「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~文教の町「天王寺区」

2013-09-20 21:30:56 | 日記
訪問日:平成26年7月12日(土)
出 発:地下鉄「天王寺駅」
到 着:地下鉄「天王寺駅」

 大正14年、旧「東区」と旧「南区」の分区再編により誕生。「日本書紀」に593年、聖徳太子により創建されたと記される日本最古の官寺「四天王寺」が区名の由来。区の大部分は上町台地上にあり、四天王寺を中心に200を超える寺院が並ぶ。寺院の数では、大阪は京都・奈良より多いそうだ。
 人口約7万人。区南端は、「JR」「近鉄」「地下鉄」が交わる繁華街である。「天王寺七坂」と呼ばれる区西部は、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」で歩いたので、今回は四天王寺から北に上り、区東部を一周するコースを選んだ。天王寺区は「寺院」のほか歴史ある「学校」「病院」も多い。「宗教(心)」「教育(学)」「医学(体)」は、古代大学での「学問」の礎である。そんな「文教」の町を歩いてみよう。


 地下鉄「天王寺駅」。御堂筋線と谷町線が交わる。地上にはJR「天王寺駅」。近鉄「阿部野橋駅」は、阿倍野区側になる。
 

 ホームを上がれば「アベノ橋地下センター(あべちか)」と言われる地下街に出る。「キタ」「ミナミ」に次ぐ大阪第3の地下街であるが、先の2つに比べればかなり規模は小さい。ただ、「デパ地下」「駅地下」やビルの地階ではなく「街」として形成されている。
 

 「天王寺駅前交差点」北東角の10番出入口を午前10時に出発する。通りの向こうにはJR「天王寺駅」が入る「天王寺ミオプラザ館」。大阪でも新しい「若者の町」だ。
 

 少し北に上ると右に「阪和町商店街」。
  

 80mほどのアーケード街が2本東西に走る。
 

 公衆トイレのある商店街。
 

 ここは「昭和」の臭いがプンプンする古い商店街だ。
 

 全国に多くの「作られた昭和の町(横浜ラーメン博物館など)」があるが、ここは本物の昭和の町だ。
 

 薄暗い商店街を抜けると古い町家が残る一角。
 

 

 「施行院(せこういん)」。かつて「四天王寺」には「悲田院」「敬田院」「施薬院」「療病院」という「四箇院」が建てられた言われる。そのひとつ「悲田院(ひでいん)」がこの「施行院」だと言われる。
 

 確かにこの辺りの地名は「天王寺区悲田院町」という。
 

 施行院から東に進み南北の小さな筋を北に進む。前から気になっていた「古いアパート」。
 

 そのアパートを過ぎると「清水の井戸」という井戸があり、その横に地蔵尊が立つ。
 

 今回のコースは、前半、神社がないので、このお地蔵さんで今日一日の安全を祈願する。「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」。
 

 清水の井戸前の一方通行路を左に進むとすぐに「庚申堂」の前に出る。
 

 「庚申(こうしん)」とは、古くから伝わる疫病除けの民間信仰だ。ここのお堂は、昭和45(1970)年、大阪吹田で開催された「万博」で展示されたパビリオンを再活用しているそうだ。
 

 庚申堂前の坂道から、この後、訪れる「四天王寺」を望む。1400年前の風景だ。
  

 さらに北へ進むと国道25号線に出るが、その左角に「浄土真宗本願寺派超願寺」。歴史は、推古天皇の時代までさかのぼるらしい。人形浄瑠璃の開祖「竹本義太夫」の墓所として有名だ。
 

 寺は、この「梵鐘」を残して大阪大空襲により焼失したそうだ。
 

 ここの国道25号線は一方通行路になっており、100mほどの間隔をおいて2本走る。「超願寺」前の国道25号線を渡り、北に進む。
 

 2本目の国道25号線を渡った所に「四天王寺南大門」。推古元(593)年に創建されたが、現在の南大門は昭和60年の再建である。
 

 南大門はくぐらず、一旦、国道を西に進む。レトロな消防署前を通り過ぎる。
 

 次の角を右に曲がると「石鳥居」。多くの人は、こちらから参拝するだろう。「四天王寺」の正面玄関だ。
 

 鳥居横の石柱には「大日本佛法最初四天王寺」と刻まれている。四天王寺は、推古天皇元(593)年、聖徳太子により建立が開始された日本最古の官寺であり、和宗総本山を名乗る。
 

 鳥居をくぐると左側に「四天王寺学園」。大正11年創設の古い私立女子中・高校であり進学校でもある。ただ、スポーツも盛んで、東京オリンピックで「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーチームのゴールドメダリストやシンクロナイズドスイミングの奥野史子選手、卓球の石川佳純選手、テコンドーの岡本依子選手など多くの女子スポーツ選手、メダリストを輩出している。
 

 正面に見えるのは「西大門」。極楽に通ずるということから「極楽門」とも呼ばれる。
 

 門柱には「転法輪」があり、これを回転させると功徳を積むことができると言われる。
 

 西大門をくぐると「西重門」という門があり、ここが「中央伽藍」の入口になっている。「中門」「五重塔」「金堂」「講堂」と一直線に並び周囲を回廊が囲むのが「四天王寺式伽藍配置」と言われる日本で最も古い寺院建築様式だ。拝観料300円を支払って、まず中央伽藍を巡る。
 

 すぐ右には「五重塔」。伽藍は、度重なる天災・火災・戦災により焼失してしまったが、昭和38年、当時の姿で再建された。
 

 その北に「金堂」。聖徳太子のご本地仏「救世観音」をお祀りする。
 

 そして最も北に「講堂」。「龍の井戸」越しに講堂を望む。東を冬堂(現世)、西を夏堂(来世)と呼び、現世での苦悩から人々を救い、来世へと導くという願いが込められているという。
 

 回廊をぐるっと周り、一番南の「中門」へ。
 

 守護神である金剛力士を祀っていることから「仁王門」とも呼ばれる。
 

 一直線に並ぶ伽藍配置がよくわかる。
 

 ぐるっと一周回り外へ。ちょうど講堂の裏辺りに「石舞台」。亀池という池の上に組まれた舞台で、大法要の際には「雅楽」が舞われる。
 

 石舞台の奥には「六時礼讃堂」。国の重要文化財である。
 

 「北鐘堂」「太鼓楼」を過ぎて東に進む。
 

 そこには「東大門」が建つ。ここは、ちょうど裏門のような位置関係になるのでひっそりとしている。かつて「聖徳太子」というテレビドラマのロケも行われている。
 

 太鼓楼まで戻り右へ。本坊へと向かう(入場料300円)。「五智光院」。元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
 

 さらに進むと「極楽浄土の庭」と呼ばれる庭園がある。
 

 2つの川と2つの池を配する大庭園で、江戸時代初期の造園と言われる。
 

 現在の庭園は火災により焼失したものを明治時代初期に復興されたものである。
 

蓮池の畔には「八角亭」。明治36年、天王寺公園で開催された「第5回内国勧業博覧会」で展示されたものを移築したもので国の登録有形文化財に登録されている。
 

 庭園を抜けると「湯屋方丈」。方丈とは、住職の居室のことだそうだ。これも元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
 

 境内を東西に横切り、北西端の「中之門」から境内を後にして「谷町筋」へと向かう。
 

 「谷町筋」沿いに「大阪星光学院」。昭和25年創立のカトリック系私立中・高校である。「天王寺七坂」と呼ばれる7つの坂の「清水坂」と「愛染坂」の間に位置する。
 

 「大阪星光学院」手前の路地を入ったところに良い感じの喫茶店を発見。
 

 さらに谷町筋を北に進む。
 

 「大阪夕陽丘学園」。昭和14年創立の私立女学校(平成17年から共学)で高校と短期大学がある。
 

 学園南側の300mほどの坂道は「学園坂」と呼ばれる。ただ「天王寺七坂」には数えない。
 

 谷町筋を挟んで大阪夕陽丘学園の向かいに「吉祥寺」。
 

 曹洞宗の寺院であるが、赤穂藩主浅野家の祈願寺で赤穂浪士四十七士の墓がある。
 

 毎年12月14日「義士祭」が行われる。境内には、真新しいが「四十七士の像」が建つ。
 

 「上汐(うえしお)公園」を過ぎ、上汐4・3丁目と北に上る。
 

 広い通りを越え「上本町6丁目」の町に入る。今日は「生國魂神社」の夏祭りのようだ。道路には屋台が並んでいる。
 

 開店前の屋台に隠れるように「CARILLON(キャリヨン)」。時間は午前11時50分。ここで昼食とする。
 

 いわゆる「洋食屋さん」である。「ハヤシライス(880円)」を注文。サラダとともにルーとライスが別々に出てきた。
 

 筋向かいに「やまたけ」というお肉屋さん。コロッケや串カツが有名だ。隣の「グリルやまたけ」に行列ができていた。
 

 ここは、お持ち帰り専用。行列に並び「コロッケ(55円)」を買う。
 

 「ホカホカ」のコロッケ。
 

 すぐ北には「うえほんまちハイハイタウン」がそびえる。
 

 戦後、焼け野原であった場所に再開発された商業ビルで昭和54年に完成した。地上15階地下1階で、地下は近鉄「上本町駅」や「近鉄百貨店」とつながる。飲食店や飲み屋、店舗のほか4階以上はマンションやクリニックが入る。
 

 真正面には「近鉄百貨店上本町店」。近鉄「上本町駅」と併設されており、百貨店は昭和11年に開店したそうだ。私はかつて近鉄「奈良線」沿いに住んでいたが、昭和45年の「万博」までは、奈良線の終点が「上本町駅」であったため、よく親に連れて来てもらった。当時、難波まで行くことはなかったなぁ。アーチのある石造りのデパートで、屋上にはソフトクリームのコーンのような形のネオンと観覧車があったのを覚えている。
 

 近鉄百貨店から千日前通を渡り東へ。「上本町6東交差点」を左折し、次の四つ角を右へ。大阪府教育会館「たかつガーデン」を過ぎて左へ曲がり、北へ進めば「東高津宮」。今日初めての神社だ。
 

 由緒は不詳であるが「仁徳天皇」を祀り、かつては「仁徳天皇社」と呼ばれていたらしい。
 

 東高津宮の北側は「城南寺町」といい、多くの寺院が並ぶ。
 

 寺町の東には「府立高津高等学校」。大正7年創立の古い公立高校で、多くの学者や政治家、起業家、文化人などを輩出している。織田作之助もここの卒業生とか。
 

 寺町の北西角には「円珠庵」。真言宗の寺院であるが、国学者でもある「契沖」が庵を結び、ここで亡くなった。墓所が境内にある。また、「釜八幡」とも呼ばれ、悪縁を絶つため霊木に多くの釜が打ち付けられている姿は不気味であるが、境内は写真撮影が禁止されている。
 

 円珠庵の斜め向かいには「大阪明星(めいせい)学園」。明治31年に創立されたカトリック系の私立中・高校である。
 

 さらに北に進むと「府立清水谷高等学校」。ここも明治34年創立の古い公立高校で元は女学校。多くの著名人を輩出している。
 

 「清水谷高校」から北は「中央区」になるので東へ。ここは「空堀町」。大坂城の空堀があったことから、このように名付けられた。
 

 所々、古い家が残る。
 

 

 そして少し南に戻ると角に「高野山真言宗善福寺」というお寺が建つ。別名「どんどろ大師」と呼ばれる。
 

 由緒は、宝亀9(778)年までさかのぼるそうだが、現在の寺院は明治に入って建立されたそうだ。かつて付近に大坂城代土井利位が居を構え、本尊である弘法大師を深く信仰したことから「土井殿の大師様」と呼ばれ、それが訛って「どんどろ大師」と呼ばれるようになったと伝わる。
 

 ここは「大阪明星学園」の裏にあたり「心眼寺坂」という緩い上り坂。坂に沿って多くの寺院が並ぶ。
 

 次ぎの寺院が坂名の由来となる「浄土宗心眼寺」。山門前には「真田幸村出丸城跡」碑が建つ。
 

 「大坂冬の陣」で徳川勢に大打撃を与えた「真田幸村」の出城「真田丸」。この辺りにあったのは確かなのだが遺構が残っておらず正確な位置はわからないそうだ。そして、ここ「心眼寺」が「真田丸」推定地の一部だと言われている。確かに城のような風貌だ。
 

 すぐに坂は平坦な道となる。
 

 左に「陸軍省所轄地」の碑。
 

 その後ろには「騎兵営址」碑。明治22年、ここに「騎兵第4連隊」が駐屯した。
 

 次の辻を左へ。騎兵第4連隊は、昭和17年、堺金岡に移転し、跡地が「真田山公園」となる。
 

 野球場やテニスコート、室内プールなどがあるスポーツ公園であるが、ここも「真田丸」の一部だろう。
 

 公園を抜け北に戻る。そこには「市立真田山小学校」。大正11年創立の古い学校だ。もちろん「真田幸村」に因んだ校名であり、校章も「六文銭」をあしらったものらしい。
 

 小学校の北側には「宰相山公園」。上町台地の東端である。
 

 ここには「真田山軍人墓地が」あり、多くの英霊が眠る。
 

 台地の斜面には「三光(さんこう)神社」。
 

 「天照大神、月読尊、素戔嗚尊」つまり伊邪那岐命が禊ぎ払いした際に誕生した「三貴子」を祀る。
 

 そして「真田山公園」から続くこの公園一帯も「真田丸」の一部と言われ「真田幸村像」が立つ。
 

 像の横には、大坂城から続くと伝わる「真田の抜穴跡」が残る(実際にはつながっていない)。
 

 宰相山公園の東には「玉造交差点」。向こうにはJR「玉造駅」が見える。玉造駅は、「天王寺区」「東成区」「中央区」の区境である。
 

 その手前に「玉造日之出通商店街」。
 

 「北・中・南」に分かれ450m続く。きれいに整備され「垢抜け」した雰囲気だが、かつては寄席や映画館などが並ぶ歓楽街だったそうだ。
 

 古い看板を掲げた呉服屋さん。
 

 やはり売りは「真田幸村」。
 

 JR環状線に突き当たり、アーケードは終わる。
 

 ガード下にも「昭和」が残る。
 

 そのままガードに沿って歩く。
 

 500mほどでJR「鶴橋駅」に出る。ホームの下に商店街が。
 

 国道308号線が走る「鶴橋ガード下」。
 

 ここは「東成区」「生野区」との区境。3区それぞれ特徴がある。特に「天王寺区」側の特徴は「焼肉店」だろう(「東成区編」「生野区編」参照)。
 
 
 おそらく「焼肉店」の密集度では「日本一」ではないだろうか。
 

 80m×50mの空間に20以上の焼肉屋が並ぶ。
 

 夕暮れ時になれば、ガードの上にある近鉄「鶴橋駅」は、炭火焼肉の「臭い」と「煙」が充満する。
 

 電車が駅に到着し、ドアが開けばアナウンスがなくとも「臭い」で鶴橋駅に着いたとわかる。向かいのホームは「煙」でかすんでいる。これは、冗談でもオーバーな表現でもない本当の話だ。行けばわかる。
 

 鶴橋駅から南に進み「筆ヶ崎町」に入る。緩やかな坂を上っていくと右に「大阪赤十字病院」。明治42年、「日本赤十字社大阪府支部病院」として発足した、大阪でも古い病院のひとつだ。
 

 今は、きれいに建て替えられているが、昔は古いコンクリート造りの病院で、坂道に沿って高い塀が続いていたことから横溝正史の「病院坂の首縊りの家」のような雰囲気の坂道だった。
 

 坂の南には「別館」が当時の姿で残る。
 
 
 坂を上り左へ。そこには「聖バルナバ病院」。「日本聖公会」系の産婦人科医院であるが明治6年に施療が始まったという、大阪でも古い産院である。
 

 聖バルナバ病院から西に進むと「清風学園」。昭和7年創立の「高野山真言宗」系の私立中・高校。どうも建て替え工事中のようだ。四天王寺で毎年1月14日に行われる裸祭り「どやどや」では、ここの学生が締め込み姿で参加する。
 

 しかし、何よりも「体操部」が有名だろう。監物永三、具志堅幸司、池谷幸雄、西川大輔などのオリンピックメダリストを排出している。
 

 その南側には「上宮学園」。「浄土宗」系中・高校で、明治23年創立の大阪府下で最も古い私立学校である。
 

 有名なのは「野球部」。平成元年、春夏連続で甲子園に出場し、平成5年の春の選抜では優勝している。今も「上宮太子高校(南河内郡太子町)」に引き継がれている。多くのプロ野球選手を輩出しているが「司馬遼太郎」もここの卒業生である。
 

 グランド裏には、古い門柱が残っていた。
 

 「市立五條小学校」の西側を抜け、さらに南に進んでいく。通りに出れば目の前に「天王寺区役所」。
 

 平成8年6月の建築であるが、昭和2年12月に建てられた旧庁舎の面影を残している。
 

 その東には、昭和12年に開院された「大阪けいさつ病院」。大阪府警察協会が運営する大阪府警の職域病院であり「災害拠点病院」にも指定されている。自衛隊病院と異なり誰でも受診できる一般総合病院である。
 

 その東隣には「府立夕陽丘高等学校」。明治39年創立の古い公立高校で元女学校である。女優の有馬稲子は、ここの卒業生らしい。
 

 公園を挟んでその東に「NTT西日本大阪病院」。昭和17年開院した「大阪逓信病院」が「日本電信電話公社」の民営化に伴い改称された。「警察病院」と「逓信病院」が並ぶところは東京の「飯田橋」と似ているなぁ。けど、今の若い人は「逓信」とか「電電公社」と言ってもわからないだろう。
 

 NTT病院の南には、「市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」。学校自体は平成24年に開校した新しい学校だが、元々は大阪市立「天王寺商業(明治45年創立)」「市岡商業(大正8年創立)」「東商業(大正9年創立)」の3商業高校統廃合により創立され、元天王寺商業高校の敷地に建つ。
 

 「勝山通」を越え南に進み右に曲がると「黄檗宗清寿院」。通称「南京寺」。
 

 全国にいくつかある「三国志」の登場人物「関羽」を祀る「関帝廟」である。
 

 すぐ南に「久保神社」。
 

 天照大神を祀るが、四天王寺の守護神として創建された「四天王寺七宮」のひとつと言われる。夏祭りのようだ。
 

 神社南側の寺田町公園東隣には「興國高校」。大正15年創立の古い私立高校である。野球部は、昭和43年夏の甲子園で優勝。沖縄代表「興南高校」との決勝戦では、どちらも「興」が頭文字なので、テレビの画面には「国」「南」と表示されていた。
 

 「大道」の町を抜ける。所々、古い家が残る。
 

 この古い建物は、キリンビールの特約店らしい。たくさんのビア樽が積み上げられていた。
 

 この屋敷は、良い感じだな。
 

 国道25号線を越えて南に進むと「河堀稲生神社」。「稲生」の名からもわかるとおり「宇賀魂大神(お稲荷さん)」を祀る。
 

 景行天皇年間(西暦70年~130年)の創建と伝わるが、この神社も「四天王寺七宮」のひとつと言われる。四天王寺七宮とは、ここのほか「小儀神社」「土塔神社」「久保神社」「大江神社」「堀越神社」「上之宮神社」「今宮戎神社」となぜか8社を指す。
 

 ここも夏祭りのようだ。
 

 ゴールも近い。神社からさらに南に進み「玉造筋」を越える。そこには「大阪教育大学」。明治6年に創設された「大阪師範学校」を前身とし、戦後の新制「大阪学芸大学」を経て現在に至る国立大学である。
 

 平成6年、大阪府柏原市に開設された「柏原キャンパス」に大学本部機能を移し、旧本校跡地である「天王寺キャンパス」は、平成12年、新校舎を「放送大学」と合築。
 

 付近には、大手の予備校や専門学校が並ぶ。
 

 

 玉造筋から1本南に入った路地を「あべのハルカス」を眺めながら西に進む。
 

 500mほどで、今朝、出発した「天王寺駅前交差点」。午後3時50分、着。本日の歩紀「24300歩」(20.92km)。寺院のほか古い「学校」「病院」が多いということがわかっていただけと思う。
 
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大阪24区を歩く~7つの渡しが結ぶリトル沖縄「大正区」

2013-09-20 21:30:09 | 日記
訪問日:平成26年7月26日(土)
出 発:地下鉄「大正駅」
到 着:JR「大正駅」

 淀川の中洲に発達した大阪に大正4年、巨大な橋が架かる。後に大阪市電も走る全長80mのその橋は、日本一のアーチ橋として、架けられた年代から「大正橋」と命名された。そして昭和7年「港区」から分区して誕生したその区は、その橋名から「大正区」と名付けられた。
 大阪港と「木津川」「尻無川」そして運河に囲まれ、4つの島(埋立地)に分けられた「大正区」は完全な「諸島」である。戦後、多くの橋が架けられたが、今でも7つの渡し船が区民の足として運行されている。また、大阪湾に沿った町は、阪神工業地帯の中核として発展、職を求めて多くの人が集まった。中でも沖縄から多くの人々が移住し、人口約6万9千人のうち4分の1は、沖縄にルーツを有する人々だ。区内には、沖縄料理、食材を扱う店も多く並ぶ。南国情緒もトロピカルな雰囲気もないが「リトル沖縄」として発展した街を歩く。ただし、大阪市の今日の最高予測気温は「37度」。沖縄より暑いぞ!


 地下鉄長堀鶴見緑地線「大正駅」。これまで何回か利用した線である。すぐ上にはJR大阪環状線「大正駅」がある。どちらの駅をスタート地点にしても良かったのだが、発着点を違う駅にするため、この駅を午前10時20分、スタートする。
 

 ここは、大正区の最北端に位置する。そして4つに分かれた「大正諸島」の本島にあたる部分。駅から北に進み「大正橋交差点」を右に曲がれば、区名の由来となる「大正橋」が架かる。
 

 現在の橋は、昭和49年に架けられた2代目だが、初代大正橋は、当時、日本最長のアーチ橋であり、橋のたもとには記念碑が建てられている。
 

 大正橋から南へ。JR「大正駅」北側の「大正駅前商店街」をブラブラ。ここは、区一番の繁華街だ。
 

 場所柄、沖縄に関する店が多い(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「コラム『大阪の中のオキナワ』」参照)。
 

 

 

 大正駅東側のガードをくぐり駅南側へ。ここにも沖縄料理屋さん。
 

こんなお風呂屋さんが残っているんだな。
 

 「大浪通」を越えて少し進むと「八坂神社」。
 

 正保4(1646)年、京都祇園社を分霊し「素戔嗚尊」「天之穂日命」「応神天皇」を祀る。今日一日の安全を祈願する。
 

 参拝を終え「市立三軒家東小学校」の横を通って、神社南にある「三軒家公園」へ。
 

 公園の一角に「近代紡績工業発祥の地」碑。明治16年7月、「大阪紡績会社」が操業を開始。夜間、電灯に照らされた工場は「東洋のマンチェスター」と呼ばれたという。昭和20年3月、空襲により焼失。
 

 公園内にある「大正警察署三軒家東警ら連絡所」向かいの道を南に進む。
 

 

 ここにも「八阪神社」。先ほど訪れた「八坂神社」が「上之宮」であるのに対して「下之宮」である同社は「阪」と書く。
 

 寛永2(1625)年、「素戔嗚尊」を勧請し創建された。
 
 
 国道43号線を越えると「千島」の町。町工場が並ぶ。
 

 ゴルフセンターの西側を抜けていく。
 

 ゴルフ練習場南の小さな公園に「栗本鐵工所発祥の地」碑。明治42年、栗本勇之助翁により創業され、平成14年、閉鎖されたのに伴い建立された。
 

 しばらく歩くと「落合上渡船場」。
  

 船着場の北側には巨大な「木津川水門」。そして左の「三軒家水門」から600mほどの「三軒家川」と呼ばれる運河が引き込まれる。水運華やかなころ、多くの船が出入りし、貨物を運んだのだろう。
 

 大正区は、大正橋が架けられた後、昭和12年、約500m下流に「大浪橋」が架けられるまで橋はなく「陸の孤島」であった。そのため「渡し船」が運行され、今も7つの「渡し」が残る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「市民の足『川底トンネル』と『八つの渡し』」参照)。大正区の東を流れる「木津川」。対岸は「西成区」だ。
 

 「渡し」には乗らず、西へ進む。前には、こんもりとした「山」が現れる。
 

 地下鉄工事の残土などで造られた人工の山「昭和山」を中心に広がる「千島公園」。
 

 結構、緑豊かな公園だ。
 

 標高33m。大阪にいくつかある「低山」のひとつである。
 

 結構、眺めは良く、この後、渡る「千歳橋」方面を望む。
 

 ちょうど区の中心に位置することから周辺には区役所や保健センター、コミュニティーセンター、警察署などの公共施設が集まる。
 

 公園の西側には「大正通」。区内を南北に貫く大動脈だ。大阪では、南北に走る道を「筋」というのだが、市中心部を外れると道は放射線状に走るので原則通りにはいかない。
 

 「区役所前」の信号で「大正通」を渡り南へ進むと「大阪沖縄会館」。
 

 頭に「大阪」と付くことから、ここは大阪府内に居住する沖縄出身者の親睦団体なのだろうか。というのは、区内には別に「大正沖縄会館」という施設があるのだ。
 

 少し南に下り「大正警察署前」の信号で再度「大正通」を渡り、「千島公園」を左に見ながら東へ進む。
 

 途中、右折し「小林公園」を横切る。
 

 公園を抜けて東に進めば「落合下渡船場」。
 

 同じく「木津川」を渡り「西成区」と結ぶ。
 

 船着場を後に西へ戻る。この辺りは「平尾」の町。町の中心にある「平尾公園」の横を抜ける。「平尾」は、隣接する「南恩加島」とともに沖縄出身の人々が多く住む。
 

 「萬歳湯」。これもレトロな銭湯だ。
 

 すぐに「サンクス平尾」というアーケード街が現れる。
 

 この商店街には、沖縄料理の食材などを扱う店がたくさんあり、テレビにもよく登場している。
 

 

 「大正愛らんど」やっぱり「島」なんだな。
 

 アーケードを抜け右へ。通りに出れば右に「大正沖縄会館」。入口には「シーサー」が並ぶ。
 

 会館の向かいには「沖縄そばピコ」。時間は、午後12時15分。
 

 せっかく大正区に来たのだから「ソーキそば(700円)」を注文。
 

 付近には「沖縄料理店」も多い。
 

 食事を終え南へ。「南恩加島」の町に入る。「大正通」を挟んで1丁目から7丁目まである大きな町だ。ここにも沖縄出身の人たちが多く住む。「恩加島」と書いて「おかじま」と読む。
 

 「大阪製鐵」という大きな工場を過ぎると公園の奥に「南恩加島天満宮」。
 

 菅原道真をお祀りし御神牛像もある。鳥居がひさしを突き抜けている。
 

 公園北側の工場と工場の間を抜けていく。
 
 
 信号を右に曲がれば「千本松大橋」という大きな橋が架かる。両端がループ状になった広島県の音戸大橋のような橋だ。その形から「めがね橋」とも呼ばれる。
 

 その下に「千本松渡船場」。
 

 昭和48年10月、「千本松大橋」が完成した後も「渡し」は健在だ。「木津川」を渡り「西成区」と結ぶ。
 

 「千本松大橋」から西へ。「大正通」が西へ直角に曲がる「大運橋交差点」で左折、南下する。
 

 「大船橋」という橋で「木津川運河」を渡る。
 

 ここは、「木津川」と「木津川運河」に囲まれた「離島」で、「中山製鋼所」と「日立造船」及び関連企業で占められる工場地帯である。
 

「工場萌え」にはたまらない風景だろう。
 

 巨大なプラント群。
 

 途中、左に「新木津川大橋」。全長2.4kmの大きな橋である。大正区側はループ状になっている。
 

 ここには、かつて「木津川飛行場」という民間飛行場があり、東京や福岡との間に定期便があったようだが、今は橋のフェンス横に案内板と碑が残るだけだ。
 

 かなり大きな橋だが「歩道」がある。
 

 ここから南に下がれば「新木津川大橋」のたもとに「木津川渡船場」。
 

 「木津川」河口で対岸は「住之江区」。住之江区側は、真っ直ぐに伸びている。
 

 今日は「猛暑日」。トータルで4リットルの水分を補給した。市内は、いたるところに自販機があるので助かる。
 

元の道に戻り左折。「中山製鋼所第4工場」に沿って西へ進み、「日立造船」に突き当たりれば右折。
 

 突き当たりが「船町渡船場」。ここで10分ほど「船待ち」をする。
 

 天井には涼しげな風鈴の音。
 

 熱中症予防のためだろう「うちわ」が置かれていた。
 

 対岸から「八坂丸」がやってくる。
 

 今日、初めて「渡し」に乗り、折り返し「木津川運河」を渡る。「渡し」のうち最も短い距離(約60m)だ。
 

 対岸は「鶴町」。ここも区最西端に浮かぶ「離島」である。「大正通」を渡る。
 

 「鶴町」の特徴は、大きな市営住宅があり、結構、人口が多いということだ。この小さな「島」に小学校が2つある。
 

 北に進み「南福橋」という小さな橋を渡る。実は、鶴町は1丁目から5丁目まであるのだが5丁目のみがさらに「福町入堀」という運河で隔たれ「小島」になっているのだ。
 

 「島内」には、工場や倉庫が並ぶ。
 

 「西福橋」で「福町入堀」を渡り、鶴町の「島」に戻る。
 

 橋を渡り「市立福町小学校」を過ぎれば、公園の片隅に「神明神社」。
 

 「神明」の名の通り、天照大神をお祀りする。
 

 そのまま真っ直ぐ抜けると埋立地に至る。前方には、平成7年2月に完成した「なみはや大橋」がそびえる。全長約1.7kmの有料橋である。有料だが「人道橋」も併設され「港区」と結ぶ。その奥は、阪神高速が走る「港大橋」。
 

 市営住宅の間を抜け東に進む。
 

 岸壁には「千歳渡船場」。大阪港のうち大正「諸島」に囲まれた「内海」部分は「大正内港」と呼ばれ、内航路や艀(はしけ)の拠点となっている。この「渡し」は、唯一、川(運河)ではなく港の中を運行する。距離は340mで「渡し」中、最長だ。
 

 ここも頭上に、平成15年3月、「千歳橋」という大きな橋が架けられた。
 

 「渡し」の上を走る「千本松大橋」「新木津川橋」「千歳橋」とも人道橋であり、すべて歩道と階段、自転車用のスロープが設けられている。しかし、いずれも大型船が航行するため橋桁を高くせざるを得ず、かなりの高さになるため、人々は橋を渡らない。そのため「渡し」が健在するのだ。しかし、今回は、あえて「渡し」には乗らず、この階段を上って橋を歩く。
 

 「橋上」を歩く。
 

 振り返ると、先ほど歩いた「鶴町5丁目」が「大正内港」に浮かぶ「島」であることがわかるだろう。
 

 「大正内港」と呼ばれる埠頭。奥に見える小山は、午前中に登った「昭和山」である。
 

 そして西には、さらに「咲洲」という人工島が続き、多くの橋が架かる。
 

 歩行者・自転車用のスロープを下る。この間、誰ともすれ違わなかった。そりゃそうだろう。そんな「変人」は「歩紀人」くらいだ。
 

 10分ほどで「大正本島」に戻ってきた。ここは「北恩加島」。先ほど訪ねた「南恩加島」とは「大正内港」を隔てて随分離れているのに同じ行政区名を使用している。これは、かつて新田開発した「岡島」という人の姓を地名としているかららしい。
 

 「大正内港」の岸壁沿いは「マリンテニスパーク北村」というテニスコートになっている。向こうには、さっき歩いてきた「千歳橋」が見える。
 

 「北恩加島」2丁目から1丁目に入ると西側を流れる「尻無川」の堤防に「甚兵衛渡船場」。今日、最後の「渡し」だ。あと1つ「天保山渡し」があるが、大正区を発着地としない(「港区」編参照)。
 

 大阪市内の渡し船は、「木津川渡し」が「港湾局」で他は「建設局」の管轄となる。いづれも「交通局」ではない。つまり「渡し」は交通機関ではなく、すべて道路の延長とみなされ、人と自転車は乗客ではなく、歩行者として「無料」で乗船できるのだ。
 

 「泉尾」の町へ入り、府立大正高校前を抜ける。
 

 「大浪通」を越え、「泉尾公園」を横切る。
 

 頭上を阪神高速が走る国道43号線を渡れば「泉尾商店街」。
 

 店舗のクーラーと相まってアーケードに入ると涼しい。
 

 途中、左(西)へ曲がる。小さなアイスモナカ屋さんがあった。「冷やし飴」。懐かしいなぁ。
 

 その奥には「泉尾神社」。
 

 「大国主大神」「住吉大神」「八幡大神」をお祀りする。
 

 アーケードに戻りさらに北へ。やっぱり大阪の商店街には「たこ焼き屋」が欠かせまへんな。
 

 アーケードが途切れるが、一旦、右に折れ左折する。大阪は、在日が多いので「生野区」や「東成区」でなくとも、基本的に「焼肉屋」や「キムチ屋」は多い。
 

 キムチ屋さんの奥にさらにアーケードが現れる。
 

 ここは、結構、古い店舗が多い。
 

 クルクル回る「ハエ除け」。懐かしいな。
 

 「シャッター街化」しているが、古い店が続く。
 

 

 

 「大浪通」を渡ると「三泉北商店街」と名を変える。
 

 ここもレトロな店が並ぶ。
 

 

 

 途中、右に「三軒家中央商店街」が続く。
 

 立派な「うだつ」のある旧家。写真ではよくわからないが、正面には「大阪ドーム」がそびえる。
 

 真っ直ぐ進めば「尻無川」の堤防に突き当たる。上ってみよう。
 

 川沿いにはカフェなどが並び、夕暮れ時には、運河越しに夕陽を眺めながら、ゆっくりとしたひとときが過ごせる。
 

 お洒落な町と下町が混在したような一角を抜ける。
 

 JR大阪環状線の鉄橋越しに「大阪ドーム」。
 

 環状線のガードに出る。ここにもいろんな店が並ぶ。
 

 以前、大正駅前に飲みに来たことがあるが、結構、良い感じの店が多かった。
 

 ガードに沿って進む。
 

 午後4時、朝、出発した大正区の最北端に着。出発地点の地下鉄「大正駅」の上にはJR大阪環状線「大正駅」。本日の歩紀「28593歩」(24.58km)。「ミナミ」からも近く「シマンチュー(島人)」体験ができる沖縄料理店も多いので、大阪観光に来られた折りは、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
 
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大阪24区を歩く~ちょっとレトロな町「港区」

2013-09-20 21:28:58 | 日記
訪問日:平成25年9月26日(木)
出 発:JR「弁天町駅」
到 着:JR「弁天町駅」

 「東」「西」「南」「北」「中央」同様、地名ではない一般名詞を冠された「港区」。同名の区が東京都、名古屋市にもある。大正14年、西区から分区、新設された。人口約8万4千人。その名のとおり、大阪港を中心に発達したが、物流の中心が大型コンテナやタンカー、フェリーに移行してからは、専用埠頭を有する「大阪南港」「大阪北港」「堺泉北港」にその地位を譲り、現在は「寂れた」感が漂う。そんなちょっとレトロな港町を歩いてみた。


 JR「弁天町駅」を午前9時30分スタート。
 

 付近は、元禄11年、新田開発され、開拓者の名から「市岡新田」と呼ばれた。その会所内に弁財天が祀られていたことが町名の由来とか。駅北側の「波除公園」内に「市岡新田会所跡」の碑が立つ(公園は、環状線で東西に二分されている。碑は西側の北西角に立つ)。
 

 そして弁天町駅高架下とすぐ東に隣接して「交通科学博物館」がある。東京の「交通博物館」同様、鉄道を中心とした交通関係の展示館として昭和62年1月、当時の国鉄により設置された(開館当時は「交通科学館」)。
 

 しかし、東京の交通博物館が、さいたま市にオープンした「鉄道博物館」に合併・吸収される形で平成18年閉館したのと同様、ここ交通科学博物館も平成28年をめどに京都・梅小路蒸気機関車館に新たに建設される鉄道博物館に吸収されるため、来年4月に閉館することが決定した。小さい頃何度か訪れた思い出の地も今回が最後だろう。
 

 「昭和の駅」が再現されている。


 「0系新幹線」というより「夢の超特急」だ。
 

 新幹線のほか特急などの運転席も公開されている。
 

 「交通」なので、鉄道だけというわけではない。
 

 「リニアモーターカー」が大阪を走る頃、私は生きているだろうか?
 

 屋外にも本物の汽車や車両が展示されている。
 

 

 私は、特に「鉄道ファン」というわけではないが、やはり「鉄道」や「国鉄」という言葉には哀愁のようなものを感じる。
  

 交通科学博物館を後にして「ORC200」という高層ビルを左に見ながら国道43号線を北上。一つ目の交差点を左折するとすぐ右側に「ピアック東商店街」というアーケードが現れる。市営住宅1階と隣のビルの商店の間にかけられた40mほどの商店街で10ほどの店が並ぶ。
 

 「弁天」の町を抜ける。
 

 「寿温泉」と看板が掛かったお風呂屋さん(銭湯)。
 

 家並みを抜けると岸壁に出る。そして突き当たりに「弁天埠頭」。かつては九州、四国方面への定期客船が運航され、帰省客や観光客で賑わった。
 

 しかし、大阪南港にフェリーターミナルが開設され、現在はターミナルとしての役目を終えている。
 

 弁天埠頭向かい側の岸壁に沿って歩く。ここには民間の倉庫が並ぶ。ちょっと「ドブ臭い」海の香りがする。
 

 小型ではあるが船を間近に見ることができる。
 

 岸壁への通用門は、高潮や津波から町を守るための「防潮扉」も兼ねているようだ。
 

 ここからしばらく「田中」という町の中を歩く。
 

 5分ほどで大きな公園が現れる。「八幡屋公園」。
 
 
 以前、扇町公園にあった「大阪プール」と現在のNHKの場所にあった「大阪市立中央体育館」が移設されたスポーツ公園だ。
 

 体育館は、半地下式になっており、その上に植樹され「グリーンヒルズ」という丘になっている。
 

 公園から一旦「中央大通り」に出て「夕焼け橋」という歩行者・自転車専用橋で運河を渡る。
 
 
 頭の上には、阪神高速道路の「天保山ジャンクション」がカーブを描く。
 

 ここからは「築港」の町を歩く。ここは、「亀甲形」をした埋立地で、大阪港の中心だ。
 

 町は、防潮堤で囲まれている。
 

 水上消防署の角を曲がると「天保山公園」だ。
 

 ここには、日本一低い山といわれる「天保山」がそびえる?築山から山頂を見下ろす。
 

 山頂には、明治天皇が慶應4(1868)年4月、日本初の観艦式を行った際の「明治天皇観艦之所」の碑が立つ。
 

 そして、碑の裏に標高4.53mの二等三角点が。大阪人の「いちびり精神」で山岳会や山岳警備隊も設置されているとか。ただ、今まで1度も救難要請はないそうだ。
 

 公園の北側には「天保山渡船場」。大阪市内にある8つの渡しのひとつで安治川河口を此花区まで約5分で結ぶ。渡しで唯一「大正区」を発着地としない。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「みなとOSAKA」「市民の足『川底トンネル』と『八つの渡し』」参照)
 

 中央突堤から北側は、「天保山ハーバービレッジ」として再開発され、大観覧車や「海遊館」などの観光施設が並ぶ。
 

 その中のひとつ「マーケットプレース」2階には、「なにわ食いしんぼ横丁」という昭和の街並みを再現した飲食店街がある。
 

 作られた「昭和」だが、やはり懐かしい感じがする。
 

 突き当たれば海岸線に出るが、そこは以前「みなとOSAKA」で歩いたので、あえて街中を進む。ビル1階のお店の扉は「木製」。良い感じだ。
 

 やはり港に関連した店が目につく。
 

 中央大通りに出て右(海側)に曲がる。すぐに「商船三井築港ビル(旧大阪商船ビル)」。昭和8年頃の建築らしいが、その後、改築・増築され正式に「昭和**年築」とは公表されていないようだ。ただ、多くのレトロビル同様、取り壊しの運命にあるとか。もう高度成長期を過ぎた日本。何とか古いものと共存できないのだろうか。
 

 その隣には「天満屋」というレトロビルが並ぶ。このビルは、昭和11年の建築らしい。
 

 地盤沈下のため道路がかさ上げされ、「商船三井築港ビル」とともに、かつての1階が半地下になっている。
 

 大阪と奈良の府県境である生駒山をトンネルで抜けた中央大通りと地下鉄中央線(近鉄けいはんな線が乗り入れ)は、大阪平野を横断し、ここで海にもぐる。そして「大阪港咲洲トンネル」という海底トンネルとなって大阪南港の咲洲という埋立地の街(住之江区)に続く。さらに「夢咲トンネル」という海底トンネルで夢洲(此花区)まで続く。
 

 歩道橋で中央大通りと地下鉄中央線を渡り左に進むと古ぼけた(失礼)ビルが並ぶ。
 

 その内のひとつに「オーションビュー」という店がある。今日の昼ご飯は、ここと決めていた。時間は、午後0時15分。いつもの様に「時間どおり」だ。オムライス(700円)が有名な店でさっそく注文をした。ここのオムライスは、基本的にはケチャップをかけない。好みにより頼めば小さな器にケチャップだけを入れて持ってきてくれる。50円プラスで「大」もあるが、レギュラーサイズでも十分だ。
 

 このお店は、かつて「外洋航路」の船員さんたちを相手にしていたのか、店内には大蔵省認可の「両替カウンター」が残っている。
 

 食事を終え、海岸通りまで戻り左折する。ここの赤レンガ倉庫は、別の会社が使っているようだが「住友」のマークが残っている。
 

 そして、そのまま海岸通りを進んで行くと右に大きな赤レンガの倉庫が現れる。これが元「住友倉庫」だが、今は使われていない。
 

 横浜や神戸のように観光施設として活用する計画があるようだが、耐震化がネックとなっているようだ。
 

 倉庫前の広場から「港大橋」を望む。阪神高速道路の専用橋で、全長980m、世界第3位のトラス橋は、生駒山頂からも見える巨大な橋だ。
 

 住友倉庫の斜め向かいにある築港南公園の奥に「港住吉神社」。「住吉大社境外末社」とのことだ。昔、天保山にあったのそうだが砲台建設のため、最終的にここへ遷座したらしい。もちろん海の神様である「住吉四神」を祀る。
 

 今日、初めての神社で、いつものように「安全祈願」をする。参拝を終えて境内から出ようとすると、となりの中学校からサッカーボールが飛び込んできた。塀の向こうに投げ返してあげると、顔は見えないが「ありがとうございます。」という声が帰ってきた。
  

 「難波津橋」で運河を渡り、阪神高速道路下の「第一突堤前」交差で左折。「浮島橋」で天保山運河を越える。「なみはや大橋(右)」と「千歳橋(左)」が見える。
 

 日本は、片田舎でも何でもない街中や道端でも自動販売機があり、給水には困らない。本当に助かる。
 

 携帯電話の普及により減ったが、公衆電話もそうだ。一部の外国人は、「日本は、道路に金庫が置いてある。」と言うそうだが、日本の治安の良さは、世界に誇れるだろう。
 

 500mほどでアーケードが現れる。
 
 
 八幡屋商店街。ちょうど「大」の字の形をした五叉路にあり、中央部の「ドーム」から放射線状にアーケードが延びる。
 

 

 付近には、市営住宅やマンションが建ち並び、買い物時には多くの人で賑わうのだろう。
 

 南に進みアーケードを抜け、入舟公園辺りから右に曲がり「八幡屋」の町を抜ける。
 

 突然、左にコンクリートの壁が現れる。階段があるので上ってみよう。
 

 何と、そこは「漁港」だ。三十間堀川という運河から250mほどドッグ状に堀込まれた舟溜まりで漁船が並ぶ。大阪市内には正式な漁港はないが、こうした舟溜まりがいくつか存在し、大阪市漁業協同組合という組織もある。ただ、統計上、港区内に住民票を置く人で漁業従事者は、ひとりもいない。
 

 結構、水はきれいだ。
 
 
 さらに「八幡屋」の町を抜ける。一体、何軒の世帯が入っているのだろう?
 

 ベイシティ大阪という高層マンションをぐるっと回り、人道橋で三十間堀川を渡る。「なみはや大橋(左)」と「港大橋(右)」が見える。
 

 「福崎」という町に入り、突き当たりを左折すると右に市バスの車庫や大きな倉庫群が見えてくる。ここは、かつて大阪環状線から引き込まれた貨物線の「浪速貨物駅」があった場所だ。
 

 

 「佐川急便」のフェンスに架かった、かつての看板や
 

 こんなところや。
 

 町内案内に名残が見られるだけだ。
 

 ところが、福栄橋という小さな橋で運河を渡ると、その右側に何やら。
 

 何と「線路」だ。「鉄橋」だ。私個人的には「近代産業遺産」級だと思う。
 

 ちょっと興奮してしまった。福栄橋から200mほどで「福崎住吉神社」。やはり港町だからか住吉神社が多い。
 

 参拝を終え南に進み、かつての貨物線の線路跡を越える。突き当たりに「甚兵衛渡船場」がある。
 

 尻無川という運河を渡る大阪市営渡船のひとつで、対岸は大正区だ。
 

 尻無川に沿って次の角を左折し、線路跡を渡って右折。貨物線跡は、雑草のグリーンベルトとなっている。
 

 途中で道は線路沿いから離れるが、次の角を右に曲がると元の線路跡に出る。そして、何とそこには「鉄路」が残されている。しかし、ここもいつかは線路が撤去され整地されてしまうのだろうか。
 
 
 こんな風景を見ると、二十歳のころに聞いた「鉄道草」という歌を想い出す。
    ♪小さい頃 私は 線路のそばに住んでた 朝夕に走る汽車に 子どもらしい 夢を見た
     あの汽車に乗れば 何処かへ行ける それは 何処でもいいのさ ここより他の場所なら♪
感傷に浸っている場合ではない。もうすぐゴールだ。先を急ごう。
 

 国道43号線を越え、線路跡に沿って進む。ここらは高架のアンダーパスになっていたのだろう。石組みが時代を感じさせる。
 

 貨物線は、この先で大阪環状線と合流していた。
 

 左(北)に大阪環状線のガードが見えるので、そちらに歩き、手前の路地を左折する。目の前にはアーケードが。「繁栄商店街」
 

 130mほどの商店街を抜ける。 
 

 「繁栄」とは、縁起の良い名前だ。
 

 しかし、やはり不況なのだろうか「シャッター街」化しているところもある。
 

 アーケードを抜けると国道43号線に出るので右折。交番の裏手から今日出発したJR「弁天町駅」まで280mほどの緑道が続く。
 

 午後2時50分。ゴールのJR「弁天町駅」に着く。地下には、地下鉄中央線「弁天町駅」も。本日の歩紀「27121歩」(23.32km)。
 

 弁天町駅前のビル最上階へ。特に展望台になっているわけではないが、廊下の窓から今日歩いた港区が一望できる。 
 
 
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大阪24区を歩く~大阪市発祥の地「西区」

2013-09-20 21:28:17 | 日記
訪問日:平成26年5月11日(日)
出 発:地下鉄「ドーム前千代崎駅」
到 着:地下鉄「四ツ橋駅」

 明治12年の郡区町村編制法制定により「北区」「南区」「東区」とともに4大区として誕生した「西区」。大阪市以外に全国11カ所ある「西区」の中でも最も古い歴史を有する。そして、明治22年の大阪市発足とともに初代大阪市役所が、ここ「西区」に置かれた。
 しかし、おそらくは私鉄が入らなかったためだろう、後年、ターミナル・繁華街として発展することはなく、優雅な大阪市の発展に取り残されたように静かに佇んでいる。人口約8万5千人、ちょっとレトロな「近代大阪市発祥の地」を歩く。


 大阪地下鉄「長堀鶴見緑地線」。既路線の延伸ではなく「花と緑の博覧会(花博)」を機に着工し、平成2年、「京橋駅」「鶴見緑地駅」間が部分開通。その後、「門真南駅(大阪府門真市)」から「大正駅(大阪市大正区)」までの15kmを結ぶ新線として平成9年8月、全線開通した。その「ドーム前千代崎駅」を午前10時10分、出発する。
 

 1番出入口を出ると目の前には、駅名の由来となる「京セラドーム大阪」が現れる。平成9年「大阪ドーム」として建設された全天候型のドーム球場だ。
 

 前を流れる「木津川」に沿って遊歩道が整備されているので、上流の「千代崎橋」まで川沿いを歩く。ちょっと「ドブ臭い」な。
 

 「千代崎橋西交差点」を西へ。250mほどで「みなと通」と呼ばれる国道172号線「九条新道交差点」に出る。交差点東南角には「大阪市電創業の地」碑が立つ。昭和44年に廃線となった大阪市電は、明治36年9月、ここから築港までの約5kmから営業を開始したそうだ。
 
 
 正面には「ナインモール九条」という商店街が。
 

 しかし、アーケードには入らず右折。すぐに「茨住吉神社」前に出る。
 

 寛永元(1624)年、九条島開発に際して勧請されたといわれる。昔、この辺りは島だったんだな。祭神は、もちろん「住吉四神」。今日一日の安全を祈願する。
 

 参拝を終え、神社前の西側に位置する「九条1丁目」の町に入る。
 

 ここは、大阪にいくつか残る旧遊郭のひとつ「松島新地」である。昔ながらの建物が残る。
 

  「料理屋」と呼ばれる建物が並ぶ。
 

 

 「松島会館」。「行政と組合」の「厳格かつ微妙」な関係により、旧遊郭は長い歴史を刻み続けている。
 

 遊郭街に面した「中央大通」を左折。高架を走る地下鉄中央線「九条駅」の下に出れば、先ほどの「ナインモール九条」が「中央大通」で分断され、新たに「キララ九条」というアーケード街となる。
 

 全長約530mのアーケードを進む。
 

 途中、右から交わる「新栄会商店街」は、ちょっとレトロだ。
 

 アーケードを抜けると、そこは「源兵衛渡交差点」。その先には「源兵衛渡」に代わって市民の足となっている「安治川隧道」の管理棟。
 

 ここは、全国でも珍しい川の底を渡るトンネルだ(「野里町歩紀~摂河泉をゆく~市民の足『川底トンネル』と『八つの渡し』」参照)。
 

 トンネルがくぐる「安治川」に沿って東に歩く。
 

 途中、道路真ん中の緑地に「贈正五位河村瑞賢紀功碑」と刻まれた石碑が建つ。横の説明文によると、貞享4(1687)年の「安治川開削」に功労のあった「河村瑞賢」という人物を讃えるものらしい。
 

 さらに「安治川」に沿って歩く。
 

 何か「香港映画」に出てきそうな風景だな。
 

 

 間もなく「大阪税関富島出張所」前に着く。
 

 庁舎前の案内板には、敷地内に「碑」が建っていると記されているが、どう見ても「閉鎖」しているようであり、説明文の文字も消されている。
 

 「安治川」堤防の方へ行くと、金網の中に何やら「碑」が。一旦、戻って堤防を歩いて行くと金網の中へ入ることができる。そこには3つの碑があった。右から「大阪電信発祥の地」「大阪開港の地」「川口運上所址」。
 

 説明文によると、慶應3(1867)年8月、ここに「大阪税関」の前身である「川口運上所」が設置され、明治3年、運上所内に大阪で初めての電信局が開設されため、ここが「大阪税関発祥の地」「大阪電信発祥の地」になるとのこと。また、明治元年7月、ここに「大阪港」が開港したが、出張所内にあった「大阪開港の地」碑も出張所の閉鎖とともに、ここに移されたようだ。
 

出張所跡から更に進むと右手に「川口聖マリア幼稚園」。その角には「富島天守堂跡」碑が建つ。
 

 これより「川口」の町に入る。安治川に沿って進むと「住友倉庫」。一見ではわからないが、昭和3年に建てられた古い建物らしい。
 

 これは、以前「福島区」を歩いた際に対岸の「大阪中央卸売市場本場」前から撮ったもの(平成25年11月2日撮影)。
 

 ここから南に下がり「川口ビルディング」前で「川口交差点」を渡る。
 

 木津川沿いに歩けば「日本聖公会川口基督教会聖堂」。
 

 大正9年に建てられたものだが、平成7年の「阪神大震災」で倒壊。今は立派に再建されている。
 

 そしてここは、大阪港開港と同時に外国人居留地に指定され、多くの西洋人が居住したかつての「川口居留地」である。
 

 市立本田(ほんでん)小学校の北西角に「川口居留地跡」の碑が立つ。
 

 「中央大通」の「木津川大橋」で木津川を渡り「江之子島」に入る。木津川沿いに古い木造の家。ネットで調べると「木村邸」。確かに「木村」という表札がかかっている。大正8年の建築だそうだ。
 
 
 慶應4(明治元)年4月、「鳥羽伏見の戦い」に敗れた幕府軍は、将軍徳川慶喜が大坂城から江戸に逃れ、進駐した新政府軍が「西町奉行所(現中央区)」に鎮台を設置。その後、同年5月、鎮台を「大阪府」と改め、大阪府が発足。そして明治7年、手狭となった初代大阪府庁(西町奉行所)から「江之子島」に2階建てながら煉瓦造りルネッサンス様式の二代目大阪府庁を建築した。その偉容から人々は「江之子島政府」と呼んだ。「木村邸」の向かいに「旧大阪府庁」の碑が立つ。
 その後、明治22年、「大阪市」発足と同時に特例法により大阪府知事が大阪市長を兼任。江之子島政府と呼ばれた大阪府庁内に「大阪市役所」が設置された。近代大阪市の始まりである。
 

 二代目大阪府庁は、大正15年、現在の中央区大手前に移転したが、その後、旧庁舎は「大阪府工業奨励館」となり、昭和20年、戦災により焼失する。「旧大阪府庁碑」の後ろには、昭和13年に建築され、戦災を免れた附属棟の「工業会館」が。その後、変遷を経て「大阪府立産業技術総合研究所」となるが、平成24年4月、現存する建物が改装され「大阪府立江之子島文化芸術創造センター(通称:enoco)」として生まれ変わる。
 

 明治31年9月、特例法は廃止され、大阪市役所は独立庁舎建設を迫られる。府庁北側に大阪市役所が建築されるのだが、今はマンション横に小さな「大阪市役所江之子島庁舎跡」碑が残るだけだ。あまりにも小さ過ぎる。
 

 碑文には、明治45年「堂島」に大阪市役所が移るまで、ここに大阪市役所が存在したと記されている(その後、大正10年、現在の中之島に移転)。
 
 
 「江之子島」は、現在は完全に陸地だが、当時は、木津川と「百間堀川」に挟まれた「島」であった。「市役所跡碑」の近くには、埋め立てられた百間堀川を偲ぶように、「雑魚場(ざこば)橋」の橋灯が今も残る。
 

 「大阪税関発祥の地」碑前に置かれていた説明文の地図。「税関」「居留地」「府庁」の位置関係がよくわかる。
 

 旧百間堀川に沿って北上する。
 

 「昭和橋」で木津川を渡り、これより「近代大阪市」の象徴であるレトロビルを訪ねるが、時間は、午後0時10分。写真の「グリルキムラ」で昼食にしようと思ったが、休店だったので隣の「福島上等カレー」に入る。
 

 「カレーライス(630円)」を注文。
 

 昼食を終え「土佐堀通」を東へ。
 

 三井倉庫角には「薩摩藩蔵屋敷跡」碑。
 

 次の路地を左へ入ると「菅澤眼科クリニック」。
 

 個人の開業医のようであるが、昭和3年の建築だとか。
 

 そのまま進み、土佐堀川の道に沿って東へ歩く。「常安(じょうあん)橋」南詰で「なにわ筋」を過ぎると左に「旧大阪産業信用金庫本店」。
 

 今は、イタリアンレストランとして利用されているが昭和初期の建築物らしい。
 

 さらに小径を進み「筑前橋」を過ぎれば「山根商店」。この建物も昭和初期のものだとか。
  

 小径が「肥後橋交差点」で「四つ橋筋」と交わる手前に「山内ビル」が建つ。「土佐」「筑前」「肥後」、この辺りはかつて各藩の蔵屋敷が並んでいたのだろう。
 

 昭和5年、法律事務所として建築されたものらしいが、今はカフェが入っている。すぐ裏は「土佐堀川」を隔てて「中之島」だ。
 

 土佐堀川から北は「北区」になるので、ここから土佐堀通を南に下がる。すぐ左に北京料理「徐園」。大阪では、結構、昔からある「中華レストラン」である。西区は「中国総領事館」があったりするが、特に「中華街」というわけではない。
 

 「船町ビル」。昭和12年の建築だそうだ。
 

 さらに土佐堀通を南下する。
 

 「ダコタハウス」。大正時代の建築で、レストランや洋風居酒屋が入っている。
 

 次の角で左折し、1本南の小径に入る。角には「日本高等学校野球連盟」の建物。「高野連」は、ここにあったのか。角を左折する。
 

 「ダコタハウス」のちょうど裏辺りに「日本基督教団大阪教会」。
 

 大正11年に建造される。ここも阪神大震災で半壊したが、再建されている。
 

 そのまま東へ進めば、昭和10年築の「旧児玉竹次郎邸」。
 

 元綿布商の住宅だったそうだが、今はテナントビルとして利用されている。
 

 「四つ橋筋」に出て南下する。地下鉄が走り、大阪でも有数の「筋」だ。大阪市内では、南北を走る道路を「筋」、東西を走る道路を「通」と呼ぶ(野里町歩紀~コラム「チンチン電車」「筋を通す」~参照)。
 

 四つ橋筋沿いに「京町ビル」。大正15年の建築である。
 

 南に下がり次の信号を右折。「安田ビル」。昭和10年頃の建築らしい。
 

 その南側には「靫(うつぼ)公園」。ここは、かつて飛行場があったところ。そのため東西約600mの細長い公園だ。飛行場は、空襲で焼け野原になった跡地に進駐軍が造ったそうだ。
 

 「なにわ筋」で二つに分断されており、東半分は緑豊かな公園。
 

 「バラ園」が有名。
 

 ちょうど満開で、辺りはバラの香りで一杯だった。
 

 たくさんの人が花見を楽しんだり、子どもたちは噴水で水遊びをしていた。
 

 西半分は、国内有数のテニス競技場で、コート1面を5000人収容の観客席が囲む「センターコート」では、国際大会も開催される。
 

 その西側には15面のテニスコートが広がる。
 

 靫公園を通り抜け「あみだ池筋」を南下。
 

 「本町通」と名を変えた国道172号線と「中央大通」を過ぎ、さらに進むと「長堀通」と交わるので右折。一旦、「あみだ池筋」を離れ「鰹座交差点」で「新なにわ筋」を渡る。
 

 西区役所手前に「旧細野組本社」。昭和11年築のレトロビルだ。
 

 この会社は、付近のいくつかのレトロビルを手がけている。
 

 西区役所前で「長堀通」を渡ると右に大きな神社が現れる。遠回りをして正面に回ると「稲荷神社」前に出る。元々、土佐藩の蔵屋敷にあった屋敷社であったらしく「土佐稲荷神社」と呼ばれる。
 

 先ほど渡った「鰹座交差点」の「鰹」も土佐藩に因むものだ。
 

 もちろん稲荷神である「宇賀御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)」を祀る。
 

 慶應2年の刻字がある石灯籠の「黒い焦げ」は、大阪大空襲の名残だという。
 

 参拝を終え、神社南側の「大阪市立中央図書館」横を抜け「新なにわ筋」を渡る。
 

 さらに「あみだ池交差点」で「あみだ池筋」を渡り左折。
 

 次の四つ角を右折する。
 

 次の角を左に曲がれば「和光寺」。浄土宗の寺院である。正面の門は鍵がかかり閉ざされていた。
 

 南側の「葬儀会館」から境内に入ることができた。本堂の奥には「阿弥陀池」。「浪華百景」にも描かれたこの小さな池が、大大阪を南北に走る「筋」名の由来となっている。
 

 和光寺から東に進み、右に「堀江タクシー」の古い社屋が見えれば「なにわ筋」。
 

 「なにわ筋」を左折し「長堀通」を越える。
 

 一つ目の信号の角に「大阪屋ビル」。
 

 前身は、大正11年、芸妓のために建てられた「新町演舞場」と言われる。
 

 「大阪屋ビル」から西に進み、2つ目の信号で右折北上する。角には「日本キリスト教会大阪西教会」。
 

 さらに進むと右に「サムハラ神社」。ネットで見ると、これは漢字ではなく「神字」であるらしい。そのため漢字変換はできない。
 

 「古事記」冒頭、高天原に最初に成りませぬ「造化三神」と呼ばれる「天御中主大神(アメノミナカヌシノカミ)」「高皇霊産大神(タカミムスビノカミ)」「神皇霊産大神(カミムスビノカミ)」を祭神とする。
 

 「弾除け」「災難除け」の御利益があるらしい。
 

 神社の北側には「大阪府警察第一方面機動警ら隊」。パトカー部隊の基地である。その角を右に曲がる。
 

 「なにわ筋」を越えて更に進み「四つ橋筋」に出て左に曲がると「立売堀ビル」。
 

 昭和2年築のレトロビルだ。京都では「たちうり」と読むが、大阪ではこれで「いたちぼり」と読む。
 

 前の交差点には信号がないので、1つ南の信号で「なにわ筋」を渡り、南に進む。すぐに左側に「長瀬産業旧館」が建つ。
 

 この建物も昭和3年築のレトロビルである。「長瀬産業」とは、天保3(1832)年創業の西陣染めの染料御を前身とする総合商社らしいが、かつて流行った「ポケットカメラ」の「コダック」総代理店として知られる(若い人は「ポケットカメラ」は知らないだろうな)。
 

 「四つ橋筋」を南下する。「長堀通」との交差点である「四つ橋交差点」。
 

 交差点中央の分離帯には、石碑と案内板が備えられている。実際は、後ろに見える「阪神高速道路」の真下に、昭和40年代まで4つの橋が架かっていたそうだ。
 

 「西横堀川(四つ橋筋)」と「長堀川(長堀通)」の「川の交差点」に架かった「上繋橋」「下繋橋」「炭屋橋」「吉野屋橋」の4つの橋が地名の由来である。案内板の後ろには「吉野屋橋」が再現されていたが、ホームレスが布団を敷き、ゴミを散らかしていた。ここは「観光地」ですよ。「大阪市」さん、しっかりしてください。
 

 「通」を渡って1つ西の「筋」へ入る。そこには「北堀江病院」。一見すれば普通の建物のようだが、昭和4年の建築らしい。
 

 玄関は、やはり趣がある。今日、最後の訪問先である。
 

 「大阪市発祥の地」を歩き、今日のゴールである地下鉄「四ツ橋駅」へ。午後3時20分着。本日の歩紀「23234歩」(19.98km)。
 

 なぜか駅名は「つ」ではなく「ツ」である。官庁間で意思疎通が図られなかった、いわゆる「お役所仕事」が原因らしい。
 
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大阪24区を歩く~過去と未来が混在する町「中央区」

2013-09-20 21:26:02 | 日記
訪問日:平成26年11月24日(月・祝)
出 発:JR「森ノ宮駅」
到 着:地下鉄「天満橋駅」

 大阪市発足前の明治12年から続く「東区」と「南区」が平成元年2月に合区。東京都にも同名の区がある。旧「東区」は、府庁、府警本部、NHKなどのほか各省庁の出先機関が集中する大阪の行政の中心地である。また、かつての都「難波宮跡」や「大坂城」など日本の歴史を語る上において避けることのできない史跡も多く残る。一方、旧「南区」は、大阪の娯楽と芸能を今に伝え、また、24時間眠らない町「ミナミ」を擁する一大歓楽街である。
 町は、完全に「碁盤の目」状に構成されており、史跡のみならず町名、道路名、交差点名などにもかつての「大坂」が残る。また、大阪城の西方から御堂筋にかけて、近代日本を支えた各企業の社屋が並び、それらの多くはレトロビルとして歴史を語る証人ともなっている。
 人口は約8万人であるが、昼間人口・通過人口は、50万人にも達するだろう。古から現代・未来に続く大阪を歩く。
 なお、大阪城公園は、丹念に見学すれば、たっぷり1日はかかる。大阪城公園と大阪歴史博物館・難波宮跡は「大阪城公園を歩く~大阪歴史博物館・難波宮跡とともに~」を参照。


 JR大阪環状線「森ノ宮駅」。ここは、大阪城公園の東に広がる森林公園(大阪砲兵工廠跡)側からの玄関口にあたる。外回り線ホームの北端からは、一段高台にそびえる天守閣の姿が望める。ただ、今日は大阪城は訪れない。
 

 「中央区」は、見所が多いので少し早めの午前8時45分「森ノ宮駅」を出発する。ここは「旧東区」。
 

 「森ノ宮駅」の西側を南北に走る「玉造筋」を挟んで、すぐ目の前に「鵲森宮」が鎮座する。
  

 元は聖徳太子が物部守屋を破った記念に崇峻天皇2(589)年、創建したと伝わる。その後、推古天皇6(598)年、新羅より持ち帰った鵲(カササギ)2羽を当社の森で飼ったことから「鵲森宮(かささぎもりのみや)」通称「森之宮」と呼ばれるようになり、それが現在の地名の由来となった。
 

 聖徳太子の両親である「用明天皇」と「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」を御祭神とする。今日一日の安全を祈願をする。
 

 神社側を抜け「城南公園」を横切り西方向へと進む。
 

 「城星学園」の角に出れば左折する。昭和34年創設のカトリックミッションスクール(幼・小・中・高)である。
 

 次の四つ辻を左に折れると「玉造稲荷神社」が現れる。
 

 社伝によれば垂仁天皇18(紀元前12)年に創建されたという。「玉造」という地名は、古代、勾玉を作っていた「玉造部」に由来すると言われる。
 

 境内には「豊臣秀頼公像」「難波玉造資料館(事前申込制)」「豊臣秀頼公奉納鳥居」などが並ぶ。
 

 この鳥居は、慶長8(1603)年3月、秀頼が奉納したもので、大坂夏の陣、第二次世界大戦の2度にわたる戦火に耐えたものの、平成7年の阪神大震災で基礎が損傷し、このような姿になってしまった。
 

 かつて流行った「お伊勢参り」への起点を示す石碑などがある。
 

 参拝を終え、鳥居前を右折。紅葉が美しい「玉造公園」の前を通る。
 

 「大阪女学院」の周りをぐるっと回れば「大阪クリスチャンセンター(OCC)」。
 

 右に曲がり「歴史の散歩道」を北上。
 

 右には「大阪女学院」の門。明治17(1884)年、川口居留地に宣教師によって開かれた「ウィルミナ女学院」を前身とするミッション系の女学校で、中学から大学院までを置く。
 

 さらに北に上ると「聖マリア大聖堂」。明治27(1894)年に創立されたそうだ。
 

 あいにく工事中のようだ。カトリック玉造教会の大聖堂で「大阪大司教区」が所在し、「聖母マリア」像のほか、キリシタン大名「高山右近」像や明智光秀の三女「細川ガラシヤ」像などが並ぶ。
 

 
 
 「聖マリア大聖堂」前を西に進む。警ら連絡所だけじゃなく交番も結構レトロだな。
 

 すぐ右に「難波宮跡」が現れるが今日は訪れない。
 

 そのまま進むと「上町交差点」の北西角に「大村益次郎殉難報国記念碑」。日本陸軍の祖、元兵部大輔「大村益次郎」は、明治2年、刺客に襲われ、当時ここにあった「浪華仮病院」で亡くなった。
 

 「上町筋」の紅葉が美しい。
 

 さらに西進すると左角に「銅座公園」。
 

 江戸時代、鋳銅や銅取引をした「銅座」があった場所らしいが、今は児童公園になっている。
 

 「銅座公園」から南へ進み「龍造寺町」を過ぎ「安堂寺町」に入る。これより「旧南区」を歩く。
 

 「長堀通」を渡って右折する。「谷町6丁目交差点」南西角の石段から「昭和の町」に入る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」参照)。
 

 いきなり「昭和」な雰囲気。
 

 「町家」も取り壊さず改築されている。
 

 石畳の奥には「地蔵堂」。
 

 「市立桃園幼稚園」横にも「観音坂」と呼ばれる石段が残る。
 

 西に進めば左に「小玉湯」というお風呂屋さん跡。駐車場になっているようだ。
 

 「小玉湯」の隣にも古い町家。
 

 「町家」を利用した店も多い。
 

 「いい雰囲気やね。」
 

 高層ビルを背景に古い街並みが残る。
 

 十数軒から数十軒単位で一つの組(会)を構成しているようだ。
 

 中央を東西に走る「空堀商店街」。坂の上に続く全長380mほどのアーケード街だ。
 

 その南側にも古い街並みが。
 

 立派な「町家」だ。
 

 「町家」を利用したカフェ。
 

 

 商店街を東に進む。
 

 路地に入ってみよう。
 

 石畳が良い感じ。以前、「谷町6丁目」に比べて、北区の「中崎町」の方が「すごい!」的なコメントを書いたが、谷町6丁目もすごい。特に「路地裏」は、中崎町には見られない「すごっ」さがある。
 

 坂道も多い。
 

 この「昆布屋」の角を右(南)に曲がる。
 

 小さな「門」になっている路地ごとに組を作っているようだ。
 

 

 

 さらにその南には「中寺」という「寺町」。
 

 40を越える寺が並ぶ。
 

 静かな町に「線香の香り」が漂い、「読経の声」「木魚、庭を掃く箒の音」が聞こえる。
 

 「曽根崎心中」の「お初」の墓はここにあるのか。
 

 この角を右に曲がる。
 

 坂を下ると右に「高津宮」の鳥居が現れる。
 

 境内へと続く小径。
 

 「梅之橋」という橋の跡を渡る。
 

 すぐ左に「献梅碑」。わが国に「仏教」「漢字」などを伝えた「王仁博士」が梅の花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったという話を元に昭和3年に建立された。右にはかつて上町台地の伏流水が湧いていた「梅ノ井」の跡。
 

 現在は「仁徳天皇」を主祭神とする「高津神社」であるが、かつて人家の竈から煙が上がっていないことから民の苦しみを知り租税を免除、自らも宮殿の屋根を葺き替えなかったという記紀の逸話から「聖帝」と呼ばれるようになった仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」があったと言われる。
 

 境内の絵馬殿には、その時に詠った「高き屋にのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはいにけり」の額。
 

 その様子を描かれた絵が奉納されている。
 

 境内の西には、悪縁を絶つと伝わる「西坂(縁切り坂)」。かなりの高低差がある。これなら宮殿から民の生活を一望できただろう。
 

 この先から南は「天王寺区」になるので西へ進む。「松屋町筋」を越える。大阪弁では「まっちゃまち」と発音する。
 

 「阪神高速環状線」をくぐり2つ目の信号を左折。「千日前通」沿いには「国立文楽劇場」。重要無形文化財であり、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃「文楽」の普及・発展のため昭和59年、開館した。
 

 「千日前通」を渡る。そこは「黒門市場」。
 

 鮮魚店を中心に180ほどの店舗がひしめく。
 

 東京の「アメ横」同様、年末になれば新年を迎えるための食材を求め、多くの人が集まる大阪でも有名な市場だ。
 

 かつて近くにあった寺院の山門が「黒門」であったことから「黒門市場」と呼ばれるようになったそうだ。
 

 無料休憩所があり、市場で購入したものを食することができる。
 

 もちろん店内で食べられるところもある。
 

 市場を抜け「堺筋」を越えて南へ進む。
 

 左前に「高島屋東別館」が見えれば「浪速区」に入るので、手前を右に曲がる(「浪速区」編参照)。
 

 しばらく歩くと右に「千日前道具屋筋商店街」。
 

 ここは、主に「食」に関する道具を扱う。
 
 
 家庭用の食器のほか、業務用食器や厨房設備などを扱う。
 

 暖簾や提灯などもある。
 

 特に人気なのが「食品サンプル」。
 

 

 商店街を抜けると「なんばグランド花月」。あの「吉本新喜劇」の総本山である。
 

 「大阪名物」として吉本グッズが販売されている。
 

 ここから大阪の顔「ミナミ」へと入る。
 

 「千日前通商店街」。「法善寺」と「竹林寺」という2つの寺院で「千日念仏」を唱えていたことから両寺を「千日寺」と呼ぶようになり、そこから「千日前」と命名されたという。
 

 江戸時代、茶屋や見世物小屋、遊郭などが並び歓楽街となった。その後、付近にあった「刑場」が阿倍野に移り、さらに町が広がったという。
 

 アーケードを抜ければ「高島屋」。天保2(1831)年、京都に創業された、古着・木綿商「たかしまや」がルーツだそうだ。大阪でも老舗の百貨店である。
 

 大阪店である「南海ビルディング」は、昭和7年に竣工。国の登録有形文化財に登録されている。南海電車の始発駅でもあり「スイス南海大阪」(ホテル)や「なんばシティ」(地下街)なども併設する。
 

 アーケードに戻り北上すると「自由軒」。明治43年創業の洋食屋さん。ルーとご飯を混ぜたカレーの上に生卵を落とした「織田作之助が愛したという名物カレー」が有名。行列ができていた。
 

 「千日通」に出て右折。真ん前にある「ビッグカメラ」。昔の「千日デパート」の跡地に建つ。刑場跡に建てられた「千日デパート」は、昭和47年、死者118名に上る火災で焼失したが、いろいろな「噂話」も広がったようだ。「千日通」を渡る。
 

 そこからアーケードを北に進めば左に「法善寺横丁」。隣接する「中座」の爆発事故で焼失し、建築基準から再興が危ぶまれたが、特例により昔の姿を取り戻している。
 

 「法善寺」の「水かけ不動さん」。
 

 ♪ 包丁一本 さらしに巻いて~ ♪
 

 そしてアーケードを抜ければ「道頓堀」。大阪の代表的な観光地である。
 

 「くいだおれ」の看板息子「くいだおれ太郎」。
 

 「道頓堀」をさらに西へ。
 

 「かに道楽」。この「動くカニ」は、三代目だそうだ。昭和40年代にテレビで流れたコマーシャルソング
 ♪ ピンとハサミを 打ちふりあげて 
     活きのいいのが気に入った とれとれ ぴちぴち カニ料理 
  味で夢よぶ 味で人よぶ かに道楽は 同じのれんの 味つづき ♪
 

 阪神タイガースが優勝すれば多くのファンが飛び込む「戎橋」(別に肯定するわけではありません)からの眺め。ナンパの名所のため「ひっかけ橋」とも呼ばれる。
 

 お馴染みの「グリコ」ネオン。
 

 ここでは、良くインタビューが行われる。
 

 かつて「道頓堀五座」と呼ばれたうちのひとつ「松竹座」。
 

 その隣には「はり重」。元々は、「すき焼き・しゃぶしゃぶ」をメインとした高級日本料理店だが、今では「グリル」と「カレーショップ」も併設されている。
 

 時間は、午後0時5分。「カレーショップ」で軽く昼食と思ったが行列ができていた。
 

 「グリル」に入ることに。
 

 「ランチA」を注文。まずはコーンポタージュスープ。
 

 続いてメインディッシュとライス。
 

 最後に、食後のコーヒー。しめて2052円(税込)。今日は奮発したなぁ。
 

 店を出てすぐ目の前の「御堂筋」を右(北)へ。紅葉にはちょっと早いが銀杏並木が美しい。夏は緑豊かなグリーンロードになり、冬はライトアップされる。大阪を代表する「道」だ。
 

 少し進めば右に「三津寺(みつでら)」。大阪弁では「みってら」と発音する。
 

 天平16(744)年に創建されたそうだ。この辺りの「御津(みつ)」という地名に由来するらしい。現在は、真言宗御室派の寺院だ。
 

 このフランス国旗は、「みってら」と「ミッテラン(元フランス大統領)」の駄洒落だろう。大阪とは、そういう所だ。
 

 「御堂筋」を挟んで「三津寺」の向かいにある「韓国総領事館」の北側を抜け「西心斎橋」に入る。「ヘイトスピーチ集団」の通り道で、厳重な機動隊の警備。
 

 かつての地名を残す「御津八幡宮」。「津」という地名からもわかるとおり、昔は海辺だったようだ。
 

 天平年間、東大寺大仏殿建立に際し、宇佐八幡宮から神霊をお迎えした際に一時安置し、その跡に社を建てたのが起源らしい。
 

 神社の北側は「アメリカ村」。「三角公園」を中心に若者向けにアメリカから直輸入した衣類などを売り始めたことから、そう呼ばれるようになった。
 

 

 ここら辺りが「ミナミ」の北限だろうか。
 

 一旦、東に戻り「御堂筋」に出る。筋の東側には「大丸」。享保2(1717)年、京都伏見で創業された古着商「大文字屋」が、その後、大坂や名古屋、江戸に出店を開店。
 

 大正9年に創設された「大丸呉服店」が前身だという。「高島屋」同様、大阪では老舗の百貨店だ。
 

 すぐ北には、文政13(1830)年、大坂上難波の古着商「大和屋」が、大正8(1919)年、百貨店として開業した「そごう大阪店」。しかし、平成21年、閉店。当時の建物は、「大丸北館」として使用されている。
 

 「長堀通」を越えて北へ。「南船場」から「博労町(ばくろうまち)」に入れば「旧東区」にもどっている。
 

 「博労町3丁目交差点」の角には「難波神社」。創建は反正天皇期までさかのぼると伝わる。松原市から天王寺区を経て、慶長2(1597)年、当地に遷座したという。仁徳天皇を主祭神とする。
 

 境内には樹齢約400年、高さ11m、幹回り3.2mのご神木(くすのき)。
 

 さらに北へ。銀杏が美しい。
 

 「中央大通」の手前には、「真宗大谷派難波別院」。文禄4(1595)年、東本願寺十二代「教如」が「大谷本願寺」として創立したそうだ。通称「南御堂」と呼ばれる。
 

 一角には「芭蕉句碑」。俳人松尾芭蕉は、旅の途中、体調を崩し、元禄7(1694)年、この付近で亡くなったという。
 

 「南御堂」の裏手には、「坐摩神社」。「水回り」の5神を総称した「坐摩神」を御祭神とする。一般的には「ざま」と呼ばれるが、正式には「いかすり」と読むらしい。
 

 元々、大阪城西側の「渡辺」という地にあったらしいが、大坂城築城に伴い当地へ遷座した。おもしろいのは、遷座したのは社殿だけでなく、地名も一緒に遷座したため、ここは特に「久太郎町4丁目渡辺」という地名になっている。そして元の場所に「渡辺」の地名はない。
 

 「中央大通」を越えてさらに「御堂筋」を北へ。
 

 「南御堂」に対して「北御堂」と呼ばれる「浄土真宗本願寺派津村別院」。
 

 慶長2(1597)年、本願寺の在阪信徒の集会所跡に坊舎を建立したのが始まりと言われる。そして「北御堂」と「南御堂」を結ぶ道として「御堂筋」という道路名になった。
 

 「北御堂」前の「備後町3丁目交差」で「御堂筋」を渡り東へ。3つ目の角に「綿業会館」。
 

 昭和6年の建築で、国の重要文化財に指定されている。
 

 ひとつ北の通りを左折し「御堂筋」に戻る。北に進むと右に赤い鳥居が見えてくる。「御霊神社」だ。
 

 由緒は不詳であるが、天照大神の荒魂である「瀬織津比売神(せおりつひめのみこと)」をご祭神とする。
 

 神社の前には「登録有形文化財」の看板が掛かった建物が。ここからしばらく近代大阪を支えたビルを訪ねるが「野里町歩紀~摂河泉をゆく~石の館『大大阪浪漫』」を参照。
 

 まずは「大阪ガスビル」。昭和8年の竣工。
 

 途中「淺沼組分室」の表札が掲げられた立派な町家。
 

 西に進むと寛永元年創業の御菓子屋「岡福信」。
 

 続いて「大阪倶楽部」。
 

 大正13年の築で会員制社交クラブとして利用されている。
 

 小さなカフェレストラン。ここは、元「中央消防署今橋出張所」。
 

 当時の「赤灯」が今も残る。
 

 すぐ北は「住友村」と呼ばれる一角。
 

 大正15(昭和元)年に竣工の「三井住友銀行大阪本店」は工事中だった。
 

 「北浜3丁目交差」で「御堂筋」を渡る。
 

 東に進めば「緒方洪庵」の私塾で、近代日本を築いた多くの偉人たちを輩出した「適塾」。
 

 隣の公園には「緒方洪庵」像。
 

 大阪市民の手によって創られた「市立愛珠幼稚園」。立派な木造の幼稚園でだが、工事中で全容は望めなかった。
 

 門の前には「銅座の跡」碑が建つ。
 

 すぐ東を南北に走る「三休橋筋」には、レトロビルが並ぶ。昭和4年築の「旧大阪農工銀行」。繊維会社の大阪本社ビルを経て、今は外壁を残し高層マンションに建て替えられた。
 

 明治45年に建てられた「旧大阪教育生命保険」。その後、証券会社が入ったりしたそうだが、今は、高級フランス料理店になっている。「七五三」の集まりがあったようだ。
 

 南に隣接して「日本基督教団浪花教会」。昭和5年に建築された。
 

 途中にも多くの「旧家」が残る。
 

 

  途中で左折する。昨日、一昨日の2日間(22、23日)にわたって「神農祭」という祭りが行われていたようだ。「えべっさん」で始まる大阪の祭りは、11月の「神農祭」で締めくくられる。
 

右手には、昭和3年築の「武田道修町ビル」。
 

 「堺筋」手前には「少彦名神社」。その名のとおり「少彦名命」を御祭神とするが、中国から渡ってきた薬の神様「神農さん」を祀る神社として、付近はもとより全国の製薬会社から信仰を集めている。
 

 大阪でも有名な木造建築「旧小西儀助商店」の建つ「道修町(どしょうまち)1丁目交差」で「堺筋」を渡り、2つほど東へ入った路地を右(南)へ進む。
 

 いくつか古い建物が残る。
 

 「本町通」に出れば通りを渡って左折。東警察署の隣に「ゼー六」。大正2(1913)年創業。100年の歴史を有するお菓子屋さん。この日は休みだったが、お持ち帰りもできる「アイス最中」が有名。
 

 すぐ東には「本町橋」。豊臣秀吉の大坂城築城の際「東横堀川」に架けられた古い橋。大正2年に現在の鋼橋に架け替えられたが、石造りの橋脚を持つ重厚な橋だ。ただ、上を阪神高速が走り窮屈そうだ。
 

 「本町橋」の北東に「シティプラザ大阪」。かつて、大阪府との「半官半民」の「大阪コクサイホテル」があったところであるが、そのすぐ隣には「大阪商工会議所」。初代会頭の「五代友厚」らの像が並ぶ。
 

 そして、享保9(1724)年、ここに「西町奉行所」があった。「大阪鎮台」を経て、明治に入り「大阪府庁」が置かれた「大阪府発祥の地」である(「西区」編参照)。
 

「東横堀川」に沿って北へ。途中、「大手橋」。この橋から真っ直ぐ東へ進めば、大坂城の「大手門」へと続くのだ。
 

 「土佐堀川」と合流する手前に「高麗橋」が架かる。今では、阪神高速の出入口として有名な名前だが、豊臣秀吉の大坂城築城前から朝鮮の使節を迎えるために架けられたといわれる古い橋である。
 

 明治3年、鉄橋に架け替えられ、昭和4年に現在の鉄筋コンクリート橋になった。
 

 そして明治時代に入って「里程元標」が置かれ、西日本の主要道路の起点となった。今は、高麗橋のたもとに石碑が残る。現在の里程元標(道路元標)は、北区の「梅新交差」北西角に移された。
 

 「高麗橋」から東に進み「松屋町筋」を渡って、ひとつ南の信号を左折し「釣鐘町」に入る。町名の由来となった「釣鐘屋敷跡」。
 

 明治3年「釣鐘」は撤去されたが、昭和60年、この地に戻され、現在はコンピュータ制御で日に3回、鐘の音を響かせている。
 

 さらに東へ進み「北大江公園」前に「大乃や」。昭和28年創業の老舗高級料亭である。ただ昼は、近所の商社員や公務員相手に手頃なランチも提供されている。
 

 公園を横切って北へ。
 

 長い石段が続く。かなりの高低差があるようだ。
 

 「土佐堀通」に出れば右折。通り沿いの老舗昆布屋前には「八軒屋船着場」跡。坂本龍馬も利用した京・大坂を結ぶ船の船着場跡である。
 

 川の改修により現在の船着場は少し北に移動。今では「川の駅はちけんや」として整備されている。
 

 「八軒屋浜船着場」から「中之島」を形成する大川(旧淀川)の分岐点を眺める。右が「堂島川」左が「土佐堀川」。
 

 今では観光船「アクアライナー」が発着する。
 

 そして、すぐ東側には「天満橋」。
 

 「天満橋筋」を渡ると正面には「大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMM)」がそびえる。昭和44年竣工の地上22階、地下4階のビル。レストランや各種テナントが入居し、高さ約80mの屋上は展望台になっており、午前10時から午後4時まで無料開放されている。
 

 展望台から「大阪城公園」を望む。
 

 こちらは「キタ」の高層ビル群。
 

 OMMビル東側の「京阪東口交差」を右折し、「上町筋」に入れば、すぐ左に「府立男女共同参画青少年センター(通称ドーンセンター)」が立つ。その北側には、豊臣時代の「大坂城三の丸石垣」。「大坂冬の陣」の講和条件として徳川家康により埋められたものが、平成元年の「ドーンセンター」建設で地下約2mのところから発掘され、ここに移築復元された。
 

 「大手前交差」で右折。そこには「合同庁舎1号館」が立ち、敷地内には「東町奉行址」碑があるはずなのだが、工事中のため覆い屋で囲まれていた。
 

 ところが、丁度その部分だけ覆い屋がへこんでおり、碑が立っていた。先ほど訪れた「西町奉行所」同様、大坂に置かれた東西二つの奉行所で、1ヶ月ごとの月番制をとった。
 

 「上町筋」を南へ。紅葉が美しい。
 

 そして右手には「大阪府庁」。ここも工事中だ。今回、多くの建物が工事中だったが、ほとんどが「耐震化」工事。もうすぐ「大地震」が来るんだろうなぁ。
 

 府庁周辺の塀には、鉄の柵が取り除かれた跡が見られる。これは、戦時中の「金属供出」の跡らしい。
 

 これも「戦争遺産」か?
 

 「府庁通用門」。今月10日に亡くなった「健さん」こと俳優:高倉健が出演した映画「ブラックレイン」では、府庁を大阪府警察本部に見立て、ここから大阪府警の機動隊が出撃するシーンが撮影された。
 

 府庁西隣には「大阪府公館」。大正13年建築の「元知事公館」である。
 

 今は使われていない「大阪府議会会館」の前を南に進む。
 

 突き当たりの「合同庁舎3号館」の敷地内には「旧東税務署跡」碑。
 

 そして、そのすぐ西側が本日のゴールである地下鉄「天満橋駅」の3番出入口だ。午後3時55分着。本日の歩紀「32168歩」(27.66km)。古代から近代そして未来への「歩紀」だった。かなり歩いたな。
 
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大阪24区を歩く~工業地帯から遊地帯へ「此花区」

2013-09-20 21:24:41 | 日記
訪問日:平成26年9月7日(日)
出 発:JR「西九条駅」
到 着:JR「西九条駅」

 「此花(このはな)区」。大正14年、「西区」「北区」の分割・再編により誕生。人口約6万5千人。うち15人が漁業従事者。南北を淀川と安治川にはさまれ、西には大阪湾が広がる。高度成長期、町は海へ海へと伸び、沖合には「舞洲」「夢洲」という人工島が浮かぶ東西に長い区となった。区名は、百済から渡来した「和仁」が詠んだ「難波津の歌」
   難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は 春べと 咲くやこの花
から命名されたという。
 埋立地は、火力発電所など近代大阪を支えた重工業地帯として発展し、特に区の大部分を「住友」と「大阪ガス」が占める。しかし、高度成長期は遠い昔となり、その跡地の一部には、平成13年、テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」が開園。また、人工島「舞洲」には、多くのスポーツ施設やオートキャンプ場などを備えた広大な「舞洲スポーツアイランド」がオープンした。


 JR大阪環状線「西九条駅」を午前10時15分、出発。すぐ北側には、阪神電車「西九条駅」もある。
 

 駅前から「西九条交差点」まで出て左折。スポーツセンターなどがある「朝日橋公園」に出る。
 

 「朝日橋公園」と「市立咲くやこの花中・高校」の間を右に折れる。
 

 「六軒家川」に突き当たる。1.5kmほどで「安治川」と交わる短い水路だ。「六軒家橋」という人道橋で六軒家川を渡る。
 

 「梅香2丁目」の町を進む。
 

 左に「住吉神社」。
 

 やはり海に近いので「住吉さん」が鎮座するのだろう。今日一日の安全を祈願する。
 

 神社のすぐ前には「グッディー此花」という商店街。
 

 「北港通」を挟んで「四貫島中央通商店街」へと続く240mほどのアーケード街を進んで行く。
 

 シャッターが下りているが、古そうな店だ。
 

 商店街を抜け階段を登ると「森巣(もりす)橋」。
 

 「橋」なのだが「川」はない。
 

 実は、かつてここには「正蓮寺川」という川が流れていたのだ(運河なので流れはなかったかも?)。此花区の大部分は、「正蓮寺川」と「六軒家川」「安治川」に囲まれた「島」だったのだが、平成25年、「北港大橋」までの「正蓮寺川」は埋め立てられ陸続きになった。
 

 「森巣橋」を渡ってすぐ右に「鴉之宮(からすのみや)」。
 

 ここら辺りは「伝法(でんぽう)」という町だ。「伝法」とは「法を授ける」という仏教用語らしく、近くにあった「伝法山西念寺」という寺院の名が、地名の由来と言われる。「伝法川」という川が流れていたようだ。
 

 かつてこの地に天照大神らを祀る「傳母須(もりす)神社」という社があり、後に豊臣秀吉が日本海に向け出航する際、「八咫烏(やたがらす)」が現れたことから「鴉之宮」と改められたと伝わる。
 

 「鴉之宮」からさらに北へ歩き、辻を左に曲がれば「旧鴻池本店・旧本宅」が並ぶ。ゼネコン「鴻池組」の前身である。
 

 旧本宅は、町家風のお屋敷で「豪商」という雰囲気が出ている。
 

 旧本店は、明治43年築のモダンな洋館だ。
 

「旧鴻池本店・旧本宅」の北側の道路を挟んで「澪標住吉神社」。延暦23(804)年、遣唐使の航海安全を祈願して建立されたという。
 

 鳥居の横と手洗舎の横には、港の目印である「澪標(みおつくし)」が建てられている。この「澪標」が、大阪市章となっている。
 

 そのため大阪市バスをはじめ、大阪市の関連施設などには、このマークが多く使われている。
 
 
 社殿の前には、宝暦13(1763)年の刻字がある石灯籠が。
 

 神社前の道をさらに西へ進む。阪神電車「伝法駅」を過ぎる。
 

 国道43号線をくぐり古い町中へと入っていく。
 

 町家や寺院が並ぶ。
 

 

 

 さらに進めば地名の由来となった「伝法山西念寺」。現在は浄土宗の小さな寺院であるが、大化元(645)年、天竺の法道上人という高僧が草庵を結んで仏教を広めたと伝わる古刹だ。
 

 この道は「尼崎本街道」という街道だったようだ。「備前橋」という橋も架かっていたのだろうか。
 

 この居酒屋の手前を右に入る。
 

 左に「庚申堂」。奥には淀川の堤防がそびえる。
 

 旧家の前を通って元の道に戻る。
 

 さらに西に進めば、左に小さな船溜まりが現れる。
 

 「伝法入舟」と呼ばれマンションに囲まれている。
 
 
 「大阪市漁業協同組合」という建物もある。
 

 すぐ南側の市営住宅から全貌を望む。見た目は完全な「漁港」であるが、法律上の正規の漁港ではないらしい。奥には「淀川」が流れる(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「コラム『だんじり』『大阪の漁港』」参照)。
 

 「酉島2丁目」の町を抜ける。
 

 「伝法入舟」からの狭い水路。
 
 
 「伝法水門」で「淀川」に出る。
 

 しばらく「淀川」の堤防を歩く。遠くに見えるのは「阪神高速道路湾岸線神崎川橋」。この対岸は「西淀川区」。対岸に見える緑地は、先日歩いた「西淀川区」の「矢倉緑地」である(「西淀川区」編参照)。
 

 おそらく、この辺りも海面下だろう。「淀川スーパー堤防」に守られている。
 

 堤防の下に何やら碑が。常吉新田の開発者「常吉庄左衛門」の墓。安政元(1854)年の津波犠牲者とともに祀られている(碑文は「安政3年」となっている)。
 

 再度「スーパー堤防」上に上がる。左には「大阪ガス」。かつてこの辺りには、巨大な「ガスタンク」があった。
 

 遠くに見えていた「阪神高速湾岸線神崎川橋」をくぐる。
 

 しばらく堤防を進むと………。ここが「淀川」と「大阪湾」の境目のようだ。
 

 そして突き当たりには「常吉臨海緑地」。
 

 その先端には「大阪北港ヨットハーバー」がある。
 

 クラブハウスは「海の駅」になっており休憩所がある。
 

 「常吉大橋」という橋で「舞洲」に渡る。左には、まるでお伽の国のお城のような建物が。
 

 実は、下水処理で生じた汚泥を再生して埋立などに使う「舞洲スラッジセンター」という大阪市の下水汚泥再生工場である。
 

 「舞洲スラッジセンター」を抜け「北港通」を左に。コンビニと食堂がある。時間は、午後0時20分。食事にしょう。
 

 コンビニ2階にある「舞洲食堂」。ななっな、何~。土日祝は定休日だって!一体、誰が食べるんだ。「働くおじさん」専用か!?
 

 「舞洲スラッジセンター」の南側に「アミティ舞洲」。正式には「大阪市舞洲障がい者スポーツセンター」と言い、障がい者向けのスポーツ施設や宿泊施設を備える。ここには、レストランがあるのだが、団体客で「長蛇の列」。
 

 仕方がない。コンビニには「イート・イン・コーナー」があったので、ここで食事をすることに。
 

 午後0時40分。「牛すじねぎ焼きそば(430円)」「昆布おにぎり(110円)」で食事。
 

 食事を終え「舞洲スポーツアイランド」に進む。
 

 「バーベキューレストラン」や「オートキャンプ場」などがある。
 

 「舞洲アリーナ」。7056の観客席を備え、スポーツ大会、コンサートなどに利用されている。
 

 突き当たりまで行くと「新夕陽ヶ丘」という公園に。
 

 「ロッジ舞洲」や「舞洲陶芸館」などの施設が並ぶ。それぞれに軽食レストランがあるようだ。
 

 

 「バンガロー」や「キャンプ場」もある。
 
 
 

 緑地を抜ければ海に出る。「シーサイドプロムナード」として整備されている。
 

 対岸は「夢洲」という人工島。ただ、未だ造成中で「町」はない。
 

 「舞洲」と「夢洲」は、「夢舞大橋」という橋で結ばれている。
 

 島内に戻ると「芝生公園」。
 

 その横には、テニスコートや「舞洲ベースボールスタジアム」という野球場。
 

 「セレッソ大阪」の練習場などもある。
 

 その北側には「運動広場」。後方は「舞洲ベースボールスタジアム」と「舞洲アリーナ」。
 

 「舞洲スポーツアイランド」を後に「此花大橋」で「陸地」に戻る。
 

 その右手前にもお城のような建物。
 

 これも「大阪市環境局舞洲工場」という大阪市の「ごみ焼却場」だ。
 

 橋の頂上付近。全長1.7kmの長大な吊り橋である。
 

 橋上から「大阪南港」方向を望む。高層ビルは「咲洲」にそびえる地上55階建ての「コスモタワー」。
 

 「阪神高速北港JCT」と交わる手前で下に下りるスロープが現れる。
 

 この「らせんスロープ」を下りる。上りでなくて良かった。
 

 次の交差点で「ユニバーサルスタジオ」方向に右折する。
 

 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の植え込み沿いに歩く。
 

 道路が左にカーブすればJR「桜島駅」。今日のスタート地点「西九条駅」から「住友王国」への引き込み線である「桜島線」の終着駅である。
 

 線路沿いの道を東に進む。
 

 次の駅が「ユニバーサルシティ駅」。そう「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」への最寄り駅だ。
 

 駅前は「ユニバーサル・シティウォーク大阪」。
 

 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」へ続く、エンターテイメント型複合商業施設でホテルや多くのテナントが並ぶ。
 

 

 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」。ハリウッド映画のテーマパークとして平成13年3月、「住友金属工業」の跡地にオープンした。今年7月15日から新たなアトラクション「ハリー・ポッター」が始まり大人気だ。
 

 エントランスの地球儀。
 

ここから先は「有料」。賑わいを後に駅北側の路地へ進む。
 

 そこには「住友金属」の半分が残る。塀沿いは「此花今昔物語」「大阪浪漫」というストリートになっており、色んな絵(写真)が描かれている。
 

 その内の一枚。昔の大阪港にあった「澪標」。
 

 次の交差点を左に曲がる。長い塀は、日本を支えた大企業の歴史を感じさせる。
 

 防潮扉を備えた「東門」。今は「新日鐵住金株式会社」となっているようだ。
 

 「北港通」に出れば、左に「住友電工」。
 

 その向かいに「産土(うぶすな)神社」。
 

 宝暦12(1762)年、新田開発の際に勧請され、「天照大神」「住吉三神」「宇迦之御魂神」を祀る。
 

 まだまだ「住友王国」は続く。
 

 さらに東に進めば右に「住友化学」。
 

 右に古い酒屋が現れれば「春日出交差点」。右に曲がる。
 

 150mほどで左に折れれば「朝日神明社」。
 

 「神明社」の名や「神明鳥居」からもわかるとおり「お伊勢さん」系の神社だ。本殿は塀に囲まれてわからないが、拝殿も「神明造」だ。
 

 「春日出交差点」まで戻る。通りの向こうには「春日出商店街」。250mほどのアーケード街である。
 

 アーケードをはずれたところに古い酒屋さん。
 

この商店街は、洒落た喫茶店が多いな。
 

 

 

 アーケードを抜けて進んで行くと「此花消防署」。望楼が立つ古い形の消防署だったが改装中のようだ。
 

 「此花区役所」は、耐震化工事で何とか切り抜けているようだ。区役所前に「沖縄県祖国復帰記念」の塔。「此花区」も「大正区」同様、沖縄県にルーツを持つ人が多いのか「大阪此花区沖縄県人会」の文字が。
 

 路地を抜けて「梅香交差点」へ。角には「大阪府此花警察署梅香交通警察官詰所」。
 

 さらに「北港通」を進む。
 

 午前中に横切った「四貫島中央通商店街」を過ぎれば「四貫島本通り商店街」の入口。
 

 その向こうには「千鳥橋交差点」。福岡県博多にも同名の交差点があるようだ。すぐ後ろには「阪神電車千鳥橋駅」。複雑な交差点なので地図を頼りに「西九条」方面へ。
 

 途中、古い「散髪屋さん」。日曜日に休んでいると言うことは、もう廃業したのだろうか。
 

 その向かいには、大阪ではよく見られる道路真ん中にある「枯木」と「お社」。「白砂大神」と言うらしい。だいたい、このようなお社は「白蛇」にまつわるものが多い。
 

 少し進めば「昇陽高・中学校」。大正13(1924)年、「淀之水女学校」として開校。平成21年から男女共学の中・高一貫校となる。
 

 ガード下の校舎とはすごいな。
 

 そして、その前の「朝日橋」で、朝に渡った「六軒家川」を渡る。左は「阪神電車」の鉄橋。「なんば線」になってからは「近鉄電車」が乗り入れている。
 

 「朝日橋」のたもとには「初代大坂船奉行所跡」。元和6(1620)年、江戸幕府により設置されたと言われる。この碑文は、「橋下市長」の筆によるものらしい。と言うことは、比較的新しいということか。
 

 「朝日橋」を渡って5分ほどで、今朝、出発したJR「西九条駅」。午後4時20分着。本日の歩紀「30521歩」(26.24km)。かつての「工業地帯」は「遊地帯」へと変貌していた。
 
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大阪24区を歩く~大阪の台所と古い街並み「福島区」

2013-09-20 21:20:09 | 日記
訪問日:平成25年11月2日(土)
出 発:JR「福島駅」
到 着:JR「福島駅」

 淀川の三角州上に発達した大阪市。古代、淀川下流には多くの中州が存在し、それぞれ「○○洲(島)」と呼ばれたとか。その一つと言われる「福島」。他の多くの区同様、昭和18年4月の区編制により誕生。北区の西隣に位置し、北側には淀川が流れる。南は、堂島川に沿った、いわゆる「中之島」の一角であり、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が並んだという。
 かつて開けた荘園跡は、近代に入って「発條(バネ)」「螺子(ねじ)」など初期の重工業地として発展したようだが、現在、その跡地には、住宅や大阪駅に近いことからオフィスビルなどが並ぶようになった。人口約7万人「JR野田駅」周辺には、戦災を免れた古い街並みが残る。また、区南部には「大阪市中央卸売市場」があり、青果・水産物の取扱高は、東京・築地市場に次ぎ日本第2位で、大阪の「食」を支える台所となっている。


 JR「福島駅」。環状線で「大阪駅」から一つ目だが、随分と「田舎?」へ来た感がある。午前9時45分「福島駅」を出発。
 

 駅の南側は、ちょっとした飲み屋街になっているが、そんな中に古い町家が残る。
 

 町家を利用したお店も多い。
 

 そんな街を「路地グルメ」と呼んでいる様だ。そして福島区は日本一。「だぶん」・・・
 

 路地を抜け、一旦「国道2号線」に出て右に曲がる。そこにはレトロビル。「ミナミ株式会社」。生地・服飾の会社で昭和25年の設立だとか。ただ、社屋は、昭和9年に建築された「旧川崎貯蓄銀行福島出張所」を使用しており、国の登録有形文化財に登録されている。なお、建造物の登録有形文化財は、大阪府が全国一多いそうだ。
 

 国道2号線を元の方向(東)に戻ると「浄正橋(じょうしょうばし)」という大きな交差点に出るので南に曲がり国道を渡る。すぐに右側にこんもりとした森が現れる。「福島天満宮」だ。今日一日の安全を祈願する。
 
  
 福島二丁目の街並み。
 

 ここにも町家を利用したお店が。
 

 路地を抜けて「なにわ筋」を南に進むとすぐ左に「朝日放送」の新社屋。「玉江橋」の手前を左に曲がると、ちょうど朝日放送をバックにして「中津藩蔵屋敷之跡」碑が立つ。そしてその後ろには「福沢諭吉誕生地」の碑が。前を流れる川は「堂島川」。江戸時代、この辺りには各藩の蔵屋敷が並んだ。そして豊前國中津藩の下級武士の子であった福沢諭吉は、この蔵屋敷で生まれたのだ。
 

 その左には、あの「天ハ 人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ」の碑文。
 

 前の川は、船着場になっている。
 

 堂島川に沿って西へ進む。
 

 次の橋「堂島大橋」で右に曲がる。
 

 突き当たりに「下福島公園」という大きな公園があるのでグラウンドの横を抜ける。園内には、室内プールがあるようだ。
 

 玉川二丁目の街並み。
 

 お好み焼き屋さんの横の道は「石畳」。
 

 引き続き、玉川二丁目を歩く。
 

 前方に阪神高速道路の高架が走る「新なにわ筋」に出るので信号を渡ろう。ここは「歴史の散歩道」のようだ。
 

 道を渡ると左側に入る路地があるので進んで行く。古い街並みが残る。ここは「薬屋」。
 

 右に神社が見えるので、そのまま進む。角には、石の道標。
 

 右に曲がればすぐに鳥居が立つ。「恵美須神社」だ。大阪は、今宮戎を頂点に多くの「戎(恵比須・恵美須)さん(えべっさん)」がある。ここ「野田戎」も「堀川戎」や「十三戎」と並んで大阪では有名な「えべっさん」の一つだ。
 

 時節柄、先ほどの福島天満宮同様、「七五三詣」で多くの家族がお参りしている。
 

 境内には、立派な蔵と地車庫だろうか。
 

 奥には藤棚。ここ「野田の藤」は、江戸時代、「吉野の桜」「高尾の紅葉」と並び称されていた。今も区内に多くの「藤棚」が残る。
 

 参拝を終え、玉川四丁目の街並みを歩く。
 

 立派なお屋敷だ。
 

 街並みも良い感じだ。
 

 

 土蔵の向こうには「真宗大谷派極楽寺」。
 

 享楽4(1531)年頃、細河晴元と三好元長の抗争に際し、三好方がここに砦を置いたと言われる。それが「野田城」と呼ばれたそうだ。
 

 その横の極楽寺山門には「野田御坊」と記されている。ここは、現在の大阪城付近に「石山本願寺」を築いた「蓮如上人」ゆかりの寺でもあるらしい
 

 通りを越えて野田三丁目へと入る。
 

 この辺りが最も古い街並みが残っているのではないだろうか。
 

 路地に入ればこんな風景が。
 

 この道は、野田三丁目と二丁目の境界になっている。
 

 二丁目に入る。アーケードではないが商店街になっている。
 

 

 古い家が残る。
 

 この路地も素晴らしい。
 

 さらに野田二丁目の街を歩く。
 

 ここは昔「大野町」と呼ばれていたようだ。
 

 野田二丁目の街並み。
 

 

 
 「新なにわ筋」に出れば右折し、堂島川に突き当たれば右へ。正面には「大阪市中央卸売市場本場」。冒頭述べたように、大阪の食を支える「台所」だ。
 

 場内にある「OSAKA MAIDO PLAZA(おおさか まいど プラザ)」。
 
 
 一般向けの商店が並ぶ。
 

 市場に集まった生鮮食品は、大阪府下は元より全国に配送される。
 

 時間は、午前11時30分、そろそろ昼食の時間だ。駐車場脇には「食堂棟」もある。場所柄、ネタは新鮮だ。
 

 しかし、建物内にもいくつかの食堂があるので中へ入る。場内は結構薄暗い。迷うのを見越して早めに入る。建物内とはいえ車や原付、フォークリフトなどが縦横に走っているので気をつけよう。そして仕事の邪魔をしないように。
 

 案の定、道に迷ってしまった。「あらっ!」気がつけば「粗(あら)捨て場」に。この風景、日本人だから耐えられるのかな。
 

 ふと見ると「粗捨て場」の横に「場内マップ」が。しかし、場内は、暗いうえ同じような区画が続き、特に目印がないのでわかりにくい。
 

 場内をブラブラ。午前11時55分、何とか見つかった。というより「偶然」たどり着いたといった方が良いだろう。2階へ上がる。
 

 2階の通路に2軒の食堂が並んでいた。手前の「みなみ食堂」に入ることにする。大阪では当たり前のことなのだが、男の客は「兄ちゃん」と呼ばれる。店のおばちゃんが「兄ちゃん、冷たいお茶、熱いお茶?」「兄ちゃん、何する?」。「あなご丼、頼んます。」
 

 「あなご丼」(900円)。私は魚介類が好きなので注文したが、卸売市場だからといって「海鮮」にこだわることはない。カレーライスやトンカツを注文する人も多いようだ。
 

 「北門」から卸売市場を後にする。
 

 「中央市場西口」と書かれた交差点を過ぎて左折すると、遠くに見える市場の西口から続く細長い道が現れる。
 

 かつて大阪環状線から中央卸売市場まで国鉄の支線が引き込まれていたそうだ。その廃線跡が「野田緑地」として整備されている。
 

 廃線脇にも古い町家が。
 

 病院の横で廃線跡は環状線の高架に突き当たる。
 

 突き当たって右に曲がる。次の信号で高架をくぐると、かつての鉄道跡が環状線へと続く。
 

 その横には、鉄路の名残だろうか、レンガ造りの小さな柱のようなものと線路を加工した鉄柵が残る。
 

 吉野三丁目へ入る。
 

 ここにも古い街並みが残る。
 

  吉野三丁目を進む。町は静かだ。カラスの鳴き声(たぶん、生ゴミの日だからか)しかしない。
 

 「北港通」という大通りに出るので右折。すぐに右側にアーケードが見えてくる。この辺りからは吉野二丁目。
 

 「野田新橋筋商店街」だ。大阪の商店街にはよくある「商店街のテーマソング」が流れていた。
 

 大阪では鰻のことを「まむし」という。「マムシ」ではない「まむし」だ。
 

 間口は狭いが奥行きのある店が多い。
 

 350mほどでアーケードが終わり環状線のガードに突き当たる。ガード下にも色んな店がある。
 

 吉野二丁目を進む。
 

 吉野二丁目の街並み。
 

 「新なにわ筋」の阪神高速道路高架をくぐり吉野一丁目へ。
 

 吉野一丁目の街並み。
 

 「曾根崎通(国道2号線)」に出れば左折し、阪神電車に沿って歩く。
 

 通りから筋をのぞき込む。
 

 吉野一丁目の街並みを「曾根崎通」側から望む。
 

 

 「新なにわ筋」と「曾根崎通」が交わる「野田阪神前交差点」で曾根崎通を渡り、阪神電車「野田駅」の前を通り過ぎてガードをくぐる。「ヤマダ電機」の先を右折し「海老江七丁目」へ。
 

 長屋の前は石畳。夏は打ち水をするんだろうな。
 

 海老江七丁目を歩く。
 

 大通りを越えて海老江八丁目に入るが、八丁目にはあまり古い家や街並みはない。「海老江西小学校」の手前に稲荷神社が
 

 国道2号線に出れば左折、北上する。350mほどで「淀川小橋」。これは、かつて淀川に沿って流れていた「中津運河」に架かる橋で、その奥には淀川を渡る「淀川大橋」が。
 

 橋の手前には「大阪府福島警察署淀川大橋警ら連絡所」。
 

 国道を戻り、海老江六丁目へ入る。大きなお屋敷が。
 

 このお屋敷には「鍾馗様?」。
 

 何やら道標が。
 

 筋を入って行くと「八坂神社」。
 

 結構、広い境内だ。
 

 海老江四丁目に。
 

 この辺りは海老江三丁目か。
 

 左の土手方向を見ると歩道橋のような橋が見える。
 

 橋の上から「中津運河」跡を望む。
 

 海老江三丁目の「お地蔵さん」。
 

 海老江四丁目と三丁目が入り組む。
 

 この町は猫が多いな。
 

 海老江四丁目の街並み。
 

 

 この四つ辻から向こうは海老江三丁目。
 

 海老江三丁目に入ったところの地蔵堂。
 

 板塀の向こうに「野田の藤棚」。
 

 海老江三丁目の街並み。
 

 三丁目を抜け「海老江東小学校」前の交差点を渡れば、右に「大日本住友製薬」の大きな建物。そして会社正門から中をのぞき込めば「記念館」と書かれたレンガ造りの洋館が見える。明治30年に建てられた「旧大日本製薬」の工場跡らしい。記念館として永久保存されることになったそうだが、非公開のため門外から眺めるしかない。
 
 
 大日本住友製薬を過ぎたあたりから「鷺洲(さぎす)」の街になる。古い工場が建つ。そういえば昔は「ルームエアコン」って言ったなぁ。
 

 「鷺洲中公園」。ここにも「野田の藤棚」がある。
 

 公園前の建物。懐かしいなぁ「ナショナル」だって。
 

 「鷺洲交差点」の脇から「聖天通」という商店街が現れる。
 

 商店街を抜け、信号に出れば左折。すぐに鳥居が見える。東寺真言宗の寺院だが神仏習合の名残から鳥居があり、境内には稲荷社も祀られている。身体は人で頭は象の「歓喜天(かんぎてん)」と呼ばれる仏教の守護神が安置されており「福島聖天」「浦江聖天」などの名で親しまれている。
 

 戦災を免れた山門は、大阪府の文化財に指定されている。
 

 ここの境内にも「野田の藤棚」が。福島区内は藤の季節になれば美しいんだろうな。「芭蕉の句碑」などもある。
 

 鳥居越しに本堂を望む。
 

 参拝を終え、先ほどの商店街まで戻る。信号から先は「FUKUSHIMA遊歩」という商店街となる。「売れても占い商店街」。洒落だな。
 

 この商店街は、淀川を越え西淀川区を経て尼崎に通じる「大和田街道」「梅田街道」という街道だったらしい。
 

 いくつかの「占い」が店を開いているようだが・・・
 

 飲食店が中心の普通の商店街だ。
 

 商店街を抜けると線路に突き当たるので左折して線路沿いに歩く。環状線の高架横をJR宝塚線が通過し、高架奥にJR大阪環状線「福島駅」の入口。ちょうど午後3時に到着。本日の歩紀「26350歩」(22.66km)。福島区は、ホテルでもとってゆっくり飲み歩きたい街だ。
 

 

  

 
 
  

 

 

 

 
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大阪24区を歩く~エエとこだっせ「都島区」

2013-09-20 21:19:56 | 日記
訪問日:平成26年6月7日(土)
出 発:地下鉄「都島駅」
到 着:JR「京橋駅」

 区北部は、淀川の水利に恵まれた農村地帯として開け、南部は大坂から京へと続く「京街道」の宿場町として栄えた。旧農村地帯は、近代に入っては工業地帯として、その後、住宅地として開発され、旧宿場町は、現在では「京橋」と呼ばれる繁華街として多くの人が集まる。昭和18年、「北区」「旭区」から分離・編制され「都島区」となる。人口約10万人の商業地と住宅地が混在した町だ。
 都島区のどこが「エエとこ(良い所)」なのだろうか?大阪の人ならピーンと来るだろう。「都島区」と聞いてすぐに思い浮かべるのが「京橋」。大阪と京都を結ぶ京阪電車とJR大阪環状線が交わる大阪でも有数のターミナル。特に仕事帰りのサラリーマンや飲み会の若者で賑わう歓楽街だ。そこに答えが。南北に長い都島区を「エエとこ」目指して歩く。


 大阪市内を縦断し、守口市「大日駅」から八尾市「八尾南駅」の28km結ぶ地下鉄谷町線。都島区のほぼ中央に位置する「都島駅」を午前9時45分、出発。
 

 5番出入口は、5本の道路が複雑に交わる「都島本通交差点」の北東角に出る。
 

 そして、その角。ちょうど「三菱東京UFJ銀行」前の緑地帯に「農業用水門」が復元されている。
 

 当時、農村地帯であった付近を偲ばせるものであるが、淀川から流れる「井路川」という農業用水路にあったものを昭和49年、ここに移転・復元したものである。
 

 「都島通」と呼ばれる道路を南に渡り「りそな銀行」の前を東に進むと、右にアーケード街が現れる。都島市場の前から始まる「桜通商店街」。
 

 150mほどのアーケード街だ。
 

 1階が商店の「サニータウンニッシン」というマンションを過ぎて左に曲がると、そこには「鵺塚(ぬえづか)」。
 
 
 「鵺」とは、頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビの形をした怪物だという。近衛天皇期、夜な夜な京の御所に現れ、帝を悩ませたのを源政が射落とし、その屍がこの地へ流れ着き、祟りを恐れた村人が祠を建てて祀ったと伝えられる。
 

 アーケードを抜け、右に曲がり大通りを北上。スタート地点の「都島本通交差点」に出るので、信号で「都島通」を渡って左折、西進する。南側には「市立総合医療センター」がそびえる。
 

 170mほどで「都島神社」の前に出る。正面から参拝しようと思ったが、敷石のふき替え工事中のため脇の入口から境内に入ることに。
 

 付近は、淀川左岸に位置し、たびたび水害に見舞われたことから、永暦元(1160)年、守護神として建立したのが始まりと伝わる。今日一日の安全を祈願する。
 

 境内には、市内最古の石造遺跡と言われる鎌倉期に造られた宝篋印塔が建つ。
 

 神社西側の路地を北へ進む。すぐ左側に「浄土宗母恩寺」。仁安3(1168)年、後白河法皇が生母を弔うため創建した尼寺と伝わる。今日は、降水確率40%なのに雨が降ってきた。これより傘をさしながら歩く。
 

 さらに北へ進む。右に「櫻宮御旅所」。後ほど訪れる「櫻宮」の御旅所だろう。
 

 境内には、大きな枯木がそびえる。
 

 これは「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれ、源頼光からこの辺りの管理を任されていた「渡辺綱」という人物が馬を繋いだ木と伝わる。
 

 御旅所の裏は「善源寺楠公園」という公園になっているので公園を横切って北へ進む。38階建て高層マンションを中心に開発された「セントプレイス大阪」。「旧十条製紙工場」の跡に建設された。
 

 さらに進めば「ベルパークシティ」。ここは「旧鐘淵紡績」いわゆる「カネボウ」の跡に開発された住宅地で「ベル」とは「鐘」のことである。
 

 その西側には「リバーサイドともぶち」。旧住宅公団である「UR都市機構」が開発した集合住宅である。
 

 そして、これら高層マンション群に囲まれるように「大阪拘置所」。全国に8カ所ある拘置所の一つで「東京拘置所」に次ぐ規模である。
 

 拘置所とは、基本的には未だ裁判で判決が下らない未決囚と死刑判決が下った死刑囚を収容する施設で、判決が下った囚人を収容する「刑務所」とは異なる。
 

 大阪拘置所北側の「市立友渕小学校分校」を過ぎ、友渕橋で「城北運河」を渡る。
 

 5~60mで「淀川神社」。
 

 由緒は不詳であるが、明治以降、付近の神社を合祀して創建されたようで、元は「十五神社」とも呼ばれ「天照大神」を主神として15の神々が祀られる。拝殿の上には15柱の神々の名が書かれている。
 
 
 神社前の「毛馬橋東詰交差点」を挟んで公園があるが、とりあえずそのまま北へ進む。
 

 右の路地に入れば立派な旧家。
 

 すぐに淀川堤防に突き当たる。堤防上には「蕪村生誕地」碑。俳人として知られる「与謝蕪村」は、享保元(1716)年、ここ「毛馬」で生まれたという。
 
 
 ちょうど川の上で「都島区」「北区」「東淀川」とが境をなしており、旧閘門など明治時代に建設された施設は「北区」に属し「近代産業遺産」として保存されている。
 

 都島区側には現役の「毛馬閘門」が所在する。
 

 前に見える淀川がここから「新淀川」として大阪湾に向かう。「旧淀川」との分岐点が、ここ「毛馬(けま)」である。
 

 閘門とは、水位の異なる川で船が往き来できるように調整する施設だ。
 

 ここからは、「大川」と呼ばれる旧淀川に沿って歩く。コース途中には、都島区役所による案内板もたくさん架けられている。ここは桜の名所でもある(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
 

 閘門を後に南へ。先ほど通り過ぎた公園は「蕪村公園」。与謝蕪村に因んで造られた公園だ。
 

 蕪村の歌碑が並ぶ。
 

 時間は、午前11時20分。先ほど訪れた「淀川神社」前から北東に270mほど行くと右に「丸源ラーメン」。ちょっと早いが、この先には食事をするところがないので、ここで昼食にする。
 

 名物「肉そば半熟煮玉子入り(880円)」を注文する。「そば」と書かれているが「ラーメン」だ。
 

 店を出ると雨が上がっていた。「淀川神社」まで戻り、河川敷の「毛馬桜之宮公園」へ進む。
 
 
 川面には「リバーサイド友渕港」という船着場。屋形船が係留されていた。
  

 「春風橋」という人道橋で午前中に渡った「城北運河」を南に渡る。
 

 大川に沿って歩く。
 

 「飛翔橋」という人道橋。「北区」側に開発された「淀川リバーサイドタウン」に繋がる。
 

 「都島橋」をくぐる。この下を「地下鉄谷町線」が走る。
 

 「都島橋」を過ぎれば「大阪市水道発祥之地」碑が建つ。明治28年11月、ここから初めて飲料水として大阪市に上水道が送水されたという。
 

 さすが大阪市(府)、きれいなトイレが整備されている。
 

 そのまま南に進めば「JR桜ノ宮駅」。駅舎手前のガードはレンガ造りだった。
 

 新しい橋梁が付け替えられる前のレンガ造りの橋梁が残る。
 

 その前を渡るのは「源八橋」。昔は「源八渡」という渡し船が運航されていた。
 

 この辺りは「わんど」のようになっており、橋で「洲」に渡ることができる。
 

 人工だが砂浜が作られているようだ。
 

 対岸は「北区」。「大阪アメニティパーク(OAP)」の高層ビルがそびえる。
 

 この辺りは、水面に下りやすいことから大阪市大漕艇部の施設がある。
 

 また、ここからは水陸両用の観光バス(船)が上陸する。ちょうど陸に上がった水陸両用バスが出発していった。
 

 大阪市大の他、古い艇庫が建つ。
 

 その前には「青湾」碑。かつてこの付近は井戸水の水質が悪かったことから「大川」の水を飲料水として利用しており、特にこの辺りの水質が良かったことから、茶の湯を愛した豊臣秀吉が小湾を設け、茶人の名から「青湾」と名付けられたという。
 

 ここから再度、川岸を離れる。川沿いには「櫻宮」。地名や駅名は「桜ノ宮」「桜之宮」と表記されるが、地名の由来となった神社は「櫻宮」だ。「櫻」の文字が桜の枝で隠れている。
 

 元は「東成郡野田村(今の京橋辺り?)」にあった社が、大和川の洪水でこの地に漂着したのが始まりで、宝暦6(1756)年、この地に鎮座したと伝わる。天照大神等を祀る。かつて「大和川」は、生駒山地を出て北上。旧河内湖を沖積平野とし、この辺りを流れていた。
 

 再び「桜之宮公園」に入る。大阪では「銀橋」と呼ばれる「桜宮橋」。国道1号線の拡張により北側に「新桜宮橋」が建設されたが、元は昭和5年に完成した。


 北区側には煉瓦造りの階段塔が残るが、都島区側には管理施設だろうか、レンガ造りの建物が残る。。
  

 桜宮橋を過ぎれば、付近は、かつて男爵藤田伝三郎という人が築造した広大な屋敷があったところ。その庭園は、「藤田邸跡公園」として一般公開(無料)されている。
 

 池や芝生公園周辺には、桜や梅が植えられており、四季折々に花を楽しめる。
 

 大阪市内とは思えない。
 

 これが個人の邸宅だったとは、すごいな。
 

 通用門を出て一旦左に。地下を走るJR東西線「大阪城北詰駅」の出入口を過ぎる。戦災で焼け残った蔵跡は、今では「藤田美術館」として国宝9点を含む藤田一族のコレクションを展示(春・秋の年2回公開)する。
 

 その東は「太閤園」という宴会場・結婚式場になっており、関西政財界のパーティーなども開かれる。
 

 再度、西側に戻ろう。そこには、昭和34年「日米市長・商工会議所会頭会議」開催を機に建設され大阪市の迎賓館として使用された白亜の「大阪市公館」が建つ。
 

 日本庭園が広がり、長らく活用されていなかったところ、今年(平成26年)秋からは、レストランや結婚式場を備えた「THE GARDEN ORIENTAL OSAKA」として生まれ変わるとともに庭園も一部、一般公開される。訪問時は、開業準備中であった。
 

 大川と寝屋川が交わり、そこには「川崎橋」という人道橋が「北区」に繋がる。ちょうど、屋形船が浮かぶ辺りが「都島区」「北区」「中央区」の3区境になる。
 

 京阪電車のガードをくぐり「土佐堀通」の延長である府道168号線を渡る。
 
 
 そこには「京橋」。元は元和9(1623)年、旧大和川(現在の寝屋川)に架けられた公儀橋で、大正13年に現在の鋼橋に架け替えられた。
 

 ここから「片町橋」まで570mほどを「寝屋川」に沿って歩く。
 

 川の南側には大阪城が広がる。
 

 途中で「第二寝屋川」と合流する。正面は、大阪ビジネスパーク(OBP)の「クリスタルタワー」。そこは「中央区」だ。
 

 「片町橋」で上にあがると「片町東交差点」。ここには、当時「片町線」と呼ばれた「学研都市線」の終着駅「片町駅」があった。ホームと改札が直角に交わる「終着(始発)駅」らしい駅舎だったが、平成9年3月、片町線が延伸され「東西線」開業とともに地下に潜り廃止された。
 

 旧片町駅北側の道を東へ。途中、階段で1本北の路地に入り、さらに京阪電車のガードをくぐる。強い雨が降ってきた。京阪電車沿いに歩くと道端に石の「道標」が立つ。「右 大和」「左 京みち」と掘られている。
 

 裏には「右 大坂」と刻まれている。京街道の道標だ。道標の前には、京阪電車「京橋駅」が入る「京阪モール」。昔、
   ♪ 京阪モール 京阪モール ビルの中を 電車が走る
   ビルの中には ニューモードの 花が咲くよ oh! 春の散歩道 ♪
というCMソングが流れていたなぁ。
 

 北側を走る「国道1号線」。JR環状線のガードをくぐったところが「京橋交差点」だ。かつて「京街道」の宿場町として栄えたところ。
 

 「京橋交差点」の北側には「ビギン京橋」という商店街。650mほどのアーケード街だ。
 

 南側は「新京橋商店街」と呼ばれる。
 

 途中でドームのある広場に出る。
 

 そこには「京街道」碑が建つ。この商店街が「旧京街道」だったのだろう。
 

 ここからは「京橋中央商店街」となる。ちょっと味のある「たこ焼き屋さん」。
 

 アーケードが終われば左へ。そして路地を左に折れると古い住宅街が残る
 

 文化住宅を抜けて南に進んでくと遊歩道に出る。
 

 午前中、前を通った「市立総合医療センター」の場所には、かつて「国鉄淀川貨物駅」があったそうだ。貨物駅と「城東貨物線」を結ぶ「淀川連絡線」の跡地に造られた遊歩道である。動輪と枕木をあしらったモニュメント。
 
 
 遊歩道は、途中「ビギン京橋」を横切り、さらに東へ進む。
 

 250mほどで「桜小橋交差点」で「国道1号線」と交わる。ここから東は「城東区」になるので信号を渡り、西に戻る。
 

 途中で路地を左に入る。
 
 
 ここは、歓楽街としての「京橋」の一角になる。
 

 飲み屋街を抜ける。
 

 そして……。そこに「エエとこ」がそびえる。「京橋グランシャトービル」。
 

 サウナ、中華料理店、キャバレー、パチンコ屋などが入る「総合レジャービル」だ。何故、ここが「エエとこ(良い所)」なの?深夜、天気予報のスポンサーとして流れるコマーシャルソング。「ハナテン中古車センター」と並ぶ「コテコテ大阪」のコマーシャルだ。さあ、一緒に歌いましょう(「城東区」編参照)。
  ♪ 京橋は 「エエとこ」だっせ グランシャトーが おまっせ 
         サウナで さっぱり「エエ男」 恋の花も咲きまっせ 
     グランシャトーは レジャービル グランシャトーへ いらっしゃい ♪
 

 午後2時30分、今日のゴールJR「京橋駅」に到着。本日の歩紀「21730歩」(18.68km)。京橋は「エエとこ」やな。
 
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大阪24区を歩く~大阪の玄関「北区」

2013-09-20 21:18:26 | 日記
訪問日:平成26年12月6日(土)
出 発:「大阪市道路元標」前
到 着:「大阪市道路元標」前

 大阪の中心は、大坂城やかつて各藩の蔵屋敷などが並んだ現在の「中之島」周辺であった。ところが明治に入り汽車が走り始めると、火を噴きながら走る汽車が、ちょうど現在、騒音をまき散らす飛行機(空港)が都心から避けられるように、駅も大阪の北のはずれ「梅田」に置かれ、梅田の「すてん所(ステーション)」と呼ばれた。その後、電車の時代になり、皮肉にも大阪の玄関口は「梅田」に移り、現在も大阪一の繁華街として賑わっている。
 大阪駅を中心とした「北区」。明治22年の大阪市発足以前から存在する区であるが合併・分離を経て昭和18年に区境を整理。その後、平成元年2月、北隣にあった「大淀区」と合区し、現在の姿となる。人口約11万3千人であるが、昼間人口は40万人を越える。大阪市のほか10の都市にも同名の区がある。
 「キタ」と呼ばれる大阪駅前の「梅田」周辺は、ショッピングや食事など「遊」の空間である。今回は「歩紀」なので、あえて駅前を避けるように「北区」をぐるっと一周することにした。


 「キタ」には、半径400mほどのエリアにJR「大阪駅」「北新地駅」、地下鉄「東梅田駅」「梅田駅」「西梅田駅」、阪急「梅田駅」、阪神「梅田駅」と7つの駅があるが、今日は、駅ではなく「梅田新道交差点」の北西角にある「大阪市道路元標」を午前8時45分、スタート。
 

 7本の国道の起終点となっている。かつての道路元標(里程元標)は、高麗橋のたもとにあり、今は史跡として石碑が立つ(「中央区」編参照)。
 

 この交差点を「梅田新道」と呼ぶのは、ニュース番組くらいで、大阪では「梅新(うめしん)」で通っている。
 

 「梅新交差」を東に渡り、路地に入ったところに「露天神社(つゆてんじんじゃ)」。
 

 近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の舞台として「お初天神」の名で広く知られる。
 

 ビルの谷間に佇み、菅原道真等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
 

 神社の東側。この一角には、再開発される前の「梅田」が残る。
 

 かなり「昭和」だぞ。
 

 神社西の交番横から境内を出て「曾根崎お初天神通り」を北に進む。この交番も結構、レトロだな。
 

 飲食店街を左折し、目の前の信号で「御堂筋」を渡る。ここは、梅田1丁目。その形から「ダイヤモンド地区」と呼ばれる。かつては闇市やバラックから立ち上がった店などがひしめいていたが、昭和50年代から再開発され、今では10以上の高層ビルが並ぶ。
 

 中でも有名なのは「マルビル」だろうか。
 

 他にも阪神百貨店やヒルトンホテルなどが並ぶ。
 

 ビル街の真下は、そのまま「ダイヤモンド地下街(ディアモール大阪)」という第二の街だ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「第二の都市『地下街』」参照)。
 

 ダイヤモンド地区を抜けると「大阪駅前交差点」。
 

 明治7年に開業した、かつての「梅田すてん所」から数えて5代目の「大阪駅」は、地上27階建ての高層ビルに生まれ変わった。
 

 大阪駅に突き当たり左へ。すぐ右にJRをくぐるガードがある。この角には「大阪中央郵便局」という昭和14年に建てられたレトロビルがあったが、文化財指定の働きかけも実現せず、平成24年、取り壊された。
 

 ガードをくぐって大阪駅北側に。大阪駅の真下をくぐるだけあって長大なガードだ。
 

 大阪駅北側には、「JR梅田貨物駅」があったが、平成25年3月、138年の歴史に幕を閉じた。
 

 広大な空き地は「大阪市内最後の一等地」と言われ、いろいろな再開発構想があるようだ。
 

 元梅田貨物駅東側道路を北に進むと、その貨物駅跡をくぐる「北梅田地下道」の入口に出る。
 

 約200mの地下道を抜ける。
 

 そこは「新梅田シティ」。ウィスティンホテルと梅田スカイビルという高層ビルが並び、梅田スカイビル40階には、「空中庭園展望台」がある。ここは、かつての「大淀区」だ。
 

 地下1階には「滝見小路」。
 

 「昭和」の街が再現されている。
 

 

 地上に上がり大淀中1丁目を抜ける。「大淀中1交差点」の角には「北消防署大淀町出張所」。何となくレトロ感が漂う。
 

 交差点に戻り国道176号線に沿って東へ。「中津5交差点」で国道バイパスの側道に入る。
 

 府営住宅前の角を左折し「地蔵堂」に出れば右へ。
 

 すぐ右に「南蛮文化館」。私設の美術館で5月と11月の年2ヶ月間だけ公開されるそうだ。
 

 少し進めば「DEEP」な世界への入口が。
 

 「中津高架下」。チャップリンの隣から突入だ。
 

 かつて倉庫や町工場が並んでいたようだ。
 

 

 今は閉鎖され、静かに佇んでいる。
 

 結構、通行人はいる。若い女性もひとりで歩いていた。
 

 こんな光景も「開発」や「防災」の名の下に消えていくのだろうな。
 
 
頭上を走るバイパスへの階段。
 

 映画のロケもされたようだ。
 

 

 唯一、稼動中の工場。
 

 階段を登ると左には「阪急中津駅」のホーム。
 

 京都・宝塚・神戸の3線が併走する。それぞれ複線の鉄橋が交わるので駅の敷地は広いが、各駅しか停車しないので駅の規模は小さい(京都線は駅がない)。
 

 駅への階段。通い慣れた人にとっては「日常」だろうが、私にとっては「非日常」な風景。
 

 「駅前」というか「ガード下」というか。
 

 駅前から北に進み左折すると「中津商店街」。
 

 170mほどのアーケード街。
 

 ここには本物の「昭和」が残っている。
 

 あまりに狭いのでアーケード街というより「廊下」のような感じがする。
 

 路地を入れば古い街並みも。
 
 
 散髪屋さんも
 

 酒屋さんも
 

 豆腐屋さんも「エエ感じ」や。
 

 アーケードを抜けて突き当たりを右折。「市立中津小学校」の塀を過ぎると「富島神社」。
 

 旧牛頭天王社で速素戔嗚尊ら七神を祀る。
 

 富島神社横から北に進むと淀川の堤防に突き当たる。そこにある小さな橋を渡る。
 

 ここには、かつて「中津運河」という運河が流れていたそうだ。今は「廃川」となったが、このような橋がいくつか残る。
 

 大阪を代表する「淀川」の堤防沿いに歩く。
 

水道橋と新御堂筋が渡る「新淀川大橋」をくぐれば、小さな橋で旧中津運河を渡り、豊崎6丁目の街並みに入る。
 

 「豊崎二之橋」というらしい。
 

 途中、煉瓦がむき出しの古い塀が。
 

 今は駐車場になっているようだが、立派な灯籠や庭石があり、かつての邸宅だったのだろうか。
 

 300mほどで「豊崎神社」の前に出る。御祭神は、645年の大化の改新により難波宮遷都を断行した孝徳天皇。
 

 「難波長柄豊碕宮」の旧跡地と伝わる。ただ、難波長柄豊碕宮は、現在の大阪市中央区にある「難波宮跡」と言われる。しかし、周辺には「長柄」「豊崎」の地名が残る。
 
 
 神社前の「梅田貨物線」ガードをくぐる。
 

 しばらく東海道線と併走し、信号のあるアンダーパスをくぐり、次の角を右折する。
 

 突き当たりを左折し、路地に入る。
 

 そこは「豊崎長屋」。
 

 大阪の中心にありながら奇跡的に空襲の被害を免れた一角である。
 

 「昭和」がそのまま残る。
 

 国の登録有形文化財に登録されている。当然だろう。
 

 実際に暮らしている方もおられるようだが、町家を利用した店も見られる。
 

 「豊崎長屋」の西側に隣接して「行基菩薩開基南濱墓所」。
 

 今は市設の霊園だが、行基が設置したわが国最初の霊園と言われる。土葬から火葬になった最初の墓所とも言われる。
 

 前の通りを越えると「旧大淀区」から「旧北区」へ戻る。古い町家が並ぶ。いろいろな店として利用されている。
 

 ここは「中崎」。
 

 大阪市中心部でこれだけの古い街並みが残っている所は、ここと「谷町6丁目」くらいだろう。
 

 ここから先は、野里町歩紀~摂河泉をゆく~「中崎界隈から日本一長い商店街」と重なるので参照。
 

 

 

 路地に入ると「白龍大神」。
 

 平成元年頃、私用で訪れた時には何もなかったところに「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『中崎界隈から日本一長い商店街』」で訪れた際、「ひがし茶屋町西向不動尊」という大きな不動尊ができていた。そして今回、そこはコインパーキングになっており、角に小さな「お不動さん」だけが残っていた。
 

 その向かいには「韓国民団大阪府地方本部」。さすが日本一の「在日の町」大阪。立派な建物だ。
 

 路地を右に折れ「真宗仏光寺派浄方寺」の横を抜ける。
 

 「都島通」に出たところに「天五中崎通商店街」。
 

 400mほどのアーケードで、東端は日本一長い商店街「天神橋筋商店街」と交わる。
 

 入りたくなるような店が並ぶ。
 

 交番を過ぎれば左へ。この建物は「赤灯」が残っている。病院だったのだろうか。
 

 60mほどで「かね又食堂」。時間は、午前11時55分、昼ご飯にしよう。以前から入りたかった店のひとつだ。
 

 名物といわれる「シチューうどん」(500円)を注文した。
 

 昼食を終え、店を出て北に進む。「浮田町1丁目」この辺りも古い建物が残る。
 

 「旧北天満小学校」前を通る。
 

 児童数減少から平成16年、廃校となった。今は、公民館的に利用されているようだ。
 

 都島通に出て右折すると「天神橋筋6丁目交差点」。大阪では「天6(てんろく)交差」で通っている。複雑な5叉路を北東に渡る。そして、再度、「旧大淀区」を歩く。
 

 「関西大学天六キャンパス」前を通る。
 

 300mほどで「城北公園通」に出るので右折する。150mほどで「長柄八幡宮」。
 

 永仁4(1296)年、石清水八幡宮から勧請されたといわれる。八幡大神つまり誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇らを祀る。
 

 神社から北に進み「長柄西2丁目」の街を抜ける。
 

 すぐに淀川堤防に出る。ここは、琵琶湖を水源とする淀川が、明治36年、開削された「新淀川」と「旧淀川」に分かれる「毛馬閘門(こうもん)」なのだが、複雑に区境が走り、「毛馬閘門」自体は「都島区」の所在する。ただ、「旧毛馬閘門」や「旧毛馬洗堰」は「北区」側にあり産業遺産史跡公園として整備されている。また、河川敷の一部は「東淀川区」だ(「都島区」編。野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
 
 
 「旧毛馬閘門」。「閘門」とは、船を通過させるため、2つの川の水位を調整する設備である。
 

 

 スエズ運河やパナマ運河のような施設で、旧洗堰とともに国の重要文化財に指定されている。
 

 「毛馬の残念石」。江戸時代の大坂城再建の際、伏見城から運ばれ、運搬船から転落し、後に引き上げられた石垣用の石である。採掘用の杭孔や家紋が残る。
 

 「旧毛馬洗堰」。明治40年、川の水を「新淀川」と「旧淀川」に分けるために造られた。
 

 

 「中津運河」の延長は、ここでは「長柄運河」と呼ばれたようだ。かつて長柄運河に架かっていた「眼鏡橋」。修復・保存されている。
 

 船溜まりを見ながら信号待ちをし、毛馬橋西詰で「城北公園通」を渡る。後方が現在の「毛馬閘門」。
 

 しばらく「旧淀川」沿いに歩く。
 

 対岸は「都島区」だ。
 

 川沿いを進む。
 

 「飛翔橋」という人道橋をくぐり、前方に「都島橋」が見えてくれば、再度、町中に入り「淀川リバーサイドタウン」という住宅街を抜ける。
 

 高層住宅の間を抜けると「天台真盛宗鶴満寺」。建物自体は、荒廃・再興を繰り返しているが、太平10(1030)年の刻銘がある「朝鮮鐘」が国の重要文化財に指定されているそうだ。
 

 天神橋筋を渡れば「淀川天神社」。
 

 天平10(738)年、行基がこの辺りを開拓した際、守護神として「天穂日命(アメノホヒノミコト)」を勧請したのが始まりといわれる。
 

 そして、すぐ西には「真言宗国分寺派国分寺」。「国分寺」とは「国分尼寺」とともに、国家鎮護のため各国に建立された官寺。
 

 元は孝徳天皇の菩提のため建立された長柄寺が、聖武天皇の国分寺創設により「国分寺」になったと言われる。
 
 
 国分寺前の都島通を渡り「引っ越しの時はどうするの?」と、いらぬ心配をしそうな狭い路地に入る。
 

 ここからは、再度、「旧北区」だ。
 
 
 路地を抜けると「市立菅北小学校」。大正11(1922)年開校の小学校。
 

 路地を進むと左にNHK連続ドラマ「ごちそうさん」でも登場した「天満市場」が見えてくる。
 

 市場を抜けると「日本一長い商店街」に出るのだが、その手前を左に曲がる。
 

 居酒屋や大衆食堂などが並ぶ「昭和」の風景が残る。
 

 

 

 

 JR大阪環状線「天満駅」。環状線の駅は古い建物が多い。
 

 天満駅からJR大阪環状線に沿って東へ歩く。
 

 中西金属工業の「煉瓦倉庫」。
 

 「天神橋筋」を右に曲がる。「源八橋西詰交差点」の角にはレトロな「煙草屋さん」。
 

 ここを左に折れれば「旧淀川」に突き当たるので、川筋に沿って南(右)へ進む。
 

 すぐ右には「大阪アメニティパーク(OAP)」。
 

 「帝国ホテル大阪」や「億ション」と言われる高層マンションなどが並ぶ。
 

 途中、右に「旧桜宮公会堂」の案内が見えれば、そちらに進む。「旧桜宮公会堂」。国の重要文化財に指定されており、平成25年から民間委託され、レストランや披露宴会場として利用されている。
 

 この日も結婚披露宴があったようだ。
 

 その南側には「泉布観」。造幣局の前身「造幣寮」の応接所で国の重要文化財に指定されている。
 

 以前は非公開であったが、「旧桜宮公会堂」とともに民間に委託され、外観が一般公開されるようになった。内部は年1回、春分の日前後に公開される。
 

 そして国道を挟んで南側は「造幣局」。現在は、独立行政法人となっているが、硬貨・勲章等を製造する国の機関である。
 

 造幣局の隣には「旧桜宮橋」の橋塔が残る。煉瓦造りだ。
 

 中は「螺旋階段」になっている。
 

 橋塔から再度、川辺に下り、南に進む。ここは「桜之宮公園」。春は桜が美しい(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
 
 
 川に沿って進めば「天満橋」が架かる。かつての「橋銘板」。
 

 橋の上から下流を眺める。旧淀川は、前方に見える「天神橋」の下で「堂島川(右)」と「土佐堀川(左)」に分かれるが、およそ3.2km先で合流する。この間にできた細長い島が「中之島」だ。
 

 川辺に戻り「南天満公園」を進む。「旧淀川」は、「大川」と呼ばれる。
 

観光船「アクアライナー」が川面を進む。
 

 先ほど眺めた「天神橋」へ。これから「中之島」を歩こう。
  

 中之島東端の「中之島公園」。明治24年に開設された大阪市初の市営公園らしい。
 

 「ばらぞの橋」を渡れば「バラ園」。
 

 両端にライオン像があることからライオン橋とも呼ばれる「難波橋」で上に上がる。ここから重厚な建築物が並ぶ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「石の館『大大阪浪漫』」参照)。
 

 正面には「大阪市中央公会堂」。大正7年竣工の国の重要文化財。夜間はライトアップされる。
 

 堂島川(北側)沿いに回る。「水晶橋」。昭和4年完成のめがね橋。
 

 その向かいには「大阪府立中之島図書館」。明治37年、ネオ・バロック様式で建築された。これも国の重要文化財だが「耐震化工事」のため全容は望めなかった。
 

 その西側には「大阪市役所」が御堂筋に面して建つ。さすが「大阪24区」の頂点。その偉容から「大阪市庁」と呼ばれる。
 

 大正10年に完成したルネッサンス風の塔が立つ旧庁舎は、昭和57年、取り壊されてしまった。やはり取り壊されてしまった大阪地方裁判所庁舎や他の民間ビルなどすべての建造物が残っていれば素晴らしい風景だっただろう(「大阪を翔ぶ」~大阪新聞社発行から)。
 

 御堂筋を挟んで「日本銀行大阪支店」。この建物も明治36年、ベルギー国立銀行を模して建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
 

 

 さらに堂島川に沿って歩く。「渡辺橋」。元々は江戸時代に架けられた木造橋であったが、その後、何度か付け替えられ、現在の橋は昭和2年に架け替えられたもの。
 

 阪神高速道路をくぐると「ダイビル本館」。旧ダイビルは「大阪ビルヂング」と呼ばれ、大正14年に完成したレトロビルだったが解体されてしまった。
 

 平成25年、地上22階建ての高層ビルに生まれ変わったが、低層階部は旧ビルのレンガ約8割を再利用して建てられているそうだ。
 

 次の「田簑橋」南詰で南(左)に曲がり、土佐堀川(南側)沿いに向かう。市立科学館を過ぎれば「常安橋」北詰。
 

 この辺りが中之島で最も幅が広く330mほどあるだろうか。
 

 さらに土佐堀川沿いに歩く。対岸は「西区」。
 

 右に「中之島センタービル」が見えれば、そろそろ中之島西端だ。
 

 土佐堀川に架かる「端建蔵橋」から「堂島川」と「土佐堀川」の合流点望む。正面のコンクリート壁が中之島の「最西端」になる。
 

 ここで再度合流した2本の川は「安治川」と名を変え大阪湾に注ぐ。つまり、琵琶湖を水源とするこの川は、「瀬田川」「宇治川」「淀川」「大川」「堂島川」「土佐堀川」「安治川」と名を変えて海へ注ぐ「7つの顔を持った川」なのだ。右は「大阪中央卸売市場本場」。左は「住友倉庫」(「福島区」編、「西区」編参照)。
 

 ここで中之島を東方向に折り返す。向かいは「福島区」。
 

 しばらく歩くと「堂島大橋」。
 

 右に「リーガロイヤルホテル」。昭和40年、「大阪ロイヤルホテル」として開業した天皇陛下もお泊まりになる大阪を代表するホテルだ。
 

 「玉江橋」が渡る「なにわ筋」を越える。
 

 途中「大阪府師範学校跡」の碑。
 

 先ほど南に折れた「田簑橋」で左折。橋を渡る。橋を渡れば西側は「福島区」になるので東へ進む。
 

 阪神高速道路下の信号を渡り、次の路地を右へ。すぐ右手に「中央電氣倶楽部」。
 

 昭和5年に竣工したレトロビルだ。
 

 会社事務所や会議室が入居する。
 

 すぐに「四つ橋筋」に出るので左折する。目の前には「堂島アバンザ」。毎日新聞大阪本社跡地に建設された地上23階の複合テナントビルで「ジュンク堂」などが入る。
 

 正面には「毎日新聞大阪本社旧社屋玄関」が保存されている。
 

 ビル北東角の人工池上には「堂島薬師堂」。歴史的には聖徳太子の時代までさかのぼるそうだが、今はマジックミラーでできた近代的な作りになっている。
 

 その前に良い雰囲気の路地。
 

 「堂島アバンザ」の北側に約500mにわたって東西に走る「新地本通り」。
 

 高級クラブやバー、料亭などが並ぶ。
 

 

 北側に並行する通りとともに大阪で最も高級な歓楽街といわれる「北新地」だ。一般的に「新地」と呼ばれている。
 

 「大江橋北詰交差点」で「御堂筋」を渡る。
 

 「曾根崎変電所」と掲げられた古い建物。
 

 大阪市交通局の変電所で、昭和11年の建築だそうだ。
 

 変電所の裏には「大江ビルヂング」。
 

 1921(大正10)年築の地上5階地下1階のレトロビル。
 

 機動隊が警備する「アメリカ総領事館」の脇を抜けて「梅新」方向へ戻る。
 

 「曾根崎通」には横断歩道がないので地下道でくぐれば、今朝スタートした「大阪市道路元標」。午後4時25分着。本日の歩紀「36151歩」(31.08km)。結構歩いたな。中心部を外れると多くの「昭和」が残る。しかし、開発のためレトロな町並みや建造物が、次々と取り壊されていくのが残念だ。
 
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大阪24区を歩く~はじめに

2013-09-20 00:56:13 | 日記
 「大阪市」。古くは、645年「大化の改新」により難波宮が置かれ、平城京・平安京よりも前に日本の「都」となる。

 中世に入り、石山本願寺の「寺内町」として、その後、豊臣秀吉により大坂城が築かれ、江戸時代には天領となり「天下の台所」として栄える。近代に入ってからは、「商業の町」として発展するが、第二次世界大戦の空襲により焦土と化す。そして、現代。見事に復興を成し遂げた。

 人口こそ「横浜市」に抜かれたが、経済規模、総生産量のほか関東地方の各市と異なり、ほとんど「東京への依存度」がないことから日本最大の「市」と言って良いだろう。

 明治12(1879)年、郡区町村編制法の施行により「東」「西」「南」「北」の4区が置かれ、明治22(1889)年、市制施行により、この4区を中心として「大阪市」が誕生する。

 その後、分割・合区を繰り返し、現在「24区」。東京23区のような特別区ではなく、単なる地域の区分けかも知れないが、それぞれの「区」には、古くは1300年を越える歴史に刻まれた「顔」がある。そんな24区を歩く。

 区の順番は、大阪市のホームページに従ったが、訪問日は順不同である。区名の前に記したテーマは、私なりに、その区を「一言」で言い表したつもりだ。
 
 また、各区には、特色あるアーケード街が数多くあり、265万の人々の生活を支える「商店街」も訪ねて見た。東京・神戸・横浜などと違い、上町台地を除いてほとんど坂道はない。もちろんトイレ・給水・食事には困らない。ただ、大阪市は「街路樹」が少ないので、夏場は熱中症対策をしっかりと。


 今回の「歩紀」の資料として、昭文社「街ごとまっぷ大阪府~市区町村別地図(2012年版)~」を使用した。
 

 座標式の地図では、同一区内でもページが変われば地図をあちこち繰らなければならないが、この地図は、1区ごとに見開きで編集されているので、全体像をつかむのには非常に便利だ。また、このシリーズで記載されている人口などのデーターは、本書に登載されている2011年12月1日現在の「大阪府毎月推計人口」に基づくものである。
 


 野里町歩紀「摂河泉をゆく」「思いつくままに」で、大阪の町を縦横に歩いているので重複する部分もあるが、別のページとして開いたので、それぞれ参照していただければうれしいです。

 まず最初に、大阪についての基礎知識。
 
 地理的には、ほぼ正方形で、西は大阪湾に面し、東は奈良県との府県境である生駒山地まで大阪平野が続き、守口市・門真市・大東市・東大阪市・八尾市と、北には淀川が流れ、淀川北部には西淀川・淀川・東淀川の「淀川3区」のみが存在し、豊中市・吹田市・摂津市・兵庫県尼崎市と、南は大和川を隔てて堺市・松原市と接する(一部、飛び地あり)。
 

 市の中心部に、「JR大阪環状線」が東京の山手線のように一周し、JR「東海道本線」「関西本線」「阪和線」のほか、北摂・神戸方面からは「阪急」「阪神」、京都方面からは「京阪」「阪急」、河内・奈良方面からは「近鉄」「南海」、和泉・和歌山方面からは「南海」の大手私鉄と交わって「大阪(キタ)」「京橋」「鶴橋」「天王寺」の、そして「南海」「近鉄(阪神)」が交わる「難波(ミナミ)」などのターミナルを構成する。

 また、市の中心部は、ほぼ「碁盤の目」になっており、南北に走る道を「筋」、東西に走る道を「通」と呼ぶ。市営地下鉄も概ね各道路の下を走るため「碁盤の目」になっているが、各私鉄に乗り入れたり、環状線を飛び出して市外へと放射線状に伸びる。特に、地下鉄「御堂筋線」は、大阪を南北に縦断する大動脈で、「新大阪(新幹線)」「梅田」「本町(中之島)」「難波」「天王寺」という主要ターミナルを結ぶ。

 いわゆる「大阪」と呼ばれるのは、概ね「御堂筋」に沿った地域で、それ以外は、結構、閑静な住宅や古い街並み、レトロな建物、史跡などが残る。

 大阪に遊びに来る人。進学や就職で大阪に住むことになりそうな人。そして、大阪に興味がある人も。また、もし、「大阪都」となり現24区が再編成されてしまった時には、かつての「大阪」を振り返る参考としてください。

 ほな、歩きまひょ。 
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