↑赤塚古墳
3月25日(水)午前、勝堂古墳群である「「赤塚古墳」・「弁天塚古墳」」を訪れた。
勝堂古墳群は古墳時代6世紀後期で愛知郡の渡来系豪族「依智泰氏」一族の墓ではないかと言われる。特に「弁天塚古墳」の被葬者は「朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)」である可能性があるとのこと。
古代への夢は1500年以上の昔に馳せ晴れることがない。筆者は古代の歴史にはまだ知識が薄く初心者であるが日々勉強中である。数ある歴史籍の他に郡史、町史など史書は郷土歴史の宝庫である。滋賀は、古墳、寺社、城跡の歴史の宝庫を感じる。
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勝堂古墳群:赤塚古墳、弁天塚古墳
所在地: 東近江市勝堂町930(古墳公園)
東近江市勝堂町には、『淡海記』などの江戸時代の文献に48基の古墳があったと記録されている。
現在は、墳丘の形態や石室の構造から古墳時代後期の6世紀後半頃に造られたと考えられる赤塚古墳、弁天塚古墳、行者塚古墳、おから山古墳、骨塚(北浦)古墳、朝日塚(山上塚)古墳の6基の古墳が残っており、愛知川中流域の右岸で最も規模の大きな古墳群である。
勝堂古墳群の被葬者は、湖東地域の開発に優れた土木技術とともに大陸からやってきた渡来人や、この地域を治めていた豪族であると考えられ、湖東地域の歴史を物語る上で重要な文化財である。
このうち、「赤塚古墳」と「弁天塚古墳」が1983年(昭和58年)に県史跡になっている。
勝堂古墳群の被葬者は、日本史上有名な白村江の戦いで活躍したことが『日本書紀』に記載される「朴市秦造田来津」の一族の可能性が高いとの指摘があり、終末期古墳としては県内有数の規模をもつ「弁天塚古墳」の被葬者は「朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)」である可能性もある。
山背が本願地の「泰氏」一族の氏族で、近江の渡来系氏族の中では最も有名な「依知(朴市)秦氏」だが、その実態は未だ不明な点が多い氏族である。
勝堂古墳群から旧愛知郡の地を見渡すと、依知(朴市)秦氏の果たした役割が何と無く分かるような気になれる。
「赤塚古墳」は径32m、高さ5m、周濠を伴う円墳で、横穴式石室が南に開口している。
隣接する「弁天塚古墳」は現状で径20m、高さ3mの円墳で、周囲には濠と堤がめぐらされている。未調査のため詳細は不明。
↑左:弁天塚古墳、右:赤塚古墳
↑弁天塚古墳の頂上にある社
尚、「赤塚古墳」と「弁天塚古墳」から400-500mのところに「おから山古墳」がある。