朝の散歩で鹿児島神宮、つまり神域を訪ねました。その続きです。
かつて国分市と言われた自治体ですが、現在は広域合併により霧島市です。
その国分にある国分寺址です。ひょっとして国分市の名の由来はこの国分寺?
ちょっと面倒ですが、国分は”花は霧島たばこは国分”で歌われたように”こくぶ”と読みます。
国分寺は文字どおり”こくぶんじ”ですが、”こくぶじ”と訛ってたかも・・(^^;
歌詞どおりたばこの生産が盛んだったものの減ってきているとか・・
「跡」、なぜ無くなった・・
明治に遡るようです。
江戸幕府は寺を厚く遇し、しかも半ば行政機関として扱います。
キリスト教に煮え湯飲まされた結果の寺請制度の担い手ですね。
ただどの宗派でもいいわけではなかったようです。
幕府の言いなりにならない日蓮宗不受布施派などは迫害を受けたようで寺を追われた例もあります。
仏教は外来宗教です。しかも幕府の保護下にあり、反幕勢力や大きな負担を強いられる庶民からは幕府支配の象徴?
思想的にも日本のオリジナルは高天原に降りた神様を信奉する神道ということでしょうか。この近所です。
神仏は習合して・・荒っぽい言い方をして”一緒くた”になっていたのを、”神と仏は別物だから一緒に祀るな”という号令を明治政府が掛けます。神仏分離令です。
だから決して仏教を排斥せよと声を掛けたわけではありませんが、一気に仏教排斥寺院破却に”炎上”する事例が発生します。廃仏毀釈です。
全国一律ではなく、かなりの地域性があったようです。(丹波でも神仏習合のまま残る社寺を見たことがあります。)
初期の明治政府というのはまさに薩長藩閥政府、言い出しっぺですからね・・
ここも墓地だけが残ります。
もと鷲峯山勧持院遠寿寺の跡地とのことです。島津義久公夫人の供養塔が残るそうですが、そういう寺ですね。
前投稿、小学校も寺院の跡、地図で見てそのほかにも「跡」が複数あるようです。
日本は体制が変わっても文化芸術まで全否定しないお国柄と信じたいんですが、無碍なことをしたものです。
廃仏毀釈で永遠に失われたり海外流失したもの多大と言われます、残念。