おヒマでしたら、奄美のフツーの生き物たち 17もご覧ください。
「フツーの生き物たち」、今回はフツーに6月に見掛けた生き物たちです。
ツマグロヒョウモン
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
オスのツマグロヒョウモンです。
メスは、毒をもつカバマダラの模様に似せて鳥などから身を守っているんだそうですが、オスの衣装は自己オリジナルです。
そのせいかどうか、カメラを向けてもメスのほうが堂々としてます。
アオスジアゲハ
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
黒地にシアンというかコバルトブルーというか、シャープな印象のチョウチョです。
エリグロアジサシ
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
岸から30メートルほど離れた岩の上につがいを見つけたので、隣の岩によじ登って撮影しました。
200万画素のコンパクトデジカメの最大・最高画質で撮って、トリミングです。
奄美野鳥の会・神奈川支部に問い合わせたら、南西諸島にしか飛来しない渡り鳥だそうです。
環境省のレッドデータブックでも《準絶滅危惧》に指定されてるみたいです。
でも、私が写真に撮れるんだから、奄美ではフツーの部類に入る鳥なんでしょう。
イソヒヨドリ
2005年6月5日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
ながねんHPなんぞを作って馬鹿をやってると、いろんな人が助けてくれるようになります。
鳥の写真を撮ったときには必ず相談する奄美野鳥の会・神奈川支部も、その一人。
さすがの彼も、この写真をメールで送って「鑑定して」と頼んだときの返事は歯切れの悪いものでした。
「フツーの生き物たち」、今回はフツーに6月に見掛けた生き物たちです。
ツマグロヒョウモン
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
オスのツマグロヒョウモンです。
メスは、毒をもつカバマダラの模様に似せて鳥などから身を守っているんだそうですが、オスの衣装は自己オリジナルです。
そのせいかどうか、カメラを向けてもメスのほうが堂々としてます。
アオスジアゲハ
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
黒地にシアンというかコバルトブルーというか、シャープな印象のチョウチョです。
エリグロアジサシ
2005年6月4日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
岸から30メートルほど離れた岩の上につがいを見つけたので、隣の岩によじ登って撮影しました。
200万画素のコンパクトデジカメの最大・最高画質で撮って、トリミングです。
奄美野鳥の会・神奈川支部に問い合わせたら、南西諸島にしか飛来しない渡り鳥だそうです。
環境省のレッドデータブックでも《準絶滅危惧》に指定されてるみたいです。
でも、私が写真に撮れるんだから、奄美ではフツーの部類に入る鳥なんでしょう。
イソヒヨドリ
2005年6月5日、奄美市名瀬有良(ありら or あった)にて撮影。
ながねんHPなんぞを作って馬鹿をやってると、いろんな人が助けてくれるようになります。
鳥の写真を撮ったときには必ず相談する奄美野鳥の会・神奈川支部も、その一人。
さすがの彼も、この写真をメールで送って「鑑定して」と頼んだときの返事は歯切れの悪いものでした。
バイト先の若い人に誘われて、おてまえをいただくことになった。
生まれてはじめて、のことである。
キョーミシンシンてやつである。
正式な会ではなくて流派の同好会みたいなもので、集まって軽くおさらいをするのに
「人数が少ないと気分が出ないから、興味がある人、誰でも来てね」てことらしい。
ついでに、「興味があったら仲間に入りませんか?」つー趣旨も含むらしい。よーわからんが。
中世の日本における茶道というものを、むりやり現代の日本に置き換えれば、カラオケである。
非日常的な空間に身を置いて、日常的な自分とは違う存在になりきるのだ。
一種のお芝居といっていい。
そーゆーのは、オレは得意である。
いちおー、元演出家だしな。
つーわけで、日本独自の文化である茶道について、堂々たる付け焼刃で詳しく説明してあげるので、
その方面に疎い方は、できるだけ有難がって読むように。
まずはじめに、茶の席において、主(あるじ)と客の関係性は絶対であり、入れ替わることなどありえない。
お芝居の中で、二つの役柄が入れ替わらないのと同じだ。
客の中でもメインの客とその他の客は、固定された役割を演じることとなる。
茶道は、その成立において禅の影響を強く受けたとされる。
ほぼ同じ時期に能が成立したのだが、こちらも禅の影響が濃いのだという。
そして能の場合、シテとワキと呼ばれる主役とその共演者がストーリーを展開させるのだが、こちらの関係性も絶対的である。
テクノロジーの進歩は、あらゆる分野に及んでいる。
写真では判らないが、電熱線の周囲には炭の模型が「流派の正しい置き方」で配置されているのだという。
本式の茶会では、組み立て式の囲炉裏セットを使うのだという。これか?
掛け軸、生け花は、不可欠なセット。
「茶道」というのは、実際にお茶をいただくよりもずーっと前からはじまっているのだ。
「茶室」という空間に至るまでの経路も含めて、カラオケならばイントロだと思えばいい。
茶室に入ってからも、芝居ッ気たっぷりの手順は続く。
客は掛け軸や花を見て「誰の作品なの?」とか「なんでこれを飾ったの?」と聞かなくてはならない。
「かくかくしかじかでゴザイマス」と答えることになる。
つまり、そういうやりとりを成立させるために掛け軸と生け花が必要なのだ。
これは、観客無しのお芝居ではないか。
畳の縁から八寸の位置に膝が来るように座る。
この位置関係について「茶道は戦国時代に発達したもので、床下から敵が・・・」なんつー説明をいただいたのだが、
畳の縁を舞台のツラ(端)と見立てれば、「ぎりぎり前の美しい位置」であることは一目瞭然だ。
主(あるじ)は茶を点(た)て、客に供し、聞かれたことについて短く答える。
決して、「秋田の事件は…」とか「ポスト小泉ってアンタ、郵便局を減らそうってのはアノひとでしょ。ポストの話が多い人だねまったく」とか言ってはイケナイのである。
抹茶そのものは、器の底にちょこっとあるだけだし、混ぜたり廻したりですっかり醒めちゃってるかと思ったのだが、意外と温度が高い。
自分が飲み終えたら茶碗を、全員の客が飲み終えたら茶器(茶の容器と抹茶の粉を移すための柄杓)をしげしげと眺めて
「銘は?(アナタはこれにどんな名前を付けてるの?)」とか「作は?(誰が作ったの?)」とか質問する。
主(あるじ)はそれに対してもっともらしく答えるのだが、これなんかカラオケで珍しい曲を歌ったヤツに
「ねぇねぇ、それって誰の曲?」とか聞くようなものである。
400年経っても、ニンゲンは同じようなことやってんだなぁ、と思うと楽しくなってくる。
もちろん、これも手順であって、たとえそれが避けられない現実であったとしても
「そこらにあったものです」とか「さっきダイソーでね」というのは許されないんである。
茶道は、その初期において、戦国大名のほかに富裕な商人によって支持された。
当時の日本には焼き物(磁器)といえば全て輸入品であり、つまり、茶碗というのはインポートのブランド品であった。
秀吉の朝鮮出兵の際に、参戦した大名たちが朝鮮半島から陶工たちを拉致してきて、ようやく日本でも磁器の製造がはじまった。
ついでだからさらに続けると、明治維新を推進した薩長土肥のうち、薩摩と肥前は密貿易で上げた利益を武器購入に充てた(もちろん、薩摩藩は奄美大島からの砂糖生産でも大きな利益を上げた)。
もちろん、この密貿易では武器購入の原資たる外貨の獲得がメインだったことは間違いないのだが、
積荷の隅っこに景徳鎮あたりの磁器がひっそりと載せられていても不思議ではない。
奄美大島でおてまえをいただくと、いろいろ想像してしまうのだ。
生まれてはじめて、のことである。
キョーミシンシンてやつである。
正式な会ではなくて流派の同好会みたいなもので、集まって軽くおさらいをするのに
「人数が少ないと気分が出ないから、興味がある人、誰でも来てね」てことらしい。
ついでに、「興味があったら仲間に入りませんか?」つー趣旨も含むらしい。よーわからんが。
中世の日本における茶道というものを、むりやり現代の日本に置き換えれば、カラオケである。
非日常的な空間に身を置いて、日常的な自分とは違う存在になりきるのだ。
一種のお芝居といっていい。
そーゆーのは、オレは得意である。
いちおー、元演出家だしな。
つーわけで、日本独自の文化である茶道について、堂々たる付け焼刃で詳しく説明してあげるので、
その方面に疎い方は、できるだけ有難がって読むように。
まずはじめに、茶の席において、主(あるじ)と客の関係性は絶対であり、入れ替わることなどありえない。
お芝居の中で、二つの役柄が入れ替わらないのと同じだ。
客の中でもメインの客とその他の客は、固定された役割を演じることとなる。
茶道は、その成立において禅の影響を強く受けたとされる。
ほぼ同じ時期に能が成立したのだが、こちらも禅の影響が濃いのだという。
そして能の場合、シテとワキと呼ばれる主役とその共演者がストーリーを展開させるのだが、こちらの関係性も絶対的である。
テクノロジーの進歩は、あらゆる分野に及んでいる。
写真では判らないが、電熱線の周囲には炭の模型が「流派の正しい置き方」で配置されているのだという。
本式の茶会では、組み立て式の囲炉裏セットを使うのだという。これか?
掛け軸、生け花は、不可欠なセット。
「茶道」というのは、実際にお茶をいただくよりもずーっと前からはじまっているのだ。
「茶室」という空間に至るまでの経路も含めて、カラオケならばイントロだと思えばいい。
茶室に入ってからも、芝居ッ気たっぷりの手順は続く。
客は掛け軸や花を見て「誰の作品なの?」とか「なんでこれを飾ったの?」と聞かなくてはならない。
そういう質問をした方が失礼に当らないというエチケットと思えばいい。主(あるじ)の側も、たとえそれが事実でも「これしかないから」なんて答えずに、
「かくかくしかじかでゴザイマス」と答えることになる。
つまり、そういうやりとりを成立させるために掛け軸と生け花が必要なのだ。
これは、観客無しのお芝居ではないか。
畳の縁から八寸の位置に膝が来るように座る。
この位置関係について「茶道は戦国時代に発達したもので、床下から敵が・・・」なんつー説明をいただいたのだが、
畳の縁を舞台のツラ(端)と見立てれば、「ぎりぎり前の美しい位置」であることは一目瞭然だ。
主(あるじ)は茶を点(た)て、客に供し、聞かれたことについて短く答える。
決して、「秋田の事件は…」とか「ポスト小泉ってアンタ、郵便局を減らそうってのはアノひとでしょ。ポストの話が多い人だねまったく」とか言ってはイケナイのである。
抹茶そのものは、器の底にちょこっとあるだけだし、混ぜたり廻したりですっかり醒めちゃってるかと思ったのだが、意外と温度が高い。
自分が飲み終えたら茶碗を、全員の客が飲み終えたら茶器(茶の容器と抹茶の粉を移すための柄杓)をしげしげと眺めて
「銘は?(アナタはこれにどんな名前を付けてるの?)」とか「作は?(誰が作ったの?)」とか質問する。
主(あるじ)はそれに対してもっともらしく答えるのだが、これなんかカラオケで珍しい曲を歌ったヤツに
「ねぇねぇ、それって誰の曲?」とか聞くようなものである。
400年経っても、ニンゲンは同じようなことやってんだなぁ、と思うと楽しくなってくる。
もちろん、これも手順であって、たとえそれが避けられない現実であったとしても
「そこらにあったものです」とか「さっきダイソーでね」というのは許されないんである。
茶道は、その初期において、戦国大名のほかに富裕な商人によって支持された。
当時の日本には焼き物(磁器)といえば全て輸入品であり、つまり、茶碗というのはインポートのブランド品であった。
秀吉の朝鮮出兵の際に、参戦した大名たちが朝鮮半島から陶工たちを拉致してきて、ようやく日本でも磁器の製造がはじまった。
拉致された陶工たちに対する待遇は悪くなかったようで、彼らは朝鮮から家族を呼び寄せていたという。とはいえ、磁器の輸入に莫大な金銭が用いられたことは確かなようで、徳川幕府の鎖国も、この辺が原因の一部だとも思われる。
話の展開がこうなると、うかつにギャグを入れられないな
ついでだからさらに続けると、明治維新を推進した薩長土肥のうち、薩摩と肥前は密貿易で上げた利益を武器購入に充てた(もちろん、薩摩藩は奄美大島からの砂糖生産でも大きな利益を上げた)。
もちろん、この密貿易では武器購入の原資たる外貨の獲得がメインだったことは間違いないのだが、
積荷の隅っこに景徳鎮あたりの磁器がひっそりと載せられていても不思議ではない。
奄美大島でおてまえをいただくと、いろいろ想像してしまうのだ。
自慢じゃないが、我が家のTVはBSとCS(スカパー)しか見られない。
しかし、ワールドカップへの対応は万全だと思っていた。昨日までは。
なんなんだ、NHK。
オレは、この一ヶ月のためだけ(ちと大袈裟)に受信料を払ってきたんだぞ。
なんでハイビジョンでしか放送しないんだ。
もういい。
アタマにきた。
苦情なんか言わない。
クレームなんかつけない。
行動はひとつ、受信料支払い拒否。
職員の不祥事に対して怒ってるんじゃない。
前会長の態度も大目に見る。
しかし、放送できる試合を、放送しないのは、許さない。
ゼッタイに拒否する。
しかし、ワールドカップへの対応は万全だと思っていた。昨日までは。
なんなんだ、NHK。
オレは、この一ヶ月のためだけ(ちと大袈裟)に受信料を払ってきたんだぞ。
なんでハイビジョンでしか放送しないんだ。
もういい。
アタマにきた。
苦情なんか言わない。
クレームなんかつけない。
行動はひとつ、受信料支払い拒否。
職員の不祥事に対して怒ってるんじゃない。
前会長の態度も大目に見る。
しかし、放送できる試合を、放送しないのは、許さない。
ゼッタイに拒否する。
天気予報は朝から「2時間もしたら雨が降るよ」との予報を繰り返しているのに、天気は加速度付きでよくなっていく。
それでも午前中は洗濯とW杯ドイツ大会の再放送のチェックで過ごしたが、
「これ以上、気象庁に足止めされてたまるけぇ!」
てことで瀬戸内方面に向かうことにした。
実は、次の《旅案内》は、「大島海峡東岸紀行」てことで、
ヤドリ浜から西古見(にしこみ)あたりまで、これでもかっちゅうくらいに長々と繰り広げてやろうと目論んでいるのだ。
そんなワケで、瀬戸内町方面で半日を過ごして、撮影できた中の一枚がコイツ。
キノボリトカゲだ。
クワズイモの葉をよじ登ろうとして何度も足を滑らせていた。
「天然系のキャラやな」
いつの間にか葉の裏側に隠れたな、と思ったら、餌の昆虫を捕えようとして足を滑らせたらしく、ぼてっ!と音を立てて地面に落ちやがった。
一ヵ月半、ひたすら雨が降りつづけているが、来週の半ば頃に梅雨明けするらしい。
それでも午前中は洗濯とW杯ドイツ大会の再放送のチェックで過ごしたが、
「これ以上、気象庁に足止めされてたまるけぇ!」
てことで瀬戸内方面に向かうことにした。
実は、次の《旅案内》は、「大島海峡東岸紀行」てことで、
ヤドリ浜から西古見(にしこみ)あたりまで、これでもかっちゅうくらいに長々と繰り広げてやろうと目論んでいるのだ。
そんなワケで、瀬戸内町方面で半日を過ごして、撮影できた中の一枚がコイツ。
キノボリトカゲだ。
クワズイモの葉をよじ登ろうとして何度も足を滑らせていた。
「天然系のキャラやな」
いつの間にか葉の裏側に隠れたな、と思ったら、餌の昆虫を捕えようとして足を滑らせたらしく、ぼてっ!と音を立てて地面に落ちやがった。
一ヵ月半、ひたすら雨が降りつづけているが、来週の半ば頃に梅雨明けするらしい。
おヒマでしたら、奄美のフツーの生き物たち 16もご覧ください。
「フツーの生き物たち」の《加計呂麻(かけろま)シリーズ》は、とりあえず今回で最後です。
最後なんで、これまで何処にも入れられなかった連中を集めた番外編です。
ヒザラガイ
2006年5月4日、瀬戸内町諸数(しょかず)にて撮影。
いきなり怪しげですね。
干潮で潮が引いているときに、浜に積み上げられた岩をひっくり返したら、ぺったりくっついてました。
すぐ近くにこのテのの気色ワルイ連中もいました。
カラス
2006年5月5日、瀬戸内町瀬武(せたけ)にて撮影。
「撮った」んじゃなくて「撮れちゃった」てぇやつですね。
もっとも、オリジナル状態では、木の影にすっぽり入ってて、なんだかよく判らない画像です。
切ったり伸ばしたり、なんとか見えるようにしたのが↑で、ほぼオリジナル状態がこっちです。
泡
2006年5月10日、瀬戸内町西阿室(にしあむろ)にて撮影。
泡です。
泡。いや、それは「泡を喰ってる」ってやつで。
この時季、ところどころで見掛けるんですよ、泡を。
なんなんでしょうか?
こういうことなんでしょうか?
ザトウムシ
2006年5月10日、瀬戸内町西阿室(にしあむろ)にて撮影。
けっこう、あちこちにいますね。
ゆらゆら揺れてみたり、ひょこひょこ歩き回ったり、観察するだけだったらオモシロイやつらです。
「フツーの生き物たち」の《加計呂麻(かけろま)シリーズ》は、とりあえず今回で最後です。
最後なんで、これまで何処にも入れられなかった連中を集めた番外編です。
ヒザラガイ
2006年5月4日、瀬戸内町諸数(しょかず)にて撮影。
いきなり怪しげですね。
干潮で潮が引いているときに、浜に積み上げられた岩をひっくり返したら、ぺったりくっついてました。
すぐ近くにこのテのの気色ワルイ連中もいました。
カラス
2006年5月5日、瀬戸内町瀬武(せたけ)にて撮影。
「撮った」んじゃなくて「撮れちゃった」てぇやつですね。
もっとも、オリジナル状態では、木の影にすっぽり入ってて、なんだかよく判らない画像です。
切ったり伸ばしたり、なんとか見えるようにしたのが↑で、ほぼオリジナル状態がこっちです。
泡
2006年5月10日、瀬戸内町西阿室(にしあむろ)にて撮影。
泡です。
泡。いや、それは「泡を喰ってる」ってやつで。
この時季、ところどころで見掛けるんですよ、泡を。
なんなんでしょうか?
こういうことなんでしょうか?
ザトウムシ
2006年5月10日、瀬戸内町西阿室(にしあむろ)にて撮影。
けっこう、あちこちにいますね。
ゆらゆら揺れてみたり、ひょこひょこ歩き回ったり、観察するだけだったらオモシロイやつらです。
初夏の加計呂麻を行く 弐拾四よりつづく。
5月16日から「だいたい30回くらいの予定」ではじめた《初夏の加計呂麻》ですが、
途中でペースアップした効果もあって、今回が最後です。
今回のシリーズで紹介できなかった個所に関しては、いずれ「真夏の加計呂麻」、「秋の加計呂麻」とでも題して紹介する予定です。
と、前置きはここまで。
於斉(おさい)からは、野営地である実久(さねく)に帰ることとする。
日はすでに大きく西に傾き、加計呂麻(かけろま)島の北東海岸を走る県道に出れば、
太陽は山の向こうに沈んでしまっている。
於斉を後にした時点では、そのまま実久へと戻るつもりだったのだが、三浦(みうら)へ至ったところで知之浦(ちのうら)へ向かってみることにした。
瀬相(せそう)から俵(ひょう)を経由して北へと向かう県道は、三浦の手前で短い下り坂になる。
坂を下りきったところで県道は西へと屈曲し、そこから東へと分岐する町道が知之浦へと向かう。
分岐した町道はいったん未舗装路となるが、これはおそらく、コンクリート舗装からタールマック(アスファルト)舗装へと張り替えるための工事の途中なのだろう。
真珠養殖の筏が浮かぶ深い入り江を右手に見ながら進む。
大きなカーブが緩い上り坂になったと思ったら、深い緑の入り江が、今度は左手に現れ、知之浦集落に辿り着いた。
知之浦のイメージを一言で表すなら、『隔絶』である。
とはいえ、ここにも人の日々の営みは息づいている。
桟橋には小さな漁船が並び、集落の中心部たる『みゃー』には土俵と、堅牢な鳥居。
隣接する公民館の壁にかけられた黒板には、先日の集落会の議題が記されている。
『鎮守』と額の掛けられた鳥居をくぐって、杜(もり)へと入ってみることにした。
広い参道は、鳥居の付近だけ。
とはいえ、坂道には登り易く段差が付けられ、丈夫な手摺が安心感を与えてくれる。
参道が行き着いたのは、松の根元の小さな祠。
おそらく、あの松の向こうには木の間隠れに知之浦の入り江が見えるのだろう。
この杜は、おそらく魚付き森であり、村の鎮守とは生活の糧を与えてくれる海なのだ。
松(これは、リュウキュウマツ)という植物は、厳しい土壌にも根を広く強く張り、逞しく枝を広げることでよく知られている。
しかし、幹と根の区別すらつかないこの状態にまで生育しているのは、さすがに珍しいのではないだろうか。
以上で、「初夏の加計呂麻を行く」を終わる。
目を閉じて思い浮かべれば、阿多地の老人のシマ唄が、エンジンを止めてヘルメットを取るたびに耳にしたアカショウビンの鳴き声が聴こえる。
5月16日から「だいたい30回くらいの予定」ではじめた《初夏の加計呂麻》ですが、
途中でペースアップした効果もあって、今回が最後です。
今回のシリーズで紹介できなかった個所に関しては、いずれ「真夏の加計呂麻」、「秋の加計呂麻」とでも題して紹介する予定です。
と、前置きはここまで。
於斉(おさい)からは、野営地である実久(さねく)に帰ることとする。
日はすでに大きく西に傾き、加計呂麻(かけろま)島の北東海岸を走る県道に出れば、
太陽は山の向こうに沈んでしまっている。
於斉を後にした時点では、そのまま実久へと戻るつもりだったのだが、三浦(みうら)へ至ったところで知之浦(ちのうら)へ向かってみることにした。
瀬相(せそう)から俵(ひょう)を経由して北へと向かう県道は、三浦の手前で短い下り坂になる。
坂を下りきったところで県道は西へと屈曲し、そこから東へと分岐する町道が知之浦へと向かう。
分岐した町道はいったん未舗装路となるが、これはおそらく、コンクリート舗装からタールマック(アスファルト)舗装へと張り替えるための工事の途中なのだろう。
真珠養殖の筏が浮かぶ深い入り江を右手に見ながら進む。
大きなカーブが緩い上り坂になったと思ったら、深い緑の入り江が、今度は左手に現れ、知之浦集落に辿り着いた。
知之浦のイメージを一言で表すなら、『隔絶』である。
とはいえ、ここにも人の日々の営みは息づいている。
桟橋には小さな漁船が並び、集落の中心部たる『みゃー』には土俵と、堅牢な鳥居。
隣接する公民館の壁にかけられた黒板には、先日の集落会の議題が記されている。
『鎮守』と額の掛けられた鳥居をくぐって、杜(もり)へと入ってみることにした。
広い参道は、鳥居の付近だけ。
とはいえ、坂道には登り易く段差が付けられ、丈夫な手摺が安心感を与えてくれる。
参道が行き着いたのは、松の根元の小さな祠。
おそらく、あの松の向こうには木の間隠れに知之浦の入り江が見えるのだろう。
この杜は、おそらく魚付き森であり、村の鎮守とは生活の糧を与えてくれる海なのだ。
松(これは、リュウキュウマツ)という植物は、厳しい土壌にも根を広く強く張り、逞しく枝を広げることでよく知られている。
しかし、幹と根の区別すらつかないこの状態にまで生育しているのは、さすがに珍しいのではないだろうか。
以上で、「初夏の加計呂麻を行く」を終わる。
目を閉じて思い浮かべれば、阿多地の老人のシマ唄が、エンジンを止めてヘルメットを取るたびに耳にしたアカショウビンの鳴き声が聴こえる。
この項、おわり
初夏の加計呂麻を行く 弐拾参よりつづく。
通常、ここで紹介する地名は、住居表示の「大字(おおあざ)」である。
前回で取り上げた佐知克(さちゆき)は、大字としては於斉(おさい)に含まれる。
ちなみに《初夏の加計呂麻を行く 拾九》、《弐拾》で取り上げた安脚場(あんきゃば)は、大字度連(どれん)に含まれる。
勢理(せり or しり)もまた、住居表示では大字於斉に属する集落である。
「防波堤」にも「テトラポット」にも縁のない、自然な海岸が美しい。
ここもまた、時間を作って遊びたい場所である。
半日の走行としては充分だろうと決め、海岸をぱぱっと撮影した後は、
浜を掘り返したり岩をひっくり返したりして遊んだ。
そうして、於斉に辿り着いた。
加計呂麻でも比較的人口が多い集落なので、細部もよく整備されている。
なお、ここも《寅さんシリーズ》最終作のロケ地となった。
県道の分岐表示には、たんに「於斉」としたものは少ない。
たいてい「於斉のガジュマル」と表記される。
諸鈍のデイゴ並木と並んで、大きな観光資源なのだ。
通常、ここで紹介する地名は、住居表示の「大字(おおあざ)」である。
前回で取り上げた佐知克(さちゆき)は、大字としては於斉(おさい)に含まれる。
ちなみに《初夏の加計呂麻を行く 拾九》、《弐拾》で取り上げた安脚場(あんきゃば)は、大字度連(どれん)に含まれる。
勢理(せり or しり)もまた、住居表示では大字於斉に属する集落である。
「防波堤」にも「テトラポット」にも縁のない、自然な海岸が美しい。
ここもまた、時間を作って遊びたい場所である。
半日の走行としては充分だろうと決め、海岸をぱぱっと撮影した後は、
浜を掘り返したり岩をひっくり返したりして遊んだ。
そうして、於斉に辿り着いた。
加計呂麻でも比較的人口が多い集落なので、細部もよく整備されている。
なお、ここも《寅さんシリーズ》最終作のロケ地となった。
県道の分岐表示には、たんに「於斉」としたものは少ない。
たいてい「於斉のガジュマル」と表記される。
諸鈍のデイゴ並木と並んで、大きな観光資源なのだ。
つづく
初夏の加計呂麻を行く 弐拾弐よりつづく。
加計呂麻島の西岸の集落を、徳浜(とくはま)から順に北上している。
秋徳(あきとく)から佐知克(さちゆき)へは、山越えのルートを選んだ。
集落同士の交通は、それほど多くはない。
ことに佐知克は、山越えルートとは反対の於斉(おさい)方面が主要な交通路になるためか、路面はけっこう荒れている。
この画像では、ホンモノよりもきれいに見えるが…。
奄美大島・加計呂麻島の他のすべての集落と同様、佐知克も入り江に面した集落である。
伊子茂(いこも)湾と呼ばれる、大きく外海に口をあけた湾の、入り口に当たる部分の入り江だ。
なお、伊子茂湾の南方5kmには、海上防波堤のようなかたちで請(うけ)島が浮かぶ。
佐知克は、西田製糖工場である。
5月は製糖工場の操業時季は終わっているので、むかーし撮った写真である。
糖分を搾り取られたキビ。
土に還るのか、乾燥して燃料に使われるのか。
加計呂麻島の西岸の集落を、徳浜(とくはま)から順に北上している。
秋徳(あきとく)から佐知克(さちゆき)へは、山越えのルートを選んだ。
集落同士の交通は、それほど多くはない。
ことに佐知克は、山越えルートとは反対の於斉(おさい)方面が主要な交通路になるためか、路面はけっこう荒れている。
この画像では、ホンモノよりもきれいに見えるが…。
奄美大島・加計呂麻島の他のすべての集落と同様、佐知克も入り江に面した集落である。
伊子茂(いこも)湾と呼ばれる、大きく外海に口をあけた湾の、入り口に当たる部分の入り江だ。
なお、伊子茂湾の南方5kmには、海上防波堤のようなかたちで請(うけ)島が浮かぶ。
佐知克は、西田製糖工場である。
5月は製糖工場の操業時季は終わっているので、むかーし撮った写真である。
糖分を搾り取られたキビ。
土に還るのか、乾燥して燃料に使われるのか。
つづく
初夏の加計呂麻を行く 弐拾壱よりつづく。
野見山(のみやま)から秋徳(あきとく)へは、さほど高さのない坂道を上って大きなカーブを回り込めば、あとはだいたい真っ直ぐ下るだけである。
大きく入り組んだ海岸線と標高は低いが、起伏に富んだ地形を持つ加計呂麻(かけろま)島では、比較的近くにある集落同士だといえるだろう。
ところで今回、秋徳集落は、いったん通過する。
集落の南の端には小川が流れ、そこに架かる橋を渡れば、海沿いのダートコースである。
路面は、ほぼフラットで、低回転の扱いに優れたバイクならば、オンロード車でも通行可能だ。
こちらのアダンは、すでに色づいている。
ダートを進むこと1kmほど、静かな入り江に面した無人の浜に出る。
じゅうぶんな準備をして、数人のグループでのんびり過ごすにはいい浜ではないだろうか。
浜は諸鈍(しょどん)湾と呼ばれる大きな湾の口の部分に緩やかな入り江を成しており、陸地から見る限りは透明度が高いように見える。
この浜を通過すると、佐知克(さちゆき)に至る未舗装の《林道神の子線》に入るのだが、今回はパスする。
この林道は、佐知克までの真ん中あたりに位置する採石場のための道路である。
採石場じたいが現時点で運用されているかどうかは判らないが、路面の荒れ方は酷く、「通過した」という達成感以上のものを得られないルートだ。
秋徳集落に戻り、山越えで佐知克を目指す。
集落の北部、諸鈍側の端を折れて、秋徳小学校(休校中?)の横を通っていくのだが、
その小学校の向かい側に神社がある…ように見える。
”見捨てられた神社”というよりは、過疎化と高齢化、なにより植物の成長速度が速い亜熱帯の気候というのが正解だろう。
別な季節にここを通ったことは何度もあるが、鳥居の下には細いがちゃんとした道があることを保証する。
これは、亜熱帯植物の旺盛な成長を表す一例。
鳥居の前に立ち、少し左に目を転じれば、この緑の塊が見られる。
ツタに埋もれたこの木の形、種類を言い当てられる人は、どれほどいるだろうか。
野見山(のみやま)から秋徳(あきとく)へは、さほど高さのない坂道を上って大きなカーブを回り込めば、あとはだいたい真っ直ぐ下るだけである。
大きく入り組んだ海岸線と標高は低いが、起伏に富んだ地形を持つ加計呂麻(かけろま)島では、比較的近くにある集落同士だといえるだろう。
ところで今回、秋徳集落は、いったん通過する。
集落の南の端には小川が流れ、そこに架かる橋を渡れば、海沿いのダートコースである。
路面は、ほぼフラットで、低回転の扱いに優れたバイクならば、オンロード車でも通行可能だ。
こちらのアダンは、すでに色づいている。
ダートを進むこと1kmほど、静かな入り江に面した無人の浜に出る。
じゅうぶんな準備をして、数人のグループでのんびり過ごすにはいい浜ではないだろうか。
浜は諸鈍(しょどん)湾と呼ばれる大きな湾の口の部分に緩やかな入り江を成しており、陸地から見る限りは透明度が高いように見える。
この浜を通過すると、佐知克(さちゆき)に至る未舗装の《林道神の子線》に入るのだが、今回はパスする。
この林道は、佐知克までの真ん中あたりに位置する採石場のための道路である。
採石場じたいが現時点で運用されているかどうかは判らないが、路面の荒れ方は酷く、「通過した」という達成感以上のものを得られないルートだ。
秋徳集落に戻り、山越えで佐知克を目指す。
集落の北部、諸鈍側の端を折れて、秋徳小学校(休校中?)の横を通っていくのだが、
その小学校の向かい側に神社がある…ように見える。
”見捨てられた神社”というよりは、過疎化と高齢化、なにより植物の成長速度が速い亜熱帯の気候というのが正解だろう。
別な季節にここを通ったことは何度もあるが、鳥居の下には細いがちゃんとした道があることを保証する。
これは、亜熱帯植物の旺盛な成長を表す一例。
鳥居の前に立ち、少し左に目を転じれば、この緑の塊が見られる。
ツタに埋もれたこの木の形、種類を言い当てられる人は、どれほどいるだろうか。
つづく
初夏の加計呂麻を行く 弐拾よりつづく。
徳浜(とくはま)より、諸鈍(しょどん)を素通りして山道を辿る。
野見山(のみやま)を経由して秋徳(あきとく)へと向かう道だ。
鬱蒼とした木々に囲まれた山道を登りつめると、突然、視界が開ける。
手前に見える入り江が野見山、そのむこうが秋徳である。
野見山は、深い入り江を抱く集落である。
下り坂の途中に見つけた島バナナの木。
実は、もちろん取り尽くされている。
野見山の入り江は深く、波も静かである。
時間を作ってのんびりしたい集落のひとつである。
徳浜(とくはま)より、諸鈍(しょどん)を素通りして山道を辿る。
野見山(のみやま)を経由して秋徳(あきとく)へと向かう道だ。
鬱蒼とした木々に囲まれた山道を登りつめると、突然、視界が開ける。
手前に見える入り江が野見山、そのむこうが秋徳である。
野見山は、深い入り江を抱く集落である。
下り坂の途中に見つけた島バナナの木。
実は、もちろん取り尽くされている。
野見山の入り江は深く、波も静かである。
時間を作ってのんびりしたい集落のひとつである。
つづく
おヒマでしたら、奄美のフツーの生き物たち 15もご覧ください。
「フツーの生き物たち」の《加計呂麻(かけろま)シリーズ》も、残るは今回を含めて二回です。
そういう時になってつらつら考えてみますってぇと、対象は「フツーの生き物たち」なんですから、
《加計呂麻シリーズ》なんて「別枠扱い」する必要は全然なかったんじゃないか、と。
自分で言うなってかんじですが。
テングチョウ
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
いかにも「奄美大島」って感じですね。
ハイビスカスがあっちを向いていたり、アサギマダラじゃなくてテングチョウだったりするのがオレらしい、とも言えるんですが。
タテハモドキ
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
最初、ジャノメチョウの仲間?かと思ってネットで調べたら、ジャノメチョウの仲間は、たいていアタマより羽根のほうがどーんと前に出てるんですよ。イカリ肩っていうんですか?肩じゃなくて羽根ですか?
ところがこいつの場合は、なで肩ってのかなで羽根ってのか、ちょっとこう「やわやわ」ってか「しなしな」ってか。
だから「おっかしーなー」とか思ってて。
したらまゆみさんが、「タテハモドキだよ」と教えてくれました(コメント↓を参照してください)。
ツマグロヒョウモン
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
「フツーの生き物たち」最多出場のツマグロヒョウモンさんです。
そんなに出てないって?いえいえ、これからバンバン出ていらっしゃるんですよ。
次回は、加計呂麻の生き物特集番外編です。
「フツーの生き物たち」の《加計呂麻(かけろま)シリーズ》も、残るは今回を含めて二回です。
そういう時になってつらつら考えてみますってぇと、対象は「フツーの生き物たち」なんですから、
《加計呂麻シリーズ》なんて「別枠扱い」する必要は全然なかったんじゃないか、と。
自分で言うなってかんじですが。
テングチョウ
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
いかにも「奄美大島」って感じですね。
ハイビスカスがあっちを向いていたり、アサギマダラじゃなくてテングチョウだったりするのがオレらしい、とも言えるんですが。
タテハモドキ
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
最初、ジャノメチョウの仲間?かと思ってネットで調べたら、ジャノメチョウの仲間は、たいていアタマより羽根のほうがどーんと前に出てるんですよ。イカリ肩っていうんですか?肩じゃなくて羽根ですか?
ところがこいつの場合は、なで肩ってのかなで羽根ってのか、ちょっとこう「やわやわ」ってか「しなしな」ってか。
だから「おっかしーなー」とか思ってて。
したらまゆみさんが、「タテハモドキだよ」と教えてくれました(コメント↓を参照してください)。
ツマグロヒョウモン
2006年5月5日、瀬戸内町実久(さねく)にて撮影。
「フツーの生き物たち」最多出場のツマグロヒョウモンさんです。
そんなに出てないって?いえいえ、これからバンバン出ていらっしゃるんですよ。
次回は、加計呂麻の生き物特集番外編です。
初夏の加計呂麻を行く 拾九よりつづく。
加計呂麻(かけろま)島の南東端の集落である安脚場(あんきゃば)が磯遊びの適地であることを確認した後は、低い峠を越えて徳浜へと向かう。
ところで、この「徳浜」という地名は、大和村にもある。>大和村の徳浜は、こちら。
奄美群島内での知名度は、雄大な奇観で大和村の徳浜がリードするようだが、全国的な知名度では、《寅さんシリーズ》最終作のロケ地となったことで加計呂麻の徳浜に軍配があがるようだ。
写真には写っていないが、徳浜ロケに関して説明を記したプレートが設置されている。
コンクリート製の鳥居には、龍神宮の額が掛かる。
取り立てて由緒はなさそうだが歴史はありそうな神社である。
漁業の安全と大漁を祈願して建立されたと思しき神社で、シロート考えだが、現在は集落の真ん中に鎮座しているが、徳浜の別な場所から遷されてきたのではないか。
鳥居も、小さな祠も頑丈一点張りに造られている。
太平洋の風と波をもろに受けるこの集落では、ちゃちな作りでは長持ちしないのだ。
フタホシテントウムシを撮ったつもりだったが、なんだかよく判らない写真になってしまった。
龍神宮の脇には、ガジュマルの古木がそびえ立つ。
徳浜からは、諸鈍(しょどん)を経由して秋徳(あきとく)に向かう。
加計呂麻(かけろま)島の南東端の集落である安脚場(あんきゃば)が磯遊びの適地であることを確認した後は、低い峠を越えて徳浜へと向かう。
ところで、この「徳浜」という地名は、大和村にもある。>大和村の徳浜は、こちら。
奄美群島内での知名度は、雄大な奇観で大和村の徳浜がリードするようだが、全国的な知名度では、《寅さんシリーズ》最終作のロケ地となったことで加計呂麻の徳浜に軍配があがるようだ。
写真には写っていないが、徳浜ロケに関して説明を記したプレートが設置されている。
コンクリート製の鳥居には、龍神宮の額が掛かる。
取り立てて由緒はなさそうだが歴史はありそうな神社である。
漁業の安全と大漁を祈願して建立されたと思しき神社で、シロート考えだが、現在は集落の真ん中に鎮座しているが、徳浜の別な場所から遷されてきたのではないか。
鳥居も、小さな祠も頑丈一点張りに造られている。
太平洋の風と波をもろに受けるこの集落では、ちゃちな作りでは長持ちしないのだ。
フタホシテントウムシを撮ったつもりだったが、なんだかよく判らない写真になってしまった。
龍神宮の脇には、ガジュマルの古木がそびえ立つ。
徳浜からは、諸鈍(しょどん)を経由して秋徳(あきとく)に向かう。
つづく