”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第74回) ナパバレー(Napa Valley)のワイナリー

2024-01-20 06:00:00 | 海外の旅


1990年代の終わり頃、丁度サンフランシスコと、同じカリフォルニア州の「ロダイ(Rodi)」に出張した。

その時はサクラメントからレンタカーで「ロダイ(Rodi)」に出かけたので自由に動けた。
「ロダイ」はアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンホアキン郡にある人口6万余の小さな地方の都市であり、ワインの町でもある。

  
 ワインが好きな私はいつか「ナパバレー(Napa Valley)」に行って見たかった。
今回行った「ナパバレー」があるナパ郡(ナパぐん、Napa County)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリアの北部に位置する郡である。
 「ナパ・ヴァレー」は「カリフォルニアワインの産地」であり、広大なブドウ園や大小のワイナリーが存在する。
 ナパバレーでは、主なブドウ品種としては、カベルネ・ソーヴィニヨン、シャルドネ、ピノ・ノワール、メルロー、シラーなどが栽培されていて、地中海性気候による強い日差しを受けることから、濃厚で力強い味わいのワインになる傾向がある。

 ナパバレーには、大小多くのワイナリーがあり有名なところもある。しかし、その時は事前の調査も勉強もせず、広いエリアを車を走らせ、飛び入りで数カ所のワイナリーに飛び込んだのだった。だからそこが有名か否かは分からなったし、恥ずかしながら今でもそれらのワイナリーの名前を覚えていない。

 広いナパバレーのワイナリーを何カ所か廻った。現地では10-20ドル程度でも驚くほど美味しいワインが溢れていた。
当時。私は普段自宅では2000-5000円程度の美味しいワインをデイリーワインとして飲んでいたが現地では10-20ドル程度でも驚くほど美味しいワインが溢れていた。

 

 私は白ワインに凝っていて辛口の「シャルドネ」や「ソーヴィニヨン・ブラン}、赤はオーストラリア産「シラー」が好きだった。その頃、ワインのテイストなどをメモし、ボトルのラベルを剥がしバインダーにとじ品評をため込んでいた時期もあった。

 海外から無税で3本は持って帰ることができる。ナパバレーの何カ所のワイナリーを回り美味しいの見つけ持って帰った。
しかし、折角、大事に日本まで持って帰って来たのだが白ワイン1本を私のミスで成田空港で落としてしまいボトルを割ってしまった。
 現地でテイストしただけで本格的にまだ飲む前にこのざまでがっかりした。正に幻のワインになってしまった。その後、ついぞその時の味に近いワインに出会ったことはない。。。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第73回) 家族で行ったシンガポールの旅

2024-01-10 06:00:00 | 海外の旅
 1994年1月の正月休みの期間、家族帯同で赴任先のタイのバンコクからシンガポール航空で正月休みを1週間、友人であるシンガポール駐在日本人夫妻を訪ねて家族で出かけた。
同じくバンコクに赴任している同僚の多くは正月期間中、日本に帰国したが我が家はタイに来てまだ半年しか経っていないので帰国せず友人が誘ってくれたシンガポールに行くことにした。


 私は1993年春からバンコクに単身で駐在していたが夏に家族を呼び寄せ、家族5人と義母の6人でバンコクに赴任していた。正月のこの時期、義母は日本に帰っていたのでシンガポールへは家族5人で出掛けたのだった。
 家族にとって初めての外国はタイだったが、シンガポールは2番目の海外経験となった。このときタイのバンコクに来て6か月の生活経験ができていたのでシンガポールはそう違和感はなかったようだ。

 シンガポールでも滞在先は友人宅だった。友人とはアフリカのザンビアにいた頃からお付き合いだったが15年も会っていなかったのに暖かく家族5人迎えてくれた。友人はオイル会社のアジアの支配人にプロモートし偉くなっていた。夫妻には二人女の子がいたがアフリカ当時は小さかったが当時既に成人となり、一人はアメリカに居住、二人目は日本の自宅にいて在日国の大使館勤務していた。夫妻はシンガポールにいたので家族が会うのは中間地点であるハワイで会うインターナショナル家族ぶりだった。

 当時、我が家の子供達は中学生と小学生だったが日本にいた頃は家族全員で海外旅行に行ったことがなく、このとき赴任先のタイと海外旅行でのシンガポールの2カ国の海外経験をしたことになる。
 狭いシンガポールであったがお決まりのマーラインの公園、熱帯物園、ゴンドラなど毎日いろんなところに出かけた。食事は毎日外食に出かけ、屋台やレストランで美味しい料理に舌鼓をした。タイのバンコクでも既に6カ月間、美味しいタイ料理に慣れていたのでシンガポールの食事にも違和感はなかった。

 また、お隣のマレーシアの「ジョホールバル」にも出かけた。ジョホールバルは観光地化していたがシンガポールの中華系(仏教)とインド系(ヒンズー教)を中心とした文化とは違ったイスラム系の文化が見たのも家族にとって経験になったのではないかと思う。
 駆け足のシンガポールの旅であったが家族にはタイとは違った文化に接した家族サービスの旅となった。これに気を良くして次の正月はまた違った国に義母も伴い家族で出かけようと思った。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第72回) 家族同伴で赴任したタイ・バンコク

2024-01-01 09:00:00 | 海外の旅


 1993-1995年の2年間、家族帯同でタイの「バンコク」に赴任した。
その当時、トヨタなど著名な日本の企業も既に多数進出していたが、現地では日本から約50名もの社員が一度に赴任する大型プロジェクトとして評判となった。勿論、単身赴任者もいたが半数程度は家族帯同だった。その余波はタイの日本人社会にもインパクトを与え、バンコクの日本人学校やインターナショナルスクールの受け入れや住居探しなどにも影響を与えたほどである。

 確かその当時、バンコクの日本大使館に在留日本人として届出している日本人は1~2万人はいたと思う。登録していない短期の滞在者、3ヶ月の短期観光ビザを繰り返す人たちを入れると5万人以上日本人がタイにいたはずだ。また、バンコクにある「日本人会」にも入会した。バンコク日本人会主催の「盆踊り」には何千人もの日本人やタイ人が集い踊る青の時の活気は今も忘れない。

 私たちは政府関連の仕事であったので正規な労働許可(Work Permit)に基づく1年間滞在ビザが与えられたが、それでも最初は何カ月に一度はイミグレーションに出向き審査を受ける有様だった。正規の手続きでも滞在延長VISA取得は面倒な手続きだった。そんな面倒なビザ取得を嫌がり繰り返し出入国を繰り返す人がいたようだ。観光ビザは最長3カ月だが現地で1回延長できたので最長半年滞在できたので義母はこれを利用して半年間現地で生活を共にすることができた。

 当時、会社から海外赴任を伝えられた時、家族を同伴するか、若しくは単身赴任するか逡巡した。子供は3人で二人は中1と小6、下は幼稚園児だった。私はそれまでに海外生活経験があるが家族は海外経験がなかったので家族を日本に残し、単身赴任した方が簡単だった。
 しかし、子供が生まれて以降も数年に一度の転勤があったが常に家族一緒に新天地に転居した。今回は長男の高校受験が迫ってきていたので今が子供たちに海外生活の経験をさせてやれる最後の機会だと判断した。最悪の場合、家族は先に日本に帰し、私が単身で現地に残る決心もしていた。私は20代後半から転勤族になっていたし、家族はこれまでの国内転勤と同様に家族同伴で海外赴任することに異論も唱えなかったので一安心した。

 一旦、家族同伴で海外赴任することが決まると一挙に忙しくなった。
その中でも会社は東京に集め、特に夫婦で1週間のタイ文化、タイ語の語学研修もしてくれた。
 私は社宅住まいであったが海外赴任だと言っても社宅は明け渡す必要があり、家財の大半はトランクルームに預け、一部は実家に預かって貰った。
 一方、ピアノなどは現地で買うと高いので持って行くことにした。運賃は全部会社が負担してくれ助かった。
 これまで転勤の時、私は家族を残し先に赴任するケースが多かったので引っ越し準備の大半と締めはいつも妻が仕切ってくれた。妻はこれまで数多く転勤に伴う引っ越しをしてきたのである程度は慣れていたが結構大変な仕事である。引っ越し業者との打ち合わせ、お任せコースの引っ越しとは言え品々のパッキング、手配、市役所、学校関係の手続き、友人との別れ等、短期間にやらねばならないのである。

 それまでは国内では転勤時、転居先が決まっている場合は家族と家財と一緒に引っ越したことも多々ある。
しかし、海外転勤の場合そうは行かない。まず、大抵、滞在先が決まっていないからである。今回は現地に赴任して自らが好きな住居を探す方式だった。国内であれば適当に社宅を与えれば良いのだが50名もの社宅物件を一時に探すのは困難である。

 そんなこともあり私は家族転居の時期は少々ずらし、子供たちが第1学期を終えて夏休みの期間にすることにした。そうすれば3カ月の猶予が生まれる。
私は現地赴任後、家族が安全で極力便利な住居を探すことにした。その間、私はホテル住まいで子供たちは1学期を終え、夏休みに入って直ぐにバンコクにやって来た。
 住居は各々現地の不動産会社に希望の物件、エリアなど打ち合わせを行い、物件を探し歩いた。当時、バンコクは不動産バブルで新築のマンションが数多く建てられていたので余程の条件を付けなければ良い物件はゴロゴロしていた。
 私はバンコクの不動産会社が色々と住居を提案してくれたが築は少々古くても安全で生活に便利な地区の物件を探していた。
結果、1件、日本人に人気のあるマンションで近々、退去予定物件があるとの知らせがあった。
 そこは希望に添う最適の物件で、日本人に人気のあるマンションだった。只、その家族の転勤時期未確定だったため退去時期がその時点で確約出来なかった。退去は確実だったが要は時期の問題だけだった。私はその時点では単身赴任でホテル住まいだったし困ることはなかったが私の家族が来る予定の夏休みの期間中に退去完了するかが思案だった。
 物件のマンションそのものは築10年以上経っており、新築マンションと比べれば劣るかもしれないが場所、内容等全然問題なかった。
その当時でさえバンコクでは高層マンションが林立するようになっていたが決めたマンションは12回建ての11階で十分見晴らしも悪くなかった。12階はオーナーの住居だった。

 もし、最悪、マンションの明け渡し時期が少しずれても大幅にずれなければOKと決心し、この物件が空くのを待つことにした。幸いにも結果オーライだった!こちらの希望通り夏休みまでに退去が確定し、インド人のオーナーはそれまでに室内等をリノベーションしてくれることになった。備え付けの大型TVや冷蔵庫、キッチン回りも新品に入れ替えてくれた。

 バンコクの市街地はSoi(小路)が多く、大抵は先が行きどまりになっている。しかし、このマンションは珍しく通り抜けと行きどまり小路の間に建っておりどちらにも行き来できる便利なところである。小さめのマンションだったがマンション内にテニスコート、プールもあり夜でも利用できた。日常生活用品や日本食品が買え、日本人が利用するスーパーや料理店、レストランなども多くあって生活に困ることはなかった。

 そうこうしているうちに3カ月は過ぎ、準備万端の住居に家族全員(この時は義母も一緒)、子供3人も生意気にJALのビジネスクラスでバンコクにやって来た。家族は初めての海外渡航だったのでJALのファミリーサービスをお願いし至れり尽くせりの初渡航だったに違いない。

 子供達が通う「バンコク日本人学校」は小・中学制で当時2000人近くいた。小学生が1500-1600人、中学生が400人程度いて世界の日本人学校で1-2番のマンモス学校になっていた。勿論、先生は日本から派遣された日本人である。下の子は多くの日本人が通う幼稚園に入園した。
 毎日朝夕、スクールバスが各マンションを廻り送迎してくれた。日本人学校はバンコク市内にあったがバンコクの交通渋滞が激しく朝は6時代の時間帯にバスが迎えに来ていた。バス会社は日本人学校のために何十台ものバスが準備し、学校周辺ではスクールバスが渋滞の原因に一役買うなどブラックユーモアにもなっていた。勿論、スクールバスが回って来ない場所に住む人は自前で学校まで送迎しなければならない。そのためある会社の駐在員によっては社用の車と、通学や買い物など家族用の車を持っている人もいた。学費は一人月額5万円程度だったと思う。インターナショナルは10万円以上だった筈である。

 私は現地で通勤用の車を1台あてがわれていたが昼間、家族が外出や買い物などで出かける際は自宅に帰るようドライバーに手配していた。しかし、家族も現地の地理や生活に慣れるに従って近回りはバンコクでは有名なツクツク(3輪の乗合軽タクシー)やそのころ導入されつつあったメータータクシーに乗って出かけるようになった。

 当時バンコクはまだ地下鉄やスカイトレインがなく、主たる交通手段は車だった。車検もなく車も古かったので真っ黒なばい煙をまき散らし、交差点などで待っていたら喉が痛くなり、自宅がある11階のマンションの窓でも朝は綺麗だった窓枠も夕方には黒いすすがつくような有様だった。交通警官はマスクを付けていたが本署に返ると酸素吸入をしていたほどである。当時バンコクは世界1-2位のばい煙の都市だった。現在は昔と比べると隔世の感がある。

 タイは世界有数の食(タイ料理)の国である。街では至る所に屋代が出ており廉価で美味しいタイ料理がいつでも食べられる。一般的には辛いが味は調節もできる。はじめは辛いタイ料理が食べれなかった家族も次第に美味しさが分かるようになり今では大ファンである。

 結果的に2年間のバンコク生活は、家族にとっても良い経験となった。家族であちらこちらタイ国内の旅だけでなく、シンガポールとオーストラリアの海外の旅、文化や色んなタイの美食などを楽しんだ思い出となった。
 タイ料理、タイ飯に関して別に改めて書く積もりである。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第71回) ニューヨーク出張とマンハッタンで食べた絶品のオイスター

2023-12-20 06:00:00 | 海外の旅
 1980年代後半(1988年~1989年)、ビジネス出張を一人で行くようになる前、海外通で英語に堪能な先輩に同伴してニューヨークへ出張したことがあた。
それまで私はアメリカに渡航したことがなく初めてのアメリカだった。見るもの全てが新鮮でエキサイティングな街、国だった。
 それまでにも数々の国に行ったことがあったが会社を代表して純然たるビジネス出張の経験はなく先輩の一挙手一投足を懸命に覚えるようにした。
 また、事前に資料の作成、プレゼンの仕方など覚えることなど沢山あった。他に大事なことは挨拶から始まって、会議コミュニケーションの進め方も重要だった。
休憩時間や食事を共にする時の私的な会話も円滑な人間関係構築のため必要だった。出張の旅に心づくしの日本のノベルティの準備の大切だった。

 先輩には2回同伴して貰った記憶があるがそれ以降、自分単独で海外出張をすることになった。他に人がいなかったので仕方がなかったが随分荒っぽい即製の海外ビジネス要員教育だった。
 それから暫くして出張するようになったが初めの頃はドキドキだった。英語も流暢でもなく我流のだった。今から思うと行くところ初めの所ばかりで、初対面の人たちとコミュニケーションして物事を決めて行けたものだと今更感嘆する。多分、必死だったのだろう。


 そんなビジネス出張の連続だったが仕事が終わりホッとできる夜のディナーは楽しみであった。特に外国人であっても複数人で頂く食事はお料理だけでなく、仕事やその他全般に話が進み楽しかった。

 初回のニューヨークでは先輩が私が牡蠣(かき=オイスター)が好きなのを知っていてある夜、ニューヨークの有名なオイスターバーに連れて行ってくれた。
残念ながら付いて行ったので正確に店の名前を憶えていない。「Canterbury Ales Oyster Bar」か「Grand Central Oyster Bar 」辺りではなかったと思う。
世界中の珍しいオイスターが食べられ当時でも1品1000円位はしたと思うが冷えた各地の珍味を満喫した。その中に日本の牡蠣(熊本)もあった。よくも世界中の牡蠣を集めたものだと驚いた。
 その後、ニューヨークには何回となく訪れたが基本的に一人出張でもあり、また、後年妻とニューヨークに旅をしたときも機会はあったがオイスターバーに行くことは無かった。
生牡蠣は好き嫌いがあり、食あたりを心配する人も居てステーキレストンに誘うようにはいかない。
しかし、今でもあの時の美味しいオイスターのことは忘れていない。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第70回) サンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフで4回も試飲したカリフォルニアワインワイン

2023-12-10 06:00:00 | 海外の旅
 サンフランシスコの「フィッシャーマンズ・ワーフ」(Fisherman's Wharf)
 サンフランシスコ北部の海岸沿いにある「フィッシャーマンズ ワーフ」は、サンフランシスコ市内で最も人が集まるエリアで、サンフランシスコの代表的な観光地で、海産物を使った料理が有名。名称の由来は、イタリア人漁夫の船着場として栄えたことからこの名がついた。


 土産物店、蟹の屋台、サワードウ ブレッドの器に入ったクラムチャウダーの屋台があちこちにあり、海の景色、ゴールデン ゲート ブリッジ、アルカトラズ島も絵ハガキそのもの。アシカの群れが見られるスポットや、歴史ある船の見学ツアーもある。ギラデリ スクエアには、有名なチョコレート工場跡にブティックやレストランが集まっている。

フィッシャーマンズ・ワーフでのワインハプニング
 サンフランシスコは同じカリフォルニア州のロスアンゼルスと共に日本人が親しむ都市であるが私も1980年代後半からアメリカはのビジネス出張でサンフランシスコにも何度か訪れている。
 いつもは単独出張が大半だったが確か西海岸への出張したときで珍しくイギリス人同伴の二人でサンフランシスコに出掛けたことがあった。この時初めて「フィッシャーマンズ ワーフ」で夕食を摂るため出かけた。沢山停泊するプレジャーボートと海辺に並ぶ海産物のレストランや屋台で賑わっていた。正にインターナショナルの人種が集まるサンフランシスコの代表的な観光地である。

 レストランの名前は忘れたが二人は海辺のテラスで洒落た海鮮料理を食し、折角カリフォルニアに来たのだから美味しい「カリフォルニアワイン」を飲むことにした。
ドライでコクのある高級のホワイトワインを店のソムリエに希望のテイストのワインを薦めて欲しいと伝えソムリエから自信あるワインの試飲を薦められた。
先に私が試飲し、イギリス人がその次に試飲した。二人とも「No」である。ソムリエからそれではと2番目の別酒のワインが来て、今度はイギリス人が先に試飲し、その後私が試飲した。しかし、残念ながらこれも「No」であった。
 さあ困った。2本も高級ワインをオープンさせたが客の私たちは納得しなかったのである。常日頃はワインのテイストは形式的な感じになっていたがこの時は高級ワインだったので真剣にかつ希望のワインを飲みたかったので簡単に「YES」の妥協はしなかったのである。
 希望のワインについてはイギリス人が英語で説明しているので言葉の問題はない。幾多あまたあるワインの中で客が求めるワインを薦めるのはソムリエの仕事である。ソムリエは3本目のワインを準備した。3本目のワインが来る迄の間、イギリス人と3本目も納得できなかったらどうしょうと話をした。
納得したワインを飲むため試飲している訳だが3本も拒否するのはマナー的に如何なものかと私は少し心配になった。
 ソムリエには私たちの希望に合ったワインを持って来てくれと祈った。
結果、3本目も「不合格」だった。私はワインのテイストに自信はあったし、イギリス人もワイン通で無理難題を言っているのではない。テイストとは言えども3度もNGを出すのは通常から逸脱しているのではないか。
 ワインのテイストは一種の儀式みたいになっており納得できないといって拒否する人をあまり見かけたことが無い。それを3回も納得しないのは逆にマナー違反みたいではないかと心配になった。
 イギリス人にテイスト的は納得できないがここで妥協したらどうかと提案した。しかし、ソムリエにもメンツがあったのだった。顧客に納得してもらえる高級ワインに値するワインを提供しようとソムリエも真剣だった。遂に彼は4本目のワインを持って来た。
 4本目は遂に「合格」だった。遂に希望していたワインに当たったのだ。
初めからこれを持って来てくれていれば1発合格だったのに。。。これでこちらも一安心した。過去に飲んだことがあるブランド、品種、年代など価格などを告げれば「即合格」になったのだろうが今回はカリフォルニアワインの新しい美味しいワインの発掘をしたかった。ハプニングはあったが遂に美味しいワインに当たった。しかし、通常はこんなことはお勧めできない。
 テイスティング不合格になったワインはどうするのだろう。グラスワインかテーブルワインで出すのだろうか。それにしても高価なワインなので後始末のことが気になった。。。
 その後、美味しいカリフォルニアワインを飲み、カニ料理や新鮮なオイスターなど海鮮料理をたらふく頂いた。
 今でも「フィッシャーマンズ ワーフ」はこの日の夜の夕食会の出来事を思い出す。
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