サヨコオトナラが奄美大島に来たのは、去年の今ごろ、2004年の10月9日~13日の期間であった。
サヨコオトナラのナラである奈良大介とは多少の面識(短い間であったが、ジャンベを教わっていた)があったのと、
元JAGATARAのOTO(サヨコオトナラのオト)、元ゼルダのサヨコ(サヨコオトナラのサヨコ)というメンツに、ほぼ同世代(ちょっと後輩に当たる?)として、
「あのころのアレは、どうだったんだろう? そんでどうなったんだろう?」という野次馬根性で名瀬のライブハウス ASIVI に行ってきた。
「地球の音楽を旅する」と掲げる彼らのライブは、こちらの貧弱な期待を根底から覆すサイズと可能性をシンプルな構成で聴かせてくれた。
そのままオレは、笠利、加計呂麻と続く彼らの奄美大島ツアーを追っかけて、お蔭様で最後の加計呂麻マリンブルーではライブ終了後にOTO氏に、じゃがたら時代の話を聞かせていただいた。
さて、そのJAGATARAであるが、彼らの活動の最盛期は、オレは演劇界の周縁部を主たる活動域として非常に貧乏な日々を過ごしており、とてもライブハウスに音楽を聴きに行けるような経済状態ではなかった。
その後、十数年を経て、サラリーマンとしてIT業界の活動の最末端にいたオレは、乏しいなりにも定収を得て、ライブハウスに足を運んだり、HMVやヴァージンなどの輸入盤専門店でカネを使うことが出来るようになった。
当人がどう思っていようと、すでに青春と呼ばれる時期は無常に過ぎ去り、オレにとって消費の対象となるのは「若き日に諦めざるを得なかった演奏や作品」が過半を占めていたのは当然といえる。
そんなオレがJAGATARAの再発売CDを輸入盤屋の棚で発見したとき、迷わず購入したことは言うまでもない。
活動時のJAGATARAは、ヴォーカルの江戸アケミに関する話題のみが取り沙汰され、その内容も「ライブで裸になった」「フォークを自分の額に突き立てて流血した」「精神病院に入院した」「自宅の風呂で溺死した」という、およそ音楽に縁の無いことばかりであった。
もちろん、常に一部には音楽だけを求める人々がいて、その中の一人からオレはJAGATARAのLP「南蛮渡来」を貸してもらい、「世の中にはとんでもない音楽をやる連中がいる」と驚いたことを憶えている。
1984年、ブルース・スプリングスティーンの初来日のすこし後のことである。
さて、このCD「裸の王様」は、江戸が精神を患い、故郷の高知県中村市での長期療養生活から音楽界に復帰した'89年の作品である。
JAGATARAアンセムとも言える「裸の王様」(10'38")ではじまり、ちゃんとサビにも使われてる歌詞なのにサウンドとは無縁のタイトル「岬で待つわ」(9'40")、「ジャンキー・ティーチャー」(7'28")、オレにとっては去年は最後のサビを何度も鼻歌にした「もうがまんできない」(8'37")の4曲が収録されている。
いずれも、日本語によるファンク・ミュージックの傑作である。
付属のライナーでは、大槻ケンヂと田口トモロヲの対談が収められ、その中で大槻は
《「JAGATARAはどのアルバムから聴けばいいの?」って聞かれると、だいたい「南蛮渡来」って答えてるんだけど、本当はね、一番最初は「裸の王様がいいと思う」》
と発言している。
有名人の尻馬に乗るみたいで気が引けるが、オレも同感である。
JAGATARAといえば第一作の「南蛮渡来」というのが定番・定説であるが、それは一巡した結果としてそう思うというのが本筋だろう。
我が家のCD棚にも「南蛮渡来」は鎮座しているが、やはりCDプレーヤーに入れる回数が多いのはやはり本作か「それから」「ごくつぶし」が多い。
正直に言って、「南蛮渡来」は、傑作であることは認めるが、オレには荷が重すぎる。
はじめて「南蛮渡来」を聴いた'84年、このLPはオレのレコードプレーヤーに二週間ほども乗せられつづけていただろうか。
その間、針を落としたのは三回ほどだろう。
「とんでもない音楽」過ぎて、どうにも聞き流せなかったのだ。
二十年ちかい歳月を経て購入した再発CDも、同じような運命を辿っている。
その点、「裸の王様」は、生活のBGMとしても機能できる。
なおかつ詞がいい。
ふだん使う言葉をそのまま使ってリズムに乗せるのは、どうやら案外むずかしいことらしい。
TVなんかでイマドキの若者がラップだかHIP HOPだかを歌うのを聞いてると、
「おまえさん、どこの辞書からそんな言葉を拾ってきたんだい?」と聞きたくなるようなことがある。
リズムに乗る言葉をあれこれ選ぶうちに、古語や死語に近い言葉が出てきてしまうのだろう。
英語の発音が悪いというのは、まぁ、ちょっと目をつぶるとしても、JAGATARAの言葉使いのセンスというのは、時間を経て、オレに関する限り証明された。
「感じていられるセクシードール」なんて歌詞もあるが、そこは都合よく忘れるとして。
サヨコオトナラのナラである奈良大介とは多少の面識(短い間であったが、ジャンベを教わっていた)があったのと、
元JAGATARAのOTO(サヨコオトナラのオト)、元ゼルダのサヨコ(サヨコオトナラのサヨコ)というメンツに、ほぼ同世代(ちょっと後輩に当たる?)として、
「あのころのアレは、どうだったんだろう? そんでどうなったんだろう?」という野次馬根性で名瀬のライブハウス ASIVI に行ってきた。
「地球の音楽を旅する」と掲げる彼らのライブは、こちらの貧弱な期待を根底から覆すサイズと可能性をシンプルな構成で聴かせてくれた。
そのままオレは、笠利、加計呂麻と続く彼らの奄美大島ツアーを追っかけて、お蔭様で最後の加計呂麻マリンブルーではライブ終了後にOTO氏に、じゃがたら時代の話を聞かせていただいた。
さて、そのJAGATARAであるが、彼らの活動の最盛期は、オレは演劇界の周縁部を主たる活動域として非常に貧乏な日々を過ごしており、とてもライブハウスに音楽を聴きに行けるような経済状態ではなかった。
その後、十数年を経て、サラリーマンとしてIT業界の活動の最末端にいたオレは、乏しいなりにも定収を得て、ライブハウスに足を運んだり、HMVやヴァージンなどの輸入盤専門店でカネを使うことが出来るようになった。
当人がどう思っていようと、すでに青春と呼ばれる時期は無常に過ぎ去り、オレにとって消費の対象となるのは「若き日に諦めざるを得なかった演奏や作品」が過半を占めていたのは当然といえる。
そんなオレがJAGATARAの再発売CDを輸入盤屋の棚で発見したとき、迷わず購入したことは言うまでもない。
活動時のJAGATARAは、ヴォーカルの江戸アケミに関する話題のみが取り沙汰され、その内容も「ライブで裸になった」「フォークを自分の額に突き立てて流血した」「精神病院に入院した」「自宅の風呂で溺死した」という、およそ音楽に縁の無いことばかりであった。
もちろん、常に一部には音楽だけを求める人々がいて、その中の一人からオレはJAGATARAのLP「南蛮渡来」を貸してもらい、「世の中にはとんでもない音楽をやる連中がいる」と驚いたことを憶えている。
1984年、ブルース・スプリングスティーンの初来日のすこし後のことである。
さて、このCD「裸の王様」は、江戸が精神を患い、故郷の高知県中村市での長期療養生活から音楽界に復帰した'89年の作品である。
JAGATARAアンセムとも言える「裸の王様」(10'38")ではじまり、ちゃんとサビにも使われてる歌詞なのにサウンドとは無縁のタイトル「岬で待つわ」(9'40")、「ジャンキー・ティーチャー」(7'28")、オレにとっては去年は最後のサビを何度も鼻歌にした「もうがまんできない」(8'37")の4曲が収録されている。
いずれも、日本語によるファンク・ミュージックの傑作である。
付属のライナーでは、大槻ケンヂと田口トモロヲの対談が収められ、その中で大槻は
《「JAGATARAはどのアルバムから聴けばいいの?」って聞かれると、だいたい「南蛮渡来」って答えてるんだけど、本当はね、一番最初は「裸の王様がいいと思う」》
と発言している。
有名人の尻馬に乗るみたいで気が引けるが、オレも同感である。
JAGATARAといえば第一作の「南蛮渡来」というのが定番・定説であるが、それは一巡した結果としてそう思うというのが本筋だろう。
我が家のCD棚にも「南蛮渡来」は鎮座しているが、やはりCDプレーヤーに入れる回数が多いのはやはり本作か「それから」「ごくつぶし」が多い。
正直に言って、「南蛮渡来」は、傑作であることは認めるが、オレには荷が重すぎる。
はじめて「南蛮渡来」を聴いた'84年、このLPはオレのレコードプレーヤーに二週間ほども乗せられつづけていただろうか。
その間、針を落としたのは三回ほどだろう。
「とんでもない音楽」過ぎて、どうにも聞き流せなかったのだ。
二十年ちかい歳月を経て購入した再発CDも、同じような運命を辿っている。
その点、「裸の王様」は、生活のBGMとしても機能できる。
なおかつ詞がいい。
ふだん使う言葉をそのまま使ってリズムに乗せるのは、どうやら案外むずかしいことらしい。
TVなんかでイマドキの若者がラップだかHIP HOPだかを歌うのを聞いてると、
「おまえさん、どこの辞書からそんな言葉を拾ってきたんだい?」と聞きたくなるようなことがある。
リズムに乗る言葉をあれこれ選ぶうちに、古語や死語に近い言葉が出てきてしまうのだろう。
英語の発音が悪いというのは、まぁ、ちょっと目をつぶるとしても、JAGATARAの言葉使いのセンスというのは、時間を経て、オレに関する限り証明された。
「感じていられるセクシードール」なんて歌詞もあるが、そこは都合よく忘れるとして。