尽くしてみてダメであってもいいや、というつもりで、結果や成果以前のとこで、得心してやってきた。
随分負い目も増えたし、渡すばっかりみたいな時間も随分あった。
願ったとこからはことごとく得られないできたけど、それはそういうものだとすることにした。
悔しくない、寂しくないいうと嘘になるし、そういう気持ちで終焉を置いておくつもりもない。
そういうのを混ぜこぜにして、こっちの解釈で縛らないでいいものを、人が見て思うところがあれば、そこには思いが息づくとは思う。
相応のところに人なり魂なりがあるのなら、欲張るのではなく、周りが置いてくれるところにあればいいのだろう。
そこまでを堪えるだとか、我慢できるだろうか、などという次元でなく、相手が目の前の魂に相応しい態度で振る舞っていいとしたものを見舞うのだから、スイと出された中に身をおくがいい。
答えは周囲が出すが、自分がその答えの一部でもある。
自分と他者とかいってないで、相応であると心得て、観念もして、存分であればいい。
水が低くて流れやすいところに辿り着いて、溜まるみたいに、行き着くところが居所ということでしょう。成果も然り。
邪魔立てみたいに、不快そうな自我で散らかさないのが大事とわかるのは、うんとあと。
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