訪問日:平成27年1月1日(木)
平成27年元旦。今年も東大阪市の実家で新年を迎えた。今年は「石切神社」「枚岡神社」に加え「瓢箪山稲荷神社」の三社と「氏神様」二社の五社詣り。そして幼い頃の思い出の地「花園商店街」を歩いてみよう。
朝から御神酒を2合ほど飲み、ちょっと「お屠蘇気分」で実家を正午丁度に出発する。まず最初に「氏神様」である「大津神社」にお参り。鳥居横の由緒によると式内社であるから1000年を越える古社。御祭神は古社故に諸説あるが、中臣氏を祖とする「藤原氏」の祖神といわれる「天児屋命(あめのこやねのみこと)」の乳母「津速比賣(つはやひめ)」といわれる。
「大津」という社名から、当時は「河内湖」と呼ばれる湖沼地域に祀られた神様だったのかも知れない。そんな由緒ある神社とも知らず、子どもの頃は「お宮さん」と呼ばれる格好の遊び場だった。
神社西側の境内外にある「古水走太鼓台格納庫」。ここに村の太鼓台が収まっていた。しかし、格納庫前には柵があり、今は使われていないのだろうか。
そして社殿向かって右側に新しい「古水走太鼓台格納庫」。子どもの頃ここは、公民館であり、子供会の催し物や映画会が開催されていた。当時は、もっと広いと感じていたのだが。
東側の出入口から境内を後にする。この辺りは、まだ田畑が残っている。
「中央大通」をひたすら東に歩き「旧河内市」と「旧枚岡市」の市境であった「恩智(おんち)川」を越える。左は「阪奈トンネル」に入る直前の「阪神高速道路東大阪線」。真上は、同じく「生駒トンネル」に入る直前の「近鉄けいはんな線」。大阪市営地下鉄「中央線」が乗り入れている。後方に見えるのは「生駒山地」。
「被服団地前交差点」で「大阪外環状線」と呼ばれる「国道170号線」を渡る。
500mほどで近鉄「新石切駅」が左に見える。ガード下を「旧国道170号線」がくぐる。この道は、かつての「東高野街道」。
線路に沿って歩けば「石切神社」前に出るのだが、斜め右の道にそれる。それは「一の鳥居」をくぐるためだ。
「一の鳥居」をくぐって150mほど歩くと、先ほどの「新石切駅」前からの延長線と交わり、そこには「二の鳥居」がそびえる。参拝者の車が長蛇の列をなし、ガードマンが交通整理をしている。元旦の風景だ。
そして「二の鳥居」の手前からは参拝客の列。遠方に「絵馬殿」を望む。
「絵馬殿」をくぐる。一昨年、参拝したときは1月2日だったが、参拝客の列は「絵馬殿」をくぐった所から始まっていた。やはり元旦はすごいな。
「三の鳥居」前で「石切参道商店街」と交わる。すごい人手だ。
「石切神社」。正式名は「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」といい、もうひとりの「天孫」といわれる「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とその御子「可美真手命(うましまでのみこと)」を祀る。今年も参拝は無理だな。
しかし、今年もしっかり「御神酒」は頂く。
たくさんの参拝客をかき分け、露店の間を西へ抜ける。
突き当たりを左に曲がり少し進むと「石切藤地蔵尊」の前に出るので、近鉄をくぐり右へ。
「新石切駅」前で「旧国道170号線」を左折、南へ進む。
この道は、先ほども述べたように「東高野街道」なのだが、街道らしい雰囲気はない。「東大阪市立枚岡西小学校」手前で左に曲がり、ひとつ東(山手)の道を進む。
途中、「箱殿東交差点」の南東角には地蔵堂が。やはり、この道が本来の街道筋なのだろうか。
5分ほどで「鳥居町」という町に入る。
2~3分で、左に町名の由来となった「枚岡神社一の鳥居」がそびえる。鳥居をくぐり山に向かって歩く。
10分ほどで近鉄奈良線「枚岡駅」南側の踏切を渡って左に。
改札口を過ぎれば、すぐ前に「枚岡神社」。「枚岡神社」のすごいところは「河内一の宮」「旧官幣大社」という古社でありながら「駅から歩いて0歩」というところだ。駅階段の目の前が神域である。
世界遺産、奈良の「春日大社」の勧請元であることから「元春日社」とも呼ばれ、春日大社と同じ「天児屋神」「比賣神(ひめがみ)」「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」「経津主神(ふつぬしのかみ)」の「春日神」を祀る。中臣氏(藤原氏の祖)と関係の深い神社だ。
「石切神社」とは異なり神々しい雰囲気が漂うが、ここも「二の鳥居」をくぐった所あたりから行列が始まる。
拝殿までさらに列は続く。一昨年は、行列もなく参拝できたのだが、今年は参拝を断念。しかし、ここでも「御神酒」だけは頂く。
「二の鳥居」前を左に曲がりしばらく山沿いに歩くが、3~4分ほどで狭い路地を右折し、大阪平野を眺めながら近鉄の踏切を渡る。結構、眺めは良い。
細い道を下っていくと10分ほどで最初にくぐった「一の鳥居」のすぐ南側に出る。そこには地蔵尊。やはり、この道が本来の街道筋なのだろう。
南に進み、次の四つ角を右折。すぐに「旧国道170号線」に出る。その角には「旧枚岡市役所」。著名な建築家による設計らしい。
昭和39年に建てられ、その後、昭和42年の「布施」「河内」「枚岡」3市合併により「東大阪市役所東支所」となり、現在は「東大阪市旭町庁舎」として図書館などが入る。
庁舎前には「東高野街道」の案内板。
その「東高野街道」を南に進む。
すぐに「サンロード瓢箪山」というアーケード街になり、ここからは歩行者専用となる。
220mほどのアーケードを過ぎれば、近鉄奈良線「瓢箪山駅」前の踏切でアーケードは途切れ、踏切を渡れば「ジンジャモール」と名を変える。
「瓢箪山?」「ジンジャ(神社)?」。そう、120mほどのアーケードを抜けた左側に「瓢箪山稲荷神社一の鳥居」が立つ。「そびえる」というほどの大きさではない。
ここも「二の鳥居」手前から行列。参拝を断念する。結局「三社」での参拝はできなかったが「氏神様」でしっかりと参拝したので大丈夫だ。日本人として最も「根本」となる神様は、神社の大きさや「格」ではなく「氏神様」なのである。後は「伊勢神宮」を除いて崇敬するかしないかの問題なのだ。
「瓢箪山稲荷神社」は「稲荷社」なので「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」いわゆる「お稲荷さん」を祀る神社である。
しかし、元は本殿の背後にある「大塚」「鬼塚」という二つの塚からなる「瓢箪山古墳」と呼ばれる「双円墳」に天正11(1584)年、豊臣秀吉が大坂城築城に際して「稲荷社」を勧請したのが始まりと伝わる。
参拝もせず午後2時10分、近鉄「瓢箪山駅」に着。ここから実家まで歩いて30分くらいだろうか。しかし、ここをゴールとせず、私が小さい頃よく訪れた「花園商店街」に言ってみることにする。歩いてもいいのだが「お屠蘇」と「御神酒」でちょっとほろ酔い気分なので近鉄電車に乗ろう。「瓢箪山駅」から各駅停車で二駅(150円、約5分)。近鉄「花園駅」。各地にある「花園駅」と区別するため、正式には「河内花園駅」という。以前は、上り下りが別改札の小さな平屋駅だったが、今は高架のきれいな駅舎に生まれ変わっていた。
「花園商店街」は、私が通っていた小学校校区内唯一の商店街であり、私は物心ついた頃から結婚して現住所に引っ越しするまで約30年「この地」で育った。駅南側の商店街は、高架化によって寂れてしまっている。右の「梅の木」という居酒屋には、社会人になって何回か来たことがある。その左の青いテントはドイツ文字で「K」という珈琲店で、一度、店に入りコーヒーを注文した後、財布を忘れたことに気づき「マスター。財布忘れた。コーヒーええわ」と断ったところ「勘定はいつでもええから、ゆっくりコーヒー飲んでいって」と言われた。
高架化されたのは最近なのだろう。「鉄路」がまだ残っている。
ゴチャゴチャしていた駅前には、かつて「河内東映」という映画館やパチンコ屋さんが並び、また「陶山(すやま)」という医師一族が「内科」「眼科」「歯科」「産婦人科」の個人病院を開業しており、私も「産婦人科」以外の病院のお世話になった。今は、きれいなバスローターリーと店舗付のマンションになっている。
踏切を挟んで駅北側にもアーケード街が続いていたのだが、今はマンション1階のショッピングセンターに生まれ変わっていた。
マンション下をくぐり抜けるとアーケードが残っていた。かつての「花園商店街」だ。右の「リーベ」という喫茶店(青い建物)は昔からあったが、アーケード街の中ほどにあったと記憶している。アーケードの3分の1ほどが撤去されたのだろう。
アーケードに入ってすぐ左に「和横丁」という路地が。確か、商店街の北側には小さな路地がいくつもあり、古い民家や井戸を囲んだ長屋があった。
今は「町家」を利用した居酒屋になっている。
以前歩いた「谷町6丁目」の小さな門をくぐった奥にある路地のような作りだ(大阪24区を歩く~「中央区」編参照)。
商店街の中ほどにあった「林文進堂」という本屋さんはもうない。校区内唯一の書店で当時、ご主人が最新鋭の「ラビット」という大型スクーターで雑誌を宅配していたのだが………。「英田」。かつての「河内國英田村」。「あかだ」と読む。私の母校も「英田小学校・中学校」だ。
ここの「お肉屋さん」は当時からあった。店先で揚げたての「コロッケ」を売っていた。ただ、その頃の私たちは、コロッケを買えるほどの現金は持っていなかった。晩ご飯のおかずとして何度か食べたくらいだ。
この商店街は、山(東)側に向かって下り坂になっている。かつての内海である「河内湖」の名残だろう。
その坂道の先には、たくさんの友達が住んでいたのだが…。
150mほどでアーケードを抜ける。その先には地蔵尊が。
この「お風呂屋さん」も自販機と共に廃業しているようだ。
次の四つ辻を左に曲がる。そうそうこんな路地が続いていた。
突き当たりのお寺の手前に石の道標が。「右 瓢箪山」の「瓢箪」が絵になっている。
ここを右折し、ちょうどお寺の向こう側に「春日神社」。この辺りにはいくつか春日神社があるので「吉田春日神社」と呼ばれている。
実は私の実家の「氏神様」は、一番最初にお参りした「大津神社」なのだが、そこには神職さんがいないので、お札はここ「春日神社」で授かるのだ。最後に「春日神社」に詣る。
享保5(1720)年に建てられた本殿は、東大阪市の有形文化財に指定されており「春日」の名の通り「春日大社」の御祭神を勧請したもので「枚岡神社」「春日大社」同様、「春日神」の四神を御祭神とする。
さすが「ラグビーのまち花園」。本殿前には木で作られたラグビーボールが奉納されていた。
奉賛会名簿には、お互い「エエ年」になった同級生の名前が2、3見られた。
以前は、お堀に囲まれた神社だったのだが、今は埋め立てられ住宅や駐車場になっているようだ。
「吉田」の町を抜ける。ここから実家まで2~30分だが、ちょっと寄り道をする。
その先は「花園ラグビー場」。高校ラグビーの「甲子園」「聖地」と呼ばれている。
毎年、元旦には「全国高校ラグビー大会」が開催される。ここから歩いて実家へ。午後3時20分着。本日の歩紀「17208歩」(15.10km)。改めて「徒歩圏内に素晴らしい神社があるな」と感じたが、それより昔懐かしい「古里」再訪の「歩紀」だった。
平成27年元旦。今年も東大阪市の実家で新年を迎えた。今年は「石切神社」「枚岡神社」に加え「瓢箪山稲荷神社」の三社と「氏神様」二社の五社詣り。そして幼い頃の思い出の地「花園商店街」を歩いてみよう。
朝から御神酒を2合ほど飲み、ちょっと「お屠蘇気分」で実家を正午丁度に出発する。まず最初に「氏神様」である「大津神社」にお参り。鳥居横の由緒によると式内社であるから1000年を越える古社。御祭神は古社故に諸説あるが、中臣氏を祖とする「藤原氏」の祖神といわれる「天児屋命(あめのこやねのみこと)」の乳母「津速比賣(つはやひめ)」といわれる。
「大津」という社名から、当時は「河内湖」と呼ばれる湖沼地域に祀られた神様だったのかも知れない。そんな由緒ある神社とも知らず、子どもの頃は「お宮さん」と呼ばれる格好の遊び場だった。
神社西側の境内外にある「古水走太鼓台格納庫」。ここに村の太鼓台が収まっていた。しかし、格納庫前には柵があり、今は使われていないのだろうか。
そして社殿向かって右側に新しい「古水走太鼓台格納庫」。子どもの頃ここは、公民館であり、子供会の催し物や映画会が開催されていた。当時は、もっと広いと感じていたのだが。
東側の出入口から境内を後にする。この辺りは、まだ田畑が残っている。
「中央大通」をひたすら東に歩き「旧河内市」と「旧枚岡市」の市境であった「恩智(おんち)川」を越える。左は「阪奈トンネル」に入る直前の「阪神高速道路東大阪線」。真上は、同じく「生駒トンネル」に入る直前の「近鉄けいはんな線」。大阪市営地下鉄「中央線」が乗り入れている。後方に見えるのは「生駒山地」。
「被服団地前交差点」で「大阪外環状線」と呼ばれる「国道170号線」を渡る。
500mほどで近鉄「新石切駅」が左に見える。ガード下を「旧国道170号線」がくぐる。この道は、かつての「東高野街道」。
線路に沿って歩けば「石切神社」前に出るのだが、斜め右の道にそれる。それは「一の鳥居」をくぐるためだ。
「一の鳥居」をくぐって150mほど歩くと、先ほどの「新石切駅」前からの延長線と交わり、そこには「二の鳥居」がそびえる。参拝者の車が長蛇の列をなし、ガードマンが交通整理をしている。元旦の風景だ。
そして「二の鳥居」の手前からは参拝客の列。遠方に「絵馬殿」を望む。
「絵馬殿」をくぐる。一昨年、参拝したときは1月2日だったが、参拝客の列は「絵馬殿」をくぐった所から始まっていた。やはり元旦はすごいな。
「三の鳥居」前で「石切参道商店街」と交わる。すごい人手だ。
「石切神社」。正式名は「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」といい、もうひとりの「天孫」といわれる「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とその御子「可美真手命(うましまでのみこと)」を祀る。今年も参拝は無理だな。
しかし、今年もしっかり「御神酒」は頂く。
たくさんの参拝客をかき分け、露店の間を西へ抜ける。
突き当たりを左に曲がり少し進むと「石切藤地蔵尊」の前に出るので、近鉄をくぐり右へ。
「新石切駅」前で「旧国道170号線」を左折、南へ進む。
この道は、先ほども述べたように「東高野街道」なのだが、街道らしい雰囲気はない。「東大阪市立枚岡西小学校」手前で左に曲がり、ひとつ東(山手)の道を進む。
途中、「箱殿東交差点」の南東角には地蔵堂が。やはり、この道が本来の街道筋なのだろうか。
5分ほどで「鳥居町」という町に入る。
2~3分で、左に町名の由来となった「枚岡神社一の鳥居」がそびえる。鳥居をくぐり山に向かって歩く。
10分ほどで近鉄奈良線「枚岡駅」南側の踏切を渡って左に。
改札口を過ぎれば、すぐ前に「枚岡神社」。「枚岡神社」のすごいところは「河内一の宮」「旧官幣大社」という古社でありながら「駅から歩いて0歩」というところだ。駅階段の目の前が神域である。
世界遺産、奈良の「春日大社」の勧請元であることから「元春日社」とも呼ばれ、春日大社と同じ「天児屋神」「比賣神(ひめがみ)」「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」「経津主神(ふつぬしのかみ)」の「春日神」を祀る。中臣氏(藤原氏の祖)と関係の深い神社だ。
「石切神社」とは異なり神々しい雰囲気が漂うが、ここも「二の鳥居」をくぐった所あたりから行列が始まる。
拝殿までさらに列は続く。一昨年は、行列もなく参拝できたのだが、今年は参拝を断念。しかし、ここでも「御神酒」だけは頂く。
「二の鳥居」前を左に曲がりしばらく山沿いに歩くが、3~4分ほどで狭い路地を右折し、大阪平野を眺めながら近鉄の踏切を渡る。結構、眺めは良い。
細い道を下っていくと10分ほどで最初にくぐった「一の鳥居」のすぐ南側に出る。そこには地蔵尊。やはり、この道が本来の街道筋なのだろう。
南に進み、次の四つ角を右折。すぐに「旧国道170号線」に出る。その角には「旧枚岡市役所」。著名な建築家による設計らしい。
昭和39年に建てられ、その後、昭和42年の「布施」「河内」「枚岡」3市合併により「東大阪市役所東支所」となり、現在は「東大阪市旭町庁舎」として図書館などが入る。
庁舎前には「東高野街道」の案内板。
その「東高野街道」を南に進む。
すぐに「サンロード瓢箪山」というアーケード街になり、ここからは歩行者専用となる。
220mほどのアーケードを過ぎれば、近鉄奈良線「瓢箪山駅」前の踏切でアーケードは途切れ、踏切を渡れば「ジンジャモール」と名を変える。
「瓢箪山?」「ジンジャ(神社)?」。そう、120mほどのアーケードを抜けた左側に「瓢箪山稲荷神社一の鳥居」が立つ。「そびえる」というほどの大きさではない。
ここも「二の鳥居」手前から行列。参拝を断念する。結局「三社」での参拝はできなかったが「氏神様」でしっかりと参拝したので大丈夫だ。日本人として最も「根本」となる神様は、神社の大きさや「格」ではなく「氏神様」なのである。後は「伊勢神宮」を除いて崇敬するかしないかの問題なのだ。
「瓢箪山稲荷神社」は「稲荷社」なので「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」いわゆる「お稲荷さん」を祀る神社である。
しかし、元は本殿の背後にある「大塚」「鬼塚」という二つの塚からなる「瓢箪山古墳」と呼ばれる「双円墳」に天正11(1584)年、豊臣秀吉が大坂城築城に際して「稲荷社」を勧請したのが始まりと伝わる。
参拝もせず午後2時10分、近鉄「瓢箪山駅」に着。ここから実家まで歩いて30分くらいだろうか。しかし、ここをゴールとせず、私が小さい頃よく訪れた「花園商店街」に言ってみることにする。歩いてもいいのだが「お屠蘇」と「御神酒」でちょっとほろ酔い気分なので近鉄電車に乗ろう。「瓢箪山駅」から各駅停車で二駅(150円、約5分)。近鉄「花園駅」。各地にある「花園駅」と区別するため、正式には「河内花園駅」という。以前は、上り下りが別改札の小さな平屋駅だったが、今は高架のきれいな駅舎に生まれ変わっていた。
「花園商店街」は、私が通っていた小学校校区内唯一の商店街であり、私は物心ついた頃から結婚して現住所に引っ越しするまで約30年「この地」で育った。駅南側の商店街は、高架化によって寂れてしまっている。右の「梅の木」という居酒屋には、社会人になって何回か来たことがある。その左の青いテントはドイツ文字で「K」という珈琲店で、一度、店に入りコーヒーを注文した後、財布を忘れたことに気づき「マスター。財布忘れた。コーヒーええわ」と断ったところ「勘定はいつでもええから、ゆっくりコーヒー飲んでいって」と言われた。
高架化されたのは最近なのだろう。「鉄路」がまだ残っている。
ゴチャゴチャしていた駅前には、かつて「河内東映」という映画館やパチンコ屋さんが並び、また「陶山(すやま)」という医師一族が「内科」「眼科」「歯科」「産婦人科」の個人病院を開業しており、私も「産婦人科」以外の病院のお世話になった。今は、きれいなバスローターリーと店舗付のマンションになっている。
踏切を挟んで駅北側にもアーケード街が続いていたのだが、今はマンション1階のショッピングセンターに生まれ変わっていた。
マンション下をくぐり抜けるとアーケードが残っていた。かつての「花園商店街」だ。右の「リーベ」という喫茶店(青い建物)は昔からあったが、アーケード街の中ほどにあったと記憶している。アーケードの3分の1ほどが撤去されたのだろう。
アーケードに入ってすぐ左に「和横丁」という路地が。確か、商店街の北側には小さな路地がいくつもあり、古い民家や井戸を囲んだ長屋があった。
今は「町家」を利用した居酒屋になっている。
以前歩いた「谷町6丁目」の小さな門をくぐった奥にある路地のような作りだ(大阪24区を歩く~「中央区」編参照)。
商店街の中ほどにあった「林文進堂」という本屋さんはもうない。校区内唯一の書店で当時、ご主人が最新鋭の「ラビット」という大型スクーターで雑誌を宅配していたのだが………。「英田」。かつての「河内國英田村」。「あかだ」と読む。私の母校も「英田小学校・中学校」だ。
ここの「お肉屋さん」は当時からあった。店先で揚げたての「コロッケ」を売っていた。ただ、その頃の私たちは、コロッケを買えるほどの現金は持っていなかった。晩ご飯のおかずとして何度か食べたくらいだ。
この商店街は、山(東)側に向かって下り坂になっている。かつての内海である「河内湖」の名残だろう。
その坂道の先には、たくさんの友達が住んでいたのだが…。
150mほどでアーケードを抜ける。その先には地蔵尊が。
この「お風呂屋さん」も自販機と共に廃業しているようだ。
次の四つ辻を左に曲がる。そうそうこんな路地が続いていた。
突き当たりのお寺の手前に石の道標が。「右 瓢箪山」の「瓢箪」が絵になっている。
ここを右折し、ちょうどお寺の向こう側に「春日神社」。この辺りにはいくつか春日神社があるので「吉田春日神社」と呼ばれている。
実は私の実家の「氏神様」は、一番最初にお参りした「大津神社」なのだが、そこには神職さんがいないので、お札はここ「春日神社」で授かるのだ。最後に「春日神社」に詣る。
享保5(1720)年に建てられた本殿は、東大阪市の有形文化財に指定されており「春日」の名の通り「春日大社」の御祭神を勧請したもので「枚岡神社」「春日大社」同様、「春日神」の四神を御祭神とする。
さすが「ラグビーのまち花園」。本殿前には木で作られたラグビーボールが奉納されていた。
奉賛会名簿には、お互い「エエ年」になった同級生の名前が2、3見られた。
以前は、お堀に囲まれた神社だったのだが、今は埋め立てられ住宅や駐車場になっているようだ。
「吉田」の町を抜ける。ここから実家まで2~30分だが、ちょっと寄り道をする。
その先は「花園ラグビー場」。高校ラグビーの「甲子園」「聖地」と呼ばれている。
毎年、元旦には「全国高校ラグビー大会」が開催される。ここから歩いて実家へ。午後3時20分着。本日の歩紀「17208歩」(15.10km)。改めて「徒歩圏内に素晴らしい神社があるな」と感じたが、それより昔懐かしい「古里」再訪の「歩紀」だった。