南方単車亭日乗

奄美大島にIターンした中年単車乗りが、てげてげに綴ります。
はじめての方は、最初に《ごあいさつ》をお読みください。

うたの原生林をもとめて 3

2007年09月28日 01時58分51秒 | お蔵出し
珍しく予告どおりに、エッセーもどき『うたの原生林をもとめて 3』のお届けです。
ただし、予告どおりに行かない部分もありまして、「なんでこんなもんを書いたか」は、次回にお預けです。
すんません。肩・肘・手首と多重故障状態です。
まずは稼ぐほうを優先しないと、干上がっちゃいます。
ついでにお詫び。
コメントの返事ももうしばらくお待ちください。
それでは、前置き短めで参りましょう。
あ、『うたの原生林をもとめて 1&2』の続きですので、ご承知おきを。


  3.ウェイラーズもやって来たイェア!イェア!イェア!

 消えたかに見えた、欧米の、第三世界の音楽に対する情熱は、思わぬところからよみがえってきた。
 カリブ海の旧イギリス植民地ジャマイカから彗星のようにあらわれた音楽、レゲエは、映画「ハーダー・ゼイ・カム」とボブ・マーリー&ウェイラーズのヨーロッパ・ツアー、そのツアーの模様を収めたアルバム「LIVE!」の爆発的なヒットによって、一挙に世界的な知名度を得た。欧米のミュージシャンたちもまた、レゲエのリズムを自分たちの音楽に取り入れていった。
 かつてビートルズの影響により「東洋」へと向かったベクトルは、一気にジャマイカへと向かった。
 '60年代との大きな違いは、興味を向けられた側にも最小限の設備と、原料の提供だけでは終わらせないだけの蓄積が用意されていたことである。ジャマイカのミュージシャンたちは、ツアーこそ欧米へ、あるいは日本へと向かったが、生活と音楽製作の場としてのジャマイカに徹底的にこだわった。政治的な理由などで一時ジャマイカを離れざるを得なかったミュージシャンもいないではなかったが、それでも彼らはレコーディングのためにジャマイカに戻る生活を続けていた。また資本の側も次々とあらわれるニューフェイスを歓迎し、それがためレゲエは、レゲエという名のみ保って細胞分裂と進化を繰り返した。
 欧米から第三世界へと向かった流れは、ジャマイカだけにとどまらなかった。
 レゲエほど大きな流れになることはなかったが、ジャマイカからさらにアフリカへと辿った探索者は、ジュジュ・ミュージックのキング・サニー・アデ、アフロ・ファンクのフェラ・クティを紹介し、島ならば東洋にもあると向かった者は、バリ島のガムランを見出した。レゲエに端を発したこの時の流行は、エスニック、あるいはエスノと呼ばれた。'60年代と比べてのあきらかな違いは、「発掘」されるミュージシャンの側の多くが、欧米式のバンド・スタイルを持ち、自然に電子楽器を使いこなしていたことである。これは、「発掘」する側にも選択の意思が働いていたのかもしれない。
 そして、探索は、日本でも行われた。

 1972年にアメリカ軍の統治から日本に返還された沖縄は、評論家の竹中 労が中心となって、返還以前からその芸能が紹介されてきたが、一部の音楽ファンと沖縄地方出身者以外にはその試みが影響を与えることはなかった。
 しかし、当時はエスノ・ブームと呼ばれ、後に第一次ワールド・ミュージック・ブームと呼ばれることになるこの流れは、マス・メディアを刺激し、喜納昌吉を中心とした沖縄のミュージシャンを広く一般に紹介することになった。
 後に検証してみると、「喜納昌吉」、「ハイサイおじさん」、「沖縄ロック」、「南 沙織」、「サンシン」という固有名詞しか残らなかった奇妙なブームではあったが、それでもひとつの取っ掛かりを与えたブームであったと言えるだろう。
 ちなみにこの沖縄ブームは、おそらく沖縄海洋博の閉幕で終わったのではあるまいか。実に日本的、マスコミ主導的な展開ではある。

 世界的な視点で考えるならば、ジャマイカを焦点とした第三世界の音楽探求ブームは、レゲエという固有名詞が浸透し、ロックやジャズといったジャンルと並列で扱われるようになって終息を得た。
 しかし、このブームの終了後、欧米と第三世界の音楽の関わりは、それまでとまったく変わってしまうことになる。


つづく


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うたの原生林をもとめて 1&2

2007年09月22日 00時23分50秒 | お蔵出し
ども。
ご無沙汰しております。
最近は、ひたすら内職に励む毎日です。
特に多い日は、一日10万回ほどもキーボードを叩いている勘定になります。
ブログの編集ページを開いても、「肘いてぇ」なんぞと言ってそのまま閉じてしまいます。

そこで、今回からはしばらく、むかーし(たしか5年位前)に書きかけてホッタラカシたエッセーもどきを発表します。カテゴリも『お蔵出し』です。
なんでこんなものを書いたかは、次回以降に白状します。
あ、ちなみに未完のまんまです。のワリにはムダに長文です。リンクをクリックすると、(IEでは)別ウィンドウが開いて、そのうちの幾つかは”ゆうちゅうぶ”の動画にリンクしてます。
それでは、どうぞ。


  1.アジア発奄美行き

 「日本の」ワールド・ミュージックとして、奄美の民謡が注目されはじめたのはいつの頃からだろうか。
 もちろん、その端緒として「百年にひとりの唄者」と呼ばれた武下和平の歌唱を記録し、発売した日本ビクターの一連の作品を無視するわけにはいかない。しかし、やはりこの時点においては、「現存する民謡の重鎮」としてカタログ化しようという狙いの方が大きかったのではないか。すなわち、世界の音楽地図に未踏の地としてその位置を記すというよりは、日本民謡の国勢調査の一環として、ある地域における代表的な存在を明記しておくのが目的だったように見える。
 いっぽう、武下とはその師である福島幸義のもとで兄妹弟子の関係にあった朝崎郁恵が、ピアニストの高橋全との共作ミニCD「海美(あまみ)」を、高橋の自主制作という形で1997年に発表している。この作品は、国内の著名なミュージシャンからも高い支持を受けて、2002年、大手のユニバーサル・レコードからフルサイズ・アルバム「うたばうたゆん」としてリニューアルされて発売された。
 しかし、ポップ・ミュージックのファンに与えたインパクトがもっとも大きかったのは中野律紀(現在は、RIKKI名義)が1995年に発表した「RIKKI」であることは、疑問の余地はない。
 当時、すでにその活動の中心をアジア市場に移していた久保田麻琴がプロデュースした本作は、中野に冠せられた「奄美の歌姫」という称号をより広義に解釈し、東南アジア音楽文化圏という仮説を打ち立てるかのように様々なアイディアに満ちていた。
 その地理的な側面と中世から近世にかけての歴史的な経緯から、沖縄文化圏の一地方種として分類されていた奄美地方の音楽が独自の存在を世界に向けて主張しはじめたのは、「RIKKI」の発表によってだと言える。

 しかしながら、この野心的な試みは、当時中野が在籍した日本ビクターの販売方針と中野の対立という形で幕を下ろすこととなった。中野側の主張によれば、当時の流行であったダンスビートを積極的に取り入れた作品をビクター側に強要され、自らのアイデンティティを蔑ろにされることを拒絶するために、その活動をインディーの場に移さざるを得なかったという。
 いずれにせよ、中野律紀の「RIKKI」によって、奄美という土地の名を記憶に刻まれた人々は、その関心を元ちとせのデビューまで封印するか、中野のルーツである奄美民謡(シマ唄)への探求の旅路を辿るほかなくなった。
 それは地図もなく、月明かりもなく、行き止まりや袋小路に満ちた旅である。そして以下に記されているのは、さしたる考えもなく、流されるままにその旅路に出てしまった者からの経過報告である。


  2.ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

 1950年代、レコード・ビジネスはまずアメリカで産業となり、5年ほど遅れてヨーロッパが追随し、やがて世界のあらゆる場所が、レコード・ビジネスの市場となった。
 それまでの音楽産業は、きわめて小さな市場を形成し、限られた人々の間で商品として流通されていた。
 一例をあげるならば、ビートルズのプロデューサーとして名高いジョージ・マーティンは、その自伝で、ビートルズとの出会いの前に製作したレコードがイギリス国内において二ヶ月で三千枚の売上を記録して、「ヒット・メーカー」と呼ばれた、と語っている。
 そんな零細な産業が、なぜ瞬く間に巨大産業となったのか。もちろん、様々な要素が複雑に絡み合った結果だろう。第二次大戦からの復興が一段落したこと、西欧各国の植民地放棄と独立ラッシュが一時的ながらも第三世界の諸国の庶民の経済水準を引き上げたこと、ビートルズというスーパー・グループの出現、好景気による企業宣伝の活発化とそれに応えるかのように次々と設立された放送局、平和反戦運動、挙げればきりがない。とにかく、音楽産業はビッグ・バン的な成長を遂げた。
 ひとつの産業が成長すれば、その産業の、それまで省みられなかった部分もそれなりに注目を受けはじめるようになる。レコード会社は、第二のビートルズ、第二のプレスリーを求めるだけではなく、まったく新たな市場を求めて、世界の辺境と呼ばれる地域へと手を伸ばしていくことになる。それはまた、意外な支援者の出現により、予想もしなかった展開を呼ぶことになった。
 六十年代半ば、ライブ活動を停止したビートルズはインド音楽に関心を寄せ、ローリング・ストーンズ(ブライアン・ジョーンズ)は休暇先のモロッコの伝統音楽に注目した。黒人音楽に傾倒したロック・ミュージシャンはアメリカ南部の音楽にルーツを求め、あるいはスコットランドアイルランドの民謡のアレンジを試みた。
 これらの動きに追随したのは彼らのファンたちである。インドの伝統音楽のシタール奏者たちは欧米への演奏ツアーを頻繁に行い、また欧米からインドに移り住み、シタール奏者に弟子入りする者もあらわれた。
 こうした動きは、折からのヒッピー・ムーヴメントと一体化し、ベトナム反戦運動とともにピークに達し、やがて日常の中に溶け込んでいった。時は移り、西暦は1970年代に入っていた。
 欧米における音楽産業は巨大化し、効率化、集約化がはじまっていった。ロック・ミュージカルが製作され、ロック映画が封切られ、人気グループのコンサートは既設のホールでは観客を収容しきれず、スポーツ・スタジアムに特設ステージが組まれた。
 無名の新人として華々しく売り出される者は有名作曲家のゴースト・ライターを勤めた経験を持ち、人気グループの舞台の袖でテープ代わりに演奏していたミュージシャンが呼び集められてバンドを組む。ディスコ・ブームについては、もはや言及する値打ちもない。
 効率化は、大手資本のオフィスからの辺境へのフライト・チケットをキャンセルさせ、集約化は、代わって座席に着いた小規模資本を流通経路から駆逐した。


つづく


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デジカメデータ回収

2007年09月04日 20時05分16秒 | 南方単車日乗
ついに壊れてしまったデジカメですが、先日、古仁屋にちょこっとした用事があったついでにべんぢゃみん殿下お願いして、データを取り込んでもらいました。
やっぱり壊れる直前だけあってか、ピントが合ってない画像がいくつもあります。
え? オマエのウデの問題だ?
うん、ま、それはそれとして。



今回、回収したかった画像の一つです。
R58の旧道を少し外れて、アマミファッション研究所の裏手を抜ける細い道にできた水たまりに、オタマジャクシがたくさん泳いでいました。
路肩ではなく、このところの多雨で側溝が溢れて路面の轍にできた水たまりです。
クルマだったら全く気付かずに、勢いよく水たまりを跳ね上げてしまいそうなところです。
こんな水たまりにも生命が溢れてるんですなぁ、と感心しつつ撮影させていただきました。

さてと。

ふたたび皆様にお願いです。
じつは、《焼内湾彷徨》に続く次の『南方単車旅案内』シリーズをどれにしようか、未だ決めかねています。
候補は以下の4つ。
「小湊→崎原→戸口」(仮題:未定) < 
「大熊から龍郷町の東シナ海沿岸部を巡って浦まで」(仮題:龍郷町半周)
「本茶峠」(仮題:未定)
「宇検村船越海岸から大和村を巡って名瀬まで」(仮題:大和村を還る) < 

      は、これまでご希望をいただいた数を示しています。

いずれも画像の準備はほとんど出来ていますが、本文はこれからです。
『これをやれ』『あっちがいい』等、ご意見をお待ちしています。
かなり真剣に迷っています。
どうか、コメントをお寄せください。

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