珍しく予告どおりに、エッセーもどき『うたの原生林をもとめて 3』のお届けです。
ただし、予告どおりに行かない部分もありまして、「なんでこんなもんを書いたか」は、次回にお預けです。
すんません。肩・肘・手首と多重故障状態です。
まずは稼ぐほうを優先しないと、干上がっちゃいます。
ついでにお詫び。
コメントの返事ももうしばらくお待ちください。
それでは、前置き短めで参りましょう。
あ、『うたの原生林をもとめて 1&2』の続きですので、ご承知おきを。
3.ウェイラーズもやって来たイェア!イェア!イェア!
消えたかに見えた、欧米の、第三世界の音楽に対する情熱は、思わぬところからよみがえってきた。
カリブ海の旧イギリス植民地ジャマイカから彗星のようにあらわれた音楽、レゲエは、映画「ハーダー・ゼイ・カム」とボブ・マーリー&ウェイラーズのヨーロッパ・ツアー、そのツアーの模様を収めたアルバム「LIVE!」の爆発的なヒットによって、一挙に世界的な知名度を得た。欧米のミュージシャンたちもまた、レゲエのリズムを自分たちの音楽に取り入れていった。
かつてビートルズの影響により「東洋」へと向かったベクトルは、一気にジャマイカへと向かった。
'60年代との大きな違いは、興味を向けられた側にも最小限の設備と、原料の提供だけでは終わらせないだけの蓄積が用意されていたことである。ジャマイカのミュージシャンたちは、ツアーこそ欧米へ、あるいは日本へと向かったが、生活と音楽製作の場としてのジャマイカに徹底的にこだわった。政治的な理由などで一時ジャマイカを離れざるを得なかったミュージシャンもいないではなかったが、それでも彼らはレコーディングのためにジャマイカに戻る生活を続けていた。また資本の側も次々とあらわれるニューフェイスを歓迎し、それがためレゲエは、レゲエという名のみ保って細胞分裂と進化を繰り返した。
欧米から第三世界へと向かった流れは、ジャマイカだけにとどまらなかった。
レゲエほど大きな流れになることはなかったが、ジャマイカからさらにアフリカへと辿った探索者は、ジュジュ・ミュージックのキング・サニー・アデ、アフロ・ファンクのフェラ・クティを紹介し、島ならば東洋にもあると向かった者は、バリ島のガムランを見出した。レゲエに端を発したこの時の流行は、エスニック、あるいはエスノと呼ばれた。'60年代と比べてのあきらかな違いは、「発掘」されるミュージシャンの側の多くが、欧米式のバンド・スタイルを持ち、自然に電子楽器を使いこなしていたことである。これは、「発掘」する側にも選択の意思が働いていたのかもしれない。
そして、探索は、日本でも行われた。
1972年にアメリカ軍の統治から日本に返還された沖縄は、評論家の竹中 労が中心となって、返還以前からその芸能が紹介されてきたが、一部の音楽ファンと沖縄地方出身者以外にはその試みが影響を与えることはなかった。
しかし、当時はエスノ・ブームと呼ばれ、後に第一次ワールド・ミュージック・ブームと呼ばれることになるこの流れは、マス・メディアを刺激し、喜納昌吉を中心とした沖縄のミュージシャンを広く一般に紹介することになった。
後に検証してみると、「喜納昌吉」、「ハイサイおじさん」、「沖縄ロック」、「南 沙織」、「サンシン」という固有名詞しか残らなかった奇妙なブームではあったが、それでもひとつの取っ掛かりを与えたブームであったと言えるだろう。
ちなみにこの沖縄ブームは、おそらく沖縄海洋博の閉幕で終わったのではあるまいか。実に日本的、マスコミ主導的な展開ではある。
世界的な視点で考えるならば、ジャマイカを焦点とした第三世界の音楽探求ブームは、レゲエという固有名詞が浸透し、ロックやジャズといったジャンルと並列で扱われるようになって終息を得た。
しかし、このブームの終了後、欧米と第三世界の音楽の関わりは、それまでとまったく変わってしまうことになる。
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ただし、予告どおりに行かない部分もありまして、「なんでこんなもんを書いたか」は、次回にお預けです。
すんません。肩・肘・手首と多重故障状態です。
まずは稼ぐほうを優先しないと、干上がっちゃいます。
ついでにお詫び。
コメントの返事ももうしばらくお待ちください。
それでは、前置き短めで参りましょう。
あ、『うたの原生林をもとめて 1&2』の続きですので、ご承知おきを。
3.ウェイラーズもやって来たイェア!イェア!イェア!
消えたかに見えた、欧米の、第三世界の音楽に対する情熱は、思わぬところからよみがえってきた。
カリブ海の旧イギリス植民地ジャマイカから彗星のようにあらわれた音楽、レゲエは、映画「ハーダー・ゼイ・カム」とボブ・マーリー&ウェイラーズのヨーロッパ・ツアー、そのツアーの模様を収めたアルバム「LIVE!」の爆発的なヒットによって、一挙に世界的な知名度を得た。欧米のミュージシャンたちもまた、レゲエのリズムを自分たちの音楽に取り入れていった。
かつてビートルズの影響により「東洋」へと向かったベクトルは、一気にジャマイカへと向かった。
'60年代との大きな違いは、興味を向けられた側にも最小限の設備と、原料の提供だけでは終わらせないだけの蓄積が用意されていたことである。ジャマイカのミュージシャンたちは、ツアーこそ欧米へ、あるいは日本へと向かったが、生活と音楽製作の場としてのジャマイカに徹底的にこだわった。政治的な理由などで一時ジャマイカを離れざるを得なかったミュージシャンもいないではなかったが、それでも彼らはレコーディングのためにジャマイカに戻る生活を続けていた。また資本の側も次々とあらわれるニューフェイスを歓迎し、それがためレゲエは、レゲエという名のみ保って細胞分裂と進化を繰り返した。
欧米から第三世界へと向かった流れは、ジャマイカだけにとどまらなかった。
レゲエほど大きな流れになることはなかったが、ジャマイカからさらにアフリカへと辿った探索者は、ジュジュ・ミュージックのキング・サニー・アデ、アフロ・ファンクのフェラ・クティを紹介し、島ならば東洋にもあると向かった者は、バリ島のガムランを見出した。レゲエに端を発したこの時の流行は、エスニック、あるいはエスノと呼ばれた。'60年代と比べてのあきらかな違いは、「発掘」されるミュージシャンの側の多くが、欧米式のバンド・スタイルを持ち、自然に電子楽器を使いこなしていたことである。これは、「発掘」する側にも選択の意思が働いていたのかもしれない。
そして、探索は、日本でも行われた。
1972年にアメリカ軍の統治から日本に返還された沖縄は、評論家の竹中 労が中心となって、返還以前からその芸能が紹介されてきたが、一部の音楽ファンと沖縄地方出身者以外にはその試みが影響を与えることはなかった。
しかし、当時はエスノ・ブームと呼ばれ、後に第一次ワールド・ミュージック・ブームと呼ばれることになるこの流れは、マス・メディアを刺激し、喜納昌吉を中心とした沖縄のミュージシャンを広く一般に紹介することになった。
後に検証してみると、「喜納昌吉」、「ハイサイおじさん」、「沖縄ロック」、「南 沙織」、「サンシン」という固有名詞しか残らなかった奇妙なブームではあったが、それでもひとつの取っ掛かりを与えたブームであったと言えるだろう。
ちなみにこの沖縄ブームは、おそらく沖縄海洋博の閉幕で終わったのではあるまいか。実に日本的、マスコミ主導的な展開ではある。
世界的な視点で考えるならば、ジャマイカを焦点とした第三世界の音楽探求ブームは、レゲエという固有名詞が浸透し、ロックやジャズといったジャンルと並列で扱われるようになって終息を得た。
しかし、このブームの終了後、欧米と第三世界の音楽の関わりは、それまでとまったく変わってしまうことになる。
つづく
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