訪問日:平成26年7月12日(土)
出 発:地下鉄「天王寺駅」
到 着:地下鉄「天王寺駅」
大正14年、旧「東区」と旧「南区」の分区再編により誕生。「日本書紀」に593年、聖徳太子により創建されたと記される日本最古の官寺「四天王寺」が区名の由来。区の大部分は上町台地上にあり、四天王寺を中心に200を超える寺院が並ぶ。寺院の数では、大阪は京都・奈良より多いそうだ。
人口約7万人。区南端は、「JR」「近鉄」「地下鉄」が交わる繁華街である。「天王寺七坂」と呼ばれる区西部は、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」で歩いたので、今回は四天王寺から北に上り、区東部を一周するコースを選んだ。天王寺区は「寺院」のほか歴史ある「学校」「病院」も多い。「宗教(心)」「教育(学)」「医学(体)」は、古代大学での「学問」の礎である。そんな「文教」の町を歩いてみよう。
地下鉄「天王寺駅」。御堂筋線と谷町線が交わる。地上にはJR「天王寺駅」。近鉄「阿部野橋駅」は、阿倍野区側になる。
ホームを上がれば「アベノ橋地下センター(あべちか)」と言われる地下街に出る。「キタ」「ミナミ」に次ぐ大阪第3の地下街であるが、先の2つに比べればかなり規模は小さい。ただ、「デパ地下」「駅地下」やビルの地階ではなく「街」として形成されている。
「天王寺駅前交差点」北東角の10番出入口を午前10時に出発する。通りの向こうにはJR「天王寺駅」が入る「天王寺ミオプラザ館」。大阪でも新しい「若者の町」だ。
少し北に上ると右に「阪和町商店街」。
80mほどのアーケード街が2本東西に走る。
公衆トイレのある商店街。
ここは「昭和」の臭いがプンプンする古い商店街だ。
全国に多くの「作られた昭和の町(横浜ラーメン博物館など)」があるが、ここは本物の昭和の町だ。
薄暗い商店街を抜けると古い町家が残る一角。
「施行院(せこういん)」。かつて「四天王寺」には「悲田院」「敬田院」「施薬院」「療病院」という「四箇院」が建てられた言われる。そのひとつ「悲田院(ひでいん)」がこの「施行院」だと言われる。
確かにこの辺りの地名は「天王寺区悲田院町」という。
施行院から東に進み南北の小さな筋を北に進む。前から気になっていた「古いアパート」。
そのアパートを過ぎると「清水の井戸」という井戸があり、その横に地蔵尊が立つ。
今回のコースは、前半、神社がないので、このお地蔵さんで今日一日の安全を祈願する。「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」。
清水の井戸前の一方通行路を左に進むとすぐに「庚申堂」の前に出る。
「庚申(こうしん)」とは、古くから伝わる疫病除けの民間信仰だ。ここのお堂は、昭和45(1970)年、大阪吹田で開催された「万博」で展示されたパビリオンを再活用しているそうだ。
庚申堂前の坂道から、この後、訪れる「四天王寺」を望む。1400年前の風景だ。
さらに北へ進むと国道25号線に出るが、その左角に「浄土真宗本願寺派超願寺」。歴史は、推古天皇の時代までさかのぼるらしい。人形浄瑠璃の開祖「竹本義太夫」の墓所として有名だ。
寺は、この「梵鐘」を残して大阪大空襲により焼失したそうだ。
ここの国道25号線は一方通行路になっており、100mほどの間隔をおいて2本走る。「超願寺」前の国道25号線を渡り、北に進む。
2本目の国道25号線を渡った所に「四天王寺南大門」。推古元(593)年に創建されたが、現在の南大門は昭和60年の再建である。
南大門はくぐらず、一旦、国道を西に進む。レトロな消防署前を通り過ぎる。
次の角を右に曲がると「石鳥居」。多くの人は、こちらから参拝するだろう。「四天王寺」の正面玄関だ。
鳥居横の石柱には「大日本佛法最初四天王寺」と刻まれている。四天王寺は、推古天皇元(593)年、聖徳太子により建立が開始された日本最古の官寺であり、和宗総本山を名乗る。
鳥居をくぐると左側に「四天王寺学園」。大正11年創設の古い私立女子中・高校であり進学校でもある。ただ、スポーツも盛んで、東京オリンピックで「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーチームのゴールドメダリストやシンクロナイズドスイミングの奥野史子選手、卓球の石川佳純選手、テコンドーの岡本依子選手など多くの女子スポーツ選手、メダリストを輩出している。
正面に見えるのは「西大門」。極楽に通ずるということから「極楽門」とも呼ばれる。
門柱には「転法輪」があり、これを回転させると功徳を積むことができると言われる。
西大門をくぐると「西重門」という門があり、ここが「中央伽藍」の入口になっている。「中門」「五重塔」「金堂」「講堂」と一直線に並び周囲を回廊が囲むのが「四天王寺式伽藍配置」と言われる日本で最も古い寺院建築様式だ。拝観料300円を支払って、まず中央伽藍を巡る。
すぐ右には「五重塔」。伽藍は、度重なる天災・火災・戦災により焼失してしまったが、昭和38年、当時の姿で再建された。
その北に「金堂」。聖徳太子のご本地仏「救世観音」をお祀りする。
そして最も北に「講堂」。「龍の井戸」越しに講堂を望む。東を冬堂(現世)、西を夏堂(来世)と呼び、現世での苦悩から人々を救い、来世へと導くという願いが込められているという。
回廊をぐるっと周り、一番南の「中門」へ。
守護神である金剛力士を祀っていることから「仁王門」とも呼ばれる。
一直線に並ぶ伽藍配置がよくわかる。
ぐるっと一周回り外へ。ちょうど講堂の裏辺りに「石舞台」。亀池という池の上に組まれた舞台で、大法要の際には「雅楽」が舞われる。
石舞台の奥には「六時礼讃堂」。国の重要文化財である。
「北鐘堂」「太鼓楼」を過ぎて東に進む。
そこには「東大門」が建つ。ここは、ちょうど裏門のような位置関係になるのでひっそりとしている。かつて「聖徳太子」というテレビドラマのロケも行われている。
太鼓楼まで戻り右へ。本坊へと向かう(入場料300円)。「五智光院」。元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
さらに進むと「極楽浄土の庭」と呼ばれる庭園がある。
2つの川と2つの池を配する大庭園で、江戸時代初期の造園と言われる。
現在の庭園は火災により焼失したものを明治時代初期に復興されたものである。
蓮池の畔には「八角亭」。明治36年、天王寺公園で開催された「第5回内国勧業博覧会」で展示されたものを移築したもので国の登録有形文化財に登録されている。
庭園を抜けると「湯屋方丈」。方丈とは、住職の居室のことだそうだ。これも元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
境内を東西に横切り、北西端の「中之門」から境内を後にして「谷町筋」へと向かう。
「谷町筋」沿いに「大阪星光学院」。昭和25年創立のカトリック系私立中・高校である。「天王寺七坂」と呼ばれる7つの坂の「清水坂」と「愛染坂」の間に位置する。
「大阪星光学院」手前の路地を入ったところに良い感じの喫茶店を発見。
さらに谷町筋を北に進む。
「大阪夕陽丘学園」。昭和14年創立の私立女学校(平成17年から共学)で高校と短期大学がある。
学園南側の300mほどの坂道は「学園坂」と呼ばれる。ただ「天王寺七坂」には数えない。
谷町筋を挟んで大阪夕陽丘学園の向かいに「吉祥寺」。
曹洞宗の寺院であるが、赤穂藩主浅野家の祈願寺で赤穂浪士四十七士の墓がある。
毎年12月14日「義士祭」が行われる。境内には、真新しいが「四十七士の像」が建つ。
「上汐(うえしお)公園」を過ぎ、上汐4・3丁目と北に上る。
広い通りを越え「上本町6丁目」の町に入る。今日は「生國魂神社」の夏祭りのようだ。道路には屋台が並んでいる。
開店前の屋台に隠れるように「CARILLON(キャリヨン)」。時間は午前11時50分。ここで昼食とする。
いわゆる「洋食屋さん」である。「ハヤシライス(880円)」を注文。サラダとともにルーとライスが別々に出てきた。
筋向かいに「やまたけ」というお肉屋さん。コロッケや串カツが有名だ。隣の「グリルやまたけ」に行列ができていた。
ここは、お持ち帰り専用。行列に並び「コロッケ(55円)」を買う。
「ホカホカ」のコロッケ。
すぐ北には「うえほんまちハイハイタウン」がそびえる。
戦後、焼け野原であった場所に再開発された商業ビルで昭和54年に完成した。地上15階地下1階で、地下は近鉄「上本町駅」や「近鉄百貨店」とつながる。飲食店や飲み屋、店舗のほか4階以上はマンションやクリニックが入る。
真正面には「近鉄百貨店上本町店」。近鉄「上本町駅」と併設されており、百貨店は昭和11年に開店したそうだ。私はかつて近鉄「奈良線」沿いに住んでいたが、昭和45年の「万博」までは、奈良線の終点が「上本町駅」であったため、よく親に連れて来てもらった。当時、難波まで行くことはなかったなぁ。アーチのある石造りのデパートで、屋上にはソフトクリームのコーンのような形のネオンと観覧車があったのを覚えている。
近鉄百貨店から千日前通を渡り東へ。「上本町6東交差点」を左折し、次の四つ角を右へ。大阪府教育会館「たかつガーデン」を過ぎて左へ曲がり、北へ進めば「東高津宮」。今日初めての神社だ。
由緒は不詳であるが「仁徳天皇」を祀り、かつては「仁徳天皇社」と呼ばれていたらしい。
東高津宮の北側は「城南寺町」といい、多くの寺院が並ぶ。
寺町の東には「府立高津高等学校」。大正7年創立の古い公立高校で、多くの学者や政治家、起業家、文化人などを輩出している。織田作之助もここの卒業生とか。
寺町の北西角には「円珠庵」。真言宗の寺院であるが、国学者でもある「契沖」が庵を結び、ここで亡くなった。墓所が境内にある。また、「釜八幡」とも呼ばれ、悪縁を絶つため霊木に多くの釜が打ち付けられている姿は不気味であるが、境内は写真撮影が禁止されている。
円珠庵の斜め向かいには「大阪明星(めいせい)学園」。明治31年に創立されたカトリック系の私立中・高校である。
さらに北に進むと「府立清水谷高等学校」。ここも明治34年創立の古い公立高校で元は女学校。多くの著名人を輩出している。
「清水谷高校」から北は「中央区」になるので東へ。ここは「空堀町」。大坂城の空堀があったことから、このように名付けられた。
所々、古い家が残る。
そして少し南に戻ると角に「高野山真言宗善福寺」というお寺が建つ。別名「どんどろ大師」と呼ばれる。
由緒は、宝亀9(778)年までさかのぼるそうだが、現在の寺院は明治に入って建立されたそうだ。かつて付近に大坂城代土井利位が居を構え、本尊である弘法大師を深く信仰したことから「土井殿の大師様」と呼ばれ、それが訛って「どんどろ大師」と呼ばれるようになったと伝わる。
ここは「大阪明星学園」の裏にあたり「心眼寺坂」という緩い上り坂。坂に沿って多くの寺院が並ぶ。
次ぎの寺院が坂名の由来となる「浄土宗心眼寺」。山門前には「真田幸村出丸城跡」碑が建つ。
「大坂冬の陣」で徳川勢に大打撃を与えた「真田幸村」の出城「真田丸」。この辺りにあったのは確かなのだが遺構が残っておらず正確な位置はわからないそうだ。そして、ここ「心眼寺」が「真田丸」推定地の一部だと言われている。確かに城のような風貌だ。
すぐに坂は平坦な道となる。
左に「陸軍省所轄地」の碑。
その後ろには「騎兵営址」碑。明治22年、ここに「騎兵第4連隊」が駐屯した。
次の辻を左へ。騎兵第4連隊は、昭和17年、堺金岡に移転し、跡地が「真田山公園」となる。
野球場やテニスコート、室内プールなどがあるスポーツ公園であるが、ここも「真田丸」の一部だろう。
公園を抜け北に戻る。そこには「市立真田山小学校」。大正11年創立の古い学校だ。もちろん「真田幸村」に因んだ校名であり、校章も「六文銭」をあしらったものらしい。
小学校の北側には「宰相山公園」。上町台地の東端である。
ここには「真田山軍人墓地が」あり、多くの英霊が眠る。
台地の斜面には「三光(さんこう)神社」。
「天照大神、月読尊、素戔嗚尊」つまり伊邪那岐命が禊ぎ払いした際に誕生した「三貴子」を祀る。
そして「真田山公園」から続くこの公園一帯も「真田丸」の一部と言われ「真田幸村像」が立つ。
像の横には、大坂城から続くと伝わる「真田の抜穴跡」が残る(実際にはつながっていない)。
宰相山公園の東には「玉造交差点」。向こうにはJR「玉造駅」が見える。玉造駅は、「天王寺区」「東成区」「中央区」の区境である。
その手前に「玉造日之出通商店街」。
「北・中・南」に分かれ450m続く。きれいに整備され「垢抜け」した雰囲気だが、かつては寄席や映画館などが並ぶ歓楽街だったそうだ。
古い看板を掲げた呉服屋さん。
やはり売りは「真田幸村」。
JR環状線に突き当たり、アーケードは終わる。
ガード下にも「昭和」が残る。
そのままガードに沿って歩く。
500mほどでJR「鶴橋駅」に出る。ホームの下に商店街が。
国道308号線が走る「鶴橋ガード下」。
ここは「東成区」「生野区」との区境。3区それぞれ特徴がある。特に「天王寺区」側の特徴は「焼肉店」だろう(「東成区編」「生野区編」参照)。
おそらく「焼肉店」の密集度では「日本一」ではないだろうか。
80m×50mの空間に20以上の焼肉屋が並ぶ。
夕暮れ時になれば、ガードの上にある近鉄「鶴橋駅」は、炭火焼肉の「臭い」と「煙」が充満する。
電車が駅に到着し、ドアが開けばアナウンスがなくとも「臭い」で鶴橋駅に着いたとわかる。向かいのホームは「煙」でかすんでいる。これは、冗談でもオーバーな表現でもない本当の話だ。行けばわかる。
鶴橋駅から南に進み「筆ヶ崎町」に入る。緩やかな坂を上っていくと右に「大阪赤十字病院」。明治42年、「日本赤十字社大阪府支部病院」として発足した、大阪でも古い病院のひとつだ。
今は、きれいに建て替えられているが、昔は古いコンクリート造りの病院で、坂道に沿って高い塀が続いていたことから横溝正史の「病院坂の首縊りの家」のような雰囲気の坂道だった。
坂の南には「別館」が当時の姿で残る。
坂を上り左へ。そこには「聖バルナバ病院」。「日本聖公会」系の産婦人科医院であるが明治6年に施療が始まったという、大阪でも古い産院である。
聖バルナバ病院から西に進むと「清風学園」。昭和7年創立の「高野山真言宗」系の私立中・高校。どうも建て替え工事中のようだ。四天王寺で毎年1月14日に行われる裸祭り「どやどや」では、ここの学生が締め込み姿で参加する。
しかし、何よりも「体操部」が有名だろう。監物永三、具志堅幸司、池谷幸雄、西川大輔などのオリンピックメダリストを排出している。
その南側には「上宮学園」。「浄土宗」系中・高校で、明治23年創立の大阪府下で最も古い私立学校である。
有名なのは「野球部」。平成元年、春夏連続で甲子園に出場し、平成5年の春の選抜では優勝している。今も「上宮太子高校(南河内郡太子町)」に引き継がれている。多くのプロ野球選手を輩出しているが「司馬遼太郎」もここの卒業生である。
グランド裏には、古い門柱が残っていた。
「市立五條小学校」の西側を抜け、さらに南に進んでいく。通りに出れば目の前に「天王寺区役所」。
平成8年6月の建築であるが、昭和2年12月に建てられた旧庁舎の面影を残している。
その東には、昭和12年に開院された「大阪けいさつ病院」。大阪府警察協会が運営する大阪府警の職域病院であり「災害拠点病院」にも指定されている。自衛隊病院と異なり誰でも受診できる一般総合病院である。
その東隣には「府立夕陽丘高等学校」。明治39年創立の古い公立高校で元女学校である。女優の有馬稲子は、ここの卒業生らしい。
公園を挟んでその東に「NTT西日本大阪病院」。昭和17年開院した「大阪逓信病院」が「日本電信電話公社」の民営化に伴い改称された。「警察病院」と「逓信病院」が並ぶところは東京の「飯田橋」と似ているなぁ。けど、今の若い人は「逓信」とか「電電公社」と言ってもわからないだろう。
NTT病院の南には、「市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」。学校自体は平成24年に開校した新しい学校だが、元々は大阪市立「天王寺商業(明治45年創立)」「市岡商業(大正8年創立)」「東商業(大正9年創立)」の3商業高校統廃合により創立され、元天王寺商業高校の敷地に建つ。
「勝山通」を越え南に進み右に曲がると「黄檗宗清寿院」。通称「南京寺」。
全国にいくつかある「三国志」の登場人物「関羽」を祀る「関帝廟」である。
すぐ南に「久保神社」。
天照大神を祀るが、四天王寺の守護神として創建された「四天王寺七宮」のひとつと言われる。夏祭りのようだ。
神社南側の寺田町公園東隣には「興國高校」。大正15年創立の古い私立高校である。野球部は、昭和43年夏の甲子園で優勝。沖縄代表「興南高校」との決勝戦では、どちらも「興」が頭文字なので、テレビの画面には「国」「南」と表示されていた。
「大道」の町を抜ける。所々、古い家が残る。
この古い建物は、キリンビールの特約店らしい。たくさんのビア樽が積み上げられていた。
この屋敷は、良い感じだな。
国道25号線を越えて南に進むと「河堀稲生神社」。「稲生」の名からもわかるとおり「宇賀魂大神(お稲荷さん)」を祀る。
景行天皇年間(西暦70年~130年)の創建と伝わるが、この神社も「四天王寺七宮」のひとつと言われる。四天王寺七宮とは、ここのほか「小儀神社」「土塔神社」「久保神社」「大江神社」「堀越神社」「上之宮神社」「今宮戎神社」となぜか8社を指す。
ここも夏祭りのようだ。
ゴールも近い。神社からさらに南に進み「玉造筋」を越える。そこには「大阪教育大学」。明治6年に創設された「大阪師範学校」を前身とし、戦後の新制「大阪学芸大学」を経て現在に至る国立大学である。
平成6年、大阪府柏原市に開設された「柏原キャンパス」に大学本部機能を移し、旧本校跡地である「天王寺キャンパス」は、平成12年、新校舎を「放送大学」と合築。
付近には、大手の予備校や専門学校が並ぶ。
玉造筋から1本南に入った路地を「あべのハルカス」を眺めながら西に進む。
500mほどで、今朝、出発した「天王寺駅前交差点」。午後3時50分、着。本日の歩紀「24300歩」(20.92km)。寺院のほか古い「学校」「病院」が多いということがわかっていただけと思う。
出 発:地下鉄「天王寺駅」
到 着:地下鉄「天王寺駅」
大正14年、旧「東区」と旧「南区」の分区再編により誕生。「日本書紀」に593年、聖徳太子により創建されたと記される日本最古の官寺「四天王寺」が区名の由来。区の大部分は上町台地上にあり、四天王寺を中心に200を超える寺院が並ぶ。寺院の数では、大阪は京都・奈良より多いそうだ。
人口約7万人。区南端は、「JR」「近鉄」「地下鉄」が交わる繁華街である。「天王寺七坂」と呼ばれる区西部は、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」で歩いたので、今回は四天王寺から北に上り、区東部を一周するコースを選んだ。天王寺区は「寺院」のほか歴史ある「学校」「病院」も多い。「宗教(心)」「教育(学)」「医学(体)」は、古代大学での「学問」の礎である。そんな「文教」の町を歩いてみよう。
地下鉄「天王寺駅」。御堂筋線と谷町線が交わる。地上にはJR「天王寺駅」。近鉄「阿部野橋駅」は、阿倍野区側になる。
ホームを上がれば「アベノ橋地下センター(あべちか)」と言われる地下街に出る。「キタ」「ミナミ」に次ぐ大阪第3の地下街であるが、先の2つに比べればかなり規模は小さい。ただ、「デパ地下」「駅地下」やビルの地階ではなく「街」として形成されている。
「天王寺駅前交差点」北東角の10番出入口を午前10時に出発する。通りの向こうにはJR「天王寺駅」が入る「天王寺ミオプラザ館」。大阪でも新しい「若者の町」だ。
少し北に上ると右に「阪和町商店街」。
80mほどのアーケード街が2本東西に走る。
公衆トイレのある商店街。
ここは「昭和」の臭いがプンプンする古い商店街だ。
全国に多くの「作られた昭和の町(横浜ラーメン博物館など)」があるが、ここは本物の昭和の町だ。
薄暗い商店街を抜けると古い町家が残る一角。
「施行院(せこういん)」。かつて「四天王寺」には「悲田院」「敬田院」「施薬院」「療病院」という「四箇院」が建てられた言われる。そのひとつ「悲田院(ひでいん)」がこの「施行院」だと言われる。
確かにこの辺りの地名は「天王寺区悲田院町」という。
施行院から東に進み南北の小さな筋を北に進む。前から気になっていた「古いアパート」。
そのアパートを過ぎると「清水の井戸」という井戸があり、その横に地蔵尊が立つ。
今回のコースは、前半、神社がないので、このお地蔵さんで今日一日の安全を祈願する。「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」。
清水の井戸前の一方通行路を左に進むとすぐに「庚申堂」の前に出る。
「庚申(こうしん)」とは、古くから伝わる疫病除けの民間信仰だ。ここのお堂は、昭和45(1970)年、大阪吹田で開催された「万博」で展示されたパビリオンを再活用しているそうだ。
庚申堂前の坂道から、この後、訪れる「四天王寺」を望む。1400年前の風景だ。
さらに北へ進むと国道25号線に出るが、その左角に「浄土真宗本願寺派超願寺」。歴史は、推古天皇の時代までさかのぼるらしい。人形浄瑠璃の開祖「竹本義太夫」の墓所として有名だ。
寺は、この「梵鐘」を残して大阪大空襲により焼失したそうだ。
ここの国道25号線は一方通行路になっており、100mほどの間隔をおいて2本走る。「超願寺」前の国道25号線を渡り、北に進む。
2本目の国道25号線を渡った所に「四天王寺南大門」。推古元(593)年に創建されたが、現在の南大門は昭和60年の再建である。
南大門はくぐらず、一旦、国道を西に進む。レトロな消防署前を通り過ぎる。
次の角を右に曲がると「石鳥居」。多くの人は、こちらから参拝するだろう。「四天王寺」の正面玄関だ。
鳥居横の石柱には「大日本佛法最初四天王寺」と刻まれている。四天王寺は、推古天皇元(593)年、聖徳太子により建立が開始された日本最古の官寺であり、和宗総本山を名乗る。
鳥居をくぐると左側に「四天王寺学園」。大正11年創設の古い私立女子中・高校であり進学校でもある。ただ、スポーツも盛んで、東京オリンピックで「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーチームのゴールドメダリストやシンクロナイズドスイミングの奥野史子選手、卓球の石川佳純選手、テコンドーの岡本依子選手など多くの女子スポーツ選手、メダリストを輩出している。
正面に見えるのは「西大門」。極楽に通ずるということから「極楽門」とも呼ばれる。
門柱には「転法輪」があり、これを回転させると功徳を積むことができると言われる。
西大門をくぐると「西重門」という門があり、ここが「中央伽藍」の入口になっている。「中門」「五重塔」「金堂」「講堂」と一直線に並び周囲を回廊が囲むのが「四天王寺式伽藍配置」と言われる日本で最も古い寺院建築様式だ。拝観料300円を支払って、まず中央伽藍を巡る。
すぐ右には「五重塔」。伽藍は、度重なる天災・火災・戦災により焼失してしまったが、昭和38年、当時の姿で再建された。
その北に「金堂」。聖徳太子のご本地仏「救世観音」をお祀りする。
そして最も北に「講堂」。「龍の井戸」越しに講堂を望む。東を冬堂(現世)、西を夏堂(来世)と呼び、現世での苦悩から人々を救い、来世へと導くという願いが込められているという。
回廊をぐるっと周り、一番南の「中門」へ。
守護神である金剛力士を祀っていることから「仁王門」とも呼ばれる。
一直線に並ぶ伽藍配置がよくわかる。
ぐるっと一周回り外へ。ちょうど講堂の裏辺りに「石舞台」。亀池という池の上に組まれた舞台で、大法要の際には「雅楽」が舞われる。
石舞台の奥には「六時礼讃堂」。国の重要文化財である。
「北鐘堂」「太鼓楼」を過ぎて東に進む。
そこには「東大門」が建つ。ここは、ちょうど裏門のような位置関係になるのでひっそりとしている。かつて「聖徳太子」というテレビドラマのロケも行われている。
太鼓楼まで戻り右へ。本坊へと向かう(入場料300円)。「五智光院」。元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
さらに進むと「極楽浄土の庭」と呼ばれる庭園がある。
2つの川と2つの池を配する大庭園で、江戸時代初期の造園と言われる。
現在の庭園は火災により焼失したものを明治時代初期に復興されたものである。
蓮池の畔には「八角亭」。明治36年、天王寺公園で開催された「第5回内国勧業博覧会」で展示されたものを移築したもので国の登録有形文化財に登録されている。
庭園を抜けると「湯屋方丈」。方丈とは、住職の居室のことだそうだ。これも元和9(1623)年に再建された「重要文化財」。
境内を東西に横切り、北西端の「中之門」から境内を後にして「谷町筋」へと向かう。
「谷町筋」沿いに「大阪星光学院」。昭和25年創立のカトリック系私立中・高校である。「天王寺七坂」と呼ばれる7つの坂の「清水坂」と「愛染坂」の間に位置する。
「大阪星光学院」手前の路地を入ったところに良い感じの喫茶店を発見。
さらに谷町筋を北に進む。
「大阪夕陽丘学園」。昭和14年創立の私立女学校(平成17年から共学)で高校と短期大学がある。
学園南側の300mほどの坂道は「学園坂」と呼ばれる。ただ「天王寺七坂」には数えない。
谷町筋を挟んで大阪夕陽丘学園の向かいに「吉祥寺」。
曹洞宗の寺院であるが、赤穂藩主浅野家の祈願寺で赤穂浪士四十七士の墓がある。
毎年12月14日「義士祭」が行われる。境内には、真新しいが「四十七士の像」が建つ。
「上汐(うえしお)公園」を過ぎ、上汐4・3丁目と北に上る。
広い通りを越え「上本町6丁目」の町に入る。今日は「生國魂神社」の夏祭りのようだ。道路には屋台が並んでいる。
開店前の屋台に隠れるように「CARILLON(キャリヨン)」。時間は午前11時50分。ここで昼食とする。
いわゆる「洋食屋さん」である。「ハヤシライス(880円)」を注文。サラダとともにルーとライスが別々に出てきた。
筋向かいに「やまたけ」というお肉屋さん。コロッケや串カツが有名だ。隣の「グリルやまたけ」に行列ができていた。
ここは、お持ち帰り専用。行列に並び「コロッケ(55円)」を買う。
「ホカホカ」のコロッケ。
すぐ北には「うえほんまちハイハイタウン」がそびえる。
戦後、焼け野原であった場所に再開発された商業ビルで昭和54年に完成した。地上15階地下1階で、地下は近鉄「上本町駅」や「近鉄百貨店」とつながる。飲食店や飲み屋、店舗のほか4階以上はマンションやクリニックが入る。
真正面には「近鉄百貨店上本町店」。近鉄「上本町駅」と併設されており、百貨店は昭和11年に開店したそうだ。私はかつて近鉄「奈良線」沿いに住んでいたが、昭和45年の「万博」までは、奈良線の終点が「上本町駅」であったため、よく親に連れて来てもらった。当時、難波まで行くことはなかったなぁ。アーチのある石造りのデパートで、屋上にはソフトクリームのコーンのような形のネオンと観覧車があったのを覚えている。
近鉄百貨店から千日前通を渡り東へ。「上本町6東交差点」を左折し、次の四つ角を右へ。大阪府教育会館「たかつガーデン」を過ぎて左へ曲がり、北へ進めば「東高津宮」。今日初めての神社だ。
由緒は不詳であるが「仁徳天皇」を祀り、かつては「仁徳天皇社」と呼ばれていたらしい。
東高津宮の北側は「城南寺町」といい、多くの寺院が並ぶ。
寺町の東には「府立高津高等学校」。大正7年創立の古い公立高校で、多くの学者や政治家、起業家、文化人などを輩出している。織田作之助もここの卒業生とか。
寺町の北西角には「円珠庵」。真言宗の寺院であるが、国学者でもある「契沖」が庵を結び、ここで亡くなった。墓所が境内にある。また、「釜八幡」とも呼ばれ、悪縁を絶つため霊木に多くの釜が打ち付けられている姿は不気味であるが、境内は写真撮影が禁止されている。
円珠庵の斜め向かいには「大阪明星(めいせい)学園」。明治31年に創立されたカトリック系の私立中・高校である。
さらに北に進むと「府立清水谷高等学校」。ここも明治34年創立の古い公立高校で元は女学校。多くの著名人を輩出している。
「清水谷高校」から北は「中央区」になるので東へ。ここは「空堀町」。大坂城の空堀があったことから、このように名付けられた。
所々、古い家が残る。
そして少し南に戻ると角に「高野山真言宗善福寺」というお寺が建つ。別名「どんどろ大師」と呼ばれる。
由緒は、宝亀9(778)年までさかのぼるそうだが、現在の寺院は明治に入って建立されたそうだ。かつて付近に大坂城代土井利位が居を構え、本尊である弘法大師を深く信仰したことから「土井殿の大師様」と呼ばれ、それが訛って「どんどろ大師」と呼ばれるようになったと伝わる。
ここは「大阪明星学園」の裏にあたり「心眼寺坂」という緩い上り坂。坂に沿って多くの寺院が並ぶ。
次ぎの寺院が坂名の由来となる「浄土宗心眼寺」。山門前には「真田幸村出丸城跡」碑が建つ。
「大坂冬の陣」で徳川勢に大打撃を与えた「真田幸村」の出城「真田丸」。この辺りにあったのは確かなのだが遺構が残っておらず正確な位置はわからないそうだ。そして、ここ「心眼寺」が「真田丸」推定地の一部だと言われている。確かに城のような風貌だ。
すぐに坂は平坦な道となる。
左に「陸軍省所轄地」の碑。
その後ろには「騎兵営址」碑。明治22年、ここに「騎兵第4連隊」が駐屯した。
次の辻を左へ。騎兵第4連隊は、昭和17年、堺金岡に移転し、跡地が「真田山公園」となる。
野球場やテニスコート、室内プールなどがあるスポーツ公園であるが、ここも「真田丸」の一部だろう。
公園を抜け北に戻る。そこには「市立真田山小学校」。大正11年創立の古い学校だ。もちろん「真田幸村」に因んだ校名であり、校章も「六文銭」をあしらったものらしい。
小学校の北側には「宰相山公園」。上町台地の東端である。
ここには「真田山軍人墓地が」あり、多くの英霊が眠る。
台地の斜面には「三光(さんこう)神社」。
「天照大神、月読尊、素戔嗚尊」つまり伊邪那岐命が禊ぎ払いした際に誕生した「三貴子」を祀る。
そして「真田山公園」から続くこの公園一帯も「真田丸」の一部と言われ「真田幸村像」が立つ。
像の横には、大坂城から続くと伝わる「真田の抜穴跡」が残る(実際にはつながっていない)。
宰相山公園の東には「玉造交差点」。向こうにはJR「玉造駅」が見える。玉造駅は、「天王寺区」「東成区」「中央区」の区境である。
その手前に「玉造日之出通商店街」。
「北・中・南」に分かれ450m続く。きれいに整備され「垢抜け」した雰囲気だが、かつては寄席や映画館などが並ぶ歓楽街だったそうだ。
古い看板を掲げた呉服屋さん。
やはり売りは「真田幸村」。
JR環状線に突き当たり、アーケードは終わる。
ガード下にも「昭和」が残る。
そのままガードに沿って歩く。
500mほどでJR「鶴橋駅」に出る。ホームの下に商店街が。
国道308号線が走る「鶴橋ガード下」。
ここは「東成区」「生野区」との区境。3区それぞれ特徴がある。特に「天王寺区」側の特徴は「焼肉店」だろう(「東成区編」「生野区編」参照)。
おそらく「焼肉店」の密集度では「日本一」ではないだろうか。
80m×50mの空間に20以上の焼肉屋が並ぶ。
夕暮れ時になれば、ガードの上にある近鉄「鶴橋駅」は、炭火焼肉の「臭い」と「煙」が充満する。
電車が駅に到着し、ドアが開けばアナウンスがなくとも「臭い」で鶴橋駅に着いたとわかる。向かいのホームは「煙」でかすんでいる。これは、冗談でもオーバーな表現でもない本当の話だ。行けばわかる。
鶴橋駅から南に進み「筆ヶ崎町」に入る。緩やかな坂を上っていくと右に「大阪赤十字病院」。明治42年、「日本赤十字社大阪府支部病院」として発足した、大阪でも古い病院のひとつだ。
今は、きれいに建て替えられているが、昔は古いコンクリート造りの病院で、坂道に沿って高い塀が続いていたことから横溝正史の「病院坂の首縊りの家」のような雰囲気の坂道だった。
坂の南には「別館」が当時の姿で残る。
坂を上り左へ。そこには「聖バルナバ病院」。「日本聖公会」系の産婦人科医院であるが明治6年に施療が始まったという、大阪でも古い産院である。
聖バルナバ病院から西に進むと「清風学園」。昭和7年創立の「高野山真言宗」系の私立中・高校。どうも建て替え工事中のようだ。四天王寺で毎年1月14日に行われる裸祭り「どやどや」では、ここの学生が締め込み姿で参加する。
しかし、何よりも「体操部」が有名だろう。監物永三、具志堅幸司、池谷幸雄、西川大輔などのオリンピックメダリストを排出している。
その南側には「上宮学園」。「浄土宗」系中・高校で、明治23年創立の大阪府下で最も古い私立学校である。
有名なのは「野球部」。平成元年、春夏連続で甲子園に出場し、平成5年の春の選抜では優勝している。今も「上宮太子高校(南河内郡太子町)」に引き継がれている。多くのプロ野球選手を輩出しているが「司馬遼太郎」もここの卒業生である。
グランド裏には、古い門柱が残っていた。
「市立五條小学校」の西側を抜け、さらに南に進んでいく。通りに出れば目の前に「天王寺区役所」。
平成8年6月の建築であるが、昭和2年12月に建てられた旧庁舎の面影を残している。
その東には、昭和12年に開院された「大阪けいさつ病院」。大阪府警察協会が運営する大阪府警の職域病院であり「災害拠点病院」にも指定されている。自衛隊病院と異なり誰でも受診できる一般総合病院である。
その東隣には「府立夕陽丘高等学校」。明治39年創立の古い公立高校で元女学校である。女優の有馬稲子は、ここの卒業生らしい。
公園を挟んでその東に「NTT西日本大阪病院」。昭和17年開院した「大阪逓信病院」が「日本電信電話公社」の民営化に伴い改称された。「警察病院」と「逓信病院」が並ぶところは東京の「飯田橋」と似ているなぁ。けど、今の若い人は「逓信」とか「電電公社」と言ってもわからないだろう。
NTT病院の南には、「市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」。学校自体は平成24年に開校した新しい学校だが、元々は大阪市立「天王寺商業(明治45年創立)」「市岡商業(大正8年創立)」「東商業(大正9年創立)」の3商業高校統廃合により創立され、元天王寺商業高校の敷地に建つ。
「勝山通」を越え南に進み右に曲がると「黄檗宗清寿院」。通称「南京寺」。
全国にいくつかある「三国志」の登場人物「関羽」を祀る「関帝廟」である。
すぐ南に「久保神社」。
天照大神を祀るが、四天王寺の守護神として創建された「四天王寺七宮」のひとつと言われる。夏祭りのようだ。
神社南側の寺田町公園東隣には「興國高校」。大正15年創立の古い私立高校である。野球部は、昭和43年夏の甲子園で優勝。沖縄代表「興南高校」との決勝戦では、どちらも「興」が頭文字なので、テレビの画面には「国」「南」と表示されていた。
「大道」の町を抜ける。所々、古い家が残る。
この古い建物は、キリンビールの特約店らしい。たくさんのビア樽が積み上げられていた。
この屋敷は、良い感じだな。
国道25号線を越えて南に進むと「河堀稲生神社」。「稲生」の名からもわかるとおり「宇賀魂大神(お稲荷さん)」を祀る。
景行天皇年間(西暦70年~130年)の創建と伝わるが、この神社も「四天王寺七宮」のひとつと言われる。四天王寺七宮とは、ここのほか「小儀神社」「土塔神社」「久保神社」「大江神社」「堀越神社」「上之宮神社」「今宮戎神社」となぜか8社を指す。
ここも夏祭りのようだ。
ゴールも近い。神社からさらに南に進み「玉造筋」を越える。そこには「大阪教育大学」。明治6年に創設された「大阪師範学校」を前身とし、戦後の新制「大阪学芸大学」を経て現在に至る国立大学である。
平成6年、大阪府柏原市に開設された「柏原キャンパス」に大学本部機能を移し、旧本校跡地である「天王寺キャンパス」は、平成12年、新校舎を「放送大学」と合築。
付近には、大手の予備校や専門学校が並ぶ。
玉造筋から1本南に入った路地を「あべのハルカス」を眺めながら西に進む。
500mほどで、今朝、出発した「天王寺駅前交差点」。午後3時50分、着。本日の歩紀「24300歩」(20.92km)。寺院のほか古い「学校」「病院」が多いということがわかっていただけと思う。