”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第84回) 1996年 最初で最後の中国・上海旅行

2024-09-06 06:00:00 | 海外の旅
 私はこれまで多くの国に渡航しているが隣国の中国は疎遠で只の1回しか行ったことが無い。
それは1996年、「上海」に職場の連中と3-4日の観光息抜き旅行であった。
 大丈夫かなと思ったがその時のフライトは大阪からで、確か「中国東方航空」だったと思う。数時間のフライトもあってか初めての中国の航空会社のフライトだったのに全く記憶がない。
 
 上海での記憶は人の多さと食べ物の豊富さしか残っていない。
当時の上海は新上海の「浦東地区」が開発・発展の最中だったが、その時は浦東の開発地区には行っていない。
 その時は仕事で上海関連のプロジェクトの付き合い人脈の紹介もあり、現地で交流会が催されたが食事での強い中国酒(紹興酒など)には参った。次から次へおカンペイで飲み干して行く直ぐ回って来て大変だったのを覚えている。
 
 この旅の一番の思い出は上海から列車で行った「蘇州」である。蘇州と言えば李香蘭の「蘇州夜曲」くらいしか知らなかったが、訪れた「蘇州古典園林の庭園」は今でも鮮明に覚えている。
 
 今や中国は大国となり、近代的建物、車や物で溢れる都市化された中国には興味はない。古風ゆかしい悠久の中国に憧れを持っているがそんな中国はまだあるのかさっぱり分からない。地方には残っているはずだ。それにしてもあの多くの人口、人の多さには驚いた。
 
 その後、北京、万里の長城や大連辺りの観光に出かけようと思ったこともあったが強い動機が不思議と生まれなかった。未だに中国はその時の上海以外行ったことがない。共産党独裁でありながら資本主義経済の中国は分からない。私にとって不思議な国である。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第83回) タイでの日常生活(その4)

2024-08-23 06:00:00 | 海外の旅
 タイでの日常生活について前回の(その3)から大分時間が経ってしまった。
タイでの生活は家族5人でバンコクに赴任したときのことがらである。1993年から1995年だったのでもう30年以上昔のことなる。今でも強く記憶に残っているものを思い出して書いてみた。
 
国内観光地旅行
 タイの国内旅行は家族でよく出かけた。バンコク市内だけでも行くところ、見る所は山ほどあったが結果的に全ては行けなかった。これは日本国内に居ても同じである。
タイの有名な観光地は大抵行ったつもりであるが代表的なところが以下である。
 
・バンコクの寺院群
・アユタヤ遺跡
・スコータイの遺跡
・ダムヌンサドゥアック 水上マーケット
・カンチャナブリ クワイ川鉄橋
・パタヤビーチ
・チェンマイ・チェンライ
・プーケット島
・コサムイ島
 
など数えきれないがタイには観光旅行に来ているのではなく、バンコクでは日本での普通の生活のような日常生活があり、バンコク市内やその周辺は日帰りでいつでも行けるとの理由で行っていないところも多い。灯台元暮らしである。
 
 国内旅行はバンコク及び近郊は私のドライバーの運転で何度も行ったこともある。国内旅行でもちょっと遠出をする時は運転手付きのマイクロバスをチャーターし家族 で行った。ドライバーも日本語が出来る人、英語が話せる人、全くのタイ語だけの3種類いたが私たちは英語のドラーバーが常だった。日本語が出来る人よりドライバー料金が廉価だったからである。
 マイクロバスで行った時は大抵3泊4日くらいの小旅行だった。妻の母親がバンコクに遊びに来た時は義母を含めて家族6人で行ったが今は亡き義母孝行が出来たのではなかったかと思う。
 
海外旅行(シンガポールとオーストラリア)
 バンコク駐在の2年間の期間中、2度国外旅行をした。日本にいた頃からみれば大国にいることだけでも一種、毎日が旅の連続だったかもしれないが子供達にタイ国以外の海外の国も見せてやるのもいい経験になるのではないかと小旅行を計画した。
 
 1度目は1994年の日本の正月休み期間中、「シンガポール」に出かけた。その理由は知人が石油元売り会社のアジア太平洋の社長としてシンガポールに駐在していて遊びに来ないかと誘ってくれたからである。勿論、日本人だが二人の子供も成長し、奥さんと二人でシンガポールの生活を楽しんでいた。4泊5日のシンガポール滞在期間中、あちらこちらと案内して貰い、隣国マレーシアのジョホルバルにも出かけた。あっという間のシンガポールだったが子供たちはタイとはまた違った中国人とインド人が中心となす国があることを肌で感じたに違いない。
 
 2度目の海外の旅は翌1995年正月、今度は「オーストラリア」に出かけた。バンコクのトラベルエージェントが日本の正月休み期間に日本人向けに企画した旅が数多くあったがその一つがこの旅だった。
旅先はゴールコースト・ブリスベンとシドニーである。この時は義母がバンコクに遊びに来ていたので家族6人でオーストラリアに出かけた。バンコクから真南に8時間のフライトで英国航空便だった。
 
 オーストラリアの第1Destinationはブリスベンだった。ゴールドコーストに行くためでここでは2泊した。ハワイのワイキキビーチに似た真っ白な海辺で強い太陽が燦燦と降りい注いでいた。海辺にはショップが多く並び、正にオーストラリアのワイキキである。店には日本人が店員として働いていて日本語が横行していた。彼らはワーキングホリデービザを得て滞在し、アルバイトで働いているのだ。ビーチにはどこから来たのか定かでないが外国人も多数いた。
 ゴールコーストでは海岸から少し内陸側のプリンスホテル系列リゾートホテルに滞在した。この時ホテルには元TVアナウンサーの徳光和夫がゴルフを楽しむため来ていたのを思い出す。
 
 ゴールドコーストを数日楽しんだ後、シドニーに飛んだ。シドニーには4泊した。私はこの時に長年の夢であった「シドニーオペラハウス」に行くことができた。貝型のシドニーオペラハウスは出来る前から行きたいと思っていたが1995年の時点でもう20年も経っていた。オペラハウスでは一夜は室内楽、もう一夜はオペラ鑑賞でプッチーニの「トゥーランドット」を観た。下の子供はまだ小学生だったので途中眠気に負けZhooと寝てしまう有様を今も覚えている。
 シドニー市内観光にも出掛け、至る所に英国風の町を楽しんだ。英国からの移民が作った街並みなのだ。オーストラリアは極めて広い。シドニーはアメリカのニューヨーク見たいなもので首都キャンベラとはワシントンに似て離れている。シドニーだけ見て判断するのは早計であるが活力のある都市だった。
 子供達のはオーストラリアがどう映ったか分からないが日常生活しているタイとも違った国は良い経験になったに違いない。
 
タイ国のアマチュア無線団体(RAST)への加入と活動
 バンコクに赴任後、RASTに入会させて貰った。外国人にも門戸を開放していて歓迎してくれた。毎月、バンコクのシンハービールのビアホールでの例会には出席し現地のハムとは仲良くなった。特に今は亡き会長には親切にして貰った。
例会に参加するようになり直ぐハムの経験や力量を知られ、コンテストの度にバンコクのスクムビット通りにあったRASTのクラブ局のCWオペレーターとして呼ばれた。
 また、1994年に、SEANETコンベンションが隣国のバングラデッシュのダッカで開催された時、RASTの一員として参加させて貰った。私にとって20年ぶりのバングラデッシュ再訪で懐かしかった。

美味しかったタイのビール(シンハービール、クロスタービール、チャーンビール、プーケットビール)
 日本のビールは殆どなし。時々、アサヒドライがバンコク市内のローカルマーケットに出回ることあった。そんな情報があった時はマーケットに出かけたものだがアサヒドライが製造から日が経ち気が抜けて美味しくなかったことが多かった。多分、外国航路の船員が無断で持ち込んだものに違いない。(国際線の船は領海外では無税。領海に入って持ちこむ場合は税金を払う必要があるが密輸で持ち込んだものだろう)
 タイのビールはアルコール度数が日本のビールよりも高く、同じように飲むと早く回る。また、味は日本のビールより甘い。タイのトップビールメーカーは「シンハービール」である。しかし、私はグリーンボトルの「クロスタービール」が好きだった。クロスターは元々ドイツであるがローカルボトリングをしていて、真は―の甘いビルよりすっきりした味が好きだった。値段は少し高かったが。。。今ではタイではこのブランドはなくなったらしい。
 
現地中学生への学業支援
 帰国直前に我が家は当時まだ貧しくて中学校に行けないタイの中学生のために、中学年間分の学費を寄付した。日本のあしながおじさんのようなものである。
 1993-1995年の2年間だったが我が家の子供達3人は日本人学校でほぼ不自由なく過ごせた御礼の代わりに、現地の中学校の生徒3人分、中学卒業までの3年間の学費を一括寄付した。
 日本に帰国後も3人のタイ人生徒本人から御礼の通信が定期的に送られて来ていた。この生徒たちは無事卒業したようで彼ら成長に何らかの役に立ったすれば嬉しい。小さな感謝の贈りものであった。
 
余暇(ゴルフ天国) タイの古式マッサージ バンコク日本人会
 タイはゴルファーには「ゴルフ天国」だった。良好なゴルフコースが数多くあり、フィーも日本と比べて格段に安かった。私個人は家族ケアーもあり赴任期間中はゴルフはしなった。特に単身赴任の人は毎週末楽しんでいたようだ。帰国後何年か経って兄とタイでゴルフ三昧の旅をしたことがある。
 
 タイでは「タイマッサージ」が有名である。性サービスを伴ういかがわしいマッサージもないことはないが私はタイの「古式マッサージ」が好きだった。タイのワットポー寺院で修業したマッサージ師にやって貰うマッサージは最高である。疲れた時、1時間位マッサージをして貰ったことが何度もある。
 
 「タイ国日本人会」 日本人会はバンコクに置かれていた。休日などにぶらっと出かけることがあった。この組織は現地に工場を持つ日本企業などの人が役員として構成した日本人を代表する現地の日本人の民の団体である。会員は1万人近くいたのではないか。当時、日本大使館に正式滞留(住民)登録した日本人は1万人以下だっと思うが、短期ビザで入国を繰り返す人、短期滞在の人を含めると5万人以上は軽くいたと思う。
 日本人会は大使館や現地の人や組織とも連携が取れていた。当時、バンコク日本人会が盆踊りを開催した時は現地のタイ人を含め大人数なものになったのを覚えている。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第82回) ベトナム航空による初めてのホーチミン・ベトナム

2024-05-10 06:00:00 | 海外の旅
 1994年、プライベートでタイからベトナムのホーチミン(旧サイゴンを初めて訪れた。後年の2007~2009年、ビジネスで何度も訪れることになるのだが。。。
 
ベトナムはベトナム戦争時代からカンボジアと共に訪れたい国の1つだった。
1975年のベトナム戦争終結以来、20年後に遅まきながらの訪ベトナムであった。バンコクからはひょっと人飛びの隣国である。
1960年代から1970年代、旧宗主国のフランスが撤退した後、防共産主義のアメリカとのベトナム戦争は世界に大きな影を落としていた。
私は後年仕事で何回となくベトナムを訪れているが旧北ベトナム側には未だに行ったことがない。
 
 
 
 
 1994年に初めて3泊四日でホーチミン(旧サイゴン)を訪れた。そのとき最も感銘を受けたのはサイゴン郊外のベトコン(ベトナム人民解放戦線)の「クチトンネル」の地下壕・基地へもぐり実地体験したことだった。被害を避けため縦横無尽に地下壕を張り巡らしていたようである。
 
↑南ベトナム旧大統領官邸
↑旧大統領官邸
↑旧大統領官邸屋上のぺリポート(ここから最後に高官が脱出したと言われている。
 また、旧大統領官邸も訪れた。報道や映画などに出て来る場面、場所が残されている。正に映画の「地獄に黙示録」さながらである。
 
 しかし、現在も残るフランス統治時代のサイゴンの旧街並みが残る地区には綺麗で落ち着いた風情を残している。しかし、アメリカの影響を受けた地区の市中は喧噪でアクティブな現代のサイゴンは現代を映していた。                      
 この時はまだ今より車が普及していなくて、街中、ものすごい数のオートバイが行き来していた。3人乗りは当たり前の有様だった。まさしく「マイバイク」の時代だった。
 
 また、1990年代のベトナム女性が多く無民族衣装の「アオザイ」を着ていた。後年2010年代にビジネスで何回もベトナムを訪問したが「アオザイ」を着用する女性が少なくなっていた。西洋ナイズされジーンズパンツとTシャツ姿の女性が一般化していて特に若い女性のアオザイ姿女性は確実にマイナーになっていた。
 
↑アオザイを着用したベトナム女性(今日ではもうこんな姿の一般女性は少なくなった)
 
 1993-1995年はタイのバンコクに赴任、生活していたのでタイの美味しい食事に慣れていたこともあり、それに比べてベトナム食はややパンチに欠ける感じがした。
 私は戦後生まれで実際の戦争をしらない。1960-1970年代に青春時代を過ごした世代はベトナム戦争は抜きにして語れない。その一端を知ったベトナム訪問であった。

 

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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第81回) 20年振りの2度目のバングラデシュ(1994年)

2024-04-22 06:00:00 | 海外の旅
 私が初めて「バングラデシュ」の首都ダッカを訪れたのは丁度50年前の1974年である。初めての海外渡航が「バングラデシュ」だった。
 バングラデシュは元は「東パキスタン」だったが訪問した1971年はパキスタンから独立して数年しか経っておらずまだ混乱の中にあった。
 バングラデシュは私のその後の人生に影響を与えた国になったが奇しくも初回から20年後の1994年に再び訪れることになった。それもあれから30年前になってしまった。
 
 今回のブログは2度目のバングラデシュ訪問のことを書くが以下は初回の訪問時のブログであり参考までに紹介しておく。 
 
【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第2回) 初めての海外渡航はバングラデッシュ、国際線搭乗便はJAL日本航空
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/a822caf385f280c6487d7a4c7a1e7e05

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第3回) 初めての外国タイ・バンコクでのハプニング
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/9856ff34e2f197437587c66ac6467f5e

【国際線フライトと海外の旅の物語】(第4回) 初渡航先「バングラデシュ」の強烈な印象
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/3a9ffb7aecb80be42141d3e2a9ed6660

【国際線フライトと海外の旅の物語】(第5回) 1974年「バングラデシュ」の苦い出来事
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/bafa1bb81fc8f465b3dfffaaf39ca92c

 今回もバンコクからタイ航空機だった。
2度目のバングラデシュ訪問はタイのアマチュア無線団体(RAST)のデレゲーションの一員として参加した。
 昔から主に東南アジアのハムの有志により持ち回りで「South East Asian Net (通称SEA NET)」と称する集まりがアジアの国で行われていた。
 私はタイに赴任後、「RAST」に入会していてバンコク市内のシンハービールビアホールで開催する月例会に参加したり、クラブ局のHS0ACのコンテストオペレーターの一員として仲間入りし活動していた。
 
 赴任期間中の1994年はバングラデシュの無線団体がホストとなり首都ダッカで2泊3日の「SEANETコンベンション」が行われた。当時のRASTの会長からRASTもコンベンションにデレゲーションを送るので私にも参加してはどうかと誘ってくれた。この時、丁度初回訪問から20年振りのバングラデシュになり、隣国でもあるので参加させて貰うことにした。この時のRASTの団員は7-8名だったと思う。
 
 私が初めてバングラデシュに行った時はまだハムの制度がなく運用許可は一般的に認められていなかった。それが1974年から20年後の1994年にはハムの団体も出来、まだある程度限定された人たちであったがハムの運用が許されていることに喜びを感じた。まだ若い人もいたが社会的に認められた人々が主体ではなかったかと思う。
 
 コンベンションはダッカのインターコンチネンタルホテルで開催され、我々も同ホテルに宿泊した。1974年当時、インターコンチネンタルホテルはダッカ(或いはバングラデシュ)で1番の高級ホテルだっと思う。しかし、バングラデシュは世界の最貧国の1つであり、首都ダッカとて困窮した国民が市内に溢れ、この高級ホテルは治外法権の別世界だったような気がする。
 コンベンションでのレセプションでは各国メンバー一同紹介され、各国からプレゼントやダンスなどをするなど和気あいあいの時間を過ごした。
 
 この中でバングラデシュのメンバーとも語り合う時間があり、昔、極例外的に運用が認めれたことがある例を話したことがあったが当時まだバングラデシュ人にまだ許可されていなかったのに例外があったとは信じられないと言った感じだった。
彼らは昔のことをことさらこれ以上触れようとしなかったが1974年以降の20年、政府への色んなアプローチや苦労があって今日の姿になっているのだろうと思った。
 2日目は一同ダッカ郊外に移動し、場所の記憶はないが川でのクルーズを楽しんだ。船上に特別局が開設されていて私も少数ながら電信で運用した。
バングラデシュはまだまだ発展途上だったがホストの皆さんの暖かいホスピタリティに感謝した。
 
 2回目に訪問した1979年当時のダッカは独立して四半世紀が経ち、大きく様変わりをしていた。市内には大きな建物も建ち発展していた。相変わらず人は多かったが人々の衣類や表情も明るくなっていた。
 
 今回の訪問は団員の一員だったので個人の自由行動時間がなく、それでも半日程度だったと思うがダッカの市内に出かける機会があった。
ダッカにはオールドダッカとニューダッカがあったと思うがニューダッカの市街地を散歩、買い物時間に充てた。1974年と比べると店は多く出来ており隔世の感があった。只、ダッカから遠く出なかったのでダッカ以外のバングラデシュの社会を見ることが出来なかったのが残念だった。
 
 この時、お土産にダッカで「ノクシカタ」と呼ばれる伝統刺繍で、緻密な手縫い刺繍の壁掛けに魅了され購入した。バンコクに戻り額装し、バンコクの自宅に飾っていた。しかし、1995年にタイでの仕事が終わり帰国した時、日本に持って帰ったがその後も度重なる転勤のため実家に預かって貰っていた。あれから30年が経ち、実家で眠っていたこれを最近、終活の処分の一部としてお世話になっている病院に寄贈した。その他に寄贈した絵画等共にバングラデシュの「ノクシカタ」の刺繍が日の目を見てこの病院で今後も愛でて欲しいものだ。
 
 日本に帰国して2000年代の初め頃、日本語が流暢で優秀な技術者だったバングラデシュ人の若い部下を持ったことがある。私が初めてバングラデシュに行った時には彼はまだ生まれていなかったが懐かしいバングラデシュの談義をよくしたことを思い出す。そんな彼は日本とバングラデシュのかけ橋になりたいと独立してビジネスを立ち上げたが今も頑張っていることだろう。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第80回) 家族で行ったオーストラリアの旅

2024-03-30 06:00:00 | 海外の旅
  1995年1月、赴任中のタイのバンコクから正月休みを利用して家族5名と義母の6人がオーストラリアのシドニーとゴールドコーストのあるブリスベンを訪れた。その前年の正月はシンガポールだった。
 
 バンコクでは正月休みなどの時間中、現地のトラベルエージェントが外国人向きに色々の対地の5日間~1週間程度のツアーを企画販売していた。(団体旅行ではない)
 我が家も中国雲南省、カンボジア、ビルマ、ベトナムの東南アジアの国も検討したが最終的にオーストラリアにした。オーストラリアは広大で東西南北、国内と言っても遠いので短期では多くは行けない。
 私は昔からシドニーの貝型のオペラハウスに行ってみたかったし、ゴールドコーストにも興味があった。タイでもプーケット、コサムイ、パタヤなどの海水浴のリゾートにも行っていたので家族をゴールドコーストに連れて行ってやりたかった。
 
 
 オーストラリアへはバンコクから英国航空でまずカンタス航空でゴールドコーストに入った。タイからの時差は無いが飛行時間は真南に8時間程度のフライトで結構遠い。
 ゴールドコーストのホテルは「パインズリゾートプリンスホテル」だった。このホテルは日本のプリンス系のホテルだった。ゴールドコース海岸から少し内陸側のリゾート地でゴルフ客なども多数宿泊していた。丁度。我々が滞在した時、元日テレのアナウンサーの徳光和夫が宿泊していた。
 
 ブリスベンの「ゴールドコースト」は輝くばかりの強い太陽の海岸で世界から来た外国人で溢れていた。ハワイのワイキキビーチに似た雰囲気で、海岸通りの店には「ワーキングホリデー」で来ている日本人が多くが店員として働いていたのには驚いた。数日間ブリスベンを楽しんだ後、「シドニー」に向かった。
 
 
 「シドニー」のホテル名は忘れたが中心部の落ち着いた5スターのホテルだった。オーストラリの首都はキャンベラであるが「シドニー」はオーストラリア第1の都市だ。
 
 まず家族6人でバスによるシドニー市内観光に出かけた。英国の移民国家だけに英国風の地名、街並み、スロープのある地形、ゆったりとした生活リズム、普通の人がヨットなどを持つ豊かな日常生活など日本人には羨ましいところであった。
 
 シドニー全体を把握した後、あちこちと出掛けたがやはり最大は畔に建つ「シドニー・オペラハウス」だった。1973年に竣工したこのオペラハウスは出来た時から注目していた。私は昔からオペラが好きでニューヨークのメトロポリタン歌劇場も出張の空き時間を見つけ鑑賞したことがある。
 シドニーでは2晩、オペラハウスに出かけた。1晩は管弦楽、2晩目はプッチーニの『トゥーランドット』(Turandot) を家族で観に出掛けた。
私は念願のシドニー・オペラハウスでのオペラ鑑賞で満足だったが下の子供にはさすがに長くて面白くなかったらしくコックリコックリしていたのを思い出す。
 私は英国に滞在したことがあるので分かるのだがシドニーのダウンダウンは街並みが英国と似ているので好きだった。家族の印象もそれにちかいものだったようだ。
 オーストラリアではどんな食事を摂っていたか記憶にない。多分、国民食のハンバーガーや一般的な西欧料理やオージービーフ、魚料理だったに違いない。オーストラリア料理といったものはなかったと思う。その点、食事に関してタイは正にタイ料理天国だった。
 
 あっという間のオーストラリアの旅だったが確かバンコクに戻ったのは学校の始業1日後だった。バンコク日本人学校では色んな事情で帰国できないこともありこのくらいの誤差は認められていた。
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