【人生をひらく東洋思想からの伝言】
第41回
「至誠惻怛(しせいそくだつ)」(山田方谷)
備前松山藩(現在の岡山県)の 財政再建の立役者である、山田方谷(ほうこく)が
高弟である、幕末に家老として越後長岡藩を指揮した 河井継之助 (かわい つぎのすけ) に、
送別の際に贈った言葉が、この言葉とも言われています。
「まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、やさしく(仁)なれる。」
そして、目上の人には誠を尽くし、目下の人には慈しみ(いつくしみ)をもって接し、
このような心の持ち方をすれば 物事をうまく運ぶことができ、
この気持ちで生きることが 人としての基本であり、正しい道である、と山田方谷は説いています。
*山田方谷に関しては、第32回のブログも参考にしてください。
司馬遼太郎の小説「峠」でも有名な、河井継之助は、
出来るだけ 戦争をすることを避けていましたが、
時代の流れには逆らえず、戦争になり、41歳の若さで 戦死してしまいます。
息をひきとる時に、「河井はこの場に至るまで、方谷先生の教訓を守ってきたことを伝言してもらいたい」
と 語ったそうです。
その河井に付き添い、最期を看取ったのが外山修三(とやましゅうぞう)です。
河井が負傷した際に付き添い、その死まで終始行動をともにしたそうです。
河井とともに会津藩に落ちのびていく途中、河井は外山に向かってこういったそうです。
「武士の時代は終わった。これからは商人の時代になる。
実力のある者が勝つ世の中となる。戦争が終わったら商人になれ。」
と諭したそうです。河井の先見性の深さには、本当に頭が下がります。
その後、外山は大阪に出て、日本銀行初代大阪支店長、横浜正金銀行取締役を経て、
アサヒビール等の創業に携わります。阪神電鉄初代社長となり、関西財界の基礎を築きます。
阪神タイガースの生みの親とも言われ、阪神甲子園球場の前に外山修三の巨大な銅像があったそうです。
外山が河井に従っていた頃の名前が寅太であり、タイガースの「虎」は
初代社長の名前から取ったという説があります。
様々な人達の想いがつながって、時代の中で人々のご縁をつなぐ役割を、
この言葉がしているのかもしれません。
参考文献
『歴史が教えてくれる 日本人の生き方』白駒妃登美著 育鵬社
『運命をひらく 山田方谷の言葉50』 方谷さんに学ぶ会 致知出版社