榛名山の中腹に中古住宅を手に入れた私の長女夫婦は、彼の父を迎えて、この3月から暮らし始めた。奥様を亡くして10年間一人暮らしをしてきた。娘の義父、堀口頼秀さんは74歳、渋川生まれ。13歳の時に海軍に入り、14歳の終戦の夏、函館湾で百数十人の日本兵とともに、戦闘で海に投げ出された。生き残ったのは数十人。国民学校を出たばかり卒業したばかりの親しい少年兵もたくさん死んだ。彼は左ももに貫通した、怪我をしながら物につかまり、立ち泳ぎをしていたところを地元の漁民に助けられた。大湊海軍病院での”廃兵”の話は、私の想像をはるかに超えた。苦しみ、悲しみ、地獄の底に落ちて行くような恐怖があることを知った。兵として回復の見込みがあるものは建物の中、もう使える見込みの無い者は、あわれな物置小屋、そして病院の裏山の松林の中に防空壕のようなところがあり、担架にくくりつけられたまま、全身包帯で巻かれ、両腕は胸上で交差して縛られた若い将校が放置されていた。”かあさん、かあさん”と繰り返し訴えていた、その姿はなんとも悲惨だった。と語る。お父さんは今、息子夫婦のもとで毎日庭仕事に精を出しながら、同胞と弔うため、年に一度、青森に行く。愚かな戦争が風化されないように、自分の経験を文章にまとめている。
坂口せつ子
2004年平成16年7月15日木曜日
高崎市民新聞連載より転載
坂口せつ子
2004年平成16年7月15日木曜日
高崎市民新聞連載より転載
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