私の人生の大半は、苦しみだったように感じます。
それは、多分生まれながらの性格や家庭環境、
自分の自我の強さや、罪のせいでした。
自分の責任の部分もあるし、自分ではどうしようもない事もありました。
その自分の責任でさえ、自分ではどうしようもなかったので、
私は、ただただ苦しみました。
そして、周りの人たちをも苦しめました。
とにかく、私と私の人生は壊滅的だったのです。
立て直す事が出来ないくらいに壊れていました。
それは、クリスチャンになってからも続きました。
しかしある日…それがいつかは分からないのですが、
私は、イエスさまと共に十字架につけられたと知りました。
私と私の人生は、キリストと共に十字架につけられたのです。
それは、以前なかなか信じられない事でしたが、
今は、聖書に書いてある事が事実だと信じています。
やっと、長年の重荷から自由にされて、祝福を受ける事が出来たのです。
神さまは、ずっと祝福して下さっていたのですが、
私の側に受け取る謙遜な信仰がなかったのです。
もちろん、その信仰さえも、神さまからの賜物です。
この幸せを頂き、ただただ感謝です。
私は祝福されているんです!
私は、十字架の悲惨さを知りません。
私が知っているのは、十字架が神さまの愛の完全な現れだと言う事です。
十字架の贖いは、完全なのです。
何か足りないところなどないと知っています。
その十字架の恵みによって、私は古い自分から切り離され、
全き自由と、新しい命、新しい人生とを頂きました。
イエスさまの前に跪くことは、なんと幸せな事でしょう。
イエスさまを礼拝する事は、人間に与えられた本分なのです。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
(ガラテヤ人への手紙 2:19~20 )
それは、多分生まれながらの性格や家庭環境、
自分の自我の強さや、罪のせいでした。
自分の責任の部分もあるし、自分ではどうしようもない事もありました。
その自分の責任でさえ、自分ではどうしようもなかったので、
私は、ただただ苦しみました。
そして、周りの人たちをも苦しめました。
とにかく、私と私の人生は壊滅的だったのです。
立て直す事が出来ないくらいに壊れていました。
それは、クリスチャンになってからも続きました。
しかしある日…それがいつかは分からないのですが、
私は、イエスさまと共に十字架につけられたと知りました。
私と私の人生は、キリストと共に十字架につけられたのです。
それは、以前なかなか信じられない事でしたが、
今は、聖書に書いてある事が事実だと信じています。
やっと、長年の重荷から自由にされて、祝福を受ける事が出来たのです。
神さまは、ずっと祝福して下さっていたのですが、
私の側に受け取る謙遜な信仰がなかったのです。
もちろん、その信仰さえも、神さまからの賜物です。
この幸せを頂き、ただただ感謝です。
私は祝福されているんです!
私は、十字架の悲惨さを知りません。
私が知っているのは、十字架が神さまの愛の完全な現れだと言う事です。
十字架の贖いは、完全なのです。
何か足りないところなどないと知っています。
その十字架の恵みによって、私は古い自分から切り離され、
全き自由と、新しい命、新しい人生とを頂きました。
イエスさまの前に跪くことは、なんと幸せな事でしょう。
イエスさまを礼拝する事は、人間に与えられた本分なのです。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
(ガラテヤ人への手紙 2:19~20 )
返信が遅くなってごめんなさい。
十字架の洞察は、クリスチャンが一生かかって少しずつ理解するものなのかなと思います。
その残忍さや悲惨さを強調される事がありますが、その異常な残酷な悲惨さを知る事によって、十字架の愛を知る事は少ないように思います。
それは人間の理解をはるか超えていて、知りようがないので、自分の中にまで入って来ない気がします。
それより、なぜ神さまが人間となられて十字架につかれ、父なる神さまに捨てられて下さったのか?なぜ、そんな無謀な事を進んでされたのか?を思う時に恵みと感謝に満たされます。
そして、その十字架でなされた贖いの完全さを思う事が私たちに自由と喜びを与えると思えます。
そしてもし何かの事で、十字架の痛みの少しでも味わわせて頂けたら、その時にはまた十字架に対する洞察が深まるような気がします。
イエスさまの愛に更に満たされたいです!
私は47年前に受洗しました。
ただ、性格が明るくなり、人と楽しくはなせるようにという望を祈り、イエス様を信じたものです。
イエス様を信じ聖霊様が私の行くべき道をいつも導いてくださり、平安をいただき感謝です。
これも、2016年まえにイエス様が罪びとの私のために十字架の苦しみ経験され、死なれたお陰です。
イエスさまを信じられて、神さまと一緒に歩む日々は感謝ですね。
イエスさまの動機はいつも「愛」ですね、十字架の愛!です。