歌うように語ろう

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コレオグラファーの美学+一部訂正あり

2012年01月20日 | フィギュアスケート

オンオフ問わず、フィギュア関連の雑誌や著作を見つけたら、気が向く限り可能な範囲で読むようにしています。WFSや男子(女子)ファンブックなどはもとより、選手個人関連の本でも、意外な情報が掲載されていたりすることもあるので、なるべく読むことにしています。

その関連でですが、いくつかコレオについて注目すべき述懐を見たので、その延長線ということでコレオグラファーについて今日は書きたいと思います。

今回の参考文献は「伊藤みどり トリプルアクセルの先へ」「ステファン・ランビエール」です。

コレオグラファー(振付師)はほぼ皆さん元選手の方々が大勢を占めます。有名どころだけでも数え上げるとあっという間に両手がふさがりそうですが、ここではあえて後述の都合もあり、数名の方々をまず挙げておきたいと思います。

・タチアナ・タラソワ

・ニコライ・モロゾフ

・パスカーレ・カメレンゴ

・ステファン・ランビエール(ショースケーターメインですが、既に複数選手のコレオを依頼されていますのでカウントします)

・宮本賢二

 

さて、以上の面々の名前を見ますと、二人を除いてみなさんアイスダンス出身であることが共通項になっています。(追記:タチアナ・タラソワ氏はペア出身でした。お詫びして訂正いたします)かつて荒川静香さんも語っていましたが、シングル選手も表現の勉強のためにアイスダンスを見ることがよくあるそうなので、表現(芸術面)と技術を融合させ作品を作るという作業は、どちらかというとアイスダンサーの経歴がある方がやりやすいのかなとも推測できます。

そのような推測はさて置くとしても、当然のことながら競技用のプログラムを選手から依頼されて作る以上、コレオグラファー(以下コレオ)の皆さんもただ芸術的要素のみを追求するのではなく、点数につながる作品――ひいては「勝てる」プログラム作りを皆さん意識していると思われます。その大前提のもと、その作品と手段にそれぞれの美学や哲学が見いだせるのが興味深いところです。いわばスタンスの違いですね。

以下は「伊藤みどり トリプルアクセルの先へ」にあったモロゾフ氏の主張です。(同書31~32ページより引用。モロゾフ氏の発言部のみ抜粋)

「日本人は、感情を表現してはいけないとしつけられて育っている。そのためかシャイで、音楽表現も感情表現も苦手なスケーターが多い。逆に、感情的になると、周囲から批判されることすらあるのだ。それがいかに間違った考え方か。それを教えなければならない。周囲の目を気にすることから、解放してやらなければならない。しかし自分の感情表現がどうしても難しいなら、まずはストーリーのあるプログラムで、役を演じることだ。だからミュージカルやバレエ、映画などでストーリーの分かりやすいものを振付けるのが、私は好きだ。」

「もう一つ、日本人は表現が下手になっている原因がある。日本人は真面目すぎて、難しいことに一生懸命に挑戦しようとする傾向がある。できることをしっかりやるのではなく、より難しい限界に挑もうとする。そのため、まだ成功しないかもしれないジャンプや、難しいステップや、あえて苦手なターンまで詰め込んで、本番の演技を踊ろうとする。スケーターは技に気を取られて、表現どころではないのだ。もし表現力を磨きたいなら、プログラムは選手が滑りやすいものでなければならない。得意な技を入れて、確実なジャンプを入れて、適度なつなぎを入れて、選手が自然に滑れるもの。そうなって初めて、スピードのあるスケーティングの中で、次々と技をこなし、そして気持ちを込めて演技することができるのだ」

いろいろ突っ込みたいのですが、特に太字部分は今までなら通用しても、これからはどうなのだろうと個人的には疑問ではあります。ただ、これもコレオの一人のポリシーであることはれっきとした事実でしょう。

興味深いのが、このモロゾフ氏が以前アシスタントとしてついていたタラソワ氏がこの真逆に近いスタンスであることです。その顕著な例として挙げられるのが09-10シーズンに浅田選手がFSで滑っていた「鐘」ですが、これはトップスケーターである浅田選手をもってしても完成させるのに苦悩と失敗を重ね、賛否両論が飛び交ったことでも記憶に残る作品です。当時コーチも兼ねていたタラソワ氏にとっては、メッセージ性も強く込めた渾身の作品であったものと思われます。

その彼女は「より強く、より高く、より美しいものが勝つべき」(大意)であると語っています。他の選手への振付けからしても、タラソワ氏のスタンスは選手に最大限を求めるものであることはかつての教え子である荒川さん、高橋選手(コレオのみ)らの座談会からも証言が見いだせます。曰く彼女はいつも「マキシマム!」と要求すると。個人的にはスポーツとは技術の進歩があるべきものだと考えますので、タラソワ氏のスタンスの方が理解しやすくより競技性も高く感じます。ただ、それが必ずしも現状のジャッジシステムで評価されるか否かといえばそうとも言い切れないのが悩ましいところでもありますね。

ところで上記二人の対照的なコレオについてはその基本姿勢について語りましたが、それとは別にコレオが選手やジャッジングルールに求めているものがままあるようです。

インタビューで明らかにしているのが、カメレンゴ氏の発言より「スケーティングのいい選手に振付けたい」というもの。彼が今後コレオとして仕事をしてみたいとして名を挙げたのがコストナー選手、浅田選手、羽生選手でした。羽生選手はまだまだ伸び盛りでスケーティングもまだ磨く余地が大いにありそうですが(悪いという意味ではありません)、前者二人はスケーティングの良さでは定評のある選手なのでうなづけます。

また、宮本氏はプログラムによっては細かく、選手に対してメイクの一つ一つに注文をつけるとご本人が語っていました。

それぞれコレオとしてこだわるポイントがあるという言質でありましょう。

そして最後にランビエールさんですが、まだ現役を退いてから年数が浅いものの、ショースケーターとして活躍の傍ら、現役選手に請われてコレオとしての仕事もしています。そんな彼の採点とプログラムについての考えが、その著書「ステファン・ランビエール」について述べられています。以下はその抜粋です。(同書108-109より引用)

「ぼくはシステムに変更を加えられる人間ではないし、口をはさむ権利もないけれど、もしぼくに許されるのなら、芸術的な面を押し出す必要のない、純粋なエレメント・プログラムをひとつ作ることを提案したい。このプログラムでは、音楽に乗せて滑らなくてはいけないが、芸術的な面を醸し出そうと努力する必要はなく、エレメントだけを見せてくれればいい。そして、そのすべてのエレメントを採点するのだ。2つめのプログラムでは、好きなことを何でも自由に滑ることができる。そして、演技全体に対してひとつの点が与えられる。こちらでは完全に自由だ。ひとつはよりテクニック的なプログラム、もうひとつはより芸術的なプログラムということになる。これが本当にいいアイディアかどうかはわからない。でも、エレメントを要求することも重要だと思うけれど、同時に自由であること、芸術的な面を見せられることも重要だとぼくは思う」

非常に興味深く、かつユニークな意見だと思います。以前、Jスポーツの解説で藤森美恵子氏が「TESとPCSは別々の人がつけるようにするべき」と発言された趣旨に通ずるものがあるように思います。

コレオとして仕事をするとき、どうしても要素をいかにうまくバランスを取りながら組み込み、その上でレベルも取れるようにするか。一方で芸術性まで追求するとなると現状の要素いっぱいいっぱいのルール下だと難しいという見解なのかも知れません。藤森氏の発言は若干それに加えてジャッジの裏事情も匂わせるものではありますが。

 

一口にコレオと言ってもそれぞれに個性もあり、また同じコレオでも作品の方向性や選手の技量によって結果や完成度も千差万別です。しかし本来裏方である彼らの個性が時に選手を通して色濃く氷上に現れることも多々あるので、その美学や哲学には今後も着目しながらプログラムを見ていきたいものだと思います。