神さまに従っているなら、必ずどこかで誰かと「和解」する必要を感じると思います。
誰かとだったり、自分とだったり、過去の出来事とだったりします。
しかし、その時に真面目なクリスチャンであればあるほど、
「和解しなくちゃ!」モードになると思います。
あの出来事では、あの人を傷つけたし自分も傷ついたし、
これを放って置いてはいけないと、迫られてしまいます。
でも、放って置いてもいい期間があります。
(誤解を与える言葉かもしれませんが)
自分が、本心から(心の奥底から)傷が癒されている訳ではないのに、
「和解」を優先させようとすると、かえって相手を更に傷つけることにもなりかねません。
敢えて相手に何も言わない…と言う和解もあります。
(いつの日か?その時が来るかもしれません)
「和解」自体が、神さまからのプレゼントであり、恵みだからです。
ヤコブがお兄さんエサウと和解しようとした時が、正にそうです。
自分の力と策略で、和解を押し進めようとして、多くの贈り物を先に持って行き、
部隊を分けて、自分は最後に行こうと考えました。
しかし、これはヤコブの考えた「和解」でした。
神さまの方法は、全く違いました。
ヤコブと戦い、足の付け根を打ち、弱くして自我(ここでは自分の方法)を、
打ち砕き、全面的に神さまに頼るしかないように導かれました。
そう!神さまにだけしか頼れない!
この状況こそが、神さまの手作りの和解の始まりです。
そして、足を引きずりながらエサウに会いに行きました。
もう、自分を守るものは何もありません。
裸です!(まな板の鯉のような感じ)
すると、エサウの方から駆け寄って来て抱き合うことが出来ました。
これこそ、神さまの方法です!
神さまの手作りの「和解」なんです。
この兄弟が抱き合う姿は、とても美しい情景です。
神さまがセッティングされたからです。
神さまの方法は、卒がなく流れるように美しい!
そして、この和解は神さまの栄光になりました。
「なんて神さまって素晴らしい!」と思いますね。
ですから、私たちが自分の方法や計画で和解を作り上げる必要はありません。
神さまに信頼して、その一番いい時を待ち、へりくだって委ねる。
もちろん、その待つ信仰やへりくだりも神さまが下さいます。
人間の汚れた手で、神さまの和解の御業を汚してはならないのです。
侵してはならない領域が、この和解の御業でもあります。
それだけに「和解」の恵みを頂くことが出来た時には、私たちは更に自由になり、
幸せな歩みが出来ると思います。