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好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

パリで美術三昧 < ガブリエル(ココ)・シャネル回顧展 後編 3/3 > パリ市立モード博物館/ガリエラ宮

2021-08-04 00:16:09 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『64年 65年 69年 の作品』



第二次世界大戦『欧州大戦』(1939〜1944)終了後
ガブリエル・シャネル
1945年モード界復帰第一作

『フォーマル・ドレス』1945年春夏
アイヴォリーのコットン・テュール  金糸刺繍
ゴールド・ラメのホワイト・オーガンジー

その前に
一度戦前の作品をもう一度ご紹介しておこう

左『イヴニング・ドレス』1933年春夏
黒のシルク・テュール  アイヴォリーのシルク・ポンジィ(絹紬)

中「イヴニング・ドレス」1929年から30年秋冬
ブラックのシルク・テュール  ブラックのシルク・クレープ
アイヴォリーの機械編みレース

右「イヴニング・ドレス」1930年
ブラックのシルク・レース




『イヴニング・ドレス』1954
シルク・テュール  黒刺繍糸で縁取り刺繍

『イヴニング・ドレス』1957年から58年秋冬
赤のシルク・ヴェルヴェット  黒シルク・シフォン

『カクテル・ドレス』1959年春夏
黒のドグニン・レース




『ブローチ』1959年

『カクテル・ドレス』1959年春夏
黒ドグニン・レース


右『イヴニング・ニュース』1955年春夏
赤シルク・モスリン

中『イヴニング・ドレス』1970年から71年
赤シルク・モスリン


左『ドレス』1966年から67年秋冬
黒のシルク・モスリン  黒糸刺繍のアップリケ


『映画衣装』1961年
黒シルク・クレープ 黒タフタ
女優デルフィーヌ・セリグが
1961年の作品『去年マリエンバードで』で着用した衣装


『映画衣装』1961年
ゴールド・ラメ
同じくデルフィーヌ・セリグが「去年マリエンバードで」で着用



『イヴニング・ドレス』1957年から58年秋冬
黒シルク・ヴェルヴェット  黒シルク・ガーゼ

『ドレス』1964年
黒のコットン・クロッケ(膨れ織り)  黒のオーガンジー

左『テュニックとスカートのアンサンブル』1960年春夏
黒のシルク・クレープ  黒のラレックス糸のラメと黒シルク・コード  金メッキメタル

中『ジャケット、スカートとブラウスのテーラード・スーツ』1961年から62年秋冬
黒のセロファン・ヴェルヴェット  アイヴォリーのデュシェス・サテン
黒のガラリス

右『ドレス』1963年から64年秋冬
黒のパイエット・ビーズで総刺繍したシルク・テュール


女優「ロミー・シュナイダー」が着用したもの


『カクテル・ドレス』1961年から62年秋冬
ブッコル社製「フロッシュブリーユ生地」  黒のナイロンとセロファンのテュール
黒ラッカー仕上げのサテン・リボン

『ドレス』1961年から62年秋冬
ゴールドとシルバーのラメの膨れ織り

左『ドレス』1960年
アイヴォリーのコットン・テュール  コットンとシルクの金糸刺繍  金ラメ
ホワイト・オーガンジー  アイヴォリーのシルク・クレープ

右『スーツ』1962年から63年秋冬
ゴールド・ラメ  アブサン色シルク・オットマン(横畝織)

『イヴニング・ドレス』1964年から65年秋冬
黒のモール糸とラレックスの変わり織  赤シルク・ヴェルヴェット


左『イヴニング・ドレス』1967年から68年秋冬
ナイロンの網細工  ホワイトの捻り織レーヨン  虹色セロファン クレープ
モスリン  アイヴォリーのシルク・シフォンとシャルムゥーズ

右『イヴニング・ドレス』1967年から68年秋冬
ネイヴィのシルク・クレープ  淡青のシルクのモスリンとタフタ

そして1960年に入って
いよいよ「シャネル・スーツ」が登場する

  
 『スーツ』1961年から62年秋冬
ピンクのウール・ジャージィ  ルラックスとナイロンのラメ
ブッコル社の『ムスタファ生地』

1960年代に入り
ゴールドのラメを多用するようになって
ゴールドが夜の衣装限定から昼にも身につけられるようになった
「ムスタファ」という生地が
メタリックな光沢を備えてゴールド色と」方向性が一致し
1965年からは
小粒の人造パールで縁取ったボタンや「ダブル C」のボタンも登場する

『スーツ』1961年から62年秋冬
ウール・ツイードにゴールドのメタリック糸  フランボワーズ色のシルク・ポンジェ(絹紬)

もともと
ここ「パレ・ガリエラ」には『ガブリエル・シャネル・ギャラリー』という
彼女に捧げられた名前の付いたギャラリーが地階にあるのです


そこに
今回の「特別回顧展」でも60年代以降の「スーツ」が
一堂に会しておりました


1950年台後半にはすでに「雛形」は存在していた

『スーツ』1958年から59年秋冬
レジュー社のフレック(細かい斑点)の茶と白のツイード  金メッキのメタル

そして発展型が次々と登場してゆくこととなる


『スーツ』1959年末
オフ=ホワイトの膨れ織りウール・ニット  ネイヴィの飾り紐の縁取り
モナコ大公国『グレース大公妃』が着用されていたもの

左『スーツ』1960年から61年秋冬
ビュール社製白ウール・ニット  ネイヴィのウールニットで縁取り シルク・ポンジェ(絹紬)  金色メタル

中『スーツ』1963年から64年秋冬
アイヴォリーのウール・ツイード  アイヴォリーのシルク・ポンジェ  アイヴォリーとネイヴィのウールボカシ染め飾り紐で縁取り

右『スーツ』1959年末
ベージュとプルーン(赤紫)のツイード  プルーンの縁取り  金色メタル
モナコ大公国『グレース大公妃』が着用されていたもの

『スーツ』1961年
細糸織りツイード  グロ=グラン(絹の畝織り) ネイヴィの組紐フケシア
金メッキのメタルとイミテーション・パール
ベルギー王国『パオラ王女』が着用されていたもの


『スーツ』1961年春夏
ボカシ染め細糸織りのツイード  ネイヴィの飾り紐付き赤のグロ=グラン(畝織り)


『ジャケットとスカート モダン・ブラウス』1961年から1962年秋冬
多色フレック・ツイード  黒のグログラン  

『スーツ』1962年春夏
ベージュのツイード  黒のシルクの縁取り


『ドレス』1962年から63年秋冬
白のコットン糸でキルティング縫い目を入れた黒のウール・ニット  金色メタル

『スーツ』1962年から1963年秋冬
黒シルク・ヴェルヴェット  黒のシルク・サテンのリボン  金色メタル


『スーツ』1964年から65年秋冬
フレックのベージュのツイード  金メッキのメタル  ピンクのシルク・クレープ・ド・シーン

『スーツ』1964年から65年秋冬
フレックのベージュのツイード  金メッキのメタル  ピンクのシルク・クレープ・ド・シーン

左『ジャケット、ブラウスとスカートのスーツ』1964年
白とネイヴィのチェック柄ツイード  ネイヴィーでプリントした白シルクのテュイル

中『ジャケット、スカート、シャツとタイのスーツ』1969年
ネイヴィと白のチェックのウール・ニット  白コットンのポプリン  黒のシルク

右『スーツ』1965年
ネイヴィでプリントした千鳥講師の白のシルクのクロッケ(膨れ織り)


『スーツ』1964年から65年秋冬
オフ=ホワイトのツイード  ネイヴィと赤のウールでブレード


『スーツ』1965年から1966年秋冬
ネイヴィのツイード  膨れ織りの赤のシルク  ネイヴィのガラリス  金色メタル

『スーツ』1968年春夏
ネイヴィとピンクのボーダー柄プリントのシルク・テュール
女優『メレーネ・デートリッヒ』が着用したもの

『ジャケット、スカートとベルとのスーツ』1970年
マレスコット社社製ファンタジー(変わり織り)アイヴォリーのウール・ジャージイ

『ジャケット、スカートとベルトのスーツ』1970年
マレスコット社黒ファンタジー・ウール・ジャージー
女優『マレーネ・デートリッヒ』が着用したもの

コートもあります

まず1950年代のもの


『コート』1954年春夏
アイヴォリーの広幅織りウールとシルク・クレープ  真珠貝

そして60年代に入る

『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
アイヴォリーのブックル・ツイードとシルク・クレープ  金色メタル

『コート』1961年から62年秋冬
黒の膨れ織りシルク  白のミンク  金色メタル


『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
赤のウール  ラズベリー(赤紫)のキルト模様シルク・タフタ

『ドレスとコートのアンサンブル』1962年春夏
ネイヴィの広幅織りウール  アイヴォリーのシャンタン


『ドレスとコートのアンサンブル』1965年から66年秋冬
ネイヴィのツイード  赤の幅広織りウール  金色メタル
  
『コート・プリッセ(毛皮月コート)』1966年から67年秋冬
チェック柄行き浮き出し織りの黒ウール  刈り込みビバーのファー  黒ガラリス  金色メタル

変わり種も

『ドレスとケープのアンサンブル』1968年から1968年
ゴールドのクロッケとラメ  ゴールドのシルク・オーガンジー  メタルと螺鈿

この項
字数が足りませんのでここまで
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想をお寄せください
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パリで美術三昧 < ガブリエル(ココ)・シャネル回顧展 中編 2/3 > パリ市立モード博物館ガリエラ宮

2021-08-02 00:42:22 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Palais Galiera/Musée de la Mode de la Ville de Paris』



前回に引き続き「シャネル回顧展」中編です

1920年代に織物生産技術が進歩し
フランスの織物メーカーが新趣向の布地の生産を始めた
シャネルはそれらの業者と連携して
女性モードに新素材で新しいラインを作り出して行った


『コート』1918年
黒シルク・サテン  アイヴォリーの絹糸でポアン・アヴァンセ刺繍
茶の毛皮





『コート』1922年
クレープ地に多色絹糸と金糸のポアン・ド・シャテーニュ刺繍
現代的な毛皮

左『ドレス』1922年から1923年
黒のシルク・クレープ  黒玉ビーズの刺繍




右『ドレス』1922年
黒のシルク・シフォン  黒玉ビーズの刺繍



『ドレス』1923年
加工した黒のウールと銀糸  黒のポンジー(絹紬)





左『イヴニング・ドレス』1929年から30年秋冬
ブルーのシルク・テュール  ファンタジックなブルーのスパークリング刺繍

右『イヴニング・ドレス』1938年から39年秋冬
黒のシルク・テュール  黒のスパンコール


『アンサンブル』1937年から38年秋冬
クロビーズで総刺繍したシルク・テュール  アイヴォリーのシルク・モスリン
アイヴォリーと真珠色のシルク・レース
アメリカのモード誌「ヴォーグ」編集長『ダイアナ・ヴリーランド』が着用したもの


右『イヴンング・ドレス』1938年から1939年秋冬
ミッドナイト・ブルーのシルク・テュール  金糸の刺繍




左『イヴニング・ドレス』1939年
ミッドナイトブルーのシルク・テュール  ミッドナイト・ブルーとシルバーの菅ビーズ刺繍 






左『ケープ』1925年春夏
黒のシルク・クレープ  雄鶏の羽

右『ケープ』1925年春夏
アイヴォリーのシルク・クレープ  雄鶏の羽




左『イヴニング・ドレス』1927年春夏
アイヴォリーのシルクのクレープとフリンジ

右『イヴニング・ドレス』1926年から1927年秋冬
ミッドナイト・ブルーのクレープ・ジョーゼット  シルクのフリンジ






左『イヴニング・ドレス』1921年
ネイヴィ・ブルーのクレープ・ド・シーン  同系色のスパンコールとキラキラの刺繍
ミッドナイト・ブルーのポンジー(絹紬)  ロイヤル・ブルーのクレープ・ジョーゼット

中『ショート・イヴニング・ドレス』1927年から29年秋冬
ブルーのシルク・クレープにブルーの玉ビーズ刺繍

右『ショート・イヴニング・ドレス』1920年代

ガブリエル・シャネルは
1925年には時のウエストミンスター公爵に招かれて
チェルシーのエクレストンニアる公爵の城『Eaton Hall イートン・ホール』
での夜会に参加した




また
「マルセル・アシャー」の劇団とコラボして
「THéâtre du gymnasse ジムナス劇場」での『アダム』の公園に
衣装製作で参画した


「アダムの舞台衣装」1930年11月

ところで
ここまで「戦前」「戦中」の時代における「ガブリエル・シャネル」の
創造の軌跡を辿ってきたが
その時代におけるもう一つの大きな発明を欠かすわけにはいかない

そう
香水であります。

『Parfum Chanel No.5』

世界中で香水の代名詞のように語られる
『シャネルの5番』は1921年に登場した
ココはそれまでと全く違うものにこだわった
それまで
ジャスミンやラヴェンダーやバラや乳香やジャコウなど
ある単体の動植物の香りとして使われてきた身元の分かる「フレグランス」というものではなく
彼女は構築された「パッファン」という概念での新しい香りを求めた
そのココの求めに応じて『エルネスト・ボー」という職人が
80種を超える香りの元を調合して
新しい概念の「パッファン 香水」を作り上げた
イランイランやグラースのラヴェンダーと五月のバラなど
希少な花々の香りに
微妙な量の森の香りやスパイスのアクセントをつけて調合された



その後業界全体で
抽出された香りのエッセンスを10〜15%含むものを「パッファン 香水」
同10〜15%のものを「オー・ド・パッファン」
同8〜10%のものを「オー・ド・トワレット」
と法的な区分基準で
エッセンス分が薄く割安なものも作られるようになり
大小さまざまなクリスタル・ポットで商品化され続け
「No.5」は世界で最も数多く販売された香水ということになっている


「ええ、ご存知の通り、たくさんのいろんな質問をうけますわ」
「例えば "夜は何を着て寝まれるんですか" 
"パジャマの上だけとか?" 
"パジャマの下だけとか?"
"それともネグリジェですか?"
"それならどんな種類の?"
なんてね。
それで答えたんです "シャネルの5番よ" って
だってそれ事実なんですもの」
笑いが起こる
「それでね、私は別に裸で寝るとは言ってませんのよ」
「お解り?」
「でもそれが真実なんですもの」
(マリリン・モンロー)

ココ本人の中で
「香水」は見えない「アクセサリー」という感覚であった


さらに
「ジュエリー」も20年代から始まる
彼女にとってのジュエリーは衣服自体の要素の一部で
希少宝石とフェイク(ファンタジー・ジュエリー)の間に境界線を引かず
両者を同時に使って
付ける場所も「袖口のカフス部分」や「袖」「肩」あるいは「帽子」と
それまでのジュエリーの扱い方の概念を変えた

『ネックレス』1920年代
中央」のどの位置から下に一列と
上から二列目の中央の左右とだけライオンが吠えている

『(上)ネックレス と(下)ブレストプレート』1925年

『(中央)ネックレス と (左右)イヤリング』1928年

『(左)ネックレス  (中)ネックレス 』1930年
『(右)ネックレス』1939年から38年

『(左)ネックレス』1937年
 (中)ブレスレット (右)ブレスレット』1939年

『(左・上下)イヤリング (右上)ネックレス』1938年


『(左上)ブレスレット (右上)ブレスレット/クリップ』1930年から39年
『(左下)ブローチ (右下)ブローチ』1930年から39年

ここまで
戦前の時代を生きた「ガブリエル(ココ)・シャネル」の軌跡を辿ってきた
1939年からに欧州大戦がはじまり
モードの世界はひたすら息をひそめるのみとなった

ココがモードの表舞台に復活するのは
対戦終了5年後の19454年
その年に女性モード週刊誌『ELLE』がいち早くシャネルの後押しを始める


1957年8月10日号 「シャネル 新しいシャネル・モードを発表」

「エル」という雑誌は終戦の翌年1945年に「エレーヌ・ゴードン=ラザレフ」
によって創刊
単なるモード雑誌と一線を画し
他社と違うリベラルな筆使いで女性報道誌としての地位を獲得し
女性の自由な社会進出を後押ししており
シャネルが復活すると同時に定期的にシャネルの動向を報道した

『エル 1947年8月12日号』 「シャネル 新たなシャネル・モードを再発信」

『エル 1957年10月28日号』「シャネルの新しいシャネル流のテクニック」

『エル 1961年2月24日号』「正式発表前に61年春物新作を発表」

『エル 1961年8月25日号』「シャネルの勝利」

『エル 1958年12月1日号』「今後エルの全号でシャネルのテーラード・スーツの型紙無料提供」

エルは(シャネル本人の暗黙の協力で)
シャネルのスーツの型紙を無料で1点ずつ掲載すると発表
それらのモデルは単純に「プティ・シャネル」と名付けられた

『エル1959年12月4日号』「シャネルの無料型紙の秘密」

『エル 1961年2月17日号』「シャネルのエル/春の新作テーラード」

『エル 1963年2月15日号』「シャネル」


『エル 1969年9月29日号』「魅力的なプティ・シャネル 本物の宝石」

『エル 1970年3月2日号』「シャネルの眩いホワイト」





CASSANDRE 作『Portrait de Gabrielle Chanel』 1930年 油彩

では今回はここまでにして
次回「シャネル回顧展 最終回」で
皆様方のどなたもご存知の
戦後のシャネルの全貌を辿ってみましょう
お楽しみに
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
皆様方の「読後感」「読前感」を是非お寄せください
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パリで美術三昧 趣向を変えて < ガブリエル(ココ)・シャネル 回顧展 前編 1/3 > パレ・ガリエラ モード美術館

2021-07-30 00:20:12 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ガブリエル・シャネル特別回顧展」



「ガリエラ宮」のモード美術館でロックダウンで公開できなかった
『ガブリエル・シャネル回顧展』が
予定期間を後倒しして5月19日から開催された

『Palais Galiera Musée de la Mode』

ガブリエル(通称「ココ」)は
男性が連れ歩くアクセサリーで家庭の中の花という女性のイメージで
ウエストを締め付け鯨の骨で膨らませたペチコートを重ねるような
体の自由な動きを封じるごとき女性服に対して
表に出て社会で活躍する女性をイメージし
体の動きと精神を開放するような女性服を世に送り出した
いわば女性開放主義者の元祖のようなデザイナーだった

1903年に叔母アドリエンヌの洋裁店のお針子さんとしてスタート
1909年マレゼルブ大通りに服飾帽子製造販売の店を持つ
1910年未だに本店を構えるカンボン通り21番地に
「シャネル=モード」というブティックを開店
その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出

1913年から15年まで
黒の撚り糸と黒のシルク・サテンのリボンを使った帽子の作品が作り出された



豪華なデコレーション山盛りだった当時の女性の髪型と帽子に対し
抑えたシンプルさをモチーフとした新境地を開拓

その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出
リゾートで休暇を過ごすという習慣が上流階級に広まった頃であり
時と場所が
海浜リゾートウエアーを生み出した

『セーラーブラウス』1916年夏 シルク・ジャージー


『ドレス』1917年から19年 
ガラス管ビーズで刺繍した黒のシルク・テュール  黒のクレープ・ド・シーヌ

『イヴニング・ドレス』1918年から19年
鉄とガラス管ビーズで刺繍した黒シルク・テュール





『ドレス』1919年
シャンティイのレース  黒のシルク・クレープ


1918年今の本店の位置カンボン通り31番地に「メゾン・ド・クチュール」
を開き
「ガブリエル・シャネル」の名前が浸透し始めることとなる

『ジャン・コクトーも演出ノート』1924年

1920年代に入ると
詩人で画家で映画監督で舞台演出家であった「ジャン・コクトー」に見出され
行動を共にし
『ル・トラン・ブルー 青列車』の製作に関わって
衣装を担当した

その傍ら自分のブティックを持ち女性服の製作を本格的に始める




『コート』1933年 アイヴォリーと濃紫のぼかしツイード



20年台後半から30年代には
シルクの「クレープ・ド・シーン」や「オーガンジー」などのドレスと
ウールの「ツイード」を用いたアンサンブルが
並行して作り出されていった

『スカーフとドレスのアンサンブル』1929年春夏 多色プリントした白のシルク・レース




『アフタヌーン・ドレス』1930年夏 ホワイト・シルクのモスリンにプリント

『テーラード・スーツ』1927年から29年 茶と生成りのウールの撚り糸のツイード


『デイ・ドレスとジャケット、ベルトのアンサンブル』1928年と30年
ウエーヴをつけたシルク・ヴェルヴェット  多色のモスリン
生成りのキルト地天然シルク  メタルと着色パット・ド・ヴェール

『ジャケット』1928年から30年
ベージュのフレック・ジャージー  多色のジャガード・ニット  ベージュのクレープ

繊細なステッチがなされている


『ガントレット・グローブ(長手袋)』1933年 ブラウンのコットン天鵞絨と
錆び色のスエード


『デイ・ドレスとジャケットのアンサンブル』1925年から29年
黒のウール・ジャージー  ステッチ  黒とベージュのジャガード

『ポシェット』1920年から29年
多色と鋼色のコットンの畝おりニット  ステッチ入り白の鞣し革

この1920年から30年に向けて
彼女は浄化されたエレガントな「シルエット」の進歩を追い求め
シンプルさを追求し
実用性とエレガンスを兼ね備えた彼女の服は
当時のスポーツウエアーに着想を得て
ある種の男性の優美さと活動性すらも参考にしてテクニックと素材選びを行って
これらの微妙な共存の中で「シャネル」という「スタイル」を形作っていった


『イヴニング・ドレス』1924年
ゴールド・ラメ  玉磨きゴールドの刺繍レース


『ドレス』1924年から25年
黒のシルク・モスリン  黒のシルク・クレープ  ガラス管ビーズの刺繍



1930年代になると
彼女は「ライン」の感覚だけを、最もハイレベルに表現する
ドレスは過剰にならずに体の線を明示するようになる

『フォーマル・ドレス』1920年から25年
黒のテュール  刺繍と黒真珠のフリンジ  黒の刺繍とシルク・クレープ・ド・シーン

『デイ・ドレスとコートのアンサンブル』1928年から30年
暗緑色のウール  グリーンのカマユーにプリントされたシルク・モスリン

『スカーフとドレスのアンサンブル』1930年 アイヴォリーのクレープ・ド・シーン
黒のプリント柄

『イヴニング・ドレス』1930年から1935年
黒のシルク・テュール  シルバー・スパンコールとシルバー及びシルバーラインドガラス管





『イヴニング・ドレス』1933年から34年
黒のレイヨン  アイヴォリーのシルク・オーガンジー

『ドレスとケープのアンサンブル』1933年から35年
黒柄プリントのアイヴォリー色シルク・ジュレープ

『ドレス』1935年
アイヴォリー地に多色プリントのシルク・オーガンジー

少し変わったものもあった

『ロング・ドレスとジャケットのアンサンブル』1930年から31年
ゴールドのシルク・サテン

これなど現代にきても全く違和感なくとっても素敵です

『イヴニング・ドレス』1939年春夏
多色プリントされたコットンのヴェール  ピンクに染めたオーステルリッツの羽 



当時のゴーモン映画社のニュース映像  このドレス政策でお針子さんたちの作業中


裾部分の複雑な縫込みや貼り付けなどのデコルテは 実際にマヌカンに着せた状態で行われた


この頃から
ココ・シャネルの中では「軽やかさ」と「洗練さ」が
重要な要素になってゆく
「明白な機能性」と「究極の洗練」との融合という矛盾を最低限度に止めて
ファッシンを作り出すことに傾注した



『ドレス』1936年春夏
ベージュのレース

左『イヴニング・ドレス』1930年
コットンのモスリン 白レースのアントル・ドゥ

右『ドレス』1930年春夏
ホワイト・イギリス・レース

『ドレス』1930年
薄い水緑のテュール

『扇』1928年
ベークライト 薄水緑のコットン・オーガンジー


左『イヴニング・ドレス1937年』
黒シルクのレースとテュール シルク・シフォンのモスリン



右『イヴニング・ドレス』1933年春夏
プレープ仕様の黒シルク・モスリン  黒シルク・タフタのレース


(ガラスケースの表面に安泰側の映像が撮りこんでいました)

『イヴニング・ドレス』1937年から38年
シルク・ヴェルヴェット レースのアントル・ドゥ  赤のシルク・タフタとテュール





『イヴニング・ドレス』1938年
黒のシルク・テュール  黒シルク・サテンのリボンのアプリケ  





「デッサン画」のオリジナルが5点展示されていた
1937年から38年秋冬コレクションのためのもの






いずれも
「メゾン・シャネル」のハウス・デザイナー『Christien Berard』画
水彩と水墨


ガブリエル(ココ)は更に前に進む
「私たちは夢のドレスを作ることから時始めるの」
「そして それを打ち倒さなければなりません」
「切り取らなければいけない」
「そして引き剥がす」
「決してそれらを加えないこと」
1957年9月3日 『エル』のインタヴュー

この項続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
このブログの継続の参考にさせていただきたいので
皆様の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「共感」「反感」「むだ話」
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パリで美術三昧 < オルメカ展 2/2 > ケ・ブランリー美術館で 特別展を訪れる

2021-07-26 00:15:48 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『エル・アズズレスの4体』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
後編



『メキシコ湾岸 オルメカ人とその後継者たちの文明圏』


『祭儀と供物と副葬品』

『El Manati 出土 供物』
「左 16連パールのネックレス」紀元前1600年
「中央 と 右 祭儀用斧」紀元前1600年〜1200年

『El Manati 出土 胸像』 紀元前1200年〜紀元前900年

『El Manati 出土 胸像 と 王笏』 紀元前1200年〜900年



『La Merced 出土 彫像』 紀元前1200年〜900年

「レ・メルセッド」ではオルメカの歴史に重要な一ページを加える
時代の異なる二度かそれ以上の機会に奉納された無数の
宗教的祭儀の供物が発見された

「ベベ 赤ん坊」という愛称が付けられたこの「跪く」彫像は
手に斧を持ち
乳児ならではの且つオルメカの高貴な立場を表すシワの寄った表情で
ヘマタイト(赤鉄鋼)の鏡と土器の器と磨製石器の斧500本に取り囲まれていた

『レリーフされた小記念碑』

発掘作業時の写真も展示されていた





「オルメカ文明」というと
このような巨大な円頭がいくつも見つかっていることが知られているが
残念なことに
これらの円頭はパリには来なかった

『祭儀用の斧27丁』 紀元前1600年〜紀元前900年(第2期?)

『供物』 紀元前300年〜100年

「擬人化個体」「擬獣化個体」「首飾り」「耳飾り」「玉」その他「破片」
など30ピースの供物セットの一部

『同』


『同』

『彫刻』 紀元前1200年〜紀元前900年(第3期?)

第3期が最後の奉納で
複数の斧と道具や土器それにヘマタイトの鏡などから構成されているが
その中で傑出した彫刻作品がこれ
古代オルメカの神性を典型的に表しており
頭部の割れ目と突起は
彼らにとって新しい食物であった「とうもろこし」の出現を
表しているらしい

『祭儀用の斧』
線刻と浅いレリーフで「ヒトガタ」を表している


「レ・メルセッド」以外のサイトからの出土品

『セッロ・デ・ラ・メッス』のサイト

『Cerro de la Mesas 出土 牛の軛(くびき)のミニチュア』 紀元後100年〜300年

『線刻した亀甲』 紀元後100年〜300年


『坐像』

『貝殻のペンダント(部分)』
縁がカットされている

『多色彩色壺』


その他のサイト

『Maopasito 出土 土器』 紀元700年〜900年


『Tancama 出土 壺』 紀元1200年〜1300年


『同 耳飾り』


別の地域


トルテカ文明『Matacapan 出土 香炉』 900年

『Matacapan 擬人体像』 300年〜900年

身分の高い鎧姿の男
族長か他の部族の大使かと言われている
堅焼き土器製



左手で持つ盾 または 手甲




『マヤ文明』

『Balamcanchè 出土 神の姿を彫った香炉』 1250年〜1521年


『同』

そして16世紀
「征服者コルテス」侵入の直前の時代の副葬品

『フワステカ文化』
「タムトック」のサイト出土の35歳女性の副葬品
1520年頃

『ネックレスとペンダント・トップ』

ネックレスは
金張りの銅とカディスのガラスビーズおよび太平洋の貝殻から作られ
ペンダントは
グアテマラの翡翠
アステカ文明に含まれる「フワステカ人」の
16世紀初めの交易ルートとシステムが広い範囲で確立していたことがわかる
その他の副葬品の主だったものは
ローカルな陶




埋葬された当人の頭蓋

このサイトの町「タムトック」は「オルメカ文明」とその後継者たちの
中心都市のひとつで
紀元前300ねんから紀元600年頃が最盛期だったが
16世紀初頭でも15000人の人口を誇った

ここで2005年に素晴らしい発見がなされた

『生贄にされた女』 紀元1世紀頃

割れており欠損部分も多いが
繊細な仕上げの滑らかな表面
若い女性の身体の華美な美しさと官能性
若い世代の香り立つ苦悩
肥沃な豊穣さ
などが余すところなく表現されている




身分の高い人物を表しているのか
などモデルに関しては全く分かっていない
石切場の天然の貯水槽に沈んでいたので
彼らの先祖の儀式や習慣に則っているために「生贄」という呼び名がついた






最後に
『サン・ロレンツオ』と『ラ・ヴェンタ』
の地区



「サン・ロレンツォ」のサイトは
紀元前1500年から紀元前600年まで続いた
「ラ・ヴェンタは
紀元前1200年から紀元前400年まで存在した」

『サン・ロレンツオ出土』 紀元前1200年〜紀元前600年

前編でご紹介した「ラス・リマスの族長」と同じ形式で
歯のないV字形の口や胸元の衣服の襞及び
頭頂がV字形に分かれていて開いているのも「トウモロコシの神」「雨の神」を
象徴している


『同 背部』
縦に溝が伸びていて上に開いている

そして
「ラ・ヴェンタ」文化圏の「ザザカトラ」の出土品


『人造1』灰色凝灰岩製 紀元前800年〜紀元前500年


『人像2』安山岩製 紀元前800年〜紀元前500年

この2体も
口の形や頭頂部に開口部があることなどから
メキシコ湾岸全域での各地の権力者たちがイデオロギー的に共通の価値観に至っていた
という事が理解出来る


『ojoshal 出土 供物』 紀元前1800年〜紀元前200年

100個の斧と一緒に収められていた彫刻した笏
こんな組み合わせは珍しい


『Encrucijada 出土 胸飾り板』 翡翠製 紀元前900年〜紀元前400年


『祭儀用斧』緑玉製 紀元前1200年〜紀元前600年


次は「レ・ヴェンタの供物 No.3」と呼ばれるひと組からの抜粋
紀元前900年〜800年

『ひと型』

『ブレスレット』


『飾り板(バッジ)とペンダント』

続けて同じ「ラ・ヴェンタ」のサイトから

『首を捻じ曲げた猫』セラミック製 紀元前1200年〜紀元前900年


『足で立つ人像』翡翠(玉)製 紀元前1200年〜紀元前600年


『Simojovel 出土 祭儀用線刻斧』黒色粘板岩 紀元前1000年〜紀元前400年
一般的に「シモホヴェルの斧」と呼ばれる

『Tenango del Valle 出土 人頭』 ジェダイト(硬玉)紀元前1200年〜紀元前600年


上『人面文様のペンダントトップ』 緑玉髄製 紀元前1000年〜紀元前600年
下『』動物面文様の胸飾り板』 翡翠製 紀元前1200年〜紀元前400年


『Tlapacoya 出土 ひと形』 セラミック製 紀元前1200年〜紀元前800年

「ベビー・フェイス・タイプ」と呼ばれる堅焼き陶器のひと形で
内部は空洞のタイプ

前後二回に分けてご紹介してきた「オルメカ展」は
これで終わります

「ケ・ブランリィ美術館」は常設展示も大変にkyぽ海深いです
いつかご紹介しましょう



=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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パリで美術三昧 < オルメカ展 1/2 > ケ・ブランリィ美術館

2021-07-23 00:08:40 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée du Quai Branly』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
前編


1981年から1995年まで
二期14年大統領を務めた社会党の「フランソワ・ミッテラン」が
新国会図書館と新しく国立総合病院を作らせ
死後「ミッテラン図書館」「ミッテラン病院」と正式名称にその名が残された後
次の保守党大統領「ジャック・シラク」が
自分の名前を残したくて
パリに新しい美術館を作らせ
生前から「ケ・ブランリィ・ジャック・シラク美術館」と命名した

Quai Branly(ブランリィ河岸)というセーヌ左岸のエッフェル塔のすぐ近く
通りに沿ってガラス張り


ガラスの塀の中に入ると鬱蒼とした「藪」になり
ここかしこに
歓談用にベンチを備えた一隅などがあり
その緑に囲まれて摩訶不思議な建物が建っている


鉄のコロンで持ち上げられた何艘かの数珠繋ぎの船の様な

『Musée du Quai Branly jaques Chirac』

設計は目下フランス一名高い建築家となっている『ジャン・ヌーヴェル』


ちなみにすぐ隣にあるエッフェル塔の展望台から見ると



こうなっており
対岸の「シャイヨー宮」の「歴史文化財博物館」の窓から見ると


こんなであります
エントランスホールには
「オルメカ文化」の象徴のような巨大な頭像が鎮座している


このエントランス・ホールの中央に入場券確認があり
そこからスロープを上階の展示フロアーに登ることになる


今二人がいる場所から右にスロープに入ると


世界中の文化遺産の所在地と出土地の地名が
スロープの床にランダムに映し出され
あたかもセセラギの流れのように
曲がったり集まったり離れたりしながら流れ下ってくる



途中で左右の壁を岸辺の土手に見立てて
流れの一部が潜り込んだり別の場所から流れ出てきたり
驚かされる

上階の展示フロアーにたどり着くと


「オルメカ文明」の彫像の一体が出迎えてくれて
奥のポスターが上から吊るされている「特別展会場」へと進む

特別展の会場に入ると最初の部屋が

『Senor de Las Limas ラス・リマスの男』紀元前900年〜400年頃

1965年に「ラス・リマス」の町の郊外で発見された
「古代オルメカ文明」最高傑作と言われる「超現実的存在を両腕で抱く男性座像」がある



「オルメカ」は
紀元前1700年頃からメキシコ中部「メキシコ湾」岸沿いに起こった文明で
紀元前600年〜400年頃が最盛期であったらしい
紀元前200年頃に突如消滅
「Las Limas」「El Azuzul」「Tres Zatotes」「La Venta」「San Lorenzo」
など何箇所かの遺跡サイトに分散して見つかっている

その末裔たちの最後が「アステカ文明」の人たちで
スペインからの侵略者「征服者ヘルナン・コルテス」が1521年に上陸した時点で
文明全体が消滅した

『ラ・ヴェンタの供物』紀元前800年〜600年頃

16人の人型と6本の斧の模型からなる
15人はジェダイット(硬玉)製で花崗岩製の一人に向き合っている
神への捧げもの

次は
1987年に発見された『アズズレス」遺跡
紀元前1200年〜紀元前900年の遺跡の出土品4点の中から




これは
痛み具合がほんの少し違うほぼ同じ2点の一つ

同型のもう一体は




さらにこの坐像も2体あって
一つは




同型のもう一体が




そっくりだが
正面から見たときの腹帯の水平度が微妙に違っている


『Laguna de los Cerrosから出土した 無頭の男性立像』紀元前1200年〜900年




以下は『オルメカの男性像』と呼ばれるもの

『Cruz del Milagro 出土の オルメカの人像』紀元前1200年〜900年

同 背後


同 側面



『Piedra Labrada 出土 記念石柱』紀元200年〜600年


『Cerro de las Mesas 出土 祭壇 族長の側面坐図レリーフ』紀元467年〜468年


『Cerro de las Mesas 出土 族長側面坐図レリーフ』紀元600年〜900年

次は凄い

『Tres Zapotes 出土 祭壇 上部』紀元前31年

『同 下部 暦』
実はこれオルメカ数字で暦になっていて
紀元前3114年8月11日
から
紀元前32年9月1日
つまり作られた年の前年までを表している

以下
題して「メキシコ湾岸の人々」

『Antonio Plaza 出土 レスラーと名付けられた男性坐像』紀元前1500年〜紀元前400年

『同 右斜め側面』

『同 左斜め側面』

『同 背中』


『Chiquipixta 出土 青年像』紀元前1200年〜紀元前900年


『同 背面』
背中に一本くっきりとした縦の溝が彫られている

『同 側面』
古代エジプトに見られるような「長頭族」に似ている

ここから時代が飛ぶ

『Tamahi 出土 背中に子供を背負ったワステカ族の青年』紀元1000年〜1521年

『同 上半身』

『同 背中』


『別の青年像』
同じような刺青をしている

『Tecomaxöchitl 出土 台座に立つ女性像』紀元900年〜紀元1521年


『Tuxpan 出土 跪く女性像』紀元900年〜紀元151年

『同 左側面』


『同 右側面』

『同 背中』


『Ciudad Madero 出土 腕の先で穴を掘る棒を持つ男性像』紀元900年〜紀元1521年


『El Tajin 出土 Niches のピラミッドの装飾石柱』紀元600年〜900年?

『El Naranjo 出土 トガり帽の男性像』紀元900年〜1521年

『Castello de Teayo 出土 女性像』紀元900年〜1521年

『同 背中』

『Ozuluama de Mascarenas 出土 Seigneur d'Ozuluama 
擬人化されておうぎ形の帽子をかぶった族長』1200年〜1521年

『同 背中』
帽子の後ろ垂れは骸骨

『Huilocintla 出土 ウィルシントラの石柱』900年〜1521年
族長自らの自己犠牲を表しており
これにより神への生贄を想起させ超自然的存在が失った血を取り返してくれるという
「マヤ」でよく見られた風習

『Tempoal 出土 跪く男性像』1200年〜1521年

『同 右側面』

『Castello de Teayo 出土 擬人化された女性石柱』900年〜1521年

『同 裏側』

『Ahuateno 出土 何かの動物の上に立つ人像』1200年〜1521年

『同 右後方側面』

『同型 別ヴァージョン 背面』
顔に穴が空いていないタイプ

この項 後編に続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
今後のブログ継続の参考にするために
皆様方の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「お叱り」「嫌味」「励まし」
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パリで美術三昧 < シニャック展 後編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021年 初夏

2021-07-21 00:02:34 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『ジャックマール・アンドレ美術館』


前回に続いて
「シニャック展」後編をお届けします

「ポール・シニャック」は常に気心の知れた信頼する友人たちに
取り囲まれていた
まず「マキシミリアン・リュス」との出会いは1887年
「独立画家展」で彼がリュスの作品を一枚購入したことに始まった
彼は描く画家だけではなく
他の画家の優れた作品を集める収集家でもあった
シニャックは初期のリュスを色調の分割の技術で深く影響を与えた
リュスは人々の日常の着眼し
ベルギー旅行の際に「カフェにて」や
フランドルの製鉄所を訪れて「製鉄工」などの作品を仕上げた

そのベルギー滞在中に
ベルギー人画家「ジョルジュ・レマン」と出会い
アヴァンギャルド派であった彼は「独立画家協会展」に出品するようになり
スーラやシニャックと交流が始まった
パリで「ナビ派」の画家たちと出会い
「ジョルジュ・ラコンブ」は新印象主義に影響されるようになる
いずれも
「色彩」の捉え方とその表現の道筋を作っていった

「エドモン・クロス」は以外と遅く
1891年になって新印象主義に傾き
しかし一度その道を踏み出すと生涯変わることなくその道を求め続けた
シニャックにとって非常に気心の知れたごく日常的な友人であり
スーラ亡き後はシニャックにとって片方の空間を埋めてくれる
欠かせない存在であった

「テオ・ヴァン・リッセルベルグ」はブリュッセルにおけるシニャック
とでもいうべき存在で
かの国のアヴァンギャルド集団の展示会などに
シニャックが行っていたように参加を続け
本来肖像画家であった彼が風景画にも色彩の構成の主張を持ち込んだことで
ベルギーはフランスに次いで第二の「新印象主義絵画」の祖国となっていった

その後のシニャックの歩みに戻ろう


『Couché de Soleil (Evantail)』1905 紙 水彩・墨・鉛
「夕陽(扇画」」

『Avignon. Soir (Le Palais des Papes)』1909 紙 水彩+墨・ペン
「アヴィニヨン 夕刻(教皇庁)」

シニャックは友人たちをサントロペに誘い
制作中に彼らに薫陶を与えた
その滞在中
彼は水彩画の魅力に目覚める

『Antibes』1910 紙 水彩+墨・ペン
「アンチーブ」

油彩とは異なる存在価値としての水彩を
好んで戸外制作に用い
それがその後のアトリエでの油彩の制作にも影響を与えることとなる
この「アンチーブ」匂いて
水彩の色彩の繊細さの極地に到達していると言われている

『Les Cyprès de sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 紙 水彩+墨・ペン
「サント・アンヌ(墓地)の糸杉(サン・トロペ)」

『Venise. La Dogana』1906 紙 水彩+鉛筆

『Venise. San Giorgio (Éventail)』1905 絹貼り厚紙 水彩
「ヴェニス サン・ジオルジオ(扇)」

1900年代に入り
1902年
1904年
1906年
と数次に渡って繰り返された
『Salon des Artistes Independants (独立芸術家協会展)』への意欲的出品で
彼はパリのみならず
ベルギー・オーストリア・ドイツに置いても名声を確立してゆく

ヴェネチア滞在によって「光と水」の表現に磨きがかかり
1907年以降中国の水墨を用いる事も
白と黒のコントラストの表現の上で極めて有用であった

『Séte』2 Avril 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「セート」

『La rade de Toulon ou Toulon. Ciel d'Orage』Avril 1931 しぼ紙 水彩+鉛筆
「トゥーロン波止場 または トゥーロン、夕立空」


『La Ciota』1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ラ・シオタ」(南仏)

『Paimpol』13 Août 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「パンポル」(ブルターニュ)

『Villefranche-sur-Mer』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ヴィルフランシュ=シュー=メール」(コート・ダジュール)

『Morlaix』21 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「モッレー」(ブルターニュ)

『Saint-Nazaire』23 juillet 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・ナゼール」(ブルターニュ)


『Douarnenez』13 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ドゥアルルネーズ」(ブルターニュ)

『Nice』2 mai 1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ニース」

『Le Bono』31 mai 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ル・ボノ」(ブルターニュ)

『Concarneau』7 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「コンカルノー」(ブルターニュ)

『Menton』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「マントン」(コート・ダジュール)

 『saint-Malo. Les Voiles jaunes』29 octobre 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・マロー 黄色い帆」

『Dankerque』5 juin 1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ダンケルク」(ノルマンディ)

これだけの水彩を一堂に並べると
シニャック=点描派
という固定観念が一挙にひっくり返ってしまう
それにしても
シニャックも「水と空」を光と色で表現する「印象主義」の第一歩から
全く変わっていない同一線上にあることが理解できる
『Néo-Impressioniste 新印象派』
という仲間とスタートしたのだから

水彩なので色を「タッチ(点)」で置いて行くわけにはいかないけれど
水彩画の可能性を深く認識したシニャックの面目躍如といったところでしょうか

また油彩に戻ろう

『Arc-en-ciel, Venise』1905 カンバス 油彩
「虹 ヴェネチア」

この作品で
自分のパレットの反響である虹の七色を
彼は大気の効果を再現すべく実に繊細に利用している

20世紀になると
「色彩の役割」が
芸術活動と論争の中心的位置を活気付けて行くのです
そして
シニャックの作品と政策理論とは
新たな若い県政のうねるである『フォービスム』に受け入れられて行くことになった

「色彩と線とを 感じ取り 伝えたいという情熱の元に従わせてゆく 
つまり
描くという行為の結果は詩人の作品ということになるだろう」
(ポール・シニャック)

『Le Port Royal, Inondation』1926 紙 墨絵
「ポール・ロワイヤル 洪水」

彼は
最初から「色彩の解放」を推し進めていき
観察するモチーフから
カンバスの中でどんどん解き放たれて行くようになる

1898年ロンドン滞在中に『ターナー』の作品に出会い
対象を「模倣し」「コピーする」という概念から
離れる必要を痛感した
「色合いを創り出さねばならない」と書き残している通り
彼は「自然主義」から離れて行く

「サン・トロペ」やその周辺の鄙びた海岸の村に足を運び
中央で知られていない土地の趣を
表現してゆく中で
地中海の海と太陽とは
色彩の理解と分析とその解放とに大いに役割を果たしたはずで
最初の頃訪れていたブルターニュの光の少ない海辺との対比も
シニャックの形成に一役買っている

『Antibe. Matin』1903 布張り厚紙 油彩
「アンチーブ 朝」

『sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 カンバス 油彩
「サント・アンヌ地区(サン・トロペ)」

『Juan-les-pins. soir ( Première version』1914 カンバス 油彩
「ジュアン・レ・パン 夕刻」(ヴァージョン 1)


『Juan-les-pins. Soir』1914 デッサン用紙 水墨
「ジュアン・レ・パン 夕刻」

彼は芸術特に絵画の黄金の世紀と言われる
17世紀「古典主義」に精通しており
その根底にあるデッサンの重要性も理解しており
その時代の巨匠たちが作品に取り組む前にやったような
「カートン(画用紙)」を使用して
さらに中国の墨を使う水墨画を研究して
自分の求める色彩の解放への手がかりともしていった

『Avignon, Matin』1909 カンバス 油彩
アヴィニヨン 朝」

『Marseille, Le Vieux-Port』1906 カンバス 油彩

最後に
この特別展の冒頭に展示されていたものをご紹介しておく


『Application du Cercle chromatique de M. Charles Henry』1888 リトグラフ

これは
当時の「アンドレ・アントワーヌ』が率いた劇団『自由劇場』の
公演プログラムのための図版で石版画
この図版政策で
シニャックは「色彩と線」の化学的デモンストレーションを行っている
一人描かれている観客の首が
オレンジ色という明るい緞帳からの逆光の中にうきあがり
ブルーがオレンジのコントラストを成し
影が光に対立している
『Theatre-Libre 自由劇場』のイニシャルが
当初の色とその変性色の多様性の精緻な組み合わせが
将来の彼の予兆を成している
ここで彼は
色彩の調和と対比との化学的分析は
ポスターやイラストにも有効であることを示している

最後の最後に

『Palette, Aux Tuileries』1882 〜 83 板 油彩

彼が
自分のパレットに描いた「チュイルリー公園」です

ここ『ジャックマール・アンドレ美術館』は特別展と常設展と
両方を楽しむことができます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想ご意見ご要望を是非お寄せください
「あれが好き」「これは嫌い」「それ見てみたい」
些細なことなんでも結構です
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パリで美術三昧 < シニャック展 前編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021 初夏

2021-07-19 00:10:26 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée Jaquemart-André』

『ジャックマール・アンドレ美術館で年明けから予定されていた
後期印象派の最終到達点『点描派』の巨匠『ポール・シニャック』特別展が
コロナによる美術館の休館措置解除でやっと開催された

展示会のテーマ「彩色されたハーモニー」

1863年11月パリで生を受ける
1879年16歳で「第四回インプレッショニスト(印象派)展』を訪れ
カイユボット ドゥガ ピサロ モネ
などの存在に触れた

1880年
彼は「クロード・モネ」のプライヴェート展示会に招かれ
高校を中退して画家になる決心をする

伝統芸術としての絵画の要素は
「主題」「構図」「構成」
だったヨーロッパ官製芸術のアカデミスムに対して
「光」と「色彩」
に注目したのが「モネ」が始めた「印象主義」であった
光は常に移ろい同じであることは決してない
その光の与える効果が色彩だ
ということに気づいた印象主義者たちは
移ろう光とその効果である色彩をこの一瞬で画面に捉えることを行い
構図の要素である平面の処理が後回しになっていった
揺れる光線の効果で平面が分解されて
ブロックになって行き
それが大きなブロックに集約されてゆくと「キュービスム」を生み
小さなブロックに分かれてゆくと「点描」になった

『Saint-Briac, Le Bechet サン・ブリアック ル・ベッシェ海岸』1885年 カンバス 油彩

1884年
彼は「Societé des Artistes Indépendants 独立芸術家協会」の結成に
参画する
審査員もいない受賞もない作品展を年に一回行うことを目的とした
翌年1885年から翌86年の冬ブルターニュに制作旅行に旅立ち
少し前から「カミーユ・ピサロ」が始めていた
混ぜ合わせない純粋な色彩を画面上に細かいタッチで載せて行き
鑑賞者の目を通して
描かれた風景の現実の色彩の「トーン」を感じ取ってもらうという手法を
「サン・ブリアック」などの描写で試してみた

極めて最前面の構成と
色彩の生き生きとしたトーンと極めて幾何学的形状の構図と
画面の三分の二をしめる海の
「点」に昇華した波頭の単純で厚みのあるな繰り返しという単調さを
手前の大きな岩で壊して奥行きの感覚を与えている

『Fécamp, le Soreil フェカン 太陽』1886年 カンバス 油彩

こちらは「ノルマンディー」の海際の町の
空と地面で
同じ技法を採っている

この頃
彼に英ky等を与えた人物に『Georges Seurat ジョルジュ・スーラ』がいる

Maximilien Luce『Portrait de Georges Seurat スーラの肖像』1980 紙 コンテ

『ジョルジュ・スーラ』はパリの「エコル・デ・ボザール(美大)」出のエリートで
絵コンテによるデッサンで才能を非常に高く評価されていた

Georges Seurat 『Mère de l'Artiste assise 母親坐像』1882年 紙 コンテ

このデッサンに表されているスーラの母親像は
輪郭を取り囲む線によってではなく
光と影のゾーンの対比によって際立たされている
しかし高い評価にもかかわらず
この絵コンテは1884年の官製展覧会『ル・サロン』に落選
それをきっかけにスーラは「Sakon des Indépandants 独立芸術家協会」に
参加するようになり
1885年856年にかけての冬
色調の「分割」の技法を生み出すことになった

1886年の「印象派展」に出品した作品が『Post-Impressionisme』を
産むことになる
しかし1891年の最初の「独立協会展」の年に急逝した


『シニャックの芸術は自ら生まれて 彼の天才を体現した』


『Avant du Tub, Opus 176 タブの前 作品番号176』1888年 カンバス 油彩

シニャックは「スーラ」の影響で
1886年1月から色調の分割の新たな手法を始める
タッチがより「手法的」になり
風景をより「幾何学的」に扱うようになっていった


『saint-Briac, Les balises Opus 210 サン・ブリアック、標識  作品番号210番』 
1890年 カンバス 油彩

1885年の滞在で目覚ましい制作を行った後
彼は90年に再度「サン・ブリアック」を訪れた

前回の「印象主義的」作法と異なり
今回はこの地で突如「新印象主義」に目覚める
この作品では
風景を厳密さで再現しながら
視点を人工的に単純化し
要素を「砂」と「水」と「空」とに単純に分割し
標識の縦の線と水平線の横の線の単純さで
光線に「抽象音楽」のようなリズムを与えた


『La salle à Manger ou  Le Petit Déjeuner (Etude)』1886〜87年 カンバス 油彩
「食堂 または 朝食』(習作)

『Concarneau, Carme du Soir (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー」(習作)

これらの習作で
「色の分割」には異常に冷静で厳密なアプローチが必要であることを学び
絵の具の混合を避けて純粋さをを保つために
色ごとに塗る時間を変えたり乾燥させるタイミングを変えたり
様々な努力を繰り返した


『Soreil couchant sur la ville ou Saint-tropez La Ville』1892年 カンバス 油彩
「町の夕陽 または サントロペ、町」(習作)

『Concarneau (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー (習作)」

既に彼は絵を描き始めた当時から
点描に通じるピサロの色彩の使い方を学んではいた

『Les Andelys, Le Soleil couchant』1886年 カンバス 油彩
「レ・ザンドリス 夕陽」

しかし上掲の習作の過程で
彼は色彩の分割のための色の実態をより確実に把握していった

『St-Tropez, Fontaine de Lice』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 空掘通りの泉」

この作品でシニャックの新たな頁がめくられた
この作品においては
色彩が彼の関心事の中心的役割を果たしてはいるが
それだけではなく
全く違う副次的な色の使い方をしている
中心となる色彩だけではなく「7原色」を全て使って
それぞれが全体の色調に平衡てき効果を与える役割を見出だしているのだ


『Saint-Tropez, Après l'Orage』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 夕立の後」

この年の一連のサントロペを描いた作品の中で
彼は「点」をよりゆとりのある「タッチ」(点より大きい)に重きを置いて
習作に見られた自由さを獲得し
彼の地中海の海を描いた作品に」よく見られる「太陽の光」ではなく
空気の効果を構成する
銀鼠ブルーで表現された中にかすかに見られる「赤」が
その効果を膨らませている

『Samois Etude No.11』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.11

『Samois Etude No.6』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.6」

『Mont Saint-Michel, Brume et Soleil』1897年 カンバス 油彩
「モン・サン・ミッシェル、霞と太陽」

ここで『カミーユ・ピサロ』にも
触れておかねばならない


Camille Pissaro『La Briqueterie Delafolie à Eragny』1886年〜88年頃 カンバス 油彩
カミーユ・ピサロ「エラニィのドゥラフォリーレンガ工場」

「Seurat スーラ」に続いて
シニャックと並んで「Camille Pissaro カミーユ・ピサロ」は
1886年から分割したタッチの色彩効果を
使い始めた
現色を「交差使用」することの継続的な模索によって
ピサロは『新印象主義者』達の仲間入りをすることになる
上の作品は
かつて印象主義で描いたテーマだが
仕切られない空間を表現することで印象主義より表現方法をさらに現代化し
さらに次の作品で

同『Le Troupeau de mouton à Éragny』1888年 カンバス 油彩
「エラニィの羊の群れ」

急進的アプローチによる光と影を用いて厳格な幾何学性を築いくことで
新印象主義の傾向から徐々に離れて行くことになった

さらに
スーラとシニャックの影響を引きついだ画家を挙げておこう

『Archille Laugé アーシィユ・ロジェ』
1861 〜 1944


『Archille Laugé『L'Arbre en fleur』1893年 カンバス 油彩
アーシィユ・ロージェ「花咲く樹」

出身地トゥールーズの美大で学び
さらにパリの美大に入ったが伝統的アカデミスムの教育に失望し
「独立画家集団協会」に参入
スーラとシニャックの色彩の表現に影響を受けた
ただし実際には二人に出会ってはいないらしい
故郷に帰ってから開花し
三原色を微小な点で重ね合わせてゆく氷河んで
フランスの「分割主義者(点描派)」の中の独特の地位を占める

その他にも

『Louis Hayet ルイ・アイエ』
1864 〜 1940


Louis Hayet 『Au Café』1887 〜 88年 薄布 各種顔料の混合
「カフェ にて」

『Maximillien Luce マキシミリアン・リュス』
1858 〜 1941

Maximillien Luce『Le Café』1892年 カンバス 油彩
「カフェ」

同『Aciérie』1899年 カンバス 油彩
「製鉄工」


同『Le Port de Saint-Tropez』1893年 カンバス 油彩
「サン・トロペの港」

同『Saint-Tropez, Route du Cimetière』1892年 カンバス 油彩

『Georges Lacombe ジョユジュ・ラコンブ』
1868 〜 1916

Georges Lacombe『Baie de Saint-Juede-Luz』1902 〜 04年 カンバス 油彩
「サン・ジャン・ド・リュズ湾」

『Georges Lemmen ジョルジュ・レマン』
1865 〜 1916

Georges Lemmen『Promenade au bord de la mer』1891年 カンバス 油彩
「海辺の散歩道」

『Théo Van Rysselberghe テオ・ヴァン・リッセルベルグ』
1862 〜 1926

Théo Van Rysselberghe『Le Moulin du Kalf à Knokke』1894年 カンバス 油彩
「(フランドル地方)クノッケのカーフ風車」


同『Canal en Flandre』1894年 カンバス 油彩
「フランドルの運河」

『Henri-Edmond Cross アンリ=エドモン・クロス』
1856 〜 1910

Henri-Edmond Cross 『Paysage avec le Cap Nègre』1906年 カンバス 油彩
「(南仏地中海岸の)ネーグル岬の光景」

同『La Mer clapotante』1902 〜 05年 カンバス 油彩
「波が打ち寄せる海」

「クロス」はスーラとシニャックと並んで
官製美術展『ル・サロン』の伝統的閉鎖性に対抗して立ち上げた
「Société des Artistes Independants 独立芸術家集団」
の共同設立者の一人で
フランス点描派の第一人者の一人である

この項後編に続く
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 66 < ブルターニュ防衛線『マルシュ・ド・ブルターニュ』 3 ラ・ゲルシュ と ヴィットレ >

2021-07-05 00:00:50 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ヴィトレ」の城のある風景

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
66



前回ご紹介した「シャトーブリアン」から北へ30km
絵図の⑩番『La Guerche-de-Bretagne ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ』に至る


結論から言うと
この町「ラ・ゲルシュ」には城は残っていない
ほぼ跡形もなく

『Place Charles-De-Gaulle シャルル・ド・ゴール広場』

木の柱と梁の家々の残る旧市街の角の三角形の広い空間
「シャルル・ド・ゴール広場」を中心に
その辺り一帯で
毎週火曜日朝8時から12時まで市場が経つ



ここの位置は
実に1121年以来900年間にわたって連綿と続けられてきた
現在では
季節によって毎回100から150件の出店者が店を出している

『ラ・ゲルシュ市場900年祭の記念写真』

この市は
「ヴァンヌ」の空堀大通りの市に次いで
歴史的意義でブルターニュで二番目に位置付けられている








この「ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ」の真西に15kmで
先日ご紹介した『la Roche aux Fées 妖精の岩』があります


※  ※

その「ラ・ゲルシュ」から北に20km強
「レンヌ」からは東へ25kmの位置で
⑪番の『ヴィットレ』に至る

『Château de Vitré ヴィットレ城』

ここ「ヴィットレ」の」城は雄大


創建は11世紀後半
13世紀前半に三角形の平面プランで拡充されて以来変わっていない
高い城壁で囲み
要所要所に塔を配し角々に頑丈な丸い塔を加えて防御している






さらに15世紀初頭に城門を形成するシャトレを増強


『Chatelet 大手門出丸』

左側面から見たシャトレ
跳ね橋を吊るす腕木が確認出来る


⑤が「シャトレ」で城門
⑧は天守に相当する最も大規模で強固な塔「サン・ローランの塔」

右が「シャトレ」 左が「サンローランの塔」


右から「サン・ローランの塔」
その左二つ目の丸い塔が⑨番「アルジャントリーの塔」
さらに左の飛び出した屋根付きの四角い塔は⑩「祈祷室の塔」
それに接する一番左隅が①「モンフィランの塔」

城内から見てみよう

左が天守「聖ローランの塔」 右端が「アルジャントリーの塔」




手前は井戸

『礼拝室の塔』
出窓の様な張り出しの部分が祭壇


中で見てみると



聖母子像が飾られてある


「礼拝室の塔」の先で直角に伸びるアーケードを持つ建物は
「ヴィトレ市」の市役所が使っている



その右側にかつては居館があった


その角の塔の屋根の部分や居館の一部が
近年復元された


市役所の建物の入り口は独特の階段付きポルシュ






この市役所が使っている部分を場外から見ると



こう見える

そして「シャトレ(大手門出丸)」の城内側は「Logis(居館)」になっている

『Logis du Châtelet』

ちなみに外側はこう


城門出丸(シャトレ)に向かって右側に城主たちの居館があった


居館があったのは右の窓のある城壁の向こう側
当然城壁の前には空堀がある


シャトレの大手門に入る橋(現在はリン位に赤く塗られている)が
確認できる
そのままこの方向のずっと先が「サン・ローランの塔(天守)」

『Tour Saint-Laurant』

ちなみに
手前の白い彫像は「戦没者記念碑」の兵士像
フランスはどんな小さな自治体でも
その町や村から出征して帰らかった兵士の名前を刻んだ「戦没者記念碑」が
必ず有るのです

その天守と
その他の主だった塔の中は博物館


塔の分厚い壁の中をくり抜いて造った通路と階段


城外の町屋敷から移設された16世紀(1583年)の暖炉


歴代「ヴィトレ家」が集めた中世からルネッサンス区の彫刻群


















1780年革命直前の時代の「ポーランド式ベッド」

「ヴィトレ」の町は
城から始まってぐるりと城に戻る城壁で囲まれて守られていた

Schema by ⒸPascal PIROTAIS

左端の中が白い三角形の部分が城
Shateauの末尾に繋がる部分が「シャトレ」
左上の黒い長方形が「市役所」が使っている部分
町を囲む城壁のうちこの図で赤い部分は存在しない

この図面の15番「Porte d'En Bas 下の門」という
町に入る門の部分から
町の城壁の残った塔と城を見る角度はよくガイドブックや絵葉書に登場する

『Porte d'En Bas』


やや下り坂で城壁内から出てきたところに4軒並ぶカラフルな民家の
それぞれの屋根の縁の反り返った具合に注目されたい



『Porte Saint-Pierre サン・ピエール(聖ペテロ)の門』 絵図面②

これを入ると



こうなっている

『Tour aux Chèvres ヤギの塔』 絵図面③
城の北面は下が谷になっていて高度がある

『Tour de la Fresnaye フレネの塔』 絵図面④

『Tour de la géometre 測量技師の塔』 絵図面⑤

『Tour de Bridole ブリドールの塔』 絵図面⑨

その他








また
旧市街の民家の家並みにも美しいものが数多い


ここは
先ほどの「下の門」に向かってゆく通り





では次回をお楽しみに



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パリで美術三昧 キュービストを超えたリアリスト <モンドリアン> を 2019年マルモッタン美術館特別展でたどってみよう

2021-02-09 00:06:27 | 素晴らしき世界/パリ/美術
ピート・モンドリアン『赤と黄と青と黒のコンポジション』1921



20世紀前半の美術史を語るときに不可欠の鬼才
モンドリアン
2019年秋「マルモッタン美術館」の特別展でたどってみよう

名前でピンとこない方々も
この巻頭写真には反応されるのではなかろうか

縦横の太い黒線に囲まれた空間をカラフルに埋めてゆく
格子のサイズの違いはあるが
戦後の世界各地の絵画やポスター
建築装飾や家具調度や食器からモードまで
あらゆる分野で取り入れられたこのパターンこそ
モンドリアンの求めていた結論の作品なのです

特別展では

『二人の人物像』 1908〜09

会場の冒頭にこの作品が飾られていた
世界中に知られたモンドリアンの早初期を知ってもらうために

1872年
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』は
オランダはアメルスフォールトで生を受けた
『Pieter Cornelis Mondoriaan ピェテール・コルネリス・モンドリアアン』
が出生時の姓名

幼少期より親と共に郊外でスケッチをする環境で育ち
1891年20歳から3年間アムステルダムの国立美術アカデミー(美大)に学び
伝統的理論(アカデミスム)を学ぶが
その頃から
パリで一世を風靡していた表現主義や後期印象派などに強く影響され
輪郭線より色彩に重きを置いていたことが現れており
卒業後はアカデミスムのリアリスムから徐々に離れて行く事となる

『幼な子』1900〜01

なんだかルノワールを彷彿とさせる画風
そもそも輪郭がない


『色彩の印象』1905


そして1906年
名前をオランダの綴りからフランス風に
『Piet Mondrian ピート・モンドリアン』
と改める

『ゲイン川 水辺の樹木』1906


『ゲイン川畔の風景』1907


『水辺の森の樹々』1907

そして
1908年からの数年間は
「Luminisme 光線主義」と呼ばれる
ベルギーとオランダ及びスペインの
フランス印象主義に影響を受けた若手画家の同時多発的傾向で
光の追求を
色彩と筆使いでいかに現わせるかを追求した

『赤い木(りんご)』1908〜10


『春の陽光 城の廃墟』1909〜10


『若い女性像』1908

あたかもモディリアーニかドゥランを彷彿とさせる色使いです


『瀕死の向日葵 1』1908

『瀕死の向日葵 2』1908


『アルムユリ 赤い花』1908〜09


『砂丘 1』1909


『砂丘 2』1909

後期印象派の最後の光芒『点描主義』の技法も
取り入れている

『砂丘 3』1909


『砂丘 4』1909


『ウエストカッペルの灯台』1909
部屋のいたるところにある証明ライトの反射を画面に入れないように
無理に斜めの角度で撮らざるをえなかった事ご容赦ください


『ドンブルグの教会』1909


『オオストカッペルの教会』1909


『ウエストカッペレの灯台』1909

1910年になると
ピカソとブラックの「キュービスム」に非常な刺激を受ける
「キュービスム それは 象形か抽象か」
リアリスムを「具象」と訳すと
キュービスムは具象の一表現形態かそれとも抽象表現か
模索しながら彼の表現が変わる

そして1911年
アムステルダムの美術展でキュービスムに触れてショックを受けた

『ゼーラントの鐘楼』1911

この鐘楼は
上に掲げた数年前の
「印象派」風の
「後期印象派点描派」風の
「フォービズム」風の
いずれとも異なっている
「実態の具象を平面に分割再構築する」発想の
萌芽と見て良いんではないだろうか


『女性の肖像』1912


そして人物の肖像画が完全にキュービスムと化している

当然風景描写も変わらざるをえない

『グレーの樹』1911

この「樹木」は背景の色彩的処理が
まだ印象派的なタッチを残しているようだが
次になると

『花の咲くリンゴの木』1912


『風景』1912

もはやポスト印象派としか言いようがなくなっている

『コンポジション 樹木2』1912〜13

そして遂に1912年から2年間パリに滞在

さらに1913年になると
彼はその葛藤に回答を見出した
「抽象と表象の間には間違いなく共存する余地がある」


『コンポジション 13』1913

実はこれも樹木(リンゴの木)
この作品と上述した「グレーの樹」「コンポジション(構成) 樹木2」
そして
次に挙げる作品とは
必然的に同じ感性の流れの中にある

『色彩の平面における楕円形のコンポジション』1914

キュービスム理論に従って
対象の表現を平面的幾何学的な形態への変換する方法に注力する

『大洋 5』1915

その上で
キュービスムが
本来の自分の求める「リアリティー」の表現に到達できない事を感じ
さらにその先を求め始める

父親の訃報にパリからオランダに一時帰郷するが
第一次大戦の勃発で再びパリに戻る事が出来なくなってしまった

『ドゥイヴェンドレシュト付近の農家』1916

具象絵画について
「美しいと思ってくれるなら嬉しい」
「なぜなら自分もまだそれが好きだからだし
好きでいるこことを続けていくだろうから」
「自分の構想はそれ以上に発展しているとはいえ
構想と言う物は人間とともに発展してゆく外面的なものであり
精神という内面的なものは変わらないのだから」

1919年にはパリに戻るが
オランダで多くの芸術家たちと出会い構想を同じくする芸術家集団を作り
雑誌を創刊し
『ネオ・プラスティシスム 新造形主義』を確立する

『格子のコンポジション8 濃色の市松コンポジション』1919

ここで彼は初めて現実の何物にも根ざさない
彼の創作活動の出発点であった

『コンポジション 14』1919

進め方は
風景でも樹木でも構造履のファサード(正面)でもない
単純に画家としての彼の「精神的」なところからの
すべての物事の本質を尊ぶこと
「完璧なる美しさ」を尊ぶために

わずか1年前の

『二本のアラムユリ』1918

と比較すると
彼の突然の開眼が見て取れる
しかも
「花」はモンドリアンにとって
生涯絶えることなく毎日描き続けたモチーフだった
「縦横の線の交差と色彩」に過ぎない『ネオ・プラスティシスム』では
食べていけなかったこともある

しかし本質的には
モンドリアンは新造形主義者『ネオ・プラスティシスト』で
生涯を送る

『色彩範囲のコンポジション』1917


『タブロー』1921

この年1921年
上下左右に直行する縦と横の黒い線と
赤黄青の3色の色彩を使う
『コンポジション』
の作風が完成する

ただ
ナチスの攻勢が強まり
1939年に彼は戦火を避けてロンドンに移る

さらに
ロンドンも空爆が酷くなり始め
1940年にはニューヨークへ再度移住した

『コンポジション 10』1939〜42


『Broadway Boogie Woogie』1942〜43

結局『ピート・モンドリアン』は
ヨーロッパに帰ることなく
1944年2月
滞在地ニューヨークで客死した
ブルックリンの墓地に眠っている

上の『ブロードウエイ・ブギ・ウギ』が遺作となり
書きかけであった大戦の勝利を祝う

『Victry Boogie Woogie』1942〜44

未完で残された

彼の影響は
その後の現代美術に大きな影響を残し
現代でも『ミニマル・アート』『抽象表現主義』などの芸術家たちに
受け継がれている

下の写真は
サンローランの
1966年プレタポルテ春夏コレクション


抽象画も結構面白いんですよ
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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パリで美術三昧 <レオナルド・ダ・ヴィンチ> を "没500年記念特別展 ルーヴル美術館2019年秋" で偲ぶ 2

2021-02-05 00:22:06 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『世界の救世主』 ダ・ヴィンチ または アトリエ制作 1505〜15


<続き>


数々のダ・ヴィンチならではの特徴の
もう一つ
聖母を含む女性たちの存在

ダ・ヴィンチにとって
生涯追い求めた母のイメージとも言われる
玄妙なる女性の表現



『ジネヴラ・ドゥ・ベンチの肖像』 未完 1475〜76
赤外線写真 ロンドン ナショナル・ギャラリー提供


『聖母子像 果実を持つ聖母 のための習作』ペン画 1478〜80
完成作は個人所蔵 所有者がこのペン画をルーブルで委託展示

鉛の小片で線をつけペンでなぞってインクをかぶせたもの



『聖母子像 組紐を持つマドンナ』 1476〜78
赤外線写真 バイエルン ドゥエルナー・インスティテュート提供


よく見えないが
マリアがイエスに渡そうとしている「組紐」は
(イエスの手足を十字架に固定する)『釘』を暗示しているそうだ

ダヴィンチ以前の聖母子像を理解するために
一点展示があった

『聖母子像』アレッソ・ヴァルドヴィネッティ 1464 ルーヴル所蔵

聖母はそれなりに美しいが
神の母としての気高さや清らかさは感じるが
それとて至高のものではなく
それなのに母の無限の愛は感じ取れない気がする



『聖母子像 ベネディクトのマドンナ』1480〜82
サンクト・ペテルブルク エルミタージュ美術館所蔵

そしてこの聖母子像ときたら
ダ・ヴィンチ特有の性別すら超越したような幽玄なる表情ではなく
なんとも「コケティッシュ」なお母ちゃん
その母親が持つスミレの花に興味を惹かれて触れようとする幼子
二人の間の愛の日常性を感じさせる
ダヴィンチの唯一毛色の違った「聖母子像」だと思う

それ以外の作品での女性の表情は
気高く 高貴で
優しく 美しい
それでいて
触れたくとも永遠に手のとどかない様な
非現実的な
深い悲しみとも取れる「何か」が溢れ出てくるようになる



『女性の頭部』1480〜85 
グレーの台紙に銀の小片で線刻し白の顔料を上塗り ルーヴル所蔵




『セシリア・ガレラーニの肖像 貂を抱く女』1485〜90
赤外線写真のデジタル展示 クラコフ国立美術研究所



『岩窟の聖母の天使のデッサン 習作』1490〜94
トリノ 旧王室図書館所蔵




『ミラノ宮廷の貴婦人肖像 (美しき鉄細工師)』1490〜97 ルーヴル所蔵

上に示した『貂を抱く女』の連作とも言われる女性像
長らく「Belle Ferronière 美しき鉄細工師」と誤って呼ばれてきたが
実はそれは別の作品で
これは高貴な女性の肖像画であったことが最近の研究で判明している




『聖母子像 糸巻きの聖母』1501〜1510? Vers.1 アトリエ制作 個人所蔵



『聖母子像 糸巻きの聖母』1501〜1510? Vers.2
アトリエ制作 エディンバラ ドラムランリング城所蔵

当時の売れっ子絵師は
琳派や狩野派あるいは売れっ子浮世絵師のように
弟子たち多くと分業で仕上げるのが当時のやり方だが
本人が重要な部分を手がけ
周囲を弟子が埋めてゆく

アトリエ制作とは本人が主となって制作にあたるわけではなく
中心部(主人公)を本人が担当しないことも多い

上の二作は
どれもマリアの表情が完璧なダ・ヴィンチとは言い難い
ともに弟子の手で完成されているが
特に後の作品は前のものに比べて聖母自体の深みに欠け
背景の「スフマトー 空気遠近法」の山々も
後者はかなり稚拙だ



『レダ(白鳥の化身)』 1505〜1510 アトリエ制作
フィレンツェ オフィチーナ美術館所蔵



人体研究のみならず
森羅万象にあらゆる事象の研究に励み
植物学を確立し
天体研究は現代の高性能望遠鏡がなければ把握できない
地球の惑星の大きさや
太陽との距離や惑星間の距離をほぼ正確にメモに残している


極め付けが

比例配分上理想的人体構造の数値化をなし図式化した


ペン画 『ウィトリウィウス的比例配分の人体』 1489〜90 
ヴェネティア アカデミア美術館所蔵


実は
このあまりにも名高いペン画は
この特別展のための長い下交渉で貸与が決まっていたものの
開催前になって「脆く長旅に適さない」という貸し出し反対運動が起こり
パリに届かなくなった

特別展の開始3日前に届いたという曰く付きの宝物

ダ・ヴィンチは
古代ローマの作品の分析から「黄金係数」の再発見をなした

自然界に存在するもので
皆が皆
見て美しいと感じるものには自然界の方程式があった
それを会得した上で
古代ギリシア人の天才たちは建築や彫刻を生み出していた
1∶ √2
そこから導き出される比例配分


そして
1480年代になると彼は円熟の域に達していく




『岩窟の聖母』1483〜86 ルーヴル所蔵

この作品は
『ラ・ジョコンド(モナリザ)』(ルーヴル蔵)
『聖アンナと聖母子』(ルーヴル蔵)
『受胎告知』(ウィフィッチ蔵)
と並んでダ・ヴィンチの最高傑作の一枚であり
もう一枚ロンドンにあるのだが
ダヴィンチの指示で弟子が最終的に色付けをやっているので
このヴァージョンとは比べ物にならない

それぞれの登場人物の表現は他の幾つかの作品に流用されている


『女性の頭部 ほつれ髪の女』1500〜1510 パルマ イタリア国立美術館所蔵




『聖アンナと聖母子 または 聖アンナ』 1502〜03 ルーヴル所蔵



『(聖アンナと聖母子の)聖アンナの顔の習作』
英国女王エリザベス二世陛下特別貸与




『聖アンナ 聖母子と洗礼者聖ヨハネ』1500頃
ロンドン ナショナル・ギャラリー所蔵


彼は「遠近感」の再現にも研究に没頭した

一箇所の視点から広がる線上に奥行きを作る
あるいは
奥行きのどこかに消滅点を置くという
旧来の遠近法だけでは飽き足らず
画家の目の位置と描かれる対象物の
中間点のどこかに焦点を結ぶ描き方とか

あるいは光源が示されない環境での「光と闇」の対立的使用


『Saint-Jean Baptoste 洗礼者聖ヨハネ』1508〜19 ルーヴル所蔵

画面には対象人物のみ
背景に前後を感じさせるものは一切なく
ただ闇があるだけ
それで「ヨハネ(あるいはバッカス)」が浮き上がってくる

あるいは
緑豊かな山並みを見るとき
一番手前の山の緑が一番濃く
その後
薄緑 青 薄青 白
と変化する色の見え方を
単なる濃淡だけではなく
それを空気感で表現できれば
消滅点が無くとも奥行きを感じさせてくれる
『スフマトー 空気遠近法』
などなど

上の『聖アンナ』などでそれを確認できる

『解剖学的人間描写』『黄金分割』『空気遠近法』
ダ・ヴィンチの功績は語り尽くせない

しかし残念なことに彼は研究熱心すぎて
水彩絵の具を油で溶いたり
油絵の具を水で溶かしたり
植物性と鉱物性と動物性の絵の具の混在を避け
同一の種類の絵の具だけで書こうとしてみたり
そのため彼の絵は汚れて変色しやすかった
加えて
彼の絵の具の使い方は独特で
非常に塗膜が薄い
他の画家の半分以下の厚みしか無いので
これまでの技術では洗えず
変色しくすんでしまったものばかりだった

従って
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は原色がわからない
書かれた当時の色合いがわからなかった
最近になって
やっと最新技術で汚れを落とし
書かれた当時の色合いが見て取れるようになって来ている


最後に
「真贋論争」について

巻頭の『世界の救世主』だが
これは幾つかのヴァージョンがあるが
いずれもアトリエ細作
あるいは贋作扱いをされてきた

それで
このヴァージョン

『Salvatore Mundi 救世主』1505〜15

2017年のサザビーズのオークションで
なんと1億4千5百万ドルで落札された
美術史上最高額の売買となった
おおよそ180億円ですね

このオークションに先んじる事2年
どこかの権威ある団体が「本物のダ・ヴィンチ」という鑑定結果を出した事で
この値段がついたのだと思われます

購入者は身元を公表していないが
サウジの皇太子か
クエートの太守(エミラ)
またはスイス人ではないかと噂されており
現在スイス地方都市の小さな美術館が保管している

しかし
ルーヴル美術館による赤外線写真分析では
線が継続せず短い線を連続させるやり方は「ダ・ヴィンチのアトリエ制作」
でよく見られる現象としており
解剖学を極めた彼にしては右手の指の交差が不自然
晩年の彼の描く主人公は性別を超える感覚があるがこの救世主はあまりに男性すぎる
等々
ダ・ヴィンチ本人の真筆と断定するには懐疑的な意見が多い

真筆との鑑定は
オークションの売買成立のためではないか
との噂も

 ※

もう一つ
これは今回の特別展ではなく
それに先立つこと半年ほど前に
パリ近郊シャンティイ城の特別展『もう一つのモナリザ展』の主題
『裸のモナリザ』
と呼ばれてきた作品

『裸婦像 裸のジョコンド』インクとクレヨン シャンティイ城所蔵

パリ北方25kmのシャンティイに
ルイ14世の筆頭親族ブルボン=コンデ家の建てた
『シャンティイ城』
の最後の城主「オーマル公爵」が購入した
この裸婦像のための下書きはダ・ヴィンチのアトリエで制作されたもの
だろうと思われてきたようだ

しかしこの作品の完成画を
サンクト・ペテルブルクのエルミタージュが所有しており

エリミタージ所蔵の「裸婦像」の転写銅版画

銅版画の複製権を取得した出版者がフランスで銅版画を販売し
それを手に入れたオーマル公爵が真贋を確かめたいと努力したらしい
その後多くのコピーが製作され
またこの絵から構想を得た作品も多い

『ヴィーナス 裸のジョコンド』1515〜25頃 エルミタージュ所蔵

ダヴィンチの弟子の「サライ」の作であろうと言われている。
この弟子の作品はほとんど知られていない。

『ヴィーナス 美しきガブリエル』16世紀 制作年代不詳

『美しきガブリエル』という愛称で呼ばれてきた作品
ガブリエルとは
国王アンリ4世の側室の『ガブリエル・デストレ』のことと思われる


『ヴィーナス 裸のジョコンド』1515〜25頃 個人所蔵

ダヴィンチのアトリエ制作か
近い弟子の一人の作品と言われている
最新の研究でこの複製はシャンティイ城にある下絵から
作成されたことがわかった


『裸婦 フローラ?』カルロ・アントニオ・プロランチーニ 1620〜30
イタリア ベルガモ カラーラ・アカデミア・フォンダティオーネ所蔵


『浴室の婦人』フランソワ・クルゥエ 1571
ワシントン ナショナル・がラリー・オブ・アート所蔵


『ガブリエル・デストレと妹セザール・デストレ』作者不詳 16世紀フランス ルーヴル所蔵


『サビーナ・ポッパエア像』作者不詳 16世紀フランス
ジュネーヴ レゴ・ジャン・ジャッケ美術・歴史ミュージアム所蔵


キリがないので
この辺りで締めることにしよう

当然最後は真打にご登場願うことになる
そう
『ラ・ジョコンド または モナ・リザ』

『La Joconde   Mona Lisa』

長らく中断したままだったらしい「エリザベート・デッラ・ジョコンダ」夫人の肖像画
とおぼしきこの絵を
彼がなくなる3年前の1516年に
フランス国王フランソワ1世に招かれてフランスに来る際
『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』とともにフランスに持参し
ロワーロ河畔のアンボワーズに落ち着いて3年暮らしたのち
1519年に当地で没した
そのアンボワーズ滞在中に最終的に仕上げたと思われる

その他
『ミラノ宮廷の貴婦人像』『岩窟の聖母』の二点は
先にフランス国王が購入していたので
完成画は20数点しかないと言われるダヴィンチの真筆の
5点をフランスが所有している
その他
滞在中に弟子との共作をもう1点残した

『bacchus バッカス』

これは
かつては「洗礼者ヨハネ またはバッカス」と呼ばれていたが
最近になって(酒神)バッカスに統一
ほぼ焦げ茶色に汚れていたが500年祭を期に修復され
綺麗になりすぎて賛否かしましい状態になってしまった

これと『ラ・ジョコンド』とは特別展ではなく
常設の展示だった

とにかく
ダヴィンチにつては作品数は非常に少なく
語るべき事柄は多すぎる。
この特別展のためにフランス政府はイタリア政府と長年にわたって
交渉を続け
「理想の人体図」を含む7点を借り出し
イタリアで行われるラファエロ特別展のために7点を貸し出している
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =

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パリで美術三昧 <レオナルド・ダ・ヴィンチ> を "没500年記念特別展  ルーブル美術館2019年秋" で偲ぶ 

2021-02-04 00:22:11 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『レオナルド・ダ・ヴィンチ肖像画』
最も忠実な弟子であった フランチェスコ・メルジ画 1515〜18


2019年11月から2020年1月までの3ヶ月間
パリのルーブル美術館で
『レオナルド・ダ・ヴィンチ特別展』が行われた



ダ・ヴィンチの没500年という区切りの良い年に
最後の3年をフランスで過ごし1519年にフランスで没した『ダ・ヴィンチ』の
特別回顧展をルーブルが企画したわけです

今回はマルチ・プレーヤーの大天才『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
の軌跡を辿ってみよう


もともと彼は
1452年に中部イタリアはトスカーナの「ヴィンチ村」で生まれた
幼少時代に母親と離れ離れになった
という事以外は
あまり詳しくはわかっていないらしい
1460年代には
著名な彫刻家にして画家であった「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の
アトリエで修行を始めた様だ

『イエスと聖トマス 又は 聖トマスの疑い』ヴェロッキオ 1467〜1483 
フィレンツェ オルサンミケーレ教会美術館所蔵

特別展の最初の部屋の中央に
このヴェロッキオのブロンズの大作が置かれていた

復活したイエスを本当にイエスだと信じないトマスに
イエスが自分の胸の槍の傷跡を触らせてトマスに信じさせた
という逸話

主を失って絶望の淵にある弟子の苦悩
信じられない「復活」への疑い
真実に触れた驚愕と喜び
などの
暗い面と光の交錯を実に見事に表している

このヴロンズ像の背後を取り囲むようにして
二人の衣の襞を
部分ごとに試作したエテュードのデッサンが
ベロッキオ自身の物とレオナルドの物と10点ほど展示されていた


『スキピオ像』ヴェロッキオ 1464〜1468 ルーヴル所蔵

まだ共和国であったローマの将軍で
カルタゴのハンニバル率いる大軍を撃破した若き英雄の
この大理石のレリーフの表情を
ダ・ヴィンチは熱心に学んだ


そのダ・ヴィンチの決定的な転換点になったのが次の作品であった
オリジナルはフィレンツェにあり貸してもらえなかったので
研究用赤外線写真での展示


『イエスの洗礼』ヴェロッキオ 1468〜78 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館提供

洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエスの傍に
天使を二人書き込んであるが
そのうちの一人の天使を
親方ヴェロッキオは若き弟子レオナルドに任せた

部分

どちらが「ダ・ヴィンチ」の手になると思いますか

そう
左の天使です


このダヴィウンチが仕上げた天使を見た親方は
「こんな天使を書く画家がいる以上私は画家は辞める」
と絵筆を折り
以後ヴェロッキオは彫刻家として生きて行く決心をした
という逸話が残っている

その後彼は急速に頭角を現して行くことになる

そして
当時の絵画に新境地を開いた作品が
これ

『受胎告知』ダ・ヴィンチ 1470〜74  赤外線写真提供 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館

砂漠と礫漠と灼熱の太陽とが支配する
パレスティナで生まれたキリスト教にとって
『天国』の概念は
緑に囲まれ花が咲き誇り果実が実り
鳥のさえずりと蜜をもたらすミツバチの羽音
そして「貴重な」水のせせらぐ音
であり
それらは壁に囲まれた閉鎖空間の「秘密の楽園」として表現されてきた
絵画で『jardin Clos 閉ざされた庭園』と呼ばれる
大天使ガブリエルによるマリアへの髪の子を宿した告知は
ジャルダン・クロで描かれてきた

ところがこの作品は
壁がなく外の世界にそのまま通じており
受胎告知も「密室の出来事」ではなく白日のもとにななされている
読書中いきなり現れた大天使に固まって
右手は読んでいた書物のページを抑えつつ
しかし左手ではすでに
将来の「神の御子の母」として皆を祝福するポーズを取っている
そのマリアの
驚きと確信と毅然とした表情は
それまでのどの「受胎告知」とも違っている


オリジナル フィレンツエ「ウフィッチ美術館」所蔵

この作品の広範な影響の端的な例が一点展示されていた

『受胎告知』ロレンツォ・ディ・クレディ 1480〜85 ルーヴル所蔵

ついでなので
今回の特別展には関係ないが
影響の例をもう一点

『受胎告知』 ティツィアーノ 1535〜40 ヴェネティア サン・ロッコ教会所蔵

あのヴェネティアの
「ヴェロネーゼ」「ティントレット」と並んで
神と称された三大画家ティツィアーノすらここまで影響を受けている


そして
決定的な役割を果たしたのが次の作品

『東方三博士の来訪』ダ・ヴィンチ 1480〜82 未完
赤外線写真 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館提供

この作品は結局未完に終わったが
初めて「レオナルド・ダ・ヴィンチ」自身が指名されて受注した作品

この作品で
多くの登場人物のそれぞれの内面を語る意識溢れる表情の表現
マス(群衆)としての構図の配分
背後の戦いの中の馬群の動き
後方の建築物の建築的詳細の完璧さや遠近感
その他実に多くの要素が革新的に表れており
後世の絵画の技法や画家たちに大きな影響を与えた

しかし
彼はいわゆる「画家」ではない
論理学者 修辞学者
医学者 解剖学者 薬学者 植物学者
料理評論家
天文学者
工学者 土木技術の専門家 建築家 特に築城家
武器兵器開発者
外交官 
本人は「理想的国家インフラの建設と国土開発の専門家」だと思っていた
マルチプレーヤーのオールラウンダーの大天才だったのです
知能指数は
推定で280から400と言われてきた

この間にレオナルドは
フィレンツェ・トスカーナ大公の要請で
フィレンツェ大公特使としてミラノ公国へ派遣され数年間滞在し
その間にミラノの戦争を体験して
軍隊の「群衆」の表現や軍馬の躍動感と筋肉の現れなどを
つぶさに観察した

『ピドゥナの戦い』ピエーロ・デル・ポライウオーロ 1470〜75 
パリ ジャックマール・アンドレ美術館


『ルシウス・アエミリウス・Pクゥルスの凱旋』ポライウオーロ 1470〜75


そして敢えて言えば
絵画は数多の彼の才能を活かした活動の中の「おまけ」の一つ
と言っても過言ではない

『聖ヒエロニムスの改悛』ダ・ヴィンチ 未完 1480〜82 バチカン所蔵

注文主不明のこの未完の作品は
聖ヒエロニムスが主イエスと同じようにパレスティナの砂漠で
数々の誘惑に打ち勝つ40日間の修行をしている際の
心身両面での痛み苦しみと苦悩や軋轢や逡巡などが
筋肉の一筋一筋に至るまでを使って現されており
かつ
レオナルドの永遠の希求であった「限りない自由」の視覚的表現
など見事である


人間の内面観察
そして
肉体観察

彼は人間観察に熱中し

デッサン 人間の横顔の研究 1478〜80 ウインザー城所蔵
英国女王エリザベス2世陛下特別貸与

デッサン 聖母子と聖ヨハネ 人と動物のプロフィールの研究
1478〜80 ウインザー城所蔵 英国女王特別貸与

教会の許可を得て
死刑囚の亡骸を解剖する

ペン画 人間の体の各部位の比例半分研究 1489〜90
トリノ 旧王室図書館所蔵

ペン画 頭蓋骨と口腔と歯の研究 1489 ウインザー城所蔵

ペン画 解剖覚書 腕 1510〜11 ウインザー城所蔵

熱中のあまり
教会の許可を得ずに教会墓地を掘り返して訴えられ
逮捕投獄されかかったことすらあったが
彼の功績により
近代的「解剖学」が確立し
その解剖学を美術の分野に取り入れる画期的な業績を残した

一生涯ただ絵画を描き続けていたわけではなく
しかも途方もない完璧主義者だったので
気に入らなくて途中で筆を置いた事も多く
フィレンツェ大公の特使としてミラノ公国へ派遣され
そのミラノの特使としてヴェネツイア共和国に派遣され
一箇所に止まれなかったためにも
絵が完成しない事が多かった


若い男性の頭部肖像画の流れ

『ネロ帝の肖像のセステルス銀貨をもyす若者』ハンス・メムリンク
1471〜74 アントワープ コニンクリィーク美術館所蔵

『青年の肖像 傭兵』アントネッロ・デ・メッシーナ 1475 ルーヴル所蔵

『譜面を持つ青年の肖像 音楽家』ダ・ヴィンチ 1483〜90
ミラノ アンブロジアーナ絵画館所蔵

同じような男性の肖像で
それぞれに
モデルの意思や人格が伝わってくる傑作ではあるが
メムリンクというイタリアから言えば辺境フランドルの画家と
ルネッサンスの本拠地イタリアでの
10年強の時間差の中で
表現された結果が飛躍的に深まっていくことがわかる
加えて
内面の精神性の表現に加えて
骨格や筋肉の肉付きとその動きによる表情が相乗効果をもたらす
昇華が見られる

その他
この世の森羅万象全てに興味を示し
克明に観察し研究した
現代の天体望遠鏡でないと解明できないはずの
地球の各惑星の大きさと太陽との距離などを正確にメモに残している

植物にも同じ姿勢で臨み
原題の植物図鑑に遜色ない図録を残した

ベツレヘムの星・野生のアネモネ・トウダイグサ 1505〜10
ウインザー城所蔵 王室コレクション

ダヴィンチの絵に描かれる草木は
幻想的に見えるが架空のものではなく
全て自然界に存在している実物が忠実に再現されている




この項は明日に続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
皆様方のご意見をお待ちします
「長すぎる」「説明が多すぎて煩わしい」「もっと説明がないとわからない」
その他何でも「コメント」ボタンから「コメントを送信する」で送信フォームになります
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パリで美術三昧 <ジャックマール・アンドレ美術館 3 ターナー特別展 水彩画>

2020-10-05 00:27:34 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『山の峠』1833



ターナーの水彩画は
実に独特の境地を切り開いている

油彩のタブローと同じように
「風景画」に特化し
闇と光
霞と光
古典的アカデミスム と 革新的破壊的無秩序

とが対をなして交互に現れる

冒頭の「アイキャッチ」フォトは
アカデミスムではない方の側

もちろん

油彩と違って
複数の色の塗り重ねはやらない
色が濁ってしまうから

だから
表現の技術は違う

しかし
非現実的な光の捉え方は
油彩と同じ


『テームズ河とキュー橋』1805



『テームズ河 クィルウォール付近』1808

この辺りは
アカデミスム

『橋とヤギの群れ』1806〜07(銅版画)




『シヨン・ハウスと アイルワース近くのキュー宮殿』1805


だが
一方では

『ゴールデイル・スカール』1808

この
岩の渓谷の水彩になると
かなり自由な光の使い方になっている


『エディーストーンの灯台』1817



『サン・ジオルジオ・マッジョーレ教会』1819



『スカルゴトウ』1825



マルリー・シュー・セーヌの合流地』1829〜30



『ルーアンの時計塔』1832



『カーンナヴロン城』1833



『ホワイトヘヴン、カンブリア』1835〜36

沖合の海上に降る雨
このパターンはターナー好んで用いて
繰り返し描いた



『ハーレック城』1834〜35



『バンブール城、ノーサンバーランド』1837


アカデミスムの手法の作品と
具象を感じない光と色彩の混交の作品と

混じり合って発表されているいのは
前者が
主に後援者からの注文制作で
後者は
展示会への出品目的で描いた自分のための作品
だったのかもしれない



『虹の下のアーレンブライシュタイン』1840




『レマン湖 ローザンヌ付近オーシュ岩と共に』1841



『リッシュナウ、上ライン河』1842〜43



晩年に近づくと
「夕景」に注力してゆく

『ヴェネチア、潟の上の日没』1840


先駆けは
すでに1830年になる前から有った

『ペッチハウスのテラスから見た庭園への日没』1827

これはまだ写実性が見られる

こうなると....

『日没』1845

具象は何も見られない
光と
光がもたらす色彩の集合だけ

『黄色い日没』1845


そして
夕陽があるなら
朝日もあるはず

『日の出、岬の間から戻ってくる漁船』1845


ここまでくるとお分かりですよね

『印象、日の出』クロード・モネ(1872 )



『ラヴァクール付近、セーヌへの日没、冬の効果』モネ(1880)


いかがでしたか。


※ 以下おまけです ※

クロード・モネ『ロンドンの国会議事堂』連作


『ハウス・オブ・パーラメント(国会議事堂)』1900〜1903


『国会議事堂 日没』1902


『霧 ロンドン 国会議事堂』1903


『国会議事堂 日没』1903


『霧中の国会議事堂』1903


『国会議事堂 ロンドン 霧の効果』1903


『国会議事堂 かもめ』1903


『ロンドンの国会議事堂』1904


『かもめ テームズ河と国会議事堂』1904


『国会議事堂』1904


『国会議事堂 日没』1904


『国会議事堂』1904



『ロンドン 国会議事堂 テームズの水面の反射』1905




※※ 更におまけ ※※

ジョゼフ・ウイリアム・ターナー
『炎上する国会議事堂』
三点


『1834年10月16日 炎上中の上院と下院』1934


『炎上する国会議事堂』1937


『炎上する国会議事堂 1834年』1934 水彩


さて
次回はまたスペインに戻りましょうか?
お楽しみに

= = = = = = = = = = = = = = =
以下のサイトも御覧ください
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パリで美術三昧 <ジャックマール・アンドレ美術館 2 ターナー特別展>

2020-10-02 00:39:22 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『ヴェネチアの祝祭』1845 (晩年の作)



ヨーロッパ絵画の『朦朧体』の元祖
ジョゼフ・ウイリアム・ターナーも
まだ若い頃は
アカデミックな(美術大学風の/宮廷風の)絵を描いていた

『アエネアスとシビル』1798
ターナー23歳の作


その後の10〜15年間ほどは裕福なパトロンに恵まれ
順調に「大向こう受け」するアカデミスムに基づいた描き方で
作品を次々と発表した

『ペンブロックシャー、キガレン城』1798〜90



『リッチモンドヒル丘と橋のある風景』1808


しかし

『ハンニバル軍のアルプス越え』1812

このように
1810年に入ると既に
闇を表現の主体にした朦朧とした独特の空間表現も
始まっていた



『美しい岩の上の灯台』1819

しかし30歳代ではまだまだこのような
具象に則った劇的な表現が多い

その後は
闇の中の光の扱いより霞がかった空間を透しての光の具合へと
変わってゆく

『モルトレイク湖の湖畔のテラス』1827


『ネミ湖』(1827〜8)


『黄金のブランチ』1834


『ヴェネチア、ドージュ(元首)の船出の式典』1835


『ヴェネチアの波止場、元首の宮殿』1844


『イルカのいる荒れた海』1835〜40



『岸辺に近くヨット』1844〜45



『墓参』1850

ジョゼフ・ターナー
亡くなる前年の作品


「光とは
明るいか暗いかではなく
今目にしている色彩こそが今この時の光の効果であること」
(クロード・モネ)

という発見から
『印象主義』という表現方法を編み出したモネは
中央の画壇からは批判され無視され
もがいていた時

イギリスに渡って
ターナーの作品に触れて
自分がやっている事は間違ってはいなかった
自信を取り戻した。


『紅の朝日』1830〜40頃

この
ターナーの水彩画に
モネが大きなインスピレーションを得たことは
感じ取れる方はお分かりになるはず


ターナーは油彩も素晴らしいが
「水彩画」
にも
また特に秀でていた

次回は
その水彩画をご紹介することにしよう

= = = = = = = = = = = = = =
以下のサイトも御覧ください
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パリで美術三昧 <ジャックマール・アンドレ美術館で ターナーの特別展をやってる>

2020-09-30 16:28:06 | 素晴らしき世界/パリ/美術
パリ9区オスマン大通り 『MUSEE JACQUEMART-ANDRE』



19世紀後半に裕福な銀行家のエドウアール・アンドレさんは
巨額の遺産を受け継いでパリに大邸宅を建て
若き画家ネリー・ジャックマールさんと結婚します。

これが
美術館の名前の由来


皇帝ナポレオン3世の衛兵の制服姿の
『エドウアール・アンドレ』(1857)


生来美術収集家であった彼は
妻ネリーの助言も受けて数多くの見事な作品を集め
エドウアール亡き後ネリーが引き継ぎ
それがフランス学士院に遺贈されて
20世紀初頭に建物ごと美術館になりました





大通りから
玄関を入るとそのまま中庭に抜けるような構造で

中庭にある正面玄関から館内に入ります

入って最初の「エントランス・ホール」には
壁全面に絵画
その他彫刻や工芸品がうじゃうじゃと飾られていて




左右の壁の上部に一枚ずつ
『フランソワ・ブーシェ』の珠玉の小品が二点


『ユノンの宝石を身に付けるヴィーナス』(1738)


『アモルに見守られて眠るヴィーナス』(1738)


『ターナー特別展』をご紹介する前に
常設展を一回りしてみよう

作品群もだが
内装自体が素晴らしい


次の部屋は『グラン・サロン』


レセプションなどはここで行われた




天井画も見事だが
大きすぎて写せない


ここから左に展示室が連なる




テーブルもチェストも
宮廷指物師の名品ばかり

そして
天井画が『ティエポロ』だったりする



『裁きと平和のアレゴリー』(1741/42)

もちろん
この邸宅の建設時に
ティエポロをイタリアから招いて書いてもらったわけではない

イタリアで
彼の天井用板絵を見つけて買い取って
この天井に使用した

別の部屋にも

『ヘラクレスのアポテオセス(神格化)』



個別の展示作品から
著名は画家の作品を幾つか挙げてみる

『検事の肖像』 アントン・ファン・ダイク (1620頃)



『老人の頭部』ジャン=オノレ・フラゴナール(1767〜69)



『エマイウスの巡礼』レンブラント(1628頃)



『男の肖像』フィリップ・ド・シャンペーニュ(1652)



『ヴェニスの空想的入り口』グアルディ(1778〜80)




上の回に上る階段が見事な造形なのです




その周辺にも
古代文明の彫刻やレリーフがいくつも飾られている

『ギリシアの大理石像』2世紀



『襞のある衣服の神像』紀元前4世紀



『翼のないニケ像』(ヘレニスム時代)


階段を登ろう




壁の上部に
またティエポロのフレスコが

『コンタリーニ家に迎えられるフランス王アンリ3世』(1745年頃)


上の階に細かな工芸品が飾られたケースがあり
中にヴェロッキオのブロンズ小品があった



あのレオナルド・ダ・ヴィンチの
唯一の師匠
当代一と言われた彫刻家にして画家

『聖ヨハネの洗礼』を描くとき
隅の天使の一人を10代の弟子レオナルドに任せたところ

自分の描いた天使と比べてあまりの見事な出来栄えに驚愕し
筆を折って二度と絵画の注文は引き受けず
ブロンズ彫刻だけに専念した

あの
ヴェロッキオ


そのまま二階の奥に進むと「特別展」の会場だが
そのご紹介は次回にして

一旦下にまた降りる

この邸宅が美術館になる前
上流階級の住居だったことを偲ばせる
当時の室内の幾つかが往時のままに
保存されている













ほとんどの家具調度は
ルイ15世か16世の時代のもの
つまり18世紀

ため息をつくだけ


では『ターナー特別展』は
次回にご案内します

お楽しみに

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下のサイトも御覧ください
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パリで美術三昧 <マルモッタン美術館 モンドリアン特別展>

2020-09-27 01:01:26 | 素晴らしき世界/パリ/美術
モンドリアン『青と黄とピンクのコンポジション』



2の0世紀前半の抽象画家として
その作品を
あらゆる場所で目にしてきた代表的な画家は
『モンドリアン』
ではなかろうか




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