南方単車亭日乗

奄美大島にIターンした中年単車乗りが、てげてげに綴ります。
はじめての方は、最初に《ごあいさつ》をお読みください。

裸の王様 JAGATARA

2005年10月30日 17時27分00秒 | 聴きました
サヨコオトナラが奄美大島に来たのは、去年の今ごろ、2004年の10月9日~13日の期間であった。
サヨコオトナラのナラである奈良大介とは多少の面識(短い間であったが、ジャンベを教わっていた)があったのと、
元JAGATARAのOTO(サヨコオトナラのオト)、元ゼルダのサヨコ(サヨコオトナラのサヨコ)というメンツに、ほぼ同世代(ちょっと後輩に当たる?)として、
「あのころのアレは、どうだったんだろう? そんでどうなったんだろう?」という野次馬根性で名瀬のライブハウス ASIVI に行ってきた。
「地球の音楽を旅する」と掲げる彼らのライブは、こちらの貧弱な期待を根底から覆すサイズと可能性をシンプルな構成で聴かせてくれた。
そのままオレは、笠利、加計呂麻と続く彼らの奄美大島ツアーを追っかけて、お蔭様で最後の加計呂麻マリンブルーではライブ終了後にOTO氏に、じゃがたら時代の話を聞かせていただいた。

さて、そのJAGATARAであるが、彼らの活動の最盛期は、オレは演劇界の周縁部を主たる活動域として非常に貧乏な日々を過ごしており、とてもライブハウスに音楽を聴きに行けるような経済状態ではなかった。
その後、十数年を経て、サラリーマンとしてIT業界の活動の最末端にいたオレは、乏しいなりにも定収を得て、ライブハウスに足を運んだり、HMVやヴァージンなどの輸入盤専門店でカネを使うことが出来るようになった。
当人がどう思っていようと、すでに青春と呼ばれる時期は無常に過ぎ去り、オレにとって消費の対象となるのは「若き日に諦めざるを得なかった演奏や作品」が過半を占めていたのは当然といえる。
そんなオレがJAGATARAの再発売CDを輸入盤屋の棚で発見したとき、迷わず購入したことは言うまでもない。
活動時のJAGATARAは、ヴォーカルの江戸アケミに関する話題のみが取り沙汰され、その内容も「ライブで裸になった」「フォークを自分の額に突き立てて流血した」「精神病院に入院した」「自宅の風呂で溺死した」という、およそ音楽に縁の無いことばかりであった。
もちろん、常に一部には音楽だけを求める人々がいて、その中の一人からオレはJAGATARALP「南蛮渡来」を貸してもらい、「世の中にはとんでもない音楽をやる連中がいる」と驚いたことを憶えている。
1984年、ブルース・スプリングスティーンの初来日のすこし後のことである。

さて、このCD「裸の王様」は、江戸が精神を患い、故郷の高知県中村市での長期療養生活から音楽界に復帰した'89年の作品である。
JAGATARAアンセムとも言える「裸の王様」(10'38")ではじまり、ちゃんとサビにも使われてる歌詞なのにサウンドとは無縁のタイトル「岬で待つわ」(9'40")、「ジャンキー・ティーチャー」(7'28")、オレにとっては去年は最後のサビを何度も鼻歌にした「もうがまんできない」(8'37")の4曲が収録されている。
いずれも、日本語によるファンク・ミュージックの傑作である。
付属のライナーでは、大槻ケンヂと田口トモロヲの対談が収められ、その中で大槻は
《「JAGATARAはどのアルバムから聴けばいいの?」って聞かれると、だいたい「南蛮渡来」って答えてるんだけど、本当はね、一番最初は「裸の王様がいいと思う」》
と発言している。
有名人の尻馬に乗るみたいで気が引けるが、オレも同感である。
JAGATARAといえば第一作の「南蛮渡来」というのが定番・定説であるが、それは一巡した結果としてそう思うというのが本筋だろう。
我が家のCD棚にも「南蛮渡来」は鎮座しているが、やはりCDプレーヤーに入れる回数が多いのはやはり本作か「それから」「ごくつぶし」が多い。

正直に言って、「南蛮渡来」は、傑作であることは認めるが、オレには荷が重すぎる。
はじめて「南蛮渡来」を聴いた'84年、このLPはオレのレコードプレーヤーに二週間ほども乗せられつづけていただろうか。
その間、針を落としたのは三回ほどだろう。
「とんでもない音楽」過ぎて、どうにも聞き流せなかったのだ。
二十年ちかい歳月を経て購入した再発CDも、同じような運命を辿っている。

その点、「裸の王様」は、生活のBGMとしても機能できる。
なおかつ詞がいい。
ふだん使う言葉をそのまま使ってリズムに乗せるのは、どうやら案外むずかしいことらしい。
TVなんかでイマドキの若者がラップだかHIP HOPだかを歌うのを聞いてると、
「おまえさん、どこの辞書からそんな言葉を拾ってきたんだい?」と聞きたくなるようなことがある。
リズムに乗る言葉をあれこれ選ぶうちに、古語や死語に近い言葉が出てきてしまうのだろう。
英語の発音が悪いというのは、まぁ、ちょっと目をつぶるとしても、JAGATARAの言葉使いのセンスというのは、時間を経て、オレに関する限り証明された。
「感じていられるセクシードール」なんて歌詞もあるが、そこは都合よく忘れるとして。
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本宅更新情報

2005年10月29日 18時11分47秒 | Weblog
本宅 亀甲音 Personal Page の「生活報告帳」を更新した。
内容は、9月17日の瀬戸内わーきゃ祭りと、ウェイクボードのポスター撮影同行。
写真は、今回ボツになったもの。
ボツにすることも無かったか…。
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祝!中村瑞希、民謡日本一に

2005年10月17日 02時58分21秒 | Weblog
読売新聞の記事はこちら

中村瑞希の唄をはじめて生で聴いたのは、'01年の4月だった。
日本橋三越の屋上で、中 孝介と共に10人ほどの観客の前で唄っていた。
その後、同年11月の立川のイベントでは、ストリートパフォーマンスのような形で唄うのを聴き、'02年8月はよみうりホール、同年11月に越谷の自然食のお店etc、etcと、行ける限り行ってきた。

当時の中村瑞希の唄は、自身「(ゲンコツをつくって)私の唄はこれですから」という、力強さ以外にはそれほど見るべきものもなかったが、それでも天性の美声でカバーする形で聴衆を満足させていたように思う。
'03年5月、その中村瑞希が地元の奄美民謡大賞を受賞したと聞いたとき、正直、
「メジャーデビュー前の花道か(当時、元ちとせに続いて、彼女か里アンナがデビューするのではないかというもっぱらな噂であった)」と思った。
その三週間後、六本木の島唄楽園で中村瑞希の唄を聴いて愕然とした。
奄美大島の方言で唄われる島唄を、繊細なニュアンスで、言葉の意味すら判らぬ観客に届け、それまでライブやCDで聴いてきたのとはまったく別な唄い手になっていたのだ。
その年、日本民謡大賞の全国大会では「浦本杯(大会における位置付けは不明)」で準優勝となり、一年置いた今年、総理大臣杯(所謂民謡日本一)を獲得した。

これで大島郡笠利町は、築地俊造当原ミツヨに続く三人目の民謡日本一を輩出したことになる。
来年三月、広域合併で町名が消え去る前に、よきモニュメントとなったであろう。
なお、奄美大島からの民謡日本一は、これにRIKKIを加え、四人目となる。

ところで、このニュースを確認するため、慌てて各種の速報サイトを巡ったが、gooのニュース速報がとんでもない写真を掲載していた
すぐに訂正、あるいは削除されてしまうと思われるので、ハードコピーを載せておく(165kb)
笑い転げて死ぬかと思ったぜ。
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県道宇検・住用線/県道篠川線

2005年10月11日 20時58分49秒 | 南方単車旅案内
前日は、奄美大島に隣接する加計呂麻島の諸鈍集落で「平家来島八百年祭」というイベントがあり、オレも野次馬として行くつもりだった。
しかし、離職以来つづく不規則な生活と不安定な天候、なにより悪化する無気力症のため、結局、棲家でいつ収入になるか判らないアルバイトをして一日を過ごしてしまった。
明けて本日、その諸鈍集落では、前日のイベント用では「史上初の全編上演」であった国の重要無形文化財「諸鈍シバヤ」の本上演(通常、演目を減らして上演される)が行われるという。
去年も行ったし、という無気力症の発作を叱咤しつつ、なんとか昼頃に棲家を出る。
まずは例によって棲家から50mのスタンドで、先日の北大島行きに使った分の燃料を補給する。
走行102.3kmで2.87リットルを消費。燃費率は35.64km/リットル。単価は¥154/リットルであった。

国道を南下すること30分で住用村の役勝(やくがち)集落に至る。
奄美大島から加計呂麻島に渡るには、瀬戸内町の古仁屋(こにや)から

町営フェリーか

海上タクシーを利用する。
町営フェリーは車両の運搬が可能で、古仁屋と加計呂麻島の瀬相(せそう)または生間(いけんま)港を一日七往復している。
オレが利用しようとするのは、このうち14時発の瀬相行きで、このまま古仁屋に到着すると1時間の余裕がある。
わずかにためらってから、役勝集落を過ぎたところで県道宇検・住用線に左折する。

当初はそのまま通過するつもりだったが、真夏並みの陽光に照らされた役勝川の景色があまりに美しく、バイクを停め、カメラを取り出す。



群れ泳ぐ魚影は、リュウキュウアユだろうか?シロートが覗き込んで、簡単に見つかるものなんだろうか?
川床はずいぶん茶色に染まっているが、魚の数は多い。
すこし移動して、道路の付け替えで使われなくなった橋から川面を眺める。



川原まで下りたかったが、密生した下生えを見ると、オレみたいなシロートはハブの恐怖に身が竦む。
さらに進んで、県道篠川線に左折する。
左折してしばらくは、センターラインも引かれた快適な道路。
ところが、ブラインドカーブを曲がって森の中に入ると、突然、道幅が狭くなる。
ここからしばらく上り坂が続き、尾根筋の峠を越えて瀬戸内町の篠川(しのかわ)集落に至る。
その狭くなった道に小さな橋が架けられているところでバイクを停め、森の中を覗き見る。



茶色く見えるのは、シマサルスベリか、バクチノキか(この画像のみ、拡大表示されます)。
ふたたび走り出すと、弱い雨が降り出す。
篠川まではまだすこしある。路肩にバイクを停め、カッパを着込む。暑いな、嫌だな、と思うが、濡れるよりはまし。
峠を越えて篠川側に出ると、一時的に雨脚が強くなるが、すぐにまた弱まる。
「着ればやみ、脱げば降りだすカッパかな」というバイク川柳を思い出す。
篠川から県道名瀬・瀬戸内に出て、古仁屋を目指す。
前輪が上げる水しぶきで、足首までガードしたキャンバスシューズにも雨水が沁み込む。
小名瀬(こなせ)集落のバス停で一度停め、防水靴下とゴム手袋を取り出す。
ふたたび雨の中を走り出すと、5kmほど先の油井(ゆい)集落を過ぎたあたりで雨が弱まり、その先の久根津(くねづ)では、陽光が暑いくらいだ。
須手(すで)の灯台でバイクを停め、暑さを我慢してカメラを取り出す。

まずは正面。

さきほど通り過ぎた油井方面、

そして諸鈍シバヤが行われているであろう加計呂麻島の諸鈍方面。


三脚立てて、パノラマにすればヨカッタと気付いたのは、たった今のこと。
防水装備と陽光の暑さに悲鳴を上げながら、古仁屋の友人の店に転がり込んだのは14時ちょうど。加計呂麻行きフェリーの出港時間だった。

帰り道でもまた雨に降られ、よせばいいのにカッパを着るのを先延ばしにして、その間に雨が強くなり、結局、ずぶ濡れで帰宅した。

本日の走行距離 約100km。
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笠利町・鍋比林道、龍郷町北部海岸

2005年10月10日 00時48分35秒 | 南方単車旅案内
どうも不安な天気だとは思いつつ、9月24日に果たし損ねた用事を済ませるべく、笠利町大笠利を目指した。
棲家から50mのスタンドにて給油。
252.1kmで7.46リットル。33.79km/リットル。価格は¥153/リットル。
沖縄はもっと安いのだそうだ。同じ離島じゃねぇか、日本国政府よ。
普通、大笠利には太平洋岸を行くのだが、臍曲がりのオレは東シナ海方面ルートを選択。
アップダウンはたいしたことはないが、適度に曲がりくねった道を楽しむ。



赤木名(あかきな)から屋仁(やに)にいたる途中、→鍋比(なべごろorなぶぐる)という案内を発見したので入ってみる。

先日、よく行く飲み屋
「こんなこんなに(手をはげしく上下左右に)なってる道」と聞いた、なべごろ林道とは、こちらのことか。
1kmちょっと進むと、舗装が終わり、軽トラックの轍が奇麗についた未舗装路になる。



奄美大島の林道というのは、農業や林業で平均して使われている、所謂生きた林道が多く、概して走り易い。
さすがに亜熱帯の島だけあって樹木の繁茂のスピードが異常に速く、夏から秋に掛けては雑草に覆われて路面が見えない部分がある、というのが唯一の難点である。
だから、ふだん車に乗っている人が
「こんなこんなに(手をはげしく上下左右に)なってる道」
と言ったところで、それが観光案内業者と九州電力の架線工事のプロであっても、
「ナニ、たいしたことはあるまい」と高をくくっていたオレではある。
たしかに100mほど進んだところでちょっとしたガレ場がある。
昔のオフロードバイクの雑誌(もう十年ほど読んでないので)なら、「B級」などと分類されそうな路面のエグれ方ではあるが、30mほどしか続かず、
「オフロード・バイクだったら、初心者でも度胸一発で行けるな」と考えた。

ガレ場を過ぎると、右手に砂防ダムと貯水池が見える。



ちょっと休憩。
砂防ダムの上から水面を見渡す。



蝉の声、鳥の鳴き声に包まれながらも、何か静けさを感じる水面である。



振り向いても濃い緑。
濃緑色の水面からは、生物の気配が濃厚に感じ取れる。
ふと足元の水面を見ると、30cmほどの深さに魚の頭が見える。目がこちらを向いている。
かなりデカい。頭だけで20cm近くありそうだ。
頭部から体幹部(でもいいのか?魚だぞ)にかけて、なだらかに続いているようだが、水が濁ってよく見えない。
死んだように動く様子もなく、とがった長い口は、少なくとも淡水魚のフォルムではない。
「誰かが魚の頭だけ捨てたんだろう。それにしてもデカいな」
軽く考えて、目の前に見えていた棒を拾ってつつこうと思った。
そのとき、その魚のアタマが動いた。
「ウナギだ。いや、オオウナギだ!(ウナギとは別種の生き物)」
あわててカメラを取り出すが、奴はこちらに背を向けてしまった。
暗緑色の水中で濃紺の背中は、そこにいるのが判っていても、カメラのデータとしては意味を成さない。
推定、全長2m、最大直径15cmというのは、もちろん素人判断だが、下の写真のオオウナギよりもずっと巨大であったことは間違いない。

なお、こちらは'97年頃、加計呂麻島の実久海岸にて撮影したもの。

さて、オオウナギ撮影に失敗したといってもそれは偶然だの余禄だのといったものである。
とりあえずの目的である「こんなこんなに(手をはげしく上下左右に)なってる道」の検証は、まだ終わってはいない。
のんびりペースで先に進むと、いくらか道が険しくなってくる。
前日、オレの住む名瀬は激しい雷雨で、何度か落雷もあった。
一度は棲家から100mほどのダイエーの避雷針に落ちたらしく、正直言ってかなりビビったオレである。
笠利方面はそれほど雨は降っていなかったらしく(後ほど、大笠利と喜瀬の知人に聞いたところ、「え、雨?」という程度の反応)、林道もそれほど多くの水を含んでいない模様。
それでも、水溜りが見えるところではかなりの泥濘があり、後輪は何度も空転する。
「これは、初心者に走らせたら危ない」
それほど多くも広くもないが、路肩が崩落している個所もある。
当初の予想よりもかなり慎重になりながら進むと、ガレ場が100m以上も続くところがあり、なおかつ路肩と轍の中央の雑草で路面が見えなくなっている。
「ここを初心者に走らせるのは犯罪である」
そう決めた途端に崖崩れで行き止まりになった。
幸い、路幅はそれほど狭くはなかったので、降りて押したり引いたり、1分もかけずにUターンした。

大笠利で用事を済ませ、喜瀬にちょっと寄って帰る。
帰り道は、龍郷町浦(うら=地名)から東シナ海岸を経由して帰ることにする。
昨日の決意が有効なうちに、こちらで夕陽を撮影して帰ろうというのだ。
とりあえずの目論見としては、

安木屋場(あんきゃば)の防波堤か、
今井崎灯台の
どちらかでと。

龍郷で曲がってすぐのところで、面白いものを見つけた。





平家漁法という、昔の沿岸漁法の再現らしい。
満ち潮に乗って入ってきた魚介類が引き潮で取り残されたのを一網打尽にする、という定置網と地引網の祖先みたいな漁法である。
潮の干満はあっても波がほとんどない龍郷湾ならではの光景である。
ちょちょいと写真を撮ってから時間を確認すると、5時20分ころ。日没は6時頃か。
東シナ海岸廻りで名瀬へというのは、じつはあまり走っていない道である。
先を急ごう。
これが間違いのもとであった。
安木屋場に差し掛かってもまだ日没には余裕がある。
今井崎でも、時間が余る。
よし、これなら大熊(だいくま)の展望台で夕映えの名瀬湾を撮ってやろう、と勢い付いたのが運の尽き。
展望台に着いてみると、夕陽は湾の向こうの山に隠れてしまっていた。
昨日まで最高気温が30度を超える真夏日続きだった南の島でも、やはり季節は巡っているのだ。
急速に気温が下がり、ヘルメットの中でくしゃみをしながら家路を辿るオレだった。

本日の走行、約100km。
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奄美大島・夕陽めぐり

2005年10月09日 13時14分59秒 | お蔵出し
夕陽は、人を寡黙にさせる。
時には哲学的にすらさせる。
それは、このオレとて例外ではない、こともある。
海に沈む夕陽、海に浮かぶ島の向こうに沈む夕陽というのは、また格別。
しばらくネタがなかったので、奄美大島のあちこちの夕陽をただ並べてみる。





'03年12月、夕陽の名所、瀬戸内町西古見の集落前の浜からの夕陽。
たまたま夕暮れの海岸を散策していた老人も、
「これほど雲がないのは、年に二、三度」というほど良い条件に恵まれたらしい。



住用村内海の奇妙な夕映え。東向きの撮影。'04年7月。



大和村国直にて。'04年7月。



瀬戸内町古仁屋。'04年7月。





ふたたび、瀬戸内町西古見。集落からすこし離れた海岸より。'05年1月。

夜間走行が嫌いなので、夕陽を撮るためだけに出かける、ということをしないのだが、それでもいつの間にか溜まるものだと驚くやら呆れるやら。
これを機に、宇検村や龍郷町方面にも足を伸ばしてみようかと思うのは今だけか…。
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東シナ海方面・大和村林道

2005年10月05日 21時26分32秒 | 南方単車旅案内
あまりにもいい天気に誘われ、名瀬市から西へ、大和村方面に向かった。
なお今回は、諸般の事情から本年5月と6月に撮影した画像データが混在する点、留意されたい。

名瀬の市街地の西端というか名瀬市西郊外のはじまりとすべきか、微妙な地域は古宿と呼ばれ、行政上では「こしゅく」といい、地元では「こしく」と発音される。
この地名について、最近までオレは「古志久」(こしく)という地名があるのだとばかり思って、地図や電話帳で探したことすらあった。
紛らわしいことに、同じ奄美大島の瀬戸内町には、古志(こし)という地名がある。
どうも、地名ばかりは字で書いてその場で読んでもらわないと余分な誤解が生じることが多い。
数日前には、笠利町の辺留という地名が「べる」(発音は平坦に)と読むことを知って驚いたことを思い出しつつ、西へと進む。

最初にバイクを停めたのは、名瀬市と大和村の境目にある根瀬部を過ぎたところ。



古くから日本の漁業では、海中の岩礁を根(ネ)と呼び、水深が浅い部分を瀬(セ)と呼ぶ。
写真からも判るように、入り江のかなり外側まで造礁珊瑚が発達し、根と瀬を作り出している。
上手く写真が撮れなかったので割愛するが、これを撮影したほぼ真下の海上では、小さな漁船から釣り糸を垂れる人がいた。
釣果のほどは判らないが、きっと今夜の食卓は豊かな彩りなのだろう。

さらに進むと、海上の眺望が美しい嶺山公園がある。
えっちらおっちらと展望台に登り、海と行く手を見渡す。





公園のトイレで済ませるべき用事を済ませ、さらに海岸沿いを進む。
遥かに汀を見下ろすワインディングを進むと、磯平パークへの分かれ道が崖沿いに見える。
磯平パーク内まで入り込む時間はないが、とりあえず崖の途中に造られた駐車場まで降りてみる。



太陽の角度のせいか、水深のためか、海の色がいっそう濃く見える。
なお、この磯平パークへの坂道は、短いながらも極端な勾配となっているので、雨天の場合はタイヤのグリップと相談のうえで行くことを薦める。

名音(なおん)を過ぎたところで、「←フォレストポリス8km」の表示を見つけ、近道を企てる。

なお、このまま西進すると今里集落からの上り坂に、素晴らしいオーシャンビューポイントがある。



沖合いに浮かぶ小島は立神(たちがみ)と呼ばれ、古来、信仰の対象とされてきたという。

近道しようと入り込んだ林道に話を戻そう。
フォレストポリスまで8kmといえば、そこから湯湾岳に沿う道を下って湯湾集落までは併せて20km少しである。
名音からそのまま西進すると、同地点までは約30km。
所要時間に大差はないが、距離は僅かに短縮できる計算である。
細い林道(舗装済)をゆっくり上がっていくと、木の間隠れに二条の滝が見える。
これは知らなかった。
素人目で見る限り、どちらも落差は60mほどに見える、立派な滝だ。



右に見えた滝は、どう足掻いてもファインダーに収まってくれなかったが、左の滝はどうにか一部を切り取ることができた。
右側の滝は、落下をはじめる地点の付近に足場らしきものを見つけたので、接近できるかと先へ進んだが、深い谷を挟んだ別な稜線で、こちらからの接近は不可能だった。
いくらも進まぬうちに林道は谷川沿いとなり、奄美ではなかなか見られぬ渓谷美を見せてくれる。



本州の山深い地方ならば珍しくもない光景だが、尾根からそのまま水が流れ落ちるかのような奄美の地形では、渓流美というのは貴重な存在である。
若い頃、天竜川水系を行ったり来たりしていたオレにとっては、なんともいえず懐かしい眺めであった。

輝くばかりの緑の木の葉に目を焼かれながらフォレストポリスをそのまま通過し、稜線を巡って名瀬方面に向かう道を5kmほど進んでしまう。
目的地と遥かに離れた地名を目にして慌てて戻るが、短縮したはずの距離をすっかり使い込んでしまった。
フォレストポリスから目と鼻の先にある”マテリヤの滝”という景勝地に立ち寄る余裕もなく、宇検村へと下る。



フォレストポリスから湯湾岳の展望台を通って下っていく道は、午後の中途半端な時間に通るべきではないかもしれない。
海が見える部分では大島海峡からの照り返しが眩しく、それ以外の部分は稜線に遮られて遥かな山並みが陽光を浴びるのを横目に見るだけだからだ。
美しい景色も、良い陽光に恵まれてのことだと反省しながら、この日は古仁屋に寄って帰る。

本日の走行距離、約145km。
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本宅更新情報

2005年10月02日 09時06分24秒 | Weblog
本宅 亀甲音 Personal Page の「生活報告帳」を更新した。
内容は、9月9日の秋名・ショチョガマ。
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