When I Dream

~気侭な戯言日記~

お葬式についてを考えた ②

2024-04-11 16:20:35 | MOONLIGHTS/ANNEX かつてのHpの移植

…お葬式についてを考えた①…からの続き、中篇です。

4 死をケガレと考えた日本人・・・

キリスト教の場合は肉体は霊魂の宿る“のりもの”という、
霊体と肉体の二元論で構成された考え方と言う事が出来そうだ。“ER”などの医療ドラマでは脳死判定されるとすぐに臓器移植の書類にサインをさせる展開が多く見られるでしょ??人の死に対する認識が日本人とは随分違う事が解ると思うけど、それはキリスト教の考え方の影響とも言えるかもしれない。合理的過ぎて情に薄い印象を受ける人もいるかもしれないけど、そこには当然アメリカの社会事情と背景も含まれます。移植に関しては霊魂が使い終わって離れた肉体は“抜け殻”だから、その肉体の一部を病んで苦しんで生きている、或いは必要とする人がいるなら提供したっていいじゃないか、と言う発想で、合理的と言えば合理的な思考かもしれない。
しかし、日本人はそう言う発想は持っていない民族
で、臓器移植には遺族も反対する事が多いのは事実。一つには切り刻む事を好まない、一つには身体の一部が欠けると成仏できないと言う発想があり、“死”に対して非常にデリケートに反応する。欧米やタイやインドとも違う考え方で…
それは儒教の影響…。

儒教では人を魂=精神を司る神霊と、魄=肉体を司る神霊からなると考えられ、魂を鎮め、魄を丁寧に扱って埋葬しなければならないとするモノ、生きている間は魂と魄はバランスを保って共存しているけど、死ぬと分離して…魂は天に昇って神となり、魄は地上に留まって鬼となり…時として人に祟りをもたらすと恐れられていたそうで、その悪鬼を鎮める事が儒教の一つの儀礼で大事なことだった。葬式仏教はその考え方を取り入れ、人間には魂みたいなものがあり、それを祀らないと悪さをするとして重視してきたそう。お葬式は肉体の処理だけど“魂”の処理も大事だとしたわけで、そのように江戸時代の庶民の為の葬式仏教は、古代神道や儒教の教えや考え方をゴチャ混ぜに導入して、さらには応用して様々な法要を作りだした。それは、寺院運営のための財源を確保する目的をも含んでいたのであった。

古代日本人は死を不浄&ケガレ(穢れ)として忌み嫌っていた
ケガレは不潔ではなくて“気枯れ”からきている言葉みたいで、その枯れた気を回復させて気を満たし、元気に生活を送る為に考えられたのが全国各地で継承されている“お祭り”と言う儀。
死のケガレは事のほか重く捉えていたらしい。ケガレは死者だけでなく、死者を出したその家族にも及ぶと考えられた。お葬式へ行って帰ってくると玄関先で塩を一振りして入る風習は、ケガレを清め、不浄を自宅に持ち込まないための儀←でも迷信だってさ→そのまま塩を振らないで入ると自分の家族にもケガレが及ぶと考えられていたそう。よく塩を撒いて疫病神を追っ払おうとする光景はあったよね。似たような意味か…。

その死の不浄:ケガレを出すと“忌”と言う札が貼られ、その家族は四十九日間は他者との接触は固く禁じられ、社会的に一定の期間は行動を慎む事を強制したそう←四十九日の本当の意味はそれで、と言うのは自発的に故人の為に行動を慎む事を指す。年賀状を書く時期に…“喪中につき”…と親類縁者に葉書を出すのが普通になってるけどそれは間違いで、本来は書くなら…“忌中につき”…だって。でも“忌”は49日で解けるわけだから、本当はそれ以後なら年賀状は出しても差し支えがないとか。土地柄で解釈が違っているだけかもしれないけど、本当の意味が全く理解されていないんだと思う。因みに、お正月は先祖の里帰りで門松は先祖が帰るための目印となる依代で神道の儀式

話がちょっとズレたけど…、人の霊魂は、荒御霊(アラミタマ)→精霊和御霊(ニギミタマ)→ホトケカミ、と変化して行くと考えられ、魂が最も荒れているのが四十九日にあたるとされているそう。それで追善供養をして荒れた魂を鎮めて和御霊にするんだって←と言っても意味が解らないよね←俺にも解らん。インドでも死んでら魂は四十九日は不安定な状態だとして儀礼を行うそう。微妙に似てるのね…。
↑そう言う
年忌法要は基本的には儒教の思想らしいです。

追記:49日間は中陰と呼び“魂を再生する為の準備期間”と言うインドの考えに近いもの…。
日本では初七日・二七日・三七日・四十九日
魂を鎮める儀でお経を読むもの。その後、百ケ日・一周忌・三周忌と続く年忌法要は儒教の思想である。魂を鎮めるには33年かかるとしているのが古代神道で葬式宗教が微妙に混ぜてアレンジを施していると言えよう。ついでに書いておくと、先祖供養を庶民が意識して行うようになったのは江戸以降の仏教で、供養をしないと祟ると言われるようになってからの事。現在では装飾された事ばっかりじゃない??

5 国・民族の違い・・・

日本国内でも土地柄でシキタリや風習があるように、海外でも民族性と信仰する宗教で考え方もお葬式のやり方も随分と違うモノなんだよね。同じ地球に住んでいるのに何でそんなに違うんでしょ。あまり詳しくないのでナンだけど、…少し触れておこう。
キリスト教には現在無数の宗派があって、聖書でも旧訳と新訳で解釈や考え方が違うみたい…。カソリックを例にあげると
“神様との契約”で成立したモノみたいで…。日本でも教会で結婚式をあげる人も多いけど、そこらへん理解してるのかなぁ??結婚式を教会で挙げたくせに葬式は日本式なんて変だと思わない??。神父が言わば神の代理人で窓口ってだけだけど…神に誓うわけよ…。 

お葬式だと…、キリスト教には死の秘積と言うものがあって、神父が一連の儀式を執り行うけど、死者が天国へ行けるように保証するようなモノで、死というものを厳格に考えているキリスト教では、儀式は神父の大事な職務でらお葬式には最後まで関わりを持たせているそう。映画のシーンでもよく出てくるよね。日本の葬式宗教では基本的には住職が関わるのはお葬式までだとか。簡単に言うと、キリスト教では洗礼を受けて信仰をする事で、天国に行く事を約束・保証しましょうって感じのモノになるかな??。

インドでは今でも輪廻転生の考え方が根強く残っていて、人は死んでも魂は不滅で、肉体から魂が離れると再生してまた肉体に宿るとされている。火葬は魂が煙と共に天へ昇っていくと言う意味でインド人には重要な儀式だそう。そして遺灰は聖なる河“ガンジス”に流すのが風習だとか。でも国土の広いインドのガンジス川流域以外はどうしてんのかね??。悟りを開いた聖者と、7歳以下の子供以外は、お墓は基本的には作らないそうだ…。
イスラムでは…、
火葬にすると絶対に地獄行きだとして火葬はせず、土葬の風習でお墓を作るそう、でも墓参りの風習はないらしい。イスラムのモスクにはキリスト教は日本と違って拝む仏像などは一切ない。アラーは万物のどこにでも存在するとして実体化したものを拝んではいけない決まりで、精神性を高める強い信仰だと言えるかもしれない。なので必ずしもメッカの方を向いて拝まなくてもいいんだって。ん??モーゼの十戒の中で…“偶像を拝んではならない”…ってなかった??

日本で火葬の風習が急速に広まったのは戦後で衛生上の理由からだった。古くは放置や鳥葬や獣葬だったのかなぁ??…。江戸→明治維新→戦後と、お葬式自体が変化してきた歴史で、今やビジネス産業で何百万というお金がかかるのななぜ??。なんでそんなに金をかける必要があるの??。金払えば極楽浄土へ行けるわけじゃあるまいし。葬儀屋と坊さんにそうとうふんだくられてるんじゃないの??…。いいのかそんなんで…。

…今回はここまでです…。コロナ禍で、葬式産業が花盛りみたいに多くなって、葬儀の形も大きく崩れたけど、この頃では元に戻りつつもあって、けど葬儀代金の高さも…、なんかね…。

お葬式についてを考えた ①

お葬式についてを考えた ③


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