普段から、夫とクリスチャンの成長について話しています。
先ずは、成長する人としない人では、何が違うのか?
元々言われて来た事は、
「謙遜にイエスさまに従って来た人は、変えられて行く」
「常に渇きを持って、イエスさまを求めている人は変えられる」
「忠実に主に仕えて来た人は、変えられる」
などありますが、どれも素晴らしい事なので、正にそうだと思います。
しかし、それは凡人にはなかなかハードルが高くないですか?
フルタイムの献身をして、多くの人に仕え、立派な働きをしていらっしゃるような、
特別な方にしか届かないようにも思えて来ます。
イエスさまは、もっと普通に自分のような凡人にも、
成長する道を用意して下さっていると思います。
先日書いた「砕かれる事」もそうですが、
根底に流れているのは、一方的な神さまの愛です。
どんな人にも、小さな生活の中で神さまが働いておられて、
その中で、成長出来るようにして下さっていると思います。
しかし、その過程で「神さまの御手」を全く認めないとか、
かえって、不平不満でつぶやいてしまい、退けると成長には繋がりません。
自分が間違った事は、イエス様にその通り申し上げて十字架の前で告白します。
自分では、どうしようもない環境の中にいる時には、
そっとそっとイエスさまに信頼して、委ねて淡々と日常をこなして歩みます。
(そう言う辛い時って誰にもありますよね)
そうですね、ポイントは「イエスさまといつも一緒に!」でしょうか?
自分の力では、「謙遜になること」も「間違い(罪など)を認めること」も出来ません。
自分の力では、「日常を淡々と歩む」事も出来ません。
そう!私たちにはどんな「良い事」も自分の力では出来ないんです。
(ここで自分を諦めるって必要ですね)
しかし、そうこうして居る内に、「ちょうど良い時に神さまは私たちを高く上げて下さいます。」
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
(ペテロの手紙第一5章6~7節)
前よりも少し「成長したクリスチャン」に変えて下さるんです。
ですから、とても希望があります!
どんなクリスチャンにも成長するチャンスがあるからです。
成長している人と、そうではない人の違いは、
「神さまの御手を認めて、主に信頼して歩む」か?
「環境や状況に不平不満を言い、自分の力に頼る」か?
でしょうか?
先ずは、成長する人としない人では、何が違うのか?
元々言われて来た事は、
「謙遜にイエスさまに従って来た人は、変えられて行く」
「常に渇きを持って、イエスさまを求めている人は変えられる」
「忠実に主に仕えて来た人は、変えられる」
などありますが、どれも素晴らしい事なので、正にそうだと思います。
しかし、それは凡人にはなかなかハードルが高くないですか?
フルタイムの献身をして、多くの人に仕え、立派な働きをしていらっしゃるような、
特別な方にしか届かないようにも思えて来ます。
イエスさまは、もっと普通に自分のような凡人にも、
成長する道を用意して下さっていると思います。
先日書いた「砕かれる事」もそうですが、
根底に流れているのは、一方的な神さまの愛です。
どんな人にも、小さな生活の中で神さまが働いておられて、
その中で、成長出来るようにして下さっていると思います。
しかし、その過程で「神さまの御手」を全く認めないとか、
かえって、不平不満でつぶやいてしまい、退けると成長には繋がりません。
自分が間違った事は、イエス様にその通り申し上げて十字架の前で告白します。
自分では、どうしようもない環境の中にいる時には、
そっとそっとイエスさまに信頼して、委ねて淡々と日常をこなして歩みます。
(そう言う辛い時って誰にもありますよね)
そうですね、ポイントは「イエスさまといつも一緒に!」でしょうか?
自分の力では、「謙遜になること」も「間違い(罪など)を認めること」も出来ません。
自分の力では、「日常を淡々と歩む」事も出来ません。
そう!私たちにはどんな「良い事」も自分の力では出来ないんです。
(ここで自分を諦めるって必要ですね)
しかし、そうこうして居る内に、「ちょうど良い時に神さまは私たちを高く上げて下さいます。」
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
(ペテロの手紙第一5章6~7節)
前よりも少し「成長したクリスチャン」に変えて下さるんです。
ですから、とても希望があります!
どんなクリスチャンにも成長するチャンスがあるからです。
成長している人と、そうではない人の違いは、
「神さまの御手を認めて、主に信頼して歩む」か?
「環境や状況に不平不満を言い、自分の力に頼る」か?
でしょうか?