行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

パリで美術三昧 趣向を変えて < ガブリエル(ココ)・シャネル 回顧展 前編 1/3 > パレ・ガリエラ モード美術館

2021-07-30 00:20:12 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ガブリエル・シャネル特別回顧展」



「ガリエラ宮」のモード美術館でロックダウンで公開できなかった
『ガブリエル・シャネル回顧展』が
予定期間を後倒しして5月19日から開催された

『Palais Galiera Musée de la Mode』

ガブリエル(通称「ココ」)は
男性が連れ歩くアクセサリーで家庭の中の花という女性のイメージで
ウエストを締め付け鯨の骨で膨らませたペチコートを重ねるような
体の自由な動きを封じるごとき女性服に対して
表に出て社会で活躍する女性をイメージし
体の動きと精神を開放するような女性服を世に送り出した
いわば女性開放主義者の元祖のようなデザイナーだった

1903年に叔母アドリエンヌの洋裁店のお針子さんとしてスタート
1909年マレゼルブ大通りに服飾帽子製造販売の店を持つ
1910年未だに本店を構えるカンボン通り21番地に
「シャネル=モード」というブティックを開店
その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出

1913年から15年まで
黒の撚り糸と黒のシルク・サテンのリボンを使った帽子の作品が作り出された



豪華なデコレーション山盛りだった当時の女性の髪型と帽子に対し
抑えたシンプルさをモチーフとした新境地を開拓

その後「ドーヴィル」「ビアリッツ」というリゾートに進出
リゾートで休暇を過ごすという習慣が上流階級に広まった頃であり
時と場所が
海浜リゾートウエアーを生み出した

『セーラーブラウス』1916年夏 シルク・ジャージー


『ドレス』1917年から19年 
ガラス管ビーズで刺繍した黒のシルク・テュール  黒のクレープ・ド・シーヌ

『イヴニング・ドレス』1918年から19年
鉄とガラス管ビーズで刺繍した黒シルク・テュール





『ドレス』1919年
シャンティイのレース  黒のシルク・クレープ


1918年今の本店の位置カンボン通り31番地に「メゾン・ド・クチュール」
を開き
「ガブリエル・シャネル」の名前が浸透し始めることとなる

『ジャン・コクトーも演出ノート』1924年

1920年代に入ると
詩人で画家で映画監督で舞台演出家であった「ジャン・コクトー」に見出され
行動を共にし
『ル・トラン・ブルー 青列車』の製作に関わって
衣装を担当した

その傍ら自分のブティックを持ち女性服の製作を本格的に始める




『コート』1933年 アイヴォリーと濃紫のぼかしツイード



20年台後半から30年代には
シルクの「クレープ・ド・シーン」や「オーガンジー」などのドレスと
ウールの「ツイード」を用いたアンサンブルが
並行して作り出されていった

『スカーフとドレスのアンサンブル』1929年春夏 多色プリントした白のシルク・レース




『アフタヌーン・ドレス』1930年夏 ホワイト・シルクのモスリンにプリント

『テーラード・スーツ』1927年から29年 茶と生成りのウールの撚り糸のツイード


『デイ・ドレスとジャケット、ベルトのアンサンブル』1928年と30年
ウエーヴをつけたシルク・ヴェルヴェット  多色のモスリン
生成りのキルト地天然シルク  メタルと着色パット・ド・ヴェール

『ジャケット』1928年から30年
ベージュのフレック・ジャージー  多色のジャガード・ニット  ベージュのクレープ

繊細なステッチがなされている


『ガントレット・グローブ(長手袋)』1933年 ブラウンのコットン天鵞絨と
錆び色のスエード


『デイ・ドレスとジャケットのアンサンブル』1925年から29年
黒のウール・ジャージー  ステッチ  黒とベージュのジャガード

『ポシェット』1920年から29年
多色と鋼色のコットンの畝おりニット  ステッチ入り白の鞣し革

この1920年から30年に向けて
彼女は浄化されたエレガントな「シルエット」の進歩を追い求め
シンプルさを追求し
実用性とエレガンスを兼ね備えた彼女の服は
当時のスポーツウエアーに着想を得て
ある種の男性の優美さと活動性すらも参考にしてテクニックと素材選びを行って
これらの微妙な共存の中で「シャネル」という「スタイル」を形作っていった


『イヴニング・ドレス』1924年
ゴールド・ラメ  玉磨きゴールドの刺繍レース


『ドレス』1924年から25年
黒のシルク・モスリン  黒のシルク・クレープ  ガラス管ビーズの刺繍



1930年代になると
彼女は「ライン」の感覚だけを、最もハイレベルに表現する
ドレスは過剰にならずに体の線を明示するようになる

『フォーマル・ドレス』1920年から25年
黒のテュール  刺繍と黒真珠のフリンジ  黒の刺繍とシルク・クレープ・ド・シーン

『デイ・ドレスとコートのアンサンブル』1928年から30年
暗緑色のウール  グリーンのカマユーにプリントされたシルク・モスリン

『スカーフとドレスのアンサンブル』1930年 アイヴォリーのクレープ・ド・シーン
黒のプリント柄

『イヴニング・ドレス』1930年から1935年
黒のシルク・テュール  シルバー・スパンコールとシルバー及びシルバーラインドガラス管





『イヴニング・ドレス』1933年から34年
黒のレイヨン  アイヴォリーのシルク・オーガンジー

『ドレスとケープのアンサンブル』1933年から35年
黒柄プリントのアイヴォリー色シルク・ジュレープ

『ドレス』1935年
アイヴォリー地に多色プリントのシルク・オーガンジー

少し変わったものもあった

『ロング・ドレスとジャケットのアンサンブル』1930年から31年
ゴールドのシルク・サテン

これなど現代にきても全く違和感なくとっても素敵です

『イヴニング・ドレス』1939年春夏
多色プリントされたコットンのヴェール  ピンクに染めたオーステルリッツの羽 



当時のゴーモン映画社のニュース映像  このドレス政策でお針子さんたちの作業中


裾部分の複雑な縫込みや貼り付けなどのデコルテは 実際にマヌカンに着せた状態で行われた


この頃から
ココ・シャネルの中では「軽やかさ」と「洗練さ」が
重要な要素になってゆく
「明白な機能性」と「究極の洗練」との融合という矛盾を最低限度に止めて
ファッシンを作り出すことに傾注した



『ドレス』1936年春夏
ベージュのレース

左『イヴニング・ドレス』1930年
コットンのモスリン 白レースのアントル・ドゥ

右『ドレス』1930年春夏
ホワイト・イギリス・レース

『ドレス』1930年
薄い水緑のテュール

『扇』1928年
ベークライト 薄水緑のコットン・オーガンジー


左『イヴニング・ドレス1937年』
黒シルクのレースとテュール シルク・シフォンのモスリン



右『イヴニング・ドレス』1933年春夏
プレープ仕様の黒シルク・モスリン  黒シルク・タフタのレース


(ガラスケースの表面に安泰側の映像が撮りこんでいました)

『イヴニング・ドレス』1937年から38年
シルク・ヴェルヴェット レースのアントル・ドゥ  赤のシルク・タフタとテュール





『イヴニング・ドレス』1938年
黒のシルク・テュール  黒シルク・サテンのリボンのアプリケ  





「デッサン画」のオリジナルが5点展示されていた
1937年から38年秋冬コレクションのためのもの






いずれも
「メゾン・シャネル」のハウス・デザイナー『Christien Berard』画
水彩と水墨


ガブリエル(ココ)は更に前に進む
「私たちは夢のドレスを作ることから時始めるの」
「そして それを打ち倒さなければなりません」
「切り取らなければいけない」
「そして引き剥がす」
「決してそれらを加えないこと」
1957年9月3日 『エル』のインタヴュー

この項続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
このブログの継続の参考にさせていただきたいので
皆様の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「共感」「反感」「むだ話」
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パリの秘密 2 < アンドレ・シトロエン公園 > 知られざる魅力的な場所がある

2021-07-28 00:15:01 | 素晴らしき世界/パリの秘密
巻頭写真 : アンドレ・シトロエン公園

ちょっと休憩して
ガイドブックに載ってない魅力的な場所で
しばしを忘れよう



「シトロエン」
という名前をご存知だろうか

1919年自動車メーカーを設立した「アンドレ・シトロエン」は

『Citroën Trancion Avant シトロエン・トラクション・アヴァン』

1934年この車を生産開始
当時誰も実用化の可能性を考えもしなかった「前輪駆動車」だった
車名の「トラクション・アヴァン」は文字通り「前輪駆動」という意味
今でこそありふれたこの仕組みは
自動車の黎明期の20世紀初頭
前エンジン前輪操舵で後輪駆動が当たり前だった時代に
前エンジンで前輪に操舵と駆動と両方の役割を与える革新的な発想で
シトロエン本人の意欲的な発想と技術開発で世に送り出され
1958年生産中止まで
名車として欧州だけでなく米国にまでその名を轟かせた
「4ドア・セダン」「2ドア・クーペ」「幌付きオープントップ」「幌なしロードスター」
「ライトバン」「ラリーカー」
などあらゆるヴァージョンが生産された


『ジャヴェル河岸工場』1934年 Photo by @Omania

パリ左岸
セーヌ河がパリを流れ出る直前のあたり「ジャヴェル河岸通り」に
この工場があった

ちなみに後継車は『DS』という

『Citroën DS シトロエン・デーエス』

これまた革新的な車で
通常のサスペンションに加えて「エアー・サスペンション」を備えており
乗り心地は
ふかふかのシートと相まって「雲にっている様な」と言われ
駐車してエンジンを止めキーを抜くと
自動的に車高が下がり降車しやすくなり
発車のためキーを回すと
走行時の車高に自動的に上がるという至れり尽くせりで
ヘッドライトがハンドルに連動するため
暗い夜道(いなか道は街灯などなかった)にカーブする際
自分が向く方向を常に照らす画期的なシステムを備えていた
これ以外の車は現代でもヘッドライトは回転しながら進行方向より遅れて車の向きを照らす

ついでに
シトロエンというと忘れてはならない国民車が
『2CV ドゥー・シュヴォー』だろう


『CItroën 2CV Charlstone ドゥ・シュヴォー・チャールストン』

写真は最晩年のお洒落な若者向け仕様だが
普通は灰緑の光沢もない一色塗装
ブリキ板を切り取り線に従って切り抜き
折り線に沿って折り曲げ溶接しましたみたいな車
一切の「贅沢」を廃し
シートはパイプの枠にカンバスを巻きつけたタイプ
しかしリッター20km以上の燃費を誇り
しかも屋根のカンバスを巻き取り後部座席を取り外すと
小型の「アップライトピアノ」が積めた
戦時中の国民の頼りになる味方だった

今回は車がテーマではないのでこれくらいにして
工場の話です
第二次大戦中は砲弾などを作る軍需工場にされており
戦後工場を再開せず跡地の再利用をあれこれ計画が上がってはつぶれ
最終的に「公園」としての利用が決まった

ということで
パリの南西の端セーヌ河の左岸の河沿いに静かな隠れ栖みたいな公園があるのです
『Parc André Citroën』

まず驚かされることは
中央広場のような広い芝生のスペースに巨大な気球が鎮座していること


赤く見えるところがゴンドラで
ロープで繋がったまま200mほど上昇する観光用



ちなみにゴンドラはドーナツ型で
360度回りを見晴らせると同時に真下も見ることができる


『Parc André Citroën』 Photo by ⒸParcAndréCitroen

この写真では写っていないずっと下の方に気球があり
さらにその先の方向がセーヌ河
写真上部に2棟
長方形にガラス張りの「温室」と呼ばれる建物があって通常熱帯植物が多少置かれているが
貸しホールとしての機能も持っている








二つの温室の間のコンクリートの地面がややスロープに成っていて
円形のものが並んでいるが
真夏の週末には噴水のように水を噴き上げるノズル
上がる高さが変わったりして
公園の来客は大人も子供も間を走り回ってはしゃいでいる光景が
テレビニュースによく流れてくる





全部のノズルから一斉に拭きあげたり
一部だけに変わったり


広大な長方形の芝生の中央広場の両側は2段高くなって歩けるようになっている
そこに大きな水路というか池があり
その端にベンチが並ぶ



その位置の所々にコンクリート製の小屋のような建築物があって
そこから階段かスロープで一段下がるとまたベンチなどが並んでいて
上段より狭い水路があったりする


そのもう一段下に水路のように池がある
一番上のベンチのベルからは
目線の高さによっては下の水路は見えないこともある


最上段の水路の端
とにかく水がふんだんに使われている


そして
セーヌの方から見て左右(特に左側)の上の段の方に
様々な木々と花々とを使った涼しげなブロックが数多く作られている





ここまでは中央の芝生の広場の温室の方向に向かって右側


水路ある部分を支えるコンクリート壁をくぐる形で
反対側の
広場の左側へ行く


左側は
10mから20m四方ほどの
様々な木々や花々をあしらった緑の空間が作られており


行けば行くほど緑に囲まれる



それぞれのブロックは
土塁かコンクリート壁で仕切られていることが多く


いたるところの隠れたベンチで
人々が寛いでいる



もともとあったのか
土地の高低差をうまく使って
それぞれのブロックを上から見下ろすことができる

高い方にも遊歩道があり
ワンブロック毎をつなぐ渡り廊下みたいになっていたりする







ブロッコリーの妖精ではありません
向こう側のベンチに座っているお嬢さんたちです






















いくつかある公園の入り口の一つ





パリ市水道局が設置した水飲み場もある
とにかく水が多い



ブロック同士を隔てるコンクリート壁を広くした
階段状に水を流すところ
残念ながらこの日は水は出ていなかった



こんな風になっているところも


ここも水がなかったが
なにやら流れを利用した仕掛け



ここも中央を水が流れるはずの場所




ここは本来水が張ってあるところ



そして
くつろぐ市民は後を絶たない




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ご意見ご感想をお寄せください
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パリで美術三昧 < オルメカ展 2/2 > ケ・ブランリー美術館で 特別展を訪れる

2021-07-26 00:15:48 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『エル・アズズレスの4体』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
後編



『メキシコ湾岸 オルメカ人とその後継者たちの文明圏』


『祭儀と供物と副葬品』

『El Manati 出土 供物』
「左 16連パールのネックレス」紀元前1600年
「中央 と 右 祭儀用斧」紀元前1600年〜1200年

『El Manati 出土 胸像』 紀元前1200年〜紀元前900年

『El Manati 出土 胸像 と 王笏』 紀元前1200年〜900年



『La Merced 出土 彫像』 紀元前1200年〜900年

「レ・メルセッド」ではオルメカの歴史に重要な一ページを加える
時代の異なる二度かそれ以上の機会に奉納された無数の
宗教的祭儀の供物が発見された

「ベベ 赤ん坊」という愛称が付けられたこの「跪く」彫像は
手に斧を持ち
乳児ならではの且つオルメカの高貴な立場を表すシワの寄った表情で
ヘマタイト(赤鉄鋼)の鏡と土器の器と磨製石器の斧500本に取り囲まれていた

『レリーフされた小記念碑』

発掘作業時の写真も展示されていた





「オルメカ文明」というと
このような巨大な円頭がいくつも見つかっていることが知られているが
残念なことに
これらの円頭はパリには来なかった

『祭儀用の斧27丁』 紀元前1600年〜紀元前900年(第2期?)

『供物』 紀元前300年〜100年

「擬人化個体」「擬獣化個体」「首飾り」「耳飾り」「玉」その他「破片」
など30ピースの供物セットの一部

『同』


『同』

『彫刻』 紀元前1200年〜紀元前900年(第3期?)

第3期が最後の奉納で
複数の斧と道具や土器それにヘマタイトの鏡などから構成されているが
その中で傑出した彫刻作品がこれ
古代オルメカの神性を典型的に表しており
頭部の割れ目と突起は
彼らにとって新しい食物であった「とうもろこし」の出現を
表しているらしい

『祭儀用の斧』
線刻と浅いレリーフで「ヒトガタ」を表している


「レ・メルセッド」以外のサイトからの出土品

『セッロ・デ・ラ・メッス』のサイト

『Cerro de la Mesas 出土 牛の軛(くびき)のミニチュア』 紀元後100年〜300年

『線刻した亀甲』 紀元後100年〜300年


『坐像』

『貝殻のペンダント(部分)』
縁がカットされている

『多色彩色壺』


その他のサイト

『Maopasito 出土 土器』 紀元700年〜900年


『Tancama 出土 壺』 紀元1200年〜1300年


『同 耳飾り』


別の地域


トルテカ文明『Matacapan 出土 香炉』 900年

『Matacapan 擬人体像』 300年〜900年

身分の高い鎧姿の男
族長か他の部族の大使かと言われている
堅焼き土器製



左手で持つ盾 または 手甲




『マヤ文明』

『Balamcanchè 出土 神の姿を彫った香炉』 1250年〜1521年


『同』

そして16世紀
「征服者コルテス」侵入の直前の時代の副葬品

『フワステカ文化』
「タムトック」のサイト出土の35歳女性の副葬品
1520年頃

『ネックレスとペンダント・トップ』

ネックレスは
金張りの銅とカディスのガラスビーズおよび太平洋の貝殻から作られ
ペンダントは
グアテマラの翡翠
アステカ文明に含まれる「フワステカ人」の
16世紀初めの交易ルートとシステムが広い範囲で確立していたことがわかる
その他の副葬品の主だったものは
ローカルな陶




埋葬された当人の頭蓋

このサイトの町「タムトック」は「オルメカ文明」とその後継者たちの
中心都市のひとつで
紀元前300ねんから紀元600年頃が最盛期だったが
16世紀初頭でも15000人の人口を誇った

ここで2005年に素晴らしい発見がなされた

『生贄にされた女』 紀元1世紀頃

割れており欠損部分も多いが
繊細な仕上げの滑らかな表面
若い女性の身体の華美な美しさと官能性
若い世代の香り立つ苦悩
肥沃な豊穣さ
などが余すところなく表現されている




身分の高い人物を表しているのか
などモデルに関しては全く分かっていない
石切場の天然の貯水槽に沈んでいたので
彼らの先祖の儀式や習慣に則っているために「生贄」という呼び名がついた






最後に
『サン・ロレンツオ』と『ラ・ヴェンタ』
の地区



「サン・ロレンツォ」のサイトは
紀元前1500年から紀元前600年まで続いた
「ラ・ヴェンタは
紀元前1200年から紀元前400年まで存在した」

『サン・ロレンツオ出土』 紀元前1200年〜紀元前600年

前編でご紹介した「ラス・リマスの族長」と同じ形式で
歯のないV字形の口や胸元の衣服の襞及び
頭頂がV字形に分かれていて開いているのも「トウモロコシの神」「雨の神」を
象徴している


『同 背部』
縦に溝が伸びていて上に開いている

そして
「ラ・ヴェンタ」文化圏の「ザザカトラ」の出土品


『人造1』灰色凝灰岩製 紀元前800年〜紀元前500年


『人像2』安山岩製 紀元前800年〜紀元前500年

この2体も
口の形や頭頂部に開口部があることなどから
メキシコ湾岸全域での各地の権力者たちがイデオロギー的に共通の価値観に至っていた
という事が理解出来る


『ojoshal 出土 供物』 紀元前1800年〜紀元前200年

100個の斧と一緒に収められていた彫刻した笏
こんな組み合わせは珍しい


『Encrucijada 出土 胸飾り板』 翡翠製 紀元前900年〜紀元前400年


『祭儀用斧』緑玉製 紀元前1200年〜紀元前600年


次は「レ・ヴェンタの供物 No.3」と呼ばれるひと組からの抜粋
紀元前900年〜800年

『ひと型』

『ブレスレット』


『飾り板(バッジ)とペンダント』

続けて同じ「ラ・ヴェンタ」のサイトから

『首を捻じ曲げた猫』セラミック製 紀元前1200年〜紀元前900年


『足で立つ人像』翡翠(玉)製 紀元前1200年〜紀元前600年


『Simojovel 出土 祭儀用線刻斧』黒色粘板岩 紀元前1000年〜紀元前400年
一般的に「シモホヴェルの斧」と呼ばれる

『Tenango del Valle 出土 人頭』 ジェダイト(硬玉)紀元前1200年〜紀元前600年


上『人面文様のペンダントトップ』 緑玉髄製 紀元前1000年〜紀元前600年
下『』動物面文様の胸飾り板』 翡翠製 紀元前1200年〜紀元前400年


『Tlapacoya 出土 ひと形』 セラミック製 紀元前1200年〜紀元前800年

「ベビー・フェイス・タイプ」と呼ばれる堅焼き陶器のひと形で
内部は空洞のタイプ

前後二回に分けてご紹介してきた「オルメカ展」は
これで終わります

「ケ・ブランリィ美術館」は常設展示も大変にkyぽ海深いです
いつかご紹介しましょう



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パリで美術三昧 < オルメカ展 1/2 > ケ・ブランリィ美術館

2021-07-23 00:08:40 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée du Quai Branly』

パリで一番新しい国立美術館
『Musée du Quai Branly Jacques Chirac』は
「第三世界」の美術工芸の専門美術館
そこの
『オルメカ特別展』を訪れよう 
前編


1981年から1995年まで
二期14年大統領を務めた社会党の「フランソワ・ミッテラン」が
新国会図書館と新しく国立総合病院を作らせ
死後「ミッテラン図書館」「ミッテラン病院」と正式名称にその名が残された後
次の保守党大統領「ジャック・シラク」が
自分の名前を残したくて
パリに新しい美術館を作らせ
生前から「ケ・ブランリィ・ジャック・シラク美術館」と命名した

Quai Branly(ブランリィ河岸)というセーヌ左岸のエッフェル塔のすぐ近く
通りに沿ってガラス張り


ガラスの塀の中に入ると鬱蒼とした「藪」になり
ここかしこに
歓談用にベンチを備えた一隅などがあり
その緑に囲まれて摩訶不思議な建物が建っている


鉄のコロンで持ち上げられた何艘かの数珠繋ぎの船の様な

『Musée du Quai Branly jaques Chirac』

設計は目下フランス一名高い建築家となっている『ジャン・ヌーヴェル』


ちなみにすぐ隣にあるエッフェル塔の展望台から見ると



こうなっており
対岸の「シャイヨー宮」の「歴史文化財博物館」の窓から見ると


こんなであります
エントランスホールには
「オルメカ文化」の象徴のような巨大な頭像が鎮座している


このエントランス・ホールの中央に入場券確認があり
そこからスロープを上階の展示フロアーに登ることになる


今二人がいる場所から右にスロープに入ると


世界中の文化遺産の所在地と出土地の地名が
スロープの床にランダムに映し出され
あたかもセセラギの流れのように
曲がったり集まったり離れたりしながら流れ下ってくる



途中で左右の壁を岸辺の土手に見立てて
流れの一部が潜り込んだり別の場所から流れ出てきたり
驚かされる

上階の展示フロアーにたどり着くと


「オルメカ文明」の彫像の一体が出迎えてくれて
奥のポスターが上から吊るされている「特別展会場」へと進む

特別展の会場に入ると最初の部屋が

『Senor de Las Limas ラス・リマスの男』紀元前900年〜400年頃

1965年に「ラス・リマス」の町の郊外で発見された
「古代オルメカ文明」最高傑作と言われる「超現実的存在を両腕で抱く男性座像」がある



「オルメカ」は
紀元前1700年頃からメキシコ中部「メキシコ湾」岸沿いに起こった文明で
紀元前600年〜400年頃が最盛期であったらしい
紀元前200年頃に突如消滅
「Las Limas」「El Azuzul」「Tres Zatotes」「La Venta」「San Lorenzo」
など何箇所かの遺跡サイトに分散して見つかっている

その末裔たちの最後が「アステカ文明」の人たちで
スペインからの侵略者「征服者ヘルナン・コルテス」が1521年に上陸した時点で
文明全体が消滅した

『ラ・ヴェンタの供物』紀元前800年〜600年頃

16人の人型と6本の斧の模型からなる
15人はジェダイット(硬玉)製で花崗岩製の一人に向き合っている
神への捧げもの

次は
1987年に発見された『アズズレス」遺跡
紀元前1200年〜紀元前900年の遺跡の出土品4点の中から




これは
痛み具合がほんの少し違うほぼ同じ2点の一つ

同型のもう一体は




さらにこの坐像も2体あって
一つは




同型のもう一体が




そっくりだが
正面から見たときの腹帯の水平度が微妙に違っている


『Laguna de los Cerrosから出土した 無頭の男性立像』紀元前1200年〜900年




以下は『オルメカの男性像』と呼ばれるもの

『Cruz del Milagro 出土の オルメカの人像』紀元前1200年〜900年

同 背後


同 側面



『Piedra Labrada 出土 記念石柱』紀元200年〜600年


『Cerro de las Mesas 出土 祭壇 族長の側面坐図レリーフ』紀元467年〜468年


『Cerro de las Mesas 出土 族長側面坐図レリーフ』紀元600年〜900年

次は凄い

『Tres Zapotes 出土 祭壇 上部』紀元前31年

『同 下部 暦』
実はこれオルメカ数字で暦になっていて
紀元前3114年8月11日
から
紀元前32年9月1日
つまり作られた年の前年までを表している

以下
題して「メキシコ湾岸の人々」

『Antonio Plaza 出土 レスラーと名付けられた男性坐像』紀元前1500年〜紀元前400年

『同 右斜め側面』

『同 左斜め側面』

『同 背中』


『Chiquipixta 出土 青年像』紀元前1200年〜紀元前900年


『同 背面』
背中に一本くっきりとした縦の溝が彫られている

『同 側面』
古代エジプトに見られるような「長頭族」に似ている

ここから時代が飛ぶ

『Tamahi 出土 背中に子供を背負ったワステカ族の青年』紀元1000年〜1521年

『同 上半身』

『同 背中』


『別の青年像』
同じような刺青をしている

『Tecomaxöchitl 出土 台座に立つ女性像』紀元900年〜紀元1521年


『Tuxpan 出土 跪く女性像』紀元900年〜紀元151年

『同 左側面』


『同 右側面』

『同 背中』


『Ciudad Madero 出土 腕の先で穴を掘る棒を持つ男性像』紀元900年〜紀元1521年


『El Tajin 出土 Niches のピラミッドの装飾石柱』紀元600年〜900年?

『El Naranjo 出土 トガり帽の男性像』紀元900年〜1521年

『Castello de Teayo 出土 女性像』紀元900年〜1521年

『同 背中』

『Ozuluama de Mascarenas 出土 Seigneur d'Ozuluama 
擬人化されておうぎ形の帽子をかぶった族長』1200年〜1521年

『同 背中』
帽子の後ろ垂れは骸骨

『Huilocintla 出土 ウィルシントラの石柱』900年〜1521年
族長自らの自己犠牲を表しており
これにより神への生贄を想起させ超自然的存在が失った血を取り返してくれるという
「マヤ」でよく見られた風習

『Tempoal 出土 跪く男性像』1200年〜1521年

『同 右側面』

『Castello de Teayo 出土 擬人化された女性石柱』900年〜1521年

『同 裏側』

『Ahuateno 出土 何かの動物の上に立つ人像』1200年〜1521年

『同 右後方側面』

『同型 別ヴァージョン 背面』
顔に穴が空いていないタイプ

この項 後編に続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
今後のブログ継続の参考にするために
皆様方の「ご感想」「ご意見」「ご要望」「お叱り」「嫌味」「励まし」
など読者の皆様方の声をお待ちしております
「コメント」ボタンから順におすすみください
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パリで美術三昧 < シニャック展 後編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021年 初夏

2021-07-21 00:02:34 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『ジャックマール・アンドレ美術館』


前回に続いて
「シニャック展」後編をお届けします

「ポール・シニャック」は常に気心の知れた信頼する友人たちに
取り囲まれていた
まず「マキシミリアン・リュス」との出会いは1887年
「独立画家展」で彼がリュスの作品を一枚購入したことに始まった
彼は描く画家だけではなく
他の画家の優れた作品を集める収集家でもあった
シニャックは初期のリュスを色調の分割の技術で深く影響を与えた
リュスは人々の日常の着眼し
ベルギー旅行の際に「カフェにて」や
フランドルの製鉄所を訪れて「製鉄工」などの作品を仕上げた

そのベルギー滞在中に
ベルギー人画家「ジョルジュ・レマン」と出会い
アヴァンギャルド派であった彼は「独立画家協会展」に出品するようになり
スーラやシニャックと交流が始まった
パリで「ナビ派」の画家たちと出会い
「ジョルジュ・ラコンブ」は新印象主義に影響されるようになる
いずれも
「色彩」の捉え方とその表現の道筋を作っていった

「エドモン・クロス」は以外と遅く
1891年になって新印象主義に傾き
しかし一度その道を踏み出すと生涯変わることなくその道を求め続けた
シニャックにとって非常に気心の知れたごく日常的な友人であり
スーラ亡き後はシニャックにとって片方の空間を埋めてくれる
欠かせない存在であった

「テオ・ヴァン・リッセルベルグ」はブリュッセルにおけるシニャック
とでもいうべき存在で
かの国のアヴァンギャルド集団の展示会などに
シニャックが行っていたように参加を続け
本来肖像画家であった彼が風景画にも色彩の構成の主張を持ち込んだことで
ベルギーはフランスに次いで第二の「新印象主義絵画」の祖国となっていった

その後のシニャックの歩みに戻ろう


『Couché de Soleil (Evantail)』1905 紙 水彩・墨・鉛
「夕陽(扇画」」

『Avignon. Soir (Le Palais des Papes)』1909 紙 水彩+墨・ペン
「アヴィニヨン 夕刻(教皇庁)」

シニャックは友人たちをサントロペに誘い
制作中に彼らに薫陶を与えた
その滞在中
彼は水彩画の魅力に目覚める

『Antibes』1910 紙 水彩+墨・ペン
「アンチーブ」

油彩とは異なる存在価値としての水彩を
好んで戸外制作に用い
それがその後のアトリエでの油彩の制作にも影響を与えることとなる
この「アンチーブ」匂いて
水彩の色彩の繊細さの極地に到達していると言われている

『Les Cyprès de sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 紙 水彩+墨・ペン
「サント・アンヌ(墓地)の糸杉(サン・トロペ)」

『Venise. La Dogana』1906 紙 水彩+鉛筆

『Venise. San Giorgio (Éventail)』1905 絹貼り厚紙 水彩
「ヴェニス サン・ジオルジオ(扇)」

1900年代に入り
1902年
1904年
1906年
と数次に渡って繰り返された
『Salon des Artistes Independants (独立芸術家協会展)』への意欲的出品で
彼はパリのみならず
ベルギー・オーストリア・ドイツに置いても名声を確立してゆく

ヴェネチア滞在によって「光と水」の表現に磨きがかかり
1907年以降中国の水墨を用いる事も
白と黒のコントラストの表現の上で極めて有用であった

『Séte』2 Avril 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「セート」

『La rade de Toulon ou Toulon. Ciel d'Orage』Avril 1931 しぼ紙 水彩+鉛筆
「トゥーロン波止場 または トゥーロン、夕立空」


『La Ciota』1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ラ・シオタ」(南仏)

『Paimpol』13 Août 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「パンポル」(ブルターニュ)

『Villefranche-sur-Mer』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ヴィルフランシュ=シュー=メール」(コート・ダジュール)

『Morlaix』21 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「モッレー」(ブルターニュ)

『Saint-Nazaire』23 juillet 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・ナゼール」(ブルターニュ)


『Douarnenez』13 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ドゥアルルネーズ」(ブルターニュ)

『Nice』2 mai 1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「ニース」

『Le Bono』31 mai 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「ル・ボノ」(ブルターニュ)

『Concarneau』7 juin 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「コンカルノー」(ブルターニュ)

『Menton』1931 シボ紙 水彩+鉛筆
「マントン」(コート・ダジュール)

 『saint-Malo. Les Voiles jaunes』29 octobre 1929 シボ紙 水彩+鉛筆
「サン・マロー 黄色い帆」

『Dankerque』5 juin 1930 シボ紙 水彩+鉛筆
「ダンケルク」(ノルマンディ)

これだけの水彩を一堂に並べると
シニャック=点描派
という固定観念が一挙にひっくり返ってしまう
それにしても
シニャックも「水と空」を光と色で表現する「印象主義」の第一歩から
全く変わっていない同一線上にあることが理解できる
『Néo-Impressioniste 新印象派』
という仲間とスタートしたのだから

水彩なので色を「タッチ(点)」で置いて行くわけにはいかないけれど
水彩画の可能性を深く認識したシニャックの面目躍如といったところでしょうか

また油彩に戻ろう

『Arc-en-ciel, Venise』1905 カンバス 油彩
「虹 ヴェネチア」

この作品で
自分のパレットの反響である虹の七色を
彼は大気の効果を再現すべく実に繊細に利用している

20世紀になると
「色彩の役割」が
芸術活動と論争の中心的位置を活気付けて行くのです
そして
シニャックの作品と政策理論とは
新たな若い県政のうねるである『フォービスム』に受け入れられて行くことになった

「色彩と線とを 感じ取り 伝えたいという情熱の元に従わせてゆく 
つまり
描くという行為の結果は詩人の作品ということになるだろう」
(ポール・シニャック)

『Le Port Royal, Inondation』1926 紙 墨絵
「ポール・ロワイヤル 洪水」

彼は
最初から「色彩の解放」を推し進めていき
観察するモチーフから
カンバスの中でどんどん解き放たれて行くようになる

1898年ロンドン滞在中に『ターナー』の作品に出会い
対象を「模倣し」「コピーする」という概念から
離れる必要を痛感した
「色合いを創り出さねばならない」と書き残している通り
彼は「自然主義」から離れて行く

「サン・トロペ」やその周辺の鄙びた海岸の村に足を運び
中央で知られていない土地の趣を
表現してゆく中で
地中海の海と太陽とは
色彩の理解と分析とその解放とに大いに役割を果たしたはずで
最初の頃訪れていたブルターニュの光の少ない海辺との対比も
シニャックの形成に一役買っている

『Antibe. Matin』1903 布張り厚紙 油彩
「アンチーブ 朝」

『sainte-Anne (Saint-Tropez)』1905 カンバス 油彩
「サント・アンヌ地区(サン・トロペ)」

『Juan-les-pins. soir ( Première version』1914 カンバス 油彩
「ジュアン・レ・パン 夕刻」(ヴァージョン 1)


『Juan-les-pins. Soir』1914 デッサン用紙 水墨
「ジュアン・レ・パン 夕刻」

彼は芸術特に絵画の黄金の世紀と言われる
17世紀「古典主義」に精通しており
その根底にあるデッサンの重要性も理解しており
その時代の巨匠たちが作品に取り組む前にやったような
「カートン(画用紙)」を使用して
さらに中国の墨を使う水墨画を研究して
自分の求める色彩の解放への手がかりともしていった

『Avignon, Matin』1909 カンバス 油彩
アヴィニヨン 朝」

『Marseille, Le Vieux-Port』1906 カンバス 油彩

最後に
この特別展の冒頭に展示されていたものをご紹介しておく


『Application du Cercle chromatique de M. Charles Henry』1888 リトグラフ

これは
当時の「アンドレ・アントワーヌ』が率いた劇団『自由劇場』の
公演プログラムのための図版で石版画
この図版政策で
シニャックは「色彩と線」の化学的デモンストレーションを行っている
一人描かれている観客の首が
オレンジ色という明るい緞帳からの逆光の中にうきあがり
ブルーがオレンジのコントラストを成し
影が光に対立している
『Theatre-Libre 自由劇場』のイニシャルが
当初の色とその変性色の多様性の精緻な組み合わせが
将来の彼の予兆を成している
ここで彼は
色彩の調和と対比との化学的分析は
ポスターやイラストにも有効であることを示している

最後の最後に

『Palette, Aux Tuileries』1882 〜 83 板 油彩

彼が
自分のパレットに描いた「チュイルリー公園」です

ここ『ジャックマール・アンドレ美術館』は特別展と常設展と
両方を楽しむことができます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想ご意見ご要望を是非お寄せください
「あれが好き」「これは嫌い」「それ見てみたい」
些細なことなんでも結構です
「コメント」から送信できます
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パリで美術三昧 < シニャック展 前編 > ジャックマール・アンドレ美術館 2021 初夏

2021-07-19 00:10:26 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 『Musée Jaquemart-André』

『ジャックマール・アンドレ美術館で年明けから予定されていた
後期印象派の最終到達点『点描派』の巨匠『ポール・シニャック』特別展が
コロナによる美術館の休館措置解除でやっと開催された

展示会のテーマ「彩色されたハーモニー」

1863年11月パリで生を受ける
1879年16歳で「第四回インプレッショニスト(印象派)展』を訪れ
カイユボット ドゥガ ピサロ モネ
などの存在に触れた

1880年
彼は「クロード・モネ」のプライヴェート展示会に招かれ
高校を中退して画家になる決心をする

伝統芸術としての絵画の要素は
「主題」「構図」「構成」
だったヨーロッパ官製芸術のアカデミスムに対して
「光」と「色彩」
に注目したのが「モネ」が始めた「印象主義」であった
光は常に移ろい同じであることは決してない
その光の与える効果が色彩だ
ということに気づいた印象主義者たちは
移ろう光とその効果である色彩をこの一瞬で画面に捉えることを行い
構図の要素である平面の処理が後回しになっていった
揺れる光線の効果で平面が分解されて
ブロックになって行き
それが大きなブロックに集約されてゆくと「キュービスム」を生み
小さなブロックに分かれてゆくと「点描」になった

『Saint-Briac, Le Bechet サン・ブリアック ル・ベッシェ海岸』1885年 カンバス 油彩

1884年
彼は「Societé des Artistes Indépendants 独立芸術家協会」の結成に
参画する
審査員もいない受賞もない作品展を年に一回行うことを目的とした
翌年1885年から翌86年の冬ブルターニュに制作旅行に旅立ち
少し前から「カミーユ・ピサロ」が始めていた
混ぜ合わせない純粋な色彩を画面上に細かいタッチで載せて行き
鑑賞者の目を通して
描かれた風景の現実の色彩の「トーン」を感じ取ってもらうという手法を
「サン・ブリアック」などの描写で試してみた

極めて最前面の構成と
色彩の生き生きとしたトーンと極めて幾何学的形状の構図と
画面の三分の二をしめる海の
「点」に昇華した波頭の単純で厚みのあるな繰り返しという単調さを
手前の大きな岩で壊して奥行きの感覚を与えている

『Fécamp, le Soreil フェカン 太陽』1886年 カンバス 油彩

こちらは「ノルマンディー」の海際の町の
空と地面で
同じ技法を採っている

この頃
彼に英ky等を与えた人物に『Georges Seurat ジョルジュ・スーラ』がいる

Maximilien Luce『Portrait de Georges Seurat スーラの肖像』1980 紙 コンテ

『ジョルジュ・スーラ』はパリの「エコル・デ・ボザール(美大)」出のエリートで
絵コンテによるデッサンで才能を非常に高く評価されていた

Georges Seurat 『Mère de l'Artiste assise 母親坐像』1882年 紙 コンテ

このデッサンに表されているスーラの母親像は
輪郭を取り囲む線によってではなく
光と影のゾーンの対比によって際立たされている
しかし高い評価にもかかわらず
この絵コンテは1884年の官製展覧会『ル・サロン』に落選
それをきっかけにスーラは「Sakon des Indépandants 独立芸術家協会」に
参加するようになり
1885年856年にかけての冬
色調の「分割」の技法を生み出すことになった

1886年の「印象派展」に出品した作品が『Post-Impressionisme』を
産むことになる
しかし1891年の最初の「独立協会展」の年に急逝した


『シニャックの芸術は自ら生まれて 彼の天才を体現した』


『Avant du Tub, Opus 176 タブの前 作品番号176』1888年 カンバス 油彩

シニャックは「スーラ」の影響で
1886年1月から色調の分割の新たな手法を始める
タッチがより「手法的」になり
風景をより「幾何学的」に扱うようになっていった


『saint-Briac, Les balises Opus 210 サン・ブリアック、標識  作品番号210番』 
1890年 カンバス 油彩

1885年の滞在で目覚ましい制作を行った後
彼は90年に再度「サン・ブリアック」を訪れた

前回の「印象主義的」作法と異なり
今回はこの地で突如「新印象主義」に目覚める
この作品では
風景を厳密さで再現しながら
視点を人工的に単純化し
要素を「砂」と「水」と「空」とに単純に分割し
標識の縦の線と水平線の横の線の単純さで
光線に「抽象音楽」のようなリズムを与えた


『La salle à Manger ou  Le Petit Déjeuner (Etude)』1886〜87年 カンバス 油彩
「食堂 または 朝食』(習作)

『Concarneau, Carme du Soir (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー」(習作)

これらの習作で
「色の分割」には異常に冷静で厳密なアプローチが必要であることを学び
絵の具の混合を避けて純粋さをを保つために
色ごとに塗る時間を変えたり乾燥させるタイミングを変えたり
様々な努力を繰り返した


『Soreil couchant sur la ville ou Saint-tropez La Ville』1892年 カンバス 油彩
「町の夕陽 または サントロペ、町」(習作)

『Concarneau (Etude)』1891年 カンバス 油彩
「コンカルノー (習作)」

既に彼は絵を描き始めた当時から
点描に通じるピサロの色彩の使い方を学んではいた

『Les Andelys, Le Soleil couchant』1886年 カンバス 油彩
「レ・ザンドリス 夕陽」

しかし上掲の習作の過程で
彼は色彩の分割のための色の実態をより確実に把握していった

『St-Tropez, Fontaine de Lice』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 空掘通りの泉」

この作品でシニャックの新たな頁がめくられた
この作品においては
色彩が彼の関心事の中心的役割を果たしてはいるが
それだけではなく
全く違う副次的な色の使い方をしている
中心となる色彩だけではなく「7原色」を全て使って
それぞれが全体の色調に平衡てき効果を与える役割を見出だしているのだ


『Saint-Tropez, Après l'Orage』1895年 カンバス 油彩
「サン・トロペ 夕立の後」

この年の一連のサントロペを描いた作品の中で
彼は「点」をよりゆとりのある「タッチ」(点より大きい)に重きを置いて
習作に見られた自由さを獲得し
彼の地中海の海を描いた作品に」よく見られる「太陽の光」ではなく
空気の効果を構成する
銀鼠ブルーで表現された中にかすかに見られる「赤」が
その効果を膨らませている

『Samois Etude No.11』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.11

『Samois Etude No.6』1899年 布貼り厚紙 油彩
「サモワ 習作No.6」

『Mont Saint-Michel, Brume et Soleil』1897年 カンバス 油彩
「モン・サン・ミッシェル、霞と太陽」

ここで『カミーユ・ピサロ』にも
触れておかねばならない


Camille Pissaro『La Briqueterie Delafolie à Eragny』1886年〜88年頃 カンバス 油彩
カミーユ・ピサロ「エラニィのドゥラフォリーレンガ工場」

「Seurat スーラ」に続いて
シニャックと並んで「Camille Pissaro カミーユ・ピサロ」は
1886年から分割したタッチの色彩効果を
使い始めた
現色を「交差使用」することの継続的な模索によって
ピサロは『新印象主義者』達の仲間入りをすることになる
上の作品は
かつて印象主義で描いたテーマだが
仕切られない空間を表現することで印象主義より表現方法をさらに現代化し
さらに次の作品で

同『Le Troupeau de mouton à Éragny』1888年 カンバス 油彩
「エラニィの羊の群れ」

急進的アプローチによる光と影を用いて厳格な幾何学性を築いくことで
新印象主義の傾向から徐々に離れて行くことになった

さらに
スーラとシニャックの影響を引きついだ画家を挙げておこう

『Archille Laugé アーシィユ・ロジェ』
1861 〜 1944


『Archille Laugé『L'Arbre en fleur』1893年 カンバス 油彩
アーシィユ・ロージェ「花咲く樹」

出身地トゥールーズの美大で学び
さらにパリの美大に入ったが伝統的アカデミスムの教育に失望し
「独立画家集団協会」に参入
スーラとシニャックの色彩の表現に影響を受けた
ただし実際には二人に出会ってはいないらしい
故郷に帰ってから開花し
三原色を微小な点で重ね合わせてゆく氷河んで
フランスの「分割主義者(点描派)」の中の独特の地位を占める

その他にも

『Louis Hayet ルイ・アイエ』
1864 〜 1940


Louis Hayet 『Au Café』1887 〜 88年 薄布 各種顔料の混合
「カフェ にて」

『Maximillien Luce マキシミリアン・リュス』
1858 〜 1941

Maximillien Luce『Le Café』1892年 カンバス 油彩
「カフェ」

同『Aciérie』1899年 カンバス 油彩
「製鉄工」


同『Le Port de Saint-Tropez』1893年 カンバス 油彩
「サン・トロペの港」

同『Saint-Tropez, Route du Cimetière』1892年 カンバス 油彩

『Georges Lacombe ジョユジュ・ラコンブ』
1868 〜 1916

Georges Lacombe『Baie de Saint-Juede-Luz』1902 〜 04年 カンバス 油彩
「サン・ジャン・ド・リュズ湾」

『Georges Lemmen ジョルジュ・レマン』
1865 〜 1916

Georges Lemmen『Promenade au bord de la mer』1891年 カンバス 油彩
「海辺の散歩道」

『Théo Van Rysselberghe テオ・ヴァン・リッセルベルグ』
1862 〜 1926

Théo Van Rysselberghe『Le Moulin du Kalf à Knokke』1894年 カンバス 油彩
「(フランドル地方)クノッケのカーフ風車」


同『Canal en Flandre』1894年 カンバス 油彩
「フランドルの運河」

『Henri-Edmond Cross アンリ=エドモン・クロス』
1856 〜 1910

Henri-Edmond Cross 『Paysage avec le Cap Nègre』1906年 カンバス 油彩
「(南仏地中海岸の)ネーグル岬の光景」

同『La Mer clapotante』1902 〜 05年 カンバス 油彩
「波が打ち寄せる海」

「クロス」はスーラとシニャックと並んで
官製美術展『ル・サロン』の伝統的閉鎖性に対抗して立ち上げた
「Société des Artistes Independants 独立芸術家集団」
の共同設立者の一人で
フランス点描派の第一人者の一人である

この項後編に続く
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ブルターニュ紀行 番外編 < シャトー民宿 in ブルターニュ >

2021-07-16 00:03:39 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ/ホテル
巻頭写真 : 『シャトー・ド・ケルグゥアントン』

海と信仰ケルト文化と古代巨石文明に加えて城が無数にある異世界
そして
そんなブルターニュにも城の民宿も沢山ある



「お城で暮らす」ことに興味がありますか?
フランス各地に何十万もあるお城に中には売りに出ているものも何万件かありそう
売値は数10億ユーロの数から一軒のアパルトマンを買うくらいの場合も多いが
たとえ買えても
日々の維持とメンテナンスと税金と何やらかんやら
やはり相当の富裕層でないと無理ぽ

そこで
せめて旅行中くらいは「シャトー・ホテル」に泊まってみたい
いい考えです
でもお城であっても「ホテル」はやはりホテルで
どこか「お仕着せ」なんですね

そこで
お城の民宿というのがあります
シャトーホテルおどお高くなくて
「仮の宿」の雰囲気ではなく「生活感」を満喫して滞在できる格好の機会です
そこで
せっかくのブルターニュ紀行を終えるにあたって
つでにブルターニュの「民宿やってるホテル」をほんの何軒か
ご紹介してみよう
いずれも
部屋数「一部屋」からせいぜい「十部屋」止まり
平均四部屋
つまり
現役のお城の「一部」に泊まれるわけです

ほとんどコメントつけずに上げて行きます


『Château de Bonnefontaine シャトー・ド・ボンヌフォンテーヌ』











※  ※

『Château de la Villedubois シャトー・ド・ヴィルデュボア』












※  ※

『Château de Montbrault シャトー・ド・モンブロー』









※  ※

『Château de Bonabry シャトー・ド・ボナブリィ』











※  ※

『Château de Kergouanton シャトー・ド・ケルグゥアントン』













※  ※

『Château de l'Epinay Bretagne シャトー・デピニィ=ブルターニュ』











※  ※

『Château de la Croix Chemin シャトー・ド・ラ・クロワ・シュマン』













※  ※

『Château de la Motte Beaumanoir シャトー・ド・ラ・ボーマノワール』












※  ※

『Château de Penfrat シャトー・ド・ペンフラット』











※  ※

『Château du Val シャトー・デュ・ヴァル』













※  ※

『Château de Léauville シャトー・ド・レオーヴィル』







では
次回からは別のテーマでお届けします
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 70 最終回 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 2 >

2021-07-14 00:19:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : モン・ドォル周辺のメンヒル『メニール・ド・シャン・ドレン』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
70
最終回



ブルターニュはケルト文化の国
ローマ化したガリア人とゲルマン人との混血であるフランスの「中央政権」とは
人種が違い
言語も伝統の宗教のあり方も違い
ローマ滅亡以来フランス(フランク族カロリンが王朝とのちのフランス王家)
による千福行動に対抗し
独立を守る戦いが政治・外交・軍事面で15世紀まで延々と続いた

他の地方よりフランスへの併合がずっと遅かった分
その独自性が強く残った

キリスト教信仰の中の「Grand Pardon パルドン祭」はその最たるもの
「Grand Trémine 大トレミーヌ祭」とも呼ばれる
詳しくは『ロクロナン』の項を参照されたい







そして
ブルターニュのキリスト教会で欠かせない独特のものが
「カルヴェール」と「ブルトン十字架」
がある
詳しくは「ギミィヨー」「サン天テゴネック」などの項を参照

カルヴェールは礼拝堂や教会の建物の周りを低い塀で取り囲み
その中に墓地や納骨堂などの一緒に作られる
新約聖書の情景を表した彫刻が多く集まった十字架のこと

『Saint-Jean de Trolimon 聖トロリモン』のカルヴェール


『Plougonven プルゥゴンヴェン』のカルヴェール



『サン・テドネック』のカルヴェール



『Guéhenno』のカルヴェール

『Pleyben』のカルヴェール

「Croix bretonne ブルトン十字架」とは
カルヴェールを簡略化して十字架だけにしたもので
架刑にされたイエスがいることもあるが
普通に見られるイエスの彫刻を十字架にくっつけたものではなく


全体を一枚岩を削って作った十字架のことで
街道筋の交差部や見晴らしの良い丘の上や岬の先端などに建てられている




『Croix de Carantec カランテックの十字架』


『Croix de Guisény ギゼニィの十字架』

特に「ケルト十字」で作られたものは
古くからの土俗信仰が抜けきっていない時代感覚を伝えている

Croix celtique  ケルト十字架

ケルト十字はキリスト教の十字架より二千年ほど起源は古く
アイルランドがキリスト教化された時に
アイルランド人が転用し
ブルターニュに伝わってきた

『Fontaine de l'Île Saint-Cado サン・カド島の泉』の十字架
これは「エテル川に沿って」の項の「サン・カド島」を参照ください

ケルト文化の伝統といえば
主だった町では必ず夏に毎年繰り広げられる「ケルト祭り」
皆さんこの時とばかりに民族衣装で身を飾り
バグパイプの楽団が町を練り歩き伝統的ダンスで大騒ぎです

『Coiffes de pays Bigpourden ビグゥルデン地方の髪飾り』


これはおそらくもっとも狭い範囲でのみ伝わる衣装で「コルヌアイユ地方」の
「グゥエゼック村」と「サン・トワ村」
だけに伝わる晴れ着


『Coiffes et Binious de Quimper カンペールの衣装』
この衣装「ビニウ」と髪飾りはコルヌアイユ地方の首都「カンペール」のもの



とにかく
ブルターニュの夏はどこの町でもお祭りです

前からも



後ろからも



民族衣装のオンパレード


大人も


子供も


手拍子も



女性部隊も


男女混合も



親子の組も


昼も



夜も



ブルターニュの夏は暑く燃えます
ケルト衣装の乱舞です

忘れてならないのが古代の巨石文明

その中で
変わり種のメンヒルを一つ挙げておこう


紀元前5000年 〜2000年くらいの間のものだろうと推定されており
高さ7m40
(ただし地中に1/3ほど埋まっている分を除く)
幅2m60
キリスト教伝来とともに
キリスト教化されたメンヒルとして名高い




彫り込まれている文様は
太陽と月から始まって
円にリボンその他「ケルトのシンボル」が多い
十字架は別の石で作られて頭頂部にはめ込まれた

そして
やはりすごいのは「カルナック」の列柱
狭い範囲の三箇所に分散して合計で8000本ほどのメンヒルが列をなす




巨大な石から小さなものへと順番に並ぶ様は圧巻



そして
最大のドルメン『妖精の岩』の驚くべき姿



食文化で言えば
ブルターニュは海の幸
内陸は土地が痩せていて歴史的には小麦が育たず
蕎麦とニンニクしか採れないと言われた

海の幸といえば「オマール海老」
特に「Omard bleu 青いオマール」は特別に稀少で非常に美味



これだけ大きいと1k500はありそうなのでお値段も.....
ちなみに茹でると赤くなるので調理の前に実物をご披露するのがお約束

北海岸の「Côte Armor アルモル海岸」の港に行けば
例えば「ペロス・ゲリック」(既出)など
漁師が獲ってきたオマールを自分で売っているところに出くわすこともある

『Trebourden トレブゥルデン』(既出)の港にて

ここまでになると齢二十年とかになる
ハサミはゴムバンドでぐるぐる巻きに縛っておかないと
挟まれたら悲劇が起こることも

さらには
「アワビ」も特産


パリでは
運が良くても小型のトコブシしか見つからないが
ブルターニュでは
時期によって大型のアワビを出してくれるレストランもある



それから「牡蠣」


『Huître de Belon ブロンの牡蠣』
「ポンタヴェン」(既出)の南のアヴェン川が海に注ぐ河口のすぐ東に
V字型になるように北東から出てくる入り江のような川「ブロン川」の特産で
「ヨーロッパ・ヒラカキ」という和名がある

丸くて平らな牡蠣は古代ローマ人が大好きで
「輸入」の手間を省きたいばかりに
海軍を送りつけて戦闘力で占領してしまったという史実すらある

陸の名物は
今でもニンニクは特産だが
それに加えて「アーティチョーク」も名産地として名高い



ドルメンを背景にアーティチョーク畑


茹でたりオーヴンで焼いたものの「ガク」を一枚一枚はがして
ヴィネガーソースに浸して根元を歯先でこそぐようにして食べる


芯の部分はヤツガシラのような味と舌触り




特筆すべきは
ブルターニュは豚の放し飼いをする


  塩を舐める場所

放牧されるのは巨大なメスで
それぞれの寝ぐらとして「一軒家」を与えられている
いわば「家付き娘」
生まれた子豚も一緒に住む



お菓子も
全国区として名高いのが二つ

『Far Breton』
「ブルターニュの朝飯(粥)」みたいな意味で
半干しプルーンを使ったフラン(蒸しカスタード)みたいなもの

『Nantais』
「ナントの(菓子)」という
まるで「ジャパニーズ」という名のお菓子があるみたいなウエメセな名前
もともと『Gateau Breton ブルターニュのお菓子』という名のパウンドケーキが有って
それを平たい円形に作って天面を砂糖で厚くグラッセしたもの

長く続けましたブルターニュ紀行はこれで終わります
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 69 < 海と信仰と ケルト文化と古代巨石文明と 最終章 1 >

2021-07-12 00:14:03 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Vallée des saints 聖者の谷』

海と島と岩と
異民族で異言語を持ち異なる独自のキリスト教信仰を持ち
ケルト文化と古代巨石文明を起床する
全てにおいて異世界のブルターニュ
69 最終回 1



『海のブルターニュ』
北ブルターニュは冬の荒れ狂う波
南のブルターニュは夏の穏やかな輝き
でも
干満の差が激しいのは南北共に同じ海

『Phare de Kéréron ケレロン灯台』


『Phare de Nividic-Ouessant ニヴィディック=ウエッサン灯台』

『Phare d'Ar Men アル・メン灯台』

『Saint-Malo サン・マロー』



冬の荒波が激しい時は
岸壁の海岸道の頭越しに道の反対側の建物を波が直撃する



激しい波から岸壁を守るために
消波ブロックなどという不細工なものは使うはずもなく
波消しのための丸太を波打ち際に打ち込んである

そして
その海が干満の差が非常に激しいのは
北も南も同じ


町の岸壁では
干潮になると水位は極端に下がってしまう


複雑な入り江では
水のない場所があちこちに出現する


港を守る砦の建つ岩礁も


引き潮になると陸とつながったりもする

そして
小さな岩礁も含めて
ブルターニュには数え切れないほどの島々がある

『Île du Guesclin デュ・ゲクラン島』

『Île de Roch Ar Hon ロック・アル・オン島』

このような
一軒家が建つ個人所有の小さな島は極めて人気が高い
売りに出される少ない可能性に賭けて
ブルターニュの島を扱う不動産業者には100人以上の順番待ちのリストが
常にあるらしい
実際に売買が行こな割れるのは1世紀に1〜2島だそうだ

特に
この島は観光客に人気が高い

『Île de Plougrescant プルゥグレスカン島』

ブルターニュ独特の花崗岩の巨大な二つの大岩に挟まれて
小さな家が建っている光景は
絶好のフォト・ポイントとなっている

『Castel Meur マー館』

この島も干潮時には陸とつながり道路が現れるので
所有者は車で島から出入りをしている

『Castel de Perros-Guirec ペロス=ギレックの館』


所有者一人の極小の島でなくとも
人の住む島は当然漁師たちも住んでいるが
別荘地として需要が高い

『Île de Bréhat ブレア島』

北海岸「パンパル」(既出)から海に向かって伸びる『アルクエ岬」の先端の
目と鼻の先にある『ブレア島』は岬の先端から渡し舟が出ているが
観光シーズンには1時間ほどで島を一周する遊覧船も頻繁に出ているほどの人気ぶり


『Île de Batz バッツ島』

次も北海岸『ロスコフ』(既出)から船ですぐの『バッツ島』も
人気が高い


「バッツ島」の
ある複雑な形の小さな湾の中ほどの岩山と
満潮時にわたる石造りの歩道とその端にある小屋も



絶景として名高い


当然「岩だらけ」の海岸も多い

岩と家といえば
こんな場所もある

『Les Rochers de Ménéham』

北ブルターニュの海岸にある『ケルルーアン村』にある
『メネアム岩の家』
島ではないので観光客が自由に岩に登って上から家を眺めたりしている


この石を組み合わせて作られた小さな家は極めて美しく
屋根と壁との一体感を持った仕上げは技術の高さをうかがわせてくれる


信仰といえば
ブルターニュのキリスト教信仰は特別
ローマ時代に
3世紀キリスト教が非合法だった頃にガリアの地に布教を始めた
『Saint-Martin サン・マルタン(聖マルティネス)』
から始まったフランスのキリスト教化の流れとは異なり
ローマ亡き後の混乱期に
地方政権がが分立してゆく過程で形成されていった「ケルト民族諸国家」
ブリテン島から渡ってきた同じケルト民族の布教者たちの手によって
ブルターニュは「ケルト・カトリック」という信仰が根付いていった
『ブルターニュ7聖人』
と言われ
「ブルターニュの創設者」とも呼ばれて
ブルターニュの「精神」と「社会」の基礎を作り上げたとされている


国立図書館に保存されている1275年の古文書に
初めて「ブルターニュ7聖人」という記述が残っている


「Saint-Pol Aurélien」


「Saint Tugdual」


「Saint Brieuc」


「Saint Malo」


「Saint Samson」
以上の5名はウエールズ生まれ。


「Saint Patern」


「Saint Corentin」
これらの2名は土着の布教者だった
それぞれ依って立って活動した土地がそのまま町の名前になって残った

かず多くのアイルランドから渡ってきた布教者たちの中には
農民が使う石をくりぬいて作った飼い葉桶を船の代わりにして海を渡ってきた
という伝説があり
それが先回の「Mean Van」の石の船を作るきっかけになったそうだ

「ラニオン」(既出)から真南に12kmほどにある「ル・ヴュー・マルシェ」
という集落に『7聖人の礼拝堂』というチャーミングな礼拝堂がある

『Chapelle des sept Saints』




壁の上部に
聖母子を挟んで立つ7聖人像

これも既に触れているが
ブルターニュの(特に西半分_各地に
独特の「Fontaine 泉」がある
これも「ラニオン」から真南25kmほどにある『ビュラ=ペスティヴィアン』
という村の「泉」は

『Fontaine de Sept Saint de Bulat-Pestivien』
「7聖人の泉」
という名前が付いている


7聖人の街を巡る巡礼も頻繁に行われる


恒例の大巡礼祭には
各教区協会に保存されている其々の聖人の旗幟を押し立てて
巡礼団が練り歩く光景が見られる

極めて信心深いブルトン人ということで
『Valée des Saints 聖者の谷』
という場所すらできている

『Vallée des Saints』

橋は「Carnoët カルノエット村」周辺の広大な斜面
「ビュラ」ペスティヴァン」からさらに南西に10km


触れ込みは
「ブルターニュのイースター島」
目的は
「第三千年期(2001年以降3000年まで)のカルナック」を作ろう



起源は1990年
「サン・ポル・ド・レオン」(既出)の町で
「Saint pol Aurélien」1500年祭を行った際
哲学教授で熱心なカトリックの「フィリップ・アプジャン」が
この地に多くの人々を惹きつける魅力的な宗教的なモニュメントを作りたい
と考えた事



その後
一人の銀行マンと
一人の法律家とが集って
往路ジェクトを立ち上げたのが2008年の事だった


文献に見つかるブルターニュの聖人は2000人余り
そのうち
経歴と奇跡の事実があやふやな為に
ローマ教会(教皇庁)に認知されていない500人を除いて
1000人のブルターニュの聖人を並べて
「現代のカルナック」と「西欧のイースター島」を作り上げようという
壮大な計画



今現在「150体」のブルトンの聖人が
河岸段丘の斜面から下を見下ろしているのです

『Sainte Anne 聖アンナ』

実はブルターニュには独特の聖アンナ信仰がある
この「聖アンナ」とは聖母マリアの母親の事だが
もともとケルト信仰からキリスト教化して行く過程で「マリア信仰」があった
この「マリア」はインド・ヨーロッパ語族に共通のもので
「供給の女神アンナ」といい
古代ギリシアの「ダナエ」
フェニキアの「タニット」
古代ローマの「アンナ・ペレンナ」
河川の「ドン」「ドナウ」
アイルランドの「ダナ/アナ」
と同じもので
印欧語の起源で「ana」は「息・微風・魂」を意味した
それがいつの間にか聖母マリアの母親のアンナと混同されて
ブルターニュの国母として敬われるよになった
ブルターニュのカトリック信仰の独特の習慣である「パルドン祭」で
『サント・アンヌ・ラ・パリュ』(既出)のそれが
もっとも重要視される所以でもある

『サント・アンヌ・ラ・パリュの礼拝堂にある聖アンヌ像』


パルドン祭の時アンヌと聖母に黄金の冠が戴冠される



サントアンヌの村の泉は
聖母マリアを抱いた小さな聖アンナ像が飾られている

この項続く
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 68 < 『ブルターニュ防衛線』をたどる 5 最終回 ドォル・ド・ブルターニュ > 

2021-07-09 00:00:08 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 「ドォル・ド・ブルターニュ」の市壁(町を囲む防壁)

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
68



『Marche de Bratagne』
これまで「ブルターニュ防衛線」と訳してきたが
フランス王国側から言えば「ブルターニュ長征線」なのです


西ローマ帝国が「蛮族ゲルマン人」の侵入による解体滅亡の後
多くのゲルマン諸部族の興亡の末に
「フランク族」が他民族を凌駕して「旧西ローマ帝国領土」の大半を平定していった
その際の
ガリア地方における他部族平定戦の過程で生まれてきた言葉であった

第二次大戦戦中に中国共産党を組織し
大戦後中国全土を平定した毛沢東の平定戦を『長征』と呼ぶのと同じで
大ピピンから領土を受け継いだ『シャルルマーニュ大帝』が
ブルトン人の領土平定戦をおこなった足取りが「Marche de Bretagne」と呼ばれ
直訳すると「ブルターニュの歩み」という意味になる
今回その「歩み」の跡がその後1000年間のブルターニュ公爵領と
フランスのカペー王家(その後支家ヴァロア王家)との領土紛争の最前線となり
今回「ブルターニュ防衛線」と訳して南から北へと辿ってきた

脱線すると
シャルルマーニュがイタリア半島北半分「ロンバルディア」を征服した際に
ローマ周辺から北にラヴェンナまでのやや濃いオレンジ色の部分を
教皇に奉納し「ローマ協会領」と定めた
これが
建前上西ローマ帝国の皇帝位の復活でイタリアを領有する
「神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)」と
西欧カトリック世界の神の代理人「ローマ教皇」との間に
イタリアに対する支配圏の対立が起こり
『ギベリン派』と『グエルフ派』との抗争が続く最初の遠因となった

5回目となる今回の
最後の⑭番目『ドォル・ド・ブルターニュ』で締めくくる事になる


旧市街の通り

実はこの町には
城は全く跡形も残っていない
ただ
町を取り囲んで防御する城壁「市壁」の一部が残っているのみ
それも
かつては雑草と雑木が無秩序に生い茂るに任せて打ち捨てられていたのだが
近年
町当局の努力で整備され「プロムナード」として再生した


こんなだったのが


足元が整備されて歩きやすくなった




場所によっては


案内板もある


公園風にまでなってしまったが
空堀の位置の雑草や雑木は取り払い
歩く道筋は整地されて安全に歩きやすくなったが
城壁に絡んだ草木はそのままにしておいてくれたのが良かった

塔の内部も見ることができる


屋根はなく


結構傷んでいるものもあれば


床も屋根も修復されている塔もある

それから
5500人ほどの人口の町にしては立派な大聖堂がある
理由は街の成り立ちにあるのだがそれは後述することにして
とりあえず見てみよう

『Cathédrale Saint-Samson de Dol 聖サンソン大聖堂』


西側正面の玄関口は非常に素朴な作り
しかも普通使わない


扉口の上のサン連アーチ部分とその上部に
屋根のようなデザインで「木瓦(木のチップ)」が使われているのが珍しい
通常の出入りは
西側正面の右門から側面に回り込んだところに造られているポルシュから

Porche de la Cathédrale


身廊の造りは極めて正当なゴシックの大聖堂


ただ主祭壇は交差部ではなく内陣に入ったところ


右側廊のアーチの一つの下に身廊に向いて「説教壇」があるのも定型
その説教壇の裏側

外陣

内陣を取り囲む周歩廊は無く
内陣の両側は身廊部の様に側廊があって正面で閉ざされている
内陣の正面の奥は
外側に向かって礼拝堂の様に張り出している

南側の側面の全景


大聖堂南側のポルシュに向かう通り


その通りの終わるところ

北側の側面全景

北側 遠景

ここ「ドォル」の町のカテドラルが大規模なのは
この町がブルターニュの中でも特殊な重要性があるから

伝説によると
「モン・サン・ミッシェル湾」の位置は7世紀頃までは所々に湿地のある森林だった
湾に近い『アヴランシュ』の町の司教「オベール神父」の元に
大天使聖ミカエル(サン・ミッシェル)が夢枕に立ち
「自分のための祠」を立てて欲しいと訴えた
大天使の出現を信じないオベールにミカエルは三度現れ
三度目の出現の際に大天使に指で頭を小突かれて彼は正気になる

大天使聖ミカエルの「御出現」という奇跡体験の教皇庁への報告と
聖ミカエルの祠の作り方を学ぶためにオベールはイタリアへと旅立った

彼の3年弱の不在の間にその辺りで大地震が起こったらしく
おそらく地盤沈下のせいで
森林だったあたり全域が遠くだった海岸線から海水の侵入により
湾になっていた
以前森の中に丘が三つあった
「モン・トンブ」「モン・トンブレーヌ」「モン・ドォル」
それらが湾になった海に島となって浮かんでいた

イタリアから帰ってきたオベール神父は森が海に変わっている光景に驚愕し
大天使ミカエルが「祠作りを急げ」と自分に対しての催促のための奇跡だと思い
一番陸に近い島「モン・トンブ」の頂上に大天使のための祠を築き
以後その島は『モン・サン・ミッシェル(大天使ミカエルの山)』と呼ばれるようになる

なぜ「モン・トンブ」だったかというと
「モン・トンブレーヌ」は小さな岩礁程度の大きさしかなく
陸から遠すぎて工事をやりづらかった

そして「モン・ドォル」は
聖書に描かれた悪魔が天上の世界に憧れ天に攻めこもうとした際
大天使ミカエルの軍勢に叩き潰された
その際ミカエルは剣で岩山を切り裂きその中に悪魔の残骸を封じ込めた
という伝説があって
恐れ多くて手をつけられなかった

それが「ドォル」の町の宗教的優位性を作り上げたのです

以下の「モン・サン・ミッシェル湾」の俯瞰写真において
白い四角を見ていただくと

photo by ⒸEuropa Space Agency

右に二つ縦に並ぶ四角の上から下に
「モン・トンブレーヌ」
「モン・サン・ミッシェル」

そして左に一つはなれている四角が
「モン・ドォル」
この島はその後の湾の縮小でいつしか陸地の中に取り込まれてしまった

ちなみに湾の淵のグレーの帯状の部分は
干潮時で水がなくなるか
非常に少なくなっている事を表している

左上「モン・トンブレーヌ」 右下「モン・サン・ミッシェル(旧モントンブ)」

『Mont-Dol モン=ドォル』

畑に囲まれた岩山「モン・ドォル」は


最高点での標高65メートルの楕円形で
花崗岩の一枚岩の丘(Mont 小山)


上の俯瞰写真の丘の左下が削れている所は
岩が露出した部分で


ロック・クライマーがよくトレーニングを行っている





クライマーが張り渡したザイルが残っていた




頂上の片隅に「聖母子像」を塔と礼拝堂が
はるか四方を見下ろしている

左「Chapelle de l'Espérance」 右「Tour Notre-Dame de lEspérance」

「希望の礼拝堂」と「希望の聖母の塔」




風車もある

『Moulin du Mont-Dol モン=ドォルの風車』

楕円形の岩山を取り巻いて周囲に家並みが少しあり
「ドォル・ド・ブルターニュ」の町の「字(あざ)」で岩山の名前と同じ
『Mont-Dol モン=ドォル』






所で「ドォル・ド・ブルターニュ」のカテドラル「聖サンソン大聖堂」の前に
最近面白いものができた

『Maen Vog』

これは
なんと花崗岩でできた船
しかも浮く

2000年に3月に彫刻家「ジャン=イヴ・メネーズ」が作り上げた
『Maen Vag マエン・ヴァグ号』
ブルトン語なのであやふやだが「海の石」というような言葉らしい
長さ4m02
幅1m81
喫水(水上に浮いた状態で水面から下の沈んでいる深さ1m06
積載重量1t50



中に女性が一人乗っているので大きさの想像がつく

この船は
この近くの「Lanhélin ラネリン」という町の近くから産する花崗岩
35トンの塊を削りくりぬいて作られている

実物製作用に作られた模型の一つ

彼はこのような模型を何種類も作り
実際に浮力計算を行って
水上航行が可能な最終作品を造った
重さが3t50



内部はこうなっている
舳先から艫(とも)つまり前から後ろを見た角度

これまでにフランス全土で10回ほど
遊覧航行を実演した


この写真は艫に座っている製作者本人からの提供


パリのサンマルタン運河でも航行して見せた
ブルターニュのご案内も
そろそろ最終章です
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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ブルターニュ紀行 67 < ブルターニュ防衛線 『マルシュ・ド・ブルターニュ』 4 > サン・トーバン フゥジェール

2021-07-07 00:01:38 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『Château de Fougeres』

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
67


前回訪れた「ヴィットレ」から北北西へ25kmで
下図⑫『Saint-Aubin du Cormier サン・トーバン・デュ・コルミエ』に着く


ここの城は完全な廃墟
なぜなら
フランス王家側に取り壊されてしまったから


この城こそ
『ブルターニュ公爵領』の敗北を意味するのです
1488年7月28日
15000名のフランス軍を迎え撃った11000名のブルターニュ軍は
6000名の戦死者を出して壊滅した
フランス側の犠牲は1500名に過ぎなかった
「サン・トーバンの闘い」

前世紀から150年続いていた各地での戦いの末
時のブルターニュ公「フランソワ2世」はかなりの窮地に追い込まれており
この年
「シャトーブリアン」「ヴィットレ」「フゥジェール」と続いた戦いでの一進一退ののち
起死回生の一戦だった


『サン・トーバンを攻めるフランス国王』 Archive by ⒸBibliothque Ste-Geneviève

独立国ブルターニュの男系最後の公爵だった「フランソワ2世」は
この壊滅戦の後
相続権を持つ娘「アンヌ・ド・ブルターニュ」を残して
同年9月9日に此の世を去る


城趾の一角に
この戦いで散ったブルトン人6000名の鎮魂の銘板がある

ブルターニュ公フランソワ2世は
公国の生き残りをかけて各方面との連合を試み
「オーストリア大公ハプスブルク家」の世嗣「マクシミリアン」に
娘「アンヌ」との婚約を前提の連合を呼びかけていた
「マクシミリアン」は
ハプスブルク家から初めて皇帝に選出された「フィリップ大公」の
世嗣ぎで
中世最後の騎士と言われる人物

『サン・トーバンの闘い記念碑』

1988年に500年祭が行われ
その際に建立された記念碑にオーストリア兵に関する銘板もある


『神聖ローマ帝国兵士600名 
隊長ブッラーの指揮のもと ブルターニュのために戦い この地に眠る』

天守の残骸

この城は低い一つの丘全体を占めていた

Schema by ⒸArchitecture Urbanisme Patrimoine 1090

現在「白山」は草生す雑木が茂る丘になっており
城の残骸がそこかしこに点在する


天守の下にあった
池と言っても良いくらいの広い堀の一部は残っている








強者どもが夢の跡....




天守の最上階の暖炉が残っている

ここ「サン・トーバン・デュ・ブルターニュ」の町では
毎年7月28日の15時から
記念式典を行っている




フランス人(左)とブルトン人(右)との一騎打ち





※  ※

この「サン・トーバン・デュ・コルミエ」から北北東に8kmで
絵図⑬の『フゥジェール』に至る
ここは「Marche de Bretagne ブルターニュ防衛線」の
ブルターニュ側北端の最重要な城がある

『Château de Fougères フゥジェール城』 城壁の塔

城の規模は広大で
胸突く高い城壁に囲まれているが
この土地の立地が起伏に富んでいて周囲にぐるりと丘があり
すり鉢の底のような場所に城が建っている
つまり
大砲の精度が上がり信頼性が増した16世紀以降なら周囲から容易に砲撃を受け得る
甚だ不利な場所に在ると言える



ただ水の流れる小川を利用した堀で囲まれているので
歩兵や騎兵の攻め手にとっては
非常に高い城壁と巨大な塔と相まって
甚だしく攻めにくい城であったはずだ


城の南側にすぐ始まる丘の斜面の途中から
右端の三角屋根の丸い塔が大手門







大手門

大手門から時計を逆回りに城壁に沿って歩いてみよう


前の写真のアーチをくぐりさらに奥に進む固定橋を左に見ながら


土手のように岩盤が盛り上がる上に高い城壁が伸び
要所要所を塔が固める

城壁の上の巡警路と
そこにいる守備兵を守る胸壁や石落とし(水平狭間)もしっかり残っている


やがて
突き出した部分が「搦め手門」で
常用ではないので直接出入りできる連絡はなく
非常時に必要に応じて板を渡しで出入りする戦国の城塞のお約束通りの構造


「搦め手門」から回り込むようにさらに城壁が続くが
支える岩盤が頑強であることがよく分かる作りになっている



道路で見えていないが城壁の真下は水が流れる川堀になっている



さらに先に
城壁と平行に教会がある



一つ前の写真の塔が左側の塔
この向き合った位置に『Eglise Saint-Sulpice 聖シュルピス教会』


新郎両側の側廊の壁側に並ぶ礼拝堂の其々が外側に切妻の破風を並べる
ブルターニュ伝統の形のことは
このシリーズが始まった頃にご紹介した通り





やがて行く手に城門のようなものが見えてくる
そこから右に町を囲む城壁が伸びる



城より高い位置に広がる町を防御する城壁(市壁)が今でも一部残っている


二つ前の写真の角度を城壁の上から見下ろすと
門と市壁の関係がわかりやすい


町に入る門のアーチの左の堀の中に水路が二箇所



左のトンネルは城の地下を通って流れてくる水路
右のトンネルは町に入るアーチの位置に左の水路と平行に流れてくる流れの出口


その市門のところに流れてくる水路には4連水車がある
これらの水車は
上からくる樋を流す水で回すようになっている
左の建物はかつての粉ひき工場の跡
最後の水車のすぐ右の四角い穴は市門のアーチの中から出てこられる



再び大手門に戻って


「塔の間のアーチをくぐり
常設橋を進んでさらに中に入るって振り返ると



こうなる


その「大手門」の二重構造部分が「シャトレ(橋頭堡)」になっていて
上から俯瞰する

場内中ほどから大手門の方を振り返る
左奥のやや高い部分は



塔の際上部の小屋掛けの部分が残っている
場内は2haもの敷地で
ブルターニュ有数の大規模な城だった(戦国城塞として欧州最大とも言われる)
現在の城の創建は12世紀後半1173年
古くから有ったこの町の貴族フゥジェール家の城が1166年
イングランド王プランタジュネット家の始祖ヘンリ−2世の攻撃で破壊され
その後
時のブルターニュ公ラウル2世が1173年に再建
その後のブルターニュ家とフランス王家の戦いが続く中で
改良と拡張が15世紀まで続いた


居館などがなくなっているが残骸も興味深い


削り取られてしまった丸い塔だが
内部をうめてしまったものの壁の厚みが凄いのがよく分かる


先程よりもっと奥からの眺め

これが先ほどの「聖シュルピス教会」の前にあった二つの塔
教会も見える


「大手門」のほぼ反対側
一番奥の「搦め手門」の部分の二つの塔


その「搦め手門」を上から覗くとこうなっている


1892年以来「フゥジェール市」の所有と成っている
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ブルターニュ紀行 66 < ブルターニュ防衛線『マルシュ・ド・ブルターニュ』 3 ラ・ゲルシュ と ヴィットレ >

2021-07-05 00:00:50 | 素晴らしき世界/パリ/美術
巻頭写真 : 「ヴィトレ」の城のある風景

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡ろう
66



前回ご紹介した「シャトーブリアン」から北へ30km
絵図の⑩番『La Guerche-de-Bretagne ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ』に至る


結論から言うと
この町「ラ・ゲルシュ」には城は残っていない
ほぼ跡形もなく

『Place Charles-De-Gaulle シャルル・ド・ゴール広場』

木の柱と梁の家々の残る旧市街の角の三角形の広い空間
「シャルル・ド・ゴール広場」を中心に
その辺り一帯で
毎週火曜日朝8時から12時まで市場が経つ



ここの位置は
実に1121年以来900年間にわたって連綿と続けられてきた
現在では
季節によって毎回100から150件の出店者が店を出している

『ラ・ゲルシュ市場900年祭の記念写真』

この市は
「ヴァンヌ」の空堀大通りの市に次いで
歴史的意義でブルターニュで二番目に位置付けられている








この「ラ・ゲルシュ・ド・ブルターニュ」の真西に15kmで
先日ご紹介した『la Roche aux Fées 妖精の岩』があります


※  ※

その「ラ・ゲルシュ」から北に20km強
「レンヌ」からは東へ25kmの位置で
⑪番の『ヴィットレ』に至る

『Château de Vitré ヴィットレ城』

ここ「ヴィットレ」の」城は雄大


創建は11世紀後半
13世紀前半に三角形の平面プランで拡充されて以来変わっていない
高い城壁で囲み
要所要所に塔を配し角々に頑丈な丸い塔を加えて防御している






さらに15世紀初頭に城門を形成するシャトレを増強


『Chatelet 大手門出丸』

左側面から見たシャトレ
跳ね橋を吊るす腕木が確認出来る


⑤が「シャトレ」で城門
⑧は天守に相当する最も大規模で強固な塔「サン・ローランの塔」

右が「シャトレ」 左が「サンローランの塔」


右から「サン・ローランの塔」
その左二つ目の丸い塔が⑨番「アルジャントリーの塔」
さらに左の飛び出した屋根付きの四角い塔は⑩「祈祷室の塔」
それに接する一番左隅が①「モンフィランの塔」

城内から見てみよう

左が天守「聖ローランの塔」 右端が「アルジャントリーの塔」




手前は井戸

『礼拝室の塔』
出窓の様な張り出しの部分が祭壇


中で見てみると



聖母子像が飾られてある


「礼拝室の塔」の先で直角に伸びるアーケードを持つ建物は
「ヴィトレ市」の市役所が使っている



その右側にかつては居館があった


その角の塔の屋根の部分や居館の一部が
近年復元された


市役所の建物の入り口は独特の階段付きポルシュ






この市役所が使っている部分を場外から見ると



こう見える

そして「シャトレ(大手門出丸)」の城内側は「Logis(居館)」になっている

『Logis du Châtelet』

ちなみに外側はこう


城門出丸(シャトレ)に向かって右側に城主たちの居館があった


居館があったのは右の窓のある城壁の向こう側
当然城壁の前には空堀がある


シャトレの大手門に入る橋(現在はリン位に赤く塗られている)が
確認できる
そのままこの方向のずっと先が「サン・ローランの塔(天守)」

『Tour Saint-Laurant』

ちなみに
手前の白い彫像は「戦没者記念碑」の兵士像
フランスはどんな小さな自治体でも
その町や村から出征して帰らかった兵士の名前を刻んだ「戦没者記念碑」が
必ず有るのです

その天守と
その他の主だった塔の中は博物館


塔の分厚い壁の中をくり抜いて造った通路と階段


城外の町屋敷から移設された16世紀(1583年)の暖炉


歴代「ヴィトレ家」が集めた中世からルネッサンス区の彫刻群


















1780年革命直前の時代の「ポーランド式ベッド」

「ヴィトレ」の町は
城から始まってぐるりと城に戻る城壁で囲まれて守られていた

Schema by ⒸPascal PIROTAIS

左端の中が白い三角形の部分が城
Shateauの末尾に繋がる部分が「シャトレ」
左上の黒い長方形が「市役所」が使っている部分
町を囲む城壁のうちこの図で赤い部分は存在しない

この図面の15番「Porte d'En Bas 下の門」という
町に入る門の部分から
町の城壁の残った塔と城を見る角度はよくガイドブックや絵葉書に登場する

『Porte d'En Bas』


やや下り坂で城壁内から出てきたところに4軒並ぶカラフルな民家の
それぞれの屋根の縁の反り返った具合に注目されたい



『Porte Saint-Pierre サン・ピエール(聖ペテロ)の門』 絵図面②

これを入ると



こうなっている

『Tour aux Chèvres ヤギの塔』 絵図面③
城の北面は下が谷になっていて高度がある

『Tour de la Fresnaye フレネの塔』 絵図面④

『Tour de la géometre 測量技師の塔』 絵図面⑤

『Tour de Bridole ブリドールの塔』 絵図面⑨

その他








また
旧市街の民家の家並みにも美しいものが数多い


ここは
先ほどの「下の門」に向かってゆく通り





では次回をお楽しみに



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ブルターニュ紀行 65 < ブルターニュ防衛線 2 アンスニ から シャトーブリアン へ >

2021-07-02 00:15:56 | 素晴らしき世界/フランス/ブルターニュ
巻頭写真 : 『シャトー・ダンスニ』の城壁

海と信仰とケルト文化と古代巨石文明と
フランスにあってフランスではない異世界を巡る
65



先回の続きで「ブルターニュ防衛線」上に並ぶ城の第二回
絵図 ⑧ の『Château d'Ancenis アンスニ城』から始めましょう
「ナント」から「ロワール」を遡ること30km

『Château d'Ancenis』

創建は10世紀に遡る。
「ブルターニュ防衛線」の戦略的な位置である故に
12世紀から16世紀にかけて幾たびもの激しい攻防戦の的となった
その頃から現存する部分が
城門を固める巨大な塔で防御された「Chatelet 出丸」で
14世紀のもの


『Chatelet』




この門は16世紀に補強され
扉は巨大な「落とし格子」が上部から降りてくるように作られ
中は屋根付きのギャラリーがシケイン(クランク型の誘導路)につながっていたらしい
居館は16世紀半ばのルネッサンス式

『Logis 居館』
中庭に面した側面は装飾のディテールがフランスの初期ルネッサンスだが
建築骨格(平面図)と
特に窓の十文字仕切りや物見の小塔などはまだゴシックのまま



未修復の部分

上掲の建物の反対側

最後にひとつ興味深い視点を


この「シャトレ」の向かって左の円塔の左端の上に立つ白亜の建物
端から見ると


こんな具合で正面側と直角ではなかった


  ※  ※

「アンスニ」の町から北に真っ直ぐ40kmで
絵図⑨番の『Châteaubriant シャトーブリアン』という町に至る

『Château de Châteaubriant シャトーブリアン城』

18世紀後半
ブルターニュ紀行のごく最初にご紹介した「サン・マロー」出身で
ルイ15世の宮廷で活躍した文芸貴族に
「フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン」という有名作家がいるが
彼の名前は『de Châteaubriand』と最後が<D>で
この町の名前は『Châteaubriant』で最後は<T>で終わる

城は非常に大規模で各時代の建築様式が見られる

俯瞰 Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

横長の「<」型につながる建物群の上辺の中ほどに
丸い塔が二つつながるのが見分けられれば
「大手門」への進入路を守る「出丸」である「シャトレ」

城の創建は11世紀
ブルターニュをアンジュー伯の侵攻から防御する目的の「マルシュ・ド・ブルターニュ」
として
「クリッソン」「アンスニ」「ヴィットレ(後述)」「フゥジェール(後述)」
らの城と同じ役割を担った
この城の改築は19世紀まで続いた


『Châtelet』


二つの巨大な丸い塔の間の門の上
ルネッサンス期に付け加えられたレリーフはかなり削り取られてしまっている


同 裏側


天守


同 別角度

同 城内から


同 屋上

天守内部3階の暖炉の跡


3階部から4階を見上げる
各階のフロアーは残っていない


天守内の上部へは
地上階から直線の階段を少し上って
そこから壁の厚みの中に設えられた螺旋階段を登ることになる

天守内大階段

天守内小階段


天守内の水場

天守内の牢獄部(ここは女囚房)

「シャトレ 出丸」と「ドンジョン 天守」以外の部分も
見てみよう

Photo by ⒸMairie de Châteaubriant

再び別の角度からの俯瞰写真で
天守はほど中央に見える
その斜め右上に接する部分が「旧大居館」
さらにそのまま「シャトレ」
天守の右下に接するのは「旧小居館」
そのまま右下が「礼拝堂」


右の屋根窓二つの建物が旧「大居館」
左の屋根窓一つの建物が旧「小居館」



大居館の2階部分の一室

小居館の切妻部分



大居館の端と
小居館に至る繋ぎの建物の端とに
入口が接して二つある

「旧」居館と呼ばれるのは
この城ができた最初の頃の小規模な時代の居館だったから

そして
小居館から先に礼拝堂



礼拝堂内部は装飾などは残っていない



礼拝堂の城外側の外壁は城壁と一体になっている

次に
ルネッサンス期に拡張された部分の居館をご紹介しよう


     先掲の俯瞰写真の左半分に当たる左側の縦に並ぶ上半分の白い建物が
『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』
下側につながる屋根窓の無い部分が『Batiment des Gardes 衛兵の兵営』

右が「ラヴァル公ジャンの居館」左が「衛兵の兵営」

『Logis de Jean de Laval ラヴァル公ジャンの居館』

「ラヴァル公ジャン」という人物は
ここからもう少し北のアンジュウ伯爵領の町『Raval』の領主で
ここ「シャトーブリアン」を
併わせて領有し城を増改築した『Jean de Laval-Chateaubriant』の事
『ラヴァル=シャトーブリアン公ジャン』が正式名称

居館の左端に玄関口「ポルシュ(ポーチ)」が有る

『Porche d'Entrée』



外観でわかるがこの中は階段ホールにもなっている


階段天井の格天井は完全に「イタリア・ルネッサンス」





登った上階の左の扉
建物の外観より内部の装飾が完全にルネッサンスになっている

『Arcôve アルコーヴ(寝台を置く切り込み)』

「黄金の間」と呼ばれる寝室は17世紀の様式


暖炉上部のレリーフの金彩がいかにも17世紀後半のフランス

領主が臨席して行った会議の間も残っている

『Salle de tribune 会議の傍聴の間』

次に
この居館の北側につながる「衛兵の兵営」









この「衛兵」の兵舎と天守を結ぶ移動用のギャラリーが残っている


攻城戦の際に敵軍の矢玉を避けて移動できるように
且つては屋根も付いていたらしい
その左下は



「Le Cher シェール川」を少しせき止めた堀『Etang de Torche トーシュ池』
という堀がある
右端が天守
左端は「衛兵の兵舎」の先端

そして
「ジャン・ド・ラヴァルの居館」の右端(南端)に近い部分に
『大ギャラリー』
が直角に伸びる






大ギャラリーの階段部

そして
この「大ギャラリー」の南側にもさらに建物が伸びている


右の丸い塔の左横に接するあたりの向こう側に
「大ギャラリー」が直角に接している


『ブルターニュ防衛線』の項つづきます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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