行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

プロヴァンスを巡ろう 6 <ポン・デュ・ガール近くのホテル と オキシタン文化圏の町ユゼス>

2020-10-30 00:10:22 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
ユゼスの中央広場のアーケード
 
 
ポン・デュ・ガールから
西北西に15km
『ユゼス』という町がある
 
ここも「オキシタン(カタルーニア)」文化圏に属する
ユゼス侯爵領
 
例によって雰囲気満点の旧市街を行くと
 
 
 
すぐ
 
町のシンボル
公爵の城
司教館
大聖堂
 
とが連接している前に出る
 
 
公爵の城は
未だに
公爵家の末裔が住んでいらっしゃる
 
長方形の塔が城の塔
その奥の
上に細い丸い塔が載っている四角い塔が
司教館の塔
 
横から見た方がわかりやすい
 
右奥が公爵の城
左奥が司教館
 
 
 
それらの敷地の隣にある大聖堂
 
 
この
『Cahrédrale Saint-Théodorit 聖テオドリ大聖堂』
円形と鐘楼が極めて美しい
 
 
 
1801年以降は
この町は「司教座」ではなくなったので
今は正確には大聖堂ではなく
聖テオドリ教会
 
鐘楼の上部の中は
こうなっています
 
 
直径が小さい割に高さが保てるのは
こんな風に
壁をほとんど作らず
重量を軽減して設計されたからだろう
 
 
 
ユゼス侯爵の城の塔から見た
旧大聖堂
 
 
司教館は
現在は『市立ジョルジュ・ボリアス歴史美術館』
 
 
展示品は
普遍的な絵画彫刻と言うよりは
この町とこの地方の歴史を伝える絵画や工芸品が
並んでいる
 
 
 
旧市街は
やや小高くなっている
 
市街地へ降りると
市民の集まる中心地が
『 Place des Herbes プラス・デ・ゼルブ(ハーブ広場)』
 
多分
定期的にハーブの市がたった広場だったのではなかろうか
 
長方形と正方形とを
くっつけたような不規則な形なので
中央
というのはいいにくいが
 
噴水もある
 
 
周囲には
カフェやレストランもあり
テラスの席が賑わう
 
 
 
そして
周囲を取り囲む建物の地上階はアーケードになっているが
奥行き(幅)が広くて背が低い
 
 
そのアーケードは
広場の入り口の道から
すでに始まっている
 
 
この
アルプスの方に多い類の幅の広さと背の低さは
逆に
南仏の真夏の強烈な太陽と暑さとを
避けるためなのかもしれない
 
 
 
 
※  ※  ※
 
さて
この魅力あふれる小都市を離れて
 
ポン・デュ・ガールの方に
戻ったあたりにある
素敵なホテルをご紹介しよう
 
Castillon-du-Gars (カスティヨン・デュ・ガール)村の
『ル・ヴュー・カスティヨン』
 
正面エントランス
 
実は
このホテルの特徴は
住民がいなくなりかかって廃村が決定的だった
カスティヨン・デュ・ガール村の
住民不在の数件の民家を買い取って
それらを上手く繋いで
ワンブロック全体をホテルに作り変えてしまった
という発想
 
 
極めて
丁寧な修復により見事に蘇った「古民家ホテル」が
人気を呼び
成功したことで
旧村民が戻ったり
新しい住民が移住してきたりで
村が復活したことも特筆に値する
 
 
 
 
 
 
プールサイドの「壁」だけ残した建物の
ゴシックの時代の特徴の十文字の支えのある窓の
すぐ横が
個人的に大好きです
 
`
 
昼間
散々観光でで歩いてきて
疲れ切って
ホテルに帰って夕食まで1時間半くらい
プールサイドのこの長椅子で
ゴシックの窓の跡から差し込む夕陽を浴びながら
うつらうつら
至福の時を過ごすのが
大好きです
 
 
中庭というか
建物意図建物の間の空間には
あれこれ
ゲストを寛いでいただくための
仕掛けがあります
 
 
高い位置のテラスに並べられた
寝椅子やら
 
 
低い位置の
談笑できるコーナーやら
 
建物をくぐったり
上から渡ったり
 
 
 
しかし
お庭の雰囲気とは一変して
 
内部はとても
明るく新しい
 
ただし
ホテルのコンセプトを遵守して
雰囲気を壊さない新しさ
 
レストラン
 
 
 
ギリギリ
プールが見える席もある
 
 
 
この客室の暖炉は
以前の民家の「オリジナル」
 
 
 
浴室の
剥き出しの石も「オリジナル」です
 
ヨーロッパでは
「古い」ことと「オリジナル」が
価値がある
 
真新しいものは
どんなに高級でピカピカでも
お金があれば手に入る
 
時間が購ってきた「古い本物」は
いくらお金を払っても
手に入らない
 
だから
「オリジナル」の部分は徹底的に残して
誇示するのです
 
 
この浴室の
左の窓の周囲の縁取り石も当然
オリジナル
 
 
ちなみに
ここのお食事も
年によって星がついていたり
何年か経って外されたり
また取り返したりを
繰り返していて
 
素晴らしいお料理ですが
最近は
カジュアル路線のよう
 
 
夏らしく
極めてシンプルな
「数種類のトマトとモッツァレラのサラダ」
 
 
やら
 
 
極めて素朴な
ラム肉のソテーやら
(この写真は調理済でお客に提供されている状態)
 
 
 
かるく
スズキの夏野菜添え
やら
 
 
 
ショコラとスイカのミルフォイユ ベルガモット・アイスクリーム添え
やら
 
 
いかがでしたか
 
= = = = = = = = = = = = = 
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をお待ちいたしております
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プロヴァンスを巡ろう 5 <古代ローマ時代のニームの街に清らかな清水を供給した水道橋 ポン・デュ・ガール>

2020-10-28 00:17:31 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
下流側からの『ポン・デュ・ガール』

 
 
前回までご紹介した
ニームの街の飲料水を供給した水道橋
『ポン・デュ・ガール(ガール川の橋)』は
現存する
もっとも完全な形で残る古代ローマの水道橋の中で
最大のもの
に挙げられている
 
上流側からの全景
 
 
実は
遠景ではわからないが
橋は二重構造に成っている
 
 
二千年前にローマ人が架けた橋は
右のアーチの部分
幅にして5mくらい
 
その水道橋に張り付けるように
19世紀に
通行用の橋を下流側に新たに付け足したのです
最下段のアーチの高さに
 
以前は両岸に駐車場があったので
この「新橋」は
車で渡れた
 
20年ほど前に
サイトのアクセスを遮断して
入場料をとるようになってしまった
 
そのために
左岸からきた人は左岸側の駐車場
右岸から来た人は右岸側
車を置いて見学に行くようになってしまった
 
 
左岸側の河岸の道路から
新橋に曲がって入るところ
 
 
 
 
この写真は
上流側の右岸の方から撮った
通行用新橋のない側
 
 
ところで
各所に凸凹と石が飛び出している
 
これは19世紀の終わりの大修理の際
足場を組むための突起
 
ローマ人たちも
同じようにして建設した
 
街中の建造物であれば
この種の突起は削り取って見た目をきれいにしていたが
この様な
山の中の実用的建造物は
そのような化粧直しはやらなかった
 
19世紀にもそれに習った
 
組み合わせた切石は
1個6〜8トン!
 
 
 

 
 
この二葉の写真は
中段のアーチを見上げている
 
真下からなので見えないが
この上に最上層三段目のアーチが並んでいるのです
 
水道橋自体も
最下層アーチの上は歩いて渡れるが
中段アーチの橋脚の幅が4mほどあり
その両側の歩けるはみ出しは
それぞれ50cmくらいの幅しか残っていない
25m下は川

結構怖いです



最下段のアーチは6個
中段は11個
最上段は35個
残った
 
最上段の全長
275m
 
これが
川を渡っている水道橋として
最大なのです
 
その
最上段の小さなアーチ(と言っても高さ6m)
で支える上部に
水を流した暗渠がそのままの形で残っています
 
 そこを通ってみる
 
右岸の側から
崖を登り少し藪を分け入ると
入り口が見える
 
水を流す導管の部分は
幅1m程
高さは1,9m程
 
上を
厚さ20cm幅3mほどの一枚石の石板を
被せるように並べて
蓋をして『暗渠』にしてある
 
蓋の板石は
3mほどの感覚でつないである
 
 
中に入ると
ずっと先まで続いているのがわかる
 
ところどころ
蓋石がなくなっている
あるいは最初から無い(内部清掃用の入口)ために
所どころ明るく見える
 
 
左側の壁の下部の
少し厚みが不規則な出っ張りに
気がつかれただろうか
 
 
この辺りは両側の壁が
膨らんで
間隔が狭くなっているでしょう
 
これらは
7世紀に使われなくなるまで
700年の間水が流れていく際に付着した
水垢(石灰)の層なのです!
 
蓋の無い所から
上部の蓋の上に出られる
 
 
こうなる!
 
これは怖い、
石は石灰岩だが
硬い部分が大理石化していて滑るのです
 
歩いて最後まで渡ったけれど
腰が抜けそうだった
 
水面まで何と50m!
 
 
 
この水道橋は
ニームの街から北東に25kmほど
 
ちなみに
橋から山中の水源まで23kmほど
 
なるべくカーブは避けるとはいえ
曲がりくねることも考慮すると
60km近く
 
勾配が一定で
4パーミル
 
パーセントが1/100です
パーミルは1/1000なのです
 
つまり1kmで4m下る
たったの
 
何という建築技術だろう
 
ちなみに
実際の建設に当たったのは
奴隷ではありません
こんな精巧な物は奴隷の作業ではできない
 
ローマ正規軍の技術工兵隊
プロの手になる
古代ローマ人の建築工学の技術の粋なのです
 
 
そして
ここにも樹齢千年のオリーブの木が
 
 
 
四捨五入
ならぬ
九百九十九捨千入
するならば
 
 
2歳の橋
1歳の木
そして
0歳児の人間たち
 
 
所で
世界遺産などの発想など無い戦後間もない頃から
県が
サイトを壁で囲って見物は有料にしよう
という意見が何度も出た
 
何しろ財政難なもので
 
その度に
地域住民が大反対
 
「ポン・デュ・ガールは俺たちが生まれた時にはもうそこにあった」
「父さんが生まれた時にもそこにあった」
「爺さまが生まれた時にもそこにあった」
「ご先祖さまの誰もが生まれた時からそこにあった」
「あの橋は文化財とか史跡とか人間が勝手に指定するべきもんじゃない」
「この俺たちの生まれ育った大地そのものなんだ」
「入場料とるなんて考えらんねえ」
 
拒否を繰り返してきたそうです
(日本とは違うなあ...と)
 
ところが
世界遺産登録とともに
管理がうるさくなり財源が厳しく
それに
強風にあおられて落下する事故が相次いだ
 
それを契機に
無制限な接近をやめて
入場管理をすることにしたのだそうです
 
それで
導管の中も通れなくなった
 
夕景で河原に陰を落とすポン・デュ・ガール
 
この写真左前方の白い建物は
古の水車小屋を利用した
小さなホテルでした
 
アーチ型の3つの窓が並ぶ3階の部屋が
ベッドから寝たまま水道橋が見える
という
誰にも教えたくない最高のホテルだったのですが
 
世界遺産登録
入場管理導入
廃業になってしまった
 
悲しい
 
 
なお
水道自体は
橋を架ける必要があった窪みを渡るのは
ここだけ
 
あとは
およそ60kmの地上の部分を
4パーミルを得るため作られていた水道の残骸が
各所に残っています
 
 
 
 
 
 
 
いずれも
導管部は既になくなっている
 
この水道橋の名前『ポン・デュ・ガール』
「ガール川の橋」
 
単純な名前です
 
Le Gard (ガール川)は
上流のこの辺りでは
Le Gardon(ガルドン川)
呼び名が変わります。
 
名詞の末尾に on をつけると
「小さい」「可愛い」
という意味の名詞になる
 
例えば
Chat(猫)を Chatton とすれば
仔猫
 
まあ
そんな感じですが
橋の名前は本来の川の名前
 
ちなみに
この辺りに県は『ガール県』と言います
 
では
今回はここまで
 
次回は
近くの素敵なホテルと
さらに
その近くの別の町を
ご紹介します
 
= = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 4 <ニームの一押しホテルは アウグストウスにちなんで アンペラトール>

2020-10-26 01:13:13 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
ニーム市内の『アウグストウスの門』遺跡
 
 

前述した
ネマウスス水源地の水上公園から
運河と呼ぶ水路が掘ってある
 
 
その運河『キャナル・ド・ラ・フォンテーヌ』に沿って
5分も行けば
 
『Hôteml Imperator (オテル・アンペラトール)』
 
 
ラテン語で「インペラトール(皇帝)」
 
 
かねてより
ニーム市内で一番
のホテルだった
 
近年
大手資本が入ったらしく
総リニューアルされて
以前のプロヴァンスらしさがなくなり
なんとなく
どこかで見たことのあるような「高級ホテル」
っぽくなってしまった
 
少し残念だが...
 
少なくとも
外観は昔のまま
 
 
 
昔と同じで玄関は狭い
しかし
エントランスホールは
両側の鏡のおかげで
広々とした玄関に感じる
 
 
ロビーの中央階段
 
そこにあるエレベーターは
変わらず
「鉄の蛇腹扉」のままで
安心した
 
 
 
 
 
 
奥に
内庭に沿って
バーとカジュアル・レストランがある
 
 
バー
 
 
カジュアル・レストラン『L'Impe (ランペ)』でも
雰囲気は良い
 
 
 
メイン・ダイニングは
外からは
別に玄関がある
 
 
メインのレストラン
『Duende (デュアンド)』
 
 
 
客室は
今はやりのモダン
 
まず
スタンダードな部屋
 
 
 
ジュニアスイートも
雰囲気は同じだが
 
 
 
右隣に見えるバスルームは
 
 
普通の部屋より広いかもしれない
 
 
 
 
スパのプール
 
 
最上階のテラスは
プール・デッキになっている
 
 
 
 
 
一応
ニームでは一番のホテルであることは
今でも確か
しかも
以前よりずっと「高そう」な雰囲気になっている
 
だが
 
全面的改修され
周辺の建物も吸収して拡大され
内装が国籍不明な雰囲気になって
 
やっぱり
残念としか言いようがない
 
もう
次回からは
ニームは昼間訪れるだけで
他の場所に泊まることにしようかと
思い始めている
 
= = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 3 <プロヴァンス最西端の街 ニーム>

2020-10-23 00:02:23 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
古代ローマのアリーナ



プロヴァンス地方は
古代ローマ帝国がイタリア半島以外で初めての
植民地ではない「Provincia プロヴィンキア(帝国属州)」
の地位を与えた土地

その言葉が今
フランス語の地方を表す "Province" となったが
プロヴァンス地方だけは固有名詞で
"Provence"
と綴る

カタカナで書くと
どちらもプロヴァンスだが
「アン」の音が違う

具体的には

東端にカンヌ
西端にマルセイユ
その間の地中海岸とその後背地である山岳地を言う

まず
ギリギリにマルセイユから西側を見てみよう




『Nîmes (ニーム)』

マルセイユから西北西に40kmほど

ニームまではプロヴァンス地方にギリギリ含めるが
厳密には
その東の『ラングドック地方』の一部
の行政区に含まれる

ラングドックは『オキシタン』
つまり
南西フランスとスペインのカタルーニアまで
文化圏なのです


ニームは古代ローマが築いた街
将軍カエサルに従った親衛隊が軍務を解かれ
退役軍人として余生を送る為に付与された土地に
築いた街なのだそうです

それで
エジプト遠征から帰還した兵士たちが
ナイルのワニを
首に縄をつけて「戦利品」として連れ帰ったという伝説から
「首に縄を巻いたワニ」が街の紋章になった
とか


旧市街の石畳のブロンズの飾りにも

小さな広場の噴水にも


しっかり
ワニが存在を主張しておりました

リアルですが本物のブロンズの彫刻です


ちなみに
ローマ時代の貨幣にも既に
このデザインが




『アウグストウス帝』と『アグリッパ帝』
御代の金貨



その古代ローマの残した最大の遺産が
闘技場(アリーナ)です



近くの町『アルル』の闘技場と
姉妹
と言われており
紀元1世紀頃という建造の時期も
2万人収容という規模も
ほぼ同じ

外壁三層アーチの
最上層は残っていない



第一層目のアーチの中
この天井の上に
上層階の通路がある

すぐ右に
内側の通路に抜ける入り口



この右側には
内側の通路からこの通路に出てくる
階段通路の入り口が



いわゆる観客席の部分は殆ど残っておらず
そこの通路の上部はない
そのさらに内側の部分の壁を抜けると
一番内側の通路は
一層だけ


その
古代闘技場とともに重要なのが
神殿です


イタリア半島以外で
もっとも完璧な姿で残っているローマの神殿と言われている

ローマが滅びた後
ゲルマン人の破壊を免れ
砦となり
その後厩として使われたり
修道院になったり
浮浪者が住み着いたり
革命政府が競売にかけて瓶詰メーカーが買い取って工場にしたり
紆余曲折の結果
ナポレオンの「文化財指定」で
保存されてきた


街には小高い丘がある

その麓に湧き水があって
ローマ以前に
その水源を中心に『ガリア人』が住み始めて集落ができていた



その水源を
ローマ人が『Nemausus (ネマウスス)』と名付けた
そこから
『Nîmes (ニーム)』
という街の名前が生まれた

水源から湧き出て流れる水の上に
ナポレオン軍の工兵隊の技術者が
プラットフォームのように人工地盤を作って
水上公園を作った
『泉の庭園』







しかし
そんな綺麗な湧き水がふんだんに沸いていたにも
かかわらず
日常の飲料水やテルマエの水として
彼らは
もっと清らかで美味い水を求めた

45kmほど北の山の中の水源から
延々と水道を造って水を引いてきた
起伏はトンネルを掘り
谷間は水道橋を渡して

その水を
町内に配分する
水道施設の分水施設すら残っているのです


美食を追求し
浴場を愛し
『生きる喜び』に徹した古代ローマ人には
脱帽するしかない


そして
その丘のてっぺんに
いつの頃建てられたのか誰も知らない塔が残っている



『マーニュの塔』
と呼ばれて来た

フランスとイタリアとドイツとのご先祖
『フランク王国』のカール大帝をフランス語で
『シャルル・マーニュ』
と言います

多分
カール大帝に起源があると信じられてきたのでしょう
実はもっと古く
ローマ時代初期からあって
カエサル以後のアウグストウスが
改修したらしい
とわかっています

塔の横に古い古いオリーブの木


2千年の齢の塔の前に
1千年の齢の樹木


さらに
この塔の上の登ると
こんな写真が撮れます


ここまでの引きの写真は
相当大きな望遠レンズが必要ですけど

部分的に切り出せばよろしいかと

ちなみに
左が『闘技場』
右が『古代劇場』
です

日本では
闘技場を円形闘技場ということが多いですが
楕円形

古代劇場を「円形劇場」ということもあるが
半円形


再び丘の麓におりると

古代ローマの別の神殿跡が


『ディアーヌの神殿』
と呼び習わされてきました


果たして
本当に『狩りの女神にして月の女神ディアーヌ』の為の神殿であるか
定かではありません


ところで
ここニームには
プロヴァンスの文化史上最大の文学者の一人の
生家があります

その文学者とは
プロヴァンスの強烈な太陽に焼かれた大地を
こよなく愛し
その土地で生まれ育った生活を極めて繊細な筆致で書き残した
『アルフォンス・ドーデ』
その人です



1990年にドーデ生誕150年を記念して嵌められた銘版

しかし
ニームは古代の遺跡だけの町ではありません

高速道路から街に入ってくるあたりは
新建築の施設が続々と作られて
新時代の街の顔を作り上げています

その中で
今や世界の建築界の大御所に上り詰めた
フランス人建築家『ジャン・ヌーヴェル』に街が発注した
集合住宅が
威容を誇っています


『ネマウスス』
と名付けられた集合住宅群

関空の一部も手がけた『ジャン・ヌーヴェル』
アルミニウムとガラスの魔術師

この集合住宅は
1フロアー型から
2フロアー型
3フロアー型
の住居を組み合わせた大型客船の様に

まるで町を建築にしてしまった
みたいな
集合住宅です

では
今回の街のご紹介はこれくらいにしましょう

次回は
ニームの一押しのホテルをお教えしちゃいます
お楽しみに

= = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 2 <マルセイユ の とびっきりのホテル・レストラン プティ・ニース>

2020-10-21 01:09:05 | 素晴らしき世界/フランス/グルメ
 ホテルのテラス



マルセイユで一番の
そして
フランス全国でもトップのレストランの一軒にあげられる
ホテルがあります

市街地ではないが
海岸線の住宅地で海の前
『プティ・ニース』
レストランが主役



シェフ「パッスダ」氏の名を冠して
正確には『ル・プティ・ニース・パッスダ』と言います



お部屋はモダンで快適


こんなだったり



こんな風だったり




これ
手洗い用のシンクではなく
大きなバスタブです





お部屋の窓から顔を出すと



こんなだったり
いたします

そして
肝心のお食事ですが


まず
メイン・ダイニングはこのような



それが
ディナーの時間はこうなります


昼間の写真とは逆方向で海側の窓は写真の右側


朝食は
別のもっと落ち着いたお部屋で
いただきます


お料理をご紹介しましょう
ある日の『デギュスタシオン(季節のお勧めコース)』


アミューズ・ブッシュ(突き出し)

から始まって
以下19品

















































↑上の皿の付け合わせ↓




ここからデザート








この手のレストランの「お勧めコース」では
デザート3品は定番

デザートの「オードブル」
デザートの「メイン」
デザートの「デザート」


『MENU  DEGUSTATION』
「その時期のシェフの創作全部お試しコース」
なので
一皿の量は非常に少ない

懐石料理みたいなものとでもいいましょうか


では
次回からは
プロヴァンスの真髄に迫りましょう

お楽しみに

= = = = = = = = = = = =
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東南フランス・プロヴァンスを巡ろう 1 <地中海と太陽と山とお花とミストラルの プロヴァンス>

2020-10-19 00:41:27 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
山岳地のラヴェンダー畑



一億年前から七千万年前にかけて
今のアフリカ大陸とユーラシア大陸とがぶつかり合って
もりもりもり
っと
押されて盛り上がったところが
『アルプス山脈』

モンブラン山塊(空路撮影)


ぶつかり合った反動で
両大陸が両側に少し戻って
メリメリメリ
っと
引き裂けたところが『地中海』


だから
地中海は浅い海なのです


南側のアフリカ大陸の熱気を溜め込む
湯たんぽ
みたいな海に沿っている南仏は
夏は強烈に暑く底抜けの青空
冬も寒くはない

そして
海岸を背にして反対側を見ると
そこは山岳地

例えば
ゼザンヌが20枚ほど連作した
『サント・ヴィクトワール山』
を側面から見ると


サント・ヴィクトワール山

高速道路からはこんな風に見える


紺碧の海の背後に
夏の強烈な太陽に焼かれた荒涼とした山岳地
強い太陽に育まれた色鮮やかな花々
そして
年に200日以上吹き付ける強風
『ミストラル』

それが
『プロヴァンス地方』
なのです


そのプロヴァンスを訪れるのなら最初に到着する場所は
マルセイユ
を除いて他にはないだろう


『マルセイユ旧港』

この写真は
旧港の入り口の高台のホテルのバルコニーから
写した

手前が港外へ通じる

フェニキア人が地中海貿易を独占しかかっていた頃
地中海世界の中ほどに出先の出張事務所の役割で植民して築いた拠点が
マッシリア(マッサリア)

今のマルセイユ

ちなみに
その後ローマ帝国がちゅ仲介の覇権を握り始めると
マッシリア防衛の拠点として
もっとイタリア半島に近い
ローマとの中間点に再度築いた拠点が
『ニカイア』

今の『ニース』

そのマッシシアの総督の娘に選ばれて
近くのガリア(今のフランス)の部族の息子たちの中から
婿入りして独立するとき
総督に与えられたのが『カンヌビエールの丘』

その頂上に
港を見下ろすようにして聳える教会がある

旧港から見上げるノートル・ダム・ド・ガルド(守護の聖母)バジリカ聖堂

この
マルセイユのランドマークは

1872年普仏戦争に敗北し
全土を2年間プロシア軍に占領された後
国民の愛国心の再度も覚醒を促す目的で建てられた

パリの『モンマルトルのサクレクール』
リヨンの『フールヴィエールのノート・ルダム』
などと同じ目的

ときは世紀末
やや「なんでもあり」で流行っていた
『ネオ・ヴィザンチン』や『ネオ・ロマネスク』の様式で
外観の造作は
ヴィザンチン
及び
その影響のあるロマネスク
に共通点がある


ノートル・ダム・ド・ガルド聖堂


内部もヴィザンチンのように
モザイクあり
フレスコあり
賑やかで派手派手しく
あたかも「築地本願寺」のごとし






要するに
イスタンブールの『アッギヤ・ソフィア』
コルドバの『メスキータ』
を足して
二で割ったような...


丘の頂上の聖堂のテラスから外海を見ると
島がある
海の中に立つ要塞のごとく

イフ島

この「イフ島」にある要塞が『シャトー・ディフ(イフ城)』

あの
『モンテクリスト伯エドモン・ダンテス』
『鉄仮面』
の構想の舞台となった牢獄に使われていた

2時間に1本ほど出ている
隣の大きい方の島と一緒に巡る連絡船で
15分ほどで到着できる

イフ島

上陸すると
売店兼カフェ・レストランが一軒あるだけで
それ以外は城しかない


イフ城

単純に
四隅の防御の拠点の巨大な丸い塔の間を
城壁で囲んだ
戦国時代特有の四角い城

中庭があり
周りの城壁の部分が各種の部屋や広間や武器庫など

その中の
城壁の上に登る階段の下の入り口に
『モンテクリスト伯エドモン・ダンテスの独房」
という小さな銘版あり

エドモン・ダンテスの独房への入り口


上に上がってみよう




二階部分は
内側で巡回できるように造られている

それぞれ
結構な知名人の独房後の銘版あり


城の中庭

真ん中に井戸がある

海上だが
島全体が岩なので
海底の深さまで掘れば真水が取れたのだろう



四つの塔のうち一つが一番高い
そこを登ると塔の屋上部分にでられる
見晴らしは最高




時間帯によって
到着してから帰りの船まで1時間半あることもあって
その時は
城の周りでも回って
カフェでお茶すれば良い

時期によっては
城の周りの雑草の中はカモメが産卵していて巣ごもり中
闖入者を追い返そうと
数百羽のカモメたちが一斉に奇声をあげて恫喝してくるので
ちょっと怖いけれど


マルセイユの街中自体は大したものはなく
薄汚れた旧市街を歩くと
アルジェの街を歩いているような錯覚すら覚える

そういえば
アルジェの市民はマルセイユからの植民者が多かった

旧港は昔は帆船
今はヨットとクルーザーと連絡線と遊覧船

それとは別に
小さな漁港もあるのです

ヴァロン・デ・オーフ港

両側に数十軒の漁師小屋が並び
小さな釣り船がぎっしりと舫ってある

ここにあるレストランは
マルセイユ名物の『ブイヤベース』の
本物が味わえる

街中のレストランでは
魚は冷凍か(特に観光客用の店)
魚市場からの仕入れだが

そこのレストランでは
目の前の漁師が
その日の朝に釣り上げてきた魚
だけで作るから「本物」

生きの良い「磯の小魚」がないと本物のブイヤベースはできない
言われてきました


街中の散歩は
あまりお勧めできない
治安が良くないから




このような
小綺麗な地区ならいいんですけどね



ただ
最近非常に興味深い博物館が二軒作られた


MuCEM
『ヨーロッパ・地中海文明博物館』

ヨーロッパと地中海世界の文明の関連性を
専門とする博物館


もう一軒は
『地中海世界考古学、地中海周辺古代文明博物館』



17世紀の「施療院」の建物を
完全リニューアルして
6000年の地中海文明圏の全てを考古学的に網羅

これらの博物館は必見です


さて
マルセイユでは
是非ご紹介したいホテル・レストランがあるので
それを
次回のテーマにしましょう

お楽しみに

= = = = = = = = = = 
【お願い】
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『サンティヤーゴの巡礼路』 4 いよいよピレネー越え 最後のフランス側の村<サン・ジャン・ピエ・ド・ポー>

2020-10-16 00:33:09 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
『サン・ジャン・ピエ・ド・ポー』上の門



4乃至5か所のフランスの町に集った全欧の巡礼者達が
延々を南西部ピレネー山脈を目指し
いよいよ
600mの高度差での峠越えという
路巡一番の難所をとってスペインに入る

その
最後のフランスの宿泊地が
『サン・ジャン・ピエ・ド・ポー』

ニーヴ川をお堀のように
城門をくぐると上り坂で上の門まで坂道の両側に
巡礼宿や土産物店が並ぶ

ニーヴ川

高い塔が街に入る城門(下の門)


では
いよいよ門をくぐって村に入ろう


入ると
直ぐ右に教会が



城門の外の区域も含めて
1500人くらいしか住んでないはずの
特に
城門の中の旧市街は
!00人ほど住んでいれば出来過ぎ
みたいな村の教会にしては

内部にとても広い二階席と三階席があった




さすがに
巡礼の時期は毎日大勢の巡礼者が
泊まっているのだろう


一本道の上り坂




巡礼宿
巡礼用民泊施設
の間に
わずかのレストランとお土産屋が混じっている



「巡礼宿」の看板

こんなのも





坂道を半分も登ると結構急勾配になる

振り返ると


村の外の山野が見晴らせる

そして


こんなに可愛い巡礼者を発見!



お供を連れて
いざ出発


そして
一番上までくると
静かになる






坂道の一番上まできたら
上の門を出ると村外




上の門を出た外側の右側の壁に
写真でも見える
銘板がはめてあった




『サンティアーゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 フランス側』
のユネスコ「世界遺産」登録の銘板でした

出発地点は銘板を飾るのが難しいので
「ここが終点」
ということで


そして
上の門の外側には
かつての要塞の跡が残っている





さて
またここから『おまけ』


下の門の外に一軒
食事が美味しいことでで有名なホテルがあります

『レ・ピレネー』

なんと
ここ40年間に渡って
祖父息子孫と
三世代のシェフが一度も評価を下げられる事なく
一つ星を守ってきたという
特筆に値する名店なのです




外見は極めて田舎風

お部屋も
快適だけど平凡










それでレストランですが
表通りに面して明るい席と


奥には間接照明の
静かな席も



そして
ミシュランが40年間星を贈り続けてきた料理
ですが

まず
これまでの様に『シェフのおすすめコース』

オマールを使った前菜


手長海老の天ぷら風



ホタテ


子羊のコートレット


鴨のオレンジソース


デザート
その1



その2



そして
この店の名物デザートが


手焼きのマドレーヌ
これは40年間変わらない定番デザート


その他
ア・ラ・カルトで何品か

編笠茸の前菜
もちろん季節限定です



手長海老の一品


そして
別ヴァージョンのマドレーヌ
イチジクのジャムを添えて



さらに
30年前の同じデザート
これはいちごジャムと共に




パリからここまで
1000km

いよいよ
このサン・ジャンからスペインの道を800km

早い人で35日
遅ければ65日かかってサンティアーゴまで歩きます

その為にも
ここでおいしい料理で英気を満たすのは
決して「バチあたり」ではないと
思います...

思いたい


ちなみに
巡礼者は一年中います

7月下旬の聖ヤコブの大祭に向けて
の時期が
当然人数はうんと増えますが

大祭とは関係なく

自分が来れる時期に来て
歩くことが大切なのです

= = = = = = = = = = = = = 

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『サンティヤーゴの巡礼路』 3 巡礼路は実はパリから始まる

2020-10-14 02:01:41 | 素晴らしき世界/フランス
『ル・ピュイ・アン・ヴレー』の町の俯瞰



サンティヤーゴはスペイン語『聖ヤコブ』
仏語では「サン・ジャック」

言い伝えによると
12人の弟子の一人ヤコブの遺骸が乗った船が
北西スペインの海岸に流れ着いた

地元の人々は
その荒涼たる原野「コンポステラ」に葬った

その土地を
サンティヤーゴ・デ・コンポステーラ
と呼ぶようになった

中世になると
聖人が葬られた『聖地』を詣でて
誕生後に今日まで犯した過ちを雪がれたいと願って
全欧から巡礼が訪れるようになった

カトリックの暦では7月の末が『聖ヤコブの日』
その日に
サンチアーゴの大聖堂で大々的なミサが執り行われる

その日の前日までにたどり着けるように逆算して
仏国内四箇所(五箇所のルートもある)に巡礼者たちが集まった

パリ
ヴェズレー
ル・ピュイ・アン・ヴレー
サン・ジル(アルル)





パリの集合出発は『サン・ジャック・ド・ブッシュリー教会』
教会自体は19世紀に取り壊されて
現在は鐘楼だけ残っている

『サン・ジャックの塔』


パリからサンティアーゴまで全長2063km
120日程かけて歩く

シャルトル
トウール
ポアティエ
ボルドー
等を経て
仏最後の札所『サン・ジャン・ピエ・ド・ポー』まで
途中の
教会や修道院に立ち寄ってミサに与り
そこが所有する聖遺物にお参りしながら

シャルトルの『ノートル・ダム大聖堂』

ゴシック初期の
技術が完全に確立する前に完成している

ここに
ローマ・カトリック世界でも最も重要な聖遺物があるのです

『聖母のヴェール』


『聖母マリアのヴェール』

由来も来歴も確り残っている
信じるか信じないかは「イワシの頭」
宗教なので



トウールの『サン・ガシアン大聖堂』

最後西側正面が完成する頃には
すでに16世紀
従って鐘楼の先端部分は「ルネサンス」の様式



ポアティエの『ノートル・ダム・ラ・グランド聖堂』

ポアティエの町は
大聖堂よりこの教会の方が重要
12世紀
ゴシック以前の「ロマネスク」様式で
ほぼ創建当時から改築されずに非常に美しい姿で残った

「ノートルダム・ラ・グランド(大きな聖母)」
という名の小さな教会



後ろ姿



二番目の集合出発地点は
『ヴェズレー』

丘にへばりつく中世の村に支えられて
丘の頂上に残る
やはりロマネスクの名刹で名高い巡礼地

『サント・マリー=マドレーヌ・バジリカ聖堂』

「マリー=マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物
を持ち
巡礼者たちを集めてきた

『マグダラのマリアの聖遺骨』

三人の天使がかつぐ
円筒形のガラスの筒の中に収まっている

その他この教会は
初期キリスト教時代の古代ローマ寺院を聖堂に転用していた名残の
正面扉口を入ると本堂の前の「前室」を持つ教会建築を踏襲している

その
二つの扉口の彫刻群が世界的に名高いのです

正面扉口の彫刻


二番目の扉口の彫刻


ヴェズレーを経つと
リモージュ
ペリグー
などを経由してゆく



三番目の起点は
『ル・ピュイ』

他にも同名の街があり
ここは「ヴレー地方」なので『ル・ピュイ・アン・ヴレー』


ヴェズレーの『ノートル・ダム・ド・ラノンシシオン大聖堂』

『受胎告知のノートル・ダム』
町中で建物に取り囲まれて全景の写真など撮れない位置にある

大聖堂の中で巡礼出発を祝うミサに望んだ後
巡礼者達は西側正面の出口を出るために大階段を下ることになる

上の写真の突き当たりの階段を上ったところが
大聖堂の出口で
出発の大階段を出たところなのです



この入り口から中を覗くと





こうなってる
格子戸の中もずっと階段


この町には
尖った丘が二つあり
大天使ミカエルを祀った『サン・ミッシェル尖頂礼拝堂』
「赤いマリア像」
とが町人を見守っている
(カバー写真)

ここから出発すると
ローデス
フィジャック
カオール
フランス南西部の名だたる町々を経てゆく


ローデスの「ノートルダム大聖堂』

ゴシックという
北フランスに発した仏王室の権威から生まれた様式は
基本的構造には取り入れられたものの
外形の繊細さ等にまでは
影響を及ぼし切れていないことがよくわかる


『カオール』の町は
同じ大司教でも高位の権力者だった

馬蹄形に流れる「ロット川」に包まれるように町があり
そこには
素晴らしい要塞橋が残されている



建築家が
悪魔を騙して難しい架橋工事を成し遂げた
騙された悪魔は
橋の塔の一つの一番高いところにへばりついて
その橋を架けた事を恨んでいる

という伝説がある『ヴァラントレ橋』は
別名『悪魔の橋』






四番目の起点
『サン・ジル・デュ・ガール』

プロヴァンス地方の有名な町「アルル」の郊外
だから
集合出発地をアルルとしてある文献もある

今は存在しないサン・ジル大修道院の
ロマネスクの素朴だが素晴らしい修道院聖堂『サン・ジル』が
残っている

『サン・ジル大修道院聖堂』


この町から出発すると
モンペリエ
トウールーズ
など
北部政権のカペー王朝の進出に
最後まで抵抗した
南部フランスの有力諸侯たちの中心都市を経由する


トウールーズは
「赤い町」
と呼ばれてきた
建築用の石材が取れず建物がレンガで造られたから
町並み全体がレンガ色

『サン・セルナン・ド・トウールーズ・バジリカ聖堂』正面

正面はそっけない
南仏最大の大貴族の一人の領地の大聖堂にしては
少しも大規模にも見えない

しかし
何やら砦のように感じませんか?

ちなみに側面からは
この教会が非常に大規模であることがわかります



建築工学的にも
技術的にも
あまり大規模な建築物が建てられない「ロマネスク」様式では
フランス最大の大教会なのです

そして
後ろ姿が最高に美しい



ところで
『アルビジョワ十字軍』を含めて
ラングドック(フランス・カタルーニアを含めてフランス南西部)地方
フランス王国を確立し全土を王権の支配下に置きたい
北部フランス「カペー王朝」の干渉を繰り返し受けていた

そこで
通常町で一番大規模な建造物である教会に砦の役も持たせる
「武装教会」
という形式が広まったのです


例えば
『アルビ』という町の大聖堂はその典型

アルビの『サント・セシル大聖堂』

十字平面図の頭の方からの眺め
まるで要塞そのもの



全景

本来なら正面入り口がある西側先端は
砦の天守の役を持ち
扉口はない


パリの『ソルボンヌ』に次いで
中世から医学で名高いフランスで二番目に古い大学があり
ノストラダムスも
そこで医学を修めた
『モンペリエ』のカテドラルも

モンペリエの『サン・ピエール大聖堂』

やはり「武装教会」


この
サン・ジル(アルル)発のルートは
途中でピレネーを越える分岐路もあるが

以上四路は
最後は一つにまとまって

ピレネー山脈西端の一番低い峠(1000mほど)を越えるために
山麓の『サン・ジャン・ピエ・ド・ポール』
フランス国内の最後の夜を過ごした


そこは
次回でご案内しましょう
= = = = = = = = =
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『サンティアーゴの巡礼路』 2 快適で素敵な 罰当たりなホテルもある 

2020-10-12 00:20:24 | 素晴らしき世界/スペイン/ホテル
プエンテ・ラ・レーヌ『エル・ペレリーノ』



巡礼たちは
フランス国内5カ所の町に
7月末の『聖ヤコブ(サン・ティヤーゴ)大祭』に
間に合うように
逆算して全欧から集まり

スペイン最北西端
サンティアーゴ・デ・コンポステーラを目指して
歩き始める

85日間とか
115日間とか
かけて


古道は
現在は人の行き来には使われていない様なところもある
その際は
要所に巡礼者向けの標識が

『古道の道標』

黄色の矢印の中に『帆立貝(サティアーゴ)』

ちなみに
フランス側の矢印は青





ピレネーを超えて2日目か3日目
スペイン側バスクの大都会
牛追い祭り『サン・フェルミン祭』で名高い
「イルーネア(カタルーニア語でパンプローナ)」を超えて
20km程で
『プエンテ・ラ・レーナ』という村がある

直訳して
『女王の橋』村

原語には「の」もないので
『女王橋』村


古の時
橋は極めて戦略的重要な要素であり
住民が勝手にかける事は
許されていなかった

おそらく
ある時代(11世紀頃)の女王が
巡礼者たちがアルガ川を渡る事ができる様に
ここに橋を架けさせた事による
村の発祥とその名の由来であろう



ロマネスクの時代建造様式を伝える
美しい橋だ


村には
ビールとコーラとミネラル・ウォーター
ポテチとガム
パン
その他20種類ほどの食料品を商う小さな店が一軒

あとは「バール」が二軒あるだけの
文字どおり何もない村だ

しかし
この村を通り抜けるところに

快適そのもののホテルがあるのです


観光名物になりそうな物は橋以外に何も無く
巡礼だけで知られる
こんな小さな村のはずれに

巡礼者たちの宿とは比べ物にならない
贅沢な
罰当たりなホテルなのです

巡礼路に行ってみたいが
歩く気はない
高級車でゆったりと訪れれば良いという種類の
罰当たりなお客様専用の




何の看板も無く
「レストラン」という表示も
車を走らせていると見落とす可能性の方が高い


では
罰当たりになりきって
中を訪れることにしようか




せまあーい玄関を入ると
せまあーいロビーがあり
小さなレセプション・カウンターがある

その先の小さなくぐりを抜けたところ

その奥は廊下



さらに進むと
情緒満点の木製の階段あり





半分登ると



踊り場に当たるところが
小さなパブリック・スペース

テーブルやら
椅子やら


もう半分登ると


書棚やら

「自由にくつろいでおくれ」
と語りかけてきまする

その先には



ソファーも

こんな空間があちこちに配置されてます


二階建ての建物なので
客室も地上階と二階にしか無い

上の回がメイン

自分の部屋のドアを入ると
中廊下


梁など
ろくにカンナもかけてなさそうで
白塗り




中廊下
を抜けると
クローゼットにソファー

右端の黒い四角いのは金庫
その下は冷蔵庫



ベッドの側にも
別のデザインのソファー

そして
中廊下の内側がバスルームでした



ドアも白木
タイルは超カラフル



便器はレトロ



バスタブと
その周りの壁は
淡いクリーム色のタイルで

暖かみを感じとっても落ち着ける


レストランやバーは
当然地上階



バーは
酒棚があるだけで
レセプションからバーマンを読んでもらう

共通部分は
全てに狭い

しかしそれは
自分の家でくつろいでいるような
そんな雰囲気になるような配慮での設計なのでしょう

でも
レストランは割と広かった


右側にも広がってます


そして何と
まるで修道院のようなアーケードの中庭があり

その中庭に面しているのです

そして
朝食も同じ場所だった



外が明るいので
あえて朝食時間は中を暗くして

テーブルの一点だけ
スポットライトが当たってる



朝食を終えると

当然中庭に出てみたくなる




な な 何と
プールがあるぢゃないか!

朝食の時に見えてますけどね(^^)





左の屋根の下がレストラン




プールって
一体いつ利用するの?

広間は
巡礼路を歩いてるんと違うんかい!?


罰当たりなホテルでしょ


建物も
内装も
あらゆる部分が素朴ですが

これ
先ほども触れたとおり
計算され尽くした配慮なのです

まあ
歩き始めてしばらく経って
くたくたになったところで
こんなホテルで1日寛ぐ完全休養日にあてて

また
翌日から頑張って歩きましょう
『サンティアーゴ・デ・コンポステーラ』
まで!

= = = = = = = = = = = = = 
ご意見やご感想を「コメント」から是非お寄せください。
お待ちしています!



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『サンティアーゴ・デ・コンポステーラ巡礼路』 1  一つの主邑 <ブルゴス>

2020-10-09 21:55:34 | 素晴らしき世界/スペイン
ブルゴスの街の中央門



『サンティアーゴ・デ・コンポステーラ巡礼路』は
バスク
レオン
カンタブリア
アステリウス
スペイン北細部を西に横切っていく


巡礼路
といえばカテドラル(大聖堂)

ブルゴスの大聖堂といえば
サンティアーゴへの巡礼者たちの大きな札所





サンタ・マリーア・デ・ブルゴス大聖堂


13世紀前半に建立が始まった時
時の司教がフランスへの旅から持ち帰った設計図や資料を元に
最先端技術であったゴシック様式で
建設が始まったそうな

その後
15世紀の司教が
前任地バーゼルから持ち帰った
北方建築のドイツ・フランドル様式のゴシックで
伴ってきたフランドル人の工人たちで
増築がなされたという

正面の二つの塔の尖塔部はその時に付け加えられたもの




その尖塔のおかげで
24mm程度の広角レンズでは
全景が画角に収められない

ちなみに横からの全景も
結構広い広場であるにもかかわらず
手持ちのレンズでは全景は収まらなかった


通常の西側正面から入らず



側面
南翼廊から中に入る

十字架型平面の十字架頭部「内陣」の
高位聖職者と聖歌隊の席が
細工が素晴らしい




「旧約聖書」と「新約聖書」の
情景が
絵物語として克明にレリーフされている

正面主祭壇の背面画(ルターブル)も
見事な金張り木製レリーフの組み合わせ



幾つかある小祭壇
見事なルターブルを持つ

  



十字架型の平面図の交差部が
ランテルヌ(明かりとり)の大クーポラ(円蓋天井)







そして
他にも幾つかある小礼拝室の一つも

見事なゴシックの透かし天井ヴォールトは
スペイン(とポルトガル)の教会建築の
お約束



そこの小祭壇のルターブルも
必見



16世紀ルネサンス期の階段も
美しい
手すりの鋳鉄の細工はフランス人の親方の手になるものだそうだ




その階段下に
銀細工の見事な台車が
ひときわ皆の目を惹きつけている


毎年
聖週間のマリア像のパレードの山車に使われる

スペインの教会はどこも
必ず
彩色され豪華な衣装を身に纏ったマリア像が
大切に守られている

複数あるときは
必ず1体は涙している

セヴィリアの『マカレナ』と呼ばれる涙のマリア像が
特に名高い

毎年復活祭の前の一週間
「最後の晩餐」から「逮捕」「処刑」「復活」までの
日々を一週間にまとめて『聖週間』と呼び

町内の教会のマリア像を着飾らせて
町中を練り歩く




修道院部分のある部屋の『ムデハル様式の天井』

1492年
グラナダ陥落で全イベリア半島をキリスト教徒スペイン人が取り返した時に
北アフリカに逃げずに
スペインに帰化して残ったイスラム教徒の職人たちが
カトリック王家のために働いて作った城や宮殿の装飾を
『ムデハル』という


そして
ここ『サンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂』の
特筆すべき宝物が

この
『マグダラのマリア』


この作品は
長らくレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジアンペトリーノ作
と言われてきたが

もしかするとレオナルド・ダ・ヴィンチ本人の作か
少なくとも
レオナルドの筆もかなり入っている
最近の研究で言われるようになった


聖堂内には
古の
高名な司教たちや国王の墓もあるが

特に注目すべきが


『エル・シド』とその妃の墓碑

彼は
ブルゴスの郊外で生まれた

彼の偉業をたたえる
古い銘板もあった



ちなみに
内部に飾られていた装飾の中に
「巡礼者」のシンボルの一つで必携の「ひょうたん」があった

水をいれ
杖の上部にくくりつける瓢箪

そして
帆立貝をブローチのように胸に止める

それが
巡礼者たちの身分証明だった

中世から近世にかけて
この姿で戸口を叩かれたら
夕餉を振る舞い
一夜を過ごすベッドを提供しなければならなかった






外に出ると

大聖堂横に広場に
巡礼者を表す銅像が座っていた




観光客や巡礼の旅人が交代で
同じベンチに座り
彼の右腕に抱かれる様ににして
写真を撮っている

『サンティアーゴ巡礼路の札所』ブルゴスらしい
微笑ましい光景だった

= = = = = = = = = = = = = = =
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スペインのバスクに行こう 3 美食の里で口福三昧 <ドノスティアで 最高峰のレストラン二軒>

2020-10-07 20:40:39 | 素晴らしき世界/スペイン/グルメ
スペイン・ドウエロ川地方の銘酒『ペスクエーラ・グラン・レセルヴァ


スペイン・バスクの景勝地
『ドノスティア』
(カタルーニア語表記サン・セバスティアン)
昔から二軒のライバル店あり

一軒は
町の住宅地の只中『アケラーレ』
もう一軒は
町を出た郊外海を見晴らす断崖の上の『アルザック』

どちらも仲良く
長らくミシュランの3つ星に輝き続けている


9月28日の記事でお約束した通り
ご紹介してみよう

今回はある日のお勧めメニューを
コメントなしで



  【AKERARE  アケラーレ】












































【ARZAK  アルザック】




















































奥の角に大テーブルが設えられていたら

たまたま
後から大人数のグループが来た
普段
このようなテーブルは無いはず




ディナーが進むうちに
海側の全面ガラスの窓の外は
刻々と
色彩が移ろって
そちらもご馳走だった




見せられるだけは
フラストレーションだったかもしれませんね

でも
幸福眼福
と申します

今回は目で楽しんでいただいて

次には
現地に行って
お口を楽しませてあげてください

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こちらのサイトも御覧ください 
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パリで美術三昧 <ジャックマール・アンドレ美術館 3 ターナー特別展 水彩画>

2020-10-05 00:27:34 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『山の峠』1833



ターナーの水彩画は
実に独特の境地を切り開いている

油彩のタブローと同じように
「風景画」に特化し
闇と光
霞と光
古典的アカデミスム と 革新的破壊的無秩序

とが対をなして交互に現れる

冒頭の「アイキャッチ」フォトは
アカデミスムではない方の側

もちろん

油彩と違って
複数の色の塗り重ねはやらない
色が濁ってしまうから

だから
表現の技術は違う

しかし
非現実的な光の捉え方は
油彩と同じ


『テームズ河とキュー橋』1805



『テームズ河 クィルウォール付近』1808

この辺りは
アカデミスム

『橋とヤギの群れ』1806〜07(銅版画)




『シヨン・ハウスと アイルワース近くのキュー宮殿』1805


だが
一方では

『ゴールデイル・スカール』1808

この
岩の渓谷の水彩になると
かなり自由な光の使い方になっている


『エディーストーンの灯台』1817



『サン・ジオルジオ・マッジョーレ教会』1819



『スカルゴトウ』1825



マルリー・シュー・セーヌの合流地』1829〜30



『ルーアンの時計塔』1832



『カーンナヴロン城』1833



『ホワイトヘヴン、カンブリア』1835〜36

沖合の海上に降る雨
このパターンはターナー好んで用いて
繰り返し描いた



『ハーレック城』1834〜35



『バンブール城、ノーサンバーランド』1837


アカデミスムの手法の作品と
具象を感じない光と色彩の混交の作品と

混じり合って発表されているいのは
前者が
主に後援者からの注文制作で
後者は
展示会への出品目的で描いた自分のための作品
だったのかもしれない



『虹の下のアーレンブライシュタイン』1840




『レマン湖 ローザンヌ付近オーシュ岩と共に』1841



『リッシュナウ、上ライン河』1842〜43



晩年に近づくと
「夕景」に注力してゆく

『ヴェネチア、潟の上の日没』1840


先駆けは
すでに1830年になる前から有った

『ペッチハウスのテラスから見た庭園への日没』1827

これはまだ写実性が見られる

こうなると....

『日没』1845

具象は何も見られない
光と
光がもたらす色彩の集合だけ

『黄色い日没』1845


そして
夕陽があるなら
朝日もあるはず

『日の出、岬の間から戻ってくる漁船』1845


ここまでくるとお分かりですよね

『印象、日の出』クロード・モネ(1872 )



『ラヴァクール付近、セーヌへの日没、冬の効果』モネ(1880)


いかがでしたか。


※ 以下おまけです ※

クロード・モネ『ロンドンの国会議事堂』連作


『ハウス・オブ・パーラメント(国会議事堂)』1900〜1903


『国会議事堂 日没』1902


『霧 ロンドン 国会議事堂』1903


『国会議事堂 日没』1903


『霧中の国会議事堂』1903


『国会議事堂 ロンドン 霧の効果』1903


『国会議事堂 かもめ』1903


『ロンドンの国会議事堂』1904


『かもめ テームズ河と国会議事堂』1904


『国会議事堂』1904


『国会議事堂 日没』1904


『国会議事堂』1904



『ロンドン 国会議事堂 テームズの水面の反射』1905




※※ 更におまけ ※※

ジョゼフ・ウイリアム・ターナー
『炎上する国会議事堂』
三点


『1834年10月16日 炎上中の上院と下院』1934


『炎上する国会議事堂』1937


『炎上する国会議事堂 1834年』1934 水彩


さて
次回はまたスペインに戻りましょうか?
お楽しみに

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パリで美術三昧 <ジャックマール・アンドレ美術館 2 ターナー特別展>

2020-10-02 00:39:22 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『ヴェネチアの祝祭』1845 (晩年の作)



ヨーロッパ絵画の『朦朧体』の元祖
ジョゼフ・ウイリアム・ターナーも
まだ若い頃は
アカデミックな(美術大学風の/宮廷風の)絵を描いていた

『アエネアスとシビル』1798
ターナー23歳の作


その後の10〜15年間ほどは裕福なパトロンに恵まれ
順調に「大向こう受け」するアカデミスムに基づいた描き方で
作品を次々と発表した

『ペンブロックシャー、キガレン城』1798〜90



『リッチモンドヒル丘と橋のある風景』1808


しかし

『ハンニバル軍のアルプス越え』1812

このように
1810年に入ると既に
闇を表現の主体にした朦朧とした独特の空間表現も
始まっていた



『美しい岩の上の灯台』1819

しかし30歳代ではまだまだこのような
具象に則った劇的な表現が多い

その後は
闇の中の光の扱いより霞がかった空間を透しての光の具合へと
変わってゆく

『モルトレイク湖の湖畔のテラス』1827


『ネミ湖』(1827〜8)


『黄金のブランチ』1834


『ヴェネチア、ドージュ(元首)の船出の式典』1835


『ヴェネチアの波止場、元首の宮殿』1844


『イルカのいる荒れた海』1835〜40



『岸辺に近くヨット』1844〜45



『墓参』1850

ジョゼフ・ターナー
亡くなる前年の作品


「光とは
明るいか暗いかではなく
今目にしている色彩こそが今この時の光の効果であること」
(クロード・モネ)

という発見から
『印象主義』という表現方法を編み出したモネは
中央の画壇からは批判され無視され
もがいていた時

イギリスに渡って
ターナーの作品に触れて
自分がやっている事は間違ってはいなかった
自信を取り戻した。


『紅の朝日』1830〜40頃

この
ターナーの水彩画に
モネが大きなインスピレーションを得たことは
感じ取れる方はお分かりになるはず


ターナーは油彩も素晴らしいが
「水彩画」
にも
また特に秀でていた

次回は
その水彩画をご紹介することにしよう

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