賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

2020-10-20 23:33:26 | 聖書の学び

聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

 聖書の言葉
 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。

マタイによる福音書4:22

 この聖句に「おいて」に触れたが、私たちが知っている通り、当時ペテロが魚に行ったが、何の穫物もなく、主イエスが彼を再度魚に行かれて、穫物がいっぱいありました。同時に主イエスが彼に従うようにペテロたちに呼びかけて、つまり主の弟子となり、この時彼たちは舟をおいて、網を捨て、しかも父親から離れられて、主イエスに従いました。ここから私は聖書にある言葉を思い出しました。「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカによる福音書14:33)

 主イエスは私たちにこの世の追求よりも彼を愛するように求められています。それでは、私たちはどのようにして神様を愛する人になれるのでしょうか。神様の言葉はこう言われました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。『道はどこにあるのか』と。……神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の肉と血のように人類を愛する神に報いるために全力で努力したいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには『敬虔で神に仕える人』の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。」この中から、人類を救いたいという神様の強い願いを見ました。神様の働きには人間が協力することが求められ、私たちが呼びかけに直面し、選択に迫られた時、もし私たちは自分の利益を優先に考えたら、誰が神様の福音を広めるのでしょうか。これは私たちが深く考えるに値します。


神は愛である

2020-10-16 21:52:20 | 聖書の学び

神は愛である

    愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

    神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

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キリスト教讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」


聖書の言葉-愛する事、守る事・ヨハ14:23

2020-07-05 22:09:35 | 聖書の学び

   聖書の言葉

   イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

ヨハネによる福音書14:23

 

   主イエスは彼を愛する人はきっと彼の道を守り、神様の道を歩む人は神様の国に連れて行かれると言われました。いったい何か神様の道を歩むことなのか。多くの人はこう思われています、神様の道を歩むことは、毎日たゆまず祈り、或いは苦労して働き、主の福音を伝えることです。だが聖書にこう言われています:「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)なぜ主の御名によって預言し、多くの力あるわざを行った人は、主イエスに知らないと言われたのか。このことから、苦労して働き福音を伝えるだけで、苦労して働くことを天国への祝福と引き換えようとすることは、神様の道を歩むことではなく、それなら何か真の神様の道を歩むことなのでしょうか。

   ある日、一段落の言葉を読みました:「何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。」この言葉から神様の道を歩むのは最も重要なのは神様の現実の言葉と要求を実行するのが最も根本な原則だと認識できました。神様の道を歩む人は、神様がどのように語り働きか、彼は従順し従い、神様の現実の要求を実行し、神様の委託を受け、神様を証しし、再び神様を逆らい抵抗せず、このような人こそ神様に認められる人です。アブラハムのように、彼は神様の言葉を聞き従い、心を込めて自分のお気に入りの息子を神様に捧げ、彼が完全に従順したことで、神様がその子孫が大国になると祝福しました。

   またヨブのように、彼は常に神様を畏れ敬い悪から遠ざけ、財産と子ども達を失った試練の中で、むしろ自分を呪い、神様に対して不平を言わず、ヤーウェの名を讃え続けたから、神様の目の中には完全な人と見なします。またペテロのように、主イエスの言葉には権威と力があり、いのちの道だと分かったら、彼は全てを捨てて一生主イエスに従い、真理を渇仰し追い求め、主の委託を受け入れ、主の御心と要求に完全に従って教会を牧養し、最終的に死ぬまで従順し、神様へ至上の愛に達しました……彼たちはみな神様を畏れ敬い従順な人で、このような人こそ真の神様の道を歩む人です。

   もし苦労して働くことは神様の道に歩むことだとしたら、パリサイ人は海と陸とを巡り歩き福音を伝え、苦労して働き、結局主イエスに罪定め呪われたのはなぜでしょうか。彼らは神様を信じているが神様の道を歩まないため、主イエスが新しい働きをする時に、彼らは受け入れないのみならず、ユダヤの人々を連れて気が狂ったように主イエスを抵抗し罪定め、偽証して主イエスを陥れるさえしました、彼らの行ったすべては主の道に背き、主を敵となり、これら見た目でいくら多くの苦しみを受けて働いても、神様の現実の言葉と働きに従順しなければ、神様の道を歩むことだと言えません。なので、我々は神様の道に歩みたいなら、神様の現実の言葉と働きを追い求め、神様の委託を受け入れ、神様の言葉を実行しなければなりません。このように我々は神様の承認を得る機会があり、神様の国に連れて行ってもらうことができます。


人々のヨブに対する多くの誤解

2020-01-27 13:11:36 | 聖書の学び

  ヨブの試練は神の使いによってもたらされたものでもなければ、神自身の手によるものでもなかった。それは、神の敵であるサタンが直接もたらしたものである。その結果として、ヨブは大きな苦しみを経験したのである。それでもヨブは神に対する日々の認識、行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表した。これは事実である。ヨブが誘惑に遭わなかったならば、神がヨブに試練を与えなかったならば、あなた方は、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。」と言ったヨブを偽善者と呼ぶだろう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を讃えるのは当然だと。もしヨブが試みに遭う前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなた方は、「ヨブは誇張しているだけだ。神の名を見捨てるはずがない、神の手により何度も祝福されてきたのだから。もし神がヨブに試練をもたらしたのであれば、ヨブは神の名を捨てた筈だ」と言うだろう。だがヨブは、誰も望まないような、誰も見たくないような、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれ、それでも神に忠実であり続け、こう言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。仰々しい話や教義を好む人々も、そのようなヨブを見て言葉を失った。口先だけで神を称え、神からの試練を受け入れようとしない人々は、ヨブが決して手放すことのなかった神への誠実さ故に咎められ、神の道からそれることなく堅く立つことができると信じたことのない人々は、ヨブの証しにより裁かれる。試練の中にあるヨブの態度とヨブが発した言葉を聞いた人々の中には、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいる。中には無関心に鼻であしらう人もいるだろう。なぜなら、試練の中にあるヨブの苦しみとヨブの言葉だけでなく、試練の中でヨブが見せた「弱さ」もまた垣間見ることができるからである。この「弱さ」は全き人であるはずのヨブに見られる不完全性であり、神の目に完全であるヨブに見られる欠点であると、そのような人達は考えるからである。つまり、完全な者は欠点も染みもなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、外的ないかなるものにも憎しみなどの激しい感情や姿勢を持つことがないと彼らは信じているからである。それ故に、ほとんどの人々は、ヨブが真に完全な人とは信じないのである。ヨブが試練の中にあって取った態度を、人々はあまり認めない。例えば、財産と子ども達を失ったヨブは、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしなかった。ヨブの見せた「非礼」が、人々にヨブは冷たい人間だと思わせた。彼は涙を流すこともなく、家族への愛もなかったと考えるのである。ヨブはまずこのようなマイナスの印象を人々に与えてしまう。その後のヨブの態度は更に彼らを困惑させる。「衣を裂いた」のは、神に対する軽蔑と解釈され、「髪をそり」は神に対する冒瀆と反抗だと誤解された。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。」というヨブの言葉を除いては、神に称えられたヨブの義は人々に理解されず、理解不能、誤解、疑い、叱責、そして理論上だけの承認というのが大半の人々の評価である。ヨブは完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であるというヤーウェ神の言葉を真に理解し、認識できる人はひとりもいない。

  このようなヨブに対する印象は、人々をヨブに対して彼の義も疑わせる。聖書に書かれているヨブの行動は、人々が想像するような、感動を伴うようなものではないからだ。特別な技能を使ったりしなかっただけでなく、ヨブは焼き物の破片を取って灰の中で自らの皮膚をかきむしったのである。ヨブのこの行動に人々は驚くだけでなく、懐疑的になり、ヨブの義を疑いさえした。自らの皮膚をかきむしりながら、ヨブは神に祈ることも誓うこともせず、痛みから涙を流すこともなかった。この時に人々が見たものは、ヨブの弱さでしかなく、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いても、まったく感動することはなく、ヨブへの考えは揺れ動いており、ヨブの言葉から彼の義を見抜くことはできなかった。試練の中にあるヨブが与える印象は、彼が卑屈にもならず、傲慢にもならなかったということである。ヨブが見せた態度の背景にある彼の心の奥深くにある姿勢を人々は見ることがなく、神に対する畏れや悪を避けるという原則に堅く立っているヨブの心の中を見ることもない。ヨブが冷静なのをみて、彼の完全さと義は口先だけで、神への畏れも単なるうわさだと考える。つまり、外見上のヨブの「弱さ」が人々に強い印象をあたえる一方で、神が完全で義であるとしたこのヨブという人間に対して「新しい見識」や、更には「新しい理解」すら持つのである。そのような「新しい見識」や「新しい理解」は、ヨブが口を開いて自らの生まれた日を呪うことで証明されることになる。

  ヨブの受けた苦しみは想像を絶する、人間の理解を超えるものであったが、それでもヨブは信仰から外れるような発言をせず、自分のできる手段でその痛みを和らげようとした。ヨブの言った言葉が次のように聖書に書かれている。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。」(ヨブ記3:3)。誰もこの言葉を重視しなかったかもしれないし、この言葉に注意を払ったものがいるかもしれない。あなた方の考えでは、ヨブは神に背いているだろうか。ヨブの言葉は神にたいする不平だろうか。あなた方の中で、ヨブの言葉に対して特定の考えを持っている者は多いと思う。その者達は、ヨブが完全で義なる人であれば、弱さや嘆き悲しみを表現するのではなく、サタンのどのような攻撃に対しても立ち向かい、サタンの誘惑に対して笑みすら浮かべるべきだと、恐らく思っているだろう。サタンによって肉体にもたらされた苦しみに何の反応も示すべきではなく、感情も表すべきではなかったと。それどころが、更に厳しい試練を神に求めることすらできた筈だと。揺るぎない信仰に立って神を畏れ悪を避ける人はそのようでなければならないと考える。この極度の苦しみの中、ヨブはただ自分が生まれたことを呪った。神に不平を言うようなことはせず、神に背こうなどとは尚更考えていない。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではない。遙か昔から今日に至るまで、ヨブほどの誘惑と苦しみを経験した者はいない。ヨブほどの誘惑を経験した者がいないのは何故か。それは、神の目には、ヨブほど自分に託されたことを忠実にこなし、尽くし、さらには自らの誕生を呪っただけでなく、神の名に背くのではなく、ヤーウェ神の名を讃えつづけられる人間は、ヨブの他にはいないからである。そのような事ができる者がいるだろうか。わたしたちは今の話の中でヨブを称賛しているのだろうか。ヨブは正しい人であり、神への証しとなり、サタンにしっぽを巻いて退散させ、二度とヨブを責めようと神の前に現れることはなかった。それならヨブを称賛しても良いのではないか。あなた方の基準は神の基準より高いとでも言うのか。同じ試練があなた方に臨んだならば、ヨブ以上に立派に対処できるとでも言うのか。ヨブは神に称賛された。それに対して何か異議を唱えることができるか。

 


神のアブラハムへの約束

2020-01-25 12:46:33 | 聖書の学び

神のアブラハムへの約束

  (創世記:22:16-18)ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

  これはアブラハムに対する神の祝福の全記録である。短い箇所だが、内容は濃い。神がアブラハムに、なぜ、そしてどのような背景で賜物を与えたか、そして何を与えたかが書かれている。神が発した言葉に込められた喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けることのできる者を一刻も早く自分のものとしたいという思いがそこには込められている。神の言葉に従い、命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを読み取ることができる。そして、神が人々を自身のものとするために払う代価と、注ぐ慈しみと思いを見ることもできる。さらには、この「わたしは自分をさして誓う」という言葉を含むこの箇所は、自身の経営(救いの)計画の働きの背後にある、唯一神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚をわたしたちに与える。この箇所を通して考えることは多く、後に続く者達に特別な意味を持ち、非常に大きな影響を与えるものだ。

人間はその誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る

  ここから読み取れるアブラハムに対する神の祝福は非常に大きなものではないだろうか。どれほど大きいだろうか。その答えの鍵となるのが次の言葉だ。「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。この言葉が示すものは、アブラハムは後にも先にも見たことのないような大きな祝福を受けたということである。神が命じたとおり、アブラハムは自分の愛するひとり息子を神に帰した。(注:この場合、「捧げた」と言わずに、神に「帰した」と言うべきである。)神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福した。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのだろうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもってである。どれ位の数になると言っているだろうか。聖書に次のように書かれている。「天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。神のこの言葉にはどのような背景があったのだろうか。つまり、アブラハムは神の祝福をどのように受け取ったのだろうか。それは聖書に書かれている通りだ。「あなたがわたしの言葉に従ったからである」。つまりアブラハムは神の命令に聞き従い、神の言ったこと、要求したことを一切不平を言わず全て行ったゆえに、神はそのような約束をした。この約束には当時の神の考えを示す重要な文章が含まれている。それに気づいただろうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなた方はそれほど注意を払っていなかったかもしれない。だが、神はこの言葉を通して、自身を指して誓ったのだ。人が誓いを立てるときには、何を指して誓うだろうか。天を指して誓う、つまり、神に対して宣誓し、神に対して誓う。神が自身を指して誓うという状況を人々はあまり理解しないかもしれないが、わたしの正しい説明を聞けば理解できるようになる。神の声は聞けるがその心を理解することはできない人間と向き合う神の心はまたしても寂しく、神は戸惑った。切羽詰まって、そして無意識にと言ってもよいだろう、神は極めて自然なことをした。自身の胸に手を置き、アブラハムへの賜物を自身を通して約束した。そして人は、「わたしは自分をさして誓う」という言葉を聞いたのである。この神の行動にあなた自身を照らしあわせてみるだろうか。あなたが自分の胸に手を当てて自身に語るとき、その言葉をはっきり理解できるだろうか。誠実な態度でそうできるだろうか。心から、率直に語るだろうか。そう考えると、神はここでアブラハムに対し、真心から、誠実に語ったことが分かる。アブラハムに語りかけ祝福したと同時に、神は自身にも語っていた。神は自身にこう語っていた。「わたしはアブラハムを祝福する。彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増し加える。彼はわたしの言葉に従った者であり、わたしが選んだ者だからだ。」神が「わたしは自分をさして誓う」と言った時、神はアブラハムを通して選ばれしイスラエルの民を生み出すことを決意し、その後自身の業により速やかに導いたのである。つまり、神はアブラハムの子孫が神の経営(救いの)担い手となり、神の働きと神により現わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人の救いを実現するようにしたのである。これが祝福とは言わないだろうか。人間にとって、これ以上の祝福はありえない。これが最大の祝福と言える。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営(救い)、神の任務、そして神の働きである。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営(救いの)計画と同時進行で継続されるものなのだ。神が語り、自身を指して誓った時、神はもう心を決めていた。この決断の過程は真実だろうか。本当にそのような決断があっただろうか。神はこの時、アブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身と自身が持っているもの、自身全てを、生命までも差し出すと決めた。そしてまずこの人々に自身の業を現わし始め、人間が自身の知恵と権威、そして力を見るようにすると決めた。

神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが神の変わることのない願いである

  神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムにも語ったが、果たしてアブラハムは、神の語った祝福以外に神の真の願いをその言葉から理解することができただろうか。できなかった。それゆえに、神が自身を通して誓ったその時、神の心は未だに孤独で、悲しんでいた。この時、神の意図や計画を知る人や理解できる人はひとりもいなかった。この時点では、アブラハムを含め、神と親密に話すことのできる者はおらず、まして神がしなくてはならない働きに協力できる者などいなかった。表面上は、神は自分の言葉に従うアブラハムを得たかのように見えるが、実際は、アブラハムの神への認識は無に等しいものだった。神はアブラハムを祝福したが、神はまだ満足してはいなかった。神はまだ満足してはいなかったとはどういうことだろうか。それは神の経営(救い)はまだ始まったばかりであり、神が自分のものとしたいと望んでいる人々、会いたいと思っている人々、愛した人々はまだ神から離れていたということである。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要があった。と言うのは、神自身以外に神が必要としているものを知るものはおらず、神がなにを得たいか、何を望んでいるかを知るものもいなかったからである。それゆえ、神は非常に感激したのと同時に、心は重かったのである。それでも神はその働きをやめることはなく、やらなければならない働きの次の段階を計画した。

  あなた方は神のアブラハムに対する約束に何を見るだろうか。神は、アブラハムが神の言葉に従った、ただそれゆえにアブラハムに大いなる祝福を授けた。表面的にはこれはごく普通のこと、また当然のことに思えるが、そこには神の心を見ることができる。神は人の従順さを特に大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊ぶ。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのだろうか。どれほど尊ぶか、あなた方には理解できないかもしれないし、理解できる人はひとりもいない可能性も十分ある。神はアブラハムに息子を与えた。そしてその息子が成長した時、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるように命じた。アブラハムは文字通り神の命令に従い、神の言葉に従った。その誠実さを神は非常に尊いものとした。どれくらい神はそれを尊んだだろうか。なぜ尊んだのだろうか。神の言葉や心を理解できるものが誰もいなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせた。それは神に、それまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従うことのできる人間を得たことの喜びをもたらした。この満足感と喜びは、自身が手で創った被造物から生まれた。これが、人間が神に捧げた最初の「捧げもの」となり、人間が創造されて以来最も神に尊ばれた。神はこの捧げ物を待ち焦がれており、この捧げ物を、自分が創造した人からの最も価値ある贈り物として大切に思った。それは神の努力と払った犠牲に対して初めて実りを示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出した。その後神は、アブラハムのような人間の群れが自身に伴い、誠実に自身と向き合い、誠実に自身を慈しむことを更に強く望んだ。神はアブラハムが生き続けることすら望んだ。自身の経営(救い)を継続するのに、アブラハムのような心を持った人間を伴いたかったからである。だが神が何を望もうと、それは望みでしかなく、思いだけでしかなかった。アブラハムは神に従うことのできる人間であっただけで、神に対する理解や認識を全く持ち合わせていなかったからである。神を知り、神の証しとなり、神と同じ思いになるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間であった。それゆえに、彼は神と共に歩むことができなかった。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、神からの試練に耐えたことを知った。神はアブラハムの誠実さと従順さを受け入れたが、それでも神の親友となり、神を知り、理解し、神の性質を知らされるに相応しくはなかった。神と思いを同じくし、神の心をなす者にはほど遠かった。ゆえに、神はまだ寂しく不安であった。その寂しさと不安が増せば増すほど、極力自身の計画を迅速に進める必要があり、経営(救いの)計画を全うしてその心を一刻も早く全うするために人々を選び、自身のものとする必要があった。それは神の切実な願いであり、初めの時から今日まで変わらない。神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。ここまでの話を聞いて、神が望むことを何か理解できただろうか。おそらくまだそれほど深くは理解できていないだろうが、徐々に理解できるようになる。