まずは平身低頭してのお詫びから。
「なんでこんなもんを書いたか」は、次回に持ち越しです。
次回にはちゃんとやります。
なぜなら、次回が『うたの原生林をもとめて』の最終回(暫定)だからです。
『
うたの原生林をもとめて 3』のアップ後、生活環境に大きな変化が生じました。
詳細については、そのうちぽろぽろと公表していくことになります。
なんだか支離滅裂な前置きですが、きちんと文章をまとめるだけの精神的・肉体的・時間的な余裕がないせいとお考え下さい。
ただ、この余裕のなさは、決してネガティヴなものではありません。
それでは、前置きはここまでとして。
4.神々への捧げ物
'60年代の「インド音楽ブーム」、'70年代の「エスニック・ブーム」に共通するのは、欧米が彼らを「発見」し、欧米のコンテクストの中で紹介されていったことである。
欧米が「発見」するまでは、第三世界の伝統音楽の演奏家たちは、文字どおり埋もれていたことになる。これは、ある意味で正しい認識なのかもしれない。なぜなら伝統音楽の演奏家は、特定の場所で、特定の聴衆のためにしか演奏しない存在であるからだ。これは、欧米的な考え方では、演奏家としてのキャリアを棒に振るということになる。
西欧において、伝統音楽の演奏家と同質の存在を探すならば、村の教会のオルガン弾き、というのがそれに当たるだろうか。しかし、西欧の社会においては、このオルガン弾きに才能と上昇志向があれば、彼は都会の教会のオルガン弾きに転進できるのである。現代においても、ヨーロッパの大都会の歴史ある教会のオルガン奏者は、日本でいえば音大を出て、そうして位階を上ってきた人が占めているという。
第三世界の伝統音楽においては、そうした転進は、まずありえない。彼らの演奏技法は一族に伝わるものであり、生まれ育った土地に根ざしているものだからだ。彼らの演奏は、根本的には、彼らの神々に、王侯に、祖先たちに捧げられるものであり、神や王侯、祖先を共にしないのであれば、たとえすぐ隣に住んでいる者にとっても無意味なものだからだ。
こうした地域に密着した存在である伝統音楽の演奏家たちを、背景を一切抜きに一時的に借り受けて演奏させるというのが、まず、欧米における「発見」であった。
「発見」された伝統音楽の演奏家たちは、欧米のコンテクストにのっとって演奏をすることになった。
コンサート・ホールのステージの上で、聴衆と対峙することになったのである。この形式は、伝統音楽の演奏家たちにとっては地域を問わず異例といえるもので、事情を知らぬものには笑い話としか思えぬ事態も頻発された。
また、対観客という点のみならず、演奏の時間的なフォーマットも文化的な相違を浮き彫りにした。
多くの欧米のコンサートは、日没後しばらくあってからはじまり、二時間ほどを目安として終了する。これがどのような基準から生まれたものか寡聞にて不明だが、おそらく西欧の生活リズムの上では、この二時間というのは一区切りとして意識しやすい単位なのだろう。
対する伝統音楽にも、それぞれの時間的フォーマットがある。その多くは、分や秒といった単位では計れないもので、中断や省略が不可能であることも珍しくない。また、彼らのレパートリーには、さまざまな禁忌(タブー)が存在する。それは暦が決めるものであったり、あるいは天候によるものであったり、あるいは彼ら自身の肉体的・精神的条件が求めるものであったりする。しかし、欧米のコンテクストは、そうしたものを顧慮しない。観客が求めるレパートリーが、唯一の正義だ。
その夜のステージを終えた伝統音楽の演奏家たちは、欧米のコンテクストに従って、次なる演奏地に向けて旅立つ。大都市を経巡る演奏旅行は、バッハの時代からの西欧音楽の伝統である。
そうした合い間に、伝統音楽の演奏家たちは、欧米のミュージシャンたちのレコーディングに参加する。西欧の歴史に一刷けの彩りを添えるため、硬直した構造に新たな可能性を与えるため、遊興と土産物に費やした財布に若干の重みを取り戻すため。もちろん、そうした場でも文化的な距離は明らかにされた。
しかしながら、そうしたすべては、無駄ではなかった。
'70年代のエスニック・ブームにてより広範に「発掘」された後、'90年台はじめ、巨大産業の裳裾の影から零細な独立資本と野心的な西欧の音楽家たちにエスコートされて、ふたたび第三世界の演奏家たちが登場した。いつの間にか世代交代を果たし、欧米で必要とされるひと通りのステップをマスターしていた彼らの音楽は、もはやエスニックとは呼ばれず、「ワールド・ミュージック」と呼ばれることになる。
つづく
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