。しかし「地ビール」をゲットしています。午前中、犬上川を渡り滋賀県立大学を過ぎたちょっと先に何と「地ビール専用自販機」があったのです。色んな地ビールを売っていました。


 銀色のアルミ缶に紙ラベルを張っただけの簡素なビールでしたが美味しかったですよ。「ケンちゃんビール」というそうです。詳しくはネットで。

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シシトウ

2024-11-20 22:59:02 | 日記
 懇意にしている能勢の農家の方から「シシトウ」をいただきました。正式には「獅子唐辛子」ですね。ピーマンと唐辛子の間のような野菜です。早速いただこうと調理方法をググってみたところ、手っ取り早いのは炭火で軽く焼き、あとは好みに応じて塩や醤油、みそ、ポン酢、マヨネーズなどをつければ良いようです。

 炭火はちょっと手間がかかるので簡易コンロに固形燃料を入れ焼きました。そして何もつけずに食べました。美味しかったです。地元「能勢」の地野菜。地産地消。お酒の肴にぴったりでした。
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80年代の韓国歩紀~反共国家

2024-11-17 10:29:21 | 日記
 釜山は韓国第二の都市であり、「ソウル特別市」に対して「釜山広域市」と呼ばれていますが、当時は「釜山直轄市」でした。韓国南端の日本海に面した港町で、朝鮮戦争当時、首都であるソウルが北朝鮮軍に占領されたため「臨時首都」が置かれたこともあります。写真は「釜山駅」ですが駅舎の上に掲げられている看板には「滅共統一」と書かれています。つまり共産主義を滅ぼして統一しようという意味です。時代ですね。


 高速バスで一緒になった青年との雑談の中で「なぜ日本には共産党があるのだ」と聞かれました。私が「日本は自由の国だからどんな思想でも認められるんですよ」と答えると彼から「共産主義がある限り自由はない」と言われました。ちょっときな臭い話になってしまいましたが当時の韓国での教育なのでしょう。一般の韓国国民が自由に海外旅行ができるようになったのは数年後だったと思います。その際、「反共教育」という教育を受けなければならなかった時代です。
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小さな脛(すね)

2024-11-14 06:49:48 | 日記
 上の娘から「お父さん。刈り取った庭草の処理をして」とヘルプ。私は男の子を育てた経験はありませんが、娘と言う奴はいつまでも男親を頼りますね。お父さんもいつまでも若くないんだよ。


 それとも動けるうちはトコトン使おうってことですか?わがファミリーで私たち夫婦を除けば唯一の「昭和」生まれ。あんなに小さかった赤ちゃんがもう40に手が届く年に。


 娘の家に行けばいつもお昼ご飯を用意してくれます。レトルトカレーのときもありますが、ちゃんと盛り付けて小さなサラダなども付けてくれます。今日は「焼きそば定食」でした。小さな脛しかないので体が動くうちはドンドン使ってください。
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インフルエンザ予防接種を受けてきました

2024-11-10 11:17:58 | 日記
 今日、いつもお世話になっている耳鼻咽喉科でインフルエンザワクチンの予防接種を受けてきました。65歳オーバーなので費用は半額補助です。毎年受けていますが副反応や腕の痛みはまったくありません。

 さて話は変わりますが「新型コロナワクチン」の予防接種。5類に移行しましたが65歳オーバーなので定期接種の対象者です。どうしようか迷っています。私の友人に医事機関で働いている者がいるのですが、彼に「医療業界でのワクチン接種に対する評価」について尋ねてみました。結果、賛否は半々で接種を受けている医師、受けていない医師もほぼ半々だそうです。つまり半数の医師はワクチン接種を受けていないそうです(ただ統計上ではなく見た目だそうですが)。

 そして賛成派・反対派に共通する認識は「最良の予防方法はワクチン接種以上にマスク・手洗い・うがい・手指消毒」「重症者の死亡率は激減したが、確実にエクモの世話になる」ということだそうです。これらを参考にこれまでの自己・家族の罹患有無、その時の症状、予防接種の副反応状況、社会との接触状況、年齢などを基準に判断すれば良いようです。つまり打とうが打とまいがどちらでも良いってことでしょう。別に賛成派・反対派でいがみ合う必要はありません。自己責任で判断するしかないですね。
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マクドナルド

2024-11-07 06:49:21 | 日記
 「マクドナルド」。60代の私にとっては学生や若者たちが集まって「ワイワイ、ガヤガヤ」。グループから誕生したカップルが喫茶店代わりにデート。いずれにしても若者が集う場所というイメージです。年配の者が入ろうものなら「いい年をした大人がハンバーグ(昔はそう呼んでいました)なんて」と白い目で見られました。しかし今は違います。カップルはやがて夫婦に。そしてファミリーへ。店はいつも家族連れで賑わっています。そして中には朝食やランチ代わりにハンバーガーをほお張る老夫婦や連れ合いとは永遠の別れをしたのでしょうかシングルのご老人の姿も。平和な良い時代になりました。

 
 わが家も二人の娘が孫を連れて遊びに来たので家内とともに近所のマクドナルドへ。それぞれの旦那さんは仕事とお留守番。三世代にわたる7人で2台の車に分乗し行ってきました。至福のひと時です。「♪ 味なことやる〜マクドナルド ♪」
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80年代の韓国歩紀~サービスエリアで

2024-11-03 19:28:09 | 日記
 途中休憩のため立ち寄ったサービスエリアです。サービスエリアは漢字で「休憩所」と書き「ヒュゲソ」と発音されます。釜山への案内標識を遮るように立てられた看板には「スパイも自首すれば我が国民、我が兄弟。スパイ申告は113・112。沃川警察署」と書かれています。「112」は日本の「110番」。「113」はスパイ専用の通報電話です。現在もそうですが韓国は未だ休戦中の準戦時国家。「韓流ブーム」に浮かれた旅行と違い当時はまだ軍事政権下でした。ただ当時の軍事政権は後の民主化政権に比べ日本に対しては友好的だったように思います。


 サービスエリアで売店の女の子と雑談をしました。その時彼女から「あなたは日本人なのに紳士的ですね」と言われました。当時の日本人男性は紳士的ではなかったのでしょうか。準戦時国家でありながら紳士的でない日本人男性がいる国。それが80年代の韓国です。
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運動会

2024-10-30 21:16:52 | 日記
 先日、以前勤務していた小学校から招待状をいただき「元教職員」という立場で運動会の見学に行ってきました。前日まで雨風が強く開催が危ぶまれましたが、当日はちょっと風が強かったものの晴天に恵まれ青空のもと無事に開催されました。

 運動会に行くとよく「昭和生まれ」の人たちから「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という声が聞かれます。そうでしたね。ただ今はどこの学校も運動会は午前中に終わります。午前9時前ころから始まり正午前にはすべて終ります。
 理由はいくつかあります。家族と一緒に弁当を食べられる家庭環境にない児童への配慮。少子化による児童数の減少。今は本当に子どもが少なく団体演技でも個人競技でもひとつの学年ではチーム編成ができず、通常、低学年、中学年、高学年の3組に分けて行われます。つまりプログラム数がほぼ半減しているのです。また毎年続く「酷暑」。直射日光を遮るものがない運動場で丸一日競技を行うのは不可能です。どれも本当の理由だと思います。
 そして一番の理由は見学者の高齢化ではないでしょうか。保護者席の半分くらいが私たちのような「じいじ」「ばあば」で占められています。こんな老人を炎天下にさらせば干からびてしまいますよ。そう思うようになってからは私は「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という言葉は言わないようにしています。

 さて競技が始まりました。まだ転勤して2年ほどしか経っていないので、ほとんどの児童の顔は覚えています。3年間勤務したので一番手がかかった1、2年生だった子どもたちが5、6年生になっていました。みんな上級生らしく元気に走り、踊っていました。一番前で踊っている女の子。彼女はホルモンの関係で体がとても小さな子どもでした。ランドセルの底が地面に着きそうです。入学当時「せんせ~い」と言いながら駆け寄ってきて転倒、ヘッドスライディングして泣きながら抱きついてきた子です。今は5年生になり知能や運動神経には問題がないので上手にダンスを踊っています。とても「美人」な子です。ただ5年生とは思えないほど小さな体です。3年生くらいの体で一生懸命踊っていました。ちょっと何か涙腺が崩壊してしまいました。
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