大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

日出町•糸ヶ浜の野鳥

2020-12-13 21:04:00 | 野鳥
この日はいつもとルートを変え、日出町深江漁港経由で糸ヶ浜〜杵築の守江湾ヘ行ってきました。2020.12.13


漁港にいたホシハジロ。


10羽ほどのホシハジロが近づいても逃げもせずにプカリと浮かんでいました。




近くのため池にいた1羽のカモ。




スズガモの♀のようです。


トビ


首なしアオサギ


ジョウビタキ♂


上のほうに1羽
 
下のほうに1羽


ジョウビタキの縄張り争いです。

 
イソヒヨドリ♂


糸ヶ浜海浜公園でイソヒヨドリ♀


岩に飛んで行きましたがどこにいるのやら..探したら白線の上にいました。


岩に化けたイソヒヨドリ。


最近あちこちでよく見るジョウビタキ♀


撮ってくれ、と言わんばかりに目の前をウロチョロします。






ハクセキレイ


カワラヒワ


マガモだと思いながらカメラを向けるとヨシガモでした。


糸ヶ浜では初見です。


移動の途中のようで、すぐ居なくなりそうです。


ヒドリガモ


砂浜にマガモ。


糸ヶ浜から杵築に入り、加貫漁港横の砂浜。


甲高い鳴き声を出していた猛禽類だけど、ミサゴかな。







大野川の野鳥カワアイサ飛来ほか

2020-12-12 19:51:00 | 野鳥
大野川の野鳥です。まずは河口でハクセキレイ。2020.12.12


前回撮ったときは曇りだったので再度河口ヘ撮りに行ってきました。ホオジロハクセキレイです。


ほっぺが白いハクセキレイだからホオジロハクセキレイ。


かわいいセキレイです。


河口では珍しいイカルチドリ


珍しくないイソシギ


ハシブトガラス


片足立ちのマガモ


大野川支流の乙津川でイカルチドリ


ハクセキレイ


カイツブリ2羽


大野川本流でセグロセキレイ


オオバン


少し上流に行き、ジョウビタキ♀


新たにノスリが飛来。


電線のニュウナイスズメ


ツグミ


新たにカワアイサも飛来。


警戒心の強い鳥で、気づかれて早速逃げられました。


同じ場所にいたオシドリには気づかれませんでした。


12月になっていっきに増えたオシドリ。


この周辺には現在100羽ほど来ているようです。







ルーミー/アナー•アル•ハック

2020-12-11 08:19:00 | イスラム/スーフィズム
  神化

蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、
部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。

「イスティグラーク」、
すなわち
忘我の境地というのは、
このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。

その者より生じるいかなるものも、全てその原因はその者には属さない。

水に溺れてもがいている者、あがいている者、「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、そうした者は未だ「イスティグラーク」に至ってはいない。

『アナー・アル・ハック』

すなわち「われは真理(神)なり」という言は、
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える。何という暴言、何という傲慢、と。

人びとは考える。
『アナー・アル・アブド』、すなわち「われは神のしもべなり」、という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。

断じて違う。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、真の謙譲を表わす言である。

『アナー・アル・アブド』

「われは神のしもべなり」と言うとき、その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。しもべ、などと上辺では卑しみつつも、しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」と言うとき、その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。

これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
      ルーミー詩撰より


 あなたは翼を持っている。それを使うことを学び、そして、飛び立ちなさい。(ルーミー) 
 

 私は空を飛びたかった

 ある晩、礼拝が終わり、夜間に定められたコーランの朗誦を終えたのち、私は瞑想にふけっていた。 

 恍惚におちいったとき、私は次のようなヴィジョンを得た。そびえ立つハーンカーがあった。それは開いており、私はハーンカーの中にいた。

 突然私は自分がハーンカーの外にいるのがわかった。宇宙全体がそのあるがままの姿において光からできているのが、私にはわかった。あらゆるものは一色になった。そして全存在物の微粒子は、おのおのの存在に特有の方法で、おのおのに特有の力強さで「アナー・アルハック」(我は真理−神−なり)と宣言した。私は、彼らがいかなる存在によってこのような宣言をさせられたのか、理解できなかった。

 このようなヴィジョンを得たのち、陶酔、法悦、強い願望、異常な愉悦感が私を襲った。

 私は空に飛び立ちたかった。しかし、何か樹に似たようなものが私の足もとにあり、そのために私は飛び立つことができないのだとわかった。

 私は、むやみやたらに地面をけとばしたので、ついに樹を払いのけることができた。

 弓から射られた矢のように、いや、それよりも百倍も強く、私は立ち上がり、遠くへ飛んで行った。

 第一天に着いたとき、月が二つに裂けるのがわかった。わたしは月を通り抜けた。この「不在」の状態から戻ったとき、私は再び「現存」の状態にいることを知った。

シャムス・アッディーンディン・ラーヒージ(1516年没)
 平凡社「スーフィー」p135より

 

 

ムハンマドの天界飛行

2020-12-09 19:33:00 | イスラム/スーフィズム
 以下の細密画は、16世紀のトルコの画家たちの手になる「マホメットの天界飛行」と題された作品である。マホメットの生涯を表したこの宗教画には、虚実とりまぜた天界飛行の様子が描かれている。厚き信仰の人マホメットは、七つの天を順に巡り、比類なきほどの至上の恩恵を得たのち、神の面前に立つのである。
(以下マホメットはムハンマドに表記)

  
 ある晩、ムハンマドのもとに天使があらわれた。天使ガブリエルはムハンマドを眠りからさますと、頸をちょうどよい大きさに裂き、中から心臓をとりだして洗った。再びムハンマドのからだのなかに心臓がもどされたとき、ムハンマドの魂は信仰と知恵に満たされていた。浄らかな心をもったムハンマドは空想上の動物、天馬(ブラーク)にまたがった。天馬は女の顔をしており、やっと目が捉えるほどの距離をただの一跳びでかけることができた。

 
 初めに二人が出会ったのは白いニワトリであった。ニワトリは頭でアッラーの王座をささえ、足を地につけていた。よってイスラムの土地には、人間の国に深く根を降ろさない宗教など存在しないのである。


 二人はゆっくりと進んだ。二人を待ち受けるのは永遠なる神に選ばれた者たちだった。そしてムハンマドと天使ガブリエルは、ダビデとソロモンに出会った。


 次に二人はモーセに礼を捧げた。彼らはすべての族長と預言者に礼をつくして、天上のモスクに来てもらったのである。


 次に二人は、エメラルドの玉座にすわるアブラハムにまみえた。カーバ神殿の礎をきずいたのが、このアブラハムである。アブラハムはイスマイルの父であり、アラブ人の祖である。


 最後に天馬は7番目の天に二人をつれていき、ムハンマドとガブリエルは天使たちに迎えられた。


 7番目の天で二人は大きな建物に入るようにいわれた。その建物は神の世界にありながらも、通路はどこか人間界の通路のようにも思われた。


 アラビアで二人はエメラルドと真珠の木を見つけた。その木の下にはナイル川とユーフラテス川が流れていた。


 600枚の羽をもつ大天使ガブリエルは、かくしてムハンマドにアッラーのことばを伝えるという、みずからの使命を果たしたのである。


 砂漠をわたる隊商の、名もないメッカのラクダひきムハンマドは、ついにアッラーの前にひれふした...。

 ムハンマドは雲と光につつまれ、神の前にぬかづいた。くり返し神の前にひれふすことは虚しいことではないと、ついにムハンマドは悟った。


 天国についたムハンマドは、ラクダにのった天女(フーリ)に迎えられた。


 これこそ神は唯一であると説きつづけたムハンマドの忍耐強さへの報いであった。

 
 ムハンマドのことばに耳を貸さず、なおざりにした人は地獄の業火に永遠に苦しむことになる。


 これが信心深いイスラム教徒が代々語りついてきたムハンマドの伝説である。


 しかし、アッラーの預言者の伝説とは、それ以上にごくふつうの男の生涯でもあった。


 だが、「ふつうの男」の生涯によって、歴史は大きく変わったのである。

  アンヌーマリ・デルカンブル著
  創元社「マホメット」より

アッラーの啓示

2020-12-09 19:32:00 | イスラム/スーフィズム
 メッカから数キロ離れたところに、ヒラーという小高い丘がある。611年、すでに40歳になっていたムハンマドは、ときおり、夜通しこの丘の洞穴にこもることを習慣としていた。乾燥して草木の生えないヒラー山は瞑想にはうってつけの場所だったからである。魂の邪魔をするものはなにもないこの丘で、彼は神の啓示を授かる・・・
  
啓示を受けた洞窟の岩盤にその旨が記載されている。wiki

ヒラー山はムスリム巡礼者がきそって訪れる場所であるが、山の入口には、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りが記されている。wiki

 私(ムハンマド)が眠っていると、彼(ガブリエル)は
文字の書かれた錦の布を持って私の前に現れ、「誦め、よめ」と言った。私が「何を誦むのか」と言うと、その布で私の首を締め上げたので、死ぬかと思った。このようなことが三度も続いた。

 彼は言った。《誦め、「創造主であるお前の主の名において、主は凝血から人間を創造した」。
誦め、「お前の主は寛大このうえなく、ペンで教えた。人間に未知なることを教えた」。(96章1−5節)

 私はそれを誦んだ。誦み終わると、彼は私から去った。私は眠りからさめたがそれは心に書きこまれたかのようだった。

 そこを出て、山の中を歩いていると、天からの声を聞いた。「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」。天を見上げると、男の姿をしたガブリエルが、両足を地平線にそろえて立ち、「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」と言っていた。私は、彼を見て立ちすくんだまま、進むことも戻ることもできなかった。顔をそむけようにも、ガブリエルの姿は地平線のあらゆる方向に、同じように見えた。前に進むことも、後ろにさがることもできないまま、その場に立ちつくしていた。
 
ムハンマドの前に現れたガブリエル(ジブリール)

 怖ろしくなったムハンマドは、ふるえながら、おぼつかない足どりで山をおりた。冷たい汗が額をながれた。顔はやつれ、両目は熱をおびて輝き、両肩はひきつったように小刻みにゆれ、あまりの狼狽の大きさに、山の崖っぷちから身を投げることまで考えた。胸苦しい、息のつまりそうな荒々しい感情がムハンマドをとらえた。

 ムハンマドは、なにを見、なにを聞いたのか。この時に彼はほぼ40歳。人生の試練にきたえられた、分別盛りの商人を、これほどまでに動揺させたものは、いったいなにか。サタンだろうか。だが、どうやらそれは、神の使い、天使ガブリエルが、ムハンマドにその前途を告げにやってきたようであった。そのことをムハンマドが確信するには、さらにくだされる啓示を待たねばならなかった。

 この夜、ムハンマドは、ヒラー山での一件を妻のハデージャにだけ打ち明けた。ハデージャはこの一件を知ってからも終生ムハンマドの支えとなる。

 つぎつぎに下される啓示は、ムハンマドにとってあいかわらず苦しい試練ではあったが、やがて慣れてきた。啓示のときには、何時間も酒に酔ったような放心状態が続き、からだは震え、たくさんの汗をかいた。そして鎖がすれるような、鳥の羽音のような音が聞こえてくるのだった。ムハンマドは、のちにこう述べている。「啓示が下されるときは、いつでも魂が抜けたような気になったものだ」。

 神が人間に直接語りかけることはあり得なかった。ムハンマド以前にも、アダム、アブラハム、モーセ、イエスのような預言者があらわれたが、公けにされた法は、すべて人間の手で書き写されたものだった。しかし、ムハンマドは、神の声が自分に伝えるように命じたことばを、ひたすら「誦む」ことにつとめた。聴衆を前にしての、この荘厳な読誦は、アラビア語でクルアーンとよばれ、ここからムスリムの聖典「コーラン」ということばが生まれた。

創元社「マホメット」
岩波書店「預言者ムハンマド伝」より