柳条湖事件(満洲事変)で満州から追い出された張学良は熱河省(満州内)で義勇軍を作り、反満抗日に動き出した。 この勢力をたたくために関東軍が実施したのが熱河作戦である。 関東軍は張学良軍を破って万里の長城の主要な関門を押さえ、張学良軍は万里の長城以南(関内)へ追いやられた。 この作戦は、満州独立を脅かす敵を掃討するために行なった満州独立に付属するものだった。 熱河作戦は軍事行動として見事だったと言われている。
関東軍司令官の武藤信義大将は、「熱河省は満州国領内であり、熱河作戦は対支戦争を起こすためではない」といい、「長城の向こう側の河北省は中華民国の領域だから越えてはいけない」と部下に命令した。
日本としては満州の独立を確保するところでとどまろうとしたのである。
ところが、支那側は万里の長城から攻撃する。さらに20個師団近くを集めて攻撃を行い、一部の軍隊は満州国領内の熱河省に入ってきた。これに対して関東軍は関内作戦を行う。 932年)
熱河作戦で関東軍は張学良軍を万里の長城以南(関内)へ追いやったのだが、熱河省は満州国領内で、長城の向こう側の河北省は支那(中華民国)の領域だからという理由で万里の長城まで占領はしなかった。熱河作戦は支那と戦争をするためのものではなかったからである。
ところが、国民政府は張学良に代えて何応欽を責任者に任命し、5万の中央軍が万里の長城に登って、関東軍を見下ろす形で攻撃してきた。さらに支那側は20個師団近くを集め、全線に渡って攻撃を始めた。また、一部の軍隊は満州国領内の熱河省に入ってきた。 ここでようやく関東軍は長城を超えて進撃した。しかし途中で止まり、万里の長城の外へ戻った。
!★※ 天皇陛下が「関東軍の前進中止を命令したらどうか」という質問の形で侍従武官に述べたため、関東軍は撤退したのである。
「日本が退いたから、このへんで手を打とう」という発想が支那にないのは悲劇だった。退いたら必ず出てくる。 結局は万里の長城にいる支那軍を放置することができず、関東軍は再度長城を超えて関内に軍を進め、北京のすぐそばまで迫った。そこでやっと何応欽が停戦の提案を行ない、昭和8年(1933)に塘沽停戦協定が結ばれる。 塘沽停戦協定(1933年)
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