昨日はたかじんも鳥越さんのスクープも見ましたよ。「ザ・スクープ」の三井氏問題は、今までネットで十分に情報を仕入れていたので格別新しいことは何もないけれど、森山法相の記者会見は傑作だった。さすがテレビは便利だな、永久保存版にしておこう。国家権力とはこんなものかと国民もあきれるしかない。
今回、検察の裏金告発を阻止するため、検察はほとんど犯罪とは思えない微罪で三井氏を検挙し、実刑を与えたことが全国ネットで放映された。誠に喜ばしい限りである。しかし、このままで終わると逆効果である。つまり、検察の罪を問い、告発者の社会的名誉を回復しなければ、国家権力に逆らうとこんなことになりますよ、と証明するだけで、むしろ悪事を隠蔽したほうが身のためだ、みたいな風潮になりかねない。
内部告発自体はあまり気持ちの良いものではない。しかし、警察や検察は「正義」でなければならない。社会は彼らが「正義」であることを前提で成り立っている。不祥事を防ぐことは難しいことはわかるが、組織全体で犯罪を犯しているのが明らかになった以上、正義が本当にあるのかを自ら証明していただきたい。
たかじんはやはり見るほどのものではなかった。三宅氏は「我々の仕事で講演会の謝礼はもらうのは当たり前だ」と言った。当然である。彼らは依頼者の希望する立場で話をするのが仕事である。つまり、聞く側がそのことを承知して判断すればいいのだ。つまり見る必要がないのである。
官房機密費は黒で、講演会の謝礼は白であることは明らかで、三宅氏には何の罪もないだろう。しかし、自分が正しいと思って話をしているかといえば、そうではあるまい。仕事とはいえ、気の毒な人である。まあ、依頼者の利益を守るのは評論家も弁護士も同じようなものである。
田原さんの元気のよさは驚いた。たぶん彼の講演会はおもしろいだろうな・・・。おそらくサンプロ時代、ずいぶん圧力を受けていたのだろう。むしろしがらみがなくなった今後に注目したい。
全体として「報道はその時の政権に批判的でなければならない」という原則からすれば、今の報道・マスコミは間違っていないはずである。しかしどう見てもそのように感じないのは両論併記の原則を守らず、番組で方向性を出そうとすることで、番組が人を裁こうとしていることである。
まあ、国民も馬鹿ではない。いちばん良いのは私のようにその種の番組を見ないことだし、見ないようになるだけである。視聴率が下がり、影響力がなくなれば官房機密費を与える必要もあるまい。それにしても官房機密費をもらいそうな人ばかり、よくぞあれほど集めたものである。
今回、検察の裏金告発を阻止するため、検察はほとんど犯罪とは思えない微罪で三井氏を検挙し、実刑を与えたことが全国ネットで放映された。誠に喜ばしい限りである。しかし、このままで終わると逆効果である。つまり、検察の罪を問い、告発者の社会的名誉を回復しなければ、国家権力に逆らうとこんなことになりますよ、と証明するだけで、むしろ悪事を隠蔽したほうが身のためだ、みたいな風潮になりかねない。
内部告発自体はあまり気持ちの良いものではない。しかし、警察や検察は「正義」でなければならない。社会は彼らが「正義」であることを前提で成り立っている。不祥事を防ぐことは難しいことはわかるが、組織全体で犯罪を犯しているのが明らかになった以上、正義が本当にあるのかを自ら証明していただきたい。
たかじんはやはり見るほどのものではなかった。三宅氏は「我々の仕事で講演会の謝礼はもらうのは当たり前だ」と言った。当然である。彼らは依頼者の希望する立場で話をするのが仕事である。つまり、聞く側がそのことを承知して判断すればいいのだ。つまり見る必要がないのである。
官房機密費は黒で、講演会の謝礼は白であることは明らかで、三宅氏には何の罪もないだろう。しかし、自分が正しいと思って話をしているかといえば、そうではあるまい。仕事とはいえ、気の毒な人である。まあ、依頼者の利益を守るのは評論家も弁護士も同じようなものである。
田原さんの元気のよさは驚いた。たぶん彼の講演会はおもしろいだろうな・・・。おそらくサンプロ時代、ずいぶん圧力を受けていたのだろう。むしろしがらみがなくなった今後に注目したい。
全体として「報道はその時の政権に批判的でなければならない」という原則からすれば、今の報道・マスコミは間違っていないはずである。しかしどう見てもそのように感じないのは両論併記の原則を守らず、番組で方向性を出そうとすることで、番組が人を裁こうとしていることである。
まあ、国民も馬鹿ではない。いちばん良いのは私のようにその種の番組を見ないことだし、見ないようになるだけである。視聴率が下がり、影響力がなくなれば官房機密費を与える必要もあるまい。それにしても官房機密費をもらいそうな人ばかり、よくぞあれほど集めたものである。