さっき、アメリカのドラマを観て思った事を書いておきます。
ある帰還兵がPTSDを患っていて、一向に良くならないのです。
自分が狙われていると思い込んでいるので、攻撃しようとするのです。
脳波やカウンセリングでも、余計に不安定になるので、
主人公は、その元兵士が戦場であった出来事を、何か隠していると思い、
戦場をCGで再現して、探ろうとしていました。
ですが帰還兵は、ウソをついている訳ではなく、記憶に蓋をしていたんです。
思い出している内に、とても辛くなって何度も投げ出そうとしますが、
それでは、患者として病院に隔離されるだけなので、
主人公は、なるべく彼の真相を知ろうと戦友に聞くなどして努力します。
すると、隠されてた真実に蓋がしてあると分かり、勇気を持って開けてみると、
彼が思っていた事とは違う事実が判明したんです。
上官が、彼の弱さに乗じて嘘を信じ込ませていたのでした。
そしてドラマの中では、彼の病気は良くなるのですが…。
私たちは他者から悪意を持って、あるいは悪意はなくても、
事実を曲げられて、信じ込まされることがあります。
そこに傷があると、見たくないので癒されないまま蓋をしてしまいます。
ところが、蓋の下では傷から血が流れていて傷口が膿み、
どんどん表面にも、その弊害が現れて来ることがあります。(ドラマ程酷くなくても)
そんな時に、しばらくは見ないようにしてそっとして置く場合もありますが、
勇気を持って対峙して、真実を正面から見ることによって、
傷が癒される事もあるようです。
その「時」と、「方法」は人によって違うので一概には言えませんが、
時として、神さまが摂理の中で過去を思い出すきっかけを下さるようです。
「忘れてたけど、あの時とても辛かった!」とか。
「そう言えばあの時、こんな嫌な事があった!」
「今だから言えるけど、意味が分からなくて誤解され悔しかった!」とか。
「あの時は、自分が悪いと言われたから、そう信じたけど、
今思えば、どう考えてもその件は私は悪くなかった!」とかです。
私たちが意図した訳ではないのに、過去と向き合うチャンスが与えられるのは、
本当の意味で「自由」を体験するようにとの、神さまの御配慮だと思います。
「また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
(ヨハネによる福音書 8:32 口語訳 '55)