賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより


キリスト教讃美歌「万象は神の手の中にある」歌詞付き

2020-11-23 22:24:41 | 讃美歌

キリスト教讃美歌「万象は神の手の中にある」歌詞付き

神はかつて言った
神の言葉は作用し必ず成就する
かつて神はそう言った
誰にもそれは変えられない
過去の言葉も未来の言葉も
全ての言葉が成就される
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある
神は常に救いの計画に携わる
誰が妨げられよう
神は今も全てを指揮する
現在の物事の状態は
神の計画と展望の中
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある

それは神が予め定めていたこと
かつて神が言ったこと
神の民は神の声を聞く
神を真に愛している者は
みな神の座の前に戻る
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


キリスト教の歌「人間の結末への神の采配」歌詞付き

2020-11-22 21:57:35 | 讃美歌

キリスト教の歌「人間の結末への神の采配」歌詞付き

人は人を行動で測る

善行は義人 悪行は悪人が為す

善行を積んで良い将来を

立派な言葉で良い結果を得たがる

彼らは神が言動を見て

結果を決めると錯誤する

善行と立派な言葉で神を騙し

いっときの恵みを得ようとする人が多い

神は人を本質と従順さで判断する

従うのは義人

従わない者は邪悪な敵

行いの善悪や話の正誤は関係ない

神は人を本質と従順さで判断する

将来、安息の中で生きる

人は苦難に耐え 神に証しする

本分を尽くし

心から神に従った

奉仕だけで真理を実践しない人は留まれない

神には人の結末への正しい基準があり

人の言動に基づかない

誰も悪への報いや悪事を隠し

破滅の苦痛から逃げられない

悪人は永遠に生き延びられない

義人だけが安息の主

正道を行けば正しく生き

本分を尽くし 忠実になる

反抗と堕落した性質から脱し

抗わず神のために生きる

神に従うことが

神と人の神の国の安息と平和の生活

神は人を本質と従順さで判断する

従うのは義人

従わない者は邪悪な敵

行いの善悪や話の正誤は関係ない

神は人を本質と従順さで判断する

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか

2020-11-21 23:53:47 | 信仰生活

子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか

    試験では誰もが良い成績を取りたがるものですが、私も例外ではありませんでした。良い成績を取って良い結果を出せば、賞をもらえるし、両親から褒められるし、さらに重要なこととして、先生たちに気に入られると同時に、同級生たちからは羨ましく思われることができます。

    私は小学4年生だった時の1学期目の期末テストのことを思い出しました。その日の数学の試験中、最初から全て順調だったのですが、最後の文章問題で手が止まってしまいました。どれだけ一生懸命に考えても、その問題は解けませんでした。これは6点の問題だったので、それが解けなければ94点しか取れないのです。6点を失いたくなかった私は、隣に座っていた同級生のヂョンに答えを聞こうと思いました。彼は数学が得意だったので、この問題を解けると思ったのです。試験官の方を見ると、彼女は頭を下げてコンピューターを見つめていました。そして、私は「絶好のチャンスだ、でもどうやって聞けばいいかな」と思いました。丁度その時でした、ヂョンが小声で「おい、この問題どうやって解いた?」と私に聞いてきたのです。意外にも、彼が先に答えを聞いてきたのでした。こうして、私たちはお互いに解けなかった答えを交換し合いました。

    私が家に帰ると、母が突然「今日の試験はどうだった? 難しい問題はあった?」と聞いてきました。私はすぐにカンニングしてしまったことを考えました。私は突然落ち着かなくなってこう思いました。「試験でカンニングをしてしまうなんて。僕は神を信仰する子供なのに。お母さんにカンニングしたことを話したら間違いなく叱られてしまう。でも、言わなかったらお母さんに知られることはない。とは言っても、神は人々の心の中をお調べになるから、このことを間違いなく知っておられる。」私は一瞬ためらいました。そして、私たちは何に遭遇しても神に祈りを捧げ、神を頼りにしなければならない、と母が言っていたことを突然思い出しました。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいました、そして家に帰ってから母に試験のことを聞かれたのですが、母に怒られるのが怖くてそれを話すことができませんでした。神様、どうか私が正直な人になって、母に真実を伝える意思を持てるようにしてください。」こう祈りを捧げると、正直に話す勇気が湧いてきたので、私は試験でカンニングしたことを母に話しました。

    母は私にこう聞いてきました。「カンニングをしていた時、神はそれを好まれないってことを考えなかったの?」私は少し罪悪感を感じ「そうだ、どうしてあの時そう考えなかったんだろう?」と思いました。母は私に正直な人でいることの真理について、神の言葉のこの節を交えながら話してくれました。「あなたが為す全てのこと、一つひとつの行い、あらゆる意図と反応を神の前に示さなければならない。… あなたがいのちにおいて成熟するのを助けるのはこのような実践である。神の監督を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、あなたは一層清められ、神の意志と一致するので、あなたは放蕩や放縦の声を聞かなくなり、あなたの心は神の臨在の中で生きるだろう。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、サタンは一層辱められ、あなたはもっと肉を捨てることができる。」 私は母の話しを聞きながら内省しました。私は試験でカンニングをしたこと、そしてそれを母に話すのを拒んでいたことは全て欺瞞的な姿勢の表れであると気が付きました。そして、私はカンニングをしてより高い成績を上げようとしたのは、先生に気に入られて、同級生たちの切望の的になることを狙っていたからであったことにも気が付きました。神は私の心を見抜いておられ、私は正直でなかったことを恥じました。私は静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいましたが、それを悔い改めたいと思います。今後また、このような状況に直面することがあれば、真理を実践してあなたの証を立てられるよう、どうか私をお助けください⋯」

    その後、試験の結果が発表され、数学は100点でした。しかし、神の前ではこれを喜ぶことができなければ、100点を取った気分にもなれませんでした。

    あっと言う間に4年生の2学期目の期末試験を受ける日がやってきました。そして先生は私たちに試験を開始するよう言われました。試験はとても難しくて、私には解けない問題がたくさんありました。私は又しても同級生に答えを聞きたくなりましたが、前回神に祈りを捧げたことを思い出して聞くのを諦めました。その数日後、先生はその試験用紙を私たちに返してくれました。先生は答えを説明して、私たちは自分で試験用紙を採点して合計得点を計算しました。計算してみると、私はなんと、たったの59点しかなく、不合格になってしまいました。私はそれを受けとめることができませんでした。恥ずかしくてたまりませんでした。その時、先生は各問題について答えを間違った生徒の数を数えるから、答えを間違った生徒はその問題ごとに立ち上がるようにと言ったのです。私は少し恥かしくなってこう考えました。「今回はたくさん間違ってしまったからなあ、何回も立ち上がっていたら先生にどう思われてしまうだろう。普段はクラスで成績トップなのに。こんなにひどい成績を取ったことを知られたら、先生に嫌われてしまうよ。」こう考えた私は「だったら立ち上がる回数を減らそう」と思いました。ちょうどその時でした、何に遭遇しても神に祈りを捧げて神の御心を求めるべきだ、と母が言っていたことを私はもう一度思い出したのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私が自分の評判を守ろうとしないで、正直な人になれるよう、どうか私をお助けください。」 こう祈りを捧げた後、神のこの言葉が頭に浮かびました。「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」 そして私は「そうだ!普通の人間らしさというのは正直な人であるということなんだ。正直な人はせめて、正直に喋って嘘を言わないものだ。神は正直な人を好まれるから、私は正直な人になりたい」と思いました。こう思った私は自分の面目を守ろうとすることは止めて、正直な人を実践する決意をしました。しかし、立ち上がったとたん、私の心臓はバクバク鳴りました。私は「先生からどんな批評を受けても、神の御心に適ってさえいれば大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。ところが、先生は私を見下したりせず、今まで通り私と優しく接してくれたのです。この状況の中で、私は正直な人を実践することができてとても満足な気分になりました。

    その後すぐ、期末試験がやってきました。数学の試験には又しても解けない問題が幾つかありました。私は「これは期末試験、普段の月次試験よりも大事な試験だから高得点を取らないといけない」と思いました。私は前に座っている同級生がその隣の同級生に質問をしているのが見えました。試験官はこれに気が付いていませんでした。なので、私も同じ机に座っている同級生に答えを聞きたくなってしまいました。しかし、私は前回カンニングをしたことについて考えました。私は正直な人になることを学んで、神に対して欺瞞的にならないということを神に祈りの中で伝えていたのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私は又してもカンニングをしたくなっています、しかし私はあなたに祈りを捧げ、二度とカンニングはしないと決心しました。どうか、私が同級生の答えを写すことなど考えずに正直な人になり、真剣に試験と向き合い、可能な限り自分の力で問題に答えられるようお導きください。」 こう祈りを捧げた後、私は落ち着いて慎重に問題を考えることができました。すると、無意識のうちに、問題の解き方が突然いくつかひらめいたのです。私はとても嬉しくなり、神が私を導き、啓示してくださったことを知りました。今回、私は数学の試験で96点も取ることができ、予想を超える結果となりました。カンニングをしていたら、もっと高い点をとれたとは思いますが、同時に神の目前で神の証を失っていたことでしょう。私はとても幸せな気持ちになり、神の言葉を実践していく決意をしました。

    高得点を取るのは、先生や両親から好かれたり、同級生たちから羨ましがられる意味では良いことなのですが、それで幸せになることはできません。むしろ、神の言葉に従って正直な人として振る舞う時に限り、私は真の幸せを得ることができています。これこそが最も大切なことなのです。


なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのか

2020-11-20 22:55:01 | 聖書の学び

なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのか

 聖書にこう書かれています。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます』。イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』。シモン・ペテロが、『あなたはメシヤ、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」(マタ16:13-19)。毎回この数節を見る時、わたしはこう思います。「同様に主イエスの弟子ですが、主イエスに『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と聞かれる時、彼らはそれぞれ異なった答えを出しました。ペテロだけが主イエスはキリスト、生ける神の子だと言い、主イエスの本来の本質と身分を見極めました。ペテロの答えは最も正しく、しかも主イエスの心にかないます。彼だけが神に対して最も認識があるから、主は天の国の鍵をペテロに授けられました。十二人の弟子が同様に主の追随者ですが、なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのですか」と。

 

 その後、わたしは聖書を読み、一部の兄弟姉妹たちと交流し、またこれらの問題において祈り、真理を求めることによって、神の啓きを得て、ペテロが主イエスがキリストだと知ったのは決して偶然ではなく、それは彼がふだんイエスのすることなすこと、イエスの所有しているもの、イエスの所是を注意深く観察することと密接な関係があると分かりました。主イエスが働いている間、ペテロは主イエスと共に食事をし、住みました。彼は現実生活の中で、主イエスの一挙一動、一言一行を観察することを重んじ、またこれらのディテールを通して、主イエスの中から流露される神の性質、神の喜怒哀楽をじっくりと味わいました。彼は特に主イエスのすべての言葉を重んじ、いつも主イエスの言葉の中で真理を求め、神の意志を探りました。彼は主イエスの一言一言は真理であって、人に真理、命を供給することができ、いかなる人も言い出せないことを見ました。しかも、主イエスの言葉、働きの中から、次第に神の性質、神の所有しているもの、神であるものを認識するようになりました。ペテロは次のことを見ました。主イエスは正常な人の外見をしています。人が想像しているように、彼は外見が非凡で、気品があり堂々としていて、王宮、貴族の家に生まれた、というのではありません。でも、主イエスが発表されるのはいかなる腐敗した人類も持っていない真理です。主イエスの中にあるのは完全に神の所有しているもの、神であるものです。主イエスの度量は非常に大きく、人類に対する彼の寛容さ、憐れみは無限です。彼はまたへりくだり、控え目に振る舞い、罪人と共に食卓に着きます。主イエスは傲慢ではなく、利己的ではありません。腐敗した人類のすべての腐敗した性質は主イエスの中に全然存在しません。主イエスの中から流露されるものはすべて、きよさ、義、人に対する無私の愛です。彼の喜怒哀楽は自分のためではありません。彼は彼の発表される真理が人類に光をもたらすために喜び、この腐敗した人類が罪の中に生きてサタンに苦しめられるために悲しみ憂えます。主イエスの発表される真理はすべての積極的な事物の実際です。このような本質と所是は神だけが持っておられます。ペテロは主イエスと付き合っている間のあらゆるディテールのゆえに、主イエスがキリスト、生ける神の子だと分かりました。最終的に、ペテロは神に対する認識のゆえに主に良しとされ、主は天の国の鍵と、羊の群れを牧するという任務とを彼に与えられました。

 ペテロが主イエスを認識する過程のゆえに、わたしはペテロを羨ましがり、また彼にあこがれています。ペテロの賞賛すべきところは、外見によらずに主イエスを認識し、主イエスのこの時点の言葉、働きを通して次第に経験し、注意深く体験し、神に対する認識、神の本質、神の性質と神の所有しているもの、神であるものに対する認識を追い求めることです。最終的に、彼は主イエスが受肉した神だと分かりました。ペテロが主イエスを認識したということで、わたしは少しの啓発を得ました。神を信じる過程の中で神に対する本当の認識を得ることを望むなら、神の言葉を認識することを重んじなければなりません。なぜなら、神の所有しているもの、神であるもの、神の性質、神の意志、神の人に対する要求などは神の言葉によってこそ認識することができ、人は神の言葉を心にとめてこそ、少しずつ神を認識することができるからです。これからは、わたしもペテロのように、神の言葉の中で多く真理を求め、神の意志を探り、神の働きを経験し、神の性質を認識し、神に対して認識を持つ人になることを追い求めます。