前回、他者との和解について書いたのですが、
昨日、友達と話してたので、和解について改めて気づいた事を書いておきます。
ある人(Aさん)が、「前の教会の人と偶然会って和解した。」って話してて、
どこかその発言に違和感を感じていたのですが…。
友達が、「自分から和解しないと、ホントの和解じゃないよね。」
って言ったので、真理に目が開かれました。
言ってみれば、当たり前の事かもしれませんが…。
放蕩息子も自分の方から、お父さんのところに帰って来る必要があったんですね。
お父さんの方は「許す気満々」だったのですが、
弟息子の方から(謙って)帰って来るのを待っておられたのです。
お父さんの財力ならば、使いをやって探すことも出来たはずですが、
息子の方から帰らないと本当の「和解」にはならないと、お父さんは知ってたんですね。
それが父親の愛であり、義なる神さまの厳しさでもあると思いました。
義しさを捨てることが愛じゃなくて、待つ愛…です。
偶然に会って和解することも、時にはあるかもしれませんが、
その時は、相手の方がAさんを受け入れて話しただけで、
Aさんの側から、遜って和解を申し出て許し合うのとは違います。
本当の和解には、「謙遜さ」が必要だと言うことですね。
「わたしはもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言うように。
「むすこは父に言った、
『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。」
(ルカによる福音書 15:21 )