違憲下自衛隊 ⇔合法⇒菊印皇軍虎威借る狐「上官命令≒天皇陛下命令」前法2項刑法裁判⇒軍法裁判自民9条3項=後法優先削除同

違憲カジノ=政府利害関係者=背任罪=入場規制無⇔「市県府道民税・電気ガス水道完納」貧困ギャンブラー家庭子供生活環境保全無

前島英国派遣翌年【8月15日】帰国「駅逓“権”頭」⇒濱口梧陵⇒駅逓頭⇒翌8月17日

2011年05月10日 | 官僚の官僚による官僚の為の三権連合
引用:::

悠遊館21>余談・娯談・散談>両雄激突 両雄激突(2005年6月号)

今回は浜口儀兵衛と上野房五郎について書きます。

浜口儀兵衛と言うのは、銚子にあるヤマサ醤油の当主の名前です。1645年の初代以来続いており、現在でも12代当主がヤマサ醤油株式会社の社長です。今回の話は7代目浜口儀兵衛(1820-1885)のことです。文政2年紀州広村(現和歌山県有田郡広川町)に生まれた7代目儀兵衛は、当主となって、広村の本家と銚子を行き来していましたが、安政の大地震の時には、広村の本家に居りました。ところで、安政の大地震と言うのは、安政元年11月4日(新暦1854年12月23日)午前9時に起きた遠州灘沖を震源とするM(マグニチュード)8.4の安政東海地震(死者数千人)、翌5日午後4時の南海道沖を震源とする、前日と同じM8.4の安政南海地震(死者1万人)、それに翌安政2年10月2日(新暦1855年11月11日)の荒川河口を震源とするM6.9の安政江戸地震(死者1万人超)の3回の地震の総称です。11月5日(旧暦)夕刻、前日より遥かに激しい地震に見舞われた紀州広村は、続いて大津波に襲われました。儀兵衛は家族を避難させた後、夕暮れの中、自らは踏み止まりました。そして、自分の田にあった稲束(稲むら)に火を付けて村民に急を知らせ、多くの村民の命を救いました。身の危険や財産を顧みないこの行為はラフカディオ・ハーン(!★※小泉八雲)によって短編集で紹介され(1897年ロンドン刊)、また物語「稲むらの火」として1937年から1947年まで国定教科書に載せられました。地震の後儀兵衛は、生活基盤が壊滅した村民が離村するのを防ぐため、救援家屋を作り、農漁具を調達しました。更に、村民に現金収入を得させるのと将来の津波に備えるため、翌年から4年間をかけて、全長600m高さ5mの堤防を築きました。結局儀兵衛が広村救済に投じた自費は、!★※【合計4,665両】に達したと言います(紀州藩への具状書)。

 1両=30万~40万円で換算すれば(19号『昔の値段』)この金額は、現在価値で【14億円から19億円】という巨額になります。

:余談:【鶴の恩返し】!★※【御歳暮送りました】
 ヤマサ 【“鮮度の一滴”】 特選しょうゆ 500mlパウチ 1袋 273円 
 
儀兵衛は、翌年の安政江戸地震で江戸店と銚子の本拠が 大被害にあいましが、にもかかわらず、この巨費を投じた!★※気前の良さには頭が下がります。

さて、明治維新後廃藩置県まで、大名領はそのまま残り、紀州藩も和歌山藩として残りました。この時、浜口儀兵衛は和歌山藩の

!★※【勘定奉行に取り立てられて藩政改革】に力を注ぎましたが、

に儀兵衛は、新政府から招かれ駅逓頭となりました。

次に上野房五郎です。天保6年越後の豪農上野家に生まれた房五郎は、父の死後生家を離れ世に出るため苦学を続けました。巻退蔵と改名して箱館開成所に入り箱館丸で日本を周航したり(1860年)、薩摩藩の英学教授になったり(1865年)しました。

慶応2年(1866年)幕臣前島家を継いで前島来輔と改名し幕府開成所に勤め、明治2年(1869年)12月28日前島密となって新政府に出仕しました。そうです、上野房五郎とは先月ご紹介した

前島密(1835-1919)のことなのです。その後、前島密は明治3年【駅逓 権 頭】となって、

!★※【6月17日】英国派遣を命じられ渡欧、翌年【8月15日】帰国します。

つまり、明治4年8月15日には、【駅逓頭】浜口儀兵衛(51歳)、【駅逓 権 頭】 前島密(36歳)という組合せであったわけです。 両雄は激突します。

 翌日両者は面談し、儀兵衛から「通信の事はすでに飛脚屋あり、!★※【官営】は予の可とする所に非ず」との言を得た

前島は、最終 上司である【大蔵大輔 井上馨】に自分を駅逓頭とするよう訴えます(1956年刊前島密自叙伝)。

 結局更に!★※【翌8月17日】前島密が【駅逓頭】となり、浜口儀兵衛は和歌山県大参事(和歌山県知事)に任ぜられて中央を去りました。その後の前島の苦心と活躍は先月申上げた通りです。

一体何のために、儀兵衛を駅逓頭に任命し、しかも!★※【半月後に更迭】したのか、

 訳の分からない話です。儀兵衛はその閲歴から見ても分かる通り旧時代に名を成した人でした。それに対して前島は新時代に名を成すべく努力を続けてきた人ですので、新旧人材の対決で旧時代人が敗れたと言えるでしょう。

しかし、浜口儀兵衛は、堤防建設の目的を問われて、単に村民を救済して救済に慣れさせるのではなく、村民が働くことにより、いわば生産的に村民を救済するめに興したものであると言っています(1937年刊杉村広太郎『浜口梧陵伝』)。

また地震後の周辺村落を含めた行政経費の削減に儀兵衛が努力したことを考えると、

!★※【"官営"の限界】を知っていたのかも知れません。

 「官営は予の可とする所に非ず」と言う彼(:濱口梧陵)の言葉の意味はもっと重かったのかも知れないのです。

話は全く違いますが、東京駅丸の内南口を出た所に東京中央郵便局が建っています。一方大阪駅桜橋口を出た所には、大阪中央郵便局が建っています。つまり、東西の中央郵便局は、同じ様な場所に建っていますが、これらは同じ設計者の設計で作られています。即ち、逓信省技師吉田鉄郎の作品で、東京が1933(昭和8年)、大阪が1939年(昭和14年)に完成しています。両ビル共70年の歴史を経て、シンプルながら趣のある姿となっています。これを郵政公社は壊して建替えるそうですが、本当ならモッタイナイ話ですね。
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氏名因縁⇒小泉八雲≒小泉純一郎≒濱口梧陵≒【同・民営化指向郵政大臣】≒23日間辞任

2011年05月10日 | 旅行
濱口梧陵に防災学べ 「稲むらの火の館」にぎわう 和歌山 2011.5.7 02:10
 東日本大震災で防災教育への関心が高まるなか、安政南海地震の大津波から住民を救った物語「稲(いな)むらの火」が注目されている。モデルの濱口梧陵(ごりょう)の偉業をたたえる広川町の「稲むらの火の館」も遠足の小学生や親子連れらでにぎわう。物語が64年ぶりに小学校の教科書に復活したのを受け、3月に“リニューアル”したばかり。6日には、東南海・南海・東海地震で6メートル級の津波が想定される海南市などの3小学校が訪れた。(池田美緒)
 
「稲むらの火の館」は、濱口の功績や津波の恐ろしさなどを学ぶ複合施設として平成19年に開館。館内の津波防災教育センターには、津波の威力を体感できる3Dシアターや津波と普通の波の違いを学べる長さ約16メートルの実験水槽などがある。

 同館では教科書復活を機に、「もっとゆっくりと楽しみながら防災知識を学んでもらおう」と新たな見学コースを設定。スタッフ手作りで、室内の絵から大地震で起こる危険を考えたり津波のメカニズムや特徴について学ぶクイズや、新聞紙で簡易トイレを作るコーナーなどを設けた。

 震災後は小中学生や家族連れの来館が増えており、4月は前年比15%増の1536人。とくに新見学コースは、見学に時間をたっぷり取れる小規模な学校などの遠足や課外授業に好評という。

 連休の谷間の6日、遠足で訪れた海南市立下津小の児童約70人は班ごとにクイズやゲームに挑戦しながら防災を学んだ。5年の岩本拓巳君(10)は「寝室にタンスがあるのは危険と改めてわかった」。簡易トイレを作った木下貴仁君(10)は「難しかったけど上手にできた。トイレが使えなくなるのは大変」と話した。

 県内では全市町村の小学校が、「稲むらの火」を載せた光村図書の国語教科書を採択した。熊野享館長は「子供のころから防災意識を高めることが大切。教科書をきっかけに、梧陵さんの功績や精神も伝えていきたい」としている。


教科書「稲むらの火」復活1年早ければ…主人公の玄孫、灘高理事長の思い
2011.4.22 13:10 (1/2ページ)

「稲むらの火」に込められた防災の教訓を話す嘉納毅人さん=神戸市東灘区(甘利慈撮影)
 東日本大震災で津波の恐ろしさが再認識される中、安政元(1854)年の安政南海地震による津波から紀伊国広村(現和歌山県広川町)の村人を救った物語「稲(いな)むらの火」が注目を集めている。今年度、64年ぶりに小学校の教科書に復活したが、特別の思いを寄せるのが神戸市東灘区の私立灘中、高校理事長、嘉納毅人(かのう・たけひと)さん(67)だ。主人公のモデル、濱口梧陵(ごりょう)の玄孫(やしゃご)(孫の孫)の嘉納さんは防災意識の向上のため普及に尽力してきた。「1年早く教科書に載っていれば犠牲者を減らせたかも」と悔しさをにじませる。

 ■私財で大堤防…「政治トップ首かけ臨め」

 物語は、村の庄屋が地震の後、潮が引いて海岸が後退するのを見て津波の来襲を察知したことに始まる。刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に庄屋が火をつけると、火事と思った村人が消火に駆けつけ、その眼下で津波が村を襲う。庄屋の機転が村人を救った史実がもとになったとされる。

 感銘を受けた文豪、ラフカディオ・ハーン【!★※小泉八雲】が短編集で紹介。

 これをもとに小学校教師が書き上げた「稲むらの火」が

  昭和12年から【約10年間】、小学校の教科書に載った。

 主人公のモデルになった梧陵の玄孫にあたる嘉納さんは、津波の教訓を広く伝えるため物語の普及に取り組んできた。平成14年には「稲むらの火」のホームページを立ち上げ、記述の大半を嘉納さんが執筆した。

:入り口 御影製 門柱「稲むらの火の館」【小泉純一郎総理大臣閣下⇒“直筆”】

:何故かと言えば【小泉八雲】繋がりでは無く⇒明治4年に【初代〒郵政大臣】にあたる【初代 駅逓頭】の濱口梧陵が

:!★※「将来は 民間の経営に ゆだねるが良い」としてから134年目のことであった。

:「職員の対応は格段に良く成った」 ⇔三社分割⇒非効率・不便! 

:【官営 ⇔民営】と!★※意見⇒対立!⇒濱口梧陵⇒【23日間だったかで辞任】

:【初代 駅逓頭】⇒【テ⇒〒】【ヤマサ醤油7代目浜口梧陵生ける神(A Living God)」】

【1代 榎本武揚】 第1次伊藤内閣 黒田内閣 1885年12月22日-1889年3月22日

:!★※氏名因縁!?【33代 小泉又次郎】【濱口】内閣 第2次若槻内閣  1929年7月2日-1931年12月13日 「どうよ!?」


:町内会バス見学催事⇒5月8日で「稲むらの火の館」訪れた! 

:お菓子代金充当分は⇒我慢して⇒東日本大震災⇒寄付したそうです! 

:湯浅自動車道路⇒ゴールデンウィーク⇒複線化間に⇒【合わず停滞!】

:(帰途⇒海南⇒中野酒造までは地道案外空いて居たが直前から停滞!)

:タイヤ無い時代だから【海運水運⇒唯一⇒大量輸送手段】として有利!

:(復活⇒紀伊半島メリット⇒「タイヤ税創設!?」)

:建白:以前もしたが【フェリー運行させれば渋滞緩和!】 ⇔(高速道路は多額の建設費が動く・・・

:国民宿舎「湯浅城」昼食・入浴⇒醤油資料館【角長】⇒海南:中野酒造!⇒庭園側から望むが【臨海工業地帯お隣は⇒石油タンク林立・・・】

:コマーシャルで気に入ってるのが「日本酒⇒和歌山⇒!★※【和酒】」

:「誰が市議会議員に成っても同じでは無い」⇒「タダス・正す⇒和歌山の和と書いてい」⇒【小早川 正和】「裏切りません!」

:余談:以前:「昔の酒蔵」沢の鶴資料館(〒郵便貯金⇒最終の旅行・たった2回しか参加出来なかった・・・)

:幼少時代余談:「忠勇」は【灘五郷】の一つ西郷に所在した蔵元に由来し、酒造分野での商標は白鶴酒造に譲渡したものの、【忠勇ブランドの奈良漬】の製造は現在も続けられている。

岡公園(天妃山) 日清戦争記念碑 山頂付近にブロンズ製三角錐(:機銃弾痕有り!)

 和歌山城の南東部にある岡公園には、多くの頌徳碑等が建立されています。

:パラシュートにて【忠勇奈良漬試供品】販売促進として⇒岡公園「テンピ・天妃山」上空より⇒ 散布され⇒拾得! 嬉しくて 未だに忘れられ無い!

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Gcy1AXAhh70J:jiiyasan.ikora.tv/e96168.html+%E9%A0%8C%E5%BE%B3%E7%A2%91%E3%80%80%E5%A4%A9%E5%A6%83%E5%B1%B1&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp

:「う“ろ”覚え・疎覚え」⇒中断(途中で書けなくなるが)⇒今時はネット時代⇒何でもでも⇒検索一発 感謝!
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