訪問日:平成25年2月16日(土)
出 発:阪急電車「池田駅」
到 着:阪急バス「余野」
前回は余野川右岸・古江で「能勢街道」と分かれた「妙見街道」を歩き「池田・細河地区」を訪れたが、今回は余野川左岸・木部から「能勢街道」と分かれ、京都亀岡まで続く「摂丹街道」を歩く。距離的な関係から2回に分け、今回は「池田・細河」から「能勢・余野」までの区間を歩くが、この部分は別名「余野街道」と呼ばれる。
池田細河の木部、中川原、東山、伏尾の古刹・原風景を訪ねた後、余野街道の旧道から箕面・止々呂美へ。その後、能勢・余野を目指す。細河地区は、ほとんど舗装道だが結構、起伏がある。旧道は山越えである。止々呂美から余野までは、国道423号線に沿って緩やかな上り坂を歩く。あえて旧道・集落に入るので、店・トイレはあまりない。
阪急宝塚線「池田駅」。梅田から乗り換えなしで約20分。260円。とても便利だ。それでいて大阪市内のような喧騒さのない静かな上品な街である。結構、距離があり、途中、山越えもあるので、いつもより早めの午前9時に出発。
いろいろな「まち」池田。このほか池田市は「植木のまち」でもある。池田駅の前を走るのは国道176号線。かつての「能勢街道」だ。
カーブに従って能勢街道を北に進む。3つ目の交差点「西本町」で国道176号線は左折して「巡礼道」と名を変えて呉服橋を渡り、兵庫県川西市に入る。
角には「浄土宗壽命寺」。阪神大震災で全壊してしまったが、仏像、絵画、古文書など数々の文化財を有する1300年近い歴史があるこの寺は、いまでは立派に復旧している。
交差点を渡ったところには老舗のうどん屋「吾妻うどん」。細麺に生姜の香りがするあんかけの「ささめうどん」がお奨めだ。何回か来たことがあるが、今回はまだ食事時間には早いので、とりあえず素通りする。店も開店前だ。
ここからは、国道173号線が「能勢街道」を引き継ぐ。
次ぎに右からの道路が突き当たる三叉路「新町交差」。角には「いけだピアまるセンター」というレトロビルが立つ。大正14年築の「旧池田実業銀行本店」で国登録有形文化財に指定されている。
歩道の路面には「池田炭」をあしらった「能勢街道」のブロックが。
すぐ近くの店では「池田炭」が売られていた。池田炭とは、能勢、川西市黒川などで焼かれた高級炭で、池田で集荷・流通されていることから池田炭と呼ばれている。
次の「中橋交差」。ここで西側から東側の歩道に渡る。ここまでは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の街「池田」」で歩いた。角にコンビニがある。
以前、歩いた時は、角に古い家が残っていたのだが今は新しい家になっていた。残念だ。(平成22年9月撮影)
街道らしく「うだつ」のある古い家が残る。
五月山が猪名川に落ち込む十数メートルの間を能勢街道(国道173号線)が進む。前に見えるのは、阪神高速池田線の新猪名川大橋。通称「ビッグハープ」。
すぐに歩道の右側に地蔵堂といくつかの道標が現れるが、ここが能勢街道と余野街道との分岐点。つまり「摂丹街道」の出発点である。これより「摂丹街道」に入る。
ここの道標に書かれている「妙見道池のせったい所」の「池」とは、前回、歩いた「妙見街道」の途中にある伏尾ゴルフ倶楽部前の「長尾池」のことらしい。
この地蔵堂のすぐ後ろに洋館と和風の家が合体した和洋折衷の不思議な屋敷がある。「田村家旧宅」。
蔵も趣がある。
「和」と「洋」の接点。
この屋敷の裏を余野街道が進む。五月山の崖に沿った狭い街道だ。
街道の名残だろうか。鳥居はひっくり返っていた。
狭い道だ。昔は、この道を馬や牛が歩いたのだろう。
途中「青面金剛(庚申さん)」の石碑が。
そして天理教の教会前で、一旦国道173号線と合流する。
目の前は、国道としての能勢街道(国道173号)と摂丹街道(国道423号線)の分岐点である「木部町交差」だ。左に進めば能勢街道は、さらに妙見街道と分かれる。
木部町交差の東側にある「ジャパン」手前の路地を右に入り、地蔵尊のある四つ角をそのまま真っ直ぐ進む。
突き当たりには、たくさんの石仏の奥に「稲荷社」が祀られていた。
地蔵尊の四つ角まで戻り右折する。大きな屋敷の前にもお地蔵様が祀られていた。
すぐに四つ角に出るが、その右には大きな赤い鳥居が。石柱には「天神宮」とだけ書かれているが、市内の「畑」にある天神宮と区別するため「木部天神(満)宮」と呼ばれている。別名「紀部神社」とも呼ばれる。「木部」も「紀部」も「きべ」と読む。
覆い屋根の中に古い神殿が鎮座している。今日の無事を祈願する。
境内には地車庫が。この地域は、秋祭りに2基の地車が村の中を巡行する。
神社横の坂道を登るとすぐに「曹洞宗永興寺」。
鳥居前まで戻り右に曲がって「木部」の集落に進む。
しばらく進むと右に「曹洞宗松操寺」。この辺りは曹洞宗の寺院が多い。禅を組むのに良い静かな環境なのだろう。
日の丸展望台への案内板に従い右に曲がるとすぐ左に「蓮壺寺唱御堂」。お地蔵様が並ぶ。
元の道に戻り「木部」の集落を進む。
道は、池田市立細河小学校のグランドに突き当たり、フェンスに沿って進むと「国道423号線」に合流する。すぐ目の前にはコンビニがある。この後、自販機はあるが、止々呂美までコンビニはないので、必要な物があればここで購入を。
グランドのフェンスには案内板が。池田市は8つの街道が交わることから、観光協会がミニマップを発行したり、このような案内板を設置している。
細河小学校を過ぎて右折し、農協(JA)の倉庫を過ぎると左にお地蔵さんが。ここら辺りは「中川原」という。
ここから右に山手への道を上っていき、細河小学校の裏門を過ぎると右に「臨済宗松雲寺」がある。600年以上の歴史がある古刹らしい。
松雲寺前に山への入口のように鳥居が立つ。地図では「春日神社中川原社」と書かれている。
小さな祠だけの神社だが、昔から大切にお祀りされてきたのだろう。
先ほどのお地蔵さんまで戻り右へ。「真宗大谷派専行寺」の前を過ぎてさらに進む。
道がカーブするところに石の道標が立つ。「南無妙法蓮華経」と「右 久安寺かめやま道 左ハのせ道」と書かれているらしい。
「中川原」の村を抜ける。
大きな老人ホームの前を過ぎると、右に五月山から箕面に続く連山が望まれる。ここら辺りから「東山」の集落に入る。
道は自然に国道423号線と交わり、その角にはコンクリート造りの立派な祠が立つ。
中には石灯籠と地蔵尊が。
横には古い石の道標が立つ。「左ハかめ山みち」等と書かれているらしい。
祠の前から山方向に入る。
途中、高札場のような建造物があり、中の板には何やら書かれているが、消えかかっており読めない。昭和5年に書かれたようだ。
この辺りは、坂道なので立派な石組みの家が多い。
途中、お堂のある広場を抜け、次の角を右に。
すぐに「曹洞宗東禅寺」の前に出る。400年以上の歴史がある古い寺で4基の仏像は、池田市の重要文化財に指定されている。
東禅寺を出て、さらに山手(右)に進むと森の奥に鳥居が見える。「東山神社」だ。
静かな森の中に2棟の神殿があり、神々しい雰囲気が漂う。
先ほどのお堂があった広場まで戻り右に進む。しばらく行くと左に大きな屋根が見えるが、その隣に「真宗大谷派圓成寺」が立つ。このお寺も400年近い歴史を持つ古い寺だ。裏には、寺が経営する保育所がある。
圓成寺を過ぎ、突き当たりを右に折れ、山に入る。
結構、長い時間、山道を歩くが道はしっかりとしている。
植木畑や造園業者の多い一角を抜けると右に石灯籠と石仏が。
この石仏を過ぎれば道は再び国道423号線と合流する。
そして国道の向こうの余野川を挟んで大きな建物が見える。「伏尾温泉」だ。泉質は、天然ラジウム泉でリウマチや痛風に効くという。
「不死王閣」という一軒宿があり、宿泊、宴会のほか、食事や日帰り湯が楽しめる。大阪では、結構、古い温泉ホテルだ。露天風呂もある。
国道を挟んで不死王閣の向かいにある大きな屋敷前の道から村の中に入る。
「伏尾」の集落を歩く。
5~6分で前方に赤い「八千代橋」、左に「千代橋」がかかる。その手前の三叉路突き当たりに地蔵尊と古い道標が立つが、道標は寛文10(1670)年の銘があり、年代が刻まれた道標としては畿内で最も古いものだといわれる。
その後ろには「青面金剛」の石碑も立つ。
左の「千代橋」で余野川を渡れば、右に赤い「八千代橋」が見える。川の流れは清らかだ。
千代橋を渡るとすぐに国道423号線が走り、その向こうには大きな門がそびえる。「高野山真言宗久安寺」の「楼門」である。室町時代初期の建造で、国指定重要文化財に指定されている。横断歩道を渡って久安寺へ向かう。
楼門自体はくぐれないので、すぐ右にある通用口から境内へと進む。扉には、このような表示が。拝観料300円。
久安寺は、神亀2(725)年行基菩薩の開創、天長年間に弘法大師が再興した「安養院」が前身と伝わる古いお寺だ。本堂と鐘堂を
望む。
御影堂。弘法大師様を拝む。「南無大師遍照金剛」。
境内は広く、奥へ進むにつれ左には「虚空園」。本堂を背にして「バン字池」。久安寺は、花と紅葉の名所だが、季節的に今は色合いが薄い。
突き当たりに立つ大きな建物は「舎利殿涅槃堂」。
堂内には、釈尊の涅槃像が横たわる。
薬師堂。粉雪が舞っている。
20分ほどかけて参拝し、お寺東側の駐車場へ出ると「かやの木」というお店がある。うどんと柿の葉寿司が有名だとのこと。時間は、午前11時50分。「柿の葉寿司定食」(900円)で昼食をとることにする。
ここには、自販機のほかちょっとしたお土産も売られている。また、この先、当分トイレも自販機もない。これまで町中と国道沿いに余野街道を歩いてきたが、ここから箕面・止々呂美までは、山越えの旧道だ。(久安寺境内からの眺め。このマンション裏の山を越える)
先ほどと逆に久安寺楼門前の横断歩道で国道423号線を渡る。すぐ左を見ると長い石段と鳥居。「神明社」という。伊勢神宮の神殿や鳥居を「神明造」という。ここは「お伊勢さん」つまり「天照大神」をお祀りするお社だ。
小山の頂上には小さな拝殿があり、そこの覆い屋には、古くて良く読めないが明治時代に奉納された古い絵が2つ掲げられていた。左は、戦国時代の合戦図。右は明治に入ってからの野戦図のようだ。
神明社の石段を下り、左の細い道へ進むと、先ほど千代橋から望んだ八千代橋を渡った所に出る。そして左に折れると「番匠屋橋」という橋で余野川を渡る。この狭い間に3つの橋がかかるのは、ここで余野川が大きく「U字」にカーブするからだ。舗装された坂道を登り、地道に突き当たると左に折れマンション方向に向かう。「バードヒルズ」というマンション3号館の手前で坂道に入れば、先ほど久安寺から望んだマンションの裏側に出る。
途中までは、落ち葉に覆われているがコンクリート舗装されている。
途中から地道になり、坂も結構な上り坂だ。
谷間の急な坂を登る。息が切れるほどの急坂。足場も悪い。
10分ほどで尾根に突き当たる。ここで給水。右に割としっかりした踏み跡があるので右折しそうになるが、ここは左折しなければならない。案内標示はないので間違わないように。
数十mほどは道がわかりにくいが、左からの上り道と交わったところ辺りからしっかりとした道になる。
尾根伝いに歩くとすぐに石碑が現れ、正面にまわると「道供養」と刻まれている。道供養碑とは、道そのものや道を開いた人、道を直した人たちを供養するもので全国で見られるものらしい。その前には「右 久安寺」の道標が。
ここからは、途中、倒木などもあるがしっかりとした山道をゆっくり下って行く。
辺りは、栗や柚の畑になっているようで、道には軽四の轍も見られる。
遠くには、前回、歩いた「妙見街道」が走る長尾山の尾根が続く。
山道がコンクリート舗装になったところで右に地蔵尊と石のお不動さんが現れた。このお不動さんは「日月大高不動尊石仏」といわれる。
よく見るとお不動さんの背中には「翼」が。かつてこの辺にいた「隠れキリシタン」らが天使に例えて拝んだものとも言われるが定かなところはわからない。しかし、豊能や隣の茨木・高槻辺りは、キリシタン大名「高山右近」の影響が強かっただろう。
左に「棚田」を見ながら坂を下っていく。
椎茸の栽培。この辺りは農園になっているので、いくつかの脇道と交わるが、立入禁止になっているので、素直に真っ直ぐ歩けば道に迷うことはない。獣除けだろうか大音量でラジオが鳴っていた。
余野街道を進む。
右に炭焼き窯。口が土で塞がれているので現役だろう。
箕面市の廃棄物処理場を過ぎると「中政園」という椎茸狩りや栗拾いなどが楽しめる施設の駐車場前に出る。そこからはきれいなアスファルト舗装の道になるので左折して坂を下る。すぐに右側に平成19年開通した箕面グリーンロードの「箕面トンネル」出入口が現れる。
道路沿いに歩くと箕面グリーンロードの高架橋下で余野川に突き当たるが、橋脚の足元に「右 池田道」と刻まれた道標が立っている。余野街道は、別名「池田(街)道」とも呼ばれる。余野側から見れば「池田」に通じる道なので当然だろう。この道標は、明治時代に入り、新しい余野街道(今の国道423号線)が開かれた際、旧道との分岐点に立てられたものだという。
余野川を挟んで国道423号線が走るが、余野川左岸が旧国道で今も阪急バスが走る。国道○○号線、旧国道○○号線、国道○○号線バイパスなど道は幾筋にも分かれるので、昔の街道を単純に現代の道に比定することはできないし意味もない。脇道もあれば近道も回り道もある。余野街道で下止々呂美の集落を抜ける。
川の向こう側に棚田が広がっていたので大正橋という小さな橋で余野川を渡る。石組みの棚田が広がる。
橋を渡った所には「ととろみ亭」という食堂があり、結構、流行っているようで、トラックの運転手さんや二輪ライダーらで賑わっている。
橋の左岸側には、同じ経営者なのだろう「ととろみ荘」という料亭がある。何か「千と千尋の神隠し」の「油屋」のようだ。
下止々呂美の集落を抜ける。昔の箕面市立止々呂美小・中学校。今は「箕面市立止々呂美ふるさと自然館」「スノーピーク箕面自然館」としてキャンプなどアウトドアのサポートやキャンプ場の運営をしている。遠くに見える橋は、箕面森町へ続く。
「止々呂美交差点」で国道423号線と合流する。「とどろみ」と読む。「トトロ」ではない。200メートルほど国道を戻るとコンビニがあるので、買い忘れたものがあればここで買うと良い。この先、終点「余野」まで自販機はあるがトイレ・店はない。
次の「中止々呂美交差点」からは、上止々呂美の集落を歩く。信号を左折すれば先ほど見えた橋を通って箕面森町のニュータウンに続く。交差点を右に入ると鳥居が見えてくるが、この辺りの氏神様である「止々呂美神社」だ。
境内には多くの保存樹があり鎮守の森になっていた。秋祭りには「だんじり」が巡行するらしい。
鳥居を出て右に。この道も余野街道だろうか。
「浄土宗養谷寺」の前を通る。
街道らしい雰囲気だ。
瓦屋根越しに棚田を眺める。
国道と交わる手前に共同墓地へ続く細い道があるので上ってみよう。すぐに立派なお堂が立つ。
その前にあるコンクリート製の祠の中にお地蔵さんが並ぶ。村の人は「六地蔵さん」と呼んでいた。カラス除けのネットを開けて祠の中に入り写真を撮っていると「役場の人でっか。」と声をかけられた。市役所の人の学術調査と勘違いしたのだろうか。隣には「多尊石仏」も。
共同墓地を下りたところで上止々呂美の集落が終わり、再度、国道423号線と合流する。
余野川の右岸に広がる棚田の向こうにも小さな集落があるようだ。
600m級の山に挟まれた谷間を余野川沿いに国道423号線(余野街道)が走る。
右(東)側の明ケ田尾山(619m)方面。粉雪が舞う。
この辺りは、日曜朝市やアマゴ釣りのほか、夏場には魚の手づかみが楽しめる。
左(西)側の天台山(640m)方面。ご覧のとおり歩道はない。
豊能町に入る。写真では、たまたま車は写っていないが、結構、交通量は多くダンプも走るので、車に注意して歩こう。
30分ほどで「金石橋交差点」に出る。左折すれば能勢妙見に続く。右に「高山」方面から来た道の一方通行路があるので逆行して坂を登ってみよう。道幅があるので危険ではない。
「高山」方面に向かう一方通行路と合流した所の右側に川尻向井山宝篋印塔と川尻向井山地蔵石仏が並ぶ。ここは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~「隠れキリシタンの里『高山』から川尻石仏群」」で歩いた道だ。
奥の塀伝いに左に入ると「旧余野街道(池田道)」が現れる。
橋脚下から少し進んだところで旧道は途絶えるが、福祉施設のフェンス脇に道標が埋まる。「右ハかめやま 左ハさい志よ ミち」と書かれているらしい。
宝篋印塔前まで戻り、「高山」からの道を渡ればハイキングコースの案内板がある。左に行けば「旧池田街道」に続くようだ。
右の旧道を進む。
コンクリート舗装されているが、街道らしい雰囲気が。
高圧線鉄塔に突き当たれば左に。そしてすぐに右に入る小径があるので右折する。轍の横には雪が残る。
すぐに山を抜け、目の前には棚田の風景が広がる。
農道としてコンクリート舗装されているが、左下に国道423号線を見下ろしながら棚田の間を旧道は進む。
棚田の立派な石組み。この辺りでは良く保存されている。
このお宅は林業のようだ。切り出された丸太が積まれている。
先ほどの林業のお宅を過ぎたところで左に曲がる小さな道があるので坂を下っていくと国道423号線と合流。
すぐ前には「ふるさと」というお食事処がある。ここも結構、流行っているようで「しし肉」料理も食べられるようだ。今回のコースでは、通過時間帯にもよるが、久安寺の「かやの木」。止々呂美の「ととろみ亭」。そして、ここ「ふるさと」が確実に開店しているお食事スポットだろう。
国道423号線を歩きながら、先ほど歩いた棚田を下から見上げる。
先ほど歩いた旧道からの道が山手に走るようだが、そのまま国道を進む。途中で脇道が現れる。すぐ先で再度、国道と合流するが脇道に入ろう。間もなくゴールだ。
「木代界橋」で余野川を渡り、国道と合流する。
消防署、保育所、国保診療所、町役場と過ぎれば今日のゴール「余野交差点」だ。午後3時5分到着。池田駅前から見学、休憩を含めて約6時間の道のりだった。ここまでの歩紀「30588歩」(26.3km)。
今は国道423号線が通り抜け、交差点になっているが、昔は「亀岡街道」に突き当たる三叉路だったといわれる。右に折れれば茨木を経て大坂に続く。余野街道と交わり左に折れてからは「摂丹街道」となって京・亀岡に続く。
わたしの家まで帰る町の巡回バスの時間まで約1時間半あるので、ちょっと余野の町を散策しよう。交差点の手前には、よく地方都市で見かける鉄筋コンクリート風の偽洋館の建物。当時の最新建築も今ではレトロ感が漂う。
余野交差を左折(西)し、摂丹街道側に進む。ここも木材の切り出しをしていた。
「立派!」としか言いようのないお屋敷。
あまりに立派なので振り返ってもう一枚撮らせてもらった。
すぐ目の前の「切畑口交差点」で国道423号線を横切る。ここ「余野」は、能勢氏の一族が余野氏を名乗り、1493年「余野城」を建てて治めたと地だといわれる。
現在、城跡は大阪府立城山高等学校の敷地になっている。「城山」という名前からもここが城跡ということがわかる。しかし、この学校は、平成20年に廃校となった。
学校跡裏のこの坂は「残念坂」と言われるらしい。雪が残る。
実は、私が卒業した高校も別の高校と統合という形で廃校となり名称が変わってしまった。卒業生は、天守閣のように城跡にそびえる母校をどのような気持ちで眺めているのだろう。
国道を余野方向に戻り、今度は亀岡街道方向に曲がる。古いお屋敷が残る。今は着物店のようだ。
東能勢小学校グランド下から坂を上ると「豊能町立郷土資料館」という施設があった。まだ時間があるので見学して行こう。火・木・土・日の午前9時から午後5時まで開館しており、入館は無料である。
建物の前には石碑が。昭和28年、大阪府知事から優良村として表彰されたときの記念碑らしい。今回「能勢・余野」と表現させてもらったが「余野」自体は「能勢町」ではなく、現在の「豊能郡豊能町」に属する。しかし「豊能」というのは、明治に入り「豊嶋(てしま)郡」と「能勢(のせ)郡」が合併し、お互いの頭文字を取って誕生した行政地名であり、豊能町自体は元の「能勢郡東能勢村」である。「豊嶋郡」に属する自治体がすべて市制に移行した現在、豊能郡は実質、旧能勢郡であった地域に戻っているのだ。
資料館の前には、天保10(1839)年、高槻で開催された産業博覧会に出品するために作られた巨大な「寒天用鍋」が展示されている。
そして、資料館と小学校のフェンスとの間には古い道標が。これは、かつて余野の交差点にあったものをここに移転したものらしい。嘉永2(1849)年のもので比較的新しいものだが、それだけ近年まで街道が現役だったということだろう。
古い農機具や生活用品などが展示されている。
消防組(団)の手動ポンプとヘルメット。後ろには「東能勢村公民館」と書かれた表札。
展示されているというより並べられているという感じだ。
豊能町にたくさんある石仏も紹介されている。
こんなものまで。
さあ、バスの時間が来た。中央公民館前から巡回バスに乗る。以前、乗ったときとは運行コースが変わり料金も100円から200円に値上げされていた。池田方面に帰るならば町役場前から池田駅行きの阪急バスに乗る。
余野ぶらぶら歩きを含めて「34507歩」(29.67km)の歩紀。次は、余野から亀岡までを歩く。
出 発:阪急電車「池田駅」
到 着:阪急バス「余野」
前回は余野川右岸・古江で「能勢街道」と分かれた「妙見街道」を歩き「池田・細河地区」を訪れたが、今回は余野川左岸・木部から「能勢街道」と分かれ、京都亀岡まで続く「摂丹街道」を歩く。距離的な関係から2回に分け、今回は「池田・細河」から「能勢・余野」までの区間を歩くが、この部分は別名「余野街道」と呼ばれる。
池田細河の木部、中川原、東山、伏尾の古刹・原風景を訪ねた後、余野街道の旧道から箕面・止々呂美へ。その後、能勢・余野を目指す。細河地区は、ほとんど舗装道だが結構、起伏がある。旧道は山越えである。止々呂美から余野までは、国道423号線に沿って緩やかな上り坂を歩く。あえて旧道・集落に入るので、店・トイレはあまりない。
阪急宝塚線「池田駅」。梅田から乗り換えなしで約20分。260円。とても便利だ。それでいて大阪市内のような喧騒さのない静かな上品な街である。結構、距離があり、途中、山越えもあるので、いつもより早めの午前9時に出発。
いろいろな「まち」池田。このほか池田市は「植木のまち」でもある。池田駅の前を走るのは国道176号線。かつての「能勢街道」だ。
カーブに従って能勢街道を北に進む。3つ目の交差点「西本町」で国道176号線は左折して「巡礼道」と名を変えて呉服橋を渡り、兵庫県川西市に入る。
角には「浄土宗壽命寺」。阪神大震災で全壊してしまったが、仏像、絵画、古文書など数々の文化財を有する1300年近い歴史があるこの寺は、いまでは立派に復旧している。
交差点を渡ったところには老舗のうどん屋「吾妻うどん」。細麺に生姜の香りがするあんかけの「ささめうどん」がお奨めだ。何回か来たことがあるが、今回はまだ食事時間には早いので、とりあえず素通りする。店も開店前だ。
ここからは、国道173号線が「能勢街道」を引き継ぐ。
次ぎに右からの道路が突き当たる三叉路「新町交差」。角には「いけだピアまるセンター」というレトロビルが立つ。大正14年築の「旧池田実業銀行本店」で国登録有形文化財に指定されている。
歩道の路面には「池田炭」をあしらった「能勢街道」のブロックが。
すぐ近くの店では「池田炭」が売られていた。池田炭とは、能勢、川西市黒川などで焼かれた高級炭で、池田で集荷・流通されていることから池田炭と呼ばれている。
次の「中橋交差」。ここで西側から東側の歩道に渡る。ここまでは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の街「池田」」で歩いた。角にコンビニがある。
以前、歩いた時は、角に古い家が残っていたのだが今は新しい家になっていた。残念だ。(平成22年9月撮影)
街道らしく「うだつ」のある古い家が残る。
五月山が猪名川に落ち込む十数メートルの間を能勢街道(国道173号線)が進む。前に見えるのは、阪神高速池田線の新猪名川大橋。通称「ビッグハープ」。
すぐに歩道の右側に地蔵堂といくつかの道標が現れるが、ここが能勢街道と余野街道との分岐点。つまり「摂丹街道」の出発点である。これより「摂丹街道」に入る。
ここの道標に書かれている「妙見道池のせったい所」の「池」とは、前回、歩いた「妙見街道」の途中にある伏尾ゴルフ倶楽部前の「長尾池」のことらしい。
この地蔵堂のすぐ後ろに洋館と和風の家が合体した和洋折衷の不思議な屋敷がある。「田村家旧宅」。
蔵も趣がある。
「和」と「洋」の接点。
この屋敷の裏を余野街道が進む。五月山の崖に沿った狭い街道だ。
街道の名残だろうか。鳥居はひっくり返っていた。
狭い道だ。昔は、この道を馬や牛が歩いたのだろう。
途中「青面金剛(庚申さん)」の石碑が。
そして天理教の教会前で、一旦国道173号線と合流する。
目の前は、国道としての能勢街道(国道173号)と摂丹街道(国道423号線)の分岐点である「木部町交差」だ。左に進めば能勢街道は、さらに妙見街道と分かれる。
木部町交差の東側にある「ジャパン」手前の路地を右に入り、地蔵尊のある四つ角をそのまま真っ直ぐ進む。
突き当たりには、たくさんの石仏の奥に「稲荷社」が祀られていた。
地蔵尊の四つ角まで戻り右折する。大きな屋敷の前にもお地蔵様が祀られていた。
すぐに四つ角に出るが、その右には大きな赤い鳥居が。石柱には「天神宮」とだけ書かれているが、市内の「畑」にある天神宮と区別するため「木部天神(満)宮」と呼ばれている。別名「紀部神社」とも呼ばれる。「木部」も「紀部」も「きべ」と読む。
覆い屋根の中に古い神殿が鎮座している。今日の無事を祈願する。
境内には地車庫が。この地域は、秋祭りに2基の地車が村の中を巡行する。
神社横の坂道を登るとすぐに「曹洞宗永興寺」。
鳥居前まで戻り右に曲がって「木部」の集落に進む。
しばらく進むと右に「曹洞宗松操寺」。この辺りは曹洞宗の寺院が多い。禅を組むのに良い静かな環境なのだろう。
日の丸展望台への案内板に従い右に曲がるとすぐ左に「蓮壺寺唱御堂」。お地蔵様が並ぶ。
元の道に戻り「木部」の集落を進む。
道は、池田市立細河小学校のグランドに突き当たり、フェンスに沿って進むと「国道423号線」に合流する。すぐ目の前にはコンビニがある。この後、自販機はあるが、止々呂美までコンビニはないので、必要な物があればここで購入を。
グランドのフェンスには案内板が。池田市は8つの街道が交わることから、観光協会がミニマップを発行したり、このような案内板を設置している。
細河小学校を過ぎて右折し、農協(JA)の倉庫を過ぎると左にお地蔵さんが。ここら辺りは「中川原」という。
ここから右に山手への道を上っていき、細河小学校の裏門を過ぎると右に「臨済宗松雲寺」がある。600年以上の歴史がある古刹らしい。
松雲寺前に山への入口のように鳥居が立つ。地図では「春日神社中川原社」と書かれている。
小さな祠だけの神社だが、昔から大切にお祀りされてきたのだろう。
先ほどのお地蔵さんまで戻り右へ。「真宗大谷派専行寺」の前を過ぎてさらに進む。
道がカーブするところに石の道標が立つ。「南無妙法蓮華経」と「右 久安寺かめやま道 左ハのせ道」と書かれているらしい。
「中川原」の村を抜ける。
大きな老人ホームの前を過ぎると、右に五月山から箕面に続く連山が望まれる。ここら辺りから「東山」の集落に入る。
道は自然に国道423号線と交わり、その角にはコンクリート造りの立派な祠が立つ。
中には石灯籠と地蔵尊が。
横には古い石の道標が立つ。「左ハかめ山みち」等と書かれているらしい。
祠の前から山方向に入る。
途中、高札場のような建造物があり、中の板には何やら書かれているが、消えかかっており読めない。昭和5年に書かれたようだ。
この辺りは、坂道なので立派な石組みの家が多い。
途中、お堂のある広場を抜け、次の角を右に。
すぐに「曹洞宗東禅寺」の前に出る。400年以上の歴史がある古い寺で4基の仏像は、池田市の重要文化財に指定されている。
東禅寺を出て、さらに山手(右)に進むと森の奥に鳥居が見える。「東山神社」だ。
静かな森の中に2棟の神殿があり、神々しい雰囲気が漂う。
先ほどのお堂があった広場まで戻り右に進む。しばらく行くと左に大きな屋根が見えるが、その隣に「真宗大谷派圓成寺」が立つ。このお寺も400年近い歴史を持つ古い寺だ。裏には、寺が経営する保育所がある。
圓成寺を過ぎ、突き当たりを右に折れ、山に入る。
結構、長い時間、山道を歩くが道はしっかりとしている。
植木畑や造園業者の多い一角を抜けると右に石灯籠と石仏が。
この石仏を過ぎれば道は再び国道423号線と合流する。
そして国道の向こうの余野川を挟んで大きな建物が見える。「伏尾温泉」だ。泉質は、天然ラジウム泉でリウマチや痛風に効くという。
「不死王閣」という一軒宿があり、宿泊、宴会のほか、食事や日帰り湯が楽しめる。大阪では、結構、古い温泉ホテルだ。露天風呂もある。
国道を挟んで不死王閣の向かいにある大きな屋敷前の道から村の中に入る。
「伏尾」の集落を歩く。
5~6分で前方に赤い「八千代橋」、左に「千代橋」がかかる。その手前の三叉路突き当たりに地蔵尊と古い道標が立つが、道標は寛文10(1670)年の銘があり、年代が刻まれた道標としては畿内で最も古いものだといわれる。
その後ろには「青面金剛」の石碑も立つ。
左の「千代橋」で余野川を渡れば、右に赤い「八千代橋」が見える。川の流れは清らかだ。
千代橋を渡るとすぐに国道423号線が走り、その向こうには大きな門がそびえる。「高野山真言宗久安寺」の「楼門」である。室町時代初期の建造で、国指定重要文化財に指定されている。横断歩道を渡って久安寺へ向かう。
楼門自体はくぐれないので、すぐ右にある通用口から境内へと進む。扉には、このような表示が。拝観料300円。
久安寺は、神亀2(725)年行基菩薩の開創、天長年間に弘法大師が再興した「安養院」が前身と伝わる古いお寺だ。本堂と鐘堂を
望む。
御影堂。弘法大師様を拝む。「南無大師遍照金剛」。
境内は広く、奥へ進むにつれ左には「虚空園」。本堂を背にして「バン字池」。久安寺は、花と紅葉の名所だが、季節的に今は色合いが薄い。
突き当たりに立つ大きな建物は「舎利殿涅槃堂」。
堂内には、釈尊の涅槃像が横たわる。
薬師堂。粉雪が舞っている。
20分ほどかけて参拝し、お寺東側の駐車場へ出ると「かやの木」というお店がある。うどんと柿の葉寿司が有名だとのこと。時間は、午前11時50分。「柿の葉寿司定食」(900円)で昼食をとることにする。
ここには、自販機のほかちょっとしたお土産も売られている。また、この先、当分トイレも自販機もない。これまで町中と国道沿いに余野街道を歩いてきたが、ここから箕面・止々呂美までは、山越えの旧道だ。(久安寺境内からの眺め。このマンション裏の山を越える)
先ほどと逆に久安寺楼門前の横断歩道で国道423号線を渡る。すぐ左を見ると長い石段と鳥居。「神明社」という。伊勢神宮の神殿や鳥居を「神明造」という。ここは「お伊勢さん」つまり「天照大神」をお祀りするお社だ。
小山の頂上には小さな拝殿があり、そこの覆い屋には、古くて良く読めないが明治時代に奉納された古い絵が2つ掲げられていた。左は、戦国時代の合戦図。右は明治に入ってからの野戦図のようだ。
神明社の石段を下り、左の細い道へ進むと、先ほど千代橋から望んだ八千代橋を渡った所に出る。そして左に折れると「番匠屋橋」という橋で余野川を渡る。この狭い間に3つの橋がかかるのは、ここで余野川が大きく「U字」にカーブするからだ。舗装された坂道を登り、地道に突き当たると左に折れマンション方向に向かう。「バードヒルズ」というマンション3号館の手前で坂道に入れば、先ほど久安寺から望んだマンションの裏側に出る。
途中までは、落ち葉に覆われているがコンクリート舗装されている。
途中から地道になり、坂も結構な上り坂だ。
谷間の急な坂を登る。息が切れるほどの急坂。足場も悪い。
10分ほどで尾根に突き当たる。ここで給水。右に割としっかりした踏み跡があるので右折しそうになるが、ここは左折しなければならない。案内標示はないので間違わないように。
数十mほどは道がわかりにくいが、左からの上り道と交わったところ辺りからしっかりとした道になる。
尾根伝いに歩くとすぐに石碑が現れ、正面にまわると「道供養」と刻まれている。道供養碑とは、道そのものや道を開いた人、道を直した人たちを供養するもので全国で見られるものらしい。その前には「右 久安寺」の道標が。
ここからは、途中、倒木などもあるがしっかりとした山道をゆっくり下って行く。
辺りは、栗や柚の畑になっているようで、道には軽四の轍も見られる。
遠くには、前回、歩いた「妙見街道」が走る長尾山の尾根が続く。
山道がコンクリート舗装になったところで右に地蔵尊と石のお不動さんが現れた。このお不動さんは「日月大高不動尊石仏」といわれる。
よく見るとお不動さんの背中には「翼」が。かつてこの辺にいた「隠れキリシタン」らが天使に例えて拝んだものとも言われるが定かなところはわからない。しかし、豊能や隣の茨木・高槻辺りは、キリシタン大名「高山右近」の影響が強かっただろう。
左に「棚田」を見ながら坂を下っていく。
椎茸の栽培。この辺りは農園になっているので、いくつかの脇道と交わるが、立入禁止になっているので、素直に真っ直ぐ歩けば道に迷うことはない。獣除けだろうか大音量でラジオが鳴っていた。
余野街道を進む。
右に炭焼き窯。口が土で塞がれているので現役だろう。
箕面市の廃棄物処理場を過ぎると「中政園」という椎茸狩りや栗拾いなどが楽しめる施設の駐車場前に出る。そこからはきれいなアスファルト舗装の道になるので左折して坂を下る。すぐに右側に平成19年開通した箕面グリーンロードの「箕面トンネル」出入口が現れる。
道路沿いに歩くと箕面グリーンロードの高架橋下で余野川に突き当たるが、橋脚の足元に「右 池田道」と刻まれた道標が立っている。余野街道は、別名「池田(街)道」とも呼ばれる。余野側から見れば「池田」に通じる道なので当然だろう。この道標は、明治時代に入り、新しい余野街道(今の国道423号線)が開かれた際、旧道との分岐点に立てられたものだという。
余野川を挟んで国道423号線が走るが、余野川左岸が旧国道で今も阪急バスが走る。国道○○号線、旧国道○○号線、国道○○号線バイパスなど道は幾筋にも分かれるので、昔の街道を単純に現代の道に比定することはできないし意味もない。脇道もあれば近道も回り道もある。余野街道で下止々呂美の集落を抜ける。
川の向こう側に棚田が広がっていたので大正橋という小さな橋で余野川を渡る。石組みの棚田が広がる。
橋を渡った所には「ととろみ亭」という食堂があり、結構、流行っているようで、トラックの運転手さんや二輪ライダーらで賑わっている。
橋の左岸側には、同じ経営者なのだろう「ととろみ荘」という料亭がある。何か「千と千尋の神隠し」の「油屋」のようだ。
下止々呂美の集落を抜ける。昔の箕面市立止々呂美小・中学校。今は「箕面市立止々呂美ふるさと自然館」「スノーピーク箕面自然館」としてキャンプなどアウトドアのサポートやキャンプ場の運営をしている。遠くに見える橋は、箕面森町へ続く。
「止々呂美交差点」で国道423号線と合流する。「とどろみ」と読む。「トトロ」ではない。200メートルほど国道を戻るとコンビニがあるので、買い忘れたものがあればここで買うと良い。この先、終点「余野」まで自販機はあるがトイレ・店はない。
次の「中止々呂美交差点」からは、上止々呂美の集落を歩く。信号を左折すれば先ほど見えた橋を通って箕面森町のニュータウンに続く。交差点を右に入ると鳥居が見えてくるが、この辺りの氏神様である「止々呂美神社」だ。
境内には多くの保存樹があり鎮守の森になっていた。秋祭りには「だんじり」が巡行するらしい。
鳥居を出て右に。この道も余野街道だろうか。
「浄土宗養谷寺」の前を通る。
街道らしい雰囲気だ。
瓦屋根越しに棚田を眺める。
国道と交わる手前に共同墓地へ続く細い道があるので上ってみよう。すぐに立派なお堂が立つ。
その前にあるコンクリート製の祠の中にお地蔵さんが並ぶ。村の人は「六地蔵さん」と呼んでいた。カラス除けのネットを開けて祠の中に入り写真を撮っていると「役場の人でっか。」と声をかけられた。市役所の人の学術調査と勘違いしたのだろうか。隣には「多尊石仏」も。
共同墓地を下りたところで上止々呂美の集落が終わり、再度、国道423号線と合流する。
余野川の右岸に広がる棚田の向こうにも小さな集落があるようだ。
600m級の山に挟まれた谷間を余野川沿いに国道423号線(余野街道)が走る。
右(東)側の明ケ田尾山(619m)方面。粉雪が舞う。
この辺りは、日曜朝市やアマゴ釣りのほか、夏場には魚の手づかみが楽しめる。
左(西)側の天台山(640m)方面。ご覧のとおり歩道はない。
豊能町に入る。写真では、たまたま車は写っていないが、結構、交通量は多くダンプも走るので、車に注意して歩こう。
30分ほどで「金石橋交差点」に出る。左折すれば能勢妙見に続く。右に「高山」方面から来た道の一方通行路があるので逆行して坂を登ってみよう。道幅があるので危険ではない。
「高山」方面に向かう一方通行路と合流した所の右側に川尻向井山宝篋印塔と川尻向井山地蔵石仏が並ぶ。ここは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~「隠れキリシタンの里『高山』から川尻石仏群」」で歩いた道だ。
奥の塀伝いに左に入ると「旧余野街道(池田道)」が現れる。
橋脚下から少し進んだところで旧道は途絶えるが、福祉施設のフェンス脇に道標が埋まる。「右ハかめやま 左ハさい志よ ミち」と書かれているらしい。
宝篋印塔前まで戻り、「高山」からの道を渡ればハイキングコースの案内板がある。左に行けば「旧池田街道」に続くようだ。
右の旧道を進む。
コンクリート舗装されているが、街道らしい雰囲気が。
高圧線鉄塔に突き当たれば左に。そしてすぐに右に入る小径があるので右折する。轍の横には雪が残る。
すぐに山を抜け、目の前には棚田の風景が広がる。
農道としてコンクリート舗装されているが、左下に国道423号線を見下ろしながら棚田の間を旧道は進む。
棚田の立派な石組み。この辺りでは良く保存されている。
このお宅は林業のようだ。切り出された丸太が積まれている。
先ほどの林業のお宅を過ぎたところで左に曲がる小さな道があるので坂を下っていくと国道423号線と合流。
すぐ前には「ふるさと」というお食事処がある。ここも結構、流行っているようで「しし肉」料理も食べられるようだ。今回のコースでは、通過時間帯にもよるが、久安寺の「かやの木」。止々呂美の「ととろみ亭」。そして、ここ「ふるさと」が確実に開店しているお食事スポットだろう。
国道423号線を歩きながら、先ほど歩いた棚田を下から見上げる。
先ほど歩いた旧道からの道が山手に走るようだが、そのまま国道を進む。途中で脇道が現れる。すぐ先で再度、国道と合流するが脇道に入ろう。間もなくゴールだ。
「木代界橋」で余野川を渡り、国道と合流する。
消防署、保育所、国保診療所、町役場と過ぎれば今日のゴール「余野交差点」だ。午後3時5分到着。池田駅前から見学、休憩を含めて約6時間の道のりだった。ここまでの歩紀「30588歩」(26.3km)。
今は国道423号線が通り抜け、交差点になっているが、昔は「亀岡街道」に突き当たる三叉路だったといわれる。右に折れれば茨木を経て大坂に続く。余野街道と交わり左に折れてからは「摂丹街道」となって京・亀岡に続く。
わたしの家まで帰る町の巡回バスの時間まで約1時間半あるので、ちょっと余野の町を散策しよう。交差点の手前には、よく地方都市で見かける鉄筋コンクリート風の偽洋館の建物。当時の最新建築も今ではレトロ感が漂う。
余野交差を左折(西)し、摂丹街道側に進む。ここも木材の切り出しをしていた。
「立派!」としか言いようのないお屋敷。
あまりに立派なので振り返ってもう一枚撮らせてもらった。
すぐ目の前の「切畑口交差点」で国道423号線を横切る。ここ「余野」は、能勢氏の一族が余野氏を名乗り、1493年「余野城」を建てて治めたと地だといわれる。
現在、城跡は大阪府立城山高等学校の敷地になっている。「城山」という名前からもここが城跡ということがわかる。しかし、この学校は、平成20年に廃校となった。
学校跡裏のこの坂は「残念坂」と言われるらしい。雪が残る。
実は、私が卒業した高校も別の高校と統合という形で廃校となり名称が変わってしまった。卒業生は、天守閣のように城跡にそびえる母校をどのような気持ちで眺めているのだろう。
国道を余野方向に戻り、今度は亀岡街道方向に曲がる。古いお屋敷が残る。今は着物店のようだ。
東能勢小学校グランド下から坂を上ると「豊能町立郷土資料館」という施設があった。まだ時間があるので見学して行こう。火・木・土・日の午前9時から午後5時まで開館しており、入館は無料である。
建物の前には石碑が。昭和28年、大阪府知事から優良村として表彰されたときの記念碑らしい。今回「能勢・余野」と表現させてもらったが「余野」自体は「能勢町」ではなく、現在の「豊能郡豊能町」に属する。しかし「豊能」というのは、明治に入り「豊嶋(てしま)郡」と「能勢(のせ)郡」が合併し、お互いの頭文字を取って誕生した行政地名であり、豊能町自体は元の「能勢郡東能勢村」である。「豊嶋郡」に属する自治体がすべて市制に移行した現在、豊能郡は実質、旧能勢郡であった地域に戻っているのだ。
資料館の前には、天保10(1839)年、高槻で開催された産業博覧会に出品するために作られた巨大な「寒天用鍋」が展示されている。
そして、資料館と小学校のフェンスとの間には古い道標が。これは、かつて余野の交差点にあったものをここに移転したものらしい。嘉永2(1849)年のもので比較的新しいものだが、それだけ近年まで街道が現役だったということだろう。
古い農機具や生活用品などが展示されている。
消防組(団)の手動ポンプとヘルメット。後ろには「東能勢村公民館」と書かれた表札。
展示されているというより並べられているという感じだ。
豊能町にたくさんある石仏も紹介されている。
こんなものまで。
さあ、バスの時間が来た。中央公民館前から巡回バスに乗る。以前、乗ったときとは運行コースが変わり料金も100円から200円に値上げされていた。池田方面に帰るならば町役場前から池田駅行きの阪急バスに乗る。
余野ぶらぶら歩きを含めて「34507歩」(29.67km)の歩紀。次は、余野から亀岡までを歩く。