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好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

ブルターニュ紀行 70 最終回 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 2 >

2021-07-14 00:19:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : モン・ドォル周辺のメンヒル『メニール・ド・シャン・ドレン』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
70
最終回



ブルターニュはケルト文化の国
ローマ化したガリア人とゲルマン人との混血であるフランスの「中央政権」とは
人種が違い
言語も伝統の宗教のあり方も違い
ローマ滅亡以来フランス(フランク族カロリンが王朝とのちのフランス王家)
による千福行動に対抗し
独立を守る戦いが政治・外交・軍事面で15世紀まで延々と続いた

他の地方よりフランスへの併合がずっと遅かった分
その独自性が強く残った

キリスト教信仰の中の「Grand Pardon パルドン祭」はその最たるもの
「Grand Trémine 大トレミーヌ祭」とも呼ばれる
詳しくは『ロクロナン』の項を参照されたい







そして
ブルターニュのキリスト教会で欠かせない独特のものが
「カルヴェール」と「ブルトン十字架」
がある
詳しくは「ギミィヨー」「サン天テゴネック」などの項を参照

カルヴェールは礼拝堂や教会の建物の周りを低い塀で取り囲み
その中に墓地や納骨堂などの一緒に作られる
新約聖書の情景を表した彫刻が多く集まった十字架のこと

『Saint-Jean de Trolimon 聖トロリモン』のカルヴェール


『Plougonven プルゥゴンヴェン』のカルヴェール



『サン・テドネック』のカルヴェール



『Guéhenno』のカルヴェール

『Pleyben』のカルヴェール

「Croix bretonne ブルトン十字架」とは
カルヴェールを簡略化して十字架だけにしたもので
架刑にされたイエスがいることもあるが
普通に見られるイエスの彫刻を十字架にくっつけたものではなく


全体を一枚岩を削って作った十字架のことで
街道筋の交差部や見晴らしの良い丘の上や岬の先端などに建てられている




『Croix de Carantec カランテックの十字架』


『Croix de Guisény ギゼニィの十字架』

特に「ケルト十字」で作られたものは
古くからの土俗信仰が抜けきっていない時代感覚を伝えている

Croix celtique  ケルト十字架

ケルト十字はキリスト教の十字架より二千年ほど起源は古く
アイルランドがキリスト教化された時に
アイルランド人が転用し
ブルターニュに伝わってきた

『Fontaine de l'Île Saint-Cado サン・カド島の泉』の十字架
これは「エテル川に沿って」の項の「サン・カド島」を参照ください

ケルト文化の伝統といえば
主だった町では必ず夏に毎年繰り広げられる「ケルト祭り」
皆さんこの時とばかりに民族衣装で身を飾り
バグパイプの楽団が町を練り歩き伝統的ダンスで大騒ぎです

『Coiffes de pays Bigpourden ビグゥルデン地方の髪飾り』


これはおそらくもっとも狭い範囲でのみ伝わる衣装で「コルヌアイユ地方」の
「グゥエゼック村」と「サン・トワ村」
だけに伝わる晴れ着


『Coiffes et Binious de Quimper カンペールの衣装』
この衣装「ビニウ」と髪飾りはコルヌアイユ地方の首都「カンペール」のもの



とにかく
ブルターニュの夏はどこの町でもお祭りです

前からも



後ろからも



民族衣装のオンパレード


大人も


子供も


手拍子も



女性部隊も


男女混合も



親子の組も


昼も



夜も



ブルターニュの夏は暑く燃えます
ケルト衣装の乱舞です

忘れてならないのが古代の巨石文明

その中で
変わり種のメンヒルを一つ挙げておこう


紀元前5000年 〜2000年くらいの間のものだろうと推定されており
高さ7m40
(ただし地中に1/3ほど埋まっている分を除く)
幅2m60
キリスト教伝来とともに
キリスト教化されたメンヒルとして名高い




彫り込まれている文様は
太陽と月から始まって
円にリボンその他「ケルトのシンボル」が多い
十字架は別の石で作られて頭頂部にはめ込まれた

そして
やはりすごいのは「カルナック」の列柱
狭い範囲の三箇所に分散して合計で8000本ほどのメンヒルが列をなす




巨大な石から小さなものへと順番に並ぶ様は圧巻



そして
最大のドルメン『妖精の岩』の驚くべき姿



食文化で言えば
ブルターニュは海の幸
内陸は土地が痩せていて歴史的には小麦が育たず
蕎麦とニンニクしか採れないと言われた

海の幸といえば「オマール海老」
特に「Omard bleu 青いオマール」は特別に稀少で非常に美味



これだけ大きいと1k500はありそうなのでお値段も.....
ちなみに茹でると赤くなるので調理の前に実物をご披露するのがお約束

北海岸の「Côte Armor アルモル海岸」の港に行けば
例えば「ペロス・ゲリック」(既出)など
漁師が獲ってきたオマールを自分で売っているところに出くわすこともある

『Trebourden トレブゥルデン』(既出)の港にて

ここまでになると齢二十年とかになる
ハサミはゴムバンドでぐるぐる巻きに縛っておかないと
挟まれたら悲劇が起こることも

さらには
「アワビ」も特産


パリでは
運が良くても小型のトコブシしか見つからないが
ブルターニュでは
時期によって大型のアワビを出してくれるレストランもある



それから「牡蠣」


『Huître de Belon ブロンの牡蠣』
「ポンタヴェン」(既出)の南のアヴェン川が海に注ぐ河口のすぐ東に
V字型になるように北東から出てくる入り江のような川「ブロン川」の特産で
「ヨーロッパ・ヒラカキ」という和名がある

丸くて平らな牡蠣は古代ローマ人が大好きで
「輸入」の手間を省きたいばかりに
海軍を送りつけて戦闘力で占領してしまったという史実すらある

陸の名物は
今でもニンニクは特産だが
それに加えて「アーティチョーク」も名産地として名高い



ドルメンを背景にアーティチョーク畑


茹でたりオーヴンで焼いたものの「ガク」を一枚一枚はがして
ヴィネガーソースに浸して根元を歯先でこそぐようにして食べる


芯の部分はヤツガシラのような味と舌触り




特筆すべきは
ブルターニュは豚の放し飼いをする


  塩を舐める場所

放牧されるのは巨大なメスで
それぞれの寝ぐらとして「一軒家」を与えられている
いわば「家付き娘」
生まれた子豚も一緒に住む



お菓子も
全国区として名高いのが二つ

『Far Breton』
「ブルターニュの朝飯(粥)」みたいな意味で
半干しプルーンを使ったフラン(蒸しカスタード)みたいなもの

『Nantais』
「ナントの(菓子)」という
まるで「ジャパニーズ」という名のお菓子があるみたいなウエメセな名前
もともと『Gateau Breton ブルターニュのお菓子』という名のパウンドケーキが有って
それを平たい円形に作って天面を砂糖で厚くグラッセしたもの

長く続けましたブルターニュ紀行はこれで終わります
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 69 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 1 >

2021-07-12 00:14:03 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Vallée des saints 聖者の谷』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
69 最終回 1



『海のブルターニュ』
北ブルターニュは冬の荒れ狂う波
南のブルターニュは夏の穏やかな輝き
でも
干満の差が激しいのは南北共に同じ海

『Phare de Kéréron ケレロン灯台』


『Phare de Nividic-Ouessant ニヴィディック=ウエッサン灯台』

『Phare d'Ar Men アル・メン灯台』

『Saint-Malo サン・マロー』



冬の荒波が激しい時は
岸壁の海岸道の頭越しに道の反対側の建物を波が直撃する



激しい波から岸壁を守るために
消波ブロックなどという不細工なものは使うはずもなく
波消しのための丸太を波打ち際に打ち込んである

そして
その海が干満の差が非常に激しいのは
北も南も同じ


町の岸壁では
干潮になると水位は極端に下がってしまう


複雑な入り江では
水のない場所があちこちに出現する


港を守る砦の建つ岩礁も


引き潮になると陸とつながったりもする

そして
小さな岩礁も含めて
ブルターニュには数え切れないほどの島々がある

『Île du Guesclin デュ・ゲクラン島』

『Île de Roch Ar Hon ロック・アル・オン島』

このような
一軒家が建つ個人所有の小さな島は極めて人気が高い
売りに出される少ない可能性に賭けて
ブルターニュの島を扱う不動産業者には100人以上の順番待ちのリストが
常にあるらしい
実際に売買が行こな割れるのは1世紀に1〜2島だそうだ

特に
この島は観光客に人気が高い

『Île de Plougrescant プルゥグレスカン島』

ブルターニュ独特の花崗岩の巨大な二つの大岩に挟まれて
小さな家が建っている光景は
絶好のフォト・ポイントとなっている

『Castel Meur マー館』

この島も干潮時には陸とつながり道路が現れるので
所有者は車で島から出入りをしている

『Castel de Perros-Guirec ペロス=ギレックの館』


所有者一人の極小の島でなくとも
人の住む島は当然漁師たちも住んでいるが
別荘地として需要が高い

『Île de Bréhat ブレア島』

北海岸「パンパル」(既出)から海に向かって伸びる『アルクエ岬」の先端の
目と鼻の先にある『ブレア島』は岬の先端から渡し舟が出ているが
観光シーズンには1時間ほどで島を一周する遊覧船も頻繁に出ているほどの人気ぶり


『Île de Batz バッツ島』

次も北海岸『ロスコフ』(既出)から船ですぐの『バッツ島』も
人気が高い


「バッツ島」の
ある複雑な形の小さな湾の中ほどの岩山と
満潮時にわたる石造りの歩道とその端にある小屋も



絶景として名高い


当然「岩だらけ」の海岸も多い

岩と家といえば
こんな場所もある

『Les Rochers de Ménéham』

北ブルターニュの海岸にある『ケルルーアン村』にある
『メネアム岩の家』
島ではないので観光客が自由に岩に登って上から家を眺めたりしている


この石を組み合わせて作られた小さな家は極めて美しく
屋根と壁との一体感を持った仕上げは技術の高さをうかがわせてくれる


信仰といえば
ブルターニュのキリスト教信仰は特別
ローマ時代に
3世紀キリスト教が非合法だった頃にガリアの地に布教を始めた
『Saint-Martin サン・マルタン(聖マルティネス)』
から始まったフランスのキリスト教化の流れとは異なり
ローマ亡き後の混乱期に
地方政権がが分立してゆく過程で形成されていった「ケルト民族諸国家」
ブリテン島から渡ってきた同じケルト民族の布教者たちの手によって
ブルターニュは「ケルト・カトリック」という信仰が根付いていった
『ブルターニュ7聖人』
と言われ
「ブルターニュの創設者」とも呼ばれて
ブルターニュの「精神」と「社会」の基礎を作り上げたとされている


国立図書館に保存されている1275年の古文書に
初めて「ブルターニュ7聖人」という記述が残っている


「Saint-Pol Aurélien」


「Saint Tugdual」


「Saint Brieuc」


「Saint Malo」


「Saint Samson」
以上の5名はウエールズ生まれ。


「Saint Patern」


「Saint Corentin」
これらの2名は土着の布教者だった
それぞれ依って立って活動した土地がそのまま町の名前になって残った

かず多くのアイルランドから渡ってきた布教者たちの中には
農民が使う石をくりぬいて作った飼い葉桶を船の代わりにして海を渡ってきた
という伝説があり
それが先回の「Mean Van」の石の船を作るきっかけになったそうだ

「ラニオン」(既出)から真南に12kmほどにある「ル・ヴュー・マルシェ」
という集落に『7聖人の礼拝堂』というチャーミングな礼拝堂がある

『Chapelle des sept Saints』




壁の上部に
聖母子を挟んで立つ7聖人像

これも既に触れているが
ブルターニュの(特に西半分_各地に
独特の「Fontaine 泉」がある
これも「ラニオン」から真南25kmほどにある『ビュラ=ペスティヴィアン』
という村の「泉」は

『Fontaine de Sept Saint de Bulat-Pestivien』
「7聖人の泉」
という名前が付いている


7聖人の街を巡る巡礼も頻繁に行われる


恒例の大巡礼祭には
各教区協会に保存されている其々の聖人の旗幟を押し立てて
巡礼団が練り歩く光景が見られる

極めて信心深いブルトン人ということで
『Valée des Saints 聖者の谷』
という場所すらできている

『Vallée des Saints』

橋は「Carnoët カルノエット村」周辺の広大な斜面
「ビュラ」ペスティヴァン」からさらに南西に10km


触れ込みは
「ブルターニュのイースター島」
目的は
「第三千年期(2001年以降3000年まで)のカルナック」を作ろう



起源は1990年
「サン・ポル・ド・レオン」(既出)の町で
「Saint pol Aurélien」1500年祭を行った際
哲学教授で熱心なカトリックの「フィリップ・アプジャン」が
この地に多くの人々を惹きつける魅力的な宗教的なモニュメントを作りたい
と考えた事



その後
一人の銀行マンと
一人の法律家とが集って
往路ジェクトを立ち上げたのが2008年の事だった


文献に見つかるブルターニュの聖人は2000人余り
そのうち
経歴と奇跡の事実があやふやな為に
ローマ教会(教皇庁)に認知されていない500人を除いて
1000人のブルターニュの聖人を並べて
「現代のカルナック」と「西欧のイースター島」を作り上げようという
壮大な計画



今現在「150体」のブルトンの聖人が
河岸段丘の斜面から下を見下ろしているのです

『Sainte Anne 聖アンナ』

実はブルターニュには独特の聖アンナ信仰がある
この「聖アンナ」とは聖母マリアの母親の事だが
もともとケルト信仰からキリスト教化して行く過程で「マリア信仰」があった
この「マリア」はインド・ヨーロッパ語族に共通のもので
「供給の女神アンナ」といい
古代ギリシアの「ダナエ」
フェニキアの「タニット」
古代ローマの「アンナ・ペレンナ」
河川の「ドン」「ドナウ」
アイルランドの「ダナ/アナ」
と同じもので
印欧語の起源で「ana」は「息・微風・魂」を意味した
それがいつの間にか聖母マリアの母親のアンナと混同されて
ブルターニュの国母として敬われるよになった
ブルターニュのカトリック信仰の独特の習慣である「パルドン祭」で
『サント・アンヌ・ラ・パリュ』(既出)のそれが
もっとも重要視される所以でもある

『サント・アンヌ・ラ・パリュの礼拝堂にある聖アンヌ像』


パルドン祭の時アンヌと聖母に黄金の冠が戴冠される



サントアンヌの村の泉は
聖母マリアを抱いた小さな聖アンナ像が飾られている

この項続く
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ご意見ご感想をお寄せください
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ブルターニュ紀行 68 < 『ブルターニュ防衛線』をたどる 5 最終回 ドォル・ド・ブルターニュ > 

2021-07-09 00:00:08 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 「ドォル・ド・ブルターニュ」の市壁(町を囲む防壁)

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
68



『Marche de Bratagne』
これまで「ブルターニュ防衛線」と訳してきたが
フランス王国側から言えば「ブルターニュ長征線」なのです


西ローマ帝国が「蛮族ゲルマン人」の侵入による解体滅亡の後
多くのゲルマン諸部族の興亡の末に
「フランク族」が他民族を凌駕して「旧西ローマ帝国領土」の大半を平定していった
その際の
ガリア地方における他部族平定戦の過程で生まれてきた言葉であった

第二次大戦戦中に中国共産党を組織し
大戦後中国全土を平定した毛沢東の平定戦を『長征』と呼ぶのと同じで
大ピピンから領土を受け継いだ『シャルルマーニュ大帝』が
ブルトン人の領土平定戦をおこなった足取りが「Marche de Bretagne」と呼ばれ
直訳すると「ブルターニュの歩み」という意味になる
今回その「歩み」の跡がその後1000年間のブルターニュ公爵領と
フランスのカペー王家(その後支家ヴァロア王家)との領土紛争の最前線となり
今回「ブルターニュ防衛線」と訳して南から北へと辿ってきた

脱線すると
シャルルマーニュがイタリア半島北半分「ロンバルディア」を征服した際に
ローマ周辺から北にラヴェンナまでのやや濃いオレンジ色の部分を
教皇に奉納し「ローマ協会領」と定めた
これが
建前上西ローマ帝国の皇帝位の復活でイタリアを領有する
「神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)」と
西欧カトリック世界の神の代理人「ローマ教皇」との間に
イタリアに対する支配圏の対立が起こり
『ギベリン派』と『グエルフ派』との抗争が続く最初の遠因となった

5回目となる今回の
最後の⑭番目『ドォル・ド・ブルターニュ』で締めくくる事になる


旧市街の通り

実はこの町には
城は全く跡形も残っていない
ただ
町を取り囲んで防御する城壁「市壁」の一部が残っているのみ
それも
かつては雑草と雑木が無秩序に生い茂るに任せて打ち捨てられていたのだが
近年
町当局の努力で整備され「プロムナード」として再生した


こんなだったのが


足元が整備されて歩きやすくなった




場所によっては


案内板もある


公園風にまでなってしまったが
空堀の位置の雑草や雑木は取り払い
歩く道筋は整地されて安全に歩きやすくなったが
城壁に絡んだ草木はそのままにしておいてくれたのが良かった

塔の内部も見ることができる


屋根はなく


結構傷んでいるものもあれば


床も屋根も修復されている塔もある

それから
5500人ほどの人口の町にしては立派な大聖堂がある
理由は街の成り立ちにあるのだがそれは後述することにして
とりあえず見てみよう

『Cathédrale Saint-Samson de Dol 聖サンソン大聖堂』


西側正面の玄関口は非常に素朴な作り
しかも普通使わない


扉口の上のサン連アーチ部分とその上部に
屋根のようなデザインで「木瓦(木のチップ)」が使われているのが珍しい
通常の出入りは
西側正面の右門から側面に回り込んだところに造られているポルシュから

Porche de la Cathédrale


身廊の造りは極めて正当なゴシックの大聖堂


ただ主祭壇は交差部ではなく内陣に入ったところ


右側廊のアーチの一つの下に身廊に向いて「説教壇」があるのも定型
その説教壇の裏側

外陣

内陣を取り囲む周歩廊は無く
内陣の両側は身廊部の様に側廊があって正面で閉ざされている
内陣の正面の奥は
外側に向かって礼拝堂の様に張り出している

南側の側面の全景


大聖堂南側のポルシュに向かう通り


その通りの終わるところ

北側の側面全景

北側 遠景

ここ「ドォル」の町のカテドラルが大規模なのは
この町がブルターニュの中でも特殊な重要性があるから

伝説によると
「モン・サン・ミッシェル湾」の位置は7世紀頃までは所々に湿地のある森林だった
湾に近い『アヴランシュ』の町の司教「オベール神父」の元に
大天使聖ミカエル(サン・ミッシェル)が夢枕に立ち
「自分のための祠」を立てて欲しいと訴えた
大天使の出現を信じないオベールにミカエルは三度現れ
三度目の出現の際に大天使に指で頭を小突かれて彼は正気になる

大天使聖ミカエルの「御出現」という奇跡体験の教皇庁への報告と
聖ミカエルの祠の作り方を学ぶためにオベールはイタリアへと旅立った

彼の3年弱の不在の間にその辺りで大地震が起こったらしく
おそらく地盤沈下のせいで
森林だったあたり全域が遠くだった海岸線から海水の侵入により
湾になっていた
以前森の中に丘が三つあった
「モン・トンブ」「モン・トンブレーヌ」「モン・ドォル」
それらが湾になった海に島となって浮かんでいた

イタリアから帰ってきたオベール神父は森が海に変わっている光景に驚愕し
大天使ミカエルが「祠作りを急げ」と自分に対しての催促のための奇跡だと思い
一番陸に近い島「モン・トンブ」の頂上に大天使のための祠を築き
以後その島は『モン・サン・ミッシェル(大天使ミカエルの山)』と呼ばれるようになる

なぜ「モン・トンブ」だったかというと
「モン・トンブレーヌ」は小さな岩礁程度の大きさしかなく
陸から遠すぎて工事をやりづらかった

そして「モン・ドォル」は
聖書に描かれた悪魔が天上の世界に憧れ天に攻めこもうとした際
大天使ミカエルの軍勢に叩き潰された
その際ミカエルは剣で岩山を切り裂きその中に悪魔の残骸を封じ込めた
という伝説があって
恐れ多くて手をつけられなかった

それが「ドォル」の町の宗教的優位性を作り上げたのです

以下の「モン・サン・ミッシェル湾」の俯瞰写真において
白い四角を見ていただくと

photo by ⒸEuropa Space Agency

右に二つ縦に並ぶ四角の上から下に
「モン・トンブレーヌ」
「モン・サン・ミッシェル」

そして左に一つはなれている四角が
「モン・ドォル」
この島はその後の湾の縮小でいつしか陸地の中に取り込まれてしまった

ちなみに湾の淵のグレーの帯状の部分は
干潮時で水がなくなるか
非常に少なくなっている事を表している

左上「モン・トンブレーヌ」 右下「モン・サン・ミッシェル(旧モントンブ)」

『Mont-Dol モン=ドォル』

畑に囲まれた岩山「モン・ドォル」は


最高点での標高65メートルの楕円形で
花崗岩の一枚岩の丘(Mont 小山)


上の俯瞰写真の丘の左下が削れている所は
岩が露出した部分で


ロック・クライマーがよくトレーニングを行っている





クライマーが張り渡したザイルが残っていた




頂上の片隅に「聖母子像」を塔と礼拝堂が
はるか四方を見下ろしている

左「Chapelle de l'Espérance」 右「Tour Notre-Dame de lEspérance」

「希望の礼拝堂」と「希望の聖母の塔」




風車もある

『Moulin du Mont-Dol モン=ドォルの風車』

楕円形の岩山を取り巻いて周囲に家並みが少しあり
「ドォル・ド・ブルターニュ」の町の「字(あざ)」で岩山の名前と同じ
『Mont-Dol モン=ドォル』






所で「ドォル・ド・ブルターニュ」のカテドラル「聖サンソン大聖堂」の前に
最近面白いものができた

『Maen Vog』

これは
なんと花崗岩でできた船
しかも浮く

2000年に3月に彫刻家「ジャン=イヴ・メネーズ」が作り上げた
『Maen Vag マエン・ヴァグ号』
ブルトン語なのであやふやだが「海の石」というような言葉らしい
長さ4m02
幅1m81
喫水(水上に浮いた状態で水面から下の沈んでいる深さ1m06
積載重量1t50



中に女性が一人乗っているので大きさの想像がつく

この船は
この近くの「Lanhélin ラネリン」という町の近くから産する花崗岩
35トンの塊を削りくりぬいて作られている

実物製作用に作られた模型の一つ

彼はこのような模型を何種類も作り
実際に浮力計算を行って
水上航行が可能な最終作品を造った
重さが3t50



内部はこうなっている
舳先から艫(とも)つまり前から後ろを見た角度

これまでにフランス全土で10回ほど
遊覧航行を実演した


この写真は艫に座っている製作者本人からの提供


パリのサンマルタン運河でも航行して見せた
ブルターニュのご案内も
そろそろ最終章です
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 67 < ブルターニュ防衛線 『マルシュ・ド・ブルターニュ』 4 > サン・トーバン フゥジェール

2021-07-07 00:01:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Château de Fougeres』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
67


前回訪れた「ヴィットレ」から北北西へ25kmで
下図⑫『Saint-Aubin du Cormier サン・トーバン・デュ・コルミエ』に着く


ここの城は完全な廃墟
なぜなら
フランス王家側に取り壊されてしまったから


この城こそ
『ブルターニュ公爵領』の敗北を意味するのです
1488年7月28日
15000名のフランス軍を迎え撃った11000名のブルターニュ軍は
6000名の戦死者を出して壊滅した
フランス側の犠牲は1500名に過ぎなかった
「サン・トーバンの闘い」

前世紀から150年続いていた各地での戦いの末
時のブルターニュ公「フランソワ2世」はかなりの窮地に追い込まれており
この年
「シャトーブリアン」「ヴィットレ」「フゥジェール」と続いた戦いでの一進一退ののち
起死回生の一戦だった


『サン・トーバンを攻めるフランス国王』 Archive by ⒸBibliothque Ste-Geneviève

独立国ブルターニュの男系最後の公爵だった「フランソワ2世」は
この壊滅戦の後
相続権を持つ娘「アンヌ・ド・ブルターニュ」を残して
同年9月9日に此の世を去る


城趾の一角に
この戦いで散ったブルトン人6000名の鎮魂の銘板がある

ブルターニュ公フランソワ2世は
公国の生き残りをかけて各方面との連合を試み
「オーストリア大公ハプスブルク家」の世嗣「マクシミリアン」に
娘「アンヌ」との婚約を前提の連合を呼びかけていた
「マクシミリアン」は
ハプスブルク家から初めて皇帝に選出された「フィリップ大公」の
世嗣ぎで
中世最後の騎士と言われる人物

『サン・トーバンの闘い記念碑』

1988年に500年祭が行われ
その際に建立された記念碑にオーストリア兵に関する銘板もある


『神聖ローマ帝国兵士600名 
隊長ブッラーの指揮のもと ブルターニュのために戦い この地に眠る』

天守の残骸

この城は低い一つの丘全体を占めていた

Schema by ⒸArchitecture Urbanisme Patrimoine 1090

現在「白山」は草生す雑木が茂る丘になっており
城の残骸がそこかしこに点在する


天守の下にあった
池と言っても良いくらいの広い堀の一部は残っている








強者どもが夢の跡....




天守の最上階の暖炉が残っている

ここ「サン・トーバン・デュ・ブルターニュ」の町では
毎年7月28日の15時から
記念式典を行っている




フランス人(左)とブルトン人(右)との一騎打ち





※  ※

この「サン・トーバン・デュ・コルミエ」から北北東に8kmで
絵図⑬の『フゥジェール』に至る
ここは「Marche de Bretagne ブルターニュ防衛線」の
ブルターニュ側北端の最重要な城がある

『Château de Fougères フゥジェール城』 城壁の塔

城の規模は広大で
胸突く高い城壁に囲まれているが
この土地の立地が起伏に富んでいて周囲にぐるりと丘があり
すり鉢の底のような場所に城が建っている
つまり
大砲の精度が上がり信頼性が増した16世紀以降なら周囲から容易に砲撃を受け得る
甚だ不利な場所に在ると言える



ただ水の流れる小川を利用した堀で囲まれているので
歩兵や騎兵の攻め手にとっては
非常に高い城壁と巨大な塔と相まって
甚だしく攻めにくい城であったはずだ


城の南側にすぐ始まる丘の斜面の途中から
右端の三角屋根の丸い塔が大手門







大手門

大手門から時計を逆回りに城壁に沿って歩いてみよう


前の写真のアーチをくぐりさらに奥に進む固定橋を左に見ながら


土手のように岩盤が盛り上がる上に高い城壁が伸び
要所要所を塔が固める

城壁の上の巡警路と
そこにいる守備兵を守る胸壁や石落とし(水平狭間)もしっかり残っている


やがて
突き出した部分が「搦め手門」で
常用ではないので直接出入りできる連絡はなく
非常時に必要に応じて板を渡しで出入りする戦国の城塞のお約束通りの構造


「搦め手門」から回り込むようにさらに城壁が続くが
支える岩盤が頑強であることがよく分かる作りになっている



道路で見えていないが城壁の真下は水が流れる川堀になっている



さらに先に
城壁と平行に教会がある



一つ前の写真の塔が左側の塔
この向き合った位置に『Eglise Saint-Sulpice 聖シュルピス教会』


新郎両側の側廊の壁側に並ぶ礼拝堂の其々が外側に切妻の破風を並べる
ブルターニュ伝統の形のことは
このシリーズが始まった頃にご紹介した通り





やがて行く手に城門のようなものが見えてくる
そこから右に町を囲む城壁が伸びる



城より高い位置に広がる町を防御する城壁(市壁)が今でも一部残っている


二つ前の写真の角度を城壁の上から見下ろすと
門と市壁の関係がわかりやすい


町に入る門のアーチの左の堀の中に水路が二箇所



左のトンネルは城の地下を通って流れてくる水路
右のトンネルは町に入るアーチの位置に左の水路と平行に流れてくる流れの出口


その市門のところに流れてくる水路には4連水車がある
これらの水車は
上からくる樋を流す水で回すようになっている
左の建物はかつての粉ひき工場の跡
最後の水車のすぐ右の四角い穴は市門のアーチの中から出てこられる



再び大手門に戻って


「塔の間のアーチをくぐり
常設橋を進んでさらに中に入るって振り返ると



こうなる


その「大手門」の二重構造部分が「シャトレ(橋頭堡)」になっていて
上から俯瞰する

場内中ほどから大手門の方を振り返る
左奥のやや高い部分は



塔の際上部の小屋掛けの部分が残っている
場内は2haもの敷地で
ブルターニュ有数の大規模な城だった(戦国城塞として欧州最大とも言われる)
現在の城の創建は12世紀後半1173年
古くから有ったこの町の貴族フゥジェール家の城が1166年
イングランド王プランタジュネット家の始祖ヘンリ−2世の攻撃で破壊され
その後
時のブルターニュ公ラウル2世が1173年に再建
その後のブルターニュ家とフランス王家の戦いが続く中で
改良と拡張が15世紀まで続いた


居館などがなくなっているが残骸も興味深い


削り取られてしまった丸い塔だが
内部をうめてしまったものの壁の厚みが凄いのがよく分かる


先程よりもっと奥からの眺め

これが先ほどの「聖シュルピス教会」の前にあった二つの塔
教会も見える


「大手門」のほぼ反対側
一番奥の「搦め手門」の部分の二つの塔


その「搦め手門」を上から覗くとこうなっている


1892年以来「フゥジェール市」の所有と成っている
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 65 < ブルターニュ防衛線 2 アンスニ から シャトーブリアン へ >

2021-07-02 00:15:56 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『シャトー・ダンスニ』の城壁

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡る
65



先回の続きで「ブルターニュ防衛線」上に並ぶ城の第二回
絵図 ⑧ の『Château d'Ancenis アンスニ城』から始めましょう
「ナント」から「ロワール」を遡ること30km

『Château d'Ancenis』

創建は10世紀に遡る。
「ブルターニュ防衛線」の戦略的な位置である故に
12世紀から16世紀にかけて幾たびもの激しい攻防戦の的となった
その頃から現存する部分が
城門を固める巨大な塔で防御された「Chatelet 出丸」で
14世紀のもの


『Chatelet』




この門は16世紀に補強され
扉は巨大な「落とし格子」が上部から降りてくるように作られ
中は屋根付きのギャラリーがシケイン(クランク型の誘導路)につながっていたらしい
居館は16世紀半ばのルネッサンス式

『Logis 居館』
中庭に面した側面は装飾のディテールがフランスの初期ルネッサンスだが
建築骨格(平面図)と
特に窓の十文字仕切りや物見の小塔などはまだゴシックのまま



未修復の部分

上掲の建物の反対側

最後にひとつ興味深い視点を


この「シャトレ」の向かって左の円塔の左端の上に立つ白亜の建物
端から見ると


こんな具合で正面側と直角ではなかった


  ※  ※

「アンスニ」の町から北に真っ直ぐ40kmで
絵図⑨番の『Châteaubriant シャトーブリアン』という町に至る

『Château de Châteaubriant シャトーブリアン城』

18世紀後半
ブルターニュ紀行のごく最初にご紹介した「サン・マロー」出身で
ルイ15世の宮廷で活躍した文芸貴族に
「フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン」という有名作家がいるが
彼の名前は『de Châteaubriand』と最後が<D>で
この町の名前は『Châteaubriant』で最後は<T>で終わる

城は非常に大規模で各時代の建築様式が見られる

俯瞰 Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

横長の「<」型につながる建物群の上辺の中ほどに
丸い塔が二つつながるのが見分けられれば
「大手門」への進入路を守る「出丸」である「シャトレ」

城の創建は11世紀
ブルターニュをアンジュー伯の侵攻から防御する目的の「マルシュ・ド・ブルターニュ」
として
「クリッソン」「アンスニ」「ヴィットレ(後述)」「フゥジェール(後述)」
らの城と同じ役割を担った
この城の改築は19世紀まで続いた


『Châtelet』


二つの巨大な丸い塔の間の門の上
ルネッサンス期に付け加えられたレリーフはかなり削り取られてしまっている


同 裏側


天守


同 別角度

同 城内から


同 屋上

天守内部3階の暖炉の跡


3階部から4階を見上げる
各階のフロアーは残っていない


天守内の上部へは
地上階から直線の階段を少し上って
そこから壁の厚みの中に設えられた螺旋階段を登ることになる

天守内大階段

天守内小階段


天守内の水場

天守内の牢獄部(ここは女囚房)

「シャトレ 出丸」と「ドンジョン 天守」以外の部分も
見てみよう

Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

再び別の角度からの俯瞰写真で
天守はほど中央に見える
その斜め右上に接する部分が「旧大居館」
さらにそのまま「シャトレ」
天守の右下に接するのは「旧小居館」
そのまま右下が「礼拝堂」


右の屋根窓二つの建物が旧「大居館」
左の屋根窓一つの建物が旧「小居館」



大居館の2階部分の一室

小居館の切妻部分



大居館の端と
小居館に至る繋ぎの建物の端とに
入口が接して二つある

「旧」居館と呼ばれるのは
この城ができた最初の頃の小規模な時代の居館だったから

そして
小居館から先に礼拝堂



礼拝堂内部は装飾などは残っていない



礼拝堂の城外側の外壁は城壁と一体になっている

次に
ルネッサンス期に拡張された部分の居館をご紹介しよう


     先掲の俯瞰写真の左半分に当たる左側の縦に並ぶ上半分の白い建物が
『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』
下側につながる屋根窓の無い部分が『Batiment des Gardes 衛兵の兵営』

右が「ラヴァル公ジャンの居館」左が「衛兵の兵営」

『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』

「ラヴァル公ジャン」という人物は
ここからもう少し北のアンジュウ伯爵領の町『Raval』の領主で
ここ「シャトーブリアン」を
併わせて領有し城を増改築した『Jean de Laval-Chateaubriant』の事
『ラヴァル=シャトーブリアン公ジャン』が正式名称

居館の左端に玄関口「ポルシュ(ポーチ)」が有る

『Porche d'Entrée』



外観でわかるがこの中は階段ホールにもなっている


階段天井の格天井は完全に「イタリア・ルネッサンス」





登った上階の左の扉
建物の外観より内部の装飾が完全にルネッサンスになっている

『Arcôve アルコーヴ(寝台を置く切り込み)』

「黄金の間」と呼ばれる寝室は17世紀の様式


暖炉上部のレリーフの金彩がいかにも17世紀後半のフランス

領主が臨席して行った会議の間も残っている

『Salle de tribune 会議の傍聴の間』

次に
この居館の北側につながる「衛兵の兵営」









この「衛兵」の兵舎と天守を結ぶ移動用のギャラリーが残っている


攻城戦の際に敵軍の矢玉を避けて移動できるように
且つては屋根も付いていたらしい
その左下は



「Le Cher シェール川」を少しせき止めた堀『Etang de Torche トーシュ池』
という堀がある
右端が天守
左端は「衛兵の兵舎」の先端

そして
「ジャン・ド・ラヴァルの居館」の右端(南端)に近い部分に
『大ギャラリー』
が直角に伸びる






大ギャラリーの階段部

そして
この「大ギャラリー」の南側にもさらに建物が伸びている


右の丸い塔の左横に接するあたりの向こう側に
「大ギャラリー」が直角に接している


『ブルターニュ防衛線』の項つづきます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご意見ご要望ご感想などを「ぜひ」お寄せください
「コメント」欄を通じて書き込めます
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ブルターニュ紀行 64 < ブルターニュ防衛線を辿る 1 マッシュクゥル から 東へ >

2021-06-30 00:15:55 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 「マッシュクゥル」城址

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
64



『Les Marches de Bretagne』
という言葉があります
普通の意味では
「ブルターニュの歩み」「ブルターニュの足取り」等としか訳しようがないのですが
『ブルターニュ祖国防衛線』
とでもいうような意味の言葉であります

Map by  Ⓒtourisme-marchesdebretagne.com

上図の赤い点と数字がブルターニュの地域内
黒い点と数字はライバルのフランス王室系諸侯領

話は古代の西ローマ帝国の崩壊にまで遡る
西ローマ亡き後
「蛮族」が群雄割拠し互いに戦っては滅び
他部族を征服しながら進軍し地中海の島々を荒らし回り
北アフリカにわたって消えてしまったり
途中で定着したりして
初期西欧国家郡が誕生してゆく
その過程で勢力を拡大したのが「フランク族」だった


青く塗られた部分が「ピピン父」が築いた『カロリング王朝』で
それを引き継いだ息子「シャルル・マーニュ(カール大帝)」が征服して併合した領土が
オレンジ色で表される
北から
「ザクセン」「バヴァリア」「ロンバルディア」
左下は
コルドバ王国から奪ったピレネー山脈の両側の麓で
『Marches Espagnoles エスパニア防衛線』と呼ばれる
そして左上に
「ブルトン人」から奪った土地で
後の世までフランスとブルターニュとの最前線としてシコリが残る
『Marches de Bretagne ブルターニュ防衛線』

ちなみに黄色の部分は「土豪国」と呼ばれて
大フランク王国
所謂神聖ローマ帝国の版図に含まれない部分
ブルターニュもまさにその部分だった
つまり「辺境の地」という扱い

ここでいう「Marches」はシャルル・マーニュが征服行動で遠征した
「長征戦役」の場を意味し
ブルターニュ側は後々の自分たちの領土をフランス王室から守る抜くための
「生命線」で会った

したがって
拠点となる城郭都市が
双方にらみ合うように北から南へと並ぶ結果となった
その線に沿って
南から順にご紹介していく
まず最初の絵図の南限④番から訪れてみよう

『Machecoul マッシュクゥル』

『Château de Machecoul ou Château de Gilles de Rais』

この「マッシュクゥル城」は別名『ジル・ド・レの城』と呼び習わされてきた
この「ジル・ド・レ」という貴族は
百年戦争後期のフランス側の諸侯の一人で
敵国イングランドのみならず自国フランス側にも多くの敵を抱えていた
『ジャンヌ・ダルク』の数少ない側近として
最後まで彼女を護った人物として名高く
ブルターニュ紀行の極く初期に
百年戦争の前半のフランス王国側のヒーローだった「ベルトラン・デュ・ゲクラン』
の曾姪孫で
フランス王国軍司令官の一人で元帥
「レ(Raiz)の男爵」「マッシュクゥルの領主」「ル・ベナートの領主」
その他11の爵位領主位を併せ持った


土地の戦略的重要性の減衰と共に
城も朽ち果てて一部が残るのみとなった




この「ジル・ド・レ」(名前はRais、領地はRaiz、と綴る)が所有した
この近くのもう一つの城に
『Château de Tiffauge ティフォージュ城』がある


『Château de Tiffauges ティフォージュ城』

彼は数々の武勲の恩賞として
1422年「ティフォージュ」を封土として与えられた
この城も廃墟だが
壮麗な規模であったことが偲ばれる

なお
ここ「マッシュクゥル」には大修道院跡がある

『Abbaye de Notre-Dame de la Chaume ショームの聖母大修道院』

周囲を囲んだ長い塀と鳩小屋などわずかな部分しか残っていないが


塀に残った「メガネ」のような開口部が面白い


鳩小屋は城や修道院その他豊かな住民の屋敷などによく見られる
食用鳩のためのもの


修道院聖堂をはじめ
施設の建物は残っていないが
草噴く地面に一つの祭壇が風化して残されている

※  ※

⑤番 の『La Bénate ラ・ベナート』は
城は「城趾」すら残っていない
村名も度重なる他村との合併で「あざ」と教区名に残るにすぎない
ただ前述の「ジル・ド・レ」の領地の一つであった

 ※  ※

⑥番の 『Clisson クリッソン』


『Château de Clisson クリッソン城』

この町は周辺含めて八千人程の人口を抱えるだけあって
各時代にそれなりの役割を持った存在であり続け
11世紀に作られた城は15世紀まで増築が続き
城は廃墟ながら大規模でかなり原型をとどめて残っている


胸壁と水平狭間(石落とし)を持つ巡警路の部分は残っていないものの
堂々たる城壁と空堀
対フランス王国の最前線を固める城として地位の重要性が理解出来る


18世紀半ばに城主が放棄し
そのまま荒れて行き
革命中には放火されて
中核をなす部分の建物は外壁しか残っていない


そして城門が三か所







城門の内側から見ると
跳ね橋を引き上げる「錘(おもり)」が上がっている
これを下ろすと
その重みで橋が引き上げられることになる













天守に当たる丸い塔は
他の多くの城塞と同じ様に各フロアーはなくなっているが
鉄砲狭間から
壁の厚みがよく分かる


この絵図の
下部の黒い部分(数字4)が城
緑は出丸
薄緑は橋頭堡(城壁の内側で一段高くなっている)
極薄青は空堀
上側の大きな灰色部分が旧市街(城下町)
その町中に教会(数字6)がある
青はロワールの支流「セーヴル・ナンテーズ川」


川から見ると
城と橋と教会とが一度に見える
橋の中ほどにはブルトンの十字架が立つ




城から見下ろす川

『Eglise Notre-Dame de Clisson クリッソンの聖母教会』


1970年代からやっと修復工事が始まり
何度かの工事が繰り返されて今日に至っている




※  ※

⑦ 番の『Oudon ウッドン』

『Château d'Oudon』

城の起源は11世紀
その後「ノルマンディー公爵」がイングランドを統一して打ち立てた『ノルマン征服王朝』
の後を受けて
ブルターニュ公国と国境を接するフランス王室にも連なる「アンジュー伯爵家」の
「アンリ」がイングランドを受け継ぎ
「プランタジュネット王朝」を創設した『ヘンリ−2世』と
その後の『ジョン欠地王』と
ブルターニュ公側のウッドンの領主との間で
激しい争奪戦が繰り広げられた

現在の城の起源は比較的新しく14世紀から15世紀にかけて建設されたもの


現在の城で残る最も重要な部分が天守の塔
この城は
太古の人類が火打石や矢尻に使った「結晶片岩」と
「片麻岩」とで建てられている
ちなみに縁取りの白い部分はロワール河流域特産の真っ白な凝灰岩

大手門



門のくぐる部分は跳ね橋の装置を受ける部分もない形に
後世作り直されているが


この最後の橋脚からの部分は跳ね橋だったはず


くぐって振り返り城外を見る


城内も廃墟


そして
天守に入るところにも城門がある




天守の頂上

この「ウッドン城」は
ロワール河の小さな支流「Le Sêvre セーヴル川」が
ロワールに合流する直前の位置に立っている
大河「ロワール」と「セーヴル」が外堀ということだ

セーヴル川から天守を望む
(Marches de Bretagne の項目 続く)
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 62 < レンヌ 2 > 東ブルターニュの もう一つの首都 続き

2021-06-25 00:57:24 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : アールデコの『サン・ジョルジュ市立プール』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスでは無い異世界を巡ろう
62


「レンヌ」の街のランドマーク建築「ブルターニュ高等法院」を前回ご紹介した
今回も引き続いて残りの
「商業会館」「旧聖ジョルジュ大修道院」「オペラ座」
「旧市街」
「サン・ジョルジュ市立プール」
を順にご紹介していこう

まず2番目の『Palais du Commerce 商業会館』


『Place de la République 共和国広場』
に面する
『Palais du Commerce 商業会館』

かつてこの広場の位置は「ヴィレーヌ川」が流れ
船を引き上げる斜面の船溜まりと「魚市場」と「織物市場」があった
19世紀後半にそれらを廃止し
市場の跡地に新たに「商品取引所」を作ることになった

西翼が19世紀末に完成し
20世紀になって東よくも完成した
その後1911年に西翼が火災で立て直すことになり
中央のドームを低くした現在型に落ち着いた
その後
名称は「商業会館」のままで
中央郵便局と市立図書館と
ブルターニュ地域圏立美術学校
国立高等音楽院レンヌ分校
などが使っていた



前の広場はバスターミナル

2018年に大改修することが決まり
「ルネッサンス計画」という名称で工事が開始


『LEGOミュージアム』が入り
前のバスターミナルは廃止


東翼をガラスで拡張し
「ヴィレーヌ川」に蓋をして広場を広げて歩行者専用となり


国際ホテル『マリオット』
料理高等専門学校とそのレストランなどがテナントとなり
その他オフィスが入る総合施設として再建中
2025年に完全オープンの予定
名称は
『Palais du Commerce-Renaissance 商業=ルネッサンス会館』


では3番目のランドマークの
『Palais Saint-Georges 旧聖ジョルジュ大修道院』


旧聖ジョルジュ大聖堂はフランス革命で廃止され
軍の兵舎となった


その後
レンヌ市警と消防署が使ってきて


2014年頃から再開発計画が図られ
国際高級ホテルの誘致が決定
コンペの結果200室強のホテルが収まり
2018年開業の予定だった



着工直前に計画は白身戻され
結局現在は市の保健局と障害者支援局
青少年の文化・スポーツ・先端技術交流センターなどが使っている


4番目のランドマークの『Opera de Rennes レンヌ・オペラ座』


それまで
場所を転々としていた「演芸場」を改め
市役所前広場に舞台と客席とが完全分離された歌劇場様式の劇場の建設が決まり
1836年2月に落成
『L'Opera de Rennes レンヌ歌劇場』


正面ファサードの半円形壁面の内部がそのまま回廊


その半円形の回廊から
階段でそれぞれの階上の席に向かう形式





オーケストラ・ボックスが閉まった状態の舞台
規模は小さいもののパリのオペラ座のに非常に似ているが
平土間席を取り囲む周囲の階上席は桟敷にはなっておらず
オープンの座席が並ぶ

下手側の貴賓席桟敷から上手側のそれを望む
パリのオペラ座と同じく舞台袖すぐの階上席が桟敷の貴賓席



ヨハン・シュトラウス2世作曲『コウモリ』の舞台





正面全景 夜景


ここからは「レンヌ」の町の象徴的光景のもう一つ
「旧市街」をご紹介しよう

『Place de Sainte-Anne サント・アンヌ広場』

第二次大戦末期
ノルマンディーを中心ポイントとして上陸した連合軍は
フランス国内を占領するナチス・ドイツの守備隊と戦いながら国土を回復していく過程で
多くの町の旧市街は破壊されていったが
戦火を逃れ得た地区はその町の一番の観光地域となっていて
「レンヌ」もその例に漏れない


例によって
建物の歪み具合から
これらの建物の経てきた時間の長さを感じ取ることができる




窓をよく見ると
建物がゆがんでいても垂直と水平とがちゃんとやり直してあることがわかります









『Marché du Lice 外堀通りに立つ朝市』


外堀通りの建物
かつての城壁の外を囲む空堀の位置を大通りにした「外堀通り」は
フランス全国各地の町に存在する


それから
この町の近代の文化財として名高いものとして「アール・デコ」様式の市営プールがある

『Pichine municipale Saint-Georges サン・ジョルジュ市立プール』


1926年落成開業
『アール・デコ』という単純化したラインや幾何学模様の装飾を多用する様式の
初期の貴重なプール

しかし
セラミックの装飾のアレンジや

溢れ出る水がモチーフのセラミック装飾


鉄製の扉や手すり等
「アール・ヌーヴォー」という方が正確なように見える部分も多いものの




入り口のアーチと左右の壁の直線の作りは
確かに「アール・デコ」になっている














番号のついた各個人用の更衣室兼ロッカーを反対側に抜けると


プールサイドにそのまま出られる作りが便利そう






さらに
一つユニークな劇場がある

『Théàtre de l'Anncienne eglise St-Etienne 旧サン・テチエンヌ教会劇場』
昔の「聖エチエンヌ教会」を劇場に再利用している


教会の正面鐘楼下の入り口が劇場の入り口


オペラ座と違って
演劇芸術の日常性そのものがここにある




あと
ここ「レンヌ」の名所と言えば「植物公園」

『Jardin Botanique - Parc Thabor タボール植物公園』

「植物園」と言うより敢えて『植物公園』

展示館






鶏小屋

ことりが止まり中に入る入り口が並ぶ








=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 61 < レンヌ 1 と その周辺の ボエル 妖精の岩 > 現在の広域行政圏ブルターニュの首都 と ブルターニュ最大のドルメン

2021-06-23 00:04:10 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『妖精の岩』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
61



ブルターニュの首都三つの最後のご紹介となる『レンヌ』に着く前に
ブルターニュで最大で最も美しいと言われるドルメン
『La Roche aux Fées 妖精の岩』
に立ち寄ってみよう

『La Roche aux Fées 妖精の岩』

「ナント」から北へ80km
「ジャンゼ村」と「ルティレ村」の中間あたり
「Essé エッセ」という小集落の周辺のトウモロコシ畑や小麦畑の
合間に点在する栗林のひとつの中に
忽然と
それは存在している
Illustration by ⒸVIGNERON

紀元前3000年〜2500年の間
長さ19,5m
幅4,7m
最大高4,10m
32基の縦岩(メンヒル)
9基の上蓋の大岩
写真左端が開口部を持つ「前室」
右端が閉じられている「玄室」


開口部の蓋の部分の岩は長さ(幅に当たる)5,5m
左右で支えるドルメンは露出部の高さ1m
蓋をする上蓋岩の厚みも1m近い

二列目はやや崩れていて


左側面から見るより



右側面からの方が沈み方が大きいのが見てとれる
さらに三枚目の天板を支えるメンヒルも左右共に中央が消失している


ところどころに衝立のような張り出しがあって
全体が4つの石室に分けられていることがわかる(上掲の図面参照)
奥の人も見れば
高さも理解できるだろう


開口部の反対側が閉じられていて


そこが「玄室」なのだろう


上に登ってみると
天板の岩は平らではないこともわかる


立ち位置によって


目線の高さによって


見る角度によって



様々な見え方をする
本当に不思議な「アレ・クヴェールト」で
まさしく
「妖精の岩」と呼び習わされてきた意味が分かろうというものだ


※  ※

ここから北西に20kmで
「ラ・ロッシュ=ベルナール」から「ルドン」でご紹介した「La Vileine ヴィレーヌ河」
に沿った『Boel ボエル』村に至る

渓谷美と断崖の地層の美しさで知られるこの辺り
「ボエル」には名高い水車がある


流れを段差で遮っているので
右端に見える水門で船が航行できるようにした




見る位置を変えても


季節が変わっても


とても美しい佇まい


この辺りで「ヴィレーヌ河」は馬蹄形に蛇行しており
岸辺の一部は岩盤でかつては石切り場だったところもある


旧石切り場の崖



崖の上に固い岩盤が露出した部分もあり



ハイキングやトレッキングやサイクリングのコースとして好まれている


『Pont de Boel ボエルの橋』
この村の入口の橋はロマネスク時代のもの


※  ※

この「ヴィレーヌ」の流れを10kmも北へ遡行すると
いよいよ
ブルターニュの都の一つ『レンヌ』に至る


ヴレーヌは「レンヌ」の街中を流れる

中之島『Ile Hélier エリエ島』






首都なので市域は広く
かなりの規模の城壁に囲まれて防御されていた


『Porte Mordalaise モルダル門』

当然重要な拠点都市なりの
広い空堀に囲まれた城壁があったわけですから
城門も残っている

『Tour Duchesne デュシェンヌの塔』
城壁の橋頭堡となる頑丈な塔もある


4月のこの場所は
城壁に絡みついてしな垂れる藤の花が美しい

街のシンボルは
「ブルターニュ高等法院」「商工会議所」「大修道院」「オペラ座」「旧市街」
となる

まず「ブルターニュ高等法院」だが

『Parlement de Bretagne ブルターニュ高等法院』

独立国ブルターニュ公国最後の君主「アンヌ・ド・ブルターニュ」が
フランス王「シャルル8世」「ルイ12世」に相次いで嫁ぎ
フランス王国と合体した後も
ブルターニュの公爵位と領土は「王妃アンヌ」に帰属していたが
ルイ12世との間の娘「クロード・ド・フランス」がその相続権を持って
王族「サングレーム公爵フランソワ」に嫁ぐ

その後夫がフランス国王を継ぐこととなり「フランソワ1世」として即位
その際王はブルターニュの主権を完全に王国に吸収してしまって
1554年主権は消滅した
そのかわり「上級裁判権」をブルターニュに残して
ここ「レンヌ」にその場を設けた


したがって「Parlement」という名前なので
一般的には「ブルターニュ議会」と誤訳される事もあるが
実は『高等法院』が正しい
現在も「高等裁判所」として機能している

この「高等法院」前の広場を反対向きに見ると


まるでパリの中心部のような感じでビルが立ち並んでいる
そして
この建物も火災に遭遇した


1994年2月4日
その日レンヌを訪れたエドワール・バラデュール首相に
イギリスやオランダに有利すぎるEU漁業政策の採択による漁価の大暴落に抗議する
ブルターニュ中から4000名の漁民が集まって抗議行動を行い
機動隊の強権執行に両者乱闘状態となった
デモ隊の誰かが持参していた「救命信号弾」を空に向けて発射し
そのうちの数発が高等法院の屋根をぶち抜いて屋根裏の木組の中に入り込んで徐々に出火
数時間後の夕刻
火災発生に気がついた職員の通報で騒ぎが広がった


結局1日半燃え続け
翌々日朝に鎮火したが

Photo by ⒸLesEchos
結局内装の95%が消失してしまった

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

レンヌ市
イル・エ・ヴィレーヌ県
ブルターニュ地方(地方圏・州)
の積極的修復行動と
市民からの多額の寄付などにより
焼け跡から集めた1cmほどの破片に至るまでを検証して場所を特定
洗浄や再彩色や金箔の塗布など精力的に修復に取り組んだ

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

Photo by ⒸRennes.fr

各分野の専門家の献身的な修復作業の結果10年の工事期間の予定が5年で修復が完了
1999年業務を再開できた



大法廷




大法廷の部屋には
必要に応じてブルターニュ公爵がお忍びで裁判に出廷する特別な桟敷きが
残っている

小法廷の一部屋


エントランス・ホール







一般の内部見学も再開されている



さて
レンヌのご紹介は次回も続けます
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ブルターニュ紀行 59 < ナント 1 東ブルターニュの二つの首都の一つ >

2021-06-18 00:29:20 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ナントのシンボル『りんご園のパッサージュ』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
59



旧ブルターニュ公国以来
ブルターニュには中心都市が3つある
西に『カンペール』
東に『ナント』と『レンヌ』
東の二都市はともに大ブルターニュ半島付け根
ノルマンディーとアンジュー(王室親族)という二大ライバルの勢力圏に接し
その南北の半ばに「レンヌ」
南の際に「ナント」がある

「ナント」に歴代ブルターニュ大公のの主城があり政治都市
「レンヌ」は二大対抗勢力に接する戦略的拠点都市
「カンペール」はケルト色の強い民族都市

『Château des Ducs de Bretagne ブルターニュ大公城』

この街は
世界史を取れば必ず出てくる
16世紀後半数十年続いた
国家と民族の基盤「カトリック」と
抵抗勢力「プロテスラント(抵抗する者たち)」
との間の宗教戦争「ユグノー戦争」を
新旧両教派を納得させて終わらせたブルボン王家の始祖『アンリ4世』が
新教の信仰の自由を認めた「ナントの勅令」を発布した街として


城の壁面に「1598年4月13日 国王が勅命に署名した」と明記された
銘板がはめ込まれて記念されている

1598年最後のブルターニュ大公国の継承者『アンヌ・ド・ブルターニュ』女大公が
フランス国王ルイ12世に「嫁がされ」て
ブルゴーニュ公国はフランス王国と「同君連合」となって以降も
議会や裁判権など大半のブルターニュ既得の主権は認められていたが
「ナントの勅令」によりほぼ全ての独立していた権利が王国に吸収されてしまう
いわばブルターニュの終焉でもあった

『Duchesse Anne de Bretagne ブルターニュ大公アンヌ』

父君大公フランシワ2世の後を受け24歳でブルターニュ公国の継承者となった
「アンヌ・ド・ブルターニュ」は
独立を維持する能力はないだろうと考えた重臣たちにより
フランス王国と合併することを推し進められかかり
オーストリア大公マクシミリアン・ド・ハプスブルクとの結婚を決める
ところがブルターニュの爵位と公国が次世代にオーストリアに移ることを危惧した
フランス王シャルル8世に強引に略奪結婚されて一度フランスと合体
王の夭逝で独身に戻って公国の独自性が回復した直後
次期仏国王ルイ12世に嫁がざるをえなくなり
ブルターニュが最終的にフランス王国と合併してしまうことになった

 城は
堀に縁取られた中世の城塞の城壁に囲まれ
その中に近世の城館が建っている


城を見晴らすこの広場は夏にはそこかしこから水を吹き出す
噴水というか散水というかになっており


子供達が濡れながら大喜びではしゃぎまわる






中世の城壁は単に周壁ではなく
塀自体が後世の城館の構造体として組み込まれていることが見て取れる



大手門


搦手門


塔の左側はゴシックの時代の建物
右側はルネッサンスの時代の建物



井戸もそこにあった
城館の中は「ナント歴史博物館」になっている



ブルターニュ侯爵家とフランス王室の紋章を交互に配置したタピスリー






古い城と新しいトラム

博物館つながりでもう一軒

『Museum d'Histoire Naturelle de Nantes ナント自然史博物館』

フランス語では博物館・美術館は「Musée ミュゼ」ですが
自然史博物館だけ「Museum ミュゼオム」と言います






幾つかの他の町にもある「ムゼオム」と同じで
地球上のあらゆる生物(動植物)を化石から実物の剥製まで
時代順地域別に網羅する展示


入り口は
反対側の通りの面した方にある

さらにもう一軒
ナントが生んだ稀代の異彩『ジュール・ヴェルヌ』の記念館

『Musée Jules Verne』

『地底旅行』
『海底二万里(リーグ)』
『月世界旅行』
『八十日間世界一周』
『十五少年漂流記』
『気球に乗って五週間』
多くの作品からこれだけ挙げるだけでも
空想科学小説で冒険小説で
地球内部の探検や海底での半永久的生活を送れる大潜水艦やら
月面に到達できるロケットやら
世界中の主だった土地の有様や
少年たちの冒険心やら
杞憂やらアフリカ大陸の様子やらを題材にした
稀有の才能を誇った小説家であることがわかる


残念ながら
この家は生家でも彼が済んだ屋敷でもない
彼と同時代の富裕層の屋敷を市が買い取り
ジュールヴェルヌボツ150年祭を記念して博物館をオープンした



通りの反対側は斜面になっているので4階建
内部には
「ジュール・ヴェルヌの世界」が満載


奇才というか鬼才というか
SF小説と冒険小説の父と言われる「ジュール・ヴェルヌ」は
宇宙ロケットや
空気や水も自給自足する技術を備えた何年も深海で生活できる大潜水艦や
ユートピア的機械製品など
数々の
19世紀における未来世界のイメージを生み出した

陸海空の三刀流の乗り物

その
近代都市ナントの時代を現代に伝えるシンボリックな場所が
パッサージュ

『Passage Pommeraye パッサージュ・ポムレィ』

この「パッサージュ」は
ある一人の若き公証人「ルイ・ポムレィ」が
地味で特徴のなかったこの一帯を高級ショッピングの場所として再開発したい
というアイデアから生まれた
フランス最後の国王「ルイ・フィリップ」の御代1843年に落成


三層のショッピング・ギャラリーと
オフィスや住居に使える最上層とで構成されている


外部からの入り口は何箇所かある


Pommeraye の「y」を「i」に替えれば
同じ発音で「りんご園」という意味になる
しかも
欧州の言語はもともとは「y」と「i」は同じ字だった
多分発案者の交渉人はご先祖がリンゴ農家だったのかも


高級ショッピング・ギャラリーを
と望んだその感覚は十分に今でも生き続けている



吹き抜けの場所の中央階段


別に側面の階段もある


最上層


パッサージュだからガラスの天井は必須


19世紀半ば
最後に復活した王政時代を彷彿とさせる大理石の彫刻






レトロだがしっかり現代的でもあり
ナント市の「ランドマーク」だけのことはあります

もう一箇所「博物館」をご紹介しておこう
『Musée Dobrée ドブレ博物館』

『Musée Départemental de Thomas-Dobrée 県立トーマ・ドブレ博物館』

19世紀にトーマ・ドブレが
わざわざ「復古主義」で15世紀イタリア風の館を建てたのは
彼がその土地を購入した時点で
すでに15世紀の司教の屋敷が立っていたから



あるいはベルギーの古都にでもありそうな建物にも見える

建物は19世紀末には既に県が所有しており
近年中世から20世紀までの美術と古代の出土品などを展示する為に
ここに博物館を置く事にした







『ブルターニュ公爵アンヌ・ド・ブルターニュ』


『アンヌ・ド・ブルターニュの心臓を収めた遺物匣』










ところで
ここ「ナント」はブルターニュで一番の都会だけあって


高層アパートもあるし


ブルターニュ全体でおそらく唯一の高層ビルも有る


(続く)
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ブルターニュ紀行 55 < ゲランド と その周辺 > ブルエール自然公園の南西の縁の塩沼地帯

2021-06-09 00:45:32 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ゲランドの塩田での塩つくり作業

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
55


フランスには
塩の産地が大きく四種類に分かれる
海岸近くでの塩田天日製法
海岸近くでの塩水火力蒸発製法
内陸岩塩鉱脈地方の水汲み上げ地下水の火力煮沸製塩法
内陸岩塩鉱脈から掘り出す製塩法

この中の
天日による製塩法で名高い産地の中でも
「Noirmoutier ノワールムゥティエ」
「Guérande ゲランド」
の二カ所が双璧で
特に一旦途切れていた昔の手作業の小規模製塩技術を
地元の若者が戦後に復興した「ゲランド」が品質の上で最も高い評価を受けている


map by ⒸGoogleMap

地図の緑色の部分が「ブリエール自然公園」の範囲
そのヘリの部分に「ゲランド」の町があり
その左下の網目状の部分が塩田地帯

俯瞰すると
一面の塩田であることがわかる


より内陸地に近い方

Photo by ⒸFox3Shots
より海に近い方

まず町を見てみよう
大手門

旧市街を囲む城壁は
ほぼ完全に近い形で残っている


『Porte Saint-Michel 聖ミカエル門』

東西南北に4つある城門のうち
いわゆる大手門は東門で「サン・ミッシェル門」と呼ばれる


この辺りは堀も消滅して




したがって
跳ね橋も残っていない
この城門を入って



振り返ると
内側は例によって二つの塔ではなくて
一つの大きな塊



内側の「城門通り」は
結構小綺麗な商店が並ぶ感じの良い通りになっている


商店やカフェ


レストランなどを左右に進んで行くと
教会の欲の広場に出る

『Ancienne Collegiale Saint-Aubin 聖オーバン旧神学校聖堂』


週に4日
この広場に市がたつ


当然塩も売ってた


生産者直売なので
お土産用にお店で売っているものよりお安く買えます





この西側正面玄関口は普通開けない
南側面の入り口を使うのは他のブルターニュ各地の教会と共通の特徴

教会まで行くと
通りが入り組んでいる





城壁内は当然古い小さな家が並ぶが


中には
やや大型の意建物も無い事は無い



城壁の上も一部あるける



4つの城門の後の3つは


『Porte Vannetaise』
北門は「ヴァンヌの門」

『Porte de Bizienne』


西門は「ビジエンヌ門」

『Porte de salines』
南門は「塩田の門」

堀は
西門から北門の間と北門を通り過ぎて少しだけ
残っている







時計でいうと
9時から1時まで右回りに


あとは堀はすでに無いが
旧市街を取り囲む城壁の外側は
道路で一周できる


ではいよいよ
製塩の現場に行ってみよう


最初の作業は「田造り」
海からの水を少しでも長い距離を流せるように迷路のような畔を作る


それらの「塩の田」を
高度が10cm 程の差をつけて何面もつないでゆく


高さが少しずつ低くなる何面もの塩田に
海からの塩水を引き込む


くねくねと長い距離を流れて行く間に
塩水の水分が蒸発して塩分濃度が上がって行き


表面に塩の結晶が少しずつ形成され始める
その最初の結晶は塩水の泡から形成され香りと風味がずば抜けて良い


その最初の結晶を集めたものを『Fleur de Sel 塩の華』と呼び
採れる量は非常に少なく
それ以後のたくさん量が採れる粗塩とは取引価格が全く違うのです


毎日集めた結晶を一箇所にまとめておく





上の小さい杓子の色の白い小粒の方が「塩の華」
下の大きい方の杓子の色がやや濃い方が「Gros Sel 粗つぶ塩」


塩を集めた後には
水鳥がやってきて餌を漁っている



ところで
「ゲランド」のすぐ南の郊外「Careil カレイユ村」に
実に素朴な城が一軒


一応城壁はあるものの門構えだけ見ると
とても城には見えない

この門を入ると


『Château de Careil カレイユ城』

こうなります
そして左を向くと





この角度で見れば
確かに城塞ですが





このルネッサンスの屋根窓を見ると


一応城館とも言える
まあしかし


地方の小貴族の「代々の」家という雰囲気そのもの






この寝室などを見せられたらもう
「古城」以外の何物でもありません


しかし
この雰囲気は19世紀の館

大食堂の間は


近郊の人たちが
結婚式のパーティーなどに好んで利用されているそうです


気取らず
片意地張らず
先祖代々の屋敷を守ってきた城主の家族の自負を感じるものであります
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ブルターニュ紀行 53 < ブリエール自然公園 > ラ・ロッシュ=ベルナール から 南の広大な湿地帯

2021-06-04 00:30:55 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『ブリエール自然公園』一景

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
53



「ルドン」から
さらに「ヴィレーヌ川」を40km遡ると
東ブルターニュの二つの首都の一つ『Rennes レンヌ』に至るが
そこは後にとっておいて
ラ・ロッシュ=ベルナールのすぐ南に広がる広大な湿地帯
『Parc Naturel Résional de Brière ブリエール(州立)自然公園』を訪れよう

Map by ⒸGoogleMap

地図左上の端「Billier ビリエ」が先回ご紹介した「ペン=ラン岬」の起点
そこから「ヴィレーヌ川」を遡って「ラ・ロッシュ=ベルナール」が見える
地図の中央を大きく占める濃い緑の部分が「ブリエール自然公園」



詳細に見ると無数の池や沼と水路がある


相当広大な池もあれば


狭い狭い路地のような水路もある







野鳥もいれば


家畜の山羊も


馬も


野生のイノシシも生きている




もちろん漁師さんたちも居るし


群生する葦も


まばらに生える葦も


まだ青々とした葦も







刈り取られた葦も


葦で作った簡単な狩り用の屋根組みも


頑丈な葦小屋も


半恒久的な葦の小屋も



 飼料用に束ねた葦もある



もちろん船も沢山










そして多くの観光客も





観光客を案内するのは
必ずしも船に限られるわけではありません


さらには
人間と動物との



共存共栄も

そしてそれらを可能にする


清掃作業もしっかり行われています

この広大な沼沢地には
「Ile 島」と呼ばれる一かたまりの土地があって
その中にはブルターニュの「Chaumiere 田舎風家屋」が多く集まり
別荘地として好まれています

その中の一つ『Ile de Fédrun フェドラン島』


正確には島ではないのです
でも陸路は二本の道路からだけで周囲は水路に囲まれている
そして
中を一周する道があるだけで
その道の両側に家が並んでいて
人工的に造成された分譲住宅地みたいに整備されている

この「フェドラン島」を中心に
この辺りに残っていて完璧に修復されているブルターニュの田舎風民家を
いくつか挙げておきます















もちろん
時代を経たものもあります


納屋とか



昔の村民の共同パン焼きカマド

そして
ブルターニュですから当然ですが「ドルメン」もあります

『dolmen de Kerbpourg ケルブールのドルメン』


真っ平らに近い湿地帯ですが
このドルメンはやや高いところにあります






このドルメンのすぐ近くには
素敵な風車もあります

『Moulin de St-Lyphard ou Moulin de Fées』
「妖精の風車」という愛称で呼ばれる「サン・リィファールの風車」

そして更に「塩田」も

Photo by Ⓒtourismebretagne

このような海に近い部分は当然塩田になります




塩田に関しては
この「ブリエール自然公園」地帯の南西の端っこに
世界に冠たる銘塩を産する『ゲランド』がありますが
そこは次回にご紹介しましょう

とにかく
絵のように美しい光景です






Photo by ⒸLoireAtlantiquetourisme
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ブルターニュ紀行 52 < ラ・ロッシュ=ベルナール ルドン > ペン=ラン岬 から ヴィレーヌ河 に沿って遡る

2021-06-02 00:15:35 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ラ・ロッシュ=ベルナール(ベルナールの岩)の岩山の砲台

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
52


東から流れてくる『La Vilaine ヴィレーヌ河』を
ペン=ラン岬から遡ってみよう

ヴィレーヌ河の河口

Map by ⒸGoogleMap

地図の左端(東)に「モルビアン湾」
赤いカメラのマークが「ペン=ラン岬」
そのまま河を遡行して
地図の右端下段が『La Roche-Bernard ラ・ロッシュ=ベルナール』
河口から10kmあまり
途中に『Arzac アルザック』(右岸)と『Carmöl カーモル』(左岸)という町で
堰と水門がある


下流から遡って堰の直前

Photo by ⒸMilithium3D

右が下流で左が上流
言い換えると
下が右岸の「アルザック」で上が左岸の「カーモル」

上流側から見た堰


干潮時に上流側の水位を下げない堰の横に
閘門付きの水路と
閘門のない水路とがある


ヨットのマストを立てたままで通れるように
橋が上がる


 こんな岸辺を左右に見ながら遡行し
また船溜りが有って橋が見えてくると


そこが「ラ・ロッシュ=ベルナール」


この橋は
1883年に架かり1911年に架け替えられたものの後
ほんの少しだけ下流側にずらしてかけ直し1960年に完成した3代目

向こう側に
前の代の橋の橋脚部分が残っている



1883年に完成した初代は


19世紀末の絵葉書

そして
1911年に架かった二代目が


戦前の絵葉書


これらの橋は三代とも川の中に橋脚はなく
両岸の橋脚を台としてつり橋をかける形式だ

そして
町の名前「ベルナールの岩」の由来が


この岩
この下の波止場から「ヴレーヌ下り」の遊覧船も出る



一つ前の写真の岩の背後にも徐々に高くなって行き
最上段まで行くと
下流から攻め登って来るであろう敵船を見張るのに
これ以上絶好のポイントはない

岩山の頂上の砲台

『1629年 宰相リシュリュー枢機卿の命により
ここ
ラ・ロッシュ=ベルナール工廠に於いて
3段甲板を持つ大型外洋定期船《La Couronne 王冠号》が建造された』
という銘板が設置されている

両岸から川面まで高度差があるので
この町は
砲台の町
高台の町 坂の町 港町





当然階段が多くなる


そして川岸の眺めを川から見るとこうなる
川岸は港










斜面の中段に素朴な城が残っている


一つ上の建物

『Château des Bassesfosses 下段堀の城』


上まで登って川の反対側に回ると



入り口があって


この中は『ヴィレーヌ川海洋博物館』に使われている




『Maquette de la Couronne』

1627年リシュリューの命によりこの町で建造された
「ラ・クゥロンヌ号」の模型


水夫の奥さんたちの風俗と日常の道具


海軍高級士官用のブーツの靴作り職人の道具





それでは「ラ・ロッシュ・ベルナール」から
さらに上流に行ってみよう

※  ※

ヴィレーヌ川を更に15km遡ると『Redon ルドン』に着く



この「ルドン」も当然「川の街」




当然港があって水門もある






旧市街の川岸の家並みは
当然美しい


その川岸から
かつての大修道院が見える

『Abbatiale de Saint-Sauver 聖救世主大修道院聖堂』

この「聖救世主大修道院」の聖堂を外陣から見ると
実に堂々たるゴシックの大伽藍だ
右奥の細い尖塔が西側正面の鐘楼なのですが
実はつながっていない


18世紀に大火災に遭遇し
西側正面玄関口から被災したアーチ4本分を撤去した結果
身廊が20m短くなってしまった
見取り図の「10」の部分
鐘楼は西側正面の横に接続して建てられていたが
その後単独で残された

単独で残った鐘楼


内陣と翼廊との交差部の屋根は
明かりとりの開口部を持つ角を丸めた巨大な四角い塔となっている


この形の交差部の塔は他に類を見ない独特のもの

その鐘楼の正面からやや左後方に
小さな城のような市役所がある



聖堂を右後方から見ると
市役所は修道院とは関係ないことがわかる


しかし
真横から見ると聖堂らしくない
聖堂内部は


身廊部は創建当時12世紀のロマネスクの素朴な壁構造で
天井も低い半円筒形アーチ


身廊から主祭壇に有る内陣を見ると
後陣(外部)から見て分かった通り見事なゴシック
つまり時代が後なので
天井が高く
壁のない骨組みだけの構造である
その差がよくわかる




回廊部はしっかり残っているが
今では修道院としては機能していない


回廊の後方に見える交差部の屋根の塔から右に
内陣の屋根が続いている
左側にあるはずの身廊の天井は低くて隠れている

旧市街の中は落ち着いた雰囲気


新旧の家々が入り混じる石畳の通り


租税として収められた塩を保管した「蓄塩倉庫」



木の柱と梁の家々も
この2軒の切妻の部分にはアルドワーズ(粘板岩)の石瓦を貼り付けてある


そして
何度見返してもよく分からない
古そうな建物の「角の部分」だけを台座に乗せて保存したような家もある




日が沈んだばかりの夕景も美しい
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 50 < モントヌフ マレトロワ ロッシュフォー・アン・テール > プロエルメル周辺 を巡ろう 3

2021-05-28 00:48:32 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『モントヌフ』の列柱巨石

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
50



今度は「プロエルメル」から南を巡りましょう

20kmほど南東に下ると『Monteneuf モントヌフ』に至る
ここは
列柱遺跡が迫力があるのです


「カルナック」の様な広大な分布ではないけれど
岩の一個一個が粒ぞろいなのです


太い


高い


鋭い


美しい緑の環境の中にある



自由に歩き回れる



上に乗っても叱られない(お勧めしませんが)


倒れていても


とにかく圧倒的な存在感で
この迫力




確実に人力で切りそろえられたと覚しきものも



人間の手が加えられていないと思われるものも


分厚い物も


削ぎ取られたようなものも



とにかく
存在感はハンパではない










ということで
「モントヌフ」の列石柱遺跡は迫力満点です


※  ※

「モントヌフ」から南西に15km
「プロエルメル」から真南に15km
『Malestroit マレトロワ』という町があります

運河と花と礼拝堂の町『マレトロワ』

ブルターニュという大半島の
西の先端の港町「ブレスト(既出)」と南東の根元の「ナント(未出)」を
幾つかの川を結んで
『Canal Brest-Nante ブレスト=ナント運河』
という水上輸送ラインが存在する

前々回あたりから出てきた「ウスト川」もその一環で

マレトロワ近くのウスト川

幾つかの町を迂回して流れるような所では
実際に運河がバイパスを作ったりしており
この「マレトロワ」の町も湾曲する「ウスト川」を直線で結ぶ運河が
町を横切る

ⒸGoogle Earth

「ウスト川」は右上から流れてきて
「ノートル・ダム島」という小さな島の所から
左上に運河が掘られている


Map by  ⒸFrance-Voyage.com

川から運河に入るところ



端に立って川を背に運河の方を見る


実は
「ノートル・ダム島」のすぐ北で
川底の高さが違う


そこで
この位置まで来た船は
水面の高さを調整してもらうことになる


つまりこの位置は「閘門」なのです


一つ上の写真とは逆向きに運河に入る方向の船が待っている写真ですが
こんな感じで水を出し入れする
水準が整うと


通れるわけです
夏のシーズンともなると子供達のカヌー教室のカヌーで


閘門の中がこんな賑わいになることもある

町とウスト川とは切っても切り離せない


ウスト川の水面に映る家と柳が一幅の絵のよう


そして
教会が見えます

『Eglise Saint-Gilles 聖ジル教会』




川越しに見える面とは逆の側面




それから
礼拝堂の廃墟もある

『Chapelle Sainte-Madeleine 聖マドレーヌ礼拝堂』

正面だけ見れば廃墟だとは思えないが


全体を見れば残っているのはほんの一部分だけだとわかる



中側から見る

町の旧市街も良い感じです






「サン・ジル教会」の前の広場



壁のプランターにお花が咲き誇っている季節に
ぜひ見たい家

『Fontaine de Dragon ドラゴンの泉』



『Croix de Joubin ジゥウバンの十字架(カルヴェール)』

そして


この左手前と右側の家のように黒っぽい石のゴツゴツした家並みが
いかにも「ブルターニュ」なんです


※  ※

さらに「マレトロワ」の真南15kmで
『Rochefort-en-Terre ロッシュフォール・アン・テール』に至る


この通りに並ぶ建物の多くは16〜17世紀のもので
それらの家々は個別に国の登録文化財に指定されている















16世紀の家

16世紀の家

17世紀(1666年)の家


中心部から北西のはずれの高台に城がある


城壁と塔

城壁の搦め手門

城の入り口の門















城のテラスに立つ聖母像

城の礼拝堂





礼拝堂は城壁の上に建っている

『Eglise Notre-Dame de la Tronchaye トロンシェの聖母教会』



カルヴェール








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ブルターニュ紀行 49 < パンポン(ブロセリアンド)の森  伝説 と 大修道院 と 製鉄所 と 城 > プロエルメル 周辺 3

2021-05-26 00:54:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『ブロセリアンド(魔法物語)の森』の発祥の地と言われる「パンポン」の森

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
49


「プロエルメル」から東北東に15kmほどで
『Foret de Paimpont パンポンの森』という温帯湿林地帯がある


広葉樹林が鬱蒼としかし幻想的に広がって行く光景は
神秘的なほど




かなり広い森のあちこちには
せせらぎが横切り





いくつもの
大小の池がある




齢を重ねた巨木が今日まで生き残る
神秘の森


『Chêne à Guillautin ギヨータンの樫』


この森は『Forêt de Brocéliande』とも呼ばれる
「ブロセリアンド」は「魔物の」というような意味の
中世の騎士物語に出てくる表現
というのも
このブルターニュの森は
『アーサー王と円卓の騎士』伝説の誕生した背景なのです
あちこちに
登場人物に所縁の名を付けられた岩などがる

『Tombeau de Géant 巨人の墓』

『メルランの墓』(円卓の騎士の一人)

『Horié ou Maison de Viviane ヴィヴィアンヌの(聖)家』
アーサー王伝説上の「湖の女王ヴィヴィアンヌ」の聖地(家)
と呼ばれている岩の群れ
『Epée du Roi Arthur アーサー王の剣』




『Saint-Judicaerl 聖ジュディカエル』
古ドムノネ王国の王(ブルターニュ王)にして
出家してパンポン大修道院を開いた聖人

その他

『Fontaine de Barenton バラントンの泉』




『Fontaine de Jouvence ジュゥヴァンスの泉』




『Maison des Fées (Maison Tréssée) 妖精の家(編み込みの家)』




そして巨岩もゴロゴロ




『Rocher tremblent 揺れ岩』

池が大小かなりあるが
池の前は眺めが良いはず
眺めが良い場所には城があるはず

『Château de Comper コンペー城』

『Château de Pas du Houx パ・ド・ウゥ城』

城でなければ修道院

『Abbaye de Paimpont パンポン大修道院』

ということで
この「魔物の棲む森」で名高い「パンポン大修道院」を
訪れてみよう


まずもって
池に映えるその姿の艶やかなことと言ったら


池越しだったら
どこから写しても名カメラマン


大修道院聖堂が左に連なる光景を正面に見据える


この建物の左端が修道院聖堂


『Abbatiale Notre-Dame de Paimpont 聖母大修道院聖堂』

反対側に回り込むと
実は聖堂は先ほどの正面の建物に直角に立っている



Portail 中央扉口


修道院聖堂の扉口


扉口中央の聖母子像 ディテール

聖母修道院聖堂 身廊

身廊奥翼廊手前の「聖職者内陣」と 手前右は聖母祭壇

聖母祭壇 ディテール



翼廊(十字架横木部)と奥の内陣は天井がゴシックの石の天井に作り直された
通常の内陣部は「上(かみ)の内陣」と呼ばれる


内陣一番奥『Autel Saint-Sacrement 聖秘蹟祭壇』と天蓋

聖秘蹟の祭壇のルターブル(祭壇衝立)

聖具室


1375年という記述のある銘板

外には900年を経た十字架が立っている

『Croix de l'an 1199 1199年の十字架』




外はすぐに池






さて
この「パンポン大修道院」から遠からぬ所に
近代産業革命の遺跡がある


『Les Forges de Paimpont パンポン製鉄村』

!8世紀半ばに作られた製鉄所集落


集落の入り口の廃墟の家々



この人工的に作られた製鉄村は
総支配人
工場長
職長
鍛冶職人
数百名が生活していた




『Logis du Dirécteur 総支配人の執務室兼住居』




今は文化財として見学者用に修復された建物もあれば


廃墟もある





高炉の廃墟


砂鉄や鉄鉱石を溶かして製鉄する際
温度が高いほど不純物を取り除いて精度の高い鉄が得られる
従って温度を上げる為に「炉」が高く伸びる
陶磁器の「登り窯」と同じ発想

説明用の当時の模型





見学者のグループも多い

数服された「延鉄所」の建物


今は住民たちのイヴェント用に利用されており
結婚式のパーティーに好まれている
フランス人たちは文化財でパーティーをやるのが好きなのです

職長の屋敷(左)と旧礼拝堂


製鉄村以前から存在していた旧礼拝堂

19世紀に作られた新礼拝堂




『鉄祭り』の際のデモンストレーション

この村で18世紀半ばから19世紀半ばまで
スペインとスエーデンの製鉄業に対抗して多くの鉄が作り出された


最後に城を一つご紹介
『Château de Trécesson トレセッソン城』


=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 48 < ジョスラン 城と人形と時代祭り > プロエルメル の 周辺部を訪れよう 1

2021-05-24 00:31:05 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : ウスト川沿いに見るジョスラン城

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を訪れよう
48



「プロエルメル」の西にわずか10km強で
『Josselin ジョスラン』という
城で名高い町がある


ブルターニュに起源を持ち
11世紀から21世紀の今日まで続く
3名の王国軍元帥
3名の宮廷大祈祷係(宮廷付き大司祭)
7名の司教
3名の大司教
5名の枢機卿
を排出しフランス史に関わる名家『De Rohan ド・ローアン』家の
ブルターニュで3カ所の拠点の居城の一つ


『L'Oust ウスト川』に面した本丸を主に
大きなゆるい三角形の城壁で囲まれた城だった



川の前の段丘を利用し
保pんらいの岩盤の部分をそのまま取り込んでそびえ立つ
『Cour 中庭』は段丘の上の」高さにある
この写真の進行方向に現在の入り口がある


昔の通用門に進入路の」坂道を整備した感じ



さすがブルターニュというべきか
この進入路にもカルヴェールがあった
このまま入ると


こんな感じで場内に到着



川の対岸から見た本丸を
中庭から見るとこんな具合で背の高さは半分くらい
右から入ってきたので
そのまま左へ抜けていくと


建物自体は横に長く
厚みは少ない
一番はじまで行って振り返ると


こんなに薄っぺらに見える
その右に向き合って見える塔は天守
この位置の真下は



中庭から見た建物の高さとは桁違い



本丸御殿みたいな居住用の部分は16世紀ルナッサンス時代
天守は15世紀の名残


天守は古い時代の城の一部で
その時代の空堀で囲まれていたのでやや低い地面から建っている


空堀を渡って天守に入る石の橋も残っている


本体の建つ「Cour 中庭」とは別に


一段下がって
花壇が作られている



そこからさらに一段下がって庭園となる







内部も見てみよう
実はこの城はもちろん国の指定文化財ですが
未だに「ド・ローアン公爵と公爵夫人」が当主でご健在で
それでも見学ができます

城の礼拝堂

書斎


広間

この写真右の張り出し部分は
川に面した正面外壁の厚みを利用して造られた
かつての見張り用の窓

大食堂



上階の部屋の一つ 上階は天井がカーブしている

また外に出よう









屋根窓の輪郭と窓の十文字の突っかいはゴシックのやり方
しかし
壁面を覆うレリーフはルネッサンス






壁の最上部の屋根の高さの刳り型の文様は
ブルターニュ公爵家の紋章である「ミンクいたち」

せっかくですからご紹介させていただきます

ご当主『ド・ローアン公爵ご夫妻』
城の庭園での一コマ

さて
この「ジョスラン城」には『玩具と人形博物館』という施設が併設されている
敷地の一部
一番奥の城門にある建物が使われており城内の敷地から繋がっているはずだが
一旦町に降りて
そのから回って行くことになっている


この門を入る
城主が
若い頃ブルターニュの各地の民族衣装を着たお人形を集め始め
そのうち世界中の人形と名のつくものなら何にでもと手を広げ
集めに集めたり6000点
Photo by ⒸMusée de Poupées et Jouets de Château de Josselin
ブルターニュの水夫の服装の子供とその友人とクマ

その膨大なコレクションのうち800点ほどを収めた博物館を作った

Photo by ⒸMusée de Poupées et Jouets

Photo by ⒸMusée de Poupées et Jouets

Photo by ⒸMusée de Poupées et Jouets

展示は大小さまざまなガラスケースで



修道女

法律家と軍人と

サーティーズな雰囲気抜群の比翼付きのコート


女の子たちの一番人気は『バービー』


男の子たちはやっぱり兵隊さん


『チャップリン』から始まって
『タートル忍者』や『スーパーマン』や『ET』まで
銀幕のオールスター勢揃い


片やコミックの人気者
『タンタン』と『シュトロンフ』と『アステリックス』
このクマさんは誰だっけ


極めてオーソドックスなお人形もいれば
極め付けは


五月武者人形とお雛様の勢揃い


どうだ参ったか

そしてここ「ジョスラン」の町では
毎年恒例の「中世 時代祭」が執り行われます
しかも
その開催日が


7月14日
なんと『フランス革命記念日』なのです


城の中庭で「輪になって踊る」宮廷人たち



馬上槍試合の出陣準備


ダンスはどんどん大規模に


町中では行列が



襲い来る敵軍を迎え撃つかのごとくに


列をなして行進する


我も我もと城へ向かう


やんごとない奥方たち


むさ苦しい兵士たち


中には何が何やらな連中も(道化です)


対岸から川の上を越えて城壁まで綱渡り


攻城戦ごっこもいい大人たちが本気です



方や教会では
中世の楽器でコンサート
昔ジャズが8ビートで年寄りはついて行けず
ロックが16ビートで雄叫びをあげ
今や32ビートの楽曲が咆哮する時代ですが
中世の音楽はおそらく2ビート(「たけし・きよし」は無関係です)


その日の旧市街はこの三角旗がいたるところを飾ります

『Eglise Saint-Martin 聖マルチネス教会』




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