行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

パリで美術三昧 『マルモッタン美術館特別展』<セザンヌを軸に 新旧のイタリアの画家との本歌取り>

2020-09-23 01:15:23 | 素晴らしい世界/美術



ポルトガル紀行を一旦離れます。



パリの『マルモッタン美術館』で、今年の2月末から7月初まで『セザンヌとイタリアの画家たち "イタリアの夢" 展』という特別展をやっていた。

ほとんどの時期が自粛とロックダウンとで閉館していたのですが、結局来年1月3日まで延長がが決まりました。







早速行ってみた。



前半は
ポール・セザンヌ本人が
ルネッサンスの先達たちの作品からインスピレーションを受けた
セザンヌの『本歌取り』作品

後半は
セザンヌの作品に想を得て
独自の作品に取り入れたイタリアで活躍した画家たちの「本歌取り」作品



  

左 『十字架降架』ティントレット(1580)
右 『吊るされた女』ポール・セザンヌ (1875〜76)

画面の中の種々のポイントの配列と
その角度と比例配分
両手を広げて嘆く女性の存在



  

左 『若い女の肖像』エル・グレコ(16世紀末〜17世紀初頭)
右 『ミンクのストールの女』セザンヌ(1885〜86)

エル・グレコもスペインンイ行く前、イタリアで仕事をした

全体の雰囲気
面長の顔つき
目線の先を感じさせる内面の存在感



  

左 『オリーブの庭のイエス』グレコ(1600〜10)
右 『宗教的光景』セザンヌ(1860〜62)

『主」の前で恐れおののく人々
ほとばしる驚きに包まれた主



  

左 『最後の晩餐』ティントレット(1566)
右 『饗宴の準備』セザンヌ(1888〜90)

画面構造と人々の配置



  

左 『若い女の肖像』フランチェスコ・トレヴィザーニ(1725頃)
右 『エミール・ゾラの肖像』セザンヌ(1862〜64)

空白と満足されたスペースとの空間配分
主人公の顔の中央への埋まりこみ



  

左 『(ナイル)河から救助されたモーゼ』ニコラ・プッサン(1638)
右 『牧歌的光景』セザンヌ(1870)

画面の分割と主要な素材の配置



  

左 『バッカスとケレスのいる風景』プッサン(1625〜28)
右 『四人の水浴する女』セザンヌ(1877〜78)
手前右の人物左の人物などの配置とキャンバスに描く線
レネッサンスの主要テーマの19世紀風の解釈

このセザンヌの主題はエドウアール・マネに受け継がれる




ここからは
セザンヌより後のイタリアの画家たちの
セザンヌへの『本歌取り』作品



  

左 『プロヴァンス地方のうねる小道』セザンヌ(1866かそれ以降)
右 『路』アドレンゴ・ソフィッチ(1911)



  

左 『プロヴァンスの風景』セザンヌ(1879〜82)
右 『風景』オットーネ・ローザイ(1922)



  

左 『ジュールダンの小屋』セザンヌ(1906)
右 『風景』ジョウルジオ・モランディイ(1942)



  

左 『ローヴへの高地のくねる小道』セザンヌ(1904〜06)
右 『海岸の脱衣小屋』カルロ・カッラ(1927)



  

左 『リキュールの瓶』セザンヌ(1890頃)
右 『梨とコーヒーポットノアる静物』カッラ(1933)



  

左 『肘をつくセザンヌ夫人』セザンヌ(1873〜74)
右 『若い女の肖像』ウンベルト・ボッチオーニ(1910)



  

左 『座る男』セザンヌ(1905〜06)
右 『弟エットーレ』マリオ・スィローニ(1910)





『五人の水浴する女達』セザンヌ(1900〜04)

   

左 『水浴する女達』ジオルジオ・モランディ(1915)
右 『背中を見せた水浴する女達』(1955)





『梨と緑リンゴのある静物』セザンヌ(1873)

  

左 『瓶とコップのある静物』モランディイ(1945〜55)
右 『静物』もランディイ(1960)


いかがですか

こうして直接比べられると
それぞれの画家たちの
学び方
視方
感じ取った中井も表し方

などが
理解できるような気がします



全部をご紹介したわけではありませんが、非常に有意義な展示会でした。

ちなみに、この『マルモッタン美術館』に、『印象派』という美術運動のグループを呼ぶ名前の起こりである、『印象・日の出』という絵があります。





では、次回は何をご紹介しましょうか?
お楽しみに。

= = = = = = = = = = = = = = = = =
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アール・ヌーヴォーをたどろう 8 <とうとう 建物全体にまで及ぶ>

2020-08-07 17:30:00 | 素晴らしい世界/美術
巻頭の写真は、パリ市7区ラップ大通りの『ラビロット館』です


これまでにご紹介してきた通り
19世紀の終わりに「世紀末のあだ花」の如くに
短時間欧州の中心都市で花開いたアールヌーヴォーは
装飾美術から建築物まで
そして生活スタイルまでに及んだ社会運動的に完結します

パリで
ブリュッセルで
ロンドンで
ウイーンで
ベルリンで
そして
バルセローナで

『世紀末様式』と呼ばれたり
『カタルニア・ルネッサンス』あるいは『モデルニスモ』と呼ばれたり
単純に英語に置き換えて『ニュー・アート』と呼ばれたり


そして各都市で
時代が競う位合うように多くの才能が誕生しました

中でも
パリの『ヘクトール・ギマール』とベルギーの『ヴィクトル・オルタ』と
スペイン・カタルニアの『アントニ・ガウディ』との三人が
細部の装飾と家具調度と建築全体とを一挙にプロデュースした
アールヌーヴォーの総仕上げを成し遂げた
と言っても過言ではないでしょう


その中で
パリの地下鉄の入り口の鉄細工で有名なギマールの作品を一つご紹介して
今回のシリーズを閉じたいと思います

ギマールの鋳鉄生のメトロの入り口

パリ16区ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ通り14番地に建つ
『カステル・ベランジェ』です


カステル・ベランジェ 全景


ブリュッセルで
ヴィクトール・オルタが建てたアール・ヌーヴォー様式の最初の建築
『タッセル邸』を見て感銘を受けたギマールが
1895年にパリに帰って建てた
彼の最初の
そしてフランスで最初の
アール・ヌーヴォー建築ということになりました

6回建て36戸の集合住宅です

この「作品」で目立つ特徴は
ベルギーのヴィクトール・オルタが唱えた「非対称」の繰り返しです

それより後のギマールの住宅は
個人の邸宅も集合住宅も「対称」にまとめられています。


名高い、通りに面した中央玄関の鋳鉄製のグリル



正面ゲートのグリル


中に入って
玄関ホールから逆にグリルを見ると
こうなります



玄関ホール


そして階段


     


   



階段部を外から見ると



  
第3回パリ万国博でエッフェル塔が建ち
エレベーターが取り付けられたことによって
19世紀末はエレベーターがブームとなっていました

   



内部の共用空間(階段ホールや廊下)などの窓には
ステンドグラスも

  





中庭には水場(共用水道)もあります





壁面や軒庇には鋳鉄の装飾が巧みに施され、写真では見難いですが「タツノオトシゴ」のモチーフが各所に見られます








この『カステル・ベランジェ』
現在も共同住宅として使われており
残念ながら住人以外は敷地内には入れません


パリ16区の南半分は
19世紀後半にパリが南西の西隣オートイユ村を吸収することにより
市の区域が広がって
小規模な建物が多かった土地の再開発がなされたことにで
アール・ヌーヴォー建築が数多く建てられました

ギマールの手になる集合住宅も5軒ほどあり
ギマール本人の邸宅と
子供夫婦のために建てた家もあります



ギマール邸『メザラ館』

『メザラ邸』はヘクトールの妻が
アトリエとして使った


『ギマール邸』

この『ギマール邸』は
ヘクトール・ギマールがアメリカの銀行家の娘で画家の
オルフェリーヌと結婚する時に
自分たちの新居として建てられた



このように
数あるアール・ヌーヴォー建築の中で

最後にギマール以外の人の作品を一つご紹介して終わりにします


ウージェーヌ・マニュエル通り2番地『レ・シャルドン館』です

設計施工は建築家シャルル・クラン
陶器の装飾は陶芸家エミール・ミュレールで
1903年に完成しました。



『レ・シャルドン館』 全景





中央玄関(上部)



窓を中心としたタイル細工










窓周りや壁面、軒庇の装飾は陶製の色タイルで造られています

この点はガウディに通ずるところがありますね。


通用門


アール・ヌーヴォー様式は
19世紀後半に欧州各国の中心都市で「同時多発」的に起こってきました

もちろん
ギマールやオルタ
マージョレルやミューシャなど
お互いに刺激しあって切磋琢磨したケースもありますが
例えば「アントニ・ガウディ」とギマールの間に情報交換があったとは
思えません


世紀末という非常にエネルギッシュで
かつ自由奔放な感覚が生まれる特殊な時代という背景がもたらした
西欧芸術の流れの中の「あだ花」だったのです。

8回にわたって続けました「アール・ヌーヴォーをたどろう」は
これで一旦終わりにします。

<アール・ヌーヴォー 終>


次回は、全く違うテーマで「素敵な世界」へご案内しようと思います。

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アール・ヌーヴォーをたどろう 7 <ガラス工芸を超えて 家具調度品への広がり>

2020-08-05 05:34:08 | 素晴らしい世界/美術
エミール・ガレのランプ


ナンシーに居を構え
精力的に創作活動に勤しんだ作家は他にも大勢おりますが
日本人に一番有名な人はギャレかもしれませんね

  


あまりにも投機の対象として求められてきたので
おそらく最も「贋作」の多い作家とも言われています

そんな彼らは
何もガラス工芸だけにとどまっていたわけではなく
室内を飾るいろいろな分野の工芸にも手を伸ばしました

何しろ
このようなガラス工芸を旧来のつくりの部屋に飾っても
あまりそぐわない
そこで
才能ある彼らは
陶磁器
彫金細工
そして「寄木」など木工の家具調度品の製作へと
手を広げて行きました

もちろんその逆もあります
木工細工師が
それ以外の分野にもという

そのナンシーの街に
優美な家具の工芸家として名を成した『ルイ・マージョレル』
という作家がいて
その彼の館が博物館として公開されています

陶製ストーブ


マージョレル館 全景

もちろん「館」自体も『ルイ・マージョレル』本人の設計になります


室内装飾品を製作し
それを飾るべく「器」としての部屋全体(壁の細工等)を手がけ
ついには建築まで手掛けてしまうのです

それで『アール・ヌーヴォー』が
社会的様式としての完成を見ることになりました。


マージョレル邸内部は
こんな感じ





そのアールヌーヴォー様式の家具の
頂点を極めたルイ・マージョレルのベッドに
最もその様式の真髄である「植物のバイオ曲線」を理解することが出来ます

樹木のような硬い幹や枝ではなく
草の茎の先端に花が咲き身を結ぶと
その重みで
茎全体がしなやかにたわんで行く

その曲線を基本とすることが家具調度品から始まって
建築物の細部の基本となって行きました




ベッドのヘッドボードの下から左右の上部に伸びる曲線
その先端の
開き始めている「しんなり」した蕾


パリの地下鉄の入り打ちを作った『ヘクトール・ギマール』の細工にも
同じ思想がはっきりと表れています




ジャポニズムの影響が、こういう形で花開いたわけですね

そのベッドの脚部にも
同じ曲線と開きかかった若芽と蕾とが
ブロンズ細工であしらわれています




同じモチーフながら
ブロンズは使っていないややシンプルに見えるベッドは
ナイト・テーブルが支柱がテーブル面をくりぬいた穴を通り抜けて
「一体構造」で作られれいます









そして、同じパターンのデスクも



ベンチもタブレットを微妙に削り出して局面に仕上げてあります




ここの家具調度品を製作して配置するだけにとどまらず
部屋全体の壁の構造も同時に製作し
複雑な曲線の組み合わさった梁や小柱などで作り出す「違い棚」や
壁の前に作りつけられた大型の「ワインクーラー」と
全体設計でなければ成しえない造形美を生み出しました
(写真ではワインクーラーは写っていません)



壁掛け式のキャビネット

最後に
外観の玄関口や窓の装飾もあげておきましょう

   


   



【おまけ】

マージョレルばかりでは何ですから
ベルギーの著名な作家『オルタ』の作品も少しあげておきましょう

ブリュッセルの彼の邸宅が
『オルタハウス・ミュージアム』として公開されています






   


   


   


   


次回は「建物」自体をご紹介します

<続く>

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アール・ヌーヴォーをたどろう 6 <ラリック と サラ・ベルナール と ミューシャ>

2020-07-31 01:41:38 | 素晴らしい世界/美術
サラ・ベルナール




ナンシー派のガラス工芸家の中で
クリスタルグラスを宝飾品にまで高めた人が
ルネ・ラリックでした


ところで19世紀世紀末の喧騒の中で
一際「時代の寵児」として人気を博した女性に
『サラ・ベルナール』という女優で歌姫だった人がおりました



  
出自が怪しい身分でありながらも
14歳でパリの国立高等演劇・音楽院に合格し
モリエールに起源を持つ『コメディー・フランセーズ』という
仏演劇界最高の劇団に採用され

その後

もう一方の最高の舞台である左岸の『オデオン座』へ移籍し
ジャン・コクトー
ヴィクトル・ユーゴー
オスカー・ワイルド
その他
19世紀が誇る文学界の巨人達に崇拝され

アントン・チェーホフには悪意を持った嫉妬された彼女は
パリの舞台から全欧へと羽ばたき

ロンドン
ベルリン
ウイーン
コペンハーゲン
サンクト・ペテルブルク等
ありとあらゆるヨーロッパ主要都市の舞台を制覇し
ついにはニューヨークにまで進出して名声を博した『国際的大スター』
の先駆けでありました






  
当時は異例であった男役を演じ
古典劇から
軽喜劇まで
ありとあらゆる分野で活躍し
晩年には「レジオン・ドヌール勲章」を受けました

今でいうと
「宝塚の最高の男役トップスター」と「ブロードウエイの大女優」
さらに
「坂東玉三郎」と「マドンナ」を足して大皿に盛り付け
額に飾ったような女性でした。




  


その
可憐で妖艶
ボーイッシュでオリエンタル
エレガントでゴージャスな姿は
『アールヌーヴォー』芸術を体現したような存在だったのです


そのサラ・ベルナールに
ティアラやネックレスその他数々のアクセサリーを制作したのが
何を隠そう『ルネ・ラリック』その人でした。

当然ですが
ラリックも他のガラス工芸家のように
装飾用の壷なども作っています



  


しかし
他の作家達が「パット・ド・ヴェール」で作品を多く創っていたのに対して
彼は「吹きガラス」で
透明度の高い色鮮やかなクリスタルのジュエリーも多く生み出しました

サラ・ヴェルナールに気に入られ
その後は彼女の舞台衣装用と夜会のためのジュエリーは
ほぼルネが制作したと言っても良いほどなのです












それから
香水瓶にも才能を発揮しました





さらには
装飾品というよりは実用工芸品として日常の空間に調和して
「居場所を選ばない」
スタイルでの食器や照明器具その他も制作しました

これら社交界の華がただった人々の御用達であった
国際特急列車などの備品にも採用されています



そして
アール・ヌーヴォーを代表する画家『ミューシャ』の描く女性こそが
サラ・ベルナールその人なのです




オーストリア帝国モラヴィア(チェコ)出身の
装飾画家『ルフリート・ムーハ』は
たまたまパリに出ている時
急遽決まったサラ主演の宗教劇『ジズモンダ』
再演のポスター依頼を受けた印刷工房ルメルシエが
休暇中だった本来に画家の代わりに校正を臨時にやっていた彼に仕事が回り
ポスターは大好評で受け入れられたのです

ジズモンダの公演ポスター


パリで成功を手にした彼は
名前をフランス読みに変えて『アルフレッド・ミューシャ』として
名声が定着します。

ミューシャは
サラ・ベルナールの公演ポスターを多く手がけ
サラをモチーフに
さらに多くの装飾画を世に残してくれました 










※このブログでは、原則として私自身が撮影した写真を使う事にしてをります。
ただし今回の写真は、オープンソースからいただきました。


<続く>


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アール・ヌーヴォーをたどろう 5 <全ては ガラス工芸から始まった 2>

2020-07-22 00:18:19 | 素晴らしい世界/美術
『ガラス鉢』(ドーム)



娘マリア・レチシンスカをルイ15世に嫁がせていたポーランド国王
スタニスラス・レチシンスキーは
ロシア・プロシア・オーストリア三国によるポーランド分割で祖国を追われ
娘婿を頼ってフランスに亡命してきます

婿ルイ15世により
空位になっていたロレーヌ大公の地位に封じられ
ナンシーに落ち着きます
そして
自分の新しい領地の首都を大々的に美しい街に作り変えていきました

その街のシンボルともいうべき場所が『スタニスラス広場』で
周辺とともに
ユネスコの世界遺産に登録されています



場の中央のスタニスラス・レチシンスキー像



  広場の中央の長方形の広大な広場の四隅のゲートと噴水



その広場の片側の建物が「ナンシー市立美術館」になっています
下の写真の
大公の銅像の向こう側の建物です


ナンシー市立美術館

基本的には3フロアーにゴシック時代からルネサンスのイタリア絵画
18世紀フランス古典主義絵画
19世紀自然主義と印象派
20世紀のピカソやモディリアーニなどエコール・ド・パリなどの
質の高いコレクションが飾られています

その美術館の地階全体を使って
ナンシーが誇るガラス工芸の天才『ドーム』の工房のコレクションが
夥しく飾られているのです



そのフロアーに足足を踏み入れた途端に
まるでアリババの洞窟に足を踏み入れたと錯覚するほどに
19世紀から20世紀にかけての名品がキラ星のごとくに並んでいて
ため息をつくことは請け合いです


それらの中から
ほんの少しご紹介しましょう





























































いかがでしょうか

アールヌーヴォーは「ガラス工芸」から始まった
ということが
文字通り理解できる美術館です




この「ナンシー市立美術館」は
文字通り必見です




後述しますが
このナンシーには
家具調度品を集めた『アール・ヌーヴォー美術館』もあり
そこも欠かすことのできないポイントです


<続く>

= = = = = = = = = = = = = = = = = =
具体的な旅行プランなどにご興味があれば、以下のページもご参照ください
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アール・ヌーヴォーをたどろう 4 <全ては ガラス工芸から始まった 1>

2020-07-08 04:18:29 | 素晴らしい世界/美術
『蛾文様水さし』ドーム


全ては「ガラス」から始まった



"パット・ド・ヴェール製の壷" ドーム


実は
完全に平らで薄く
歪みもない「板ガラス」というものは
17世紀半ばまでなかったのです

ガラス器自体は
古代のエジプトに始まり
ペルシア・ギリシア・フェニキアなどに起源を持つ
歴史の古い加工品です

ガラスの原料である珪石(石英の一種)その他を砕いて粉末にし
水で練り合わせて型に嵌めて焼く

壷や椀
パット・ド・ヴェールと言います
パットはフランス語で『捏ねたもの』とか『生地』『麺』の事で
イタ飯でいう『パスタ』です

その後
筒の先に原料のパットをくっ付けて焼きゴム風船のように膨らませて
それをやや覚まして切り開き
平らなガラスにしようとするのですが
全体に波打って「鏡面」のような平らで滑らかな板ガラスはできません

サイズも限定的でした
従って
鏡は銅などの平らに延ばした銀などの金属で作られていました

ただし
ヴェネチアだけは
17世紀になると現在のような薄い平らな広い板ガラスを作り上げていた

そこで
ヴェネチアはガラス製の平らな鏡を独占的に作っていたのです

ヴェネチア・ムラーノのガラス工房

17世紀半ばのフランス
ルイ14世がフランスをヨーロッパの頂点へ引き上げ
太陽王と呼ばれるに至る過程で
その名に相応しい大宮殿を作り上げてゆきます

ヴェルサイユ宮殿です

彼は
燭台とシャンデリアの明かりをきらめかせて
夜も眩い太陽王に相応しい大ギャラリーを作ろうと望んだ

いわゆる『鏡の間』です


ヴェルサイユ宮殿『鏡の大ギャラリー』



庭園の側に向かって17の「フランス窓」
(足元から天井近くまでの直接そこから出られる形の大窓)を開け
その反対側の壁に窓と同じ形で鏡をはめ込んだ

その際
一枚の大きな板ガラスを
「ヴェネチアに頼らなくともフランスでもできるはずであろう」と

国内の東「ロレーヌ地方」に王室のガラス工房を作らせ
そこで焼かせた平らな歪みのない板ガラスで作った平らなガラス製の鏡が『鏡の間』に使われたのです


鏡の大ギャラリー(ディテール)

天地50センチほど左右30センチほどのその鏡は
ヴェネチア以外のガラスで作った第一号の鏡でした

1650年台後半のことでした
左右の『戦争の間』『平和の間』とに挟まれて
長さ75メートル天井高13メートルに及ぶ大ギャラリー『鏡の間』と
3ギャラリー合わせて400枚の鏡が使われました

その後20年もすれば
そのフランス窓の形(幅4メートル強高さ10メートル強の馬てい形)を
1枚ガラスで鏡を作れるようになります


爾来
フランスのロレーヌ地方はガラス産業地帯になりました

ガラスを溶かす火をたくための薪が
森林地帯の多いロレーヌでは簡単に手に入りやすく
周辺に町が数多く労働力も保証されていたからです


これからお話しするアールヌーヴォーの原動力となったガラス工芸家
『ルネ・ラリック』『ドーム兄弟』『エミール・ギャレ』達は
ロレーヌの首都ナンシーで活躍しました

ルイ14世の王室ガラス工房はその後350年以上続き
今や世界有数の大ガラスメーカー『サン・ゴバン』となっています

大気圏再突入の際の超高温に耐える
スペースシャトルのコックピットのウインドウや
紫外線の透過遮断率を極限まで高めたハイテクガラスで作られた
「ルーブルのピラミッド」は、サン・ゴバン製です


ルーブルのメイン・エントランス『ピラミッド』


大気圏再突入で灼熱に燃えるスペースシャトルのコックピットの
フロントガラスも
同じくサンゴバン製が使われています。

ちなみに
ルイ15世は王室ガラス工房を
ロレーヌの小邑バカラ村におきました。
それが現在の有名クリスタル・メーカーである『バカラ』です


バカラの工房
火口が1ダースある巨大な炉の前で
ガラスを吹く職人



巨大な燭台の組み立て中



19世紀後半
実に複雑怪奇な見え方と色合いのガラス工芸品を作り出して行った
『ドーム兄弟』
『ルネ・ラリック』
『エミール・ギャレ』
達は

競い合って新たな技法を編み出し作品を世に送り出していきました

加熱したパット・ド・ヴェールを型で成型した壷を作り
壁面の外側も内側もそれぞれレリーフが形作られ
別の色合いのパットを付けて加熱した筒を
先に成型したものの中に入れて吹き隔壁が二重の壷にする

外側には別の色合いの違う温度で加熱した
従って透明感も違うパットを貼り付けて模様を作り.....


それらの作品群の主要なモチーフとなったのが
先の回でお話ししたジャポニスムの「花鳥風月」
特に昆虫とお花でした。



『パット・ド・ヴェール製昆虫文様水さし"タイトル『水たまり』" (エミール・ガレ)


このような
それまでの環境に存在しなかった存在感を持つガラス工芸は
それだけ単品で使っても
周囲と調和しない

そこで
それらのガラス工芸品に釣り合うような雰囲気の
絵画・彫金細工
果ては家具調度品
室内の造作全般
最後には
家屋敷建物までその精神の作品が生まれて行きます



『バルト館』バルセローナ アントニ・ガウディ


19世紀
特に後半になると社会構造が変わり
王侯貴族に変わって産業資本家が社会の主人公へと躍り出てきました

彼らは
王侯貴族御用達の「アカデミー(美術学校)」の教授たちが主導する
官製美術の理論性より
日常の生活感覚にフィットするものを好み
学問的至上主義つまり形而上的芸術から
生活感覚優先つまり形而下の美術が生まれてきます

自然主義(リアリスム)そこから派生する印象派


それと並行して
なんでもありの不可思議性も好まれた
その嗜好がアール・ヌーヴォーに向けられます

パリだけではなく
ロンドン
ブリュッセル
ウイーン
プラハ
バルセローナ

地域によっては世紀末様式
ニュー・スタイルとも呼ばれた『アール・ヌーヴォー』が
市民権を得たのです

次回からは
具体的な写真を使って
ガラス工芸・建築その他をご紹介して行くことにしましょう


<続く>


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アール・ヌーヴォーをたどろう 3 <起源となったジャポニスム 2>

2020-06-28 04:37:55 | 素晴らしい世界/美術
『日本の巻紙を眺める娘』ジェイムズ・ティソ


前回に引き続き、アールヌーヴォーの先駆けとなったジャポニスムの実態について、語ることにしましょう

日本の磁器との出会いで、柿右衛門を中心とした日本の陶磁器の知識が、フランスを中心にヨーロッパの貴族特権階級の一部に知識として広まります

そして、幕府の鎖国政策の破棄により、日本と欧米との交流が始まった

磁器を始め、多くの日本の美術工芸に好奇心を掻き立てさせられた若手の芸術たちが、学問としての理論の展開に偏りすぎて、動脈硬化を起こしかかっていたヨイーロッパの官製美術の表現に、新たな新風を吹き込みます


先々回にご紹介しておきました「エドウアール・マネ」の『フルート』です




共和国儀仗隊の少年鼓笛隊に入った少年が、得意げに、そしてはにかみながら、ポーズをとっています

その少年が立っている床と、背後にあるはずの壁面との境界がわかりませんよね
敢えて言えば、まるで中に浮かんでいるかの如し

これが、典型的なジャポニスムです

すなわち

一言で言えば「板画」の表現なのです

先に書いた通り、浮世絵との出会いによるショック

浮世絵は、肉筆画もありますが、ヨーロッパにまでもたらされて、しかも経済的に安定していない若手の画家を中心とした表現者たちが買える程度のものは、当時の日本では消耗品扱いであった板画がほとんどです

そして、版画は映し出す台紙の紙面の上に「刻印」される
つまり「輪郭線」の全部が表現される被写体を取り囲み、切り取られたかのように刻みつけられる
今でいう「スタンプ」ですね

この表現法は、それまでの理論的な表現方法に従えば、主人公だけ描き上げた段階で、これから背景に取り掛かる未完成の作品のように、受け取られてしまうわけですね

マネは、神のごとくに讃えられてきたルネサンスはヴェネチア派の巨匠ヴェロネーゼやティティアーノの、「ヴィーナスの水浴」のような名画からもたらされたモチーフを、19世紀の風俗に焼き直した「本歌取り」で、上流階級の紳士淑女が眉をひそめるような「『オランピア』や『草上の昼食』のような作品を次々と発表して、画壇にスキャンダルを巻き起こしていました

 マネによる意識は回だけにとどまらず若手が構図計算の破壊まで行って後を追います

「4対3」とか「1対ルート2」という黄金分割の画面へのこだわりを捨てて、自由な形の台紙やキャンバスに描き始めます

例えば扇
ヨーロッパで扇は鳥の羽やシルクで張った生活の場の道具であり
絵画のためのキャンバスではなかった

それが


 後期印象派 ゴーギャン


後期印象派/点描派 シニャック


人目を気にしない、人の目にさらさない、精神的な鎧を脱いだ無防備な日常の姿や行動を素材にしたり

例えば女性の入浴(行水)姿や、身づくろい(仏語でトワレットと言います)、さらには授乳中の母親など、絵画に描いて残すべき物ではありませんでした

   


行水したり、その後の体を拭く一瞬の姿勢、お化粧したり、髪を結うなどという行為はプライヴェートな日常、つまり形而下の取るに足らぬ事柄で、芸術の素材となる崇高な精神や理想の美しさというような形而上的な事柄ではないと思われていた以上、表現の対象にはならなかったのです


   「トワレット」 ルノワール


「トワレット」パブロ・ピカソ


この女性の「身づくろい/トワレット」のモチーフは、エドウガー・ドウガも好んで描いた主題で、その後も多くの画家たちの手で現代まで、絵画のモチーフとなり続けています



これも、江戸の庶民の風呂屋の情景を描いたり、赤児の授乳する母親を描いた浮世絵がもたらした、新境地だったのです

それから「荒々しい自然の光景」も、さらにそれをデフォルメした浮世絵に、印象派の画家たちは大いにインスピレーションを与えられることになります

   


この二枚の広重がモネに本歌取りされますと、こうなりました






どちらも、南ブルターニュの沖合に浮かぶ「ベル・イル(美しヶ島)島」という風光明媚な島の、白波が逆巻く岩だらけの海岸です

さらには、綾錦に身を包んだ美人画のあでやかな着物の色柄、雪景色、そして日常の愛玩動物や花鳥風月
そしてなんと、せっかくの画面に線を引いて背景を消してしまったり

『イタリア女』ゴッホ

⬆️

國 芳
⬇︎


カイユボット 屏風絵

まるでカーテン生地のような花のモチーフに


そして広重と國芳の雪景色は。。。

   

モネの手にかかって、こうなった
 

『雪景色のノルウエーの村』モネ


そしてなんと、画面や背景を線で消してしまう?
そこに猫ちゃん!?

   


ゴッホは、まったく同じように雨を黒の斜線で描いたりしてますが(在メトロポリタン『雨の麦畑』)、そこまで露骨でない例として、点描のシニャックの『南仏の海岸』、それに私の大好きなボナールの『白猫』をどうぞ

さらにはなんと、縦長のへんてこりんな寸法の画面まで登場するに至ります

『南仏の海岸』シニャック



『白猫』ボナール

ちなみに
ペットの動物を芸術としての絵画の主題にする
という発想もありませんでした

さらにはなんと、縦長のへんてこりんな寸法の画面まで登場するに至ります
これこそジャポニスムならではの、掛け軸の影響

広重の「 雁の群れ/佃沖』と、ボナールの『砂遊びの幼女』です
ボナールの絵は、一見日本画みたいに見えますが、原画を見るとしっかり
19世紀のフランスの少女の服を着ています
さらに奥にある玄関右の鉢物の鉢が、日本にはないフランス風の木製の四角い鉢囲いに守られています

   


ジャポニスムは、単純に構図やテクニックの模倣ではなく、本家から取り入れて自分の価値観で再構築されながら、20世紀前半のピカソの時代にまで影響は続いていきます

中にはゴッホのように、背景に実際の浮世絵をそのまま書き込む、などという一途な画家もおりました

   
貧しかったゴッホに、出世払いの催促なしで絵の具を売ってくれた(結果として彼は払えなかった)画材商『タンギーお親父さん』の肖像画の背景は様々な浮世絵を書き込んであります

『タンギーお親父さん』ゴッホ

そして、ジャポニスムの一番重要な影響が、クロード・モネによって開花します

ノルマンディの人モネは、ノルマンディーの独特の気候風土、濃霧の冬が長く、春と秋が微妙で、繊細な光の中で身についた、光の変化を「今の一瞬でキャンバスに定着させたい」という欲求、そして「光とは単に明るいか暗いかではなく、今この一瞬に見るこの色彩は、今のこの光が創りだしているのだ」という発見、その光の一瞬の効果を色彩で表したい、という彼が生涯をかけて生み出した『印象主義』のもっとも顕著な作品群が、ノルマンディー地方の首都ルーアンのノートル・ダム大聖堂の正面30点(ヴァージョンによって44点とも)の連作なのです

  

  
クロード・モネ『ルーアンの大聖堂』シリーズの一部

そして、この製作の原点が『冨嶽三十六景』なのです!

西欧絵画には、同じモティーフを手を替え品を替え、時期を変え時間帯を変え、天候を変えて表現し続ける、などという発想はまったく存在しませんでした

江戸名所百景や、全国名所百景、今時江戸美人ノ図、などが、結果として印象派を生み出し育てた一つの要因であった

それが『ジャポニスム』なのです

そして、その日本の表現に登場する「花鳥風月」こそが
アール・ヌーヴォーの重要な要素なのです


しかし、そのような若手の画家たちに影響を与えた技法的なことにとどまらずに、ヨーロッパ中に日本ブームが巻き起こりました

パリの万国博に「日本館」が出展されたことがブームに火をつけました
上述のような工芸品が人々の目に触れ、見知らぬ極東の小国がその存在が認知され、その後の日清日露の戦争に勝利したことで、一躍社会現象が巻き起こりました

上流貴婦人たちは、浴衣(kimono)を室内ガウンとして愛好し、その傾向は現代まで続いています

画家たちは、見たこともない日本の風俗を「浮世絵」や想像で絵画のモチーフにしていきます

エドアール・マネが描いたエミール・ゾラの肖像画の背景には、屏風と浮世絵が配置されて、構図の比例配分と色彩の効果をもたらしています

そして、実際にエミール・ゾラが浮世絵を所有していたことがわかります


『エミール・ゾラの肖像』マネ

上述したゴッホは、『タンギーお親父さん』のように直接たくさんの浮世絵を背景に使う直裁的やり方から、浮世絵に学んだ Brut(生/き)な色彩をふんだんに使うようになっていきます


『アルルの跳ね橋』



さらにジェイムズ・ホイッスラーは、日本女性の着物姿を「想像」で次々と描きました

   


特筆すべきは、これらの色彩の使い方は「白」をベースに、その上に赤や緑の花柄などを重ねるという、欧州絵画になかった「白」の使い方、および緑と赤というような補色の Brut な重ね方などです

これらの技法が、ジャポニスムの重要な要素となりました


もちろんジャポニスムは、絵画の世界だけではありません

1885年にロンドンで初演されたオペレッタ『ミカド』(W・ギルバート脚本、A・サリバン作曲)や、1893年パリで初演のオペラ『お菊さん(Madame Chrysantheme G・アルトマン脚本、A・メッサジェ作曲)は、全欧を巡回公演して、大成功を収めました

もちろん、それらの中で一番有名になったオペラが『蝶々夫人』であることは、いうまでもありません

この傾向は、保守派のアカデミスムからは、批判の声も多かったのです
「画家はただ想像で描いてエキゾティスムを垂れ流しているだけだ」などと

ですから、決してヨーロッパの芸術の「本流」には直接はなりませんでした

しかし、その後印象派、後期印象派、象徴主義、ナヴィ派、エコール・ド・パリ、ピカソから後の現代絵画まで、技術的影響はずっと絶えることなく継承されてきました


次回は、いよいよ『アール・ヌーヴォー』の真髄に迫ります

<続く>

= = = = = = = = = = = = = = = = = =
なお、具体的な旅行のヒントは、下記のサイトをご覧ください。
多数の写真を包含するフォトギャラリーもお勧めでです
⬇︎
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アール・ヌーヴォーをたどろう 2 <まず "ジャポニズム" が起こった> (1)

2020-06-22 22:21:48 | 素晴らしい世界/美術
ジェイムズ・ティソ『日本の物品を見る少女たち』1869



さて
突然ですがここで質問です

19世紀半ばになって
新しい国が一つ「国際社会」の仲間入りをしました
さて、どこの国でしょうか?
答えは....

我らが「日本」です


鎖国を解いた新興国ニッポンに
先進諸国から多くの外国人がやってきました
各国外交官
軍人
明治政府に雇われた技術者
学者
貿易商や宣教師
好奇心旺盛な旅行者
山師
詐欺師
などなど

横浜文明開化図


彼らは
日本での一仕事を終えて祖国に帰る際に
当然お土産を持って帰りました


質問その2

当時、欧米人が日本から一番欲しかったものは何でしょうか?

プレステ5?
電気釜?
目薬?

ブッブーーー!
答えは『磁器』なのです

長らく欧州では
陶器は焼けても磁器は焼けなかった
中国から輸入するわけですが
延々と長駆運ばれてくる途中で割れたり盗まれたりで
手に入る数は半減
値段は倍々

欧州で必死に磁器を焼こうとした話は
別の機会に譲りましょう

中国の高級磁器は官窯で生み出されました
ところが
政変やら何やらで官窯の生産が止めることがあった

そういう時に代替えで調達されていた「有田」のことを
ヨーロッパの知識人たちは識っていました


有田焼の皿

例えば
17世紀後半から18世紀後半の革命まで
ヴェルサイユ宮のブルボン王家の筆頭親族コンデ大公家が居を置いた
シャンティイの街で
大公は自国の産業振興のために自分の窯を作り『シャンティイ焼』を
始めます


シャンティイ城

その四代のコンデ大公は
有田からもたらされた焼き物の中でも
特に『柿右衛門』に魅入られます
城内の美術館にも何点もの見事な柿右衛門とその写しが展示されています


シュガーポット



  大 皿  



水差し または 花瓶


このシャンティイ焼は現在でも受け伝えられて
小規模ですが
生産が続けられています

現代シャンティイ焼のモーニング・カップ


さらに幕末も押し詰まると
第二回パリ万国博
「徳川幕府館」と「薩摩館」が競って出店し
日本の工芸品を飾りました


こういう下地があったからこそ
彼らは帰国の際に持てる限りの磁器を持ち帰った

そして包みを解いてみると
それらの磁器を包んであった紙切れに実にユニークな絵が
描かれていたのです

そこには
古代ギリシア人が考え付いてローマ人が普及確立した
美的バランスを決定づける『黄金分割』などと全く無関係に
実にユニークな表現が溢れていました



「諸国名所百景 奥州外ケ浜」 重宣


「江戸百景 羽田の渡し」



「冨嶽三十六景 甲州石半沢」広重



この浮世絵に代表されるような構図は
黄金比の美意識で絵画を製作していた芸術家にとっては
「途方もない」ユニークな物だったのです



「黄金比による人体像」 ダ・ビンチ

古代ギリシア人が見つけ出した「美しい物が美しいための方程式」を
レオナルド・ダ・ビンチが理解して
人体のプロポーションで表現したペン画です

そこに
この破天荒なデフォルメの構図の破壊力!

画壇の巨匠たちや美術アカデミーの教授たちより
むしろ社会の近代化の中で何をなすべきか模索していた若手に
大きな刺激となりました

彼らは
日本製のあらゆる美術工芸品を集めまくります

浮世絵から始まって
磁器・漆器・印籠・根付・刀剣特に鍔・彫金
文机や引き出しなどの家具
のれん・招き猫・ハッピ
その他面白いものならなんでも

そこから
日本の工芸の技術が西欧の絵画に影響し
彫金その他の分野まで影響していき
独特の表現が生まれていきました

それを『ジャポニスム』と呼びます


続きます




コメント (2)
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世紀末の「あだ花」アール・ヌーヴォーをたどろう 1

2020-06-16 20:56:41 | 素晴らしい世界/美術



古代ローマ帝国が崩壊すると、ギリシア人が生み出しローマ人が発展させ日常化したさしもの高い文明も失われ、各地に住み着いた各ゲルマン部族の単位で、価値観がバラバラで、非常に素朴なレベルに退化した西欧社会が成立して行きました。

そのバラバラの価値観の西欧に、初めて統一された価値観をもたらした社会の変革が産み出した文化を「ゴシック」と呼びます。

芸術を中心とした文化のレベルでは、ギリシア人が築いてローマ人が洗練させた古代文明には遠く及ばない素朴なものでした。

ヴァレンシアの祭壇画 1430年ごろ



フランス生まれの新しい教会の作り方が技術革新を生み、西欧全域に広がって、初めて西欧全域に同じ価値観の社会的統一をもたらした、そのゴシックの文化は、アルプスのせいで入って行きにくく真空地帯であったイタリア半島で、1300年代に入ってからひょんな事からローマ時代の文化の象徴である美術品の破片などが大掛かりに発見され始め、それらの研究が始まったことで「失われた古代文明」の感覚が再生されました。

ルネサンス(再び生まれる)の萌芽です。

「美しき女庭師のマドンナ」
ラファエロ 1508年頃


それ以後、建築を最上位に絵画と彫刻、および文学と音楽の分野が、あまりに完璧であった古代文化のレベルに追いつこうと研鑽するあまり、各国の王立アカデミーなどの組織で受け継がれるようになって、芸術が学問になります。

ちなみに日本では、建築も絵画も彫刻も、さらには音楽や文学は、職人の手で生み出され受け伝えられて行って「技術」だったのです。
芸術という概念は、明治維新以降にもたらされました。

そのまま、時代を経ながら発展と変化を続けながら、19世紀になると、理論のための芸術というような存在で、動脈硬化を起こして行きます。

パリの美術学校の教授たちがやっている事のみが、その時の芸術であり、それ以外のことをやると野蛮で下品で後進的で、芸術とは呼べない、というような感じです。

そしてフランス大革命、7月革命、2月革命、3月革命、パリコミューンなどの繰り返される社会の変動と、さらに産業革命によって社会構造が大きく変わり、芸術も「理論がどうのこうの」と言う物ではなくなって行きます。

王侯貴族の没落や衰退、王制から共和生への転換などにより、社会の推進役が宮廷を中心とする王侯貴族達から、産業資本家へと変わって行きます。
新しい社会のリーダーたちは、いわゆるお金持ちの町人であって、彼らがそれまで王侯貴族御用達であった芸術を手にするようになり、それらを生み出す芸術家のパトロンになってゆくと、崇高な学問的理論や鑑賞のルールなどを無視して、より生活感のある、社会のありのままを日常生活のレベルで見て感じ取れる表現されるものを好むようになって行きました。

つまり芸術が、学問性という形而上的性格から、日常の生活つまり形而下的な性格へと変貌を遂げるのです。

19世紀前半に起こる「リアリスム(自然主義)」と、そこからさらに19世紀後半に始まる印象派の「近代芸術」の誕生です。


「糸を紡ぐ少女」
フランソワ・ミレー 1867


ここまでの流れは、別の機会に項目を分けてじっくりと語りたいと思っています。

そういう流れの中で、その狭いニッチに仇花のごとく咲き誇った特別の感性を秘めた感覚の表現に『アール・ヌーヴォー』があります。

そして、その『自然主義』『印象派』『アール・ヌーヴォー』の誕生に、大きく寄与したのが日本の美術工芸のテクニックでした。

それを『ジャポニスム』と呼びます。


 「フルート (を吹く少年)」 
エドウガー・マネ 1867

日本でも中学校の音楽の教科書の表紙でおなじみ、マネの「フルート」(「日本では「フルートを吹く少年」と呼ばれることがあります)は、ジャポニスムの典型なのです。

ジャポニスムがなければ、アールヌーヴォーは存在しえなかった。
そのジャポニスムからアール・ヌーヴォーにかけては、次回にお話ししましょう。

 もっと写真をたくさん載せて。


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