行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

『サンティアーゴ・デ・コンポステーラ巡礼路』 1  一つの主邑 <ブルゴス>

2020-10-09 21:55:34 | 素晴らしき世界/スペイン
ブルゴスの街の中央門



『サンティアーゴ・デ・コンポステーラ巡礼路』は
バスク
レオン
カンタブリア
アステリウス
スペイン北細部を西に横切っていく


巡礼路
といえばカテドラル(大聖堂)

ブルゴスの大聖堂といえば
サンティアーゴへの巡礼者たちの大きな札所





サンタ・マリーア・デ・ブルゴス大聖堂


13世紀前半に建立が始まった時
時の司教がフランスへの旅から持ち帰った設計図や資料を元に
最先端技術であったゴシック様式で
建設が始まったそうな

その後
15世紀の司教が
前任地バーゼルから持ち帰った
北方建築のドイツ・フランドル様式のゴシックで
伴ってきたフランドル人の工人たちで
増築がなされたという

正面の二つの塔の尖塔部はその時に付け加えられたもの




その尖塔のおかげで
24mm程度の広角レンズでは
全景が画角に収められない

ちなみに横からの全景も
結構広い広場であるにもかかわらず
手持ちのレンズでは全景は収まらなかった


通常の西側正面から入らず



側面
南翼廊から中に入る

十字架型平面の十字架頭部「内陣」の
高位聖職者と聖歌隊の席が
細工が素晴らしい




「旧約聖書」と「新約聖書」の
情景が
絵物語として克明にレリーフされている

正面主祭壇の背面画(ルターブル)も
見事な金張り木製レリーフの組み合わせ



幾つかある小祭壇
見事なルターブルを持つ

  



十字架型の平面図の交差部が
ランテルヌ(明かりとり)の大クーポラ(円蓋天井)







そして
他にも幾つかある小礼拝室の一つも

見事なゴシックの透かし天井ヴォールトは
スペイン(とポルトガル)の教会建築の
お約束



そこの小祭壇のルターブルも
必見



16世紀ルネサンス期の階段も
美しい
手すりの鋳鉄の細工はフランス人の親方の手になるものだそうだ




その階段下に
銀細工の見事な台車が
ひときわ皆の目を惹きつけている


毎年
聖週間のマリア像のパレードの山車に使われる

スペインの教会はどこも
必ず
彩色され豪華な衣装を身に纏ったマリア像が
大切に守られている

複数あるときは
必ず1体は涙している

セヴィリアの『マカレナ』と呼ばれる涙のマリア像が
特に名高い

毎年復活祭の前の一週間
「最後の晩餐」から「逮捕」「処刑」「復活」までの
日々を一週間にまとめて『聖週間』と呼び

町内の教会のマリア像を着飾らせて
町中を練り歩く




修道院部分のある部屋の『ムデハル様式の天井』

1492年
グラナダ陥落で全イベリア半島をキリスト教徒スペイン人が取り返した時に
北アフリカに逃げずに
スペインに帰化して残ったイスラム教徒の職人たちが
カトリック王家のために働いて作った城や宮殿の装飾を
『ムデハル』という


そして
ここ『サンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂』の
特筆すべき宝物が

この
『マグダラのマリア』


この作品は
長らくレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジアンペトリーノ作
と言われてきたが

もしかするとレオナルド・ダ・ヴィンチ本人の作か
少なくとも
レオナルドの筆もかなり入っている
最近の研究で言われるようになった


聖堂内には
古の
高名な司教たちや国王の墓もあるが

特に注目すべきが


『エル・シド』とその妃の墓碑

彼は
ブルゴスの郊外で生まれた

彼の偉業をたたえる
古い銘板もあった



ちなみに
内部に飾られていた装飾の中に
「巡礼者」のシンボルの一つで必携の「ひょうたん」があった

水をいれ
杖の上部にくくりつける瓢箪

そして
帆立貝をブローチのように胸に止める

それが
巡礼者たちの身分証明だった

中世から近世にかけて
この姿で戸口を叩かれたら
夕餉を振る舞い
一夜を過ごすベッドを提供しなければならなかった






外に出ると

大聖堂横に広場に
巡礼者を表す銅像が座っていた




観光客や巡礼の旅人が交代で
同じベンチに座り
彼の右腕に抱かれる様ににして
写真を撮っている

『サンティアーゴ巡礼路の札所』ブルゴスらしい
微笑ましい光景だった

= = = = = = = = = = = = = = =
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スペインのバスクに行こう 2 <バスクが生んだ偉大な聖人 イグナティオ・デ・ロヨラの生地を詣でた>

2020-09-28 01:19:56 | 素晴らしき世界/スペイン
SANTARIO de SAN IGNATIO(聖イグナティオの聖所)



スペイン・バスクの海岸から少し内陸の山地に入って行くと
アズペイチアという町のはずれに
ロヨラという聖地がある

中世から近世において
地元の小領主『ロヨラ家』の城があった場所に
17世紀にイエズス会が建立した聖所


15世紀末の城の模型がある




そこで生を受けた一人の男子が
いろいろあって危機に瀕していたローマ・カトリックを
再生させることになる

その男子の名は
『イグナティオ』
1491年暮れの事であった


その彼が聖職に入り
修道士として出会った『フランシスコ・ザヴィエル』と
ローマ教会再生を近い
『イエズス会』を創設する


神の啓示を得るイグナティオ


この場所は
彼の生家であるイグナティオ城を包み込むようにして
教会堂と
修道院と
資料館と
イエズス会事務局と
巡礼者の収容施設
からなる
広大な建造物だ





左右対称形の建物の
中央部が教会堂


正面入り口上部に
『バジリカ聖堂』
(教区を定めず世界中の信者を等しく受け入れる聖堂)
とあり
巡礼地であることがわかる





内部は
円形の『バロック』の様式



本来は
世界に布教活動を行ったイエズス会独特の
『ジェジュイット(イエズス会)様式』
があるのだが

残念ながら17世紀の事ゆえ
バチカンは豪華なバロック様式で作った
聖人のために


祭壇は
左右がバロック独特の
大理石製のねじねじ円柱で飾られたている



天井は
丸いクーポラで
天井画で飾られ
中央は明かりとりのランテルヌ





聖堂を出て
そのままつながる資料館の方に行ってみると




見事な大階段があり



その複雑化構造設計に
目をみはる

ただし通常は奥までは行くことはできない


一旦中庭のような空間に出ると

そこには
嘗ての城が
そっくりそのまま保存されていた

その中が資料館




相当の天井の高さであろう二階部分ほどまでが石積み
その上はレンガ構造担っている
レンガの部分は構成の再建であろう



銃丸付きの矢狭間が見られることで
戦国の世の城塞であったことが
垣間見られる

中も
再建だと思われるが
往時の生活環境を理解できるように
家財などが置かれている



地方の小領主の城塞である
絢爛豪華などとは縁がない質実剛健








イグナティオが
出家するため
家族と最後の時を過ごしたとされる部屋が
奥にある


ガラス越しにだが
想像を膨らませると
歴史に触れる感じを味わう事ができるだろう


さらに


当時の用途は不明だが
この広い部屋の奥の横長の家具の上の部分が
祭壇のように仕立ててあった



城の礼拝堂は
ちゃんと別にあるので
ちょっとした『神棚』みたいなものだったか


その「礼拝室」がここ


手前の長椅子が
家来と使用人のための席

奥が



あるじ家族の空間

家族たちは
毎晩

日曜日や祝日には
城の全員が集まって
礼拝を執り行っていたのであろう

通路にも
あれこれ展示物があり




エルサレム巡礼から帰還したイグナティオが
フランシスコ・ザヴィエルと
邂逅したシーンの
ステンドグラスもある




最後に
イエズス会を創設し
初代総長に就いたイグナチオの「デスマスク」も
見ることができる






この『ロヨラ村』から道なりに北へ40Kmほど
車で30分で

スペイン・バスクの景勝の地
『ドノスティア』
(カスティーリア語で『サン・セバスティアン』)
という有名なリゾート地がある



近年
日本でも美食の町として知られているらしい

バルの並ぶ通りで
ピンチョとバスク語でいう
やや凝ったタパス(おつまみ)があまりにも名高い
その上
3つ星が2軒もあります

今度ご紹介しようかな。。

= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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カタルーニア 5 ちょっと寄り道 <最後の対立教皇の隠棲地 ペニスコーラ>

2020-08-24 22:23:05 | 素晴らしき世界/スペイン
ペニスコーラ岬


14世紀の初め、政治的に宗教的に道徳的に荒廃を極めたローマの街から、教皇クレメンス5世は教皇庁を南仏アヴィニヨンに移しました。


13世紀末、ローマ教皇ボニファチウス8世は、とんでもない破戒坊主だった。
ありとあらゆる不道徳の極みで教皇庁はソドムとゴモラの如き様相と成り果て、キリスト教会に対する悪評は増すばかり。

フランス王が枢機卿会議に圧力をかけて、フランス人であるボルドーの大司教を法王に選出させた。

クレメンス5世は、1305年とっとと教皇庁をローマから南仏アヴィニヨンに移してしまう。


そこから「第二のバビロニア幽囚「と呼ばれる時代が始まった。

7代の教皇がアヴィニョンで在位し、その間にローマの街は荒廃を極め、ヒッチャカメッチャカ面白おかしいあれこれの結果、1377年イタリア人の圧力で最後の7代目グレゴリウス11世が教皇庁をローマに戻す。

廃墟然と化したローマに幻滅したグレゴリウス教皇は「アヴィニヨンは良かった、アヴィニヨンは良かった」とつぶやきながらローマで亡くなることになる。

そこで次の教皇を選ぶ枢機卿会議『コンクラーベ』の会場ラテラーノ宮(旧教皇庁)をローマ市民が武装して包囲し「イタリア人を教皇に選ばないと全員生きて返さない(教皇庁をアヴィニヨンに戻すな)!」と恫喝。

枢機卿たちは、慌てふためいてイタリア人でバーリの大司教を次期教皇に選び「アヴィニヨンが良かった」とつぶやきながら大急ぎでローマを逃げ出した。


そういう経過でウルバヌス6世が登場すると、フランス系枢機卿たちがアナーニに集い、「ローマでの決定は民衆の暴動による恫喝の結果で正規な手順を踏んだコンクラーベの結果ではない」と称して選出会議をやり直し、ジュネーヴの枢機卿ロベールを教皇に選出し、クレメンス7世の名でアヴィニヨンで戴冠式を強行する。

そこから始まった教会大分裂。


どちらの系列が正当なキリスト教会であるか、わけのわからない時代となって、アヴィニヨン側を『対立教皇』と歴史で呼ぶこととなる。

ローマ側のウルバヌスの後は、イタリア人のピトロ・ポマチェルリを選んでボニファティウス9世、次がインノケンティウス7世、そしてその次のグレゴリウス12世はアヴィニヨンとの和解を望む。

クレメンスの後の対立教皇はスペイン人のペドロ・デ・ルーナを選出してベネディクトウス13世。

その間にフランス王の武装介入、フランスの大貴族アンジュー伯の武装介入、イタリアのフランス側大貴族コロンナ家のローマ教皇庁攻撃、民衆の蜂起と教皇庁の略奪などなどの大騒ぎを経て、枢機卿たちはピサに公会議を招集。

枢機卿27名、総大司教4、大司教12、司教80、修道院兆87、修道会代表、各地の大学代表、教会法の専門家、総計300名、さらに各国大使が参加した『ピサ公会議』で両教皇を廃位し、新たに「公式な」教皇を選ぶことに。

しかし、両教皇は共に不参加。
公会議はミラノ大司教を選んでアレクサンデル5世として戴冠。

ローマとアヴィニヨンの両教皇を廃位したものの、当然ながら両名は無視。

ということでなんと「教皇」が3人鼎立するという狂奏曲が吹き荒れる。

即位後すぐ急死したアレクサンデルの後、ヨハネス23世を選出する。

三人の教皇は、お互いに他の二人を認めず、互いに互いを破門し合い、フランス、イングランド、アラゴン、シチリア各王家とメディチ家の利害が絡み合い、二転三転どころか九転十転の大騒ぎの末、ヨハネスは数十件の罪状で逮捕されてハイデルベルク城に監禁。
コジモ・デ・メディチの尽力で釈放され、フィレンツで余生を送った。

ヨハネス23世は、問題解決のために「自分が公会議を開催する」ことを主張し、枢機卿会議の権限を犯すと枢機卿側が反発しヨハネス教皇の権威を否定。

彼は教会史では正規の教皇と認められておらず、20世紀に再度ヨハネス23世の名で教皇が登場する。

その後グレゴリウスは、枢機卿会議に「改めて自分を教皇として選出するなら」ば、自ら次の公会議を開催して、その場で自分は退位すると宣言。
枢機卿会議の権威を認める申し出の功績で、彼は退位後アンコーナの総督の地位を送られて、余生を送る。

この結果、教皇の地位にしがみつくのはアヴィニヨンのベネディクトウスだけとなる。

しかし、すでに彼は既に孤立しており、公会議が廃位を宣言しても、分裂は起こらなかった。


ここまでが前提。

孤立無援で年老いたペドロ・デ・ルーナ(前ベネディクトウス13世)が隠棲したのが、故郷バレンシアの伯爵領内ペニスコーラ城であった。


ベネディクトウス13世


この町は、カタルーニアの首都バルセローナから、バレンシアの首都バレンシアまで2/3ほど、200kmほど南下した位置にあります。

大昔の小さな島が陸地と繋がってできたこんもりした岬の両側が湾曲したビーチになっていて、夏季はレジャー客で賑わいます。

岬の中が旧市街。
全体が丘になっています。





こんな階段やら。






こんな路地やら。






こんな教会やらが並んでいます。


初めのうちは、お土産やさんにレストランが並びますが、少し登って行くと静かな佇まい。


そして、丘の頂上に堂々たる規模のお城が残ります。

城壁の足元から、上の写真のような『対立教皇ベネディクトウス13世』のかなり大きなブロンズの胸像が、生えています。


城の入り口の一つ



城の中庭


中は、高い城壁に囲まれた中庭。

それそれ居住空間や様々な用途に使われる部屋や空間が取られています。


大広間


大広間。

中央の壁にはヴァレンシア伯の旗。
右の壁には、ベネディクトウス13世であったペドロ・ルーナの旗。

ちなみに「ルナ」は月なので、彼の旗は「三日月」があしらわれています。


礼拝堂



礼拝堂。


大鍋


兵士にスープを出すための「火鉢」と「鍋」か。





新しそうなので、ペドロの時代の物ではないようですが。。
なんとなく雰囲気を作ってあります。



ベネディクトウス13世


聖ペテロにかわって『天国の門の鍵』を持つ、ローマ教皇『ベネディクトス13世』のレリーフ。


マルタ島騎士団


『マルタ騎士団』のレリーフ。


お城の上部に登って行けます。












最上部の塔の頂上に出ると、周囲が一望。
地中海が眩しい。


岬の北側の海岸線



北側の海岸から見た岬



ペドロ・デ・ルーナは、アヴィニヨンの教皇庁を追われ、傷心のまま故郷に戻って、この城に隠棲生活を送りました。

城内の騎士や召使いたちには、自分のことを常に「教皇猊下」と呼ぶように強制。

しかも、もし他人から「教皇と呼ばれない」時のことを憂慮した彼は、生涯城から外へは出なかったそうです。






『ルナ』の三日月文様の教皇帽をかぶったベネディクトウスの旗が、旧市街のいたるところに変わられています。


次回をお楽しみに。
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カタルーニアの魅力 3 <バルセローナに対抗する大司教都市 ジローナ>

2020-08-17 23:21:06 | 素晴らしき世界/スペイン
オニャール橋から大聖堂を望む


バルセローナから地中海沿いにフランスの方向を目指して北上すること100㎞、バルセローナとフランス国境の中ほどに、カタルーニア第二の都
市『ジローナ』があります。

カタルーニア語表記で Girona (ジローナ)、標準スペイン語カスティーリア語表だと Gerona (ヘローナ)です。

オニャール川という川底の見える清流が北向きに流れる、その右岸が旧市街で城壁に囲まれています。



オニャール川


その幾つかの橋の『オニャール橋』からサンタ・マリア・デ・ジローナ大聖堂を見上げる角度が、ジローナの街の第一印象を伝える「正式な」眺めなのだとか。


その大聖堂は、胸つく大階段の最上部に屹立しています。



サンタ・マリア・デ・ジローナ大聖堂


お約束で、新しい町に来たら「先ず」大聖堂を訪れよ、ということで。

ジローナの『聖マリア大聖堂』内部


祭壇は、純銀製の天蓋で覆われています。
床にはかつての僧たちの墓標が敷かれている。

  



800年間のイスラムとの戦い『レコンキスタ(国土回復運動)』を終わらせて、全イベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻したアラゴン王国とカスティーリア王国のイザベラ女王とフェルナンド王太子が政略結婚でスペインが統一王朝となり、その二人の孫、スペイン王カルロス1世にしてフランドル伯、ハプスブルグ(オーストリア)大公にして神聖ローマ皇帝、ローマ王にしてモロッコ王たる『カール5世<大帝>』の聖座というものも残されています。


カール大帝の聖座


回廊も立派なものです。

  



この大聖堂の宝物殿(博物館になっています)には、興味深いものがたくさん。

  


  
                            10世紀コルドバ王国ヒッサム2世の櫃


そして、金糸をふんだんに使った、見事な刺繍の『聖母被昇天』の祭壇布。





それらの中でも、最も重要な文化財が二つあります。

一つは、9世紀から10世紀初頭の頃、初期イベリア北部の「カンタブリア公国」と「アウトリアス王国」で活躍した地理学者にして聖書学者であった『ベアトス』の『聖ヨハネの黙示録』の解釈を、おそらく975年頃に筆耕家エメンテリと修道女ウードの手で石板の筆耕して彩色した細密筆耕板。


975年頃の細密筆耕石板


そして、宝物の中の筆頭が『天地創造のタピスリー』です。

ちなみに、綴れ織りの壁掛け「タピスリー」は14世紀終わりに作られ始めたので、これは厳密に言えば、後世でいうタピスリーではなく、あくまで刺繍の装飾布です。

1100年頃の製作になるものだろうと思われています。

『天地創造のタピスリー』

ほぼ原色と言っても良いほどの色味の残り具合といい、構成の見事なバランス、細部の繊細な仕上げ、まさにジローナが誇る歴史の名作です。


ところで、この大聖堂のあたりには、他にも2つほど教会があります。

すぐ隣にあるのが、神学校付属聖堂『聖フェリウ教会』です。

聖フェリウ聖堂「身廊」から奥の祭壇とRetable


  


左の写真は、祭壇奥の「Retable (祭壇画)」で、木彫金彩。
右の写真は、周囲の礼拝室の一つの天井画。18世紀のバロック様式のフレスコ。


そのサン・フェリウ聖堂から丸石の石畳の道を少し下ると、旧市街を囲んで防御していた城壁の城門が一つあります。


城 門


実に堅牢そうな難攻不落の城門をくぐり抜けると、最初に川を渡って旧市街に入ってきたあたりの広場に出ます。

そこから南北に川の流れに沿う形で、細い通りが何本か通っており、それと直行する東西は階段だったり。


  



  



旧市街だけあって、情緒たっぷりの細い道の両側にはエキゾチックなお店やレストランなどが並びます。

バルセローナと張り合った高位の大司教座都市だっただけあって、キリスト教関係の装飾品などのお土産やさんも、あちこちに。


  



歩き疲れたら、またオニャール川岸に戻ると、水鳥が憩う姿や、絵のような家並みに疲れが癒されること請け合い。





さあ、次回は何をご紹介しましょうか。

お楽しみに。


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カタルーニアの魅力 2 <カステル・ガラ ダリが奥さんに贈った小さなお城>

2020-08-14 21:38:11 | 素晴らしき世界/スペイン


カタルニアが生んだ至宝『サルヴァドール・ダリ』は、生前カタルーニア政府から『プーボル男爵』領(プーボル村)を贈られ、同時に爵位を格上げし『ダリ・デ・プーボル侯爵』という爵位を授けられました。

その爵位に伴う幾つかの城の一つ、侯爵領「プーボル」の城を、ダリは奥さんの『ガラ』にプレゼントしました。
1970年のことです。

その館はそれ以来『カステロ・ガラ』と呼ばれることになりました。



ダリ・プーボル男爵夫人ガラ・エリュアール



カタルーニア第二の都市『Girona』から東へ15㎞ほど田舎の街道を走ると「プーボル村」に着きます。



プーボル村 全景


写真の、ひまわり畑の向こうの一かたまりがプーボル村。
左の塔は村の教会です。

そこからすぐ、右側の木立の中に『カステロ・ガラ』は、ひっそりと隠れるように存在します。



主門


大掛かりな城門のあるお城ではありません。
お屋敷といった風情。

アーケードをくぐったり内側の中庭みたいなところに抜けると、彼の愛車が四台保存されています。


  



  


馬車(フレームしか残っていませんが)2台と、車が2台。
公式な外出用とおぼしきキャデラックと、日常使いと思われる「ダッツン」。
なぜだか、ほっこりしました。

日本車が、安かろう悪かろうから、安い割に堅牢、という評価を受けることになる最初の輸出車が「ダットサン」だったのです。
海外では「ダッツン」と発音されていました。


城内は、ある意味なんでもありの夢の国。

まずは、侯爵閣下の「玉座」(とは言わないでしょうが)。



男爵座

もちろん彼自身のデザインのようです。
背もたれのメダイヨンの中は、油彩で幻想的な田園地帯の夕景。


当然、礼拝堂もあります。
貴族のお屋敷ですから。


    
祭壇                   天井画(部分)   


天井画

天井画も、もちろん彼自身の作品です。

そして、貴族の館の伝統的な部屋々々。


  
主寝室の寝台                 サロンの一隅


予備寝室の寝台


かと思えば、明らかに部屋のコンセプト自体が「サルヴァドール・ダリ」な部屋の数々。


例えば浴室は、角の一見暖炉のように見えるカーブの切り込みの奥に、また繰り込んで隠されています。


  
中央の暖炉様の奥にリネン置き場            その中に入るとさらに奥にバスタブ



あるいは、暖炉の様に見えなくもない照明や、トロンプ・ロイユ(だまし絵)の扉。
右下の写真は、壁に書いた「開いた扉」で、実際に開口部はありません。


  
暖炉に擬した照明                だまし絵の扉(通れません)



田舎風のタンスをリメイク。
それから、ガラスのキャビネットには彼のコレクションの小物の展示。


  



かと思うと、彼は衣装もデザインしていました。

スペインでは『聖週間』という、復活祭直前の一週間が最も重要なお祭りで、全国であらゆる人々が着飾って街を埋め尽くします。
『フェリア』と呼ばれるその祝祭に参加するときの、彼がでワインした衣装も展示されていました。


  
プーボル男爵サルヴァドール・ダリの衣装           男爵冠


  
男爵夫人の上衣                  その他多数



ユニークなテーブルは、彼のコレクションだと思われます。
そのテーブルを、照明器具としても利用。

 
  


暖炉もユニーク。






有名な作品の展示もあります。


  
      溶ける時計                 鼻の形の暖炉とペアの唇型ソファー


唇型のソファーと鼻型の暖炉は、一定の高さかの女性の顔を象って刳り貫いた隙間から覗くと、人間の顔に見えるように配置された作品で、現在は同じカタルーニアの『フィゲーラス』という街の「シアター・ミュージアム・パレス」に、完成形で飾られています。

さらには。
彼のデッサンから、絵の具箱まで展示されていました。


  








先にご紹介した愛車の展示のアーケードの奥には、彼と奥様との墓標もあります。


  



城内を出ると、外は緑が目に染み込んでくるような木々に溢れたお庭があります。

その中には、彼のコレクションのオブジェや、彼自身の作品が飾られています。


その中で不思議だったもの。

他の彫像はしっかり立っているのに、一体だけ隅っこにひっそり。
で、よく見ると膝から下がない。



足のない大理石像


そこで思い出したのが、その前の壁で見た膝丈夫から下だけの脚をあしらった壁面!


脚の一部の装飾


シシュールレアリスムの旗手だけのことはある。。。



ゾウさん2種。

ゾウさん 1


ゾウさん 2


噴水1と、そのディテール。


噴水 1


噴水 2 (部分)




噴水2と、なぜかダリだらけの装飾。。。


噴水 2


ダリだらけ.....




そして、美しい男女像。









なお、売店にはダリの作成したオブジェのレプリカ装身具を売ってます。


  


私はお庭にあった「ゾウさん1」のペンダントを買っちゃいました。
それが一番素敵でした。




カタルーニアは、魅力溢れて良いところがたくさんあります。
次回をお楽しみに!



= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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カタルーニアの魅力 1 <ポーブレ大修道院>

2020-08-12 21:50:24 | 素晴らしき世界/スペイン
『ポーブレ大修道院』



スペイン北西カタルーニア地方は
中世終わり頃まで
ピレネー山脈を挟んで南北に
フランス南西部と同じ文化圏を形成していました。

主邑バルセローナからタラゴーナの方へ80㎞ほど下り
途中に『Montblanc』という矢印が出たら
北側(右)の間道に入ると、その名もモンブランというフランス語の地名の町があります
(さすがに共通の文化圏)

町境に未だに現役の
ロマネスク期の様式の情緒溢れる橋が町の入り口。



モンブラン町入口の橋


橋の向こう側の斜面の上に
「城壁」に取り囲まれたモンブランの旧市街が残っています

散策すると
5百年ほどタイムスリップした思いに浸れる素敵な町なのですが
今回はそのまま止まらずに12〜3㎞進むと
広がるぶどう畑の向こうにやはり城壁に囲まれた
『ポーブレ修道院』が見えてきます。



僧院の葡萄畑を背景にポーブレ修道院全景


二つの堅固な丸い塔に挟まれな門を入ると
案内所と切符売り場
そこを抜けると結構な距離の空間が昼がり
前方に実に堅固な城壁が立ちふさがっています

 
六角形の二つの塔の間が『王の門』



 その右の扉口が修道院聖堂の入り口


聖堂(修道院の教会)に近づいて行くと
ちょうど一人の修道僧が歩いていらっしゃった





院内の見学は『王の門』から入ります
正確には複数形なので「王達の門」ですが



王の門

中に入ると狭い中庭のような空間の右手に階段があり
14世紀のアラゴン王『マルティネスの宮殿』と呼ばれている城の空間が残っています


右が城内に入る階段

かつての修道僧の集団宿坊だった大きな部屋は
その後談話室に使われたりしたそうです。
ちょうど聖堂の西側に作られた『回廊』の上の階層に位置します

回廊は
スペインの修道院や大聖堂の回廊の典型的な形


回 廊

お約束で
回廊のひと隅には水盤があります

回廊の水盤


修行と労働の日課の合間に
時間が空いた修道僧たちが目を半眼に閉じて
ゆっくりと瞑想しながら時計回りに回り
日頃まだ溶けていない教理問答の回答に思いを馳せたりしながら
体と心の平静を求めていたのです

一周するごとに
水盤に右手の人差し指と中指を浸して
その聖水ついた指を額に触れながら十字を切り
また歩みを続けてた

その「四角形」の回廊に奥に
全修道僧と全修道士が週に一回集まって
前の週の反省と次の週の目標を定める
『運営会議の間』があります


運営会議の間


シンプルな八角形の4本の柱で支えられた「ヤシの葉型アーチ」の天井
床は聖堂内にかつて存在した修道僧の墓標も散見されます


そして、修道生活で大切な時間が食事

全員が大食堂に集まり
日直の修道僧が朗々と節をつけて読み上げる聖書の時祷書のその日の章句を聞きながら
その日の食事を神様に感謝しながら静粛に黙々と。。



かつての大食堂

往時は5百人以上の修道僧が修行と労働に打ち込んだ王室修道院でしたが
今の時代でも数十名の修道僧が在籍していらっしゃるのです


現在の食堂

彼らのための書庫もあります
ここは中には入れません



書 庫


上階に登りましょう
上から見下ろす回廊もなかなか素敵です



回廊上部


フランスでは
南部プロヴァンス地方以外はあまり見かけませんが
スペインとポルトガルの回廊は二層になっていて
上階も一周できます。

その上階に『大宿坊(共同寝室)』があるのがお約束



共同大寝室


この大寝室は全長はゆうに100m近くもありそうで
今はもちろん使われておらず
途中で仕切ってあり何かの催し物の時に使われているようです

当時の修道僧は
素焼きタイルの床に自分の僧服にくるまって寝ていました

この修道院は『シトー会』というもっとも戒律の厳しい修道会に属しており
修道僧の個室はありません

フランシスコ会などはとても穏やかで
各修道僧に個室が与えられていました。

シトー会では冬でも暖房も一切なし
厨房の残り火に
一定時間(多分1時間くらい)には暖をとってもよい
とされていたらしいですが
5百人や千人の修道僧がいると、ほぼ無理ですね


また下に降りて「修道院聖堂(教会)」を覗いてみましょう



修道院聖堂


彼らは毎朝2時に起床
日没で夕食をって就寝可までの16時間ほどの間に
六回とか八回のミサを執り行っていました。



祭壇奥のRrtable(祭壇奥大衝立)


スペインの教会の特徴として
祭壇の奥に床から天井まで届く大祭壇画 Retable(イコンのような板製)を飾ります
彩色レリーフだったり
板絵だったり

ここでは石造りのレターブルで見事なレリーフがびっしりと彫られています


そして
教会にはその教会で勤めた神父や修道僧を床に葬ることが一般的でした
畳一畳ぶんほどの石板の墓碑を床と同化させて

ここは
かつてのアラゴン王家が建立した「王室修道院」で会ったために
歴代アラゴン王たちのお墓があります

アラゴン王ハイメ1世



歴代アラゴン王の墓(一部)

それがなんと
床ではなく二本の大柱の間に橋をかけるようにアーチをかけて
その両面に作られていました
アーチの下は
大人が立って歩ける高さのアーケードです

この形式は
他に知りません





そして
見学を終えるとこの写真の右側の扉
つまり「聖堂の扉」から出てくることになります。


この修道院は
単なる遺跡の文化財ではなくこんにちも現役の修道院ですので
季節によっては自由見学はありません

シーズンごとに
案内の言葉毎に
1時間おきとか2時間おきなど定められた時間に集まって
案内していただける形になります

おそらく夏のシーズンは自由見学ができるはず。

自由見学でなければ
案内してくださるのはもちろん現役の修道院の係りの方です
修道僧か
修行中の修道士かは
その時次第

では皆様も Bonne Visite (良い見学を)!



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