行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

プロヴァンスを巡ろう 19 <南仏/プロヴァンスといえば丘陵の村 その典型 ゴルド>

2020-11-30 00:30:46 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
Gorde 村



ヴァントゥー山塊の最南端
リュベロン山塊の最西端

ちなみに
『Mont Ventoux  ヴァントゥー山』は標高1900m強ある
リュベロンの『Mouurre Négre  ムール・ネーグル山』は1100m程


冬季は冠雪するヴァントゥー山


その結構広い『ヴァントゥー山塊』のはずれの
なだらかな穹窿地帯の丘の一つが
典型的な丘の村
『Gorde  ゴルド』です


お約束で
頂上は城と教会がある

村の中に入ると
実は車で頂上まで登れる通りが一本あるが
あとは
石畳の細い道しかない

しかも
「上る」か「下る」か








丘の麓が見える路地も





水場と(昔の)洗濯場もある






そして
頂上は以外と開けていて平ら
そこに
巨大なお城






教会は
右奥にやや縮こまって見える

この村は
今でこそ「村」だが
その昔は強力な領主の拠点の町だった事が偲ばれる


教会は
『Eglise Saint Firmin  聖フィルマン教会』
この「フィルマン」はオキシタン語の呼び名で
フランス語では「ジェルマン」
スペイン・バスクに「イルーニェア(カタルーニア語でパンプローナ)」で
サン・フィルミン祭という名高い『牛追い祭り』がある





中は
外観で想像する以上に広く
北部フランス王家の文化「ゴシック」が広まらなかった南仏の
特徴で
より古い「ロマネスク」でなければ
16世紀以降のラテン的「バロック」の型落ちか「イエズス会様式」


イエズス会様式の躯体に
ラテン的な色彩を加えてある

そして
「地下祭室」が興味深い


ほとんどの教会は
今日の規模と形になる以前に
古い時代の小規模な教会が存在した
その古い教会堂を「基礎」にして
その上に新形式のより大規模な教会堂を建てて来た背景あある


この村のように丘の斜面に立地していれば
頂上でない限り
既存の建物を基礎として
その上に新たに建物を建てることはより容易であったはず



それらは
教会が所有する「聖人」の遺物の保存用礼拝堂だったり
聖職者だけの特殊なミサを執り行う
「地下祭室」
になっていることが多い


左側の壁に「1999」と見えるのは
その年に修復工事が行われたことを示している

ここは「地下聖堂」ではなく
「文化財」
として保存されており
教会内部から降りるのではなく
外に別の入り口がある



この『ゴルド村』は
夕景が特に美しい


そして
この角度から見ると
教会も結構大規模なのが見て取れますね

しかし
頂上ではないことが象徴的


ところで
この「ゴルド村」に
素敵なホテルがあります

車で登れる舗装された通りの頂上直前の右側
『Bastide de Gordes  バスティッド・ド・ゴルド』

城壁と空堀に囲まれた
市街地ではない場所に戦略的に計画されて作られた町(今の規模なら村だが)を
バスティッド
と言います
「要塞都市」なんて訳すが言葉が重い気がする


通りから玄関を入ると小さなレセプションがあって





鍵掛けのボードが素敵だ
ちなみに
カードキーではありません

そのまま階段を降りる

内廊下

何しろ丘の斜面に建てられているので
地上階から下に何階か下がって行く形になっている



共用空間






おそらく
一番広い共用スペース


外廊下(斜面側)


レストランはこんな具合ですが





夏場は
誰もそこでは食事をしません

   



特等席

こんなテラスもある


こんな環境なのに


プールまで
ちゃんとありますよ

それで客室は


スイート・ルーム
テラス付き


そのテラスから
お城が見える

ジュニア・スイート






デラックス・ツイン


外向きです
(ベッドは二つに分けることもできます)

ここは
お料理にも定評があります

少しだけ見本を

グリーン・アスパラガスを使った前菜



スフレのデザート





この『ゴルド村』の丘は
周りが
こんな石灰岩の荒々しい丘陵地なのです


= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 18 途中でちょっと気分転換 <水のプロヴァンス フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ と イル・シュー・ラ・ソルグ>

2020-11-27 00:26:19 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
ルネッサンス期の知の源泉『フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ』



今回は不思議な水源地をご紹介しようと思います
その名は「ヴォークリューズの泉」『フォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ』

アヴィニヨンの北から北東に伸びる
『ヴァントウー山塊』の中
山だらけの土地に巨大な湧き水の洞窟がある

この場合の「泉」は
『水源地』
という意味です

冬場の最大水位

夏場は
源泉の水位が下がりほとんど溢れださなくなる

最低水位


途中から染み出す経路が他にいくつもあるので下流の流れは途切れない

ほんの少し水面が現れ始めた頃



そろそろ
洞窟から外に溢れ始める

最高水位になると
上の写真の右端の木が半分以上水没する


中規模水位


ほぼ最大水位

それが冬場になると
20m以上も水位が上がり
激しく溢れ出て様相が一変するのです

ここの水深は
数百メートルあると言われるが
正確には計測されていない

潜水夫が潜って事故が起こったこともあるそう


 水源地から流れ出した清水は
ソルグ川と呼ばれる

源泉以外の出水口の一つ




背後の岩山の上に城がある
アヴィニヨンの大司教(教皇ではない)の城



このような風光明媚な場所に
大詩人『ペトラルカ』が別宅を構えた


政変で故郷フレンツェで財産を失った
当時ペトラルコという名の公証人が
詩才を発揮して全欧に認められ

ローマ教皇ボニファティウス8世の特使
プロヴァンス伯でありナポリ王ロベール1世の寵を受け
ミラノ大公ヴィスコンティの特使
などの要職を歴任したのち

ローマ教皇がアヴィニヨンに法王庁を移すと
彼もアヴィニヨンに挙措定めた

最高権威者「ローマ教皇」の宮廷である法王庁には
全欧から
富と権力と文化が集中したのです

ただ
法王庁とヨーロッパ各国権力者とのは間で疲れ切り
ここ
ヴォークリューズに瀟洒な屋敷を購入し
従僕2名馬1頭
集めた膨大な書物
だけを持って引きこもる

その間に
架空の貴婦人『ラウラ』への全身全霊の愛を捧げる詩文を書き
友人『ダンテ・アリギエーリ』や
『ボッカチオ』が
訪れては
友好を深めた

ダンテは
この源泉池の水の噴き出す幻想的な光景に触発されて
『神曲』
を書いた


このような清流が
林の中を2キロほど流れると
地形が開けて村になる

途中に水車を使った製紙アトリエもあり
未だに観光用に稼働していたりする







水車の回転軸が


カムを通して槌を上下させる


その大小の槌が
古紙や布切れを水に浸した原料を砕き
何段階かの
同じ操作を経てドロドロにする


それで紙を漉く


その際に
南仏の花々の「花びら」を混ぜ込んだりもする

漉き終わって乾燥中

花びらを漉きこんだ
カラフルな手漉きの紙が出来上がる

村までくると



両岸にレストランが立ち並び



夏場は観光客があふれて


一躍
観光地の風情を高める



さらにその先に
何かの工場があり


あとは
林を抜け畑を横切り
鉄道も横切り




いくつかの村々を通り過ぎて
7〜8kmで
『イル・シュー・ラ・ソルグ』
という町に至る

※  ※  ※

『L'Isle-sur-la-Sorgue リル・シュー・ラ・ソルグ』
直訳して「ソルグ川の島」

その名の通り
川が二股に分かれて大きな中洲を挟んで流れる土地


町全体が『ソルグ川』で成り立っている
かのような町



かつては
製糸業や製粉業で成り立っていた


今は
骨董の専門業者が集まる町
として名高い


『Village des Antiquaires de la Gare  駅骨董店村』
とい一角には
『Quai de la gare  駅ホーム』
という名の40店舗ほどの塊りを始め
多くの骨董・古物商が集まっている




日曜日ごとに「骨董市」が
周辺の人々を呼び集める





さらに
毎年8月に60年の歴史を誇る
『リル・シュー・ラ・ソルグ国際蚤の市』
が催され
 町中が
世界中からのお客で溢れかえる

世界三大骨董市の一つと言われている







さらに
8月の第一日曜日は『舟市』
近隣の農家の作物である「野菜・果物」と
特に「花」
を売る船が河岸を賑わせる
これも60年の歴史がある












こうなると
もはや収拾がつかない大騒ぎ


そして
なんと川の中に


こんな
ユーモラスな飾りまでありました

普段は


こうなんですけどね


島の中に
狭い水路が通っていたりもします


水車も
一つや二つではございません







では
普段の静かな『リル・シュー・ラ・ソルグ』
に戻って






今回はおしまいにしましょう

プロヴァンスを巡るのは
まだまだ続きます
= = = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 17 <アルル以東 アルピーユ山塊で最後に訪れるのは サロン・ド・プロヴァンス>

2020-11-25 00:11:35 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
Musée Grévin (グレヴァン蝋人形博物館)の外壁


「レ・ボー」から30km
やはりアルプスから流れてくる『デュランス川』のほとり
『サロン・ド・プロヴァンス』

ノストラダムスの終焉の地
として知られている

やはり
以前は城壁で囲まれていた中心部は
城壁を取り去った跡に通りがあり
城門はいくつか残っている

時計の門

旧城壁内は
16・17・18世紀の建物が綺麗に修復された
清潔で落ち着いた商店街になっていて




その中の
商店の少ない比較的静かな一角に
ノストラダムスの終(つい)の住処が記念館として
残されている


4階建ての家で
小さな中二階付きの生家と比べると
彼の社会での成功が想像できる


玄関口の右に
彼がここで最後過ごして亡くなったことが
明記してある


【この家で
『ミッシェル・ノストラダムス』
占星術師にして
国王担当医
『諸世紀』の著者
最後を生き ここで終いえる】

ここには書いてないが
宮廷での成功が周囲のやっかみを呼び
1547年には地元に帰り
この家を購入して19年ほどを過ごし
その間に
天恵を得て『諸世紀』を認めた

自分が見た「衝撃の未来のあまりの驚愕的内容」に
公にしたくない気持ちと
後世に残しておきたい気持ちとがせめぎあい
結局
一見具体的内容は感じられない4行詩120数編という韻文
を編纂し
リヨンの印刷行者に出版を委ねた

内容の正確な解釈は
未だなされていない


実は
建物の内部はあまり対して見るべきものあありません

多少の古い調度と人形などを使った
歴史的足跡の再現


一心に信頼を受けた
「王妃カトリーヌ・ド・メディシス」との情景が
何景かある



姓はラテン語綴りで『ノートルダム(我らが夫人=聖母マリア)』
名は『ミッシェル(大天使ミカエル)』
という錚々たる名前

ちなみに
息子の名は『セザール(カエサル)』

その
息子が書き残した『父ノストラダムス』の
肖像画が残っています



そのミッシェルは
この家で亡くなり

墓碑銘

彼の遺骸は
街の『サン・ローラン教会』に葬られ
この壁に封じ込められて
色違いの部分に墓碑の彫刻があったであろうと思われる




教会の全体像は
修復されすぎているものの
極めてシンプル
鐘楼と正面扉口のみ
古を忍ばせる



先ほどの『時計の門』から内側にまっすぐ入って
最初に出る小さな広場に
ノストラダムスのモダンな彫刻が飾られている





この不思議な彫像とは別に
昔の彫像も
ちゃんとあります


さらには

泉水にも


 巻頭の写真は
パリに本館があり各都市に支館を持つフランスの蝋人形館
『Musée Grévin  グレヴァン博物館』

ここにも
ノストラダムスのコーナーがあったが
残念ながら
閉館してしまったらしい


話変わって
南国は町のいたるところに噴水がある
イタリアもスペインも
思い思いの彫刻などの意匠を凝らして

ここ『サロン・ド・プロヴァンス』の市民にとっての街のシンボルは
『苔むした噴水』
なのです


実は
後日ご紹介する予定の
『エックス・アン・プロヴァンス』にも
シンボリックな苔の噴水があります

それから
この町のはもう一つ歴史的建造物があります
町に隣接する高台にそびえるお城
『Chateau de l'Emperi   シャトー・ド・ランペリ』


この町サロンの領主は
アルルの司教を兼ねており
夏の居城として10世紀頃からここの城を建てはじめ
13世紀頃まで増築していたらしい





だらに16世紀にルネッサンス期の増築もなされた


中は
ルイ16世時代から第一次大戦までの
フランス陸軍各部隊の
制服や制式サーベル
銃器の類
あらゆる兵器の展示がなされる
『Musée del'Epmeri』

特に
ナポレオン時代は
資料も多く
部隊ごとの美しい軍装は
戦争の現実を忘れさせられる

ただ
お城自体は
町の反対側から見た方がはるかに量感も美しさも
堪能できます



町の『サン・ミッシェル教会』に
カトリーヌ・ド・メディシスの末息子
シャルル9世に
『褒賞をもらうノストラダムス』
のレリーフが残っている



右側の
左手で杖をついているのがノストラダムス

小さな町で
アルルやアヴィニヨンみたいに見るものがたくさんあるわけではないが
静かで雰囲気の良い町だ




苔の噴水の周りのカフェは
昼も夜も市民で賑わっている





そして
市役所には『オキシタン』の旗が

プロヴァンスという国は
やっぱり
『オキシタン』なんだな





※  ※  ※

サロン・ド・プロヴァンスの町の郊外に
見事なお城があります
『Château de la Barben  シャトー・ド・ラ・バルバン』


マルセイユの『サン・ヴィクトール大修道院』所有の城で
紀元1000年頃の要塞を
代々拡張し

15世紀後半に
ギーズ公にしてロレーヌ伯
アンジュー公にしてプロヴァンス伯
ナポリ王にして
エルサレム王
そして
アラゴン王
であった
『Bon Roi René  善良王ルネ』
こと『ルネ1世』にゆ譲り渡され
その後
地元の有力領主の手に渡って500年間維持されてきた


このルネッサンス期の美しい階段が特に名高く


内部も見学できる
見せてもらえる数々の部屋は素晴らしい
のですが

しかし
もっと凄いことに

ここに
泊まれるのです


こんなお部屋に泊まって



こんなお部屋でお食事をいただいて



こんな雰囲気でお茶やお酒がいただける

大きな広間や
様々な空間があるので
披露宴
パーティー
コンサート
など
多目的に借りることができます

プロヴァンスを訪れるのは
実に多くの体験ができますよ
= = = = = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
「長すぎないか」「説明がくどすぎないか」「説明不足ではないか」「単なる案内書みたいじゃないか」
あれこれ悩んでおります
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プロヴァンスを巡ろう 16 <アルピーユ山塊の中で 生ける村と死せる村が共存する中世の村 レ・ボー>

2020-11-23 01:28:11 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『レ・ボー・ド・プロヴァンス』遠景


サン・レミーから10km南に下ると
この世の奇観
と呼ばれてきた場所がある
『Les Baux de Provance  レ・ボー・ド・プロヴァンス』
「Baux」
「美しい」
と一字違いの同じ音

カルスト高地の一山全体が
奇観


山肌の両側ともに切り立つ絶壁で
中腹に
未だに人が住み暮らす「生ける」中世のままの村があり
頂上に
中世の終わる頃打ち捨てられた「死せる」村が残る


駐車場からアクセスを進み


突き当りの建物と旗の間を抜けると
壊れていた(敢えて壊した?)古の建物の跡の空間が
村の入り口になっている

本来ここは村はずれで
ここから入れる様にはなっていなかった




村の中は
お土産屋と
カフェが並ぶ「人の住む」中世のままの村







この村も一つの小教区で
教会もある


『Eglise Saint-Vincent  聖ヴァンァン教会』

その側面の屋根の高さに
小さな丸い塔が乗っかっている


これは鐘楼ではなく
「野辺送りの火」を灯す塔なのです

先回『モーゾレ』でご紹介したように
この地方では
死者が出ると一定の期間
夜間に火を灯して葬った習慣が有った様です


それから
白衣の贖罪団礼拝堂というのも


重罪ではない軽微犯罪人が
白い貫頭衣に荒縄のベルトを腰に結んで
贖罪の巡礼を刑として言い渡されたことがありました

その時立ち寄る礼拝堂なのです


右が『サン・ヴァンサン教会」
左が「贖罪礼拝堂」


ところで


「生ける村」の端は100mはありそうな断崖絶壁
家並みの右の緑地は谷底です

その絶壁に
城壁の一部と城門が残っている


『Porte Eygières  エギエール門』


ここが
この村の主たる入り口(大手門)だった


レ・ボーは小さな村だが
「生ける村」の細い道を左右に寄り道しながら登っていくと


土産店やレストランが無くなって行き


やがて
岩盤をくりぬいて作られた『切り通し』の道になります


わかりにくいですが
左右が岩盤を削って作った道
突き当りでやや右に曲がると
関門がある

そこまでが
普通に人々が暮らす「生ける村」なのですが
そこから先は
「死せる村(ゴーストタウン)」となり
文化省の史跡なので有料となる

そこから先の
唯一の原型をとどめている建物が
礼拝堂


そこからは「廃墟」です
頂上の城の足元に家並みが集まって
まさしく「城下町」を形造っていました

15世紀頃の病院の後は
壁の基礎部分だけ残っていて50mx30mほどもあった

村はずれであった平らな場所に
中世戦国時代の「カタパルト(投石機)」などの複製が
飾られている


そして
いよいよ17世紀頃にペストの大流行のあと住民が去り
打ち捨てられた「死せる村」となる


この高さが
当時の村の地面で
右側の突出した岩の中をくりぬき
外側には切石を積んで騎士たちの館や
住民の住居が立ち並び
石畳の道路には側溝すら切ってあったのです


このように刳り貫いた岩盤の空間に
柱を立て梁を渡して
住居を作っていた


ここが
何階建ての建物であったか想像できるだろうか


岩山の天辺で町を創る
人間の英知には驚かされるものがありますね


天然の岩山の張り出しと
その下に
人工的に立てる建物との
支えの柱の作り方も見えている

その
頂上の上にさらに突出する岩塊の上が
お城の有った位置

途中まで登ると
城の真下の町の遺構が理解出来る


写真では不明瞭だが
幅1mほどの通りが曲がりくねって
その左右に家が建っていた
もちろん
天然の岩塊の中にも組み込まれて
通り自体も
岩盤を削りとって路面も側溝も一体構造で出来ているところすらある

その城だが



村の反対側の外の斜面からの光景よく見ると
右上の手すりが見える
そこが岩塊の頂上の高さ

この写真は
完全に全体の外側の斜面から撮ったっもので
村にいては
この光景は見えない

天守は
その頂上のえぐれているくぼみを利用して
半地下(二階か三階)
半地上(二階か三階立て)だったと思われる
地下の部分は
外側にはちゃんと窓があり採光に問題はなかったはず

それ以外の建物も
岩塊の長く伸びる先まで続いていた


この手摺りから左側は断崖絶壁で
250mもあろうか


この写真は内側(村側)から
天守より先(右側の部分)を見ている


こういう角度で見ると
いかに多くの建物がぎっしり集合的に建てられていたか
理解出来る


ここは
城跡の突出部とは違う
単一で高くなっているところの塔の跡だが
ここから「生ける村」を見下ろすと
屋根屋根が非常に美しい


こう
見えるのです

位置関係はこうなる


左端の突出部のすぐ右のくぼんでいるところが
「地面」の高さ
その右の高く右に伸びるところが城跡の頂上です


最後にとっておきの話題をご紹介しよう


これ
なんだかお分かりだろうか?

『Bauxite ボーキサイト』

 そして
これが「アルミニゥム」の原料なのです

19世紀になってすぐ
化学実験室で原子番号13を与えられた
新しい金属原子が人工生成され
『アルウム』
と名付けられ
その後
実際の金属が『アルミニゥム』となる

その直後
レ・ボー・ド・プロヴァンスの鉄鉱石鉱山で
その
アルミニゥム元素を含む鉱石が
発見された

その鉱石は
アルミニゥムを60%程も含有していた

世界で最初の
アルミニゥムの天然鉱石の発見が
レ・ボー
でなされたのです

それを記念して
「現場=サイト」という言葉を末尾につけた造語
『ボーキサイト』
が生まれました

私たちが現代に
飛行機や宇宙船
レーシングカーや iPhone などを手にしているのも
この発見がなされたから
と言っても過言ではありません
= = = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 15 <古代ローマと ノストラダムスと ゴッホの サン・レミー・ド・プロヴァンス>

2020-11-20 00:55:26 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『サン・ポール・ド・モーゾレ修道院病院』正面進入路


モンマジュールから南南東の10kmほどで
『サン・レミー・ド・プロヴァンス』
という
小さな町がある

その町に所縁のある歴史的人物が二人
『ミッシェル・ノストラダムス』と『フィンセント・ファン・ゴッホ』

まず
一周車で6〜7分で足りそうな
かつて街を囲んでいた城壁の外の皮堀を埋めた道路から
ほんの3分内側に入った狭い路地にある
小さな家で
『ノストラダムス』の生家がある



二階部分の十字架型の支えの入った
埋められた窓のある建物で
1503年12月14日
彼はここで生を受けた

父親は公証人
ということはインテリ階級に属する中産階級の出
なぜなら
当時
庶民は石造りで十字架支え窓の建物を所有することは
庶民にはありえなかった



彼の誕生を記した名盤がはめてある

彼は
オキシタンの都会モンペリエの大学で医学を修め
人はまだ疫学的知識を持たなかった当時
患者の隔離と
手洗いと消毒の徹底を教えて
大流行していたペストからある町を救ったことすらある
優秀な医学者で
薬学者で天文学者で
詩人で
占星術師
であった

リヨンとパリと宮廷とで大活躍したのち故郷に帰り
ここから40kmほど離れた『サン・ポール・ド・プヴァンス』で没している

その町に関しては後日触れることにしましょう


今は無き城壁から外側方向に車で10分ほどで
ゴッホが入院加療を受けた『サン・ポール・ド・モーゾレ修道院病院』がある



巻頭の写真のアクセスで至る二番目の門

アルルの町の係りに半強制的に入院させられたゴッホは
永久に閉じ込められることを恐れて逃げ出し
20km離れた
ここ「精神病者の治療」で知られていた修道院の戸を
自ら叩いたのでした


修道院ですから
お約束の回廊もある


この周りの上の階に
彼はふた部屋を与えられた


病院で
王侯貴族以外に「個室」など発想すらなかった時代に
病院長を兼ねていた修道院長は
一部屋を病室として
更にもう一部屋制作室として与えて
院内を自由に歩き回って良いという許可とともに
彼を厚遇したのでした



こんな感じの個室であったろうという再現



入院患者の治療用の
ブリキの浴槽


上の写真の二番目の門の奥
突き当りが修道院の聖堂で入院患者の教会でもあった

そこから向かって左に病院の本棟がある


更に
進入路の左側はオリーブ畑で
そこも彼は何枚も描いている







更に
教会の裏側は時期によってラヴェンダー畑になる


当然そこも絵の対象となった




この『サン・レミー・ド・プロヴァンス』に関する作品の中で
もっともよく知られているものの一枚が
『星空のサン・レミー』ではないでしょうか



修道院のすぐ脇に
フィンセント・ファン・ゴッホの銅像が立っている

『Vincent van Gogh』Gabriel Sterk 

それから
サンレミーの要所要所の歩道の敷石に
ゴッホのサインの自体で
ブロンズのメタルがはめ込まれています


これは
彼にゆかりの他の街にも見られますし
『エックス・アン・プロヴァンス』の旧市街の歩道には
セザンヌのメダルがはめてあります


そして「修道院」からほんの5分車で走ると
不思議な湖西ローマの遺跡がある
『モーゾレ』
と言います

帝国に大きく貢献した将軍や皇帝が亡くなると
出身の町では
夜を徹して「野辺送りの火」を焚き続ける
その施設を
『モーゾレ』と言い

三段重ねの塔で
下段が正方形
中段は4面とも凱旋門型
上段は円柱で円形に囲んだ古代の円形神殿風
その中に
該当者の像絵を飾り
一定期間毎夜火を灯し続ける

文献などで古来よりその存在は知られていたものの
実物は失われて存在しないと思われていた
19世紀までは

それが
ここにあったのです


下段は
4面それぞれに
故人の武勲を讃える戦場の場面のレリーフ

その
すぐ横に「凱旋門」風の
一風変わった門もある


上部が欠損してしまっているが
これは
厳密には凱旋門ではない

なぜならば
凱旋門とは古代ローマの元老院が
移民を苦との戦に勝利して広大な新たな領土を帝国にもたらした
将軍や皇帝をローマの街に凱旋行進で迎える栄誉のために
造らせた門をいう

ここはローマではない

実は
この場所の街道をまたいだ反対側から先の方に
古代ローマ都市が埋まっているのです
『グラヌム』と言います

その
功績を称えられたローマの勇者とは
その『グラヌム』出身の双子の将軍であったらしい

従って
ローマの街以外にあるこの手の門は
『市門』と犬のだそうです



さて
せっかくなので
『グラヌム』遺跡にも立ち寄ってもましょうか


このグラヌムという街も
人口数万人の大都会であったそうです

ゲルマン民族の襲来の際に
市民たちは難を逃れて街を捨てて逃げ出した

その後
帰ってくるものがほとんどおらず廃墟となり
周囲のアルピーユ山塊から大量の土砂が流れ込んで
完全に埋まってしまったのだそう










実は
この遺跡は
見て回るにみ30分ほどあればよく
ほとんど大したものはありません

ただ
実際の街の規模は
現在見られる規模の50倍とか100倍とか言われています
発掘する
人でも資金も時間もない有様です



いかがでしょうか
アルピーユ山地の旅ももう少し続きます
= = = = = = = = = = = = = = = = = 
【お願い】
読者の皆様方の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「ダメだし」色々お待ちいたしております
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表に出たくない方は右カラムの「メッセージ」からも送っていただけます
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プロヴァンスを巡ろう 14 アルピーユ山地に沿って <フォンヴィエイユ と モンマジュール大修道院を訪ねる>

2020-11-18 00:12:22 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
カルスト地形の山並みとオリーブ畑がつづく『アルピーユ山地』



古い話になりますが
英国のジャーナリストでプロヴァンスの大地に惚れ込んだ
「ピーター・メール」
『プロヴァンスの十二ヶ月』
という
紀行文的随筆の世界的大ベストセラーで
プロヴァンス地方の世界的知名度アップに貢献した

その
「ピーターメールの世界」そのものを体験できるのが
『アルピーユ山地』と『リュベロン山地』の周辺なのです


まず
アルルとアヴィニヨンの中間地点タラスコンから東に数キロあたりから広がる
アルピーユ地方

その入り口あたり
アルルを発って北に6kmほどで
アルピーユ山地地方独特の
乾燥して石灰岩の高原地帯に入ったあたり
幾つかの村々が続き

その中で
『フォンヴィエイユ』村の周辺が「アルフォンス・ドーデ」の故郷

彼の代表作の一つが
少年時代の回想録『風車小屋便り』です



今でもいくつも残る風車のうち
この風車が
「ドーデの風車」として訪問客を集めている

この写真では
回らないように
羽のキャンバスを外してあるし
風下で力を受けるつっかい棒もなくしてある

中にも入れる



この大きな歯車の中央に
風車の中心軸がつながっている

その歯車が
縦軸歯車を回して粉を引くのです

この写真には写っていないが
とんがり帽子屋根の
石造りの塔との接点のの位置にも歯車があり

その日の風向きに応じて
屋根ごと羽の位置を風上に向くように回転させる

その羽と反対側の塔の外に
塔全体を支えるために「つっかい棒」を噛ませるのです

風車自体は微妙に高い位置にあって周りが見張らせ
季節ごとに方向が変わる風邪を
しっかり受け止められるような位置に建てられていることが
わかります

今来たアルルの方向を見ると
数キロ彼方に大きな石の建物が見える



こんな感じでもっと小さく


それが
『Abbaye de Montmajour  モンマジュール大修道院』



県道のすぐ脇を一段上がる


建築技術が固まり始めた中世初期
「ロマネスク」様式から
「ゴシック」
「ルネサンス」
を経て
17〜18世紀「クラッシック」
様式まで
修道院の規模拡大と技術革新に伴って
拡張されてきた


一部残っている回廊は
12世紀『ロマネスク』の時代

同時代の
サン・ピエール修道院聖堂(教会)

写真手前


正面ファサード

その先の
もっと高くなった場所に
後から作ったもっと大きい聖堂もある
『ノートル・ダム修道院聖堂』

それも
まだ13世紀ロマネスク様式の時代



側面

結構大規模になった


内部


ただし
平面図で十字架の形の「交差部」の天井は
『ゴシック』




内部ディテールの部分的な時代の違いも


ゴシックの「壁龕」


ルネサンスの水場

 
南部フランス大諸侯たちが
北部フランス王家の支配下になかった頃から
王家との勢力争いが続き
教会や修道院も要塞化した時代があった


その頃の名残の塔

  この塔に登ると
いろいろなことが理解できる





回廊の内側に
井戸の存在もわかる




17世紀古典主義(クラッシック様式)の建物の
廃墟

実は
大革命期に
王侯貴族の館や修道院など大規模建造物は
革命政府の財源のために競売にかけられたのです
このモンマジュールは
地元の豊かだった人物が買い取り
瓶詰め工場」に使った

その後打ち捨てられて
この様に修道院全体が廃墟と化してしまったのです

それに
先回ボーケールでご紹介した様な
岩盤墓地が
ここにもある










それから
厳密には修道院の敷地の外だが
一番古い部分であろう礼拝堂が残っている
しかも
非常に良い状態で


『サント・クロワ(サンタ・クルス)礼拝堂』(聖十字架礼拝堂)
12世紀

プロヴァンス様式の初期ロマネスク宗教建築の見本
の一つと言われている


最後に
アルル近郊といえば『ゴッホ』

彼は
この辺りにまで出かけてきて制作に励んでいた

『モンマジュールの日没』ゴッホ 1888


『クローの収穫』ゴッホ 1888

「クロー」は
モンマジュールの隣村

そして
構図の一番奥には「モンマジュール大修道院」
書かれているのです


この角度で
うんと手前に下がった位置での画面です

では
次回はもう少し『アルピーユ山地』の内側へ入って行って
ご案内しましょう
= = = = = = = = = = = = = = = = = = =
【ご感想・ご意見・ご要望をおまちしております】
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プロヴァンスを巡ろう 13 <伝統の祭りと城塞の町タラスコン その対岸の町ボーケール>

2020-11-16 00:07:00 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
お城前に設置されている 怪獣『タラスク』


アヴィニヨンの横を流れるローヌ河本流が
西南西に30kmほどで
アルルの横に至る

その中間点あたりの
左岸に『タラスコン』右岸に『ボーケール』
という二つの町が
ともに川岸に巨大な城を構えて
向かい合っている

この『タラスコン』には
伝説あり

その昔『タラスク』という怪獣が
毎年現れては町人を喰らい収穫を荒らし
多大なる厄災をもたらしていた
それを「マルト」という少女が退治して
『サント・マルト』
と聖女に列せられたそうな

『タラスクを討ち果たす聖マルト』パオロ・ウッチェロ

16世紀ルネサンスの巨匠が作品に残している程
この『タラスク伝説』は
昔から有名だったようだ


19世紀のレリーフ


まずお城ですが実に
威風堂々


ローヌの対岸から見た『タラスコン城』


川岸からの城の横顔

正面に行くと
まさに「胸衝く」という形容がぴったりの頑丈な威容に足がすくみそうになる

本丸というか
天守というか
中核となる躯体は平面図が正方形で四隅に丸い塔



この手の城塞は
敵の攻撃による内部へのダメージを最小限に抑えるために
外壁には窓は最低限度しか開けなかった

ここに見える窓の大半は
戦国の世が終わった後に開けられたもの

お約束の
戦国時代の城の構造ですから
中庭も正方形の筈


場内に入るには
空堀の橋を渡る


四角い本丸と
それに接して作られているであろう庭を囲む城壁
の境目あたりから入ることになる


庭園はこんな感じ

本丸の中に入ると
建物の高さに対して中庭が狭いので
見通しがききにくい


しかし
内側にはさすがに窓が多い

そして
本丸の中はほとんど何もない
地元の若手画家の抽象画の展示があったりするだけ


最上部まで登ると


庭園を上から見下ろせる



ちょっと角度を変えると
ローヌの流れも目に入る

ところで
毎年八月が『タラスク祭り』




『山車(だし)』に当たるタラスクが
当日まで
お城に「つながれ」ています

それで
いい年のおじさまがたが
必死の形相で駆けずり回るのは
世界中
どこの祭りも同じでありまして


こうなるわけでございます

祭りが終わると
次の年まで町のフェスティヴァル・センターに飾られます



でも
実は『タラスク伝説』は
ヴァレンシア
あたりにもあるらしい。。。

しかし
発祥の地はタラスコンだから
名前がタラスク
なんですけどね

街中に
聖女マルト
に献堂された教会堂があります



16世紀建設の市役所にも



正面中央の上の方に
聖マルトが飾られています




町自体は
祭りの時期を覗くと極めて静かです


お約束のアーケードもあり


アーケードの中



こんなカラフルな家並みも楽しめます
この色彩感が
『プロヴァンス』なのです


タラスコンの街自体
取り囲んだ城壁が少し残っていて

要所要所に城門が保存されている


町の中央門に当たる
『コンダミーヌ門』

そして


『南の門』



では
せっかくですから
対岸の『Beaucaire ボーケール』にも
行ってみましょうか




対岸のタラスコンと違って
ここ
ボーケールの城は
河岸ではなく背後の高台にあります

高台の方が責められにくく
防ぎやすい

タラスコンの側には
残念ながら高台がないのです
だから
城自体を極めて頑丈に作った


こちらの城は完全に廃墟



城山も
この辺り独特の石灰台地




タラスコンからローヌを渡ると
町はローヌから水路を引き込んで運河となり
港町になっています

昔は
多くの物資を輸送する手段は船しかなく
ヨーロッパ全域に
大河を結んで運河網が発達しています


写真奥の道路が高くなっているのは
ローヌを渡る橋につながるからです

その後貨物列車が登場し
今の時代はトラック輸送が主体ですから
港は
プレジャー・ボートの係留値となっています


伝馬船も
すでに運搬用ではなく
ローヌ巡りのクルージング用か
船上生活用の住居


ところで
ここ『ボーケール』は
郊外に
ユニークな修道院の廃墟があります

岩山を掘り抜いて構造体とし
細部に切石を積んだ
中東のキリスト教修道院や
中央アジアの仏教遺跡
の様な形式

『Abbaye St-Roman  聖ロマン大修道院』










石を
必要な位置毎のブロックに切って積み重ねる
普通の建設方式も大変ですが

岩盤を
削り抜いて形にして行くのも
気の遠くなる様な工事であったことでしょう


そして
極め付けは


墓地

石で棺を作るのではなく
岩の盤面に
棺の形でくり抜いて
修道僧たちを葬ったのです

初期中世の修道院は
世俗の世界を断ち切って修行に没頭するために
人里離れた場所に造られた

切り立つ峰に頂上や
降りる道とてない深い谷の底とか
人の住まない礫漠などに

この様に
岩山の横っ腹をくり抜いて
など。。。

すごいと思われませんか?

では
次回をお楽しみに
= = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 12 途中でちょっと気分転換 <もう一つのプロヴァンス 湿地帯カマルグを訪れよう>

2020-11-13 00:30:49 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
カマルグといえば「フラミンゴ」と「野生の白馬」


スイスとの国境『レマン湖』からフランス領にはいる『ローヌ河』は
地中海を目指して南下し

アヴィニヨンを過ぎて二本に分かれて
そのうちの支流にあたる方が
アルルの直前でまた二つに分かれ
その後また

結局
四つの流れに分かれて広大な扇状地を形成する

その三角形の中の海に近い辺りが湿地帯となり
『カマルグ』地帯と呼ばれる



国立自然公園に指定されている

そのカマルグの道路がローヌの第三支流を渡るために
面白いフェリーボートが運行しているのです


左に見えるロープに沿って
向こう岸まで行きます
一種の「ケーブルボート」

ほとんど「とんぼ返り」の折り返し運行で

無料です
県道の一部ですから


そのカマルグ地帯で
重要な町は
『サント・マリー・ド・ラ・メール』と『エーグ・モルト』

重要な名物は
「製塩」と「フラミンゴ」と「野生の白馬」


まず
『エーグ・モルト』
を訪ねてみよう


四方を城壁に囲まれた四角い町

この辺りは海の面しているわけではないが
複雑に地形がちぎれて入り組んだ入江が汽水湖のように
すぐ近くまで伸びている

13世紀の後半
時の王『ルイ9世』が
第七回十字軍のために新たに作らせた港であった

北部勢力である王権に従っていなかった
ロワール河下流域「アンジュー」の大伯爵家アンジュー家
この辺りプロヴァンス伯位も併せ持っており

国王ルイ9世は
プロヴァンス伯の領地と隣のトウールーズ伯の領地と
その両家の領地の間にあった真空地帯に
王家専用の港が欲しかった事が理由であった



実は
ローマ教皇がアヴィニヨンに来たのも
フランス王の圧力でローマを離れるにしても
フランス王家の領土に法王庁を構えれば
ローマ教皇がフランス王家付きの司祭の地位に落とされてしまうから
国王の圧力を直接受けずに済むように
アンジュー家の領地であった
アヴィニヨンを選んだ


四方の城壁のそれぞれに城門があるが
これが
大手門にあたる『Porte Royale ポルト・ロワイヤル(王の門) 』

これを入ると
お土産やのならぶ通りをまっすぐ進むと
中央の広場『王の広場』に出る


広場の中央に『ルイ9世』像

その一角に
この町(600m x 1000m程)の中心の教会
『ノートル・ダム・デ・サブロン教会』



教会内に
『サン・ルイ(聖ルイ)王』の像がある

彼は
この第七回十字軍で
トルコに滅ぼされかかっていた『ビザンチン帝国』を破滅から救い
その感謝のしるしとして
イエスが被せらた『茨の冠』をビザンツ皇帝から送られる

次の
最後となった第八回十字軍で
北アフリカに漂着してそこで客死した

キリスト教政界の東端「ビザンチン」をイスラムから守った
東方教会の勢力下にあった「茨の冠」をローマ教会(カトリック)に
取り返した
最後の十字軍で「殉教」した

と言う理由でセイント(聖人)に列せられ
聖ルイ『サン・ルイ』王と呼ばれる


少し歩けば
すぐ城門にぶつかる小さな町
13世紀には
賑わった都市であっただろう


通りの奥に
別の城門が見える


一応
城壁の周りは
外側も内側も一周できるとはいうものの
外側は5kmほどにもなるので車でないとしんどい
ちなみに
城壁の上も一部分歩けるようになっている


これは
「王の門」(大手門)を入ったすぐ内側
階段が見える



王の門と反対側の城門
(搦め手門)

この並びには
幾つか小型の門も開いている





側面の門


この町の
王の門に向き合って右側の側面に行くと
いきなり
大製塩所が現れます



赤いのは
海水から塩を撮った後
残った「ニガリ」の成分が酸化した結果だそうです


季節によって
でかいクレーンがあったり
塩の山がほとんど無かったり
赤い部分が全く無かったり

そして
そのまま街を離れて街を背に北に1kmほども行くと
住宅地がなくなり
一面の畑の中に小高く盛り上げて一本の街道が始まり
そこに
不思議な門のような塔が立っている


『塩の門』
と呼ばれていて
ここから遠く北部の宮廷まで
「租税」としての塩が運ばれていった


エーグ・モルトから西に行けば
程なく
沼地が広がり


運が良ければ
こんなのが見えるかもしれません


この湿地帯には
ユニークなホテルが幾つかあります

いずれも
『Mas(マ)』とプロヴァンス語で呼ばれる
ちょっとした
田舎の郷士屋敷(Manoir 英語の Manor-house)
ホテルにしたもの

何軒かあるうちの一軒
『Mas de la Fouque(マ・ド・ラ・フウック』


この手のホテルは
通りすがりに見つかるようなものではありません

知る人ぞ知る隠れ宿


何棟かの家屋を巧みにつないであって
レセプションなどという場所は
ないに等しい

ロビーに当たるのが
こんな感じの大きなお部屋


こんな場所もあったり



こんな「ジャグジー」があったり



高級モード・ブランド『キャシャレル」デザインの
アッパー・ツインがあったり



ディナーは青天井で
(夏が長いです)

ちなみに
この辺りのホテルは冬場は閉まっていることが多いです



朝食のビュッフェ




専用のテラス付きの
シューペリア・ルーム



普通の雰囲気のお部屋もありますし



プレミアム・スイート
ございます

そこの
バスルーム


こうなっております

運が良ければ
季節によって
窓の外が



こんなことにもなりかねませんよ

ただ
野生の白馬に関しては

残念ながら見ることはできないでしょう


そもそも
現在地球上で野生の馬がいるところは
コーカサスの一部
宮崎県の海岸の山岳地
そして
ここ「カマルグ」だけ
されていますが

船を出して
通常人がほとんど姿を見えない場所に行かなければ
見ることはできなくなっています

ただ
プロヴァンスの牧童が家畜化した白馬を
沼沢地で遊ばせている姿は
時々見かけます

水深は
わずかに50cmあるかないか


また
この手のホテルは
乗馬用の馬を数頭持っていて
半日単位で貸してくれて
付き添いも道案内も頼めるので
道路を通らずに
浅い水面の上を散歩したりできます

それをやれば
野生の馬に出会えるかも

Let's try !
= = = = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 11 <アヴィニヨンで お勧めホテルに泊まってみよう>

2020-11-11 00:12:22 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
ホテル La Mirande 正面


アヴィニヨン
と言えば
法王庁

その
法王庁の真裏に威風堂々たるホテル有り
『La Mirande  ラ・ミランド』
申しまする


とにかく近い
法王庁の裏側の城壁と向き合っているんです

中に入ると

いわゆるパティオ風の
建物に囲まれた中庭だったところにガラスの屋根をつけて
ロビー
というか共用空間にしてある



一部は
バーというかティー・サロン



そこから横に入ると
レセプション


妙ちきりんな
鉄製のオブジェが真ん中に鎮座してた


レストラン


こんな感じで


ガーデンでも食事ができます


法王庁の城壁の
真下でも
食事ができます




ただし
朝食は別の専用の部屋で



建物の中にも
共用空間があちこちにある













客室はと言いますと



これは
スイート




プレスティージ・ツイン







バスルーム



普通のグレードのお部屋は
デラックス・ツイン
呼ばれます







お分かりになるでしょうか
このバスルームの右の窓から
法王庁の城壁が見えてるんです

なんという至福


ただ
大げさすぎて
気後れしてしまう方もおいでかもしれませんね


そこで
アヴィニヨンのホテルを
もう一軒
取り上げておきましょう

旧市街の舗装通りの洒落た商店街の外れ
『Hôtel d'Europe  オテル・デューロップ』

ここも
古い邸宅なのですが
「ミランド」のように大仰ではありません
より
「それらしい」館です



正面は普通の民家

でも
これはお屋敷の「塀」に当たるんです

真ん中の暗くて中が見えない入り口を入って
10mほど進むと
中庭に出ます



奥の突き当りが
館の母屋

中庭はレストランのテラス席
その間に
大きなパラソルで通路が作ってあって




突き当たると
ガラスのはまった張り出した玄関

ちなみに
この通路の右側の建物(見えていません)の中が
レストラン





レセプションがあります



そのままロビーにつながる
安心の構造です


このロビーの左の中に
バーがある






 レストランは
出て
中庭の左ですが
(もちろんな中庭に出なくても繋がっている)





夏場は
ほぼ全員中庭のテラスがお好きなようです


この
プラタナスの大木の周りが
特に好まれるそう


客室に行ってみましょう

まず
一番広いスイート


窓の外にテラス付き








次に
普通のスイート




こんな感じのクラシックな雰囲気のものや







この様に
完全にモダンなものや



その
間をとった様なものやら
いろいろ


ジュニア・スイート


新旧



それぞれ
浴室もいい感じに広め





なお
個人的には
普通の大きさのお部屋で充分です。。





この「ヨーロップ」ホテルのレストランは
ここ10年間くらい星から遠ざかってはいますが

手の込んだ繊細な最新式のフランス料理と
伝統的プロヴァンス料理の
巧みな折衷で

地元の人達にも
大変人気があります

アヴィニヨンにおいでの際は
どちらがお好みですか?

= = = = = = = = = = = = =
【お願い】
皆様の「感想」や「ご意見」「ご注意」その他なんでも
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プロヴァンスを巡ろう 10 <14世紀を通して 全欧の文化と経済の拠点となったアヴィニヨン>

2020-11-09 00:13:09 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
「アヴィニヨンの」ローマ法王庁


最高権力者が居を構えると
町は栄える

中世においてヨーロッパの最高権威といわれたのは
世俗の『神聖ローマ皇帝』
聖職の『ローマ教皇』

ローマ帝国滅亡の後
全欧の秩序の維持のために世俗権力に頼る必要があって
ローマ教会が再興した「神聖ローマ皇帝」と言う位は
名目だけの権威に過ぎず

方や
ローマン・カトリックが全欧に広がったことで
『ローマ教皇(法王)』が
最高権威者となった

その教皇が
14世紀の75年間『アヴィニヨン』に教皇座を置いたために
アヴィニヨンに
あらゆる芸術家や技術者が集い
商人が集まって
アヴィニヨンを絶頂期を与えた

なぜ教皇がアヴィニヨンに居たかは
以前スペインのカタルーニアのシリーズで
少しだけ触れたが
複雑怪奇で100ページ程も必要となるので割愛させて頂く


旧市街は完全に城壁で囲まれている

いくつもある城門の中で
正面に当たる門だけ門がなくなっている


そこを入ると唯一の目抜き通り
一直線の奥まで1kmくらいなものか
付き当たりから右斜めに入ると
ちょうどこの角度で『法王庁』が姿を表す


当時はいわゆる戦国の世
法王庁は法王の「宮殿」であると同時に防衛拠点の「城」でもあった

斜めにスロープを登って門まで行くと
教皇の紋章が
我々を見下ろしている


天国の門の鍵と三重冠
紋章

14世紀の終わりに教皇がローマに去って以後
維持管理が行き届かず
革命で傷んだり
19世紀に大火災にあったり
内部は教皇在位の時代のものは多くない

広場に面した正面はやや高台になっており
反対側の奥は外壁が30m以上屹立している



その奥の位置にある一番広い部屋は
枢機卿会議を行った

写真の左に部分を支えるために
外側に四角い塔が二つくっついており
そのうちの一つの中が「礼拝室」

その内装のフレスコが残っている

『聖マーシアルの礼拝室』

このフレスコは
建設に当たって教皇がシエナから招いた
大家『シモーネ・マルティーニ』の作と伝わっている


その塔の礼拝堂の下
つまり
同じ位置の下の階も
同じく礼拝室となっている

『聖ヨハネの礼拝室』

法王庁の外部から見ると
この聳り立つ壁面を支える塔は三つある

大広間の
外に向かって最も左の隅にある塔の中は
教皇の厨房


その厨房の塔は
天井全体が煙突になっている

大広間を先に進むと
騎士の控えの間
そして
教皇の日常の部屋がふた部屋

一つ目は壁のフレスコにより
『狩りの間』と呼ばれる

『鷹匠』

壁3面に
「鷹狩り」「鳥呼び」「鹿狩り」「魚釣り」
が描かれている

そして
教皇の寝室

ただし寝台などは当然ながら無い


壁の唐草紋様が目を奪う


『Cathédra  教皇聖座』

カトリック聖職者の最高位は
『司教』

大司教も教皇も
括りで言えば司教なのです

首相も閣僚も
国会議員
みたいに

その「司教」の椅子をカテドラ(聖座)と言います
司教のいる町が司教座の町と呼ばれ
「カテドラ」が置かれた教会が
『Cathedrale  カテドラル(司教座聖堂=大聖堂)』
と呼ばれます


床のタイルも部屋によくあっている



その先に
衣装部屋だったところを抜けて
教皇専用の法王庁大聖堂


各所にある礼拝室や礼拝堂で
日々
何度もミサが執り行われたが
教皇が司祭するミサは
この大礼拝堂で執り行われた

天井のほんの一箇所
壁の一部分にだけ
当時のフレスコが残っている



教皇聖堂に入る扉口は
横についていて
そこを出るとその外が


こうなる
この反対側は
横に大階段がある囲まれたテラスのような「ロッジア」
になっており
ミサを執り行った教皇が
下の中庭に集う寄衆たちに
右手で十字を切って祝福を与えた




法王庁の外に出ると
法王庁を背に右手の先がもっと小高くなっていて
『ドームの丘』
という見晴らし台のよう場所に至る

頂上から
真下にローヌ河が流れ
アヴィニヨンの橋という名と童謡で名高い
『サン・ベネゼ橋』が見下ろせます


この橋は
写真右側の中洲の上を通り
その先に流れるローヌの残り半分をわたって
1300mばかり
向こう岸の『フィリップ1世の塔』につながっていた

度重なる洪水で何度も流され
再建を繰り返したが
19世に再建をあきらめこの形で残っている

敵の進撃を不可能にするため
地上より高いところから渡るように作られており
両岸には
橋の防御と入り口を兼ねた塔がある






船に乗って
川の中から見るとこうなります

五百メートルほど離れた
対岸の塔
『フィリップ1世の塔』


この王様は
フランス王フイリップ1世なのですが
同時に「ナヴァーラ王フィリップ1世」でもあり
現地でな『フィリップ1世』と呼ばれる


ちなみに
橋の渡る上部の幅は4mほどしかなく
「踊ろよ 踊ろよ 輪になって おどろ」
というわけにはいきません

本当は
町の祭りの日に中洲に集まって
橋桁の下で踊っていたのだそうです

その
フィリップの塔から法王庁を見てみると


もちろん
望遠レンズの写真です


この対岸は
すでにアヴィニヨンではなく
『Villeneuve-lès-Avinion ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニヨン』
という隣町

そこにも大規模な要塞のような城が
残っている



アヴィニヨン自体
旧市街が完全に城壁に囲まれていて

外側でも
内側でも
一周できます



城門も数多く残っている


これは
すでに塞がれてしまった城門

背が低く感じるのは
上部の胸壁(凸凹の隠れて反撃する部分)がなくなり
真下に彫ってあった空堀を
埋めてしまったから

要所要所の防御の塔も残っている



このアヴィニヨンは1947年に始まって
毎年7月
ほぼ1ヶ月間にわたって
正式招待劇団
(例えばロイヤル・シェークスピア・カンパニーなど)
を中心に正式エントリー組が行う法王庁中庭特設ステージでの公演が
『IN』とよばれ

招待ではない公認参加組が法王庁特設小ステージ及び
町の劇場で行われる
『OFF』

さらに
町に広場や路上で行うパフォーマンスが
『OFF OFF』

 2020年は
コロナ禍で53年目にして初めての中止となった

現在21年7月のフェスティヴァルのエントリーを
受付中

なんとか
人類の英知を絞って
新型コロナ・ウイルスに打ち勝たねがなりません






= = = = = = = = = = = = = =
【お願い】
皆様の「ご意見」「ご感想」その他「なんでも」受付中
です
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プロヴァンスを巡ろう 9 <アルルで 18世紀の邸宅ホテルに泊まってみる>

2020-11-06 00:14:29 | 素晴らしき世界/フランス/ホテル
ホテルのレストランの一角



アルルの旧市街は
細い通りが入り組んでいる

一般住居は通りに建物の正面が接する「商店街」形式だが
小さな交差点に
門だけがある塀に囲まれた一角発見

塀に囲まれていれば
当然貴族の邸宅

18世紀の貴族の邸宅を利用したホテル
『Hôtel Particulier (オテル・パティキュリエ)』

直訳だと「邸宅」
そんな名前の隠れ宿です




直ちに中庭
そして
奥に「母屋」が見える


小さなプールの横を進むと
右側の平屋の中にレセプション


レセプションのある建屋の
つながり
プールに向き合う感じでレストランがあり

そこに至る空間が
ロビー
のような役割の共有広間になっている


そのまま
レストランに入れます



外からも入れます



雰囲気がカジュアルなコーナーも


朝食はこちらでいただきます

気候の良い季節は
外でも食事ができます


バーから見た外の席



回り込んだ奥の席は
静かでしょうね

夏は
朝食も外が気分が良い


ビュッフェは当然
中にあります


お部屋は
白が基調の内装が多い



このお部屋のシャンデリアは


わざと
古い民家の天井風に
本物の古い邸宅や城などの解体の際に手に入れた梁を使って

梁といえば
こんな部屋も


こちらの人は
古い(数世紀を経た)梁や柱が
大好きなんですよね

ところで
スイートを一部屋ご紹介してみよう


上の寝室の隣は
寛ぐスペース



あるいは
こんなベッドのお部屋もあり


そのバスルームが
こんなです


続き部屋は



スイートでなくても
素敵ですよ



あるいは



お庭は
街中の館なので
それほど広いわけではありませんが
寛ぐにはうってつけ













広いロビー
エレベーター
華やかなレストラン
入り口にはベルボーイが立ち

というようなホテルがお好きな方は
いまいち
ピンとこないかもしれませんが

客室5室
スイート6室しかない
隠れ宿
悪くないですよ




アルルには
もう少しフランクなホテル
ちゃんとあります

その名も
『Jules Cézar ジュール・セザール(ユリウス・カエサル)』

もともと
城壁のすぐ外の修道院だった建物を再利用
かねてより
アルルでは一番のホテルでした

最近突き抜けてポップに
リニューアルしてしまったらしくて涙



正面左の建物が
かつての修道院聖堂


ここは
ホテルに使用されているわけではありません


地形的に
見えているホテルの位置が高く
裏側は崖のようになって5〜6m低いのです

従って
入ったフロアーは
レセプションとロビー
客室やスパなどは
ロビーのレベルから低く下がった
かつての修道院の回廊と
その周りに会った僧坊を利用して作られている
しかし
修道院の雰囲気など
全くない


玄関の『回転ドア』は健在だった!

入って右がレストラン
左がロビー

なのですが


こんなになっちゃった


まあ
光と色彩にあふれたプロヴァンスのアルル
という位置付けで
これはこれで良いのかも
思い込もうとする私がおります

地上階(ロビー)から一つ下の階に降りると
修道院時代の回廊です


一周できます


ロビー階の
レセプションとレストラン以外の三方向と
一部二階と
地下(ではないが)一階と
回廊の周りに修道僧の僧坊があったところが
それぞれ客室になている




一部は地上二階があるので
そこから見下ろすと






回廊内部を一周すると
一部はスパ

そこであれこれ施術を受けて
さっぱりした後
ウツラウツラするのに最適です


ちなみに
スパのジャクジーは
凄いです




一方
客室はポップな内装ですが
色味は
ロビーと違い落ち着いています



かつては
修道僧の部屋だったため狭かったのですが
ふた部屋分をぶち抜いて
広げてある




昔からのサイズのお部屋は
こうです





プールサイドも夏の午後
観光に疲れて早くホテルの戻ったりした時
昼寝に最適




正面玄関の前は
表通りよりやや高く
そこで飲み物を楽しむこともできます




さあ
次回は
別の町を歩きましょうか

= = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 8 <プロヴァンスといえばアルル アルルといえばプロヴァンス>

2020-11-04 00:03:45 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
アルルのヴィーナス(部分)


プロヴァンス
という
特有の風土を一心に体現する町は
『アルル』

皆さんは
『アルルの女』
という言葉はご存じですよね

プロヴァンスの地場文学の父『アルフォンス・ドーデ』の作品に
「ビゼー」が曲をつけた悲恋物語の歌劇のタイトル


独特のドレスとショールと伝統の髪飾りの
若く美しい女性
闘牛
とくれば「プロヴァンス」のてんこ盛り


古代ローマの時代から
アルルの女性たちは
その端正で愛らしく賢い存在で知られていたらしい



アルルの女王の優勝者と入賞者たち

3年に一度アルルの町では
5月1日スズラン祭りの日に
伝統的な『アルルの女王』コンクールが行われます

アルル生まれ
アルル育ち
アルルか周辺に居住の
18歳から24歳までの
アルルとプロヴァンスの歴史と史跡に深い知識を持つ
健康で
美しい女性が選ばれて
3年間のアルルとプロヴァンスに関する催しやイヴェントの看板役を務める

その
『アルルの女』
ここに暮らした『ゴッホ』も描いています

『アルルの女』ゴッホ 1888年

そのアルルとプロヴァンスの歴史と伝統文化は
アルルの町にある
『アルラッタン博物館』にぎっしりと
保存されています

アルラッタン博物館 中庭

この博物館は
地元の貴族の館であったものを
フレデリック・ミストラルが受賞したノーベル文学賞の賞金で購入し
民族伝統の工芸や民具などを保存する「博物館」として
今日に残した

中庭の地中から
古代ローマ時代の遺構がザクザクと出てきて
それ自体も史跡となっている


この町の中心『レピュブリック広場』にある
市役所の建物の地中からの出土品の最も重要なものが
『アルルのヴィーナス』


ヴィーナス(アフロディーテ)像
とびっきりの最上のものから
ほどほどのものまで
数え切れないくらい作られたのですが

この『アルルのヴィーナス』は
ミロのヴィーナスを頂点に
二番目クラスに良いものの一つに挙げられている

ともにルーブルの秘宝です


『レピュブリック広場』

この写真の正面が市役所

右の角は『サン・トロフィーム教会』

古の「大聖堂」で
ゴシック以前の『ロマネスク』時代の
彫刻群の傑作
と称えられてきました

サン・トロフィーム正面扉口

ここに
ロマネスク時代の独特のコミカルなレリーフで
旧約聖書が表されているのですが


最後の審判で「地獄行き」が決まった亡者どもが
鎖に繋がれて
地獄の紅蓮の炎の上を引きづられてゆく光景

内部には
回廊も残っています






この教会から
程近いところに『古代闘技場』があります





この闘技場は
先述のニームのものとほぼ同じ時代に
おそらく同じ技術者の設計で
同じ規模で作られたとわかっている

これもニームのものと同じで
三層構造の最上層は
すでに失われている

飛び出している四角い塔は
ゲルマン族侵入時代に砦に改造されていた頃
付け足されたものだそうだ

最上層(二層目)のアーチの上を
歩く事ができます


繰り返し円形に盛り上がって
石が組まれている構造がわかる

この四角い塔の前の階段を下ると
前に細い道がある
その右の角のお土産やさんの建物が
「黄色い家」と呼ばれた


ゴッホが最初に下宿した家だった

彼は
パリに出てきて出会って尊敬していた「ゴーギャン」を
呼ぶ
「僕と君と共に過ごせば、お互いに良い作品を生み出せるだろう」
「部屋は準備した。アルルは光と色彩に溢れている」


『黄色い家』を
ゴッホは数ヴァージョン書残している

借りた家の寝室

『寝室』オルセー・ヴァージョン

彼は
部屋の絵も、同じ構図で3枚描いた
現在
パリ『オルセー美術館』
シカゴ『現代美術館』
アムステルダム『ゴッホ美術館』
それぞれ所有している

アムステルダム・ヴァージョン


シカゴ・ヴァージョン

そのゴッホが行き詰まり
ゴーギャンと大喧嘩して
切りつける
未遂に終わったがゴーギャンは怒ってパリに帰り
ゴッホは精神を病む


町の係に勧められて精神病院に入院
そこの回廊の中庭も描いた



半強制的入院だった状況を恐れたゴッホは
ここを逃げ出し
25km離れた「サンレミー」村の
『聖パウロ修道院病院』
に自ら駆け込んだ

そこは別の機会にご紹介しよう

そのアルルの旧市街を囲んでいた城壁跡の大通りを
出たところに
ローマ時代の墓地の跡がある

まだキリスト教が公認される以前
「異教徒」キリスト教徒は
町の中の墓地に葬ることが許されず
町の外の街道沿いに石棺を並べているうちに
数千の棺が並んだ異様な場所となった

その後忘れ去られて中ば土に埋もれ
中世の終わり頃に存在が認識された時に
見事な彫刻やレリーフを施した棺は
装飾用に持ち出され

その後は
飾り気のない地味な棺だけが打ち捨てられて残ったその場所は
『レ・ザリスカン』
と呼ばれてきた





そこも
ゴッホにとっての制作モチーフとなり
何点もの作品が残された






アルルは
見所が多すぎる

ローマ「キリスト教化」以前の
『ローマ異教美術館』
キリスト教時代になってからの
『ローマ・キリスト教美術館』
がある

後者は
地下に降りてゆくとローマ時代の町の中心
『フォーラム(中心広場)』
の地下の基礎を訪れることができる

古代の広場は
今のフォーラム広場の10数倍あったという



最後に
せっかくなので少しだけ郊外に出て
ゴッホのゆかりの場所をもう一箇所
訪れてみよう



そう
おなじみの『ゴッホの跳ね橋』

水上運搬が古代ローマのころから発達していた
この地で
ローヌ河と支流とを繋ぐ運河も多く
この手の跳ね橋は
この辺りには数多く存在していた

対戦で空爆され
かなりが破壊されてしまったが
無傷で残ったものを
ここにかけ直した

ゴッホは
それらの橋をいくつか書き残したが
この橋を
代表で『ゴッホの跳ね橋』と呼ぶ




カペー王朝以後の北部政権に
支配下に組み込まれ
経済的にも文化的にも
中央権力に従属させられて以来
多くの
固有の文化が失われていったプロヴァンス

その一つに『プロヴァンス語』があった

言語は
民族と文化との精神そのもの

その「プロヴァンス後」で詩を書いて
ノーベル文学賞を受賞した『フレデリック・ミストラル』は
『プロヴァンスの父』
崇められている

アルラッタン博物館にぜひお越しください

= = = = = = = = = = = = = =
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プロヴァンスを巡ろう 7 古代ローマ遺跡は他にもあり <オランジュ と ヴェゾン・ラ・ロメーヌ>

2020-11-02 00:50:50 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス

『ローマの皇帝たち』ヴェゾン・ラ・ロメーヌの考古学博物館展示室

 

 

ローヌ河の河口扇状地の北端に

『オランジュ』

という古代ローマが築いた町がある

 

そこの

古代劇場(半円形劇場)が

素晴らしいのです

 

これは

専門用語で言うところの「ホリゾント」

舞台の背景の一番奥の壁

なのですが

ルイ14世がこの壁を指して

「世界で一番美しい壁である」

と称えましたそうな

つまり

客席から見た正面

舞台の後ろの壁

現代の演劇では

この前に様々な

書き割りや大道具を並べます

それがない時は

このホリゾントに

各種の照明を当てる

 

ローマ時代の劇場では

背景は常にこういう壁がそびえていた

 

壁の中央部に

白大理石の

『アウグストウス像』

 

つまりこの劇場は

アウグストウス帝の御代に建てられたことがわかる

 

 

客席の階段上の部分は復元

しかし

構造は建設当時のまま残っているわけです

 

一番内側の通路

この通路の要所要所に

この写真の方向で言えば左向きにトンネル型の階段があって

それを上がると最前列の高さに出る

右方向のトンネリ階段を上ると一つ外側の通路の

途中に出る

構造は古代闘技場と同じ

 

ここの収容能力は1万人だった

 

 

この劇場も

ゲルマン侵略時代に砦に改装されて

その後

中の通路

舞台の一その他あらゆるところに

バラックのような家が建てられて

全体が「団地」のようになっていたこともあるらしい

 

ちなみに

このオランジュの街にも

『凱旋門』が残っています

 

それ以外は

それほどたくさんは残っていませんが

この二つだけで

世界中に名高い『オランジュ』の町なのです

 

 

今度は

オランジュから東北に20kmに

『ヴェゾン・ラ・ロメーヌ』

 

山勝ちの

この小さな町は見所満載

 

まず

町に到着すると

ロマネスク時代の

1000年以上経っているチャーミングな橋が

出迎えてくれる

 

 

城址

いわゆるランドマーク

一番高いところの城跡

その下の斜面にへばりつく旧市街が

とてもエキゾチック

 

城門のようなアーチをくぐると

少なくとも

5百年は時計の針が巻き戻されます

 

いかにも

古代ローマっぽい石の彫刻の噴水が

和ませてくれたりもする

 

肝心の

ローマの都市遺構はと言いますと

住宅地の只中にあるのです

背景の家並み

見えますよね

 

 

南北の目抜き通り

 

劇場も

残っていますが

やや復元しすぎな感

 

そして

ここからの出土品を収めた

市立博物館『テオ・デプラーヌ博物館』

には

見事な品々が並んでいます

 

本日の巻頭写真

それらの収蔵品展示室の一部屋です

 

石の彫刻や

 

 

モザイク

 

特に目を奪われるのが

この「孔雀」のモチーフ

 

そして

この町は古の大聖堂が

『Notre-Dame de Nazareth (ナザレの聖母)旧大聖堂』

初期中世ロマネスク期の名刹です

 

 

 

付け加えておくと

この町の役場の壁にも

古代ローマが

その存在を主張しておりました

     

では

今回はこれくらいにしておきます

プロヴァンス紀行は

まだまだ続きますのでお楽しみに

= = = = = = = = = = = =

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