行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

【特別企画】 < パリ ノートル・ダム大聖堂の 火災 > あれから2年が過ぎた

2021-04-16 00:01:55 | 特別企画
巻頭写真 : パリのノートル・ダム大聖堂を背に飾られた
ヴェルサイユ市のノートル・ダム中学校の生徒『Annonciade アノンシアード』さんの描いた
「Cathédrale Notre-dame de Paris」


今回は
続けている「ブルターニュ紀行」を一回だけ中断して
パリのノートル・ダム大聖堂の火災を振り返る回にしたいと思います
2019年4月15日から16日にかけての夜のことでした

Photo by ⒸMarinde

2年前の4月の15日月曜日
復活祭前の一週間『聖週間』の始まりの日
午後18時20分頃の出火だったそうです
15時間燃え続け
翌16日午前9時50鎮火

Plate by ⒸSpeltdecca

身廊部と翼廊の交差する位置の屋根の上に尖塔が立っており
その修復のために根元の周りに鉄パイプの足場が組まれていた
(グレーの箱型の部分)
その辺りから出火
赤い部分が炎が回ったところ

天井は石のアーチだがその上に気の張りで屋根を組んである
十字架形の交差部の上の尖塔は
250トンの歌詞の木を組んで
表面に500トンの鉛板が貼ってあった


Photo ⒸLEVRIER Guillaume
それが焼け落ち
交差部のアーチの天井と
身廊部の一部と北側翼廊の天井の一部が崩壊した
(赤く塗ってあるところ)

Plate by ⒸWikipan


Photo by ⒸFranceinfo



Plan by ⒸSpeltdecca


Photo by ⒸINRAP

ⒸINRAP

結果として
十字架形の全部の屋根が焼失
ステンドグラスも相当数が溶解して消失してしまった
それでも
南北と東正面の3面のバラ窓は生き延びた

南翼廊側のバラ窓 火災以前

Photo ⒸEurope1

三面の中で
ステンドグラスが最も美しかった13世紀半ば以前の「北のバラ窓」も
枠から外すのが非常な困難を極めたらしいが生き延びて
修復を待っている

北のバラ窓 火災以前

北面を先に作りその後南に取り掛かったために
青色を出す原料の減少により
南は北に比べると多少赤みが強く繊細さに欠ける
(こんな写真ではお分かりいただけない)

東正面のバラ窓

東のバラ窓は三面の中では一眼最後に作られて13世紀のかなり終わり
ガラス作りの技術が進歩して
均一な厚みと歪みの減った平面と透明度が高くなった事とで
逆に神秘的な色合いが減って行き始めた頃


しかも大パイプ・オルガンが設置してあるために
円形の全形は見る事ができない

天井は
4本の柱のてっぺんからタスキ状に交差させたアーチを組んで支え
それ以外の面を埋めてゆく


その更に上部に
太い木の梁で組んだ天井を組む



800年近く経って乾ききった梁は
あっという間に燃え盛った


Photo by ⒸLe JSL

結果として屋根は消滅した
フランス北部ベルギー国境の『Nord-Pas-de-Calais ノー・パ・ド・カレ』県が
直径80cmはある樹齢160年の樫の木を
館内の11000ヘクタールの森の中から選び出し
切り倒すまで外観では使えるかどうかわからないので
長さ18mほどの梁325本分を賄えるよう
1300本を伐採して提供した

Photo by ⒸLe Point

2年経って
今日では内部に散乱した崩落した屋根の残骸や
壊れた内部の様々な装飾品などの片付けもあらかた終わり
丹念に分類して
それぞれの分野の専門家たちが修復や復元の作業を始めていると聞いた




当日から数ヶ月間は
多くの人々が集まっていた


4月16日夕刻撮影


鎮火当日
各国のテレビ・クルーが中継をやっていた
あれだけの炎にさらされて(天井の中は800度以上だったと推定)
尖塔の根元に組んであった鉄パイプの足場が解けずに
そのままの色合いで残っていたことに驚いた


詰めかけていた多くの人々は
半分ほどは呆然とし
四分の一ほどの人々は涙ぐんでいた


正面の屋根の先端があった位置で
赤い消防服の隊員がロープを垂らして何かの作業を行っていた


賛美歌『Ave Maria』が誰の口からともなく漏れ始めると
瞬く間にさざ波のように人々の間に広がって
皆が歌い始めた
私も少し胸が熱くなった

それというのも
パリの「ノートル・ダム大聖堂」は西欧文化の原点なのですから

12世紀になったころ
パリの近郊の町でそれまでに無かった形の教会の建て方が起こり
1163年パリの大聖堂の建築が始まって
その技術が確立し
その技術はパリ首都圏へ広がり
フランス各地へ広がって同じ建築理論の教会が建てられ始め
ついには国境を越えて西ヨーロッパほぼ全域に広がったことで
新しい社会規範が生まれ
その後500年間西洋の社会を形づくった

500年間続いた高度な文明社会ローマ帝国が崩壊し
ほぼ文化的にゼロに近い状態から再出発することになった西欧は
誕生から500年にして
自分たち西ヨーロッパ自身が生み出した社会構造である
『Gothique ゴシック』という文化の誕生する
雛形が
このパリの大聖堂『Cathéddrale Notre-Dame』なのです

半年ほどあとに
沖縄の首里城が焼失して
沖縄の方々は皆さん大変なショックだったと思うのですが
パリのノートル・ダム大聖堂の火災は
全世界13億人のカトリック信者の全員に
多かれ少なかれショックを与えた
大変な出来事でした

在りし日の大聖堂の姿を振り返りながら「傷跡」を辿ってみよう

教会堂は通常は十字架を地面に置いた形で建てる
頭が東(聖地エルサレム)をを向き
頭部に当たる「内陣」が完成した時点で臨時に壁を作って締め切り
神様に捧げる「献堂式」を行って
教会として使い始めながら
横軸である「翼廊」を作り足し
縦棒「身廊」を伸ばしていって
最後に「ファサード 西側」正面の入り口を開けて完成となる
鐘楼はファサードの上か
交差部に建てることが多い


十字架頭部は
内部は「内陣」と呼び
外側からは「外陣」と呼ぶ


外陣から見ると美しい
特にゴシックの聖堂は
高い柱のテッペンに斜めにかかる天井の重力を
構造全体を歪ませないように
外側に流して支える「飛び梁」が殊の外魅力的に映る



しかし
今は工事現場の管理事務所になっているコンテナーや
資材置き場などが占領していて
その光景は当分の間見ることが出来ない

その「飛び梁」は
巨大な木製の車輪の一部のような枠を作って支えてある
これから構造重量を支え続けていけるか
細かな計測を行い
修理が必要な部分を特定してゆく




現地には
作業現場を取り囲む壁に
進捗状況や内容を説明する写真パネルがたくさんあって
理解しやすいような配慮がなされている









外観で一押しの角度は以下

Pont de l'Archevéché 大司教館橋から見た大聖堂

この後方斜めから見る角度が最も美しいと言われてきました
(ちなみに後ろ姿は沢田研二さんです)


今は残念ながらこんな具合

川を挟んで南側の側面の姿も



今はこんな具合だ


2年目ということもあり
どこかのテレビが撮影をしていた

正面は

2010年12月22日 クリスマス・ツリーのある正面

現在は正面広場の途中までしか近づけないが



仕切りの壁に
パリとパリ首都圏の聖母(ノートル・ダム)会系列の小中高の生徒たちの手になる
「パリ・ノートル・ダム大聖堂」
のために描いた絵が展示してある







字数制限でこれ以上載せられないのが残念です
2024年には一般見学が出来るようにしたいと言われています
その頃には
海外旅行も復活していることでしょう
1日も早く
「パリのノートル・ダム大聖堂」の復活を期待してやみません
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
https://veritas21.com  『こんな旅がしてみたい 誰も真似のできない旅のプランナー』
もどうぞ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブルターニュ紀行 32 <... | トップ | ブルターニュ紀行 33 <... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

特別企画」カテゴリの最新記事