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先日、教会でスペシャルゴスペルカフェがあり、コンサート、
ゴスペル発表会、ウクレレ隊、ゴスペルフラで盛りだくさんでした。
そして、たくさんの方々が来て下さって、最後には椅子が足りなくなるほど。
私もとても楽しませてもらいました。
フリータイムの時に、ある方といろいろなお話をしていたのですが、
「あのね、私たちってたくさんの人達が来られた!とか、
多くの人が救われたとか、そちらの方に目が行くんだけど、
神さまって、たった一人のためにさえ、大きな集会を開かれる事があるのよね。」と。
そうかも知れない!と納得しました。
今日のこのカフェも、私のために開かれたのかも知れないし、
他のある人のために、開かれたのかも知れない。
その結果である実は、ずっと後にならないと分からないかも知れません。
でも、イエスさまの目は「多くの人々」に向いているのではなく、
一人一人の上に注がれているんですね。
私が若い時にイエスさまを信じた「特別集会」も、
わたしのために用意されていたかも?
(それぞれが、自分のためにと思って下さいね・笑)
すると、下記の御言葉が浮かんで来ました。
「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、
その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、
その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」
(マタイによる福音書 18:12)
イエスさまの目が、私に注がれているとすれば、
なんて素敵で喜ばしい事でしょう!
みんなで礼拝します!
でも、私とイエスさまの時間でもあるんです。
感謝ですねー( v^-゜)♪