行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ポルトガル 1 エキゾチックで懐かしい 遠くて近い国 <リスボン 1>

2020-08-31 21:42:49 | 素晴らしき世界/ポルトガル
PLAÇA DO COMERCIO (商事広場)


東京からパリまで直行便で12時間
パリからリスボンまで3時間

ポルトガルはとっても遠い

でも。。。




見覚えがありませんか?
そう、天ぷら

日本でもマクドナルドがやっと入ってきたかどうかという頃
ポルトガルでは
狭い間口の店頭のショーケースに天ぷらが各種
店内は細長くカウンターで、指定した天ぷらを丸パンに挟んでもらって
食べたりテイクアウトしたりしてました
ファストフードのポルトガル版でした

今でも、パン屋さんのケーキの陳列ケースに、必ずあります。





これもパン屋さんやケーキ屋さんによくある
『コルネ』
実に懐かしい

ただ日本と違って
中身は卵黄だけで作くる甘くこってりした濃厚クリーム
外側もお砂糖がたっぷりまぶしてあって

お菓子は「甘くない」から美味しい
という世界でも類のない日本の思考とは違って
王道を行く美味しさ





スペイン中央部を例えばトレドを流れてポルトガルに入る Tajo(タホ)河
ポルトガルに入ると Tejo (テージョ)河と発音は変わり

リスボンでは入江のように広々とたゆたって大西洋に注ぎます




4月25日橋

上を車が下を電車が走る二階建てのこの橋が架かるまで
対岸との往復はフェリーでした

今でも30分おきくらいで運行されているはず
フェリーで対岸からくると
この橋の右のほうにある港に着きました



橋を
車と電車とが渡っている


渡り終わって
川の流れに沿って(左方向へ)しばらく走ると
街の表玄関「商事広場」Plaça do Comércio です
いかにも「大航海時代」に世界中を取引して財を成した国の首都らしいですね





18世紀後半国王の信任を一身に受けたポンバル侯爵は
王国宰相に任命されるや、啓蒙君主的大改革を敢行
ポルトガルを一気に近代化します





そのポンバル侯爵の銅像の背後の「市門」の前を
古色蒼然たるレトロな路面電車がのんびりと走ります

その門の奥一帯が
1755年11月11日の大地震とそれに続いた津波で破壊され尽くした
街並みを
侯爵自らが一から完全に再建した地区『Baixa』

その一角に
ギュスタヴ・エッフェルの影響を受けたフランス生まれのポルトガル人技師
ラウル・メスニエが建てた鉄塔があります

背後の高台に登るエレベーターです




1901年に建設されて今でも現役です


ところで
リスボンの名物はテージョ河に沿っています



コメルシオ広場から西に
サン・ジェロニモ大修道院
次に、写真中央が大航海記念の『発見の碑』
その左奥が、『ベレムの塔』





サン・ジェロニモ(聖ヒエロニムス)大修道院

内部の修道院大聖堂の中に
大航海時代を支えた『ヴァスコ・ダ・ガマ』のお墓があります





そして
大航海時代を顕正する『大発見記念碑』



先頭で船を抱いて大海原の遥か彼方を見つめる『エンリケ航海親王』
その背後からエンリケを支える『ヴァスコ・ダ・ガマ』
それに続く多くの航海者たち



その次の『ベレムの塔』は
かつてリスボンの港を守る砦であり税関でした


いかにも絵に描いた様な
ポルトガル的お城の典型かもしれません



ジェロニモ修道院の方へ少し引き返し
その奥に「馬車博物館」があります




いやはや
すごい数の馬車が
絢爛豪華大規模車輌からご婦人一人で操る小型車まで

よくもこれだけ



ところでポルトガルの歴史と文化に欠かせないのが「絵タイル」です
藍(アズレージョ)の絵柄から始まった様で
一般的に「アジュレジョス」と呼ばれます


先ほどのコメルシオ広場の方へ引き返し
さらにもっと先の港と中央駅を通り越してやや上り坂の上

かつての貴族のお屋敷を博物館にしてあるのですが

中は凄いの一言




これぞ典型的アジュレージョ

外壁全体がこの藍の手描き絵タイルで覆われた教会が
そこかしこにあるのがポルトガル




こちらは
より多彩な絵画的手法のタイル



ポルトガルは見所が多く先が長くなりそうなので
各回は毎回簡単にまとめてご紹介することにしようと思います

次回をご期待ください

= = = = = = = = = = =


もしご旅行にご興味がおありでしたら、下のリンクもご覧ください。
https://veritas21.com/『誰も真似のできない 旅のプランナー』










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カタルーニアが誇る 稀有の美食の世界 <フェラン・アドリア と エル・ブージ>

2020-08-28 21:17:38 | 素晴らしき世界/スペイン/グルメ
海から見た<エル・ブージ>




先回に引き続き
別の日のメニューのご紹介



様々のその時々の珍しいハーブを
ジュースとスムージーの中間くらいの飲み物状にして

ハーブのジュースはアルプスの麓アヌシーの名シェフ
『マルク・ヴェイラ』もずっとやっていた




まるで駄菓子のような
煎餅みたいな、塩こぶみたいな、薄焼きみたいな、甘納豆みたいな
でも
全部ヨーロッパの味




カットした硬めのクリームチーズを薄焼きで挟んだ
みたいな
野菜や肉の分子結合を変えて、密度の高いゲル状にした
不思議な前菜




オリーブや、セロリや、様々な食材を
か酸化窒素を触媒として
卵の黄身ほどの密度と硬さに纏めたフェラン氏の化学実験




トリュフと腸詰などの極薄仕立て





これは海老が大元
何種類もの貝類その他のエッセンスを
フィルム状してラッピングにしたり
ジェル状やペーストのソースにしたり




小蛸と雲丹と
パパイヤと
何かのハーブのムースと
野菜のエッセンスで作った小麦粉は使わないパスタと




これは
なんだったか思い出せない.....




ここで
主菜にあたる料理の前の
お口直しのシャーベット






そして魚料理



アンチョビー(片口鰯)とネギ
ソースは判別不明

ただ美味しいとしか言えなかった




イベリコ豚の胸肉



そしてデザート











見た目の不思議さ
想像と見た目と実際とのギャップの凄さ
味と香りと食感と温度差の驚き



素晴らしいレストランでした。。。




厨房から客席の方を見つめる雄牛





1989年頃のエピソード

20世紀最大のシェフの一人『ジョエル・ロビュッション』がバルセロナにビジネスでやってきた時、フェラン・アドリアの噂を聞いて、エル・ブージを訪れた。
230㎞を車を飛ばして。

品数が多いので予想以上に時間がかかり、あらかじめ店側につげてあった退店時間が来ててしまったジョエルが、アドリアさんに客席まで来ていただいて言った一言。

「私も料理人です。今夜最終便でパリに帰らないと明日の重要な会合に間に合いません。しかし、貴方の料理を途中で中断するわけにはいかない。予定時間になりましたが、このまま最後までお食事を楽しませてください。」


あの、ジョエル・ロビュッションが感動した
フェラン・アドリアの料理

私はそのエピソードを新聞で読んで、その夏の予約をトライしました。
幸運なことに、予約が取れたのです。





なぜ「素晴らしいレストランでした」
と過去形なのか...


半年の営業で年間8000食に
予約の希望が毎年60万件


毎年常連客が「期待を込めて」驚きに来る。

営業していない半年は
それまで誰も考えつかなかった料理を考え出してお客様を驚かす為に
全身全霊を振り絞って翌年の準備をする繰り返し

彼は
空っぽになってしまったのでした

1985年にシェフとなり、2011年で休止を発表
2年間休んで再開したい

という予定が

2年経っても3年経っても
そしてとうとう再開しなかった
1000万ユーロ(13億円)以上の赤字を残して


本当に素晴らしレストランでした


ちなみに、あまりに予約が取れない不満を解消する為に
アンダルシア地方のグラナダ郊外の古い修道院を改造したホテルを買い取って
そこのレストランで宿泊客にのみ
1年落ち(前の年の)メニューを出すという事もやっていましたが
あまり上手く行かなかった様で
それもやめてしまっています。

2019年からバルセローナに
カジュアルな「ビストロ」をオープンした

2020年には元々の店『エル・ブージ』で
世界中の料理人に解放する「未来の料理のリサーチ」の為の
『エル・ブージ料理研究センター』を開所の予定でした。

新型コロナが起こるまでは。。。


今後の復活はあるのでしょうか


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カタルーニアが誇る 世界一の名シェフ <フェラン・アドリア>

2020-08-26 17:50:51 | 素晴らしき世界/スペイン/グルメ
EL BULLI (ブルドッグ)のシンボルは「雄牛」



1980年後半、カタルーニアに歴史に残る名シェフが出現しました
その名も『フェラン・アドリア』


フェラン・アドリア氏


フランスのポール・ボキューズ以後、素材を生かし軽くデリケートな新しい料理スタイル「ヌーヴェル・キュイジーヌ(新しい料理)」が西欧の料理を
一変させてきました

その革新的風潮からさらに抜け出し、いわゆる「ケミカル・キュイジィーヌ』を生み出し
料理界を未来志向に変えてしまった


レストランの名は『EL BULLI (ブルドッグ)』

カタルーニアからバレンシアあたりの発音では「エル・ブージ」
標準スペイン語で「エル・ブーリ」


ブルドッグの顔を線描きした板っきれが看板


実に素朴なレストランでした



フランス国境に近いフィゲーラスで高速を降りて海側に30分ほど行くと
ローザスというリゾートの町がある


正面の丘の上に城塞の後が残る海岸通り

この海岸通りの右側がビーチ

その町から左に逸れて、荒涼たる小高い起伏の連なる半島に入り
セメントのひび割れだらけの簡易舗装の道を一時間以上
人の住む気配もない荒涼たる道を迷いながら進んで
急坂を降ると小さな湾に出る

エル・ブージがひっそりと存在しています。

白い建物の二つのうち下の建物がレストラン

あたりには、何もない
海からは陸にボートを接岸できる場所もない。



春から秋の半年しか営業せず、半年で8000席。
半分は地元の店の昔からの顧客にとっておき
外国からのお客に残り4000席
週5日間で6ヶ月
営業は時期によって昼か夜
つまり外国のお客様は1日に30名ほど

12月1日が翌年の予約受付の解禁日。
電話(当時は電話)が繋がったら幸運者で2分後に全席が埋まってしまう

その後、あまりにも予約が殺到するので解禁日を10月1日にした
結果は同じことだった


メニューはなく、「本日のお食事はこれこれでございます」と十六品くらいのお品書きを渡される



ある日のコースをご紹介しましょう


まず細々とした前菜がたくさん出てくる。
八寸とか向う付け、みたいな


   

揚げ物(?)と各種ハーブのジュース



   

試験管入りのものと牡蠣の天ぷら様のもの
ちなみに左の寿司巻き様のものの中にもなにやら入っていた



   



上の3点は同じもので、ゲストに合わせてアイスノン様のゲルの袋の色が違う



   


この二葉の写真は同じもので、右がディテール




ここからいよいよ「お料理」になる


  

まるでデザート



お品書きでは「甲殻類のタリアテッレ」
当然平麺のパスタにエビカニのソース....だと思いますよね

そうしたらなんと、「甲殻類でとったコンソメスープ」をジェラチンで固め
薄く平たく伸ばし、タリアテッレの様に切ったもの!
周囲の黄色い部分はポテト・ピューレではなく
香り高い「何か」のペースト

想像を絶する



これは、液体窒素でマイナス150度Cほどに冷やして粉末状にした
「フォアグラ」




そこに熱々のコンソメスープを注ぎ、ややかき混ぜながら
冷たい粉末状の食感のフォアグラと、それが溶けかかった食感と
熱〜い極上のスープの食感とが混じり合う味と温度のハーモニー!!




これは、お品書きでは「クルディテ」
人参とビーツ(甜菜)ときゅうりと根セロリなどを細切りにしてさらに乗っけ
ヴィネガーとオイルで食べる学食や大衆食堂の前菜

ところが
頭の中「??マーク」で一杯になりながら口に入れてみると...

7種の生野菜をすりつぶして成分を抽出し
ゼリーで固めて細く切って並べてある

当然それぞれの野菜の味と香りと色でした



  

左の皿は、アドリアさんが発明した「エスプーマ」
一般的にはフランス語で「エミュルジオン」と呼ばれる
素材の要素を泡にしたソースに包まれる様にして別の素材が



ここからいよいよデザートとなりました



固柔らかいフルーツのおせんべい
したの洋館みたいなものは、あくまで載せ台






デザート一挙盛り





左上のカクテルグラスの中はフルーツのジェラート風の冷菓
でもジェラートではありません
エッセンスを泡にして凍る寸前まで冷やしたもの





もう
何が何だか

びっくり
驚き
ショック
感心

で二時間が終わってしまいました。



次回では、別の日のコースをご紹介します♡


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カタルーニア 5 ちょっと寄り道 <最後の対立教皇の隠棲地 ペニスコーラ>

2020-08-24 22:23:05 | 素晴らしき世界/スペイン
ペニスコーラ岬


14世紀の初め、政治的に宗教的に道徳的に荒廃を極めたローマの街から、教皇クレメンス5世は教皇庁を南仏アヴィニヨンに移しました。


13世紀末、ローマ教皇ボニファチウス8世は、とんでもない破戒坊主だった。
ありとあらゆる不道徳の極みで教皇庁はソドムとゴモラの如き様相と成り果て、キリスト教会に対する悪評は増すばかり。

フランス王が枢機卿会議に圧力をかけて、フランス人であるボルドーの大司教を法王に選出させた。

クレメンス5世は、1305年とっとと教皇庁をローマから南仏アヴィニヨンに移してしまう。


そこから「第二のバビロニア幽囚「と呼ばれる時代が始まった。

7代の教皇がアヴィニョンで在位し、その間にローマの街は荒廃を極め、ヒッチャカメッチャカ面白おかしいあれこれの結果、1377年イタリア人の圧力で最後の7代目グレゴリウス11世が教皇庁をローマに戻す。

廃墟然と化したローマに幻滅したグレゴリウス教皇は「アヴィニヨンは良かった、アヴィニヨンは良かった」とつぶやきながらローマで亡くなることになる。

そこで次の教皇を選ぶ枢機卿会議『コンクラーベ』の会場ラテラーノ宮(旧教皇庁)をローマ市民が武装して包囲し「イタリア人を教皇に選ばないと全員生きて返さない(教皇庁をアヴィニヨンに戻すな)!」と恫喝。

枢機卿たちは、慌てふためいてイタリア人でバーリの大司教を次期教皇に選び「アヴィニヨンが良かった」とつぶやきながら大急ぎでローマを逃げ出した。


そういう経過でウルバヌス6世が登場すると、フランス系枢機卿たちがアナーニに集い、「ローマでの決定は民衆の暴動による恫喝の結果で正規な手順を踏んだコンクラーベの結果ではない」と称して選出会議をやり直し、ジュネーヴの枢機卿ロベールを教皇に選出し、クレメンス7世の名でアヴィニヨンで戴冠式を強行する。

そこから始まった教会大分裂。


どちらの系列が正当なキリスト教会であるか、わけのわからない時代となって、アヴィニヨン側を『対立教皇』と歴史で呼ぶこととなる。

ローマ側のウルバヌスの後は、イタリア人のピトロ・ポマチェルリを選んでボニファティウス9世、次がインノケンティウス7世、そしてその次のグレゴリウス12世はアヴィニヨンとの和解を望む。

クレメンスの後の対立教皇はスペイン人のペドロ・デ・ルーナを選出してベネディクトウス13世。

その間にフランス王の武装介入、フランスの大貴族アンジュー伯の武装介入、イタリアのフランス側大貴族コロンナ家のローマ教皇庁攻撃、民衆の蜂起と教皇庁の略奪などなどの大騒ぎを経て、枢機卿たちはピサに公会議を招集。

枢機卿27名、総大司教4、大司教12、司教80、修道院兆87、修道会代表、各地の大学代表、教会法の専門家、総計300名、さらに各国大使が参加した『ピサ公会議』で両教皇を廃位し、新たに「公式な」教皇を選ぶことに。

しかし、両教皇は共に不参加。
公会議はミラノ大司教を選んでアレクサンデル5世として戴冠。

ローマとアヴィニヨンの両教皇を廃位したものの、当然ながら両名は無視。

ということでなんと「教皇」が3人鼎立するという狂奏曲が吹き荒れる。

即位後すぐ急死したアレクサンデルの後、ヨハネス23世を選出する。

三人の教皇は、お互いに他の二人を認めず、互いに互いを破門し合い、フランス、イングランド、アラゴン、シチリア各王家とメディチ家の利害が絡み合い、二転三転どころか九転十転の大騒ぎの末、ヨハネスは数十件の罪状で逮捕されてハイデルベルク城に監禁。
コジモ・デ・メディチの尽力で釈放され、フィレンツで余生を送った。

ヨハネス23世は、問題解決のために「自分が公会議を開催する」ことを主張し、枢機卿会議の権限を犯すと枢機卿側が反発しヨハネス教皇の権威を否定。

彼は教会史では正規の教皇と認められておらず、20世紀に再度ヨハネス23世の名で教皇が登場する。

その後グレゴリウスは、枢機卿会議に「改めて自分を教皇として選出するなら」ば、自ら次の公会議を開催して、その場で自分は退位すると宣言。
枢機卿会議の権威を認める申し出の功績で、彼は退位後アンコーナの総督の地位を送られて、余生を送る。

この結果、教皇の地位にしがみつくのはアヴィニヨンのベネディクトウスだけとなる。

しかし、すでに彼は既に孤立しており、公会議が廃位を宣言しても、分裂は起こらなかった。


ここまでが前提。

孤立無援で年老いたペドロ・デ・ルーナ(前ベネディクトウス13世)が隠棲したのが、故郷バレンシアの伯爵領内ペニスコーラ城であった。


ベネディクトウス13世


この町は、カタルーニアの首都バルセローナから、バレンシアの首都バレンシアまで2/3ほど、200kmほど南下した位置にあります。

大昔の小さな島が陸地と繋がってできたこんもりした岬の両側が湾曲したビーチになっていて、夏季はレジャー客で賑わいます。

岬の中が旧市街。
全体が丘になっています。





こんな階段やら。






こんな路地やら。






こんな教会やらが並んでいます。


初めのうちは、お土産やさんにレストランが並びますが、少し登って行くと静かな佇まい。


そして、丘の頂上に堂々たる規模のお城が残ります。

城壁の足元から、上の写真のような『対立教皇ベネディクトウス13世』のかなり大きなブロンズの胸像が、生えています。


城の入り口の一つ



城の中庭


中は、高い城壁に囲まれた中庭。

それそれ居住空間や様々な用途に使われる部屋や空間が取られています。


大広間


大広間。

中央の壁にはヴァレンシア伯の旗。
右の壁には、ベネディクトウス13世であったペドロ・ルーナの旗。

ちなみに「ルナ」は月なので、彼の旗は「三日月」があしらわれています。


礼拝堂



礼拝堂。


大鍋


兵士にスープを出すための「火鉢」と「鍋」か。





新しそうなので、ペドロの時代の物ではないようですが。。
なんとなく雰囲気を作ってあります。



ベネディクトウス13世


聖ペテロにかわって『天国の門の鍵』を持つ、ローマ教皇『ベネディクトス13世』のレリーフ。


マルタ島騎士団


『マルタ騎士団』のレリーフ。


お城の上部に登って行けます。












最上部の塔の頂上に出ると、周囲が一望。
地中海が眩しい。


岬の北側の海岸線



北側の海岸から見た岬



ペドロ・デ・ルーナは、アヴィニヨンの教皇庁を追われ、傷心のまま故郷に戻って、この城に隠棲生活を送りました。

城内の騎士や召使いたちには、自分のことを常に「教皇猊下」と呼ぶように強制。

しかも、もし他人から「教皇と呼ばれない」時のことを憂慮した彼は、生涯城から外へは出なかったそうです。






『ルナ』の三日月文様の教皇帽をかぶったベネディクトウスの旗が、旧市街のいたるところに変わられています。


次回をお楽しみに。
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【謹告】ブログタイトルの変更のお知らせ

2020-08-21 16:02:05 | 素晴らしき世界
フランス ロワール河の古城『ショーモン城』



みなさま、稚拙なブログですがご愛読に感謝申し上げます。
タイトルが長すぎる、というのが悩みの種でした。

何度もいじって細かな変更は試みたのですが、この度思い切って完全に変更してシンプルで覚えて頂き易いタイトルに変更することにいたしました。

『行ってみませんか...  こんな 素敵な世界へ』です。


今後とも、ご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。





今回は、一葉ごとに何かを感じていただけるような写真を並べてご覧いただくことにいたします。



『プティ・トリアノン』




ヴェルサイユ宮の広大な庭園のはるか奥に、ルイ14世が建てた離宮
「トリアノン宮」
その敷地の隣接地にルイ15世が愛妾ポンパドウール夫人のために建てた
「小トリアノン離宮」
その小トリアノンのお庭の奥にマリー・アントワネットが作らせた
「王妃の小邑」の一角



『妖精の岩』


ブルターニュ地方に多い巨大岩遺跡「ドルメン」の中で、最も大きく美しい。



『モロッコの街道のウチワサボテン』


延々と何キロメートルにもわたってウチワサボテンが赤い身をつけています。



『シャロレー牛』


肉牛として名高いブルゴーニュ地方原産の『シャロレー種』
場所はオータン



『オンフルール』


ノルマンディー地方の古い港町オンフルールは印象派の画家たちの絵で有名ですが、
16世紀前半フランソワ1世の艦隊が大西洋横断に乗り出した拠点港の一つで、ミシシッピ河に到達しました。



『カルカッソンヌ』


フランス南西部カルカッソンヌは、フランスで最も美しい城壁で囲まれた中世そのままの村です。
フランスでは昔から「カルカッソンヌを見るまで死ぬな」と言われてきました。
今では『国連世界遺産』に登録されています。



『サン・フルール』


フランス中南部カンタル地方の村『サン・フルール』は丘の上の旧市街が
『フランスで最も美しい村々』の一つに選ばれています。
その丘の上の旧市街から見下ろす、新しい下の村の俯瞰



『ひまわり』


フランス南西部、地中海にもスペインにも近いあたりのひまわり畑



『サン・ベネゼ橋の夕景』


14世紀に法王庁が置かれたアヴィニヨンのサン・ベネゼ橋は
「橋の上で 踊ろよ 踊ろう♪」という古謡で知られた、ローヌ河の中程までしかない橋です。



『現代のアンフォラ』


フランス最南西部ピレネーの麓の街道沿いの壺工場の看板
古代ギリシア以来中世まで、地中海では細長い素焼きの壺「アンフォラ」が
小麦やワインを入れて運ぶ容器でした。
その伝統で、今でも素焼きの大きな壺のアトリエがありました。



『ペイルペティューズ城』


13世紀初頭、異端として「カタリ派」への討伐『アルビジョワ十字軍』が行われ、
追い詰められたカタリ教徒たちがピレネー山脈の山城に夫々立てこもって全滅しました。
その中で最も難攻不落を誇ったのがペイルペティューズ城だったのです。



『サン・マルタン・ドュ・カニグー大修道院』



フランスとスペインとの国境ピレネー山脈の山岳地帯に点在する1000年の歴史を有する
名修道院の一つ。



『ボニファチオ』


コルシカ島最南端の港町。丘の上の旧市街の入り口の城壁



『コルシカの少年』


コルシカ島中央部山岳地帯の中に点在する小村にいた少年。



『ロカマドウール』


聖母マリアと行動を共にしたマグダラのマリアの付き人「サラ」の夫が隠生した地という伝説もある、
南部ペリゴール・ケルシー地方の中世以来の一大巡礼地。



『クロマニョン洞窟』


ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)が暮らしたペリゴール地方の『クロマニョン村』のはずれ、
初めて「ホモ・サピエンス」の骨格化石の一部が発見された岩室



『羊の群れ』


ピレネー山脈の真っ只中『アンドーラ公国』からスペイン側に下った小さな村の中で遭遇した、
移動中の放牧羊



『ゲルニカの樫の木』


ピカソの名作も生んだゲルニカの町で、空襲で全滅した町の唯一生き残った樫の木。
平和の象徴とされています。



『ポワント・ド・ラ(ラ岬)』


ポルトガルの「ロカ岬」と並んでヨーロッパ最西端ブルターニュ半島の最西端「ラ岬」は、
中世に「世界の果て」と信じられてきました。
足下100mに荒波が砕け散る岩の岬を、岸壁にへばりついて先端まで行くこともできます。




『モンテ・チェルヴィーノ(モンブラン)』


Monblanc モンブラン(仏語名)は、イタリア語では Monte Cervino と呼ばれます。
イタリア側の山麓、標高2000mの「ブルイユ・チェルヴィーニア村」からの眺め。



『シェリ河の渡し』


アフリカ第二の湖「チャド湖」に注ぐシェリ河の河口付近。
チャド側からカメーン側に渡る渡し舟の人々



『エルバルンガ村』



コルシカ島北端「コルシカ岬」東側の付け根の小さな村



『ローヌ河の渡し』


左側にかすかに見えるロープに沿って引っ張られる「ロープウェイ・フェリーボート」



『ニームの分水施設』



古代ローマが築いたニームの街に、45㎞彼方の山の水源から引く水道の終点
ここから各町内に水が給水されました。



『コルテの城塞』


フェニキア人、ローマ帝国、アレクサンドリアの海賊、ピサ共和国、ジェノヴァ共和国と1500年以上他民族の支配が続いた
コルシカに、18世紀末現地反乱軍によって初めて
『自由コルシカ共和国』が宣言された時の首都。



『ポルトガルとスペイン国境の鉄橋』



ポルトガル北端ニーニョ川のほとり「ヴァレンサ・ド・ニーニョ」という町。
この鉄橋を渡ると向こう岸はスペインの「トウイ」という町。



『モンサント村』


ポルトガル北西部高原地帯の巨岩の中に埋め込まれたように....



『ヴァスコ・ダ・ガマ生家の遺構』


ポルトガル中西部「エルヴァス」の町は、少年遣欧使節団も滞在した。
その町に、大航海時代の立役者ヴァスコ・ダ・ガマの館の遺構があります。
フレスコなどが残っています。



『ポルト』


スペインを東西に横断する「ドウェロ (Duelo)河」 は、ポルトガル国境までくると流れを南向きに変え、両国の国境線となる。
かなり南に下ってポルトガル国内に入ると、同じ名前のまま蛇行しながら西へ流れる。
そのドウェロの中流の急斜面で育ったぶどうで作った赤ワインの樽が
木造船で運ばれ下って、ポルトの町で長期間熟成させ『ポルト酒』が誕生します。



『アルベルカ村の井戸端会議』


中世マンマのアルベルカ村で談笑中の三人



『サント・ヴィクトワール山』


ポール・セザンヌは、晩年故郷のエックス・アン・プロヴァンスの町に引き上げ
元気が良いと町を出て近郊のサント・ヴィクトワール山を見上げる数多くの地点まで行って
22点ほど『サント・ヴィクトワール山』という題の油彩を仕上げました。



『或るホテルの朝食のテーブル』


アルザスのイルォーゼルヌ村のホテルの朝食は、
夏場は横を流れるイル川に沿って前庭の芝生にテーブルが少しずつ離れて配置されます。
その中で、幸運な一組は川面で!



『サロン・ド・テのテーブル』


サンクト・ペテルブルグの名店『プーシキン』でお茶をするとき
マカロンの上のガラスの上で



『セゴヴィア』


セゴヴィアに北側(マドリードと逆側)からアプローチすると、6月ごろのヒナゲシの時期には
この光景が見つかるかもしれません。



『初日の出』





次回からは、またテーマを決めて「素敵な世界」へご案内します。
お楽しみに!


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カタルーニアの魅力 3 <バルセローナに対抗する大司教都市 ジローナ>

2020-08-17 23:21:06 | 素晴らしき世界/スペイン
オニャール橋から大聖堂を望む


バルセローナから地中海沿いにフランスの方向を目指して北上すること100㎞、バルセローナとフランス国境の中ほどに、カタルーニア第二の都
市『ジローナ』があります。

カタルーニア語表記で Girona (ジローナ)、標準スペイン語カスティーリア語表だと Gerona (ヘローナ)です。

オニャール川という川底の見える清流が北向きに流れる、その右岸が旧市街で城壁に囲まれています。



オニャール川


その幾つかの橋の『オニャール橋』からサンタ・マリア・デ・ジローナ大聖堂を見上げる角度が、ジローナの街の第一印象を伝える「正式な」眺めなのだとか。


その大聖堂は、胸つく大階段の最上部に屹立しています。



サンタ・マリア・デ・ジローナ大聖堂


お約束で、新しい町に来たら「先ず」大聖堂を訪れよ、ということで。

ジローナの『聖マリア大聖堂』内部


祭壇は、純銀製の天蓋で覆われています。
床にはかつての僧たちの墓標が敷かれている。

  



800年間のイスラムとの戦い『レコンキスタ(国土回復運動)』を終わらせて、全イベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻したアラゴン王国とカスティーリア王国のイザベラ女王とフェルナンド王太子が政略結婚でスペインが統一王朝となり、その二人の孫、スペイン王カルロス1世にしてフランドル伯、ハプスブルグ(オーストリア)大公にして神聖ローマ皇帝、ローマ王にしてモロッコ王たる『カール5世<大帝>』の聖座というものも残されています。


カール大帝の聖座


回廊も立派なものです。

  



この大聖堂の宝物殿(博物館になっています)には、興味深いものがたくさん。

  


  
                            10世紀コルドバ王国ヒッサム2世の櫃


そして、金糸をふんだんに使った、見事な刺繍の『聖母被昇天』の祭壇布。





それらの中でも、最も重要な文化財が二つあります。

一つは、9世紀から10世紀初頭の頃、初期イベリア北部の「カンタブリア公国」と「アウトリアス王国」で活躍した地理学者にして聖書学者であった『ベアトス』の『聖ヨハネの黙示録』の解釈を、おそらく975年頃に筆耕家エメンテリと修道女ウードの手で石板の筆耕して彩色した細密筆耕板。


975年頃の細密筆耕石板


そして、宝物の中の筆頭が『天地創造のタピスリー』です。

ちなみに、綴れ織りの壁掛け「タピスリー」は14世紀終わりに作られ始めたので、これは厳密に言えば、後世でいうタピスリーではなく、あくまで刺繍の装飾布です。

1100年頃の製作になるものだろうと思われています。

『天地創造のタピスリー』

ほぼ原色と言っても良いほどの色味の残り具合といい、構成の見事なバランス、細部の繊細な仕上げ、まさにジローナが誇る歴史の名作です。


ところで、この大聖堂のあたりには、他にも2つほど教会があります。

すぐ隣にあるのが、神学校付属聖堂『聖フェリウ教会』です。

聖フェリウ聖堂「身廊」から奥の祭壇とRetable


  


左の写真は、祭壇奥の「Retable (祭壇画)」で、木彫金彩。
右の写真は、周囲の礼拝室の一つの天井画。18世紀のバロック様式のフレスコ。


そのサン・フェリウ聖堂から丸石の石畳の道を少し下ると、旧市街を囲んで防御していた城壁の城門が一つあります。


城 門


実に堅牢そうな難攻不落の城門をくぐり抜けると、最初に川を渡って旧市街に入ってきたあたりの広場に出ます。

そこから南北に川の流れに沿う形で、細い通りが何本か通っており、それと直行する東西は階段だったり。


  



  



旧市街だけあって、情緒たっぷりの細い道の両側にはエキゾチックなお店やレストランなどが並びます。

バルセローナと張り合った高位の大司教座都市だっただけあって、キリスト教関係の装飾品などのお土産やさんも、あちこちに。


  



歩き疲れたら、またオニャール川岸に戻ると、水鳥が憩う姿や、絵のような家並みに疲れが癒されること請け合い。





さあ、次回は何をご紹介しましょうか。

お楽しみに。


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カタルーニアの魅力 2 <カステル・ガラ ダリが奥さんに贈った小さなお城>

2020-08-14 21:38:11 | 素晴らしき世界/スペイン


カタルニアが生んだ至宝『サルヴァドール・ダリ』は、生前カタルーニア政府から『プーボル男爵』領(プーボル村)を贈られ、同時に爵位を格上げし『ダリ・デ・プーボル侯爵』という爵位を授けられました。

その爵位に伴う幾つかの城の一つ、侯爵領「プーボル」の城を、ダリは奥さんの『ガラ』にプレゼントしました。
1970年のことです。

その館はそれ以来『カステロ・ガラ』と呼ばれることになりました。



ダリ・プーボル男爵夫人ガラ・エリュアール



カタルーニア第二の都市『Girona』から東へ15㎞ほど田舎の街道を走ると「プーボル村」に着きます。



プーボル村 全景


写真の、ひまわり畑の向こうの一かたまりがプーボル村。
左の塔は村の教会です。

そこからすぐ、右側の木立の中に『カステロ・ガラ』は、ひっそりと隠れるように存在します。



主門


大掛かりな城門のあるお城ではありません。
お屋敷といった風情。

アーケードをくぐったり内側の中庭みたいなところに抜けると、彼の愛車が四台保存されています。


  



  


馬車(フレームしか残っていませんが)2台と、車が2台。
公式な外出用とおぼしきキャデラックと、日常使いと思われる「ダッツン」。
なぜだか、ほっこりしました。

日本車が、安かろう悪かろうから、安い割に堅牢、という評価を受けることになる最初の輸出車が「ダットサン」だったのです。
海外では「ダッツン」と発音されていました。


城内は、ある意味なんでもありの夢の国。

まずは、侯爵閣下の「玉座」(とは言わないでしょうが)。



男爵座

もちろん彼自身のデザインのようです。
背もたれのメダイヨンの中は、油彩で幻想的な田園地帯の夕景。


当然、礼拝堂もあります。
貴族のお屋敷ですから。


    
祭壇                   天井画(部分)   


天井画

天井画も、もちろん彼自身の作品です。

そして、貴族の館の伝統的な部屋々々。


  
主寝室の寝台                 サロンの一隅


予備寝室の寝台


かと思えば、明らかに部屋のコンセプト自体が「サルヴァドール・ダリ」な部屋の数々。


例えば浴室は、角の一見暖炉のように見えるカーブの切り込みの奥に、また繰り込んで隠されています。


  
中央の暖炉様の奥にリネン置き場            その中に入るとさらに奥にバスタブ



あるいは、暖炉の様に見えなくもない照明や、トロンプ・ロイユ(だまし絵)の扉。
右下の写真は、壁に書いた「開いた扉」で、実際に開口部はありません。


  
暖炉に擬した照明                だまし絵の扉(通れません)



田舎風のタンスをリメイク。
それから、ガラスのキャビネットには彼のコレクションの小物の展示。


  



かと思うと、彼は衣装もデザインしていました。

スペインでは『聖週間』という、復活祭直前の一週間が最も重要なお祭りで、全国であらゆる人々が着飾って街を埋め尽くします。
『フェリア』と呼ばれるその祝祭に参加するときの、彼がでワインした衣装も展示されていました。


  
プーボル男爵サルヴァドール・ダリの衣装           男爵冠


  
男爵夫人の上衣                  その他多数



ユニークなテーブルは、彼のコレクションだと思われます。
そのテーブルを、照明器具としても利用。

 
  


暖炉もユニーク。






有名な作品の展示もあります。


  
      溶ける時計                 鼻の形の暖炉とペアの唇型ソファー


唇型のソファーと鼻型の暖炉は、一定の高さかの女性の顔を象って刳り貫いた隙間から覗くと、人間の顔に見えるように配置された作品で、現在は同じカタルーニアの『フィゲーラス』という街の「シアター・ミュージアム・パレス」に、完成形で飾られています。

さらには。
彼のデッサンから、絵の具箱まで展示されていました。


  








先にご紹介した愛車の展示のアーケードの奥には、彼と奥様との墓標もあります。


  



城内を出ると、外は緑が目に染み込んでくるような木々に溢れたお庭があります。

その中には、彼のコレクションのオブジェや、彼自身の作品が飾られています。


その中で不思議だったもの。

他の彫像はしっかり立っているのに、一体だけ隅っこにひっそり。
で、よく見ると膝から下がない。



足のない大理石像


そこで思い出したのが、その前の壁で見た膝丈夫から下だけの脚をあしらった壁面!


脚の一部の装飾


シシュールレアリスムの旗手だけのことはある。。。



ゾウさん2種。

ゾウさん 1


ゾウさん 2


噴水1と、そのディテール。


噴水 1


噴水 2 (部分)




噴水2と、なぜかダリだらけの装飾。。。


噴水 2


ダリだらけ.....




そして、美しい男女像。









なお、売店にはダリの作成したオブジェのレプリカ装身具を売ってます。


  


私はお庭にあった「ゾウさん1」のペンダントを買っちゃいました。
それが一番素敵でした。




カタルーニアは、魅力溢れて良いところがたくさんあります。
次回をお楽しみに!



= = = = = = = = = = = = = = = = = =
もしご旅行にご興味があれば、下のリンクもご覧ください。
https://veritas21.com『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできないたびにプランナー』

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カタルーニアの魅力 1 <ポーブレ大修道院>

2020-08-12 21:50:24 | 素晴らしき世界/スペイン
『ポーブレ大修道院』



スペイン北西カタルーニア地方は
中世終わり頃まで
ピレネー山脈を挟んで南北に
フランス南西部と同じ文化圏を形成していました。

主邑バルセローナからタラゴーナの方へ80㎞ほど下り
途中に『Montblanc』という矢印が出たら
北側(右)の間道に入ると、その名もモンブランというフランス語の地名の町があります
(さすがに共通の文化圏)

町境に未だに現役の
ロマネスク期の様式の情緒溢れる橋が町の入り口。



モンブラン町入口の橋


橋の向こう側の斜面の上に
「城壁」に取り囲まれたモンブランの旧市街が残っています

散策すると
5百年ほどタイムスリップした思いに浸れる素敵な町なのですが
今回はそのまま止まらずに12〜3㎞進むと
広がるぶどう畑の向こうにやはり城壁に囲まれた
『ポーブレ修道院』が見えてきます。



僧院の葡萄畑を背景にポーブレ修道院全景


二つの堅固な丸い塔に挟まれな門を入ると
案内所と切符売り場
そこを抜けると結構な距離の空間が昼がり
前方に実に堅固な城壁が立ちふさがっています

 
六角形の二つの塔の間が『王の門』



 その右の扉口が修道院聖堂の入り口


聖堂(修道院の教会)に近づいて行くと
ちょうど一人の修道僧が歩いていらっしゃった





院内の見学は『王の門』から入ります
正確には複数形なので「王達の門」ですが



王の門

中に入ると狭い中庭のような空間の右手に階段があり
14世紀のアラゴン王『マルティネスの宮殿』と呼ばれている城の空間が残っています


右が城内に入る階段

かつての修道僧の集団宿坊だった大きな部屋は
その後談話室に使われたりしたそうです。
ちょうど聖堂の西側に作られた『回廊』の上の階層に位置します

回廊は
スペインの修道院や大聖堂の回廊の典型的な形


回 廊

お約束で
回廊のひと隅には水盤があります

回廊の水盤


修行と労働の日課の合間に
時間が空いた修道僧たちが目を半眼に閉じて
ゆっくりと瞑想しながら時計回りに回り
日頃まだ溶けていない教理問答の回答に思いを馳せたりしながら
体と心の平静を求めていたのです

一周するごとに
水盤に右手の人差し指と中指を浸して
その聖水ついた指を額に触れながら十字を切り
また歩みを続けてた

その「四角形」の回廊に奥に
全修道僧と全修道士が週に一回集まって
前の週の反省と次の週の目標を定める
『運営会議の間』があります


運営会議の間


シンプルな八角形の4本の柱で支えられた「ヤシの葉型アーチ」の天井
床は聖堂内にかつて存在した修道僧の墓標も散見されます


そして、修道生活で大切な時間が食事

全員が大食堂に集まり
日直の修道僧が朗々と節をつけて読み上げる聖書の時祷書のその日の章句を聞きながら
その日の食事を神様に感謝しながら静粛に黙々と。。



かつての大食堂

往時は5百人以上の修道僧が修行と労働に打ち込んだ王室修道院でしたが
今の時代でも数十名の修道僧が在籍していらっしゃるのです


現在の食堂

彼らのための書庫もあります
ここは中には入れません



書 庫


上階に登りましょう
上から見下ろす回廊もなかなか素敵です



回廊上部


フランスでは
南部プロヴァンス地方以外はあまり見かけませんが
スペインとポルトガルの回廊は二層になっていて
上階も一周できます。

その上階に『大宿坊(共同寝室)』があるのがお約束



共同大寝室


この大寝室は全長はゆうに100m近くもありそうで
今はもちろん使われておらず
途中で仕切ってあり何かの催し物の時に使われているようです

当時の修道僧は
素焼きタイルの床に自分の僧服にくるまって寝ていました

この修道院は『シトー会』というもっとも戒律の厳しい修道会に属しており
修道僧の個室はありません

フランシスコ会などはとても穏やかで
各修道僧に個室が与えられていました。

シトー会では冬でも暖房も一切なし
厨房の残り火に
一定時間(多分1時間くらい)には暖をとってもよい
とされていたらしいですが
5百人や千人の修道僧がいると、ほぼ無理ですね


また下に降りて「修道院聖堂(教会)」を覗いてみましょう



修道院聖堂


彼らは毎朝2時に起床
日没で夕食をって就寝可までの16時間ほどの間に
六回とか八回のミサを執り行っていました。



祭壇奥のRrtable(祭壇奥大衝立)


スペインの教会の特徴として
祭壇の奥に床から天井まで届く大祭壇画 Retable(イコンのような板製)を飾ります
彩色レリーフだったり
板絵だったり

ここでは石造りのレターブルで見事なレリーフがびっしりと彫られています


そして
教会にはその教会で勤めた神父や修道僧を床に葬ることが一般的でした
畳一畳ぶんほどの石板の墓碑を床と同化させて

ここは
かつてのアラゴン王家が建立した「王室修道院」で会ったために
歴代アラゴン王たちのお墓があります

アラゴン王ハイメ1世



歴代アラゴン王の墓(一部)

それがなんと
床ではなく二本の大柱の間に橋をかけるようにアーチをかけて
その両面に作られていました
アーチの下は
大人が立って歩ける高さのアーケードです

この形式は
他に知りません





そして
見学を終えるとこの写真の右側の扉
つまり「聖堂の扉」から出てくることになります。


この修道院は
単なる遺跡の文化財ではなくこんにちも現役の修道院ですので
季節によっては自由見学はありません

シーズンごとに
案内の言葉毎に
1時間おきとか2時間おきなど定められた時間に集まって
案内していただける形になります

おそらく夏のシーズンは自由見学ができるはず。

自由見学でなければ
案内してくださるのはもちろん現役の修道院の係りの方です
修道僧か
修行中の修道士かは
その時次第

では皆様も Bonne Visite (良い見学を)!



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フランスの夏の到来を告げる味 <ペッシュ・ド・ヴィーニュ>

2020-08-10 17:45:00 | 素晴らしき世界/グルメ


フランスで夏たけなわになると
『ペッシュ・ド・ヴィーニュ』という果物が
ブルゴーニュ地方からその南のアルデッシュ地方にかけて出回ります

ペッシュ(Péche)は桃
ヴィーニュ(Vigne)は葡。

文字どおり訳せば「ぶどう桃」.....

ブルゴーニュの
丘の斜面にあるぶどう畑の縁取りに植えられていた(自生していた?)
かなり原始的な桃で
パリなどでは実物を見る機会はほとんどありません。





大きさはそれなりに普通の桃くらいはありますが
日本の桃よりはるかに野性味溢れて
髭面と言っていいほどの濃い産毛に覆われています


切ってみると「あらまビックリ」なんです。




なんと、中は真っ赤
要するに
ぶどうの身を一粒切ってみたような

別名「Peche sanguine(ペッシュ・サンギーヌ)」とも言います
sannguin(サンギャン)の 女性形で
末尾に "e" がつきます

「血まみれの」とでも訳しますか

グレープフルーツに、中が赤いのがあるでしょう
あれを
フランスでは Pamplemousse Sanguin (パンプルムース・サンギャン)
と言います。

命名の由来はそんな感じ

日本の果物の
非常に甘くて果汁たっぷりな特徴に慣れていらっしゃる日本の方には
硬めでゴリゴリした食感
結構酸味もあってコクのある個性的な味わいです

でも
フランス人
特に中央部出身の人たちにとっては夏の到来を告げる
懐かしいもの
ちょうど「江戸っ子の初鰹」みたいなもの
といえばお分かり頂けるでしょうか。

現地のデザート職人(Patissier パティシエ)たちは
皮もむかずに8つ割か10分割して
溶かしバターの中でソテーしながら砂糖をふってキャラメリゼして皿に並べ、レモンのシャーベットかなんかを添え
ミントの葉っぱを一枚添えたりして素晴らしい一品で
食事を締めてくれたりします。





上の写真は
残念ながら
シャーベットはありませんし生のまま切って並べただけ。。


ところで



このペッシュ・ド・ヴィーニュのリキュールがあるのです

ほんのり赤みがかっている程度のコニャック色で
クレーム・ド・ペッシュ・ド・ヴィーニュ(長い!)と言います

そして、それをシャンパンで割ると
最高の食前酒になるのですよ


実は
ワインの大産地「ブルゴーニュ」のよく知られたリキュールに
「カシス(黒すぐり」のリキュール「クレーム・ド・カシス」
というのがあります

暗赤色のとろりと甘い15度くらいのリキュールで
ケーキの香り付けに使ったりします

これを
ブルゴーニュの『アリゴテ (Aligoté)』という気さくな白ワインで割った
食前酒の鉄板が『キール (Kir)』です

そのキールを
白ワインではなく気取ってシャンパンでわると
『キール・ロワイヤル(Kir Royal)』と呼びます




内証話ですが
くだけたレストランでは普通にキールを頼みますが
もちろんキール・ロワイヤルを頼んでもいいんです。
「ん? なんかいいことあった?」
というような感じ

ところが星付きのような格のレストランでは
当然のごとく「キール・ロワイヤル」しか頼みません。。。

(「ロワイヤルじゃなくて、普通のキールで」と敢えて頼めば
当然礼儀正しく注文を聞いて
丁寧に作ってくるはずですが普通は「ロワイヤル」しか頼まない!)


その
キール・ロワイヤルの「カシスのリキュール(Crème de Cassis)」
の代わりに
『クレーム・ド・ペッシュ・ド・ヴィーニュ』で作ると
これがなんとも言えず美味しいのです。

あまり知る人は多くない

普通の桃より香りが野生的で
その香りがシャンパン(Champagne)で開くと実に妖艶で芳醇な香りに
なります



カシスのリキュールで作る普通のキールより
色が浅くなる

香りが「ミュスク」がかって芳醇

お味の方も
ぐっと濃厚さが増して
もう。。

それを頼む時は
『Kir Royal au Crème de Peche de Vigne』
と言います
または
「Crème de Péche de Vigne au Champagne』
とも。

これ
星付きのレストランなどで食前酒に頼むと
ソムリエは「ニヤッ」と微笑んで
「お主やるな!」みたいな感じで待遇が変わりますよ


あと
ペッシュ・ド・ヴィーニュを使った
デザートを幾つか


ペッシュ・ド・ヴィーニュのタルト薄造り



焼いたペッシュ・ド・ヴィーニュ
アール・グレイのシロップ漬け


実は今回
長年暮らしていて初めて「実物」を売っているのに遭遇したので
嬉しくて
つい買ってしまいました。


皆様もフランスにお出かけの際に
レストランでメニューを手渡されて
「食前酒はいかがですか? ( Vous désirez un apéritif ?) と聞かれた際には
是非思い出して
「キール・ロワイヤル・オ・クレーム・ド・ペッシュ・ド・ヴィーニュ
スィル・ヴ・プレ」
と頼んでみてください!



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アール・ヌーヴォーをたどろう 8 <とうとう 建物全体にまで及ぶ>

2020-08-07 17:30:00 | 素晴らしい世界/美術
巻頭の写真は、パリ市7区ラップ大通りの『ラビロット館』です


これまでにご紹介してきた通り
19世紀の終わりに「世紀末のあだ花」の如くに
短時間欧州の中心都市で花開いたアールヌーヴォーは
装飾美術から建築物まで
そして生活スタイルまでに及んだ社会運動的に完結します

パリで
ブリュッセルで
ロンドンで
ウイーンで
ベルリンで
そして
バルセローナで

『世紀末様式』と呼ばれたり
『カタルニア・ルネッサンス』あるいは『モデルニスモ』と呼ばれたり
単純に英語に置き換えて『ニュー・アート』と呼ばれたり


そして各都市で
時代が競う位合うように多くの才能が誕生しました

中でも
パリの『ヘクトール・ギマール』とベルギーの『ヴィクトル・オルタ』と
スペイン・カタルニアの『アントニ・ガウディ』との三人が
細部の装飾と家具調度と建築全体とを一挙にプロデュースした
アールヌーヴォーの総仕上げを成し遂げた
と言っても過言ではないでしょう


その中で
パリの地下鉄の入り口の鉄細工で有名なギマールの作品を一つご紹介して
今回のシリーズを閉じたいと思います

ギマールの鋳鉄生のメトロの入り口

パリ16区ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ通り14番地に建つ
『カステル・ベランジェ』です


カステル・ベランジェ 全景


ブリュッセルで
ヴィクトール・オルタが建てたアール・ヌーヴォー様式の最初の建築
『タッセル邸』を見て感銘を受けたギマールが
1895年にパリに帰って建てた
彼の最初の
そしてフランスで最初の
アール・ヌーヴォー建築ということになりました

6回建て36戸の集合住宅です

この「作品」で目立つ特徴は
ベルギーのヴィクトール・オルタが唱えた「非対称」の繰り返しです

それより後のギマールの住宅は
個人の邸宅も集合住宅も「対称」にまとめられています。


名高い、通りに面した中央玄関の鋳鉄製のグリル



正面ゲートのグリル


中に入って
玄関ホールから逆にグリルを見ると
こうなります



玄関ホール


そして階段


     


   



階段部を外から見ると



  
第3回パリ万国博でエッフェル塔が建ち
エレベーターが取り付けられたことによって
19世紀末はエレベーターがブームとなっていました

   



内部の共用空間(階段ホールや廊下)などの窓には
ステンドグラスも

  





中庭には水場(共用水道)もあります





壁面や軒庇には鋳鉄の装飾が巧みに施され、写真では見難いですが「タツノオトシゴ」のモチーフが各所に見られます








この『カステル・ベランジェ』
現在も共同住宅として使われており
残念ながら住人以外は敷地内には入れません


パリ16区の南半分は
19世紀後半にパリが南西の西隣オートイユ村を吸収することにより
市の区域が広がって
小規模な建物が多かった土地の再開発がなされたことにで
アール・ヌーヴォー建築が数多く建てられました

ギマールの手になる集合住宅も5軒ほどあり
ギマール本人の邸宅と
子供夫婦のために建てた家もあります



ギマール邸『メザラ館』

『メザラ邸』はヘクトールの妻が
アトリエとして使った


『ギマール邸』

この『ギマール邸』は
ヘクトール・ギマールがアメリカの銀行家の娘で画家の
オルフェリーヌと結婚する時に
自分たちの新居として建てられた



このように
数あるアール・ヌーヴォー建築の中で

最後にギマール以外の人の作品を一つご紹介して終わりにします


ウージェーヌ・マニュエル通り2番地『レ・シャルドン館』です

設計施工は建築家シャルル・クラン
陶器の装飾は陶芸家エミール・ミュレールで
1903年に完成しました。



『レ・シャルドン館』 全景





中央玄関(上部)



窓を中心としたタイル細工










窓周りや壁面、軒庇の装飾は陶製の色タイルで造られています

この点はガウディに通ずるところがありますね。


通用門


アール・ヌーヴォー様式は
19世紀後半に欧州各国の中心都市で「同時多発」的に起こってきました

もちろん
ギマールやオルタ
マージョレルやミューシャなど
お互いに刺激しあって切磋琢磨したケースもありますが
例えば「アントニ・ガウディ」とギマールの間に情報交換があったとは
思えません


世紀末という非常にエネルギッシュで
かつ自由奔放な感覚が生まれる特殊な時代という背景がもたらした
西欧芸術の流れの中の「あだ花」だったのです。

8回にわたって続けました「アール・ヌーヴォーをたどろう」は
これで一旦終わりにします。

<アール・ヌーヴォー 終>


次回は、全く違うテーマで「素敵な世界」へご案内しようと思います。

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アール・ヌーヴォーをたどろう 7 <ガラス工芸を超えて 家具調度品への広がり>

2020-08-05 05:34:08 | 素晴らしい世界/美術
エミール・ガレのランプ


ナンシーに居を構え
精力的に創作活動に勤しんだ作家は他にも大勢おりますが
日本人に一番有名な人はギャレかもしれませんね

  


あまりにも投機の対象として求められてきたので
おそらく最も「贋作」の多い作家とも言われています

そんな彼らは
何もガラス工芸だけにとどまっていたわけではなく
室内を飾るいろいろな分野の工芸にも手を伸ばしました

何しろ
このようなガラス工芸を旧来のつくりの部屋に飾っても
あまりそぐわない
そこで
才能ある彼らは
陶磁器
彫金細工
そして「寄木」など木工の家具調度品の製作へと
手を広げて行きました

もちろんその逆もあります
木工細工師が
それ以外の分野にもという

そのナンシーの街に
優美な家具の工芸家として名を成した『ルイ・マージョレル』
という作家がいて
その彼の館が博物館として公開されています

陶製ストーブ


マージョレル館 全景

もちろん「館」自体も『ルイ・マージョレル』本人の設計になります


室内装飾品を製作し
それを飾るべく「器」としての部屋全体(壁の細工等)を手がけ
ついには建築まで手掛けてしまうのです

それで『アール・ヌーヴォー』が
社会的様式としての完成を見ることになりました。


マージョレル邸内部は
こんな感じ





そのアールヌーヴォー様式の家具の
頂点を極めたルイ・マージョレルのベッドに
最もその様式の真髄である「植物のバイオ曲線」を理解することが出来ます

樹木のような硬い幹や枝ではなく
草の茎の先端に花が咲き身を結ぶと
その重みで
茎全体がしなやかにたわんで行く

その曲線を基本とすることが家具調度品から始まって
建築物の細部の基本となって行きました




ベッドのヘッドボードの下から左右の上部に伸びる曲線
その先端の
開き始めている「しんなり」した蕾


パリの地下鉄の入り打ちを作った『ヘクトール・ギマール』の細工にも
同じ思想がはっきりと表れています




ジャポニズムの影響が、こういう形で花開いたわけですね

そのベッドの脚部にも
同じ曲線と開きかかった若芽と蕾とが
ブロンズ細工であしらわれています




同じモチーフながら
ブロンズは使っていないややシンプルに見えるベッドは
ナイト・テーブルが支柱がテーブル面をくりぬいた穴を通り抜けて
「一体構造」で作られれいます









そして、同じパターンのデスクも



ベンチもタブレットを微妙に削り出して局面に仕上げてあります




ここの家具調度品を製作して配置するだけにとどまらず
部屋全体の壁の構造も同時に製作し
複雑な曲線の組み合わさった梁や小柱などで作り出す「違い棚」や
壁の前に作りつけられた大型の「ワインクーラー」と
全体設計でなければ成しえない造形美を生み出しました
(写真ではワインクーラーは写っていません)



壁掛け式のキャビネット

最後に
外観の玄関口や窓の装飾もあげておきましょう

   


   



【おまけ】

マージョレルばかりでは何ですから
ベルギーの著名な作家『オルタ』の作品も少しあげておきましょう

ブリュッセルの彼の邸宅が
『オルタハウス・ミュージアム』として公開されています






   


   


   


   


次回は「建物」自体をご紹介します

<続く>

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